高部恭平(たかべきょうへい)が、とある地方都市から東京の高校へと転校してきたのは、2年生の春のことだった。

 親代わりに育ててくれていた祖父母が高齢になったため、たらい回しのようにされた挙げ句、東京の親戚の家に世話になることに落ち着いたのだ。

 自分の置かれていた環境をあまり不幸だと思っていなかった節のある恭平だが、さすがに自分の養育を放棄した両親の無責任さに恨みという感情を抱きはじめていた。

 自分の境遇を嘆きつつも、一方では東京への憧れを抱いていた恭平は、新しい生活にかすかな希望を見出してもいた。

 あか抜けていないと馬鹿にされたくなくて、東京行きが決まってから、見た目に気を遣うようになった。

 今通っている高校は、人数も少なく、クラスメイトは子どものころからの顔見知りで、幼馴染みばかりだ。

 田舎特有の距離の近さで、保護者同士も仲が良く、地域ぐるみで子どもたちを育てている風土があった。

 家に鍵をかける習慣もなく、用があれば呼び鈴すら鳴らさずにがらりと玄関の引き戸を開けて家主に呼びかける、昔ながらの無遠慮さと治安のよさが残る村で恭平は育った。

 それなりに整ったビジュアルをしていて、人懐こい性格をしている恭平は年上年下、男女問わず友達との関係も良好で、この環境を捨てることは非常にもったいないと思うこともある。

 しかし、地方では洗練していると言われても、それが東京で通用するかはわからない。

 恭平は、周りの人間に受け入れられないことに過剰ともいえる恐怖心を抱いていた。

 他人の懐に飛び込むのが得意になったのも、この恐怖心が原動力になっているともいえる。

 誰にも拒否されたくない、みんなに認められたい、恭平を恭平たらしめているのはそんな思いだった。

 誰かに愛されたいと願うのは、恭平が置かれた環境のせいでもあるのだろう。

 友達は、恭平との別れを惜しんでくれた。

 狭い世界だ。

 子ども同士の団結力は強く、家族のように育ってきただけにたったひとりいなくなっただけで喪失感は相当なものだった。

 また、友達は未知の世界、東京へひとり乗り込む恭平を心から心配してくれた。

 辛くなったらいつでも帰ってこいと幼馴染みは、上京する恭平を送り出すときに口々に言った。

 感極まって泣き出す友達につられて恭平まで泣きそうになってしまった。

 春の麗らかな日差しが降り注ぐなか、祖父が運転する車が走り出す。

 大きく手を振る友達の姿がどんどん遠ざかり小さくなっていく。

 恭平は涙を堪え、唇をきつく噛んだ。

 運転席の祖父が、「ごめんなあ、恭平」と真っ直ぐ前を見据えながら申し訳なさそうに言った。

「我が息子ながら呆れるよ。
 子どもの育児を親に押しつけて、自分は海外で仕事して、全く帰ってきやしない。
 お前にこんなこと言いたくはないけど、歩美(あゆみ)さんも無責任だ。
 犠牲になれとは言わないが、せめて母親は子どものために責任を負うべきだ。
 息子や嫁を甘やかしたわしやばあさんの責任もあるな。
 しわ寄せは全て恭平に行くんだから、1番の被害者は恭平だ。
 本当に、すまないねえ」

 父親の(あきら)と母親の歩美は、離婚したのちにひとり息子の恭平をどちらも引き取らず、仕方なく父方の祖父母が世話をしてくれた。

 この歳まで育ててくれた祖父母には、感謝しかない。

 車は、田園風景を走り抜け、しばらくは対向車もない狭い道を走っていたが、次第に道幅が広がり、田んぼより建物が増えはじめたと思うと、行き交う人の姿が見られるようになり、看板や標識がごみごみと入り交じる街の景色に入り込んでいった。

 チェーンの飲食店や大型スーパー、パーキングに高層マンション、隣との隙間すらない一軒家が複雑に建ち並んでいる。

 かと思えば、ため息が出るほど美しい桜並木のある公園も存在し、流れていく車窓の風景は目まぐるしく変わり、東京という街のさまざまな顔を見せつける。

 恭平が東京にくるのは初めてだ。

 テレビの中でしか見たことのない街並みに、振りほどけなかった寂しさが好奇心に変わる。

──ここが、新しい住処。

 窓から顔を出すと、淀んだ空気に鼻腔が刺激され、慣れない匂いに慌てて窓を閉めた。

 朝早くに出発し、都内の一軒家に住む親戚の家へと辿り着いたのは夕方近くになってからだった。

「いらっしゃい、恭平くん。
 恭平くんがまだ小さいころ、一度だけ会ったことがあるのよ。
 誰のお葬式だったかしらね……」

 そう明るく言いながら出迎えてくれたのは、今日から恭平を居候させてくれる高部貴志(たかべたかし)静子(しずこ)夫妻だった。

 ともに50代で、ひとり息子の友毅(ともき)は大学進学を機に家を出ているらしい。

 友毅の部屋を居候先として提供してくれると、ありがたい申し出をしてくれた夫妻に、恭平は緊張しつつも「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「あら、いいのよ、そんなかしこまらなくて。
 うるさい息子がいなくなって、寂しいところだったのよ。
 どうか、遠慮しないでなんでも言ってちょうだいね」

 静子がふくよかな丸顔に柔らかい笑みを浮かべながらそう言うと、隣に立っていた貴志が苦笑いしながら言った。

「母さん、挨拶が長いよ。
 恭平くん荷物重いだろうから、早く家に入れてあげたらどうだ?」

 セーターにデニムというラフな格好の貴志が恭平の背中のリュックを示しながらやんわりと忠告する。

「あ、そうね、つい喋り過ぎてしまったわ。
 わたしの悪い癖だから、気にしないでね。
 どうぞ、入って入って」

 玄関先に車を停めたまま立ち話をしようとする静子は貴志の言葉に慌てて玄関を開けて恭平を中へと促す。

昭三(しょうぞう)おじさんもどうぞ」

 貴志が恭平の祖父を手招きする。

 祖父がトランクからキャリーケースを取り出そうとしていると貴志が「手伝います」と車に駆け寄り代わりに恭平の荷物を車から引っ張り出す。

 それを見てさらに恭平が「すいません」と貴志からキャリーケースを受け取る。

 この遣り取りだけで貴志と静子の人の善さがわかった気がして、恭平は不安の壁の最初の関門を突破できたことに少し緊張を解いた。

 だだっ広い畳の部屋がいくつもある田舎の祖父母の家に比べると、貴志夫妻の一軒家はこぢんまりとしてひとつひとつの部屋も小さく、障子を開け放っていた田舎の家より遥かに解放感がない。

 窓から見える空も狭くて息が詰まるような気がした。

 2階にある6畳のフローリングの友毅の部屋には学習机とパイプベッドとクローゼットがあるだけだった。

 友毅の荷物はなく、がらんとしている。

 自分の少ない荷物を置き、1階のダイニングに行くと、貴志と祖父が缶ビールで乾杯をしていた。

 いくら休日とはいえ、早すぎるのではないかと恭平が呆れていると、静子がエプロンを着けながら笑いかけてきた。

「夕飯の支度をするわね。
 家の中は適当に見ていいから」

 静子に言われた通り、恭平はぶらぶらと家の中を見て回った。

 1階にはトイレ、洗面所、風呂がコンパクトに収められており、掃除の手も行き届いていた。

 この家にある唯一の畳敷きの和室には、一泊していく祖父のために布団が折り畳まれていた。

 2階には恭平の部屋と夫妻の寝室、貴志の書斎とベランダがあった。

 あまりじろじろ他人の家を眺めて回るのもどうかと思い、早々に部屋に引き揚げると、荷解きをはじめた。

 春休みは短い。

 学校がはじまるまでに、荷物をあるべきところに片付け、周辺の地図を頭に叩き込み、新たなる学び舎へ通うための準備も抜かりなくしなければならない。

 リュックには、持てる限りの『宝物』を詰めてきた。

 少ないお小遣いを貯めて買った、大事な大事な宝物だ。

 恭平が憧れて止まない人を綴じ込めた雑誌を取り出す。

 何冊もリュックに入れたせいで、かなりの重さになってしまった。

 けれど、祖父母宅に置いてくることはできなかった。

 『Reon(レオン)』。

 それが恭平が憧れて止まない存在だ。

 メンズ誌の専属モデルで、プロフィールは神秘のヴェールで隠されており、恭平と同い年であるということ以外、Reonについての情報は明かされていない。

 奇跡的な比率で整った美貌。

 周りを射殺さんばかりの冷たい表情でレンズ越しにこちらを睨むReonに孤高のカリスマ性を感じ、自己を確立したReonの切れ長の眼力にぞくぞくする。

 世間に一切媚びない、馴れ合いをしないReonに、同じ男として恭平は尊敬の念を抱いていた。

 他人の顔色を伺う自分にはできない生き方を体現するReonは本当に格好良い。

 自分もこんな生き方ができたら、とも思うが、恭平の置かれた環境がそれを許さない。

 自分はまだ子どもで、大人の庇護がなければひとりで生きていくことができない。

 それが歯がゆくもあり、もどかしくもあった。

 早くひとり立ちしたい。

 しかし、今はひとまず眼の前の懸案をどうするかを考えるべきだ。

 新しい学校での立ち位置。

 最初が肝心、絶対失敗したくない。

 田舎からきたからといって、舐められたくない。

 誰だって、嫌われたくないし、好かれたいだろう。

 友人に囲まれて、楽しい高校生活を送りたいと思うのは、至極普通のことだと思う。

 Reonのように生きたいけれど、自分には真似できない。

 恭平は雑誌をしわにしないよう丁寧な手つきで、しばらく捲っていたが、意を決して立ち上がり、まとめて学習机の抽斗に入れた。

 今、Reonがいるであろう東京に自分もいる。

 地方にいてはその姿を拝むのは難しいだろうが、東京にいれば会える可能性もぐんと上がる。

 恭平が東京行きを決意した背景には、そんなかすかな期待があった。

 東京にはそこら中に芸能人や有名人がいるに違いない──というのは世間知らずの考えだろうか。

 これからはじまるのは、きらきらした青春か、鬱々とした負け組の生活か。

 期待半分、不安半分なんて月並みな言葉が胸にわだかまる。

 部屋を出てダイニングに行くと、赤ら顔の祖父が貴志と談笑していた。

 脇では静子が忙しなく料理をテーブルに並べている。

「ちょうどよかったわ、恭平くん。
 ご飯の用意ができたから、呼びに行こうと思ってたのよ」

 すみません、と小声で謝って、おずおずとテーブルにつく。

 明日から祖父には会えない。

 取り残されたような一抹の寂しさを無理やりグラスに注がれたジュースで飲み下しながら、恭平は物分りの良い『恭平くん』の顔になった。



 真新しいブレザーに身を包み、全盛期を終えた桜並木の間を縫って『都立美波高校(とりつみなみこうこう)』へ足を踏み入れた。

 担任教師の松阪(まつざか)に伴われ『2年C組』の教室へと向かう。

 髪型を念入りに整え見た目にも気を遣ってきた。

 それでも緊張は隠せない。

 新学年になり、ざわつく教室に、清水の舞台から飛び降りるような心地で第一歩を刻んだ。

 値踏みするような視線に耐え、恭平はできるだけ堂々と涼しげな目線で教室を見回した。

「高部恭平です。
 よろしくお願いします」

 没個性な挨拶をすると、ぱらぱらと拍手が出迎えた。

 指定された席につくまで気を緩めず緊張を悟られまいと表情を取り繕った。

 こうして恭平の新たなる高校生活が幕を開けた。



 結論から言えば、不安や心配は杞憂に終わった。

 女子生徒からは早々に『イケメン』認定され、熱のこもった視線を向けられるようになった。

 なにより大きかったのは、クラスのムードメーカーでありリーダー格の皆本彩人(みなもとあやと)という男子生徒に気に入られたことだった。

 バスケ部のエースで、大柄な皆本は荒っぽい性格ながらもクラスの王様に君臨し、恭平は彼の『仲間に相応しい』と認められたのだった。

 皆本率いるクラスでも目立つグループの中心に引き入れられた恭平は、季節の移ろいとともに、制服を着崩し、ピアスを空け、見た目はどんどん派手になっていった。

 内心では、こんな目立ち方をする予定ではなかったのだが、と思いながらも周りの目に流され恭平は髪を明るい茶色に変えた。

 自分がこんなに長いものに巻かれる性格だとは知らなかったと、自分の変化に自分で驚くばかりだ。

 貴志と静子は、恭平の変わりように戸惑っているようだった。

 ただ、恭平たちはいわゆる不良というやつではない。

 学校には真面目に通い、勉強も疎かにはしない。

 派手なのは見た目だけで学生の本分を忘れたわけではないのだ。

 順調な高校生活をスタートさせた恭平の胸に、引っ掛かりがあるとすれば、葵玲音(あおいれね)という男子生徒の存在だった。

 名前だけ見れば女子生徒のようだが、実情はクラスの底辺にいる友達のひとりもいない陰気な生徒だった。

 葵は、長い黒髪で顔を隠し、誰とも1言も話さずに1番後ろの席に座ってひたすらうつむきながら過ごしている。

 皆本は1年のときから葵と同じクラスだったらしく、葵のことが気に入らずそのときからずっと彼をいじめているのだという。

 物理的に攻撃しても、言葉で揶揄しても、一向に反応を示さない葵を、半ばむきになっていじめ続けている、そんな様子だった。

 恭平も葵のことが苦手だった。

 他人に受け入れてもらうため、必死にあれこれと手を尽くしている恭平の努力を、他者との関わりを自ら断ち切って平気で過ごす葵に、嘲笑われているような感覚に陥るからだ。

 他者との関わりを放棄しひとりきりで過ごす葵を見ていると、自分の必死さが惨めに思えて仕様がない。

 恭平が血まなこで築いたものを、葵に人差し指で突かれて簡単に崩されてしまいそうな、どこか強迫観念にも似た恐怖心が内面にこびりついて離れないのだ。

 なにもかもを諦め、受け入れている。

 それが、孤高の存在を思わせて、恭平の心を波立たせる。

 みんなで仲良くすることに固執するのは弱い者のすること。

 誰かと戯れていないと不安になるやつなんて、ただの弱者だと、言外に言われているような気がして、どうにも落ち着かない。

 皆本に誘われ、気が進まないながらも、仕方なく友人たちとともに葵をつけて家を特定し、周りを取り囲んで大声で葵の名前を叫んだり、チャイムをめちゃくちゃに鳴らすという嫌がらせにまで加担してしまった。

 それでも、一度家に引っ込んだ葵が出てくることはなかった。

 田舎にいたころには存在すらしなかった『いじめ』の加害者に、いつの間にか自分がなってしまっていることに恭平は少なからず衝撃を受けた。

 こんな姿を幼馴染みたちに見られたら軽蔑されるだろう。

 これが都会に染まるというやつなのだろうか。

 葵の家の塀にスプレーで落書きをしようか、中傷のビラをまいてやろうか、と恭平を置き去りにして仲間内で盛り上がりはしたが、実現することはなかった。

 自分が損する可能性のあるリスクを負ってまでする嫌がらせとは思えなかったからだ。

 葵がいくら鬱陶しくて気に障るやつでも、自分の人生に傷をつけるような一線を超えてまで彼をいじめる気にはなれない。

 誰も、日常のちょっとした鬱憤晴らし以上のことは望んでいなかった。

 だから、葵は変わりない顔で登校するし、皆本たちは分をわきまえたいじめに終始した。

 クラス中から忌避の目を向けられる、王様たる皆本の敵。

 葵をかばう人間などいないし、いじめなんてよくないよ、と正義感を振り回すやつもいない。

 だから、葵は孤立したままだし皆本をたしなめる者もまた存在しなかった。

 恭平は、なるべくなら葵と関わりたくない、そう思いながらも、なぜか葵から目を離すことができない悶々とした日々を送ることになった。

 別に、葵に憧れを抱いているというわけではあるまい。

 そう否定してみるが、どこかそれは強がりにも似ていて心許ない。

 皆本たちが葵の持ち物を破壊したりからかって遊んでいるところを複雑な思いで眺めながら、恭平はなるべく葵という存在を視界に入れないように生活しようと密かに決意した。



 連休最終日、自室のベッドで寝転がりながらスマホをいじっていた恭平は、SNSの投稿に目を留めると、勢いよく起き上がった。

 夏を先取りした太陽がぎらぎらと照らす中、最低限身なりを整えると、貴志たちに行き先も告げず恭平は家を飛び出した。

『Reonが撮影している現場に遭遇!』

『Reonが原宿で撮影してる!
 尊い!』

 複雑な東京の電車を乗り継ぎながら、刻々と情報を伝えるSNSの投稿を随時チェックして、はやる気持ちを抑えつつ、祈るようにスマホを額に当てた。

──どうか、Reonに会えますように。

 原宿に到着し、Reonが目撃されたカフェへと向かう。

 休日ということもあり、辺りは人でごった返していた。

 人波をかき分けて進んでいると、甲高い女性の歓声が聴こえてきた。

 Reonがすぐそばにいる!

