合宿3日目。昨日の雨が嘘のように、朝からスカッと晴れた。
今日は科学部全8名と間宮先生、OBの太郎先生で山に行く。
山とはいえども、基本的にインドア集団なので、ガチな登山などはしない。途中まではロープウェイを使い、高山植物や地形を観察しながら、初心者向けのハイキングコースを歩く予定だ。
ペンションのオーナー夫妻にお弁当を持たせていただき、一同は出発した。
ロープウェイの乗り場までは、太郎先生の運転するワゴン車に乗せてもらう。
10人乗りのバカでかいレンタカーは、深い緑に囲まれた田舎道を快調に進んだ。
「……司?大丈夫か?」
少し気になって、隣の座席にいる司に声をかけた。ずっとニコニコ笑って先輩たちの雑談に混ってはいるが、なんだか顔色が良くない気がする。
「ん」
こちらを向いた笑顔がやはり青白く、無理をしているように見えた。
「具合悪い?どこか痛い?」
「いや、大丈夫!全然大丈夫なんだけど…………ちょっとだけ、頭と節々(ふしぶし)が痛いかも」
後半は俺の耳に口を近づけ、コソッと小さな声で言った。
「ごめん」
「なんで壮大が謝るのさ」
「あの、間宮先生!」
「はい?」
助手席の間宮先生がこちらを振り向く。
「痛み止めの薬、ありませんか?司が頭痛いって」
「司くん?大丈夫?」
「あ、すみません、たいしたことないんですけど」
司が焦ったように手を振る。
「はい、頭痛薬。飲んだら着くまで寝てなさいね」
「ありがとうございます」
司は薬を飲んで、素直に目を瞑った。
長い睫毛の先に、時折窓からの陽が当たってキラキラしている。その頭に俺の黒いキャップを被せ、つばで顔を隠した。
眩しそうだったから。それに……こんな綺麗な寝顔、誰にも見せたくない。
重すぎる恋愛感情は独占欲と大差ない。この気持ちはどちらなのか。
しばらく経って車はロープウェイ乗り場に着き、司は目を覚ました。「着いた?」とパチクリまばたきをする様子が、まるで御伽話のお姫様のように可愛らしい。頭痛は治(おさま)ったようで、顔にも血行が戻っていた。
「壮大見て!ロープウェイ!俺、乗るの初めてだ!」
司がキラキラした目で山を見上げる。
一面の青空に刷毛でいたずら書きしたような白い雲。深い緑の木々と、遠くの稜線。
どこまでも遮る人工物のない景色と、はしゃぐ恋人の姿を、スマホのカメラで何度も切り取った。
司のハイテンションはロープウェイを降りて山道を歩きながらも続いた。簡単なハイキングコースと侮(あなど)っていたが、舗装されていない、岩や木の根っこがゴロゴロしてる道を歩くのは容易ではない。そんなに喋ってたら疲れちゃうよと注意しても、あの花は何だの変な虫がいただのと際限なく話し続け、普段の司とは別人のような高揚ぶりだった。
ようやく見晴らしの良い展望台に着き、一同は昼食に持たせてもらったお弁当を広げた。
大きなおにぎりに唐揚げなどのおかずが彩り良く詰まったお弁当は、とても美味しそうだ。しかも最高のシチュエーション。男子高校生としては、食欲が湧かない訳がない。
なのに司は、ミニトマトとアスパラを食べただけで箸を置いた。
「……え、食べないの?」
「うーん、なんか楽しすぎて、胸がいっぱいで」
「え」
「壮大、良かったら食べる?」
「いや、司、ほんとに大丈夫か?」
「うん。でもなんか、暑い。いや、寒いかな?」
「え?」
ここは下界とは全然違う涼しい風が吹き、心地よい気温だ。暑くも寒くもない。なのに、いつの間にか司の額には汗が吹き出していた。
「あれ?俺ちょっと、変かも」
そう言うと司の頭はグラリと揺れた。
前のめりに倒れる姿がスローモーションになる。
反射的に腕を身体の前に差し込み、ベンチから落ちるのを防いだ。
「司?!」
俺の大きな声に気付き、少し離れたところにいた先輩たちが集まってきた。
「沢渡くん?!大丈夫?」
「あ……すまませ……」
呂律が回ってない。本当にヤバいかも。
朦朧とする司に上着を着させ、ベンチに寝かせたところに、間宮先生たちも駆けつけた。
