「……まじ助かりました。ありがとうございます」
「びっくりした?」
「そりゃーすっごく」
「僕たち、あのお蕎麦屋さんにいたんだよね。ペンションに行く前に懐かしの味が食べたくてさ。君たちと入れ替わりだったのかな?美味しかったでしょ」
「はい」
「で、食べ終えた頃に丁度、部長から連絡がきて、君たちが近くのバス停で雨宿りしてるっていうから、寄ってみたって訳」
車に乗ってからずっと、間宮先生と俺で喋っている。司は黙ったままだし、運転手の男も無言で微笑んでいるだけだ。
あれは誰だ?
間宮先生の下の名前は、たしか悟(さとる)だ。たろうでは、ない。
「あのー、ところでそちらの方は?」
「ああ、佐倉くんは知らないのか。佐藤太郎くん。中学の教師をしてる」
「佐藤……たろう、さん?」
「そう、太郎先生。俺と同級生で、科学部のOBだよ」
「え、そうなんですか」
バックミラー越しに目が合った。
涼しげな目元が印象的な、爽やかイケメンだ。ニコッと上がる口角に、何故かちょっとイラッとする。
「よろしくね」
「……くっす」
「佐倉くんだよね」
「はい」
「沢渡くんも、久しぶりだね」
司がビクッと怯えたように前を見た。
「司、知ってるの?」
「知ってるよね。中三の時の担任だもん」
「……っはい。びっくりしすぎて、もう、え、なんで、たろー先生が」
司が早口で答える。狼狽えているのが伝わってくる。
「太郎くんは、OBとして特別参加。大人が僕一人じゃつまらないから、付いてきてもらいました」
「沢渡くん、卒業式以来だな」
「あ、はい」
「間宮先生から、俺のこと聞いてただろ?」
「……はい」
どういうことだ。
司は、この太郎先生が科学部OBだと知っていたのか?元担任が現顧問と同級生だということも?
そもそも、それを知っていて科学部に入部したのか?
……俺は、何も聞かされていない。
「沢渡、大丈夫か?」
「え?」
「さっきバス停で、具合悪そうに見えたから」
「あ……大丈夫です。雨が……ちょっと苦手なんですけど、壮大が庇ってくれてたから」
「そうか。信頼できる友達ができたんだな、よかった」
太郎先生が優しく微笑み、司が赤く高揚した顔で応える。
なんだ、この微妙な空気は。これ以上、二人の会話を聞いていたくない。
居たたまれなくなった俺は、司の肩にもたれかかり、目を瞑った。
「壮大?眠い?」
「……ん。着いたら起こして」
「わかった」
「……今日は蕎麦屋の他にどこか行ったの?」
「近くの川に行ってました」
「ああ、あそこの川、きれいだよね」
「あそこ、釣りとかできるんですかね?」
「できるよ。前に何度か、釣ってる人を見かけたな。イワナとか、ヤマメなんかもいるんじゃないかな」
「へー、そうなんですか」
寝たふりをしていると、本当に睡魔が襲ってきた。司たちの話し声と雨音が子守唄になり、ペンションに着くまで、俺は眠ってしまった。
夕食はテラスではなく、食堂でホットプレートを使っての焼肉パーティーとなった。
一見クールな雰囲気の太郎先生は、話すと人当たりが良く、少年のような笑顔が爽やかで、正直カッコいい。すぐに部員皆んなと打ち解け、よく喋っていた。
流石、元生徒会長兼部長。高校時代の武勇伝が魅力的で、話題が尽きない。特に間宮先生と科学部を創設した当時の話は興味深く、部員たちの関心を集めた。
食事が終わり、先輩たちがガヤガヤと部屋に戻って行った。
俺たちも、と腰を上げかけると、近くに太郎先生が立った。
「沢渡くん、いい?」
司は小さく頷き、立ち上がる。
暗黙の了解のような動きに、俺は困惑を隠せなかった。
「え?司?」
小さく声をかけると、司は「たろー先生と少し話してくる」と緊張した顔で答えた。
「すぐ戻るから、先に部屋に行ってて」
「……おう」
司は太郎先生に付いて食堂を出て行った。俺はその後ろ姿を憮然として見送る。
話って、なんだ。