 恭平の胸は高鳴った。

 どれだけ会いたいと願っただろう。

 憧れてやまなかった神のような存在が、今、手の届く場所にいる。

 もし、本人をこの瞳に映すことができたら、今まで味わった苦い思いも恵まれなかった境遇も、報われるに違いない。

 絶対誰にも言えないことだが、恭平はReonにファンレターを送ったことがある。

 ReonはSNSで自ら発信をしないので、自分の有り余る想いを伝えるには、古風な手段に頼るしかなかったのだ。

 もし、自分が綴ったこの文章が、自分が書いた文字が、Reonの瞳に映ったなら……、そう考えると、想像しただけで悶えてしまいそうになる。

 気持ち悪いファンでいいから、思いの丈を綴って、少しでも興味を引きたい、心の片隅にでも留まることができたら、これ以上の幸せはないとすら思っていた。

 こんな話、学校でしたら、即オタク認定されて、手に入れた地位を失うだろう。

 だから、Reonにまつわるあれこれは、心の中だけに留めておくと決めている。


 

 歓声が上がり、中学生くらいの女の子たちが、興奮してぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 恭平は、彼女たちを強引にかき分けて声の中心へと迫っていく。

 周囲の人が不愉快そうに自分を見ているが、もうそんなことどうでもいい。

 人波が途切れ、視界が開けた。

 クラシックなカフェから、ひとりの青年が出てくる。

 周りを関係者に囲まれ、すらりと伸びた脚でゆっくりと歩き出す。

「Reon!
 かっこいい!」

「Reon、こっち見て!」

 一斉にスマホが掲げられ、撮影会が始まった。

 恭平は、Reonから目を離すことができず、スマホで撮影することもできず、ただただ歩いていく彼を目で追った。

 やっと会えた……。

 眼の前に現れたReonを、棒立ちになりながら、忘れまいと目に焼き付ける。

 まるでスローモーションのように目と鼻の距離を、Reonが歩いていく。

 非日常の経験。

 夢にまで見た光景。

──美しい。

 ライトも当たっていないのに、まるでReonの内側から発光しているようだ。

 眩しい。

「Reon、Reon!」

 気づくと恭平は、人目もはばからずに叫んでいた。

 手を伸ばす。

 握手を求めたつもりだったが、Reonは恭平を一瞥すると、冷たい視線を送ったあと立ち止まりもせずに去っていった。

──ぞくぞくする。

 あれが、Reon。

 恭平がイメージしていたReonそのもの。

 間近で見ると、スタイル抜群で顔がマッチ棒の先端のように小さい。

 くっきりとした眉と、切れ長の澄んだ瞳。

 まつ毛が長く、高い鼻梁と整った唇が小さな顔にこれ以上ないほど完璧におさまっている。

──奇跡だ。

 眼力に圧倒され、恭平は息をすることも忘れていた。

 さらりと流れる黒髪のReonを、ふらふらと恭平は追いかける。

 甲高い歓声は意識の外となり、人混みから一歩抜け出した恭平は、カフェをあとにして道端に停車していたワンボックスカーに乗り込んでいくReonの姿を見届け、気がつけば車を追って走り出していた。

 こんな滑稽で愚かな行動をとらせるほど、恭平はReonを欲していた。

 間もなく息が切れて、走り去る車を見送ることになるだろう、と沸騰した頭の一部が冷静に考えを弾き出すが、脚は一向に止まらない。

 限界がくるまで追いかけよう。

 気が済むまで。

 引き離されて車が遠くに去っていく──そう思っていたのだが。

 恭平の体力が限界を迎える前、2、3分しか走行していない位置でワンボックスカーが停車する。

 人混みから距離を取った、それだけのように見えた。

 恭平のようにストーカーじみた行動を取るファンはひとりもいない。

 恭平が走って追ってきていることなどReon側は気づいていないのかもしれない。

 軽く弾んだ呼吸を整えていると、ワンボックスカーのドアがすうっと開き、ひとりの男性が降りてきた。

「!」

 整えたはずの呼吸がまた止まる。

 サングラスをかけ、黒のリュックを片手に持ったReonだった。

 車内になにごとか声をかけると、Reonが歩き出す。

 付き従うスタッフはいない。

──嘘だろ、変装もせず、警備もつかずに、たったひとりで歩いて移動するのかよ。

 Reonが?あのReonが?

 颯爽と歩くとReonは、公園の公衆トイレに吸い込まれていった。

 不審がられないように、間をおいて恭平もトイレに入る。

 3つある個室のうち、1ヶ所だけ使用中になっていた。

 他に人影はない。

 一旦トイレを出て、Reonが出てくるまでトイレの入り口が見える位置で待機した。

 本当に自分はストーカーだなあと苦笑いが零れる。

 待つこと数十分。

 ずいぶん長いな、と覗いて様子を伺おうと首を伸ばしかけた瞬間、ドアを開閉する音が聞こえて、さっと恭平は身を隠す。

 黒いリュックをぱんぱんにして出てきた人物を見て、恭平はぽかんと口を開けた。

「あ……おい……?」

 重い前髪で顔を覆い、うつむいて歩きながらトイレから出てきたのは、葵玲音だった。

 服はすっかり着替えられていることから、リュックの中身は先ほどまで着ていた衣装なのだろう。

 葵が周りも気にせずに歩き去っていくのを確認し、恭平はトイレへ飛び込んだ。

 ばたんばたんとドアを開閉して、Reonがどこにもいないのを確かめて、とぼとぼと歩く葵を追う。

 葵は真っ直ぐ駅を目指すと電車に乗り、恭平にも馴染みがある最寄り駅に着くと、歩いて移動を始めた。

 だんだん見慣れた景色が近づいてくる。

 高校の通学路だ。

 そして、葵が真っ直ぐ自宅に入っていく。

 恭平が仲間と悪ノリをして取り囲んだあの家に。

 ぱたん、と音をさせてドアが閉まり葵が消えてからも、しばらく恭平は動けなかった。

 Reonが、葵玲音?

──まさか、有り得ない。

 きっとなにかの見間違いだ。
 
 そうに違いない。

 だって、葵玲音だぜ?

 皆本がいじめていた、根暗で陰気な、あの。

 恭平の口から乾いた笑いが漏れる。

 今見たものは、幻覚だ。

 恭平は狐につままれた心地でしきりに首を傾げながらも家路についた。

 


 恭平がReonという存在を知ったのは祖父母の家に世話になっていたころに、田舎の書店で彼が表紙を飾る雑誌を目にしたのがきっかけだった。

 一目見て、恭平はReonに憧れを抱いた。

 同性である自分がReonに好意を抱いたことは誰にも言えない秘密となった。

 誰だって、いびつなものより整ったものを美しいと思うだろう。

 だから、恭平は自分の外見を磨くことに余念がない。

 全ては自分の未来への投資でもあった。

 Reonのようになりたくて、でもなれないけれど、Reonに近づけるような人生を送ることを目標に生きてきた。

──それが、今、轟音を立てて崩れようとしている。

 Reonの正体が葵玲音だなどと、たちの悪い冗談みたいな真実が恭平に突き付けられている。



 登校した高校には、当たり前のように机に額が触れるぎりぎりまでうつむいた葵の姿があった。

 皆本の友人が面白くなさそうに彼を小突いている。

 長い黒髪でその表情は見えない。

 あまつさえ、葵玲音にReonの面影を見出すなど、広大な砂場から砂金を見つけるより困難といえた。

 ちらちらと葵の様子をうかがいながらも、決して声はかけない。

 1日を上の空で過ごすと、友人からのカラオケの誘いをやんわりと断って、恭平は校舎を飛び出した。

 すぐに徒歩で通学する葵に追いつくことができた。

「葵!」

 初めて葵の名前を叫ぶと、コンクリートの歩道で、葵がびくんと肩を震わせた。

 ゆっくりと彼が振り向くが、言葉は1言も発しない。

 前髪の向こうの表情は一切うかがえないが、鋭い視線で警戒しながら恭平を見ていることが伝わって、恭平は緊張に喉を鳴らした。

 葵にしてみれば、恭平は自分をいじめる憎き相手のはずだ。

 今まで酷い扱いをしてきたのに、葵は恭平が話し出すのを待っているようだ。

「あの、さ……。
 変なこと訊くけど、お前、Reonじゃないよな?」

 葵は答えない。

 そういえば、葵の声を聞いたことは一度もない。

 学校でも、口を開いたことはただの一度もないはずだ。

 普通の神経のやつが、そんなことできるだろうか。

 もし葵がReonであることを認めたら、恭平はショックで立ち直れない気がする。

 ふ、と葵がなにも言うことなく踵を返すと歩きだしてしまった。

「待てよ、葵!
 なあ、どうなんだ?
 お前、Reonなのか?
 違うよな?」

 知りたくない事実のはずなのに、知りたくてたまらない。

 恭平は追いすがったが、早足で歩く葵は1言も喋らないまま、とうとう自宅に着いてしまい恭平に一度も目を合わせることなく自宅へと引っ込んだ。

 がちゃりと、鍵が閉められる音が夕方の住宅街に虚しく響いた。



 それでも、恭平は諦めなかった。

 翌日から毎日、学校から帰宅するまでの距離を葵につきまとい、ひたすらコミュニケーションを取ろうとつとめた。

 葵は徹底的に恭平を無視し、猫背気味にうつむいて歩き続けるのみで、なんの反応もみせない。

 いつしか、恭平の頭の中は葵のことでいっぱいになった。

 葵玲音がReonなのか、まだわからないが、考え方が、葵を振り向かせたいということに変化してきていた。

 夏休みが近づいてきたある日、いつものように葵の一歩後ろを歩き、話しかけていた恭平を、葵が突然振り返った。

「いい加減にしろよ、しつこいんだよ」

 葵の苛立ちを含んだ口調に、恭平はぽかんと口を開けた。

 初めて聞く葵の声。

 若干高めの、よく通る声だった。

──こいつ、喋れるんだ。

「葵……お前、Reonなのか?」

 恭平の言葉に、葵は顔を覆う黒髪をかき上げた。

 あらわになるのは、Reonそのものの顔立ち。

 自分の身体が、震えていることに、遅れて恭平は気づいた。

「そうだよ、Reonだ。
 だから、どうした?」

 とっさに恭平は、葵の手を握った。

「好きなんだ、お前のことが!」

 葵は美しい顔を歪めると、忌々しげに恭平を見つめる。

「おれのこと、いじめていたくせに、よくそんなこと言えるよな」

「それは、悪かったと思ってる。
 申し訳ない」

 素直に謝罪し頭を下げる恭平に、葵が苦いものを噛み潰したような表情になって吐き捨てた。

「そんなに好きなら、おれのために死んでみせろよ」

「……は?」

 中途半端な姿勢のまま顔を上げた恭平は葵の台詞に凍りつく。

 葵の言葉の意味をはかりかねて信じ難い思いに囚われ動くことができなくなった。

「できないだろ?」

 葵がふんと鼻を鳴らす。

 そして饒舌に語りはじめた。

「おれには親がいない。
 養護施設で育って、葵家に養子として迎え入れてもらった。
 親にすら愛されず捨てられたんだ、友情だの愛だの恋だの、おれはそんなもの信じないし要らない」

 恭平は唸るように言葉を捻り出した。

「……だから、友達も作らず学校でも誰とも話さないってことか?」

「そうだ」 

「俺が、お前のこと好きだっていうのも?」

「信じない」

 頑なな葵の反応に、恭平は髪をかきむしりたくなる。

「……死んだら、俺がお前のために死んだら信じてくれるのか?」

 葵は鼻で(わら)った。

「そうだな、できるならやってみろよ」

 葵は、かばんに手を突っ込むと、カッターナイフを取り出し、恭平に差し出した。

 神から授けられた美酒のごとく、恭平は恭しくカッターナイフを震える両手で受け取った。

「好きだ、葵。
 俺の気持ち、受け取れ」

 すると恭平は、なんの躊躇いも見せず、カッターの刃を首筋にあてがい、皮膚を切り裂こうとした。

 葵が目を見開き、咄嗟に恭平の手首を掴む。

 恭平の首筋から、真っ赤な鮮血が一筋流れ落ちた。

 傷はそう深くない。

 だが、掴んだ恭平の手首には、血管を切り裂くに充分な力が加わっていた。

 止めなければ、本当に首の血管を自ら切っていたかもしれない。

──本気だ。

 こいつは、おれのために命をかけようとしている。

 なんの躊躇いもなく。

「……は、ははっ……」

 恭平の血で指を汚しながら、葵は気がつけば笑っていた。

 葵の乾いた笑い声を聞いて、今度は恭平が目を見開いた。

 傷口の痛みも忘れて、恭平は初めて聞く葵の笑い声に、ただただ信じられないものを見た心地で立ち尽くしていた。

──Reonが、葵玲音が笑っている。

 傷口を押さえた恭平の瞳に映る葵の顔は、Reonそのものだった。

 憧れ続けたReonと、自分が疎ましく思っていた葵の姿が重なる。

 葵も、誰かを求めた孤独な男だった。

 自分と、同じの。

 笑い続けながら、葵が心底おかしそうに言った。

「お前、マジかよ、ストーカーのうえに命までおれに差し出すなんて、バカじゃねえの?」

 そう言いつつも、笑いは止まらない。

 葵自身も、なんで笑ったのかわからない。

 笑ったことなど、数えるほどしかないのに。

 恭平は、狂気じみて笑い続ける葵に見惚れていた。

 しばらく笑い続けると、葵はふと真顔になり、「傷口、手当てしないとな」そう言って、自分のバッグから絆創膏を取り出した。

「傷は浅いな、すぐ塞がるだろ」

 葵の温かい指が、恭平の首筋を這い、絆創膏を丁寧な手つきで貼っていく。

 恭平は吐息が熱くなるのを感じた。

 すぐそばに、Reonがいる。

 緊張を気取られたくなくて、わざとぶっきらぼうな口調で言ってしまう。

「絆創膏なんか、持ち歩いてるのか」

「……変なことか?」

「別に。
 なんか女子みたいだな思ってさ。
 で、さっきの話は?」

「さっきの話?」


「俺が死んだら好きだって信じてくれるって話」

 葵がいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「お前、死んでないだろ」

 葵に見惚れながらも、恭平は口を尖らせる。

「怪我したんだ、死んだも同然だろ」

「なんだよ、それ。
 本当、気持ち悪いな、お前」

「信じてくれるのか、くれないのか?」

 葵は想像もできないような優しい声音で言った。

「信じてやるよ、仕方ないからな」

 そして、屈託のない笑みを恭平へと向けた。

──夢のようだ。

 その笑顔を熱のこもった視線で見つめながら、葵の手を取り、そのまま顔を近づける。

 葵玲音の、Reonの唇に自分の唇を重ねて──キスする寸前、「うわあっ」と葵が間抜けな声を発したかと思うと、恭平は顔を鷲掴みにされて押し戻された。

「なにしてんだよ、お前!」

 葵の手から解放された恭平はぱちくりと瞳を瞬かせる。

「俺がお前を好きだって、認めてくれたんだろ?」

「だからって、恋人でもないのにキ、キスするなんて展開早すぎだろ!」

 葵は、見たこともないほど顔を真っ赤にして後退っていく。

「照れてんのか?」

「照れるとか、照れないとか、そういう問題じゃない!」

 初めて聴く葵の大声。

「問題?
 じゃあ、付き合おう、俺たち。
 恋人になれば問題ないよな?」

 恭平が意気込んで言うと、「じゃあ、って……」と不満げに葵が唇を尖らせた。

「駄目か?」

 真っ直ぐに自分を見つめる恭平に、葵が困惑したような表情になる。

「おれは高部をその、なんだ、恋愛対象として見たことがなかったから、付き合うとか、よくわからない」

 きょどきょどと目を泳がせる葵にはReonのあの社会に挑むようなひりひりした雰囲気は欠片も見られない。

 でも、幻滅したとか、失望したとかそんな感情にはならなかった。

──なんか、可愛い。

 もじもじとする葵が、なんだかとても愛おしかった。

 首の絆創膏に触れる。

「仮でいいよ」

「仮?」

 葵が不思議そうに首を傾げながら恭平を見つめる。

──ああ、可愛いな、もう。

 Reonの顔でそんな表情をされたら、自分はどうしたらいいのか。

 心の中で悶えながら、口調だけは冷静さを装って葵に向き合った。

「仮の彼氏にしてくれってこと。
 かっこ仮ってやつ」

「(仮)……」

 まずは友達から、という選択はもとよりない。

 友達からなんてまだるっこしい、葵の彼氏になりたい。

 葵は硬直したまま思案している。

「……よくわからないけど、わかった。
 お前の気持ち、信じるって言っちゃったからな」

「本当か!?」

 恭平は葵に抱きつきたいのをぐっと堪えて、葵の両手を握る。

 触れられて葵がぴくりと震える。

「これからよろしくな、葵!」

「う、うん……けど」

 葵は浮かない顔をした。

「高部は皆本のグループだろ?
 皆本はおれを嫌ってる。
 おれと付き合ったら、高部が皆本にいじめられるんじゃないのか?」

「あ……」

 都会にきて初めて目にしたいじめの被害者は葵だ。

 いじめられている人間を庇ったらどうなるか、恭平だって知っている。

 知っているが、現実感がなかった。

 田舎にいたころは、子どもはみんな顔見知りで、いじめを見たのも加担するのも、引っ越してきてから体験したことだったので、失念していた。

 葵を庇ったら次に目をつけられるのは恭平だ。

 人の懐に飛び込むという処世術で今の地位を確立した恭平にとって、敵を作ることはなにより恐れていることだった。

──俺は今、葵とクラスでの地位を天秤にかけているのか。

 葵への好意は絶対的なものだ。

 だが、葵の彼氏になることと引き換えにその地位を失うことが、自分にできるだろうか?