「熱中症か、軽い高山病かもしれないな。朝は頭痛もあったようだし……、少し休んで、歩けるようなら山を降りよう」
「おれは、らいじょうぶれす……ちょっとだけ休んだら、まだいけます」
昼食後はもう少し歩いて、滝のある場所まで行く予定になっていた。でもこんな司をこれ以上無理させることはできない。
「俺、司とここに残ります。皆さんは予定通りに行ってきてください」
「いや、君たちだけで残すわけにはいかないよ。そうだな……太郎くん、司くんが落ち着いたら、一緒に車まで戻ってくれる?車内で休ませるか、状態によっては病院に連れて行ってほしい」
「了解」
「他の部員は今から僕と滝まで行こう」
「えっでも……」
「いやです!」
俺の声は部長の大きな声にかき消された。
「沢渡くんが下山するなら、ここまででいいです。皆んなで一緒に戻りたい」
「俺も。滝より沢渡くんのほうが全然大事でしょ」
副部長も賛同し、二年生の四人も頷く。
普段は自由にそれぞれ好き勝手なことをしているのに、いざという時には団結して後輩を守ってくれる。この距離感が、とても好ましい。
「それでいい?司」
「……ごめ、なさ……」
「泣くなって」
タオルで隠した顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃだった。その頭をそっと撫でた。
「もう結構疲れたし、ちょうどいいよ。俺たちやっぱりインドア派だな」
「うんうん、早くペンション戻って、夜の天体観測に備えたい」
「それな!」
先輩達の優しい言葉に、司はだんだんと落ち着きを取り戻した。
ベンチでしばらく休んだのち、「もう大丈夫」という司の手を取った。
「行ける?」
司は少し迷ってから、俺の手を握り返した。
手を繋いだまま、俺たちはゆっくりと歩き出す。
間宮先生が、お?という顔で二人を見た。太郎先生が、サッと司のリュックを持ってくれた。先輩達は何も言わずに、ニコニコと俺たちを見守ってくれた。
握った手の先に司がいる。他の人に見られても、この手が離れていかないことが嬉しい。
土の感触を楽しむように、一歩一歩、踏みしめて歩く。
どんな自然の美しさも、この人には勝てない。
俺はこの手を絶対に離さないと心に誓った。
————————————————————————
予定より早い時間に、ペンションに戻った。
俺のせいでスケジュールが台無しになったのに、誰にも責められたりしなかった。皆んな本当に優しい。なのに、申し訳ない気持ちに苛まれ、俺の口数は減っていく。
結果、喋らないのは具合が良くないせいなのかと、また周りに心配をかけてしまう。具合は悪くない。下界に戻ってまもなく、頭痛や眩暈は治った。ただただ心が苦しくて、夕食のトロトロに煮込まれたビーフシチューも、あまり喉を通らなかった。
弱い自分が情けない。
合宿中は全力で楽しんで、最高の思い出を作ろうと思っていたのに。こんな機会、二度と来ないのに。
食後、壮大は部屋で休むように勧めてくれたけど、俺は先輩達と天体観測をすることに決めた。この合宿で部を引退する三年生は、これが最後の部活動になる。たぶん、俺にとっても。
煉瓦造りの広いテラスに出て、涼やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。昼間とは違う、凛とした空気が気持ちいい。
「司、大丈夫?寒くない?」
「うん、大丈夫」
「何度見てもすげーな、ホントに星が降ってきそうだ」
壮大が遠い宇宙へ手を伸ばした。
頭上には幾億の星が瞬き、隣には大好きな人。
ワイワイと楽しげに天体望遠鏡を覗きこむ先輩達。
俺たちを温かく見守ってくれている、間宮先生とたろー先生。
ああ、幸せだな。
皆んなに迷惑もかけてしまったけど、この合宿に参加できてよかった。
俺はこの思い出を、絶対に忘れない。
「来年も来ような」
壮大が笑顔でこちらを振り返る。
……来年て言った?