司は中学時代の同級生からセクハラのようなイジメを受け、誰にも相談できない辛い日々を送ったと打ち明けてくれた。
今さら元担任と二人きりで話すことなんかあるか。
「佐倉くん」
気がつくと、間宮先生が隣に来ていて、湯気の立ったコーヒーカップが目の前に置かれた。
「一緒にコーヒーでも飲んでようよ」
「……」
「オーナーが淹れてくれた、特製のブレンドだよ。温かいうちにいただこう」
濃いめのブラックコーヒーは、苦くて深い味わいだった。間宮先生も美味しそうにカップに口をつけていた。
この際、この人に聞くしかないか。
「……あの、太郎先生って、司の中学の先生だったんですよね」
「そうだよ」
「司、あんま中学に良い思い出は無いって、言ってたんですけど。二人でなに話してんすかね」
「……佐倉くんは、どこまで知ってるのかな」
「どこまでって……なんか、同級生に揶揄われたりしてたってことは聞いてます」
「そう。その時の担任が太郎先生だったんだけど、当時は何も助けてあげられなかったって後悔してるみたい」
「ああ……」
「そのことを、謝ってるんじゃないかな」
勝手だな、と思った。
太郎先生はその時たぶん、司が悩んでいることはある程度わかっていた筈だ。わかっていたのに司に声をかけるでもなく、他の生徒を叱るでもなく、放置した。
今さら謝っても、司の苦しみが消えることはない。太郎先生の心が軽くなるだけのことだ。
「どうして何もしてあげなかったんですかね」
「んー、彼には彼の事情もあったんだよ。詳しくは言えないけど」
「……ずるいですね」
「そうだね」
間宮先生はコーヒーを飲み干し、ソーサーにカチャリと置いた。
「僕と太郎先生が科学部の創設者だと知った時、司くんはすごく驚いてたよ。でも君には話していなかったんだね」
「……はい」
司は何故話してくれなかったんだろう。そんな衝撃の事実、俺ならすぐに話したくなるが。
「あの子はいい子だね。それが僕たちにとってアウティングに繋がるから、話さなかったんだと思うよ」
「……は?」
「僕と太郎先生、付き合ってるんだ。同棲もしてる」
「ええ?!」
「他の人にはナイショだよ」
「うーわ、そうなんですか……」
間宮先生はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「学生の頃からだから、結構長い付き合いになるかな。君たちの参考になれると思うから、何でも相談していいよ」
「……はい?」
「付き合ってるんだろ?司くんと」
「え、え、わかりますか?」
「うん。確信したのはさっきだけど。バス停でくっついてたから」
「う、わーーー」
雨でそこまで見えていないかと油断してた。
あーーー、でもいいか。
間宮先生も話してくれたんだし。
「付き合ってます」
「ははは、言ったね」
「俺、実は間宮先生が司のこと気に入ってるのかと思ってて、……ちょっと感じ悪かったすよね」
「いやー、そんなことないけど。でも、太郎くんは司くんのことを気に入ってたから、俺も妬いてたところあるかもな」
「そうなんですか?」
「そう。かわいい子がクラスにいるんだって、何っ回も聞かされてたんだよ。酷いよな、僕がいるのに」
「あはは」
中学生の頃の司は、そりゃあ天使のように可愛かったのだろう。
でも、そんなに気に入っていたのに、イジメから助けてあげられなかったのはどうしてだろう。
ふいに、司が『たろー先生』と呼んだ時の、少し照れたような、優しい響きが脳内再生される。
……なんとなく、察しはつくような。確かめるのが、怖いような。
「てか、今も二人きりで部屋にいる訳じゃん?もちろん太郎くんのことは信頼してるけど、ほんのちょっとはモヤモヤするよね。だから佐倉くんを誘ったんだけど」
「はあ」
確かに、少しはモヤモヤするよな。大丈夫だとは思うけど。
それにしても……この人、教師なのに生徒にぶっちゃけ過ぎなのでは。そっちのほうが心配なんですけど。