 苦悩する恭平の胸の内を見透かしたように葵は、ふ、と笑う。

「皆本の標的になるのはおれだけで充分だ。
 高部までこっちにくることはない」

「……悪い、情けないな」

「別に、普通だろ。
 誰だっていじめられたくなんかない。
 でも、高部と違っておれには耐性があるから」

 悲しい言葉だと思った。

「皆本にいじめを辞めさせるよう、それとなく言ってみるよ」

「無理するな、お前がターゲットになったら元も子もないだろ」

「俺のこと、心配してくれてんの?」

「そっ、そんなこと……」

 一度落ち着いた葵の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「……してるよ、心配……。
 なんかわからないけど、高部がいじめられるのを見るのは嫌だ」

 葵の甘い台詞に恭平の芯が溶けていく。

 蚊の鳴くような声でそう言った葵の言葉が嬉しくてたまらない。

「クラスのやつにバレないように、デートしよう」

 興奮気味に言うと、「デート?」と再び葵が首を傾げる。

「そりゃそうだろ、俺たち付き合うんだから、デートするのは当然だ」

「ふうん……そっか、そうだな」

 葵は腑に落ちたとばかりにうなずいている。

「行きたいところとか、ある?」

「いや、特には……っていうか、高部はまだこの辺の地理に詳しくないだろ、おれの方がまだよく知ってる」

 それもそうだな、と恭平は苦笑いする。

「じゃ、案内してよ、葵のエスコートで」

「わかった」

「約束な」

 恭平が小指を差し出したのを見て葵も右手を差し出し、絡ませた。   

 触れ合った指は温かくて、離したくないと思ったが、無情にも葵はさっさと指を解くと、背を向けた。

「喋り疲れたから帰る」

「送るよ」

「女子か。
 もう家はすぐそこだ、じゃあな」

 葵はいつの間にか前髪を元通りにすると、恭平を振り切って歩きはじめた。

「また明日な、葵!
 学校で、待ってるから、絶対こいよ!」

 自宅の門に手をかけた葵がばっとすごい勢いで振り返り、「声が大きい!近所に変な誤解されるだろ!」そう一喝しながら乱暴に玄関ドアを開け中に入ると、ばたん、と音をさせてドアを閉めた。

 葵が消えた家のドアを、恭平はしばらく放心しながら眺めていた。

 それこそ、ストーカーのように。

 世界が、一瞬で変わった。

 葵へと、想いを伝えることができた。

 葵が、想いを受け入れてくれた。

 身体の奥から形容しがたい感情が溢れて溺れそうになる。

──俺は、葵を愛している。

 恭平は、事ここに至って、はっきりと自分の想いを再認識させられた。

 名残惜しく葵の自宅を離れると、恭平は歩き出した。

 首に貼られた絆創膏が勲章のような気がした。  

 
 その夜、極度の興奮状態の恭平はなかなか眠ることができなかった。

 仕方ないので抽斗に仕舞ったReonが表紙のメンズ雑誌を引っ張り出して、眺めることにした。

 完璧な比率の美貌。

 世間に媚びない気高さ。

 孤高のカリスマ性。

 何度見ても、ため息が出る。

 飽きもせず雑誌を捲ることに夢中になっていると、空が白みはじめた。

 今日も、葵に会える。

 それだけで押し寄せる幸せが恭平を包み込む。

 寝るのはよそう。

 だって、目が覚めたとき、昨日あったこと全てが夢だったなんて、そんなことになったら立ち直れない気がするから。

 今はただ、この夢のような気分に浸っていたい。

 Reonと出会えたことを、葵と恋人になったことを噛み締めていたい。

 また葵に気持ち悪いって言われるな、そう自覚しながらも、恭平はにやにやと笑うことをやめられなかった。



 高校では、お互い目も合わせない。

 高部恭平は皆本彩人とともに葵玲音をいじめている。

 その関係性は変わらなかった。

 誰も、恭平と葵が恋人などと気づきもしない。

 それが綱渡りのような秘密を共有しているようで、恭平には堪らない。

 本当は皆本にいじめを辞めさせたいが、恭平に皆本に楯突く度胸はなかった。

 申し訳なく思っていると、何気なく視線を遣った葵と目が合った気がした。

 もちろん、葵は長い前髪で顔全体を覆っているので、目が合うはずないのだが、それでも確かに、葵は恭平を見て誰にもわからないようにうなずいた。

 これでいいのだ、とでも言うように。

 すぐそこに葵がいるのに話すことすらできない。

 うずうずとストレスをためながら放課後を待つ。

 皆本たちとの付き合いもこなさなければいけないので、毎日とまではいかないが、放課後は葵の家まで遠回りして一緒に帰る。

 先日、とうとう手を繋ぐことに成功した。

 夕日が照らす橙色の住宅街を、葵を独占して歩く。

 緊張と暑さで、じっとりと汗をかいてしまい、恭平の方から手を離した。

 もうすぐ夏休みがはじまる。

 葵と、もっと色々なところに行きたい。

 これからやってくる夏休みを、恭平は胸を躍らせて待ちわびていた。



 迎えた夏休み。

 恭平と葵は、クラシックなカフェにいた。

 ふたりとも私服で、葵は学校にいるときと変わらず長い前髪で顔を覆っている。

 しかし、約束の時間にやってきた葵をひと目見て、恭平は心を鷲掴みにされた。

 ブランドものの、セットアップ姿の葵に、Reonの気配を感じて、感激してしまったのだ。

 制服姿ではあまり感じなかったが、葵はスタイルが良い。

 モデルとして、決して背が高いわけではないが、比率がとても良い。

 脚が長く、すらりとしていて、ハイブランドの服がよく似合う。

 前髪がそのままなのは、顔を露出すると正体がバレるからだと葵は説明した。

 葵とReonがちぐはぐに混在する姿に、恭平は混乱しつつも興奮していた。

 カフェは高校の最寄り駅から二駅ほど離れたところにある。

 学校の人間に会う心配のない場所でデートしたいと告げると、葵はこのカフェを指定してきた。

 恭平ひとりでは、なかなか入れない大人な雰囲気漂う落ち着いたカフェだった。

 葵は撮影できたことがあるということで、ジャズが流れるシックなカフェにも気後れすることなく馴染んでいる。

 前髪さえなければ、長い脚を組み、コーヒーカップを手に余裕を感じさせる姿はReonそのものだ。

 真夏の昼下がり、初めてふたりだけで会うデート。

 店内に他に客はなく、ふたりは向かい合って座り、夏休みにどこへ行こうかと遊びの計画を練っていた。

「葵と一緒なら、俺はどこでもいいんだけどな」

 恭平がそう言うと、葵は邪魔そうに髪をかきあげて前髪をヘアクリップで留めた。

 あらわになるReonの顔に、恭平は動揺する。

 とたんに緊張感に満たされ、今自分が一緒にいるのがReonなのだと再認識させられる。

 確かに上京したとき、Reonに会えればいいな、と思っていた。

 思っていたのだが、まさかそのReonとふたりきりで会う仲になり、あまつさえ恋人になってしまうなんて、数ヶ月前の自分に教えても、信じないに違いない。
 
「そうは言っても、おれも遊びに行く機会なんてないから、どこへ行けばいいのかわからないんだよな」

 葵の憂いを帯びた言葉と仕草に、色気を感じ取って恭平は思わず目を逸らす。

 またいつかのように、むくむくと欲望が顔をもたげる。

──キスしたい。

 葵に、最上級の愛情を表してひざまずいてしまいたい。

──いけない、また気持ち悪いと言われてしまう。

 せっかく恋人になったのに、欲望に突き動かされて先走って嫌われたら悔やんでも悔やみ切れない。

 奥歯をぐっと噛み締める。  

「どうして」

「ん?」

 恭平の呟きに葵が聞き返す。

「どうして、顔隠してるんだ?
 Reonだって知られれば、いじめだって受けないんじゃないのか?」

 ああ、と葵が納得のうなずきを返す。

「前に言ったろ、愛とか友情とか信じてないって。
 おれはひとりきりで構わない、誰も話しかけるなって、言わなくても伝わるかなって思ってさ。
 まあ、見えない盾みたいなものだよ」

「それなのに、どうしてモデルなんてはじめたんだ?」

 葵は唇に繊細な細い指を当て言葉を選ぶように思案しながら話し出す。

 どんな仕草もいちいち絵になり、恭平は見惚れた。
  
「おれは生まれてすぐ施設に預けられたんだ。
 そこから早くひとり立ちしたいと思ってたとき、中2のときだったかな、同じ施設にいたやつに一緒にモデルオーディション受けないかって誘われたんだ。
 モデルには興味なかったけど、賞金に目がくらんでさ。
 どうせ落ちると思ってたんだけど、運良く受かった、それだけなんだ。
 御大層な目的があってモデルになったわけじゃない。
 賞金目当てって言ったら、高部の夢を壊しそうだけど」

 恭平の頬がかすかに引きつる。

 本当にショックだった、夢を壊された。

「でも、やってみたらモデルの仕事は予想以上に楽しかった。
 だから続けられたんだ」

 知りたくない現実を知ってしまった衝撃を呑み下して、恭平は身を乗り出す。

「Reonのときの葵って、どんな感じなんだ?
 学校みたいに1言も話さないわけじゃないだろ?」

「それは、まあ、仕事だからな……。
 うまく伝えられないんだけど、衣装を着て、メイクして、カメラの前に立つとスイッチが入るというか、『Reon』になるんだ。
 世界に自分と、カメラだけがある感覚になるっていうか……難しいな、やっぱり」

「へえ……。
 やっぱり天才なんだな、Reonは」

 恭平の尊敬の眼差しに、葵が居心地悪そうに眉を寄せる。

「でも、モデルを続けるに従って、誰かに必要とされたい、愛されたい、自己肯定感を満たしたい、そう思い始めた。
 おれを求めてくれる人間も持ち上げてくれる人間も確かに増えた。
 けど、ファンが増えれば増えるほど、心は空虚になっていった。
 ちやほやしてくるやつらが求めているのは外見だけで、おれの孤独を埋めてくれる人間は現れなかった。
 さっき、Reonだって知ったらいじめはなくなるんじゃないかって高部は言っただろ?
 正体を明かさないのは、そういう理由だ。
 外見だけ切り取って褒められても、嬉しくもなんともない。
 おれを心から愛してくれる人が欲しいだけなのに、周りに人が増えれば増えるほどそんな願いは叶わないんだと思い知らされた。
 だから、期待することをやめた」

「それは……わかるよ」

 恭平も、親の愛には恵まれていない。

 だから、代わりを求めるように友人との繋がりを欲した。

 嫌われることを恐れた。
 
 葵が自分語りを続ける。

「愛情に飢えていて、空虚でもいいから、他人に求められたい、必要とされたい、希望を見出したい、そんな思いが原動力になってモデルを辞められないでいる。
 信じていない、要らないと言いながら、おれは他人からの愛を求めているのかも知れない」

「だったら!」

 恭平が音をさせて椅子から立ち上がる。

 葵が目を丸くした。

「俺がお前の孤独を埋めてやる!
 溢れるくらい、錆びた心に愛情を注ぎ込んでやる!
 俺の執着を舐めるなよ、俺は葵のReonの信者なんだから!」

 自分がどれだけReonに救われてきたか葵には理解できないだろう。

 それはいい、ただ、恭平がReonに抱く想いは、並々ならぬものがある。

 これからゆっくり時間をかけて、葵にはそれを嫌と言うほど思い知らせてやろう。

 自分が確かに他人に愛されているのだと、自覚させよう。

 それがReonの1番のファンを自負する恭平のやるべきことだ。

 いや、自分にしかできないことだ。

「葵、遊園地に行こう!」

「……はあ?」

 突然やる気に満ち溢れた恭平について行けず、葵は気の抜けた返事を返す。

「子どものころからやり直すんだよ、葵。
 子どものころの思い出の定番は、家族旅行だ。
 俺も経験はあんまりないけど、じいちゃんばあちゃんに連れて行ってもらった遊園地がすげえ楽しかった思い出がある。
 これから、思い出を作るんだ、俺が叶えてやる!」

「あ、ああ、そうか、うん……」

 葵は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で恭平を見上げている。

「明日、空いてる?
 早速行こう!」

 恭平の剣幕に押され、葵がうなずく。

「よし、善は急げだ、明日、朝7時、駅前に集合な!」 

 畳み掛ける恭平の一方的な宣言を聞く葵の表情が、どことなく嬉しそうだったことに、鼻息を荒くした恭平は気づいていなかった。


 翌日、早朝から元気に顔を出した太陽に照らされた待ち合わせ場所に、パーカにデニムというカジュアルな出で立ちで葵がやってきた。

 遠足を前にして興奮で眠ることができない幼稚園児よろしく寝不足になりながらも、恭平は待ち合わせ場所に1時間も前にきては、じわじわと緊張に包まれていた。

「おはよう、葵、早いな」

「お前が早くこいって言ったんだろ」

 葵は眠いのか、気怠げな様子である。

「じゃ、行こう!」

 遊園地への道のり、遊園地のレイアウトは昨日のうちに頭に入れ、計画も立ててきた。

 全ては葵を楽しませるため。

 葵の手を掴み、意気揚々と改札を潜る。

「高部、ずっと手を繋ぐつもりか?」

「なにか問題でも?」

 ずんずんと進む恭平は振り向きもしない。

 夏の朝、駅にいる人はまばらだ。

 だから問題ない、そう恭平は考えていたのだが、葵がその手を振り解いた。

「葵?」

「……恥ずかしい」

 葵は立ち止まったままうつむいている。

「……わかった、じゃあ手は繋がない。
 でも、俺のそばを離れないでくれよ」

 恭平は不本意ながらも葵の要求を受け入れる。

 電車に乗り込むと、ぴったりと身体をくっつけて座る。

 やがて、ゆっくりと走り出した電車の車窓を風景が流れていく。

 朝の清廉な空気にどうしてだろう、かすかな哀愁が漂っている。

 始まれば終わってしまう。

 派手に咲くけれど、刹那に終わってしまう花火のようだ。

 どんなに楽しい時間を過ごしていても、必ず終わりは訪れる。

 葵と別れるときが、やってくる。

 恭平がなんとも言えない憂いに陥っていると、肩にふと重みを感じ、隣に目を遣ると、葵が恭平の肩に寄りかかって無防備に寝ていた。

 声を上げてしまいそうなのを、口を覆って押し止める。

 前髪から覗くReonの顔が至近距離にある。

──美しい。

 恭平の身体が熱を持つ。

 汗をかきつつも、葵が暑くならないように、体温を下げようと窓からの風で冷やそうと努める。

 隣から、すやすやと葵の規則的な寝息が耳をくすぐる。

 心臓は跳ねさせたまま、顔を手でぱたぱたと仰ぎ、必死に汗をかかないようにした。

 至福の時間を堪能していると、すぐに目的の駅に着いてしまった。

 楽しい時間は過ぎるのが早い、とはよくいったものだ。

「葵、葵、着いたよ」

 よっぽど熟睡しているのか、葵はなかなか目覚めない。

 身体を揺すると、うーんと小さく伸びをして、葵が目を擦りながらようやく覚醒する。

「ここ……どこ?」

 葵は起きるのに時間がかかるタイプのようだ。

「駅、着いたぞ」

 葵がきょとんと恭平を見つめる。

 そのあまりに幼い仕草にどきりとして恭平は葵を直視できない。

 窓の外に視線を向けた葵が、ようやく合点がいった表情になる。

「……寝てたんだ、おれ。
 ごめん、重かったよな」

「い、いやっ、むしろ僥倖な時間だったというか……いや、気にするな。
 それより、早く降りよう」

 恭平に急かされ、葵が立ち上がる。

 しかし寝起きのため、ふらふらと足取りが覚束ない。

 転びそうになった葵を、恭平が慌てて受け止める。

「悪い……でもなんか、高部の肩、寝やすかった」

──ああ、なんという嬉しいことをさらりと言うんだろう。

 葵を支えつつ電車を降りると、ぱらぱらと家族連れが同じ駅で降りた。

 みんな目的は同じなのだろう。

 駅を出て、シャトルバスに乗ると、遊園地までの短い時間にも関わらず葵はまたも船を漕ぎはじめた。

──子どもっぽいところがあるんだな。

 葵の寝顔を見つめながら、恭平は知らなかった葵の一面を知って、なんだか得した気分になっていた。

 辿り着いた遊園地は、夏休みとあって人でごった返していた。

 入場ゲートを潜り、ポップなBGMが流れる遊園地へと足を踏み入れる。

 すぐそばをはしゃいだ子どもたちが走り抜けていく。

「葵、なにから乗ろうか?」

 案内図を眺めながら恭平が言うと、葵はうーんとうなりながら同じようにマップを眺めた。

「遊園地なんて初めてだから、よくわからないけど……乗るならジェットコースターが定番かな?」

「よし、まずは景気づけにジェットコースターからいこう」

「なんだよ、景気づけって」

 葵が苦笑する。

「行こう」

 恭平が手を差し出すと葵が躊躇いながらそっとその手を握る。

 葵の手に力を込めると、恭平は走り出した。

「えっ、おい……」

 腕を引っ張られながら葵が戸惑いの声を上げる。

「並ぶ時間もったいないから、早く行くぞ!」

 かまわず恭平は葵の手を引いてジェットコースター目指して走り続ける。

「子どもみたいだな」

 葵が苦笑いしながら恭平の後ろ姿に呟くと、「今日は子どもに戻るんだよ!」と叫び返された。

 高揚感に、葵はいつしか笑顔を浮かべていた。


 ジェットコースターに乗ると、葵が高所恐怖症であることが判明し、コーヒーカップに乗ると葵が目を回し、メリーゴーラウンドに恥ずかしがる葵を無理やり乗せ、その様子を自分のスマホで撮影して恭平だけが楽しみ、すっかりご機嫌斜めになった葵を連れてショーを見に行くと、着ぐるみの可愛らしさに葵が釘づけになり、その葵の可愛らしさに恭平が釘づけになる……という鬼のようなスケジュールをこなし終えたころには、もう高かった日は傾きはじめていた。

