雨が降っている。黒い雨だ。


空に詰まった分厚い雲が、地平線の向こうまで続いている。


鼻を抜ける血と硫黄の臭い、俺を囲む異形の住人、遠くで誰かが喚き、何かが壊れる音がしている。一千年変わらない。俺は辟易としている。

 
まず、目の前の四つ手の男を斬り伏せる。

返す刀で、頭から角を生やした、枯れ枝のような体の男を叩き切る。

右を向く。好々爺の顔を張り付けた毛深い蜘蛛が駆けてくる。

今死んだ男の角をもぎ取り、蜘蛛に放つ。蜘蛛にめり込む。蜘蛛は死ぬ。

背中に鋭い痛みが走る。

「切られた」と頭が理解した直後、俺の腹部から刀の切っ先が3本、突き出ていた。

「刺された」とわかると同時に、振り向く。烏帽子を被った烏の頭が、目に飛び込んでくる。

平安貴族の格好をした、顔だけ烏の人間が3人、俺を取り囲む。

これは死ぬなと思ったが、だからといって問題はなかった。今日はまだ、朝しか死んでいないからだ。

「ふっ」

腹筋に力を入れる。これで腹に刺さった刀は抜けない。烏帽子の烏が一瞬、狼狽した気色を見せた。 


一瞬あれば、5人は殺せる。


右、中央、左の順で、烏の腹部に拳をめり込ませる。

ボッという衝撃音と共に下半身は血潮と化して霧消し、残った上半身が地面に3つ、転がった。


「くそ」と左の烏が漏らした。「この前と同じ殺し方しやがって」

「お前ら兄弟は、いつも攻撃がワンパターンなんだよ」

「私達は姉妹だ」

「そうか。悪いなお姉ちゃん」

「わたしは三女だ」

「そうか。悪いなイスカ」

「名前は覚えてるのか」

「ところでコウ、どうして死なない」地面に転がる、次女のタチコロモが咎めるようにいってくる。


「ああ。なんか大丈夫みたいだ」と腹に刺さりっぱなしの刀を見たあとで、肩をすくめた「死ぬと思ったんだがな」


「思ったんだがな、じゃない。死ぬんだよ普通。修羅道特性の即死毒塗った刀が3本だぞ? 腹だぞ? 阿修羅だって死んでたんだぞ」

「阿修羅と比較されてもな」三姉妹はどうかしらないが、阿修羅なんて今更何体来ようが敵ではない。阿修羅に効いたからといって、それが何だというのか。

「この地の覇者を雑魚扱いかよ」

「バケモノめ」

苦虫を嚙み潰したようにそう吐き捨てると、三姉妹は地面に溶けて消えていった。命が尽きた合図だ。


もっとも、どうせすぐに生き返る。死んで土に還り、蒸気と共に復活する。それがこの世界だ。遅くとも夜には顔を合わすだろう。そしてまた殺し合う。そんな日常がずっと続いている。