「…………え?」
「ああ、新三年生が合宿の行き先決めるから、次はここじゃないかもしれないよな。でも俺はここ気に入ったから、来年も再来年もこのペンションに来たいなー」
「…………」
来年も再来年もって。何故そんなことを言うのか、理解できない。俺にはできない約束だということを、忘れてしまったのだろうか。それとも、忘れたふりをしているのか。
返答に困っていると、壮大は俺の手を引いた。
「間宮先生のとこ、行こう」
「……なんで」
「っ先生ー!」
デッキチェアでたろー先生と寛いでいた、間宮先生がこちらを見た。
「おう」
「先生、お友達に連絡してくれましたか?」
「ああ、したよ」
「どうでしたか?」
「ちょうど、単身者向けの部屋が空いてるそうだ。近々教え子が行くって言ってあるよ」
「よかった!ありがとうございます!」
「?」
話が見えない。お友達って、誰だろ。
わざわざ俺を引っ張ってきて、わけのわからない話をしないでほしい。
少し不機嫌になりかけた俺に、壮大はいつものとびきり優しい笑顔を向けた。
「司、名古屋へは行かないで。こっちに残って一人暮らしをしようよ」
「……は?」
何を言ってるんだろう。高校生が一人暮らしなんてできる訳がないと、以前にも話した筈なのに。
「高校生で一人暮らしなんて、親御さんが心配するのも当然だし、お金もかかるし、家事とか、司自身の負担も増えるかもしれない。でもそれ以上に得られるものもあると、俺は思う」
「……」
「間宮先生と太郎先生が暮らしてるマンションの、ワンルームが空いてるんだって。頼れる大人が二人も同じ建物にいるって、心強くない?」
「え」
先生二人が頷いた。
「いい部屋だと思うよ。僕たちの同級生が不動産屋をしていてね。家賃は相場より安めだし、諸費用も格安にしてくれるって。
司くんの中学校と高校の中間ぐらいの場所だから、通学時間も今よりだいぶ短くなるんじゃないかな。電車一本で通えるし、街の治安も良くてオススメだよ。」
「……沢渡くん、表情が見違えるくらい明るくなって、今が幸せなんだなってよくわかる。せっかく俺たちの母校に入学してくれたんだ。科学部にも入って、友達もできて、まだまだ楽しいことが沢山待ってる。君の精神衛生的にも、今転校するのは勧めない」
「うんうん。それと僕たち、司くんの応援団になったから、これから何でも頼ってくれていいよ。
あと、養護教諭の平田先生にも加入をお願いしようと思ってる。平田先生も君のことを気にかけていたようだから、健康面で何かあったら、きっと力になってくれるよ」
壮大が背後から俺の肩に手を置いた。大きな手のひらから、温かさが伝わってくる。
「もちろん俺が応援団長な。帰ったら不動産屋さんで物件の資料もらって、それから司のお母さんに納得してもらえるまで話そう。俺からも、応援団が司を守るから一人暮らしさせてくださいってお願いしたい」
「……」
「ホントは俺も一緒に住みたいんだけどなー。それは大学入るまで我慢する」
「え?!」
びっくりして大きな声が出てしまった。
一緒にって。そんな希望を持ってもいいのだろうか。
「はは、まあそれは置いておいて。一人暮らしのこと、司はどう思う?」
そんなことができるなんて、考えもしなかった。
壮大はいつも、俺の想像を易々と超えてくる。
固く暗い殻に閉じこもろうとする俺を、優しい光で救ってくれる。
この人たちがいれば、大丈夫。
一人暮らしでも、一人じゃない。
なんて幸せなんだろう。
「ありがとうございます。よろしく、お願いしま……うわっ」
深く頭を下げる俺の背中に乗りかかるように、壮大が抱きついてきた。
重くて、温かい。
見上げれば、漆黒の空に瞬く、降るような星たち。
普段は見えないけど、確かにそこに存在している。その一つ一つが、愛なのかもしれない。
新しく家族になるその人は、母の言葉通り温厚で、優しい喋り方をする人だった。
初めましての食事会ではお互い大緊張して母ばかり話していたが、その後誘われて、二人きりで海釣りに行った。
穏やかな海原を眺めながら、お互いのことをポツポツと話した。
離婚歴のことを聞くつもりはなかったが、彼のほうから、元妻の浮気が原因だったと話してくれた。