でも、この人のことは信用できる。
教師だからとかではなく、愛する人がいる一人の男同士として、本音を言ってもいい。そう思えた。
「……間宮先生、早速ですけど、ちょっと相談してもいいですか」
「え、なになに?」
「実は……」
————————————————————————
たろー先生との話を終え部屋に戻ると、壮大の姿がなかった。
今夜は悪天候で天体観測はできないし、先に風呂へ行ったのかと覗いてみても、先輩たちしか見つからない。
不安に焦りながら館内をあちこち探して、ようやく灯りの消えた食堂で見つけた。
「何やってんですか、こんな暗いところで」
かろうじて、奥のテーブルの上の燭台にだけ、焔がゆらめいている。
そこで壮大と間宮先生がヒソヒソと話をしていた。
「あ、司!」
壮大はこちらを見て、ニコニコと手を振ってみせる。その屈託のない笑顔を見て、俺はホッと息をついた。
「お二人、そんな仲良しでしたっけ」
「はは、仲良しですよ。そっちの話は終わった?」
「はい」
「じゃあ僕も部屋に戻ろう。君たち、お風呂行っておいでよ」
「いえ……俺は、一番最後にします」
「でも、明日はハイキングだから、早めに済ませて早く寝たほうがいいと思うけど」
「大丈夫です。先生方、お先にどうぞ」
「そう?……じゃあ太郎くんと行ってこようかな」
「はい、ごゆっくり」
「そうだ、佐倉くん」
間宮先生が壮大を手招きし、何やらコソコソと耳打ちした。
「はあ?!」
「ははは、じゃあ、おやすみ」
間宮先生は蝋燭の火を一息に吹き消し、空になったコーヒーカップを持って食堂を出て行った。俺と壮大も部屋に戻る。
「さっきの耳打ち、何だったの?」
「あー、なんでもない。それより、太郎先生の話は、どうだった?」
「うん……大丈夫。思ったより冷静に聞けた」
「そっかー、よかったな」
「間宮先生から前に少し聞いてたから、落ち着いていられたのかも」
「そうか」
自分でも不思議なくらい、俺の心は平静なままだった。
もしもう一度会ったら、感情が爆発して、泣いたり喚いたりしてしまうかもしれないと思っていたのに。
「守ってあげられなかったことを後悔しているって、何度も謝ってくれた」
「うん」
「あんな風に大人に謝られることなんかないから、何て答えたらいいのかわからなかった」
「うん」
別に謝って欲しかった訳じゃない。
同級生に言い返せなかったのも、胸に消えない傷跡を作ったのも、全部自分自身の責任だ。
ただ俺は、先生がこちらを見なくなったことが悲しかっただけだ。
「俺は当時、先生に見捨てられたって思ってたんだけど、そうじゃなかった。たろー先生の立場も今なら理解できる。先生が関わることで、より一層ひどいいじめに発展する恐れもあったと思う。
先生なりに悩んで、一年以上経った今でも、あんなに悔やんでるなんて……びっくりした」
それでもあなたは、微かな希望のカケラだった。
あなたが見た景色を見たくて、俺はここまできた。
「好きだったんだな」
「え?」
壮大に自分の気持ちを言い当てられて、心臓がドキンと跳ねた。
「太郎先生が、司を」
俺が、じゃなかった。
え?でも、なんで?
「え、え?何言ってんの。そんな訳」
「どうでもいい生徒のことで、いつまでも悩んだり後悔したりしねーだろ、普通。ついでに言えば、こんなところまで会いに来て謝ったりも、しない」
「え……」
「でも先生には、昔から付き合ってる恋人もいたし、教師という立場もあったしで、当時はどうにもできなかったんだろうな」
「……」
「司は辛かったと思うけど、俺としては、正直、太郎先生はよくぞ踏みとどまってくれたなと思うよ。間宮先生もそうなんじゃない?」
脳内は混乱で爆発寸前だ。
好きだったとか、そんな訳ない。踏みとどまるとか、意味わかんない。
それに『間宮先生も』って何なんだ。
あれ?もしかして、壮大は間宮先生とたろー先生のことを知ってるのか?