「疲れた……」

 夕食のため入った園内のファミレスで椅子にどさりと崩れるように座ると、葵はそう呟いた。

「お疲れ。
 でも、行きたいところ全部行けたな」

 スマホに収められた葵の写真をほくほく顔で見返していた恭平が口元を綻ばせながら満足そうに言った。

「どうだった?
 初めての遊園地」

「だから、疲れた。
 遊ぶって、こんなに疲れるものなんだな。
 でも……楽しかったよ、素直に」

「そっか、楽しんでくれたらよかった。
 俺も、楽しかったよ葵と一緒で」

 アイスコーヒーに口をつけながら、葵が恭平に柔らかく微笑む。

 今日1日一緒に過ごしたことで、恭平と葵の距離は一気に縮んだ。

 葵が自分に心を許してくれているのがわかる。

「なあ、次はどこへ行く?」

 恭平が勢い込んで聞くと、葵は目を剥いた。

「もう次の話?
 高部、暇なの?」

 真顔で訊いてくる葵に、恭平はスマホをテーブルに置くと、同じように真顔になって姿勢を正して言う。

「葵、青春は短い。
 夏休みはもっと短い。
 1日はさらに……」

「わ、わかった、わかったよ」

 この世の真理でも話すように滔々と語りはじめた恭平を遮ると葵が白旗をあげる。

「でも、夏休みだから雑誌の撮影の予定も入ってる。
 そんなに毎日遊びに付き合えないよ」    
  
「そっか、Reonだもんな、俺もReonは見たい。
 雑誌も欲しい。
 仕事を尊重しつつ、計画を立てよう。
 で、どこに行く?」

 葵は呆れたようにため息をつく。

「海、とか行きたいかもな。
 確か小学生のころ行ったきりだから。
 楽しい思い出もないし」

「よし、次は海、決まりだ!」 

 疲れも見せずそう宣言すると、恭平は満面の笑みを浮かべた。

 疲れていたはずなのに、葵の心は人知れず弾んでいた。

 そのことに葵は気づいていなかった。



「おお!」

 エアコンのきいた自室でスマホを覗き込んだ恭平は、狂喜の雄叫びをあげた。

 スマホの画面には、秋服に身を包んだReonが映し出されている。

 『ただいま撮影中』とコメントが添えてある。

 メンズ雑誌の表紙の撮影の様子を、葵が自撮りして恭平のスマホに送ってくれたのだ。

 季節先取りの秋に合わせたシックな装いのReonに葵の雰囲気は欠片もなく、自撮りしたのは葵のはずなのに、その挑みかかるような視線は『Reon』でしかなかった。

 これが、スイッチが入った状態ということか。

 恭平は惚れ惚れしながら『美しい、神だ』と熱に浮かされたようなメッセージを返すと、『気持ち悪い』と即答された。

 会っていない間も、葵が自分のことを考えてくれている。

 それが感じ取れて、嬉しさににやにやが止まらない。

 いつか、(仮)が取れたら。

 葵と正式な恋人になれたら。

──クラスメイトにそれがバレたら?

 恭平の顔に陰が差す。

 もし皆本にそれが知れたら?

 葵ともども今の地位を失うことになるのではないか。

──いや、葵と一緒なら乗り越えられるのではないか。

 どれだけ白い目で見られようと、後ろ指さされようと、葵が隣にいてくれたら、葵が側にさえいてくれたら、厄介な相手の顔色ばかりを伺うこの性格も改善するのではないか。

 それは、とても魅力的に思える。

 だって、それはReonに近づけるということだ。

 孤高のカリスマ、誰にも媚びないReon、いや、葵玲音に。

 ふたりだけの世界へ入ってしまえば、外野がなにをどう言おうと関係ない。

 自分がReonに抱く執着を舐めるな。

 皆本と敵対したって、守りたいものが今の恭平にはある。

 夏休みは短い。

 葵は海に行きたいと言ってもいた。

 さて、どこに葵を連れて行こうか。

 頭を切り替えると、恭平は地図アプリとにらめっこをはじめた。



 砂浜に用意したレジャーシートを敷いて、パラソルを立てる作業を甲斐甲斐しくこなすと、葵を迎え入れる。

 8月も中旬になったが、陽射しは強く太陽を遮るものがない海岸には燦々と光りが満ち溢れていた。

 砂浜では水着姿の恋人たちや家族連れが陽射しに抵抗するように海に浸かり、思い思いに夏を満喫している。

 汗ばむ陽気のなか、パラソルの陰に入った葵は、眩しさに目をすがめながら「ありがとう、悪いな」と汗まみれになりながら作業を終えた恭平を労った。

「俺が誘ったんだから、これくらいのことするのは当然だ。
 Reonの肌を灼くわけにはいかないからな」

 Reonといえば、絹のような新雪のようなきめ細かい純白の肌が印象的だ。

 前に、葵にどう手入れしているのか訊いてみたが、特に手入れはしていない、と返答された。

 どうやら美しい肌は生まれつきのものらしい。

 恭平は、葵を捨てた両親には腹が立つが、こんなにも美しい葵を生んでくれたことには感謝している。

「葵、暑いだろ、ちょっと待ってて」

 葵がレジャーシートに座ったのを見届けると、恭平は慌ただしく踵を返す。

「え、高部、どこいくの?」

 身を乗り出す葵に手のひらを向けて制止し、「すぐ戻るから」と言い残すと、ビーチサンダルで砂を蹴って走り去っていく。

 ひとりにされた葵は、パラソルの下からどこまでも広がる水平線と人々をぼんやりと眺めて恭平の帰りを待った。

 数分後、やはり汗だくの恭平が両手になにやら持って戻ってきた。

「はい、葵。
 暑いだろ」

 そう言って恭平が差し出したのはカップに入ったかき氷だった。

 海の家まで買いに走ったのだろう。

「あ、ああ、ありがとう」

 やや面食らいつつもカップを受け取ると、ひんやりした感触が伝わり汗ばんだ身体をクールダウンしてくれた。

「いただきます」

 そう言って溶けないうちに食べようとぱくりと氷を口に入れると、その様子を恭平に凝視されていることに気づき「なに?」と眉を寄せる。

 なぜか恭平は照れたように顔を赤くしてもじもじしている。

「いや、なんか、恋人同士だなあって思ってさ。
 遠出して、海眺めながらかき氷食べて、なんか、青春してんな、俺たちって思ったら、なんかじーんときた」

「ふうん?
 よくわからないけど。
 そういえば、おれたちってまだ(仮)だったよな」

「ああ、そうだったっけ。
 それがなにか?」

「……とってもいいかなって。
 (仮)」

「えっ?」

 あまりのことに、恭平は酸素を求める金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。

 葵も顔を朱に染めて潤んだ瞳で恭平を見ている。

「恋人に、なるって、こと?
 俺たち、正式な?」

 言葉が迷子になったように、たどたどしく訊いてくる恭平に、葵が少し拗ねたように口を尖らせた。

「恋人になりたいって言ってきたのは高部だろ。
 なんでお前が動揺してるんだよ。
 こっちだって恥ずかしんだからな、そっちから言うの待ってたのに、お前がいつまでも言わないから……」

「そ、そうだったのか、悪い、遠慮してて……。
 でも、すげえ嬉しい、よろしくな、葵!」

 恭平はぶんぶんと葵の手を振り回して喜びを爆発させる。

「お、おい、恥ずかしいって!」

 葵はその手を振り解こうとするが恭平は意地でも離そうとしない。

「恋人……恋人なんだな、俺たち」

 恭平は気色悪く笑いながらぶつぶつと呟いている。

「かき氷、溶けるぞ、もったいないだろ」

 葵が言うと、恭平は従順な犬よろしく尻尾を振ってかき氷をかきこんだ。

「頭いてえっ」

 かき氷にやられて頭を抱えて悶え苦しむ恭平を横目に見ながら、葵はぷっと噴き出した。

「くう……笑うなよ、葵。
 俺けっこう真剣に苦しんでるんだけど?」

「ああ、大変だな。
 残念ながらおれは頭痛くならないタイプだから、お前の言ってることわからなくてさ」

「はあ?
 頭痛くならないってマジか?
 なにそれ、いるの、そんなやつ……」

 ぶつぶつと怨嗟を呟きながらうんうん唸る恭平には目もくれず、葵はかき氷を平然と平らげた。

「なあ、せっかくきたんだから、海入らないか?」

 頭痛から解放され、いくぶんか顔色が回復した恭平に、葵がそう誘ってきた。

「駄目!
 そんなことしたら国宝級のReonの肌が黒くなる!
 色白でこそReon!
 2度とそんな愚かなこと……」

 恭平は熱弁を振るったが、それを無視して「えいっ」と立ち上がった葵が波打ち際に駆けていく。

「なっ、待て、葵、駄目だって!」

 慌てて恭平も後を追う。

 裾をまくった葵が海水に脚を浸して振り向く。

「意外と生ぬるいな、海って」

「駄目だって、葵!
 灼けるって、早く戻れ、ぐふっ」

 母親のように小言を言いながら連れ戻そうとした恭平の顔面に葵がふざけて放った海水が激突する。

「……やったな……」

 しっとりと濡れた髪やTシャツに触れた恭平がぎろりと葵を睨んだ。

 裾をまくると、ざかざかと海に入った恭平は、葵に向かって容赦なく海水を浴びせた。

「うわっ」

 葵がずぶ濡れになり長い前髪からぽたぽたと水滴が伝い落ちる。

 悔しそうに唇を噛んだ葵が即座に海水を浴びせ返す。

 そしてすぐに恭平がやり返す──という応酬を繰り返すことしばし。

「くしゅんっ」

 男子高校生ふたりの水のかけあいは、葵のくしゃみに我に返った恭平が手を止めて終わりを告げた。

「風邪引いたらどうすんだ、葵!」

 恭平は駆け寄ると、強引に葵を海からあがらせる。

「暑いし、すぐ乾くだろ」

「お前はなにもわかっていない!
 Reonに風邪を引かせたら俺はお前を許せない!
 Reonは健康でなければいけないんだ!」

 楽観的に考えていた葵は、きょとんと恭平を見返し、やがて戸惑った顔つきになる。

「Reonは、おれなんだけど……」

 葵の呟きなど聞こえてもいないのかずんずんと恭平は葵の手を引いて進むとパラソルの下に座らせた。

「ちょっと店探して着替え見繕ってくる」

 恭平がそう言って去ろうとしたので、葵も慌てて立ち上がろうとするが、かき氷のときと同じで制されてしまった。

 
 
 数十分ぼんやりと行き交う人を眺めていると、恭平が紙袋を抱えて走ってきた。

「悪い、遅くなって。
 着替えたらすぐに帰ろう、電車が混むから」

「……なんか、悪いな。
 おれが勝手に暴走して海に入ったのに、高部を走らせることになっちゃって」

 葵がしゅんと反省しながら言うと、恭平は満面の笑みになりながら首を横に振った。

「俺は、葵と一緒なら楽しいし、お前のために走るくらい、なんてことはない。
 葵の役に立てていることがなにより嬉しいんだ。
 俺にしか見せない葵の一面を見られるだけで、俺は充分だし、幸せなんだよ」

「……尽くしすぎだよ、高部……。
 おれなんかに……」

「『なんか』じゃない!」

 思いのほか強く否定されて葵が目を見開く。

「いいか、葵。
 お前の自己肯定感がどれだけ低くても、俺にとってお前は自分の命より価値がある。
 自分を貶めるなよ」

 真剣な表情と声音の恭平に面食らった葵はたじろいでなにも言えない。

「あっちに着替えるためのスペースがある、行こう」

「う、うん……」

 陽が傾きはじめた海岸を、ふたりは並んで歩き始めた。



「似合う、似合う!」

 恭平はスマホのシャッターを無限に切りながら、いつも通り前髪で顔を覆った葵の写真を取り続けていた。

 スマホに焼き付けられるやや不機嫌そうな葵は浴衣姿だった。

 ふたりの横を通り過ぎていく人々が、不審そうに振り返ってはなにごとか囁いている。

「なあ、いい加減いいだろ。
 恥ずかしいんだが」

 周りから注がれる好奇の視線に耐えられなくなった葵が降参とばかりに恭平からスマホを奪い取って辞めさせる。

「あっ、手荒に扱うな、データが消える!」

「消えたっていい。
 もう行くぞ」

 スマホを恭平に投げ返すと、葵はすたすたと歩き始めた。

「待て、葵!
 迷ったらどうするんだ!」

 そう言うと、恭平が葵の右手を握る。

「子どもじゃないんだから、迷子にならない」

「でも、こんなに人がいるんだ、はぐれたら大変だろ」

「スマホで連絡すればいいだろ」

 葵が手を解こうとするが、恭平は頑なに離そうとしない。

 こうなったときの恭平は絶対に引かない。

 葵はため息をつくと、歩幅を合わせ並んで歩き出した。

 夏といえは、お祭り、花火だろ!と恭平に力説され、葵は指定された通り浴衣を着て地元のお祭りにやってきた。

 道の両脇にはお馴染みの屋台が並び、鉄板からもくもくと立ち昇る湯気が芳しい匂いを周囲に漂わせている。

 夕方になるにつれ、通りは肩がぶつかるほど混み合ってきた。

 焼きそばにたこ焼き、りんご飴にチョコバナナ、クレープ、綿あめ、射的に金魚すくい……祭りと聞いておおよそ想像する屋台がほぼ集結している。

「なんか買う?」

 恭平の問いに、雰囲気に呑まれて、辺りをきょろきょろと見回していた葵がはっと我に返る。

「まさか、お祭りにもきたことがないとか言わないよな?」

 恭平にそう訊かれ、葵は恥ずかしそうにうつむいた。

「子どものころ、すごく小さいころ、施設の子と一緒にきた覚えはある。
 けど、1回きりで、それ以来はきてない。
 花火大会もはじめてだし。
 浴衣もはじめてだし。
 知り合いに会うの嫌だし人混み苦手だし、一緒に行く人もいないし、だから……人生で2回目」 