気が付かなかった自分も悪いし、同じ過ちは二度とないように、母のことは絶対に幸せにする。息子ができたのは結婚と同じぐらい嬉しい。一緒に名古屋に行けないのは残念だけど、これから仲良くしてほしいと言ってくれた。
魚は全く釣れなかったが、のんびりと海を眺める時間は嫌いじゃなかった。
また名古屋に遊びに行った時にでも、リベンジしようねと約束した。その時には、お父さんって呼ばせてもらってもいいだろうか。
九月から始まる新生活の前に、母たちは新婚旅行へと旅立った。今ごろ南の異国で、ラブラブで優雅な休暇を満喫していることだろう。
俺のほうは、母より先に新居への引越しを終えた。
8畳の部屋に、ミニキッチン。風呂とトイレは別。陽当たり良好の角部屋、2階。駅まで徒歩7分、5階建でエレベーターありのマンション。
こんな素晴らしく条件のよい部屋を借りられたのは、間宮先生のお友達の不動産屋さんのお陰だ。この方には実家のマンションの売却でもお世話になっている。お陰で母が想像していた以上の価格で売却できる見込みで、本当にありがたく感謝している。
間宮先生とたろー先生は、同じマンションの最上階、2LDKの部屋に住んでいる。
お二人には引越しの日はもちろん、その後もなんだかんだとお世話になっている。が、引越し以来、お互いの部屋に入ったことはない。間宮先生が不動産関係の書類を持ってきてくれた時にも、たろー先生が作り過ぎたお惣菜をお裾分けしてくれた時にも、玄関先で帰った。
これは、教師と生徒して、卒業までは節度を保った関係でいようという、ケジメみたいなものだ。壮大からも、緊急時以外にお互いの部屋には入らないようにと、しつこいくらいに念を押されている。
そう言う壮大は、もう何度もうちに来ている。夏休み中ということもあって、お泊まりも、している。
実家から運んできた、ベッドと机、本棚。
ベッドサイドのチェストにはディフューザー。
まだ荷物の少ないこの部屋に、壮大用の歯ブラシやマグカップが置いてあるのはなんだか不思議な気がする。でもそれを見ると一人の夜も寂しくないから、これからもっと増えるといいなと思う。
「司、これなに?」
ミニキッチンの棚の上、インスタントコーヒーの横に置かれた小さな瓶に、壮大が手を伸ばした。
カラフルで可愛い瓶は、整然として面白みのない部屋には少しだけ異質に見えたのかもしれない。
「あ、それ、間宮先生が引越し祝いにくれた」
「金平糖?」
「……」
「食べていい?」
「あ、ダメ!」
思わず手を出して、壮大から瓶を奪う。
「へ?ダメだった?ごめん」
奪った瓶を、再び棚の上に戻した。
訳がわからないという顔で、壮大が俺を見る。
そりゃそうだ。こんな子どものお菓子を必死に止めるなんて、どうかしていると思うだろう。
でもこれは、ただのお菓子じゃないから。
「……それより、美味しいチョコがあるよ」
母は新婚旅行に行く前に、冷凍用に小分けした料理やお菓子を沢山持ってきてくれた。その中に入っていた外国製のチョコレート。
金平糖の代わりに渡した赤い包み紙をカサカサとほどいて、壮大は自分ではなく俺の口の中にチョコレートを放り込んだ。
「んぐ」
びっくりして固まる俺の頬に手を添えて、壮大が顔を近づける。少し口を開けると、深く舌を差し入れられた。
舌は口内を自由に動き回り、溶けかけたチョコを奪い取り離れていく。
「……ほんとだ、美味しい」
ペロリと唇を舐める壮大の顔が艶っぽくて、俺の脳も甘く溶けそうになる。
「……で?なんであの金平糖はダメなの?」
笑みを含んだ壮大の声。
ああ、やっぱり逃してはくれないのか。
「毒だから」
「は?」
「……あの中に、一粒毒が入ってるって、間宮先生が。逃げたいと思った時にどれか一粒だけ食べなさいって言われた」
「はあ?あのヤロ何言ってるんだ」
「俺が、前に頼んだからだと思う。毒薬の作り方を教えて欲しいって。その代わりのつもりなんじゃないかな」
「んな物騒な……捨てていい?」
「ダメ。開封してない新品だし、どうせ嘘だよ。でも」
俺は小さな瓶を再び手に取った。
「ここにあるだけで、なんか安心するんだ」