「えっと……壮大は、間宮先生から何か聞いたのかな」
「ああ、聞いた。学生時代からずっと、太郎先生と付き合ってるって」
「あーーー」
「俺と司も、付き合ってるんだろとも言われた」
「んえええ?!」
「イエスって答えた。勝手にごめん」
「う、わーーー、い、いいけど」
明日から間宮先生とどんな顔をして会ったらいいんだ。
「でも俺、間宮先生のことは信用することにしたから。それで、ちょっと考えてることがあって、先生に相談してたんだ」
「ん?なにを」
「上手くいくかわからないから、もう少ししたら話す。それまで待ってて」
「んー、わかった」
相談ごとは気になるが、もう俺の頭は完全にキャパオーバーだ。
間宮先生のことは俺も信用しているし、壮大のことはそれ以上に信頼している。だから、大丈夫。
チュッ
俺は衝動的に、壮大にキスをした。
全部、バーストしてポヤポヤになった、この脳みそのせいだ。
「う、わーーー、やばい、嬉しい」
照れた壮大が、フニャリと笑う。その顔が、たまらなく愛しいと思う。
「ふふふ」
「ねえ、さっき、間宮先生が俺に何て耳打ちしたと思う?」
「んー?なんだろ」
「このペンション、造りはしっかりしてるから、防音は完璧だよ、だって」
「は?」
そう言えば、昨夜は二年生の先輩たちが随分遅くまでUNOで盛り上がっていたそうだが、声も何も聞こえなかった。それだけ重厚な造りの建物ってことか。
「つまりイチャイチャし放題ってことじゃん!あー!しくった!俺、合宿中は真面目で品行方正な清純派でいようと思ってたから、なんも持ってきてない。今すぐ司と色々したいのに!!」
「色々って……?」
「……バニラならできるか?」
「え?なにそれ」
「いや、なんでもないです」
一人で百面相をしている壮大が面白くて、よくわからないけどクスクス笑ってしまう。
「イチャイチャ、してみる?」
「え」
壮大が真顔でこちらを見た。まずいことを言ってしまったような自覚はある。
「その前に、お風呂行こう」
「え、でも先生たち、まだいるかもよ?」
「うん……いいんだ。俺、先生にまだ言ってないことがある。ちゃんと伝えたいから」
脱衣所には、二人分の着替えとバスタオルが置いてあった。
少し怖いが、隣には壮大がいる。大丈夫。
俺は着ていたものを次々とカゴに入れていった。
洗い場で全身を洗い、洞窟風呂へ。
薄暗い灯りを頼りに、俺は迷わず進む。
「間宮先生、たろー先生」
「ああ、君たちもやっぱり来たんだね」
湯気の向こうに、二人の姿が見えた。
普段の白衣やスーツ姿からは想像がつかない、彫刻のような筋肉のついた身体。大人の男性として、完璧に絵になる、お似合いの二人。幻想的な洞窟の雰囲気もあって、そのまま写真集を出せそうだ。
勢いで声をかけたものの、俺は緊張で口籠ってしまう。
「お邪魔します」
言葉に詰まった俺の代わりに、壮大が言った。
「いらっしゃい」
「雨で露天風呂に行けないのが残念だね」
「はい」
「露天風呂から見る夜空も綺麗なんだよね。昨日見たかな?」
「見ました!すごかったです」
「あの、」
思い切って出した筈の俺の声は、思ったよりも小さかった。
それでも三人は、ちゃんと俺を見てくれた。
「……先生たちに、見て欲しくて」
俺は前を隠していたタオルを外し、ありのままを晒した。
「司くん?」
「え、それって……」
胸の大きなバツ印を、俺は指でなぞった。
指先に視線が集まるのを感じる。怖くて、指が震える。
「去年、バカやって……自分でつけたんです。この傷を見られたくなくて、学校も休みがちになったし、修学旅行にも行けなかった。だから、たろー先生が謝る必要なんて全然ないんです。全部、自分が悪いから」
「去年の、いつ?」
たろー先生が眉をひそめ、低い声で言った。
「え、と、6月ぐらい……です」
「自分で傷つけたって、ほんと?」
「はい」
「気がつかなくて、ごめん」
「え?」
「担任として、俺は最低だな」
「本当に俺がバカだっただけです。たろー先生のせいじゃないし、もう謝らないでください」
「でも……」
「司、もういい」
壮大に促され、俺はチャポンと肩まで湯に浸かった。視線から解放され、ハァーと長い息を吐く。
「あの……それより、たろー先生にはすごく感謝してるんです。
先生は、よく高校時代の話をしてくれましたよね。俺はそれを聞いて、先生の母校に入る決心をしました。その希望があったから、受験までの日々を何とか乗り越えられた。