「葵、お前ほんとなにも経験してないんだな。
 田舎に住んでた俺ですら、祭りにきたことあるし、花火大会もあったっていうのに、お前本当にもったいないことしてるな」

 そう言ってから、いや、ちょっと待てよ、と恭平が突然ぶつぶつとなにやら呟きはじめた。

「葵のはじめてを、俺は全部奪っているってことか。
 そうか、それはそうだよな、それってすごいことだよな」

 うんうんとひとりで勝手に納得した様子の恭平が、きりりとした顔で葵を見据える。

「よし葵、はじめての花火大会に行こう!」
 
 にやにやと不気味に笑いながら手を引いてくる恭平に若干引きながらも、葵はされるがままに走り出した。

 人波は花火大会が催される河川敷へと向かって進んでいる。

 流れに逆らわず屋台を冷やかしながら歩き、河川敷に到着するころには辺りは人でごった返していた。

 レジャーシートで場所取りする若者のグループや小さな子ども連れの家族が今か今かと花火大会がはじまるのを待っている。

 葵の胸も、周囲に満ちる高揚感に感化されて鼓動が早く脈打ち出した。

 恭平に連れられて、花火が見える位置を探して移動することしばし。

 ようやく人の頭に邪魔されない場所を見つけると、ふたりは空を見上げた。

 群青の空を、白い尾を引きながら、花火が駆け上がっていく。

 とたん、どーんと破裂音が鼓膜と腹の底を震わせる。

 薄暗い河川敷が、色とりどりの光りに照らされ興奮した見物人たちの笑顔を染め上げていった。

 間髪入れず、花火はどんどん打ち上がる。

 恭平は、隣に立つ葵の顔を盗み見る。

 花火を見つめながら、ぽかんと口を開けている葵の表情につい口元を綻ばせる。

──これからは葵が知らないもの、知らないことをたくさん経験させてやろう。

 そう使命感に駆られ、恭平は期待に胸を膨らませた。

 葵となら、楽しい日々が待っているに違いない。

 このとき、恭平は完全に熱に浮かされ有頂天になっていた。

「なあ、葵」

「ん?」

 花火の音と歓声の間を縫って声をかけると、葵が振り向いた。

「っ……!」

 無防備な葵の唇に自分の唇を重ねる。

 葵は目を見開いて息を呑んだ。

 でも、抵抗はしなかった。

 永遠にも思える数秒間が過ぎ、そっと唇を離すと、葵の驚いた顔が花火の輝きに照らされた。

 しかしすぐに恥ずかしそうな笑顔になり、「もう……なんだよ、いきなり」と恭平を小突く。

「お前のはじめてを奪いたくてな」

「……なんだよそれ、気持ち悪いな」

「もう褒め言葉だな、それ」

 葵はすぐに花火に視線を移してしまう。

 その手をぎゅっと握ると、葵も確かに握り返してきた。

「好きだよ、葵」

 独りごちたつもりだったが、その言葉が耳に届いたらしい葵がもぞもぞと口元を動かして言葉を発する。

「おれも、だよ、高部」

 予想もしなかった葵の台詞に、恭平は隣の葵を凝視してしまう。

 葵は花火を見上げたまま恭平の方を振り向こうとはしない。

 葵の顔が紅いのは、照れているのか花火のせいなのかは恭平にはわからなかった。

 ただ、今ほどの幸福を、恭平は味わったことがなかった。

 人生で1番幸せな夜だ。

 終わってしまうのが惜しくて、葵と離れたくなくて、恭平はいつまでもその愛しい人の手を握っていた。     



 盛りだくさんの思い出を作った高校2年生の夏休みが終わりを告げた。

 新学期がはじまり、登校した恭平と葵は、夏休み以前と同じ、無関係を装った。

 陰気なカースト最下位の葵玲音と、頂点に君臨する皆本彩人に気に入られている高部恭平。

 いじめの加害者と被害者という関係以上の関わりはない。
 
 誰もがそう思っている。

 絶対に知られてはいけない秘密を共有するスリルはふたりの恋心を燃え上がらせた。

 クラスでの関係性は変わらないまま、学校を一歩出れば恋人の顔になる。

 そんな生活がずっと続くのだろう。

 新学期1日目のホームルーム中、密かに葵の様子を盗み見ながら人知れずにやにやが止まらない恭平は慌てて口元を手で覆って隠した。

 葵を眺めることに没頭していた恭平は、教室のドアががらりと開いて、ひとりの男子生徒が入ってきたことで、はっと意識を取り戻した。

 担任教師の松阪がどうやら転入生の紹介をしていたらしい。

 葵を見つめることに夢中で松阪の話もざわめくクラスメイトの声すら遮断され恭平の耳に届いていなかった。

──いけない、これではいつ葵との関係がバレてもおかしくない、気をつけないと。

 名残惜しく葵から視線を剥がし、前を向くと、教壇に背の高い長めの明るい髪色をした男子生徒が立っていた。

 どこか西洋の面影を漂わせる美男子で、洗練された風貌に早くも女子生徒から悲鳴に似た歓声が上がっている。

飯島風澄(いいじまかすみ)です、よろしくお願いします」

 名前の通り透き通ったよく響く声だった。

 スタイル抜群の飯島が着ると制服すらもハイブランドの服に見えるから不思議だ。

 よく見ると顔もかなり整っていて、女子生徒が騒ぐだけのことはある、だが、葵ほどではないな、などと恭平が心の中で惚気けていると、すたすたと歩く飯島が視界に入る。

 並ぶ机の間を歩くだけなのに、ランウェイを歩くモデルの如く様になる飯島を女子生徒が熱視線をぶつけながら固唾を呑んで見守る。

 何気なくその姿を追っていると、飯島はぴたりと葵の前で足を止めた。

 なんだろう、とクラス中が不思議そうにその行動に注目している。

 飯島はそんな周囲の好奇の目など気にする素振りも見せず、満面の笑みになると葵の手を握りぶんぶんと振り回しはじめた。

「玲音、久しぶり!
 偶然だな、同じクラスだったなんて!
 いや、僕は信じていたよ、僕と玲音は運命の赤い糸で結ばれているって、これで確信したよ!」

 飯島は異常なハイテンションで話し続ける。

 クラス中が困惑に包まれていると、またしても信じられないことが起こった。

「風澄……」

 クラスメイトが息を呑むのがわかる。

 あの葵玲音が喋った。

 高校入学以来、誰も聞いたことのない葵の声。

 恭平は非現実な光景に、胸がざわめくのを感じた。

 飯島風澄、彼は何者なのか。

 あの葵から声を引き出してみせた謎の男。

 恭平の頭の中で警鐘が鳴る。

──慌てるな、俺と葵は恋人同士なんだから、なにも心配することはない。

 自分に言い聞かせるが、飯島という異分子が恭平の胸に不穏な気配をもたらす。

 飯島と葵はどんな関係なのか。

 今すぐ問い質したいが学校にいる間は話すことができない。

 もやもやを抱えたまま午前の授業をやり過ごした。

 昼休み、飯島は皆本のグループに囲まれていた。

 飯島の放つ圧倒的なオーラに皆本が興味を持ったからだ。

 にこにこと愛想を振りまく飯島は、そこにいるだけで場を明るくさせる魅力があった。

 クラスの王様に君臨する皆本が、その地位をとられる前に自分たちのグループに丸め込もうとしているのかも知れない。 

 当然恭平も皆本のグループの一員として飯島を取り囲んでいる。

「飯島って、すごい綺麗な顔してるよな、もしかして芸能人とか?」

 皆本が笑いながら、軽い調子で探りを入れる。

 転校してきたとき、恭平にも向けられた目と同じだった。
 
 どれだけ自分が有利に立っているか、自分に逆らえないかを思い知らせて、自分の立場を脅かすことがないように危険な芽は摘み取る。

 そういう涙ぐましい努力をして皆本は今の地位を手に入れている。

 それこそ葵が鼻で嗤うような努力だ。

「うーん、芸能活動は今はしてないよ。
 昔ちょっとやってたけど」

 飯島はからりとした笑顔を見せると意味深に告げた。

「え、昔って、何やってたの?」

 皆本が一瞬で焦ったのがわかる。

 主役の座を奪われると危惧したのだろう。

「モデル。
 中学のころ、雑誌のオーディションで合格して、ちょっとだけやってた。
 でもすぐに親が海外赴任になってアメリカに行くことが決まっちゃったから、本当にほんの短い期間だけだった」

「へえ、じゃあ英語喋れるの?」

 気づけば飯島の周りには、皆本のグループ以外のクラスメイトも加わっていた。

 みんな、飯島風澄という存在に興味津々で、飯島のことを知りたがった。

「日常会話くらいだよ」

「いいなあ、英語の授業とかめっちゃ得じゃん」

 会話が盛り上がれば盛り上がるほど、皆本の焦燥の色が濃くなっていく。

 今日の主役ともいうべき飯島は、そのビジュアルと飾らない性格から、一気にクラスメイトの心を掴んだようだ。

 笑顔を絶やさない飯島は、皆本の執拗な探りにも動じた様子はない。

──こいつ、強いな。

 おそらく飯島は、どんな振る舞いをすれば敵を作らないか、自分の味方を増やせるか、皆本の懐に飛び込めるか、全て把握している。

 飯島の振る舞いは恭平にも馴染みがあるものだった。

 恭平だからこそわかる飯島の処世術。

 飯島は満遍なく笑顔を振りまくと、ときどき、ちらちらと窺っていた葵の方へ視線を向ける。

 その仕草は、恭平も気になっていた。

 なぜ飯島は葵のことをそんなに気にするのだろう。

 ふたりは、どんな関係なんだ?

 話題の中心にいながら、心ここにあらずといった飯島を、恭平は愛想笑いで会話に参加しながら不審そうに眉をひそめながら警戒する。

「ねえ、僕、玲音と話したいんだけど」

 飯島が突如発した言葉に、皆本をはじめクラスメイトが凍りつく。

「……は?
 葵と?
 なんで?」

 皆本の疑問に、飯島は平然と答える。

「友達だから」

 クラスメイトから嘲笑が漏れる。

「友達?
 どんな知り合いか知らないが、やめとけよ、あんな暗いやつ。
 あいつ、俺たちのいじめの標的なんだよ。
 すかっとするぞ、飯島もやらないか?」

 薄ら笑いを貼り付けて皆本が言うと、すっと飯島が表情を消した。

「やる?
 君たち、玲音をいじめてるのか?
 僕に、玲音をいじめろって言うのか?」

 飯島風澄が絶対零度の低い声で皆本を睨みつける。

 整った顔立ちの男がきかせる睨みは、猛獣に睨まれたような迫力がある。

 その瞳は、どこかReonの挑発的な瞳を思い起こさせる。

 皆本がたじろいだ隙に、飯島が立ち上がり、いつものようにうつむいて机とお見合いしている葵のもとへと向かう。

「玲音、本当にいじめられてるの?
 酷いね。
 でも、大丈夫、僕が守ってあげるから、安心して。
 今日から僕が玲音の友達になるんだから、心配いらないよ」

 飯島の発言にクラス中が呆然とするなか、飯島は親しげに葵の正面に座り、一方的に話しはじめる。

「玲音、今、どこに住んでるの?
 あ、そうだ、僕の歓迎会とかしてくれると嬉しいな。
 だって、会うの何年ぶり?
 話したいことたくさんあるから、今度の休み、どこかに遊びに行かない?」

 葵がなにも反応しないなか、飯島は皆本の方を振り返ると、堂々と宣言した。

「僕は玲音をいじめる人間とは友達にはなれないな。
 今すぐ、いじめをやめてくれないか」

 飯島は、教室の王様が皆本であることに、この短時間で気づいていた。

 あまりのことに皆本は絶句し声すら詰まらせている。

 恭平も目を剥いて、クラスメイトとともに成り行きを見守ることしかできなかった。

「そう、だよね」

 女子がぽつりと呟く。

「葵、なにも悪いことしてないし、いじめ、よくないって、前から思ってた」

 その言葉に追随し、皆本のグループ以外の生徒から、そうだそうだと声があがりはじめる。

「飯島くんの言う通りだよ、いじめなんて止めよう」

 結託した女子ほど無敵なものはない。

 皆本は瞬く間に断罪され、窮地に立たされる。

 劣勢を悟った皆本は、なりふり構わず、飯島に媚びへつらった偽物の笑みを向ける。

「わ、わかったよ、もう葵には関わらない。
 これでいいだろ?」

 飯島は満足したように鷹揚にうなずく。

「オッケー。
 クラスメイトはみんな友達、いじめなんてナンセンス、時代遅れだよ。
 これから僕の大親友になる玲音と、みんな仲良くしてよね」

 飯島は三日月のように唇の端を持ち上げ、美しく微笑んだ。

「ってことで、これからよろしくね、みんな」

 はーい、と心を打ち抜かれた女子が聞き分けのよい小学生よろしく歓声を上げる。

 飯島が皆本に目を向けると、皆本はぎこちなく微笑み、「お、おう、よろしくな」と自ら握手を求める。

 それは皆本の完全降伏を意味し、飯島はたった半日で王様を玉座から引きずり下ろし陥落させることに成功した。

 皆本が自己保身のためにへりくだろうとすると、飯島は首を左右に振って優しい眼差しで皆本を見つめる。

「教室にカーストなんていらないんだよ。
 クラスメイトはみんな平等だ、友達なんだよ」

 皆本の代わりに玉座につくつもりはないという意思表示だった。

 皆本の自尊心は空気の抜けた風船のように萎み、飯島はそんな彼とですら友達になると、本気で言っているようだった。

──すごい、葵へのいじめをこんなに簡単に止めさせるなんて。

 恭平は、葵を救おうと思ったことはない。

 皆本に逆らえなかったし、自分の立場を失うのが怖くて、皆本の言いなりになっていた。

 それを申し訳なくも思っていたが、葵の優しさに甘えて葵へのいじめを見て見ぬふりを続けてきた。

 果たしてそれは、恋人のやることなのだろうか。

 恋人なら、身を挺して葵を助けるべきではなかったのか。

 恭平の胸の内で嵐が吹き荒れる。

 突然現れた飯島風澄によって、恭平と葵の将来に、暗雲が立ち込めた、そんな気がしてざわざわとした予感に恭平は呑み込まれそうになっていた。


 放課後、葵は飯島に連れられ一緒に学校をあとにした。

 その間、恭平と葵は1言も話すことができなかった。

 休み時間は飯島が葵にべったりで、密かに声をかける隙もなかった。

 帰宅するまでの時間は、ふたりきりで過ごせる貴重な時間だったのだが、そこにも飯島が割り込んできた。

 葵も断ることはせず、むしろ少々嬉しそうに教室を出て行った。
 
 話しかけるわけにもいかず、恭平は歯がゆい思いでふたりを見送った。



 その晩。

 恭平は葵を近所の公園に呼び出した。

 1日葵と話せていない。

 我慢できなかった。

 電話すると、葵はすぐに会うことを承諾した。


 そして街灯が寂しい遊具がブランコしかない小さな公園のベンチで待つことしばし。

 部屋着の葵が暗がりの公園へとやってきた。

「待たせて悪いな」

「いや、俺が呼び出したんだし、いくらでも待つよ」

 葵は恭平の隣に座ると、暗黒に覆われた空を見上げた。

 前髪がはらりと落ちて、Reonの顔があらわになると、恭平はどきまぎして思わず目を逸らしてしまう。

 『Reon』が隣にいることにいつまで経っても慣れない。

「風澄のこと、だよな、訊きたいの」

 やはり葵もそのことを気にしていたようだ。

「おれが生まれてすぐ施設に預けられたってことは前話しただろ。
 そこに同じ境遇の風澄がいた。
 幼馴染みっていうのかな、赤ちゃんのころから中学まで施設で家族みたいに育ったんだ。
 施設育ちっていう劣等感に苛まれながら、励まし合って生きてきた。
 風澄はかけがえのない大切な存在で、風澄になら隠すことなくなんでも話して、支え合って過ごしてきたんだ。
 中2のとき、モデルオーディションを一緒に受けようって誘ってくれたのも風澄だった」

 同じ施設のやつに誘われてオーディションに参加したと葵が話していたことを思い出す。
 
 あれは飯島のことだったのか。

「ふたりとも受かって、賞金も手にして専属モデルの仕事もはじめたんだけど、風澄が今の家に養子に行くことになって、離れ離れになった。
 海外に行った風澄とは連絡を取ってなかったから、顔を合わせたのは3年ぶりかな。
 いきなり同じクラスに転校してきて驚いたし、懐かしくて、つい嬉しくて高部をないがしろにしてしまった、本当、ごめん」

「いや、そんな……。
 俺の方こそなんか、器の狭い彼氏みたいで悪かった。
 葵にとって、飯島は大切な存在なんだな」

「うん。
 『Reon』の生みの親でもあるし、モデルの仕事に誘ってくれた風澄には感謝してる」
 
 葵が他人のことをこんなに饒舌に話すのははじめてだ。

 それだけ飯島への思いが並々ならぬものであることがわかる。

 『Reon』は飯島がいなければ生まれなかった。

 『Reon』と出会わなければ今の恭平はなかった。

 飯島がいなければ、恭平は葵と出会うことはなかった。

 全ては飯島風澄からはじまっている。

 それはありがたい、感謝しているのだが……。

 どうしても昼間見た飯島の言動が気になる。

 大事な恋人を奪われてしまうのではないかと心配が先に立ってしまう。

──恋人の大切な人なら俺も飯島を大切に思わなくてはいけない。

 そう思いたいのだが、もやもやが晴らせない。

 自分はこんなにも心が狭くて恋人を束縛する男だったのか。 

 ということは、今飯島に感じているこのもやもやは、嫉妬という感情ではないだろうか。

 形がないものに名前がついたとたん、恭平の中ですとんと腑に落ちた感覚がする。

──そうだ、これは嫉妬だ。

 自分が知らない葵を知っている幼馴染み。

 恋人を、葵を飯島に取られてしまうのではないかという焦り。

 葵の心変わり。

 葵の優先順位の変化。

 葵が1番に必要としている相手が恭平ではなく飯島に変わってしまったとしたら。

 恭平はぶんぶんと頭を振って膨らみ続ける悪い想像を振り払おうとする。

──大丈夫だ、葵の恋人は俺だ。

 夏休み、あんなにお互いの気持ちを確かめ合ったじゃないか。

 手を繋いでキスまでした。

 不安になることはない。

「葵」

「ん?」

 恭平は隣に座る葵を真っ直ぐ見据えると、ストレートに告げた。

「好きだよ。
 愛してる」

 突然の告白に、葵が、はあ?と訝しげな返事を返す。

「なに急に……。
 もしかして、高部、お前浮気でもしてんの?」

「なっ、なんでそういうことになるんだよ!」

「恋人が急に優しくなるのは浮気してる後ろめたさからだってなんかに書いてあった」

「なんの記事読んでるんだ、お前!
 変な知恵つけるな!」

「違うのか?
 ふーん?」

 葵はじと目で恭平を見つめている。

──やばい、これは本気で疑ってる。 

「本当だって、俺には葵しかいないから!
 葵しか見えてないから!
 Reonが表紙の雑誌、鑑賞用と保存用と永遠保管用と必ず3冊買ってるから!
 葵と付き合えたんだぞ、浮気なんておこがましいこと、俺がするわけないだろ!」