瓶を振ると、小さな星たちがカラカラと音を立てる。
ピンクか、黄色か、水色か。どの色が毒入りなのだろうかと考える。ただ見て、考えるだけ。
壮大が隣で、困ったような微妙な顔をしている。
俺は小さく「ごめん」と呟いて、その腰にギュッと抱きついた。
壮大はすぐに俺の背中に手を回してくれる。温かくて、大好きな手。
この手があれば大丈夫。金平糖はきっと、いつまでも減ることはないだろう。
【完】
今日は科学部全8名と間宮先生、OBの太郎先生で山に行く。
山とはいえども、基本的にインドア集団なので、ガチな登山などはしない。途中まではロープウェイを使い、高山植物や地形を観察しながら、初心者向けのハイキングコースを歩く予定だ。
ペンションのオーナー夫妻にお弁当を持たせていただき、一同は出発した。
ロープウェイの乗り場までは、太郎先生の運転するワゴン車に乗せてもらう。
10人乗りのバカでかいレンタカーは、深い緑に囲まれた田舎道を快調に進んだ。
「……司?大丈夫か?」
少し気になって、隣の座席にいる司に声をかけた。ずっとニコニコ笑って先輩たちの雑談に混ってはいるが、なんだか顔色が良くない気がする。
「ん」
こちらを向いた笑顔がやはり青白く、無理をしているように見えた。
「具合悪い?どこか痛い?」
「いや、大丈夫!全然大丈夫なんだけど…………ちょっとだけ、頭と節々(ふしぶし)が痛いかも」
後半は俺の耳に口を近づけ、コソッと小さな声で言った。
「ごめん」
「なんで壮大が謝るのさ」
「あの、間宮先生!」
「はい?」
助手席の間宮先生がこちらを振り向く。
「痛み止めの薬、ありませんか?司が頭痛いって」
「司くん?大丈夫?」
「あ、すみません、たいしたことないんですけど」
司が焦ったように手を振る。
「はい、頭痛薬。飲んだら着くまで寝てなさいね」
「ありがとうございます」
司は薬を飲んで、素直に目を瞑った。
長い睫毛の先に、時折窓からの陽が当たってキラキラしている。その頭に俺の黒いキャップを被せ、つばで顔を隠した。
眩しそうだったから。それに……こんな綺麗な寝顔、誰にも見せたくない。
重すぎる恋愛感情は独占欲と大差ない。この気持ちはどちらなのか。
しばらく経って車はロープウェイ乗り場に着き、司は目を覚ました。「着いた?」とパチクリまばたきをする様子が、まるで御伽話のお姫様のように可愛らしい。頭痛は治(おさま)ったようで、顔にも血行が戻っていた。
「壮大見て!ロープウェイ!俺、乗るの初めてだ!」
司がキラキラした目で山を見上げる。
一面の青空に刷毛でいたずら書きしたような白い雲。深い緑の木々と、遠くの稜線。
どこまでも遮る人工物のない景色と、はしゃぐ恋人の姿を、スマホのカメラで何度も切り取った。
司のハイテンションはロープウェイを降りて山道を歩きながらも続いた。簡単なハイキングコースと侮(あなど)っていたが、舗装されていない、岩や木の根っこがゴロゴロしてる道を歩くのは容易ではない。そんなに喋ってたら疲れちゃうよと注意しても、あの花は何だの変な虫がいただのと際限なく話し続け、普段の司とは別人のような高揚ぶりだった。
ようやく見晴らしの良い展望台に着き、一同は昼食に持たせてもらったお弁当を広げた。
大きなおにぎりに唐揚げなどのおかずが彩り良く詰まったお弁当は、とても美味しそうだ。しかも最高のシチュエーション。男子高校生としては、食欲が湧かない訳がない。
なのに司は、ミニトマトとアスパラを食べただけで箸を置いた。
「……え、食べないの?」
「うーん、なんか楽しすぎて、胸がいっぱいで」
「え」
「壮大、良かったら食べる?」
「いや、司、ほんとに大丈夫か?」
「うん。でもなんか、暑い。いや、寒いかな?」
「え?」
ここは下界とは全然違う涼しい風が吹き、心地よい気温だ。暑くも寒くもない。なのに、いつの間にか司の額には汗が吹き出していた。
「あれ?俺ちょっと、変かも」
そう言うと司の頭はグラリと揺れた。
前のめりに倒れる姿がスローモーションになる。
反射的に腕を身体の前に差し込み、ベンチから落ちるのを防いだ。
「司?!」
俺の大きな声に気付き、少し離れたところにいた先輩たちが集まってきた。