お陰で今は毎日充実していて、本当に楽しいし、壮大とも出会えたし。一年前の自分に、こんなすごい未来が待ってるよって教えてあげたいです」
早口で喋る俺の言葉を、先生たちは黙って聞いてくれていた。
いつか伝えたいと思っていた。でもそんな機会は二度と来ないだろうとも思っていた、たろー先生への感謝の言葉。
話し終わると、背後にいた壮大が、俺の両肩にポンと手を置いた。
「かわいいですよね?うちの司くん」
「「はい」」
先生たちが声を揃えて頷いた。
「間宮先生、先程の件、太郎先生にも協力要請していただいていいですか」
「了解です。太郎くん、あとで話すね」
「うん、何でも協力させてもらいます」
「?」
何故か三人が団結している。よくわからないが、心強いことは確かだ。
「司、忘れないで。俺も、間宮先生も太郎先生も、司の味方だよ。何かあったら、俺たちを頼って。もう一人で悩まないで」
「うん、ありがとう……」
こんなに頼もしい味方が三人もできるなんて、俺はなんて幸せなんだろう。
心の底に沈澱していた、ドロドロとしたものが駆逐され、軽くなっていくような気がする。
幸せすぎてフワフワした気持ちのまま、部屋に戻り、かわいい花柄のベッドで壮大に抱きついた。
たぶん俺の脳内は、ドーパミンやオキシトシンといった幸福物質でいっぱいだ。
スッキリと刈り上げられた、ツーブロックのうなじにキスをする。くすぐったいと壮大が笑い、俺の瞼にキスをし返した。
俺はたぶん一生、今日のことを忘れない。
この思い出だけで生きていけるように、残りの合宿も楽しむんだ。
「びっくりした?」
「そりゃーすっごく」
「僕たち、あのお蕎麦屋さんにいたんだよね。ペンションに行く前に懐かしの味が食べたくてさ。君たちと入れ替わりだったのかな?美味しかったでしょ」
「はい」
「で、食べ終えた頃に丁度、部長から連絡がきて、君たちが近くのバス停で雨宿りしてるっていうから、寄ってみたって訳」
車に乗ってからずっと、間宮先生と俺で喋っている。司は黙ったままだし、運転手の男も無言で微笑んでいるだけだ。
あれは誰だ?
間宮先生の下の名前は、たしか悟(さとる)だ。たろうでは、ない。
「あのー、ところでそちらの方は?」
「ああ、佐倉くんは知らないのか。佐藤太郎くん。中学の教師をしてる」
「佐藤……たろう、さん?」
「そう、太郎先生。俺と同級生で、科学部のOBだよ」
「え、そうなんですか」
バックミラー越しに目が合った。
涼しげな目元が印象的な、爽やかイケメンだ。ニコッと上がる口角に、何故かちょっとイラッとする。
「よろしくね」
「……くっす」
「佐倉くんだよね」
「はい」
「沢渡くんも、久しぶりだね」
司がビクッと怯えたように前を見た。
「司、知ってるの?」
「知ってるよね。中三の時の担任だもん」
「……っはい。びっくりしすぎて、もう、え、なんで、たろー先生が」
司が早口で答える。狼狽えているのが伝わってくる。
「太郎くんは、OBとして特別参加。大人が僕一人じゃつまらないから、付いてきてもらいました」
「沢渡くん、卒業式以来だな」
「あ、はい」
「間宮先生から、俺のこと聞いてただろ?」
「……はい」
どういうことだ。
司は、この太郎先生が科学部OBだと知っていたのか?元担任が現顧問と同級生だということも?
そもそも、それを知っていて科学部に入部したのか?
……俺は、何も聞かされていない。
「沢渡、大丈夫か?」
「え?」
「さっきバス停で、具合悪そうに見えたから」
「あ……大丈夫です。雨が……ちょっと苦手なんですけど、壮大が庇ってくれてたから」
「そうか。信頼できる友達ができたんだな、よかった」
太郎先生が優しく微笑み、司が赤く高揚した顔で応える。
なんだ、この微妙な空気は。これ以上、二人の会話を聞いていたくない。
居たたまれなくなった俺は、司の肩にもたれかかり、目を瞑った。
「壮大?眠い?」
「……ん。着いたら起こして」
「わかった」
「……今日は蕎麦屋の他にどこか行ったの?」
「近くの川に行ってました」
「ああ、あそこの川、きれいだよね」
「あそこ、釣りとかできるんですかね?」
「できるよ。前に何度か、釣ってる人を見かけたな。イワナとか、ヤマメなんかもいるんじゃないかな」
「へー、そうなんですか」
寝たふりをしていると、本当に睡魔が襲ってきた。司たちの話し声と雨音が子守唄になり、ペンションに着くまで、俺は眠ってしまった。