「……永遠保管用ってなんだよ……。
 本当に、気持ち悪いな、お前……」

 またしても気持ち悪いと言われてしまった。

 自覚していることとはいえ、葵から言われるとやはり傷つく。

 うなだれてしまった恭平を面白そうに眺めていた葵が小さな笑い声を上げた。

「おれには高部だけだよ」

 耳元でささやくように言われ、深い安堵を感じるとともに、なんだか葵の手の平の上で転がされている気分がした。

 深夜の住宅街でふたりきり。

 この世界に葵とふたりきりだったらいいのに。

 恭平は葵の肩に頭を預けてみた。

 葵も恭平に身体を預け、こつん、と頭がぶつかる。

 葵の体温に触れ、恭平の心が満たされていく。

 葵との間には、確かな絆がある。

 飯島でも、踏み込めないほどの。

 だから大丈夫。

 恭平の胸にくすぶる嫉妬は、不思議なほど自然に消えて跡形もなくなった。


 ところが、一週間もしないうちに、恭平の心には嫉妬が住み着いて離れなくなった。

 学校では、飯島が常に葵とべったりで、一緒に帰ることも叶わない。

 メッセージアプリでやりとりするのが精一杯で、電話をしてもいつも話し中。

 誰と話していたか、わざわざ訊かなくても、飯島が相手だとわかる。

 飯島は1日中葵を独占していた。
 
 恭平が入り込む余地はない。

 気がつけば、1日葵と話していない日も増えてきた。

 欲求不満が苛立ちとなり、焦りが憤りに変わる。

 飯島と行動するようになって、葵は飯島だけとは会話するようになった。

 すっかり皆本を取り込み、今や飯島はクラスの中心人物だ。

 男女問わず彼に魅了され、彼が大事にする葵へのクラスメイトの風当たりも変わってきた。

 もう葵はいじめられている根暗な生徒ではない。

 飯島風澄が最も大切にする存在、ないがしろにしてはいけない飯島の大親友。

 クラス中を巻き込んで飯島は葵を救うことに成功した。

 その点は、感謝しなければならない。

 だが、もちろん恋人を独占されている現状に不満がないわけがなかった。

 しかし、文句を言うことはできない。

 恭平と葵は表向き、なんの関わりもないことになっている。

 だから、葵を独占されても恭平が怒る道理がないのだ。

 嵐のように現れた飯島が巻き起こす疾風に弾き飛ばされた恭平と葵は、気がつけば疎遠になっていた。

 クラスで葵の待遇改善が叶ったのは望ましいことだ。

 だが、それが恭平と葵が疎遠になることと引き換えとなると、話は別になってくる。

 いつまでも葵がいじめられているのを遠くから見るだけなのは辛い。

 確かに辛いのだが……。

 自分が報復としていじめられる可能性があるなか葵を庇った飯島と、同じことができるかと問われたら、恭平にはできないと答えるしかない。

 だから飯島を目の敵にはできないし、ライバル視する資格は自分にはないのかも知れない。

 秋の気配が漂ってきても、葵と恭平はスマホを介したメッセージのやりとりに終始した。

『日曜日、遊びに行かないか』
 
 どうせ断られるだろうと思って送ったメッセージに、葵がすぐに反応した。

『行く。
 高部とふたりだけで会いたいから』

 恭平は飛び上がらんばかりに喜びを爆発させ、スマホを高速で操作した。

『どこに行きたい?』

『どこでもいいよ』

『飯島は、いいの?』

『風澄?
 風澄がなにか関係あるの?』
 
『いや、葵は飯島といたいのかなって』

『そんなことないよ、おれは高部と会いたい』

 恭平の芯がとろける。

 もう葵に何度こんな気持ちにさせられただろう。

 何回かメッセージをやりとりして、日曜日に隣の市のショッピングモールに行くことが決まった。

 葵が観たい映画があるというので、クラスメイトに会わないよう足を伸ばすことにした。

 ショッピングモールに入っている映画館で映画を観たらアパレルショップでも冷やかして、フードコートで昼食を食べて、その間ずっと手を繋ごう、ぴったりくっついて過ごそう。

 誰にも邪魔されることなく、ふたりで……。

 ぐふっという気味の悪い声を漏らした自分に驚き、こんな反応を見せたらまた葵に気持ち悪いと言われるな、と自分で自分に引いてしまった。 
 

 なんにせよ、葵とデートできる。

 恋人なら当たり前のことがお預けにされ、飢えた獣が血肉を欲するように恭平も葵が不足して喉が渇きを訴えていたのだ、嬉しくないはずがない。

 日曜日、存分に喉を潤そう。

 その日を待ちわびて、恭平は学校で葵を見つめるだけの苦行に見事耐え抜いたのだった。

 
 朝から張り切ってお洒落をして、駅で葵と落ち合う。

 葵は細身のデニムに秋らしいシックなロングカーディガンを羽織った姿で現れた。

 前髪さえなければそのまま雑誌の表紙を飾れそうだ。

 肩肘張っていないのに、着飾っている感がなくて、アイテムをさらりと着こなしているのが最高に格好いい。

 ファン垂涎もののReonの普段着姿に、もれなく恭平もしばらく見惚れていた。

 じろじろと観察されて、葵が唇をへの字に曲げる。

「なんだよ」

「いやあ、様になってるなあ、と思ったっていうか……」

「……?」

 ファン心が理解できないのか葵は不思議なものを見る目で恭平を眺めて小首をかしげる。

 おほん、とわざとらしく咳ばらいで一区切りつけると、何食わぬ顔になって「行こうか」と駅に入っていく。

 素直にあとをついてくる葵を連れて電車に乗り込み、短い旅を経てショッピングモールがある駅に到着したので下車する。

 歩いて5分ほどでショッピングモールに辿り着いた。

 広い道路には駐車場の空き待ちの自家用車が列をなしている。

 広大な店内に入ると、映画館がある3階フロアへと向かう。

 休日の午前とあって、家族連れや恋人でごった返す中をかき分けて歩くほどの盛況ぶりだった。

 映画館の入口に差しかかったとき、「玲音?」と葵を呼ぶ聞き覚えのある声が恭平の耳に届いた。

 とっさに振り向くと、そこには満面の笑みの飯島風澄が立っていた。

「わお、すごい偶然、玲音と、高部くん?
 ふたり一緒だった、の……」

 飯島の声が尻すぼみになっていく。

 その理由を察して恭平は慌てて繋いでいた手を離した。

 しかし、時すでに遅し。

 離れたふたりの手を目で追いながら、飯島が引きつった笑みを浮かべる。

「……間違ってたらごめん。
 もしかして、ふたり、付き合ってる?」

「あ、いや、その……」

 しどろもどろになっている恭平の様子から焦りが伝わり、しかしふたり揃って積極的に否定はしなかったことから、飯島は全てを理解してしまったようだった。

「これは、その、違うんだ」

 なおも言い訳を重ねようとする恭平を飯島が制した。

「わかった、極秘交際、ってところか。
 学校のみんなに知られたらおしまいの秘密の関係」

「それは、その……」

 もはや恭平は否定することを諦めていた。

「誰にも知られたくないんだろ?
 だから学校から離れたところでデートしてるわけだ。
 じゃあ、僕も秘密は守るよ。
 でも、奥手の玲音に付き合ってる相手がいたなんてね、びっくりだよ」

 飯島が顔に貼り付ける笑みが作りものめいて見えて、恭平は寒気をおぼえる。

「風澄は、どうしてここに?」

 葵が問うと飯島はさらに笑みを深め、それがまた不気味に見えて恭平の背筋を冷たいものが這い上がる。

「僕も映画館に用があってね。
 もしかして、同じ映画観にきてたりする?
 それならすごい奇遇だよね。
 運命を感じるよ。
 もちろん、玲音と僕のね」

 恭平は疑問に感じる。

 本当に、偶然に鉢合わせになった、それだけなのだろうか。

 いや、今日恭平たちがここにくることを飯島は知らないのだから、偶然、そう考えるのが普通だろう。

 しかし、本能が警鐘を鳴らす。

 飯島の葵への執着心は普通ではない。

 1番知られてはいけない人間に知られてしまった。

「本当に同じ映画を観にきてたんだね、本当運命だよね」

 恭平が恐怖にも似た思いで足をすくませていると、そう言いながら飯島が葵の肩を抱いて歩きはじめた。

「高部」

 葵が振り返り恭平を呼ぶ。

 やっとのことで足をもつれさせながら恭平も歩き出す。

 大迫力のスクリーンに映し出されるアメリカのアクション映画を、なぜか3人仲良く並んで鑑賞する羽目になり、そのあとも3人揃って店内をうろつき、昼食をフードコートで摂り、結局夕方になって電車で最寄り駅に帰ってくるまで当たり前の顔をして飯島はついてきた。

「玲音の家、僕のうちの近所だから、高部くんとはここでお別れだね」

 駅前でそう言うなり、飯島は恭平を置き去りにして葵と一緒に帰路についた。

 残された恭平は遠ざかる葵の姿を見送りながらしばらく放心して動けなかった。


 翌日、前日の消化不良を抱えたまま登校すると、廊下で飯島と鉢合わせた。

「おはよう、高部くん。
 昨日は邪魔して悪かったね」

 普段通りの明るい笑顔で少しも罪悪感を感じていない様子の飯島が軽く手を上げて恭平のそばで足を止める。

「僕さあ、モデル業に復帰しようと思うんだよね。
 そうすればもっと玲音といられる時間が増えるし」

 突然の宣言に恭平は面食らう。

 なぜそんな話を自分にするのか。

「玲音と付き合ってるってことは、高部くんは玲音の正体を知ってるってことだよね?」

「Reonのことか?」

「知ってるんだね。
 玲音、相当君に心を開いているんだな。
 いつそれを知ったの?」

「いつって……。
 夏休み前、だったかな」

「なあんだ、そんなに最近なのか。
 じゃあ僕の方が玲音のことはよく知ってるってことだね」

「……なにが言いたいんだ?」

 恭平が嫌悪感を必死に押し殺しながら問うと、飯島は猫のような瞳を細めて恭平を睥睨した。

「ねえ、高部くんさ、皆本くんに聞いたんだけど、玲音をいじめてたんだよね?」

 うっ、と恭平の息が詰まる。

 飯島はさらに恭平に近寄ってきて、耳元に息がかかるほどまで顔を近づけると、底冷えのする声でささやいた。

「玲音をいじめている卑怯な人間と、付き合わせるわけにはいかないな。
 君は、玲音の恋人に相応しくないよ。
 今すぐ別れてくれないか」
 
「……え?」

「君、玲音をいじめからかばうこともしなかったんだろ?
 皆本くんに逆らえなかった、自己保身、自分が1番可愛いんだよね」

 辛辣な飯島の言葉に、はっと恭平は顔を上げ言った。

「いじめを止めたいとは、思っていたんだ」

「でも、玲音の身代わりになる度胸はなかった、違う?
 それなのに、玲音と付き合う?
 玲音が許しても、僕は君を許せないし許したくない。
 金輪際玲音には近づかないでほしい」

 飯島は冷たい目で恭平を射抜きながら言い返した。

「玲音は、渡さないよ」

 飯島は目を見開いたまま言葉を発せない恭平から身体を離し、不自然な笑みを作り身を翻すと教室へ入って行ってしまった。

 おはよう、と飯島が迎え入れられる声が幾重にも聞こえてくる。

 恭平は重さを増した身体で巨大な岩のごとく廊下に立ち尽くし続けていた。

──なにも言い返せなかった、飯島の言うことは正論だ。

 恋人である葵をいじめから救うことすら自分はしなかった。

 責められて当然のことをしたのだ。

 飯島は、あんなにも簡単にいじめを止めさせることをやってのけたのに。

 『卑怯』。

 その言葉が重くのしかかる。

 恭平という人間を表す最も的確な表現がその言葉に集約されているような気がした。
  
 重くなった足を引きずりながら教室に入ると、例のごとく飯島が葵にべったりと張り付いていた。

 その様を直視できず、恭平は葵から顔を背けながら席につく。

──自分に葵の恋人になる資格はないのかもしれない。

 そんな暗澹たる思いが胸の中深くに根を張った。
 

 すっかり自信喪失気味になった恭平は、葵へと連絡することすらも躊躇うようになっていた。

 葵には、飯島が相応しいのではないか。

 飯島も、どうやら葵のことが好きなようだ。

 恭平の知らない葵を、飯島はつぶさに見てきている。

 どんな環境で葵が育ったか、恭平にも明かさないであろう葵の心の奥深くまできっと飯島は知っている。

 そんな相手を敵に回して、果たして勝てるものなのだろうか。

 満足に葵と話せず、ストレスが澱のように溜まっていくばかりだ。

 うじうじと悩んだ恭平が葵にメッセージを送らなくなってから3日が経過した。

 すると珍しく葵の方からメッセージを送ってきた。

『高部、おれ、なにか怒らせるようなことした?』

 メッセージを読んだとたん、恭平は反射的に返信を返した。

『怒ってない』

『本当?
 しばらく話してないし、連絡もなかったから、怒らせるようなことして嫌われたのかと思った。
 浮気が本気になったのかなって』

『だから!
 浮気なんてしてないって!
 まだそんなこと疑ってるのか!
 俺は葵一択だって!』

 葵のどこかずれたメッセージに、思わず突っ込みを入れる。

『そっか、よかった。
 高部に嫌われることが1番辛いから』

──それはこっちの台詞だよ。

 久しぶりに恭平の唇が綻ぶ。

 1番嬉しいことをこんなにもさらりともたらしてくれる葵は、もしかしたら人たらしの素質が備わっているのかも知れない。

 本人は一生気づかないかも知れないが。

 葵はまだ自分のことを思ってくれている。

 胸がじんわりと温かくなって、勢いに任せてメッセージを作成する。

『デートしたい』

『うん、おれも』

『飯島が邪魔しないところで』

 すると葵からの返信がぴたりと止まった。

──しまった、飯島を邪魔者扱いしたことに怒ったか?

 恭平が内心焦って冷や汗をかいていると、ようやくスマホが陽気な音を立てた。

『今度の休み、風澄がモデルのオーディションに行くって言ってたから、そのときなら大丈夫かも』

『じゃあ、決まりだな。
 葵と会えるならどこでもいいよ』

 そのメッセージには恭平の恥ずかしいほどの焦りと切望が込められていた。

 贅沢は言わない、葵と会わせてくれ。

『じゃ、また連絡する。
 おやすみ』

『うん、おやすみ、葵』

 葵からのメッセージが記録されたスマホを後生大事に抱えてベッドに寝転んだ恭平の胸に久々に灯りがともった。

──好きだって、言えばよかったかな。

 恋人同士といえど、お互いの気持ちを確認し合うことは大事だ。

 過信すると、相手の本音が見えなくなる。

 小さな変化にも気づけなくなる。

 心が離れてしまってから気づいても遅いのだ。

「葵……離さない」

 真っ白な光りを投げかけてくる照明に右手を高く掲げ、決意を掴むように、ぐっと拳を握った。

 
 やっとのことで葵とデートの約束を取り付け、迎えた休日。

 このデートを取り付けるまで紆余曲折あったため、感慨もひとしおだった。

 主な苦労は飯島による妨害に尽きたが。

 映画館で出くわしたあの日から、飯島は恭平を敵視し、葵への執着を隠そうともしない。

──三角関係。

 そんな映画やドラマでしか聞いたことがない言葉がよぎる。

 気分よく鼻歌なんて歌いながら待ち合わせ場所で葵を待つ。

 約束の時間が過ぎても葵が現れないことに首を傾げながら、それでも上機嫌に葵を待ち続けた。

 1時間が経った。

 スマホに目を落とした恭平は、さすがにしびれを切らし葵へ電話をかけた。

 何回かコール音がして、不意に通話状態になる。

「葵?
 どうしたの、なにかあった?」

 電話の向こうの葵が戸惑っているのが息遣いでわかった。

 がさがさとノイズがして、葵が移動していることがわかる。

『ごめん、高部』

 ひそひそ話でもするかのように、くぐもった声で葵が謝ってきた。

 ただならぬ気配を感じ、恭平は不吉な予感に眉をひそめる。

「なんかあったの?」

『風澄がね』

 恭平は天を仰ぐ。

──また飯島か。

『風邪引いて、熱があるんだ。
 今、風澄の親が家を空けてて、呼び出されたんだよ。
 ひとりにするのは心配だし、おれだけでもそばにいてあげないと……。
 先に連絡できなくて本当ごめん、待ってたよな』