「沢渡くん?!大丈夫?」
「あ……すまませ……」
呂律が回ってない。本当にヤバいかも。
朦朧とする司に上着を着させ、ベンチに寝かせたところに、間宮先生たちも駆けつけた。
「熱中症か、軽い高山病かもしれないな。朝は頭痛もあったようだし……、少し休んで、歩けるようなら山を降りよう」
「おれは、らいじょうぶれす……ちょっとだけ休んだら、まだいけます」
昼食後はもう少し歩いて、滝のある場所まで行く予定になっていた。でもこんな司をこれ以上無理させることはできない。
「俺、司とここに残ります。皆さんは予定通りに行ってきてください」
「いや、君たちだけで残すわけにはいかないよ。そうだな……太郎くん、司くんが落ち着いたら、一緒に車まで戻ってくれる?車内で休ませるか、状態によっては病院に連れて行ってほしい」
「了解」
「他の部員は今から僕と滝まで行こう」
「えっでも……」
「いやです!」
俺の声は部長の大きな声にかき消された。
「沢渡くんが下山するなら、ここまででいいです。皆んなで一緒に戻りたい」
「俺も。滝より沢渡くんのほうが全然大事でしょ」
副部長も賛同し、二年生の四人も頷く。
普段は自由にそれぞれ好き勝手なことをしているのに、いざという時には団結して後輩を守ってくれる。この距離感が、とても好ましい。
「それでいい?司」
「……ごめ、なさ……」
「泣くなって」
タオルで隠した顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃだった。その頭をそっと撫でた。
「もう結構疲れたし、ちょうどいいよ。俺たちやっぱりインドア派だな」
「うんうん、早くペンション戻って、夜の天体観測に備えたい」
「それな!」
先輩達の優しい言葉に、司はだんだんと落ち着きを取り戻した。
ベンチでしばらく休んだのち、「もう大丈夫」という司の手を取った。
「行ける?」
司は少し迷ってから、俺の手を握り返した。
手を繋いだまま、俺たちはゆっくりと歩き出す。
間宮先生が、お?という顔で二人を見た。太郎先生が、サッと司のリュックを持ってくれた。先輩達は何も言わずに、ニコニコと俺たちを見守ってくれた。
握った手の先に司がいる。他の人に見られても、この手が離れていかないことが嬉しい。
土の感触を楽しむように、一歩一歩、踏みしめて歩く。
どんな自然の美しさも、この人には勝てない。
俺はこの手を絶対に離さないと心に誓った。
————————————————————————
予定より早い時間に、ペンションに戻った。
俺のせいでスケジュールが台無しになったのに、誰にも責められたりしなかった。皆んな本当に優しい。なのに、申し訳ない気持ちに苛まれ、俺の口数は減っていく。
結果、喋らないのは具合が良くないせいなのかと、また周りに心配をかけてしまう。具合は悪くない。下界に戻ってまもなく、頭痛や眩暈は治った。ただただ心が苦しくて、夕食のトロトロに煮込まれたビーフシチューも、あまり喉を通らなかった。
弱い自分が情けない。
合宿中は全力で楽しんで、最高の思い出を作ろうと思っていたのに。こんな機会、二度と来ないのに。
食後、壮大は部屋で休むように勧めてくれたけど、俺は先輩達と天体観測をすることに決めた。この合宿で部を引退する三年生は、これが最後の部活動になる。たぶん、俺にとっても。
煉瓦造りの広いテラスに出て、涼やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。昼間とは違う、凛とした空気が気持ちいい。
「司、大丈夫?寒くない?」
「うん、大丈夫」
「何度見てもすげーな、ホントに星が降ってきそうだ」
壮大が遠い宇宙へ手を伸ばした。
頭上には幾億の星が瞬き、隣には大好きな人。
ワイワイと楽しげに天体望遠鏡を覗きこむ先輩達。
俺たちを温かく見守ってくれている、間宮先生とたろー先生。
ああ、幸せだな。
皆んなに迷惑もかけてしまったけど、この合宿に参加できてよかった。
俺はこの思い出を、絶対に忘れない。
「来年も来ような」
壮大が笑顔でこちらを振り返る。
……来年て言った?