夕食はテラスではなく、食堂でホットプレートを使っての焼肉パーティーとなった。
一見クールな雰囲気の太郎先生は、話すと人当たりが良く、少年のような笑顔が爽やかで、正直カッコいい。すぐに部員皆んなと打ち解け、よく喋っていた。
流石、元生徒会長兼部長。高校時代の武勇伝が魅力的で、話題が尽きない。特に間宮先生と科学部を創設した当時の話は興味深く、部員たちの関心を集めた。
食事が終わり、先輩たちがガヤガヤと部屋に戻って行った。
俺たちも、と腰を上げかけると、近くに太郎先生が立った。
「沢渡くん、いい?」
司は小さく頷き、立ち上がる。
暗黙の了解のような動きに、俺は困惑を隠せなかった。
「え?司?」
小さく声をかけると、司は「たろー先生と少し話してくる」と緊張した顔で答えた。
「すぐ戻るから、先に部屋に行ってて」
「……おう」
司は太郎先生に付いて食堂を出て行った。俺はその後ろ姿を憮然として見送る。
話って、なんだ。
司は中学時代の同級生からセクハラのようなイジメを受け、誰にも相談できない辛い日々を送ったと打ち明けてくれた。
今さら元担任と二人きりで話すことなんかあるか。
「佐倉くん」
気がつくと、間宮先生が隣に来ていて、湯気の立ったコーヒーカップが目の前に置かれた。
「一緒にコーヒーでも飲んでようよ」
「……」
「オーナーが淹れてくれた、特製のブレンドだよ。温かいうちにいただこう」
濃いめのブラックコーヒーは、苦くて深い味わいだった。間宮先生も美味しそうにカップに口をつけていた。
この際、この人に聞くしかないか。
「……あの、太郎先生って、司の中学の先生だったんですよね」
「そうだよ」
「司、あんま中学に良い思い出は無いって、言ってたんですけど。二人でなに話してんすかね」
「……佐倉くんは、どこまで知ってるのかな」
「どこまでって……なんか、同級生に揶揄われたりしてたってことは聞いてます」
「そう。その時の担任が太郎先生だったんだけど、当時は何も助けてあげられなかったって後悔してるみたい」
「ああ……」
「そのことを、謝ってるんじゃないかな」
勝手だな、と思った。
太郎先生はその時たぶん、司が悩んでいることはある程度わかっていた筈だ。わかっていたのに司に声をかけるでもなく、他の生徒を叱るでもなく、放置した。
今さら謝っても、司の苦しみが消えることはない。太郎先生の心が軽くなるだけのことだ。
「どうして何もしてあげなかったんですかね」
「んー、彼には彼の事情もあったんだよ。詳しくは言えないけど」
「……ずるいですね」
「そうだね」
間宮先生はコーヒーを飲み干し、ソーサーにカチャリと置いた。
「僕と太郎先生が科学部の創設者だと知った時、司くんはすごく驚いてたよ。でも君には話していなかったんだね」
「……はい」
司は何故話してくれなかったんだろう。そんな衝撃の事実、俺ならすぐに話したくなるが。
「あの子はいい子だね。それが僕たちにとってアウティングに繋がるから、話さなかったんだと思うよ」
「……は?」
「僕と太郎先生、付き合ってるんだ。同棲もしてる」
「ええ?!」
「他の人にはナイショだよ」
「うーわ、そうなんですか……」
間宮先生はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「学生の頃からだから、結構長い付き合いになるかな。君たちの参考になれると思うから、何でも相談していいよ」
「……はい?」
「付き合ってるんだろ?司くんと」
「え、え、わかりますか?」
「うん。確信したのはさっきだけど。バス停でくっついてたから」
「う、わーーー」
雨でそこまで見えていないかと油断してた。
あーーー、でもいいか。
間宮先生も話してくれたんだし。
「付き合ってます」
「ははは、言ったね」
「俺、実は間宮先生が司のこと気に入ってるのかと思ってて、……ちょっと感じ悪かったすよね」
「いやー、そんなことないけど。でも、太郎くんは司くんのことを気に入ってたから、俺も妬いてたところあるかもな」
「そうなんですか?」
「そう。かわいい子がクラスにいるんだって、何っ回も聞かされてたんだよ。酷いよな、僕がいるのに」
「あはは」
中学生の頃の司は、そりゃあ天使のように可愛かったのだろう。
でも、そんなに気に入っていたのに、イジメから助けてあげられなかったのはどうしてだろう。