 恭平の胸にどす黒い感情が溜まっていく。

──言ってはいけない、でも言わずにはいられない。

「俺より、飯島の方が大切なの?」

 葵が息を呑む気配がする。

 しまった、と思ったが、もう遅い。

『風澄は大事な幼馴染みだから断れなくて放っておけなくて……』

 眉をハの字にして困っている葵の表情が容易に浮かぶ。

 責めるつもりじゃなかった、こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

 葵が悪いんじゃない、そう伝えたいのに、言葉が続かない。

 髪をかきむしりながら、恭平は通話を切った。

 これ以上話し続けたら、もっと致命的な言葉を口走ってしまいそうで怖かった。

 だから、こうするしかなかった。

 葵の気持ちを推し量る余裕すら、恭平は持っていなかった。 
  
 
 一方的に電話を切ったあの日から、あっという間に1週間が経ってしまった。

 はじめての喧嘩。

 いや、恭平の心が狭いゆえに起きたただの逆恨み。

 熱を出していたという飯島は、あの日の翌日にはけろりとした様子で登校していた。

 そしてべったりと葵に張り付き楽しそうに学校生活を送っている。

 教室で葵は恭平を見ないし、連絡を取ってくることもなかった。

──終わってしまったのかな、俺たち。

 勝手に終わらせたのは自分だ。

 葵を責めるなんてお門違いな話で、だから恭平は今自分を責めて責めて責め続けている。

──自分が大嫌いだ。

 絶望に打ちひしがれていた恭平のもとに、葵からメッセージが届いたのは本格的に恭平が自分を呪いはじめたころだった。

『高部、まだ怒ってる?
 謝らせてほしい』

 昼休み、葵からそんなメッセージが送られてきた。

 惣菜パンを自分の席で食べながらスマホを眺めていた恭平は、突然のメッセージに目を疑った。

 当の葵の方へ目を遣ると、相変わらず正面の席に陣取った飯島が葵に話しかけているところだった。

 机の下に隠された葵の手にはスマホが握られていた。

 飯島の話を聞き流しながら、恭平に連絡を取ってきたのだ。

 なんだか勝ち誇った気分になって、恭平の心が久方ぶりに息を吹き返し鼓動が躍る。

『謝るのはこっちだ。
 葵はなにも悪くない。
 嫉妬に駆られてお前の言い分を聞こうともしなかった俺が悪い。
 本当にごめん。
 できれば直接会って話したい』

 思いの丈を綴ると、すぐに返事があった。

『今日の放課後なら大丈夫。
 今度はすっぽかすようなことは絶対しない。
 風澄になにを言われても高部を優先するよ』

 小躍りしたい衝動をぐっと堪えていると、ちらと盗み見た葵と正面から目が合った。

 口元だけで、葵が恭平に笑いかけた。


 待ちに待った放課後、珍しく飯島はさっさと教室をあとにした。

 高校から少し離れた場所にある公園のベンチに座っていると、遅れて葵がやってきた。 
  
 葵はもう皆本にいじめられているわけではないのだから交際を隠す必要はないのかもしれないが、ふたりは関係を公にするつもりはなかった。

「葵、この間のこと、本当ごめん」

 ベンチから立ち上がるなり、恭平はぺこりと頭を下げる。
 
「いや、デートすっぽかしたのはおれだし、高部はなにも悪くない。
 怒って当然だよ、ごめん、悪かった」

 葵も頭を深く下げる。

 しばらくその体勢でいたが、真剣な顔で頭を下げ合う自分たちの滑稽さに、ふたり同時に噴き出した。

「この話はこれで終わり、かな」

 葵の言葉に、恭平も苦笑しながら同意する。

 改めて並んでベンチに座り、話せなかった時間を埋めるように会話を弾ませた。

 他愛のない話をしていると、恭平は葵の違和感に気づき首を傾げた。

 葵がなにかを言い出そうとして躊躇っているように見えたからだ。

「葵、なにかあった?」

 恭平が水を向けると、葵は躊躇いながらもごもごと話しはじめた。

「実は、俳優をやらないかって誘われているんだ」

「は、俳優?
 俳優って、あの俳優?
 ドラマとか映画とかに出る、あの俳優?」

 恭平が目を丸くして畳み掛けると、葵は呆れたのち、小さくため息をついた。

「それしかないだろ、俳優なんて。
 おれはモデルを続けられるだけで満足なんだけど、映画監督からオファーがあったらしくて、事務所の人からやったらどうかって言われてて」

「迷ってるのか?」

「うん。
 おれにそんなことができる自信はない。
 けど、自分を表現することには興味があって……。
 モデル以上に自分の欲求を満たしてくれる気がするんだ」

「やれよ、それ!
 葵はReonなのに自己肯定感が異常に低い。
 認められているのに、自分に自信が持てない。
 きっと葵の承認欲求を満たしてくれる。
 葵、世界はお前を必要としているんだよ!」

 前のめりに説得を試みる恭平に、若干引きながらも、葵は、そうかな、と呟いた。

「そうだよ、絶対そうだ!
 俺が憧れたReonはなんでもできる!
 お前なら絶対できるよ、葵、すごいことじゃないか!」 

「いいのかな、おれなんかがやっても……」

 恭平に太鼓判を押されても未だ葵は踏ん切りがつかないようだった。

 『Reon』は、メンズ雑誌の専属モデルでありながら、男性のみではなく女性の知名度も高く、老若男女からカリスマ的人気を集めている。

「どんな映画なんだ?」

 恭平に訊かれ、葵はかいつまんで映画の内容を説明した。

 葵にオファーしたという監督の名前が恭平も知っているほどの有名人だったので、さらに恭平は驚かされた。

 早くも沈みはじめた橙色の太陽の残滓を眺めながら、葵は大きくうなずいてみせた。

「頑張ってみるよ、足を引っ張らないように」

「うん、応援してる。
 葵なら、きっとできる」

 恭平は葵の手を握ると、自分の魂でも込めるかのように力を入れた。

 葵は恥ずかしそうに小さく笑った。


 秋も深まりつつある朝、教室に入ってきた男子生徒を認めた生徒たちが、一瞬静まり返ったあと、破裂するような歓声が渦を巻いた。

「Reon、Reonじゃん!」
「なんでReonがここにいるの!?」
「つーか、なんでうちの制服着てるの!?」

 悲鳴のような声が木霊し、騒ぎを聞きつけた他のクラスの生徒までがやってきて、平和ないつもの朝の光景は、興奮の坩堝に陥った。

 教室のドアの前で立ち尽くすのは、長い髪をばっさりと切った葵だった。

 葵からは、いつも見せる陰気な雰囲気は取り払われ、輝くような美貌のReonがただそこにいた。

 主に興奮しているのは女子で、きゃあきゃあと飛び上がりながらReonを取り囲んでいる。

 教師まで駆けつけてきて、なにごとかと目を丸くする。

 ゆっくり立ち上がると、恭平は悲鳴の隙間に冷静な声を差し込んだ。

「それ、葵だよ」

 その声に群がった生徒たちが、ばっと一斉に恭平の方を振り向く。

「はあ?
 なに馬鹿なこと言ってんの?」
「葵って誰だっけ?」
「笑えないって、そのボケ」

 冷たい視線を向けられている恭平に助け舟を出したのは飯島だった。

「本当だよ、Reonは葵玲音だ」

 きっぱりと言い切った飯島の言葉に、生徒たちが騒然とする。

「うそ、でしょ……あのReonが……」

 Reonこと葵は、いつものように言葉を発さないまま、ただ戸惑ったように立ち尽くすばかりだ。

 その様に葵の欠片を感じ取り、だんだんとReonが葵であると認める雰囲気が生徒たちに浸透していく。

「なんだ、葵、言ってよね。
 あたし、Reonの大ファンなの、サインちょうだい」
「あ、ずるい。
 あたしだってReonが表紙の雑誌必ず買うくらいファンなんだから」
「実は葵がイケメンだってことに気がついてたよ、あたしは」
「格好いい、本当に格好いい」
「神々しい、見惚れる」

 クラスメイトたちのあまりの変わり様に唖然とし、恭平は葵が正体を隠していた理由に納得させられる。

 手のひら返しだ。

 みんな、葵の見た目しか見ていない。

 こうなることを、葵は嫌っていたのだ。 

 初めての映画の撮影がはじまるため、葵は髪を切らざるを得なくなった。

「葵、なんで急に髪切ったの?」

 その質問に、葵ではなく飯島が答えた。

「Reonが映画に出るからだよ」

「映画!?
 マジで?すごい!
 絶対観に行く!」

 またもはしゃぐ声があちこちから上がる。 

 始業の時間となり、葵に群がっていた生徒は教師に促されて仕方なく散っていく。

「葵、あとで一緒に写真撮って、SNSに上げていい?」

「いや、それはちょっと……」

 葵が困惑気味に言うと、「わあ、Reonが喋った!」とまたも黄色い歓声が上がった。

 もはや授業どころではない。

 突然降りかかった予想だにしないReonの出現に、学校中が熱に浮かされていた。

 Reon見たさに学年、男女問わず生徒がやってきて、スマホで撮影会がはじるという、お祭り状態になった。

 さすがというべきか、Reonの見た目をしてスマホとはいえカメラを向けられると、葵はReonの表情になる。

 休み時間になるたびに、撮影会が繰り広げられる熱狂ぶりだった。

 その隣では、なぜか飯島が鼻高々でマネージャーのごとく撮影会を仕切っている。

 飯島もモデルに復帰したと聞いている。

 恵まれた容姿のふたりをカメラに収めている女子の姿も散見された。

 恭平はそのお祭り騒ぎを、ただ遠巻きに見ているだけだった。


 『Reon』の俳優デビューはネットニュースでも伝えられ、世間の注目を浴びることになった。

 Reonを指名した映画監督は、恭平が恋い焦がれた、Reonのあの世間に挑みかかるような挑戦的な瞳を見て惚れ込んだのだという。

 主演ではないにせよ、Reonの起用は話題性としては抜群のインパクトを与えた。

 映画の撮影がはじまり、葵は学校を休みがちになった。

 モデルの仕事とはまるで違う環境に、戸惑いつつも食らいついている、と恭平とのメッセージのやりとりで葵はそう語った。

 撮影がはじまってからは、なるべく連絡を控えるようになった。

 葵は、どうやらいわゆる憑依型の俳優のようで、殺人犯役という難しい役をこなすため、神経を極限まで研ぎ澄まし集中している。

 自分からの連絡で葵の集中力を途切れさせてはいけない。

 もう、葵は自分だけのものではない。

 日々伝えられるReonの動向に、世間からの関心は高まるばかりだ。

 きっと葵は、自分の手の届かない存在になるに違いない。

 そんなとき、自分は葵が安心して帰る場所でありたい。

 自分の前でだけは弱音を吐いてほしいし、頼ってほしいし、わがままを聞かせてほしかった。

 今は、疲れた葵を癒やす恋人という存在であればいい。

 
 ほぼ一ヶ月をかけてReonの撮影期間が無事終了した。

 学校の試験や本業のモデルの仕事の他にモデル以外の仕事も受けるようになり、雑誌のインタビューなどメディアへの露出で、葵は多忙を極めた。

 その人気は、ぐんぐん上昇をはじめ、寡黙なReonが醸し出す世間に馴れ合わない姿勢が新鮮に映ったのか、忖度ばかりで骨抜きになった社会に甘んじることのない象徴的存在として扱われるようになっていった。

 監督は、Reonは間違いなく天性の役者だと手放しで絶賛し、映画の公開を待つ声が日に日に高まっていた。

 
 Reonをめぐる狂想曲が一段落ついたあと、ようやく恭平と葵はふたりきりで会うことになった。

 場所は初めてデートしたあのクラシックなカフェだ。

 葵はサングラスをかけロングコートをはためかせてカフェにやってきた。

 Reon全開で後光すら差している葵に恭平は緊張して直視できない。

 店内に人がいないことを確認すると、サングラスを外して葵がため息をついた。

「お疲れ。
 なに飲む?」

 恭平が普段通りを心がけて訊くと、「コーヒー」と葵がコートを脱ぎながら言った。

 落ち着いたジャズが流れるカフェで見る葵は、これまで恭平が知る葵とは別の顔をしていた。

 自分が評価されている自覚に目覚め、その瞳には自信のようなものが窺える。

 その意志の強い瞳に、逸らすことなく真っ直ぐに恭平を映していた。

 恭平がたじろいでしまうほどの迫力。

 前髪で自分の存在すらも隠していた一ヶ月前の葵は、どこにもいなかった。

 恭平は一抹の寂しさに襲われる。

 自信をつけさせるために俳優に挑戦しろと背中を押したのは紛れもなく自分だ。

 葵なら俳優の仕事だって上手くこなせるだろうと思ったし、実際葵はそれに相応しい評価を得ている。

 葵が遠い存在になることなど、わかりきっているはずだった。

──それでも。

 葵を独り占めできたかつての日々が懐かしい。

「どうだった?
 映画の撮影は」

 葵は気だるげに頬杖をつきながら答える。

「……大変だった。
 モデルの仕事とは全然違うし、ものすごい数のスタッフに囲まれて演技するのは相当集中して自分の世界に入らないといけなくて、出番も台詞も大してないのに、緊張しっぱなしだった」

「監督はすごい評価してるみたいだけど?」

「お世辞じゃないかな。
 公衆の面前で、こいつは駄目だ、なんて言わないだろ」

 恭平は思わず噴き出す。

 ネガティブな思考はまだ葵の芯から離れていないようだ。

「でも、これからは気楽に手を繋いで歩けないな」

「……そうだな。
 事務所の人にも注意された。
 今が大事なときなんだから、プライベートも気をつけるようにって」

「男と付き合っているなんて、口が裂けても言えないな、こんな秘密」

「偏見だよ、男同士で付き合ったって犯罪じゃないだろ」

「世間は色眼鏡で見る。
 絶対知られちゃいけない、葵、俺たち、しばらく会うの、やめよう」

「……え?」

「距離を取るんだ。
 今日はそれを伝えるために呼び出した」

「わ、別れるってことか?」

「そうとってくれて構わない。
 もう、葵に俺は必要ない。
 ひとりで充分やっていけるよ。
 葵、これはお前のためなんだ」

 葵は明らかに動揺している様子だった。

 恭平はぐっと奥歯を噛み、拳を握りしめる。

「おれのためって……。
 なんでそれが別れることになるんだよ?」

「葵は今、1番大事なときだろ。
 葵は成功するべきだ。
 そこに俺がいたら邪魔になる」

「高部はそれでいいのか?
 おれの気持ちはどうなる?」

「お前のためなんだよ、葵」

 恭平は機械的にそう繰り返す。

 葵は駄々っ子のように首を振った。

「納得できない。
 おれは背中を押してくれた高部に頑張ってる姿を見せたくて、必死にやってきたんだ。
 それなのに……。
 おれのこと、嫌いになったのか?
 やっぱり浮気が本気になったのか?」

「まあ、そんなところだ」

「……え」

 否定してくれることを期待していただろう葵の顔が一瞬で絶望に変わる。

「高部……本当なのか?
 おれが仕事ばかりして、高部のことないがしろにしたから?」

「葵、お前は悪くないよ。
 ただ、俺が心変わりしてしまった、ただそれだけだ」

「……そんな……」

「忙しいのに呼び出して悪かった。
 じゃあ、そういうことだから」

 恭平は葵の顔を一切見ようとしないまま席を立つと、さっさと店を出ていった。

 葵は呆然と座ったまま、恭平が消えたカフェのドアを見つめることしかできなかった。



 カフェをあとにした恭平は、堪えきれずその場にしゃがみ込むと、両手で顔を覆った。

 歯を食い縛った隙間から、嗚咽が漏れる。

 両目からは涙が次々と頬を伝った。

──葵のためだ。

 その1言で自分を支えるように、何度も頭の中で呪詛のように繰り返す。

 そうしていないと、心が壊れてしまいそうだった。

 破裂して、ばらばらになって、もう元には戻らない。

──戻らなくてもいいか。

 葵とともに人生を送れないのなら、生きていく意味を見い出せない。

 このまま葵のことをさっぱり忘れてしまえば、また新しい人生が開けるだろう。

 ただ、それを受け入れるまで時間はかかるかもしれない。


 ひたすら泣き続ける恭平のポケットで、スマホが震えた。

 乱暴に袖で涙を拭うと、電話の主を確認する。

──皆本彩人。

「……はい」

 震える声を必死に抑えながら応答すると、くぐもった皆本の声が言った。

「恭平、会いたい」



 時間は半月ほど遡る。

 慣れない映画の撮影に追われている葵への連絡を我慢している、そんな時期のことだった。

 放課後、話があると皆本に呼び出された。

 部室棟のひとけのない一角を指定され、なぜ呼び出されたのかわからず、皆本を怒らせるようなことをしたのかと必死に記憶を探ったが、思い当たる節はない。

 クラスの主役を飯島に明け渡したとはいえ、まだ皆本に逆らう勇気は今の恭平にはなかった。

 まだまだ皆本の影響力は絶大で、皆本のグループは飯島と敵対せず、しかし取り込む機会を虎視眈々と窺っている、そんな状況だった。

 誰につくべきか、情勢を見極めている、クラスメイトはそんな見えない駆け引きをして、腹の探り合いをしている。

 長いものに巻かれる恭平も、探り合いをするひとりだった。

 待ち合わせ場所に到着すると、すでに部室棟のある手入れもされず草木が茂った誰からも忘れ去られたような場所に皆本は立っていた。

「……話って、なに?」

 恭平が恐る恐る切り出すと、皆本は険しい顔で腕を組んだまま恭平を見下ろした。

 恭平の背筋を冷たいものが伝う。

 不自然ではない程度に、周りを見回す。

 皆本のグループの連中が潜んでいる気配はない。

 恭平が危惧するのは、いじめのターゲットが自分に移ることだ。

 葵がReonだと判明した今、皆本がストレス解消にいじめる相手がクラスにいなくなった。

──新たないじめのターゲットを恭平にして、グループで暴行を加える──。

 そんな可能性が恭平の脳裏をよぎり、恭平は警戒した。

 有り得ない話ではない。

 いじめているとはいっても、皆本たちが葵に暴力を振るったことはないから、確率としては低いかもしれないが──。

 青ざめた恭平の顔をしげしげと無言で眺めていた皆本が、おもむろに口を開いた。

「葵、すごいことになってるな」

「……え、葵?
 あ、ああ、そうだな?」

 突然葵の名前が出てきたことに動揺して返事が間抜けなものになってしまう。

 今この状況と葵に、なんの関係があるのだろう?