「…………え?」
「ああ、新三年生が合宿の行き先決めるから、次はここじゃないかもしれないよな。でも俺はここ気に入ったから、来年も再来年もこのペンションに来たいなー」
「…………」
来年も再来年もって。何故そんなことを言うのか、理解できない。俺にはできない約束だということを、忘れてしまったのだろうか。それとも、忘れたふりをしているのか。
返答に困っていると、壮大は俺の手を引いた。
「間宮先生のとこ、行こう」
「……なんで」
「っ先生ー!」
デッキチェアでたろー先生と寛いでいた、間宮先生がこちらを見た。
「おう」
「先生、お友達に連絡してくれましたか?」
「ああ、したよ」
「どうでしたか?」
「ちょうど、単身者向けの部屋が空いてるそうだ。近々教え子が行くって言ってあるよ」
「よかった!ありがとうございます!」
「?」
話が見えない。お友達って、誰だろ。
わざわざ俺を引っ張ってきて、わけのわからない話をしないでほしい。
少し不機嫌になりかけた俺に、壮大はいつものとびきり優しい笑顔を向けた。
「司、名古屋へは行かないで。こっちに残って一人暮らしをしようよ」
「……は?」
何を言ってるんだろう。高校生が一人暮らしなんてできる訳がないと、以前にも話した筈なのに。
「高校生で一人暮らしなんて、親御さんが心配するのも当然だし、お金もかかるし、家事とか、司自身の負担も増えるかもしれない。でもそれ以上に得られるものもあると、俺は思う」
「……」
「間宮先生と太郎先生が暮らしてるマンションの、ワンルームが空いてるんだって。頼れる大人が二人も同じ建物にいるって、心強くない?」
「え」
先生二人が頷いた。
「いい部屋だと思うよ。僕たちの同級生が不動産屋をしていてね。家賃は相場より安めだし、諸費用も格安にしてくれるって。
司くんの中学校と高校の中間ぐらいの場所だから、通学時間も今よりだいぶ短くなるんじゃないかな。電車一本で通えるし、街の治安も良くてオススメだよ。」
「……沢渡くん、表情が見違えるくらい明るくなって、今が幸せなんだなってよくわかる。せっかく俺たちの母校に入学してくれたんだ。科学部にも入って、友達もできて、まだまだ楽しいことが沢山待ってる。君の精神衛生的にも、今転校するのは勧めない」
「うんうん。それと僕たち、司くんの応援団になったから、これから何でも頼ってくれていいよ。
あと、養護教諭の平田先生にも加入をお願いしようと思ってる。平田先生も君のことを気にかけていたようだから、健康面で何かあったら、きっと力になってくれるよ」
壮大が背後から俺の肩に手を置いた。大きな手のひらから、温かさが伝わってくる。
「もちろん俺が応援団長な。帰ったら不動産屋さんで物件の資料もらって、それから司のお母さんに納得してもらえるまで話そう。俺からも、応援団が司を守るから一人暮らしさせてくださいってお願いしたい」
「……」
「ホントは俺も一緒に住みたいんだけどなー。それは大学入るまで我慢する」
「え?!」
びっくりして大きな声が出てしまった。
一緒にって。そんな希望を持ってもいいのだろうか。
「はは、まあそれは置いておいて。一人暮らしのこと、司はどう思う?」
そんなことができるなんて、考えもしなかった。
壮大はいつも、俺の想像を易々と超えてくる。
固く暗い殻に閉じこもろうとする俺を、優しい光で救ってくれる。
この人たちがいれば、大丈夫。
一人暮らしでも、一人じゃない。
なんて幸せなんだろう。
「ありがとうございます。よろしく、お願いしま……うわっ」
深く頭を下げる俺の背中に乗りかかるように、壮大が抱きついてきた。
重くて、温かい。
見上げれば、漆黒の空に瞬く、降るような星たち。
普段は見えないけど、確かにそこに存在している。その一つ一つが、愛なのかもしれない。
新しく家族になるその人は、母の言葉通り温厚で、優しい喋り方をする人だった。
初めましての食事会ではお互い大緊張して母ばかり話していたが、その後誘われて、二人きりで海釣りに行った。
穏やかな海原を眺めながら、お互いのことをポツポツと話した。
離婚歴のことを聞くつもりはなかったが、彼のほうから、元妻の浮気が原因だったと話してくれた。
気が付かなかった自分も悪いし、同じ過ちは二度とないように、母のことは絶対に幸せにする。息子ができたのは結婚と同じぐらい嬉しい。一緒に名古屋に行けないのは残念だけど、これから仲良くしてほしいと言ってくれた。