ふいに、司が『たろー先生』と呼んだ時の、少し照れたような、優しい響きが脳内再生される。
……なんとなく、察しはつくような。確かめるのが、怖いような。
「てか、今も二人きりで部屋にいる訳じゃん?もちろん太郎くんのことは信頼してるけど、ほんのちょっとはモヤモヤするよね。だから佐倉くんを誘ったんだけど」
「はあ」
確かに、少しはモヤモヤするよな。大丈夫だとは思うけど。
それにしても……この人、教師なのに生徒にぶっちゃけ過ぎなのでは。そっちのほうが心配なんですけど。
でも、この人のことは信用できる。
教師だからとかではなく、愛する人がいる一人の男同士として、本音を言ってもいい。そう思えた。
「……間宮先生、早速ですけど、ちょっと相談してもいいですか」
「え、なになに?」
「実は……」
————————————————————————
たろー先生との話を終え部屋に戻ると、壮大の姿がなかった。
今夜は悪天候で天体観測はできないし、先に風呂へ行ったのかと覗いてみても、先輩たちしか見つからない。
不安に焦りながら館内をあちこち探して、ようやく灯りの消えた食堂で見つけた。
「何やってんですか、こんな暗いところで」
かろうじて、奥のテーブルの上の燭台にだけ、焔がゆらめいている。
そこで壮大と間宮先生がヒソヒソと話をしていた。
「あ、司!」
壮大はこちらを見て、ニコニコと手を振ってみせる。その屈託のない笑顔を見て、俺はホッと息をついた。
「お二人、そんな仲良しでしたっけ」
「はは、仲良しですよ。そっちの話は終わった?」
「はい」
「じゃあ僕も部屋に戻ろう。君たち、お風呂行っておいでよ」
「いえ……俺は、一番最後にします」
「でも、明日はハイキングだから、早めに済ませて早く寝たほうがいいと思うけど」
「大丈夫です。先生方、お先にどうぞ」
「そう?……じゃあ太郎くんと行ってこようかな」
「はい、ごゆっくり」
「そうだ、佐倉くん」
間宮先生が壮大を手招きし、何やらコソコソと耳打ちした。
「はあ?!」
「ははは、じゃあ、おやすみ」
間宮先生は蝋燭の火を一息に吹き消し、空になったコーヒーカップを持って食堂を出て行った。俺と壮大も部屋に戻る。
「さっきの耳打ち、何だったの?」
「あー、なんでもない。それより、太郎先生の話は、どうだった?」
「うん……大丈夫。思ったより冷静に聞けた」
「そっかー、よかったな」
「間宮先生から前に少し聞いてたから、落ち着いていられたのかも」
「そうか」
自分でも不思議なくらい、俺の心は平静なままだった。
もしもう一度会ったら、感情が爆発して、泣いたり喚いたりしてしまうかもしれないと思っていたのに。
「守ってあげられなかったことを後悔しているって、何度も謝ってくれた」
「うん」
「あんな風に大人に謝られることなんかないから、何て答えたらいいのかわからなかった」
「うん」
別に謝って欲しかった訳じゃない。
同級生に言い返せなかったのも、胸に消えない傷跡を作ったのも、全部自分自身の責任だ。
ただ俺は、先生がこちらを見なくなったことが悲しかっただけだ。
「俺は当時、先生に見捨てられたって思ってたんだけど、そうじゃなかった。たろー先生の立場も今なら理解できる。先生が関わることで、より一層ひどいいじめに発展する恐れもあったと思う。
先生なりに悩んで、一年以上経った今でも、あんなに悔やんでるなんて……びっくりした」
それでもあなたは、微かな希望のカケラだった。
あなたが見た景色を見たくて、俺はここまできた。
「好きだったんだな」
「え?」
壮大に自分の気持ちを言い当てられて、心臓がドキンと跳ねた。
「太郎先生が、司を」
俺が、じゃなかった。
え?でも、なんで?
「え、え?何言ってんの。そんな訳」
「どうでもいい生徒のことで、いつまでも悩んだり後悔したりしねーだろ、普通。ついでに言えば、こんなところまで会いに来て謝ったりも、しない」
「え……」
「でも先生には、昔から付き合ってる恋人もいたし、教師という立場もあったしで、当時はどうにもできなかったんだろうな」
「……」
「司は辛かったと思うけど、俺としては、正直、太郎先生はよくぞ踏みとどまってくれたなと思うよ。間宮先生もそうなんじゃない?」
脳内は混乱で爆発寸前だ。
好きだったとか、そんな訳ない。踏みとどまるとか、意味わかんない。
それに『間宮先生も』って何なんだ。
あれ?もしかして、壮大は間宮先生とたろー先生のことを知ってるのか?