気づけば血のしみ込む高台に一人、俺だけが立っていた。


硫酸の雨足は激しさを増し、俺の体にふれるたび、俺の刀に触れるたび、焼けた臭いの煙が上がる。

どうしてこんなところで、こんなことをしているのだろう。


高校の帰りに、猫を助けようとしただけだ。そうして、トラックに引かれた。

まるで漫画のようだと笑っていい。俺自身もそう思っている。


衝突の瞬間、ぎゅっと目をつむり、次に気が付いたら、この世界にいた。

以後千年間、俺はここで来る日も来る日もただ殺し合いを重ねている。



「終わったようだね」


背後から声がし、振り返る。

師匠のアマネが立っていた。

長く美しい赤髪に、黒目がちの瞳。

師匠といっても歳は俺と同じくらいだろう。

ただし、この世界での年季は圧倒的に彼女が上だ。

修羅道と呼ばれるこの世界は、六道輪廻の1つで、前世で業を持った人間が落ちる。

殺し合い、蹴落とし合いが永遠に続くこの世界では、新参者など格好の獲物であり、多くはそこで命を終わらせる。

俺が今日まで運よく生きながらえてこれたのは、最初に出会ったのが彼女だったからだ。



「まさか君がここまで強くなるとはね。私も鼻が高いよ」


「というかな、呼んだ本人が遅れないでくれ。しかもこんな高台で。おかげで、いい標的だった」俺が責めるようにいうと、アマネは「ごめんごめん」と笑った。

まるで子供をあやすようなその態度に、俺は毒気を抜かれてしまう。


「雨が強くなってる。岩陰に行こう」

俺がそう言って、ぬかるむ大地に一歩踏み出そうとした、その時だ。

「待って、コウ」

背後からかけられたアマネの声は、いつになく硬い響きを帯びていた。

俺が訝しんで振り返ると、彼女は真剣なまなざしで空の一点を見上げている。

「なんだ?」とその視線を追おうとした瞬間、ゴォン、という地響きにも似た鐘の音があたり一面に響き渡った。

「?!」

繰り返し鳴り響く鐘音とともに、天蓋を覆う分厚い雲の一点から、眩い光の柱が落ちてくる。


「見て、菩薩だ」


指さす方向を仰ぎ見る。差し込む光の上流に、人影が見えた。影の周囲には、幾重にも重なる光の帯が回転している。まるで原子核にまとわりつく電子軌道だ。


「あれが観音菩薩…」

ゆっくり、流れるように空中を降りてきた菩薩は、ほとんど音もなく、血の染みる地面に着地した。


麻のシャツにロング丈のカーディガンを羽織っていた。緩いウェーブのかかった髪がわずかに風で揺れている。切れ長の目と細く長い手足、宇宙を閉じ込めたような瞳が煌めいていた。


ゆったりと、菩薩は足を踏み出す。すると着地しようとする場所に春のような草花が生えていく。俺達はしばらく無言でその姿を見つめていたが、ふいにその視線に気づいたようにこちらに顔を向ける。そして俺の顔を認めるやいなや「ぶふ」と吹き出し、こちらに指を向けてきた。


「え、ちょ、君なんでこんなとこいるん?笑」


驚くほど軽快な菩薩の態度に、俺は少々面食らう。

高校に通っていた頃、俺は日本史が得意だった。特に美術史が好きで、「この絵画はいついつに描かれたもので」とか「この仏像は誰々の作品で」とかよく先生に教えてもらっていたが、観音菩薩の性格までは教えてもらっていなかった。


「え、これどういう状況? マジどういう状況? 業のない子が修羅道にいるのマジイミフなんだが?」

「わかるのか?」

「菩薩なめんなし。こちとら救いで飯くってんじゃい!笑 誰がどこにいるべきかなんて全部わかってるっての」

それが本当ならすごいが、この軽薄な青年にそんな芸当ができるのか? 

俺が訝しんでいると、「コウ、猫を助けにトラックに飛び込むような君が、ここに連れてこられるはずはないんだが」と思案投げ首に菩薩が唸ったので、認識を改める。なるほど確かに、こちらのことはわかっているようだ。


「観音様、彼はある日突然、ここに落ちてきたのです」首をかしげる菩薩に、アマネがいう。

「は? まじぽんそれ? いつ落ちた?」。

「1000と32年前だ」

「おけ。ちょい待ってろ。とりま人事部殴ってくる」

観音様はポケットからスマホのような端末を取り出し、数回操作して、そのまま一度消えた。しばらくして、ふたたび現れる。


「コウ。回りくどくいう悪い知らせと、端的に言う悪い知らせ、どっちがいい?」

「端的に言う悪い知らせ」

「君がここに落ちた原因は、人事部の手違いだった」


それは、まるで他人の話を聞いているようだった。

自分が苦しんだこの1000年が、単なる誰かのうっかりミスだったというのだから、本来ならば怒るべきところだったのだろう。

あるいは、くやしさに打ち震えるとか、自分の不運さをこれでもかと呪ってもよかったかもしれない。

放心状態となり、乾いた笑い声を漏らすということだって考えられた。

けれど、俺はそのどれにも当てはまらなかった。

自分のことなのに、自分事ではないような、この上ないほど理不尽な仕打ちを受けているのに、なんの仕打ちも受けていないような、そんな感覚だった。

この世界に身を置きすぎて、もはや感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。

結局、「そうか」とだけ、俺はつぶやいた。「そうか。わかった」


「そもそも君はあの時死んでいない。トラックはギリギリで君をよける運命だった。それがどういうわけか死亡認定され、ここに落とされた。私も気づけなかった。完全にこちらのミスだ。すまん」