魚は全く釣れなかったが、のんびりと海を眺める時間は嫌いじゃなかった。
また名古屋に遊びに行った時にでも、リベンジしようねと約束した。その時には、お父さんって呼ばせてもらってもいいだろうか。
九月から始まる新生活の前に、母たちは新婚旅行へと旅立った。今ごろ南の異国で、ラブラブで優雅な休暇を満喫していることだろう。
俺のほうは、母より先に新居への引越しを終えた。
8畳の部屋に、ミニキッチン。風呂とトイレは別。陽当たり良好の角部屋、2階。駅まで徒歩7分、5階建でエレベーターありのマンション。
こんな素晴らしく条件のよい部屋を借りられたのは、間宮先生のお友達の不動産屋さんのお陰だ。この方には実家のマンションの売却でもお世話になっている。お陰で母が想像していた以上の価格で売却できる見込みで、本当にありがたく感謝している。
間宮先生とたろー先生は、同じマンションの最上階、2LDKの部屋に住んでいる。
お二人には引越しの日はもちろん、その後もなんだかんだとお世話になっている。が、引越し以来、お互いの部屋に入ったことはない。間宮先生が不動産関係の書類を持ってきてくれた時にも、たろー先生が作り過ぎたお惣菜をお裾分けしてくれた時にも、玄関先で帰った。
これは、教師と生徒して、卒業までは節度を保った関係でいようという、ケジメみたいなものだ。壮大からも、緊急時以外にお互いの部屋には入らないようにと、しつこいくらいに念を押されている。
そう言う壮大は、もう何度もうちに来ている。夏休み中ということもあって、お泊まりも、している。
実家から運んできた、ベッドと机、本棚。
ベッドサイドのチェストにはディフューザー。
まだ荷物の少ないこの部屋に、壮大用の歯ブラシやマグカップが置いてあるのはなんだか不思議な気がする。でもそれを見ると一人の夜も寂しくないから、これからもっと増えるといいなと思う。
「司、これなに?」
ミニキッチンの棚の上、インスタントコーヒーの横に置かれた小さな瓶に、壮大が手を伸ばした。
カラフルで可愛い瓶は、整然として面白みのない部屋には少しだけ異質に見えたのかもしれない。
「あ、それ、間宮先生が引越し祝いにくれた」
「金平糖?」
「……」
「食べていい?」
「あ、ダメ!」
思わず手を出して、壮大から瓶を奪う。
「へ?ダメだった?ごめん」
奪った瓶を、再び棚の上に戻した。
訳がわからないという顔で、壮大が俺を見る。
そりゃそうだ。こんな子どものお菓子を必死に止めるなんて、どうかしていると思うだろう。
でもこれは、ただのお菓子じゃないから。
「……それより、美味しいチョコがあるよ」
母は新婚旅行に行く前に、冷凍用に小分けした料理やお菓子を沢山持ってきてくれた。その中に入っていた外国製のチョコレート。
金平糖の代わりに渡した赤い包み紙をカサカサとほどいて、壮大は自分ではなく俺の口の中にチョコレートを放り込んだ。
「んぐ」
びっくりして固まる俺の頬に手を添えて、壮大が顔を近づける。少し口を開けると、深く舌を差し入れられた。
舌は口内を自由に動き回り、溶けかけたチョコを奪い取り離れていく。
「……ほんとだ、美味しい」
ペロリと唇を舐める壮大の顔が艶っぽくて、俺の脳も甘く溶けそうになる。
「……で?なんであの金平糖はダメなの?」
笑みを含んだ壮大の声。
ああ、やっぱり逃してはくれないのか。
「毒だから」
「は?」
「……あの中に、一粒毒が入ってるって、間宮先生が。逃げたいと思った時にどれか一粒だけ食べなさいって言われた」
「はあ?あのヤロ何言ってるんだ」
「俺が、前に頼んだからだと思う。毒薬の作り方を教えて欲しいって。その代わりのつもりなんじゃないかな」
「んな物騒な……捨てていい?」
「ダメ。開封してない新品だし、どうせ嘘だよ。でも」
俺は小さな瓶を再び手に取った。
「ここにあるだけで、なんか安心するんだ」
瓶を振ると、小さな星たちがカラカラと音を立てる。
ピンクか、黄色か、水色か。どの色が毒入りなのだろうかと考える。ただ見て、考えるだけ。
壮大が隣で、困ったような微妙な顔をしている。
俺は小さく「ごめん」と呟いて、その腰にギュッと抱きついた。
壮大はすぐに俺の背中に手を回してくれる。温かくて、大好きな手。
この手があれば大丈夫。金平糖はきっと、いつまでも減ることはないだろう。
【完】