 訝しんでいると、またも重々しく皆本が話しはじめる。

「高部、お前葵と付き合ってるんだってな」

 恭平は頭をありったけの力で殴られた心地になって、視界がぐらぐらと歪む。

「な、なんでそのこと……」

 言ってしまってから気づく。

──まずい、否定しないと。

 後悔する恭平の狼狽を見て取った皆本は、ゆっくりうなずいた。

「本当だったんだな」

「……ち、違う、今のは……」

「もうわかってる。
 いいんだ、飯島から全部聞いた」

「い、飯島……?
 なんで飯島が?」

 またも恭平が身体の芯がふやけてしまったようにたたらを踏む。

「葵は、今が1番大事な時期だよな。
 男と付き合ってるなんてバレたら一巻の終わりだ。
 そうだな?」

「……そう、だろうけど」

「恋人なら、葵を守りたいよな?」

「そ、そりゃあ……」

「恋人のためを想うなら、自分が身を引くことだって、できるよな?」

 目まいのような感覚のなか、恭平は皆本がなにを言いたいのかわからず眉間にしわを寄せる。

「皆本、なにを……」

「高部、葵との関係をバラされたくなければ」

 皆本が一拍置き、恭平が息を呑む。

「俺と付き合え」

「……はっ?」

 理解が及ばず気が抜けた声で固まる恭平の前で、皆本が顔を赤らめて続ける。

「一目惚れ、だったんだ。
 高部を初めて見たときからずっと好きだった。
 綺麗な顔してるなって、高部を見るだけでどきどきした。 
 こんな気持ち、初めてだ。
 初恋なんだよ」  

 予想の斜め上をいく展開に、恭平は混乱するばかりだ。

「あ、あの、皆本、待って……」

「俺と付き合わないなら、お前と葵のことをバラす」

「待てって、それ……脅しなのか?」

「そうだ。
 お前のそばにいるためなら、どんな手段だって選ばない。
 高部……いや、恭平、俺の恋人になれ」

 見上げるほど長身の皆本が、熱っぽい潤んだ瞳で恭平の返事を待っている。

 選択肢はなかった。

 皆本の表情からはったりではないことが伝わり、全てを理解した恭平は、わかった、と皆本の脅しに屈した。

「皆本と付き合えば、葵とのことを隠してくれるんだな?」

「約束する。
 絶対に恭平に俺のことを好きにさせてみせるから」

 皆本は見たこともないはにかんだ笑顔を浮かべてみせた。

 恭平は喪失感を抱えたまま、葵への想いを封印する決意を固めた。


──そして現在。

 皆本から会いたいと電話があったが、さすがに傷心の状態で誰かと話す気分にはなれなかったので、葵に別れを告げたことを皆本に報告するに留めた。

 カフェから帰宅した恭平のスマホには、葵からのメッセージと着信が何件も入っていた。

 それには目を通さず、片っ端から削除していく。

──もう葵のことは忘れる。

 Reonと付き合うという夢は醒めたのだ。

 数日無視していると、葵からの連絡は止んだ。

 学校でもお互い目も合わせない。

 やがて冬休みに突入し、世間ではクリスマスムード一色になった。

 クリスマスイブ、皆本と会う約束をしている恭平は、待ち合わせ場所の駅に向かった。


 同じころ、都内のスタジオにて、葵はReonとして雑誌の撮影に臨んでいた。

 隣には飯島風澄がいる。

 飯島はReonが専属モデルをつとめるメンズ雑誌のモデルとして活動を再開していた。

 Reonとはまた違う、美丈夫で男性的な色気が飯島にはある。

「玲音、知ってる?
 今日、皆本くんと高部くんはデートするらしいよ」

 撮影現場で、飯島が唐突に葵に耳打ちした。

 葵は表情を強張らせる。

「高部と皆本……?
 じゃあ、高部の本気の相手って……」

「本気の相手?」

「……いや、なんでもない」

「高部くんも節操がないよね。
 玲音を振ったと思ったらすぐに違う男と付き合うんだもん。
 玲音のことも、遊びだったんだよ、きっと。
 別れて正解だったね」

 笑顔で葵の華奢な肩を抱きながら飯島はセットされた葵の髪を甲斐甲斐しく整えてやる。

「風澄……なんでおれと高部が別れたこと知ってるの?」

「え?
 そりゃ、皆本くんから聞いたからだよ。
 玲音、僕、本気で玲音のこと好きなんだ、愛してる。
 高部くんのことなんか忘れて、僕と付き合ってよ」

 突然の飯島の告白に、葵は目を剥く。

「昔からずっと好きだった。
 ずっと一緒にいたかったから、本当は養子になんていきたくなかった」

「ま、待って、風澄……」

「玲音、僕ほど玲音を知っている人間はいない。
 僕ほど玲音を愛してる人間はいない、そう断言できるよ」

 葵はなんと答えたらよいものか、しどろもどろになる。

「高部て、皆本くんと玲音のこといじめてたんだろ?
 それなのに本当は好きだから隠れて付き合おうなんて、虫がよすぎるよ、卑怯だ」

「っ、そんな、高部は卑怯なんかじゃ……」

「卑怯だよ。
 恋人なら身を挺して救うべきだ、違う?」

「……高部だって、悩んでた」

「僕なら命だって賭けられる。
 そこまでの覚悟、高部くんにはないよね」

 言葉に詰まりながらも、葵の脳裏に夏の日の情景が浮かぶ。

 まだ恭平をストーカーだと思っていたあの日、恭平はなんの躊躇いもなく、自分の首を切ろうとした。

 好きだと信じてくれるなら、死ねると言った。

 そこまで狂信的な想いを寄せられたことは葵に多大なる衝撃を与え、恭平のことを本気で考えるようになった。

 他人から愛を注がれることに、身を委ねてみよう、そう思わされた。

──あの恭平が、本当に自分を嫌いになるだろうか?

「聞いてる?玲音」

 葵ははっと我に返る。

「う、うん……。
 まだ風澄の気持ちを受け止めきれないというか……。
 考える時間もらってもいい?」

「駄目、と言いたいところだけど、ちょっとだけなら待ってあげる。
 葵は今、傷心だもんね」

 飯島は、玲音の肩をぽんと叩くと微笑んで、撮影に戻っていった。

 取り残された葵は、聞いたばかりの情報をうまく処理できず、感情の波に呑み込まれ溺れそうになっていた。

 高部と皆本が付き合っている?

 風澄が自分のことが好き?

──高部が、おれを嫌いになるはずがない。

 頭の中でひとつの強い確信にも似た思いがそう結びつく。

 スマホを引っ張り出すと恭平に電話をかける。

 応答はない。

 スマホを乱暴にポケットに押し込むと、居ても立っても居られず、衣装もメイクもそのままにスタジオを飛び出した。

「玲音……」

 そんな葵を飯島が昏い瞳で見つめていた。


 陽が暮れはじめた街中を、葵は駆け回っていた。

「高部……高部、どこだよ」

 息を切らせながら走り続け、何度も連絡を取ろうとするのだが、電話は繋がらない。

 着信拒否をされているようだ。

 こうなってしまえば、あとは自分の足で探し当てるしかない。

 恭平がいそうな場所を片っ端から潰していく。

 街にはイルミネーションが輝き、写真を撮る恋人や家族連れの笑顔が溢れている。

 その横を走り抜けながら、涙を堪えた。

 高部に会いたい。

──おれは、高部を愛している、誰にも渡したくない。

 その想いが葵を突き動かす。

 夕食どきを過ぎたころ、葵は一軒のカフェに辿り着いていた。

 恭平と初めてデートしたあのカフェ。

 恭平に別れを告げられたカフェでもある。
 
 呼吸を整えながらドアを開け、中へ入ると店内を見回す。

 狭い店内で、こちらに背中を向けて座る人物へと近づいていく。

「高部……」

 振り向いた恭平は、葵を見て目を丸くした。

「葵……どうしたんだよ、そんな格好で……」

 葵は、春物の衣装のままだった。

 薄着の葵に、恭平は慌てて椅子にかけられた自分のコートを着せる。

「ごめん……雑誌の撮影中だったから」

「な、なんでそんな格好のままなんだよ?」

 恭平は面食らっている。

「お前が、皆本とデートしてるって、風澄に聞いて、居ても立っても居られなくて……」

「それは……」

 葵がきょろきょろと店内を見渡すが、いつも通り客の姿はない。

「皆本は?」

「適当な理由をつけて解散した」

「なんで、この店にいたんだ?
 本当に、皆本に本気になったのか?」

 このカフェは、ふたりの思い出が詰まっている。

 わざわざ家から離れたこのカフェにいたということは──。

 葵の中で否応なしに期待が膨らんでいく。

「……本気になったよ、皆本に」

 恭平は頑なに葵を突き放す。

「でも……」

 葵が食い下がろうとしたとき、カフェのドアが開き、客がやってきた。

 Reonのままの葵は、とっさにうつむいて顔を隠す。

「飯島……」

 恭平の呟きに、はっと顔を上げると、私服に着替えた飯島が立っていた。

「風澄……なんでここに?」

 飯島は、にっこりと美しく微笑みながら、スマホを掲げてみせる。

 画面には地図が表示されていた。

「GPSか!」

 恭平が弾かれたように叫ぶ。

「だから、映画館で鉢合わせしたんだな、あれは偶然なんかじゃなかった!」

「そうだよ、やっと気づいたの?
 玲音のスマホに仕込ませてもらった」

「え……?」

 葵が呆然と飯島を見つめて声を漏らす。

「お前……やっていいことと悪いことが……」

 気色ばむ恭平に軽蔑した冷たい瞳で飯島がぴしゃりと言った。

「玲音をいじめていた人間に付き合う資格はない。
 高部くんは、皆本くんと付き合う、そうだよね?」

 恭平は一度握った拳を解いてなにも言い返さない。  

「そんな、そんなわけない。
 高部、風澄からなにか言われたんだろう?
 本当に皆本と付き合いたいなんて、思っていないんだろう?」

 すると、葵が恭平の顔を覗き込んで力の抜けた手を握った。

「葵……」

 恭平は手を握り返すと、なにも言えずにうなだれた。

「風澄、高部になにを言ったの?」

 葵に睨まれ、飯島はたじろいだ顔を見せるも、開き直った口調で自分勝手な主張を展開しはじめた。

「僕は悪くない。
 玲音から悪い虫を取り除こうとしただけ。
 皆本くんが高部くんを好きそうだったから、玲音から離すために利用しただけだよ」

「風澄が、皆本になにか吹き込んだ……高部を脅しておれと別れるよう迫った、そういうこと?」

「そうだよ、なにが悪い、僕は玲音が好きなんだから、何をしたって許されるだろ」 

「風澄……残念だよ」

「玲音?
 高部くんは玲音をいじめていた相手だよ、あんなやつより、僕を選べよ。
 絶対に後悔させないから」

 葵はゆっくりと首を振る。

 その態度が信じられなかったのか、飯島は声を荒らげた。

「僕よりそんな卑怯な男がいいっていうのか!」

「高部は卑怯なんかじゃない!」

 葵が感情を爆発させる。

 その迫力に、恭平も、飯島すらも驚愕の面持ちで後ずさった。 

「高部が、皆本を選ぶはずがない。
 同じように、おれも風澄を選ばない」

 飯島の顔が焦燥に染まる。

「そ、そんなの僕の知ってる玲音じゃない」

「そうだ、今のおれは、風澄の知るおれじゃない。
 今のおれには、高部に愛される覚悟があるんだ」

 飯島は、苛立ったように髪を掻きむしった。

「認められない!
 そんなの、許さない!」

「風澄に認められる必要も、許される必要もない。
 おれは高部が好きだ、愛してる。
 モデルの道に誘ってくれたことには感謝している。
 けど、風澄の気持ちには応えられない。
 高部を傷つけるなら、なおさらだ。
 これ以上、おれたちの邪魔をしないでくれないか」

「じ、邪魔?
 僕が、邪魔だって?」

「そうだよ、おれと高部の仲を壊そうとした邪魔者だ。
 そして、おれの信頼を裏切った裏切り者だ」  

 ぐうの音も出ず、飯島が顔を引きつらせている。

「風澄、おれと高部には、誰にも壊されない絆があるんだよ」

「後悔するから」

 まるで怨嗟でも呟くように低く告げたあと、身を翻して飯島はカフェを出ていった。

 静まり返った店内で、飯島を目で追っていた葵が恭平を振り向く。

 恭平は呆けた顔で葵を見ていた。

「……言いすぎちゃったかな?」

 上目遣いで葵が恭平に尋ねると、ぷっと恭平が噴き出した。

「いや、よかったと思うよ。
 これで飯島も俺たちの邪魔はしないだろ。
 それより……葵がそこまで俺のこと想ってたなんて、知らなかった」

 とたんに葵が赤面する。

 恭平は、葵が小刻みに震えていることに気づいた。

 優しく葵の手を包み込む。

「頑張ったんだな」

「うん……怖かった」 

 恭平は我慢できずに葵を抱きしめた。

「苦しいよ、高部」

「今、自分がどんな格好か忘れたのか?
 目立ちすぎなんだよ、バレたらどうする。
 だから、隠してやってんの」

 くすりと葵が笑う気配がする。

「くっつきたいだけだろ」

「そうとも言う。
 否定はしない」

 一度身体を離すと、互いに見つめ合う。

 顔が近づいて唇を重ねる──直前に、咳ばらいが聞こえて、ふたりは顔を離した。

 振り返ると、カフェのカウンターの向こうの店主が険しい表情でふたりを睨んでいた。

「す、すいません」

 恭平が慌て詫び、葵の手を取って気まずい空気を入れ換えるようにドアを開け、店から転がるように脱出した。

「……あのカフェ、しばらく行けないな」

 恭平が頬を掻きながら嘆息すると、恭平のコートに包まった葵もうなずきで肯定した。

「スタジオに戻らないとまずいな。
 勝手に飛び出して来ちゃったから衣装も返してないし」

「送るよ、Reonに街を歩かせたら騒ぎになるだろうから、タクシーを呼ぶしかないな」

 恭平が捕まえたタクシーに乗り込むと、イルミネーションの輝きがスローモーションのように車窓を通り過ぎていく。

「綺麗だな」

 そう恭平が隣の葵に話しかけると、なぜか葵はうつむいていた。

「葵?」

「……いてなかった」

「え?」

「風澄の前であんな大見得切ったのに、高部の気持ち、まだ聞いてなかった。
 皆本に本気になって、ないよな?」

 恭平は呆れたようにため息をついてみせた。

「葵……。
 俺がどれだけお前のこと好きか、知ってるだろ?
 俺は気持ち悪いほど、お前のことが好きだ、愛してる。
 俺はお前なしでは生きられない。
 お前と別れたのだって、それがお前を救う唯一の手段だったからだ」

「高部……、よかった。
 悪かったな、おれのせいで迷惑かけた」

 葵はReonの顔で、心底安堵したように笑みを浮かべた。   

──ああ、もう、仕方ないな。

 恭平は葵の小さな頭を引き寄せると、その唇にキスをした。

「葵、俺の隣にいてくれ、ずっと、ずっと」

 突然のキスに放心した葵が、はっと周囲に視線を走らせる。

 それを見て恭平が苦笑した。

「誰も見てないって。
 でも、これからも付き合うのなら、やっぱりこの関係は隠した方がいいんだろうな」

「皆本のことは、どうする?」

「なんとか俺が説得してみるよ」

 やがてタクシーがスタジオに着き、スタッフに平謝りした葵が衣装を返し、私服に着替えてから再び合流した。

 クリスマスイブの街を手を繋いで歩く。

 びゅう、と風がうなり、雪の華がちらちらと舞った。

「今年の冬は寒いと思ったけど、まさか雪が降るとはな」

 恭平がぶるりと震えて繋いだ葵の左手ごとコートのポケットに突っ込む。

「でも、寄り添ったら温かいし、綺麗だよ。
 雪も悪くない」

 白く色づいた息の向こうで滲む街の輝きに目を細め、葵は雪がちらつく空を見上げた。

「メリークリスマス、高部」

「メリークリスマス、葵」

 人々が行き交う夜の街を、ふたりはお互いの体温を共有しながらゆっくりと歩いた。


 皆本から恭平に、別れてほしいという旨の連絡があったのは、暮れも押し迫ったころだった。

 恭平が直接会って詳しく話を聞いたところ、飯島から恭平の葵への気持ちが変わらないこと、恭平が葵のためにそうしたように好きな人のためなら身を引けるだろうと説得されたのだという。

 飯島による一種の脅しであったが、飯島もまた、恭平と葵の強固な絆を見せつけられ、葵への想いを封印するために皆本から恭平を葵のもとに返した、そういうことなのだろうと恭平は考えている。


 これから、映画の公開に向けて、葵はさらに忙しくなるだろう。

 会いたいときに会えないことも増えるだろう。

 しかし、距離がどれだけ離れていても、変わらない想いがある。

 確信にも似た強い絆を、恭平は感じていた。

 葵も同じであればいいと願う。

 手の届かない遠い存在になっても、心の距離だけは決して遠ざけない。

 その手を握って離さない。



「高部?」

 元旦を迎えた神社は、人で混み合っていた。

 夜にも関わらずサングラスをかけ、ニット帽を目深にかぶった葵が立ち止まった恭平の手を引く。

 人の波の途中で立ち止まるのは危険だ。

 隣に並ぶと、そっと葵を盗み見る。

 その視線に気づいた葵が不思議そうに頭をかしげる。

 なんでもない、と笑顔を作ると、「なあ、おみくじ引かない?」と話題を振った。

 おみくじが入った箱に手を突っ込み、運命が書かれた紙片を探り当てる。

「よっし、大吉だ!」

 恭平が興奮して叫ぶ横で、葵が沈んだ面持ちになる。

「葵、もしかして大凶?」

「いや、大凶じゃないけど……凶だった」

 すると、恭平が葵の手からおみくじを奪い取り、代わりに自分が引いた大吉のおみくじを握らせる。

「高部、それは……」

「いいの、大吉も凶も半分こ。
 良いことも悪いことも、乗り越えていこうってこと」

「……わかった、ありがとう」

「明けましておめでとう。
 今年もよろしくな、葵」

「うん、おめでとう、高部」

 恭平と葵の笑顔がお焚き上げの炎に照らされる。

「帰ろうか」

「うん」

 手を繋ぎ直すと、ふたりは夜の街に溶け込んでいった。