「俺は帰れるのか?」

「当たり前だ。いつ帰る? どうせなら帰還前に人事部寄って、一緒にもう2~3発殴っていくか? 大丈夫、怒ったりしてこないよ。だってあいつら悟り開いてるから笑」

「いや、それはいいんだが…」

「なら、すぐに帰してあげてください」そう言ったのはアマネだった。

「お、おい」

「オーケー。そっこー帰してやる」

観音様はタブレットを取り出すと、なにやら操作を始めた。しかしすぐに顔をあげ、「つかよく生き残ってたな笑 やるじゃん笑」と俺の肩をフレンドリーに叩いてくる。


この菩薩…ホントに悪いと思っているのか? 
いや、俺が落とされたのは彼のせいではないし、むしろ救ってくれたのだから苛立つのはさすがにお門違いかもしれない。


「よかったね、コウ」

「アマネ、俺は」

「コウ、君がこの地で来る日も来る日も戦ってきたのは、いつか元の世界に帰るだめだろう?」

「それは」それは、そのとおりだ。


俺にはどうしても元の世界に帰らねばならない理由がある。そのために「常に闘争し続ける」という馬鹿げだこの世界のシステムに付き合ってきた。

しかしこの間、本当に欲しい帰還の手がかりは一切手に入れることができず、かわりに、強靭な肉体と殺傷技術という、心底どうでもいい能力だけが手に入った。


「私はね、君と初めて会ったときから、ずっと不思議だったんだ。なぜこの子はこんなところにいるんだろう、どうしてこんなところに落ちてきたんだろうってね。まさか、単なる手違いだったとは思わなかったけど」


「わかってたのか。今日ここに、観音菩薩がやってくること」だから、俺をこの場所に呼んだのか? 

そう訊ねてみたが、彼女は「さあね」と肩をすくめただけだった。そして静かに、しかし力強いまなざしで俺に言った。


「コウ、君のいるべき場所へ帰れ。君が私のことを気にして、元の世界に帰るのを躊躇っているのはわかっている。でも私は君に帰ってほしい。君が1000年帰郷を望んだように、私も1000年、君が帰れることを願っていたのだから」


「お前は」と俺はなんとか、声を出す。「お前はどうするんだ? アマネ」

「どうするもこうするも」と彼女は周囲に視線を回す「私はここが気に入っている」

「うそつけ」こんな世界を、気に入る者などいやしない。


俺がさらに何か言おうとしたタイミングで、「おっしオッケ! 準備できたわ!」と後ろから観音菩薩の声が聞こえた。

そして矢継ぎ早に「んじゃ、さくっと転送いっちゃうよ〜」と軽い感じで声をかけてくる。

待て、まだ話は終わっていない。

制止しようとするよりも早く、観音菩薩はタブレットをタップした。直後、俺の体が淡い光に包まれる。

「?!」

「なるはやで頑張った観音様に、あとでナンマイダ~してね~」

「コウ、元気でね」光の向こうで、アマネがいう。

ここまでのようだと、俺はすぐに理解した。彼女との会話の時間は、どうやらこれが最後となるらしい。


「俺はしんみりしないぞ。また会うのなんて簡単だ。向こうで死ぬ前に4,5人殺せばいいだけだ」元の世界といっても、たかだか数十年だ。こっちの世界の感覚でいえば、ちょっと旅行してくる程度の別れにすぎない。


俺がおどけた調子でそう言うと、アマネはぷと噴き出し、それから小さく「ばか」と微笑んだ。

周囲の光が一段と強まった。足元から無数の粒子が舞い上がり、まるで俺を抱きしめるように全身を包み込む。光の向こうの彼女が、見えなくなる。「じゃあな」とつぶやいて目をつむると同時に、暖かい風と眩い輝きが体を貫いた。