「えっと……壮大は、間宮先生から何か聞いたのかな」
「ああ、聞いた。学生時代からずっと、太郎先生と付き合ってるって」
「あーーー」
「俺と司も、付き合ってるんだろとも言われた」
「んえええ?!」
「イエスって答えた。勝手にごめん」
「う、わーーー、い、いいけど」
明日から間宮先生とどんな顔をして会ったらいいんだ。
「でも俺、間宮先生のことは信用することにしたから。それで、ちょっと考えてることがあって、先生に相談してたんだ」
「ん?なにを」
「上手くいくかわからないから、もう少ししたら話す。それまで待ってて」
「んー、わかった」
相談ごとは気になるが、もう俺の頭は完全にキャパオーバーだ。
間宮先生のことは俺も信用しているし、壮大のことはそれ以上に信頼している。だから、大丈夫。
チュッ
俺は衝動的に、壮大にキスをした。
全部、バーストしてポヤポヤになった、この脳みそのせいだ。
「う、わーーー、やばい、嬉しい」
照れた壮大が、フニャリと笑う。その顔が、たまらなく愛しいと思う。
「ふふふ」
「ねえ、さっき、間宮先生が俺に何て耳打ちしたと思う?」
「んー?なんだろ」
「このペンション、造りはしっかりしてるから、防音は完璧だよ、だって」
「は?」
そう言えば、昨夜は二年生の先輩たちが随分遅くまでUNOで盛り上がっていたそうだが、声も何も聞こえなかった。それだけ重厚な造りの建物ってことか。
「つまりイチャイチャし放題ってことじゃん!あー!しくった!俺、合宿中は真面目で品行方正な清純派でいようと思ってたから、なんも持ってきてない。今すぐ司と色々したいのに!!」
「色々って……?」
「……バニラならできるか?」
「え?なにそれ」
「いや、なんでもないです」
一人で百面相をしている壮大が面白くて、よくわからないけどクスクス笑ってしまう。
「イチャイチャ、してみる?」
「え」
壮大が真顔でこちらを見た。まずいことを言ってしまったような自覚はある。
「その前に、お風呂行こう」
「え、でも先生たち、まだいるかもよ?」
「うん……いいんだ。俺、先生にまだ言ってないことがある。ちゃんと伝えたいから」
脱衣所には、二人分の着替えとバスタオルが置いてあった。
少し怖いが、隣には壮大がいる。大丈夫。
俺は着ていたものを次々とカゴに入れていった。
洗い場で全身を洗い、洞窟風呂へ。
薄暗い灯りを頼りに、俺は迷わず進む。
「間宮先生、たろー先生」
「ああ、君たちもやっぱり来たんだね」
湯気の向こうに、二人の姿が見えた。
普段の白衣やスーツ姿からは想像がつかない、彫刻のような筋肉のついた身体。大人の男性として、完璧に絵になる、お似合いの二人。幻想的な洞窟の雰囲気もあって、そのまま写真集を出せそうだ。
勢いで声をかけたものの、俺は緊張で口籠ってしまう。
「お邪魔します」
言葉に詰まった俺の代わりに、壮大が言った。
「いらっしゃい」
「雨で露天風呂に行けないのが残念だね」
「はい」
「露天風呂から見る夜空も綺麗なんだよね。昨日見たかな?」
「見ました!すごかったです」
「あの、」
思い切って出した筈の俺の声は、思ったよりも小さかった。
それでも三人は、ちゃんと俺を見てくれた。
「……先生たちに、見て欲しくて」
俺は前を隠していたタオルを外し、ありのままを晒した。
「司くん?」
「え、それって……」
胸の大きなバツ印を、俺は指でなぞった。
指先に視線が集まるのを感じる。怖くて、指が震える。
「去年、バカやって……自分でつけたんです。この傷を見られたくなくて、学校も休みがちになったし、修学旅行にも行けなかった。だから、たろー先生が謝る必要なんて全然ないんです。全部、自分が悪いから」
「去年の、いつ?」
たろー先生が眉をひそめ、低い声で言った。
「え、と、6月ぐらい……です」
「自分で傷つけたって、ほんと?」
「はい」
「気がつかなくて、ごめん」
「え?」
「担任として、俺は最低だな」
「本当に俺がバカだっただけです。たろー先生のせいじゃないし、もう謝らないでください」
「でも……