次の瞬間、真っ白い空間に身を置いていた。目の前の光が放射線状に広がり、俺の後ろに、線状の影を作る。その光は徐々に俺を飲み込んでいき、やがて俺自身と一つになった。光が完全に俺の身体を飲み込む直前、ふと背後からこちらの名前を呼ぶ声がし、振り返る。

目線の先に、菩薩が立っていた。

静かに佇む観音菩薩はこれまでの軽い態度と打って変わって、瞳に深い慈しみを宿しており、無表情とも、微笑んでいるともつかない顔でこちらを見つめ、そして最後、俺が光に飲まれる直前、優しい声音で、こういった。


「よく頑張りましたね」


その声は、あたかも千年分の労いを含んでいたようで、俺はそこではじめて、自分のなにかが救われた気がした。



ーーーーー


【アマネ視点】

先ほどまでコウが立っていた場所を、私は静かに見つめていた。転移は成功したようだった。

「君はよかったのかい?」いつの間にか隣に立っていた観音様に、そう声をかけられる。

「ええ」

「ホントに? 次来るのは、また千年後になりそうだけど」

「構いません」

「アマネ、君は…」

「これが私の罰なのです。そのかわり、どうか、コウのことをよろしくお願いします。あの子は、あれで中々お人好しなところがあるので」

「聞いたよ。日に3度まで死ねるこの世界で、コウは日に4度は殺さなかった。確かに、とんだお人好しだね」

「この修羅の世界で、あの子は命を尊んだのです」
 
彼は満足そうにうなずく。命尊ぶ系の話は、観音菩薩の大好物だ。


観音様が天界へと帰り、高台にいるのは私一人だけになった。空を覆う分厚い雲が、地平の先まで続いている。

耳すませば誰かの息遣いが、聞こえる気がする。それは私のものなのか、私の中のコウのものなのか、自分でもわからない。


コウ、と誰に言うでもなく、声を出す。

が、いくら待とうと、彼の返事が聞こえることはなかった。

「もう会えないと思うと、少し辛い。しかし、君に幸あれ、コウ。わたしの可愛い弟子よ」


ただ遠くで誰かが喚き、何かが壊れる音がしていた。



ーーーーー


【コウ視点】

次に目を開けると、懐かしい光景が広がっていた。

1000年ぶりの日本だ。胸いっぱいに空気を吸い、そして吐く。

帰ってきた。やっと。やっとだ。待ちわびた世界がそこにはあった。

「すごいな…味のしない空気だ」

何が嬉しいって、空気が無味だ。そんなのあたりまえだろうと思うだろうが、いや、実際そうなのだが、空気自体に濃い血とサビの味がついているような世界で生活していた身としては、味がしない空気というのは想像以上にうれしいのだ。

排気ガスと、どこかの飲食店の匂いがするが、俺にとってそんなものは澄んだ空気と変わらない。

自分の体を見る。転移前の制服姿のままだ。

手足の感覚も、あの頃の…いや、中身は違う。研ぎ澄まされすぎた五感と、肉体の奥底に蠢く力が、17歳の器には収まりきっていないような違和感がある。

その時だった。

けたたましい爆発音が、鼓膜を突き破らんばかりに響いた。

反射的に身を伏せる。事故か? どこからだ?

顔を上げると、目の前の光景に我が目を疑った。

数十メートル先の交差点。信号機がひしゃげ、アスファルトが抉れている。

その中心で、スーツ姿の男がふわりと宙に浮き、対峙するセーラー服の少女に向けて手のひらから赤い光線を放っている。

少女はそれを、咄嗟に展開した半透明の壁で受け止めているが、壁には亀裂が走り、今にも砕け散りそうだ。

周囲の一般人は悲鳴を上げて逃げ惑っている。

なんだ、これは。映画の撮影か?

いや、違う。この空気感、力の奔流、殺気。これは、本物だ。

男が空を飛び、女が火柱を放っている。いや、火柱じゃなくて氷か。どっちでもいい。

ここは、俺の知っている日本じゃない。

菩薩の顔と、「人事部のミス」という言葉が脳裏をよぎった。

そして、こみ上げてくる確信。

「――また間違えてんじゃねえか!」

俺の1000年ぶりのツッコミは、爆音と悲鳴にかき消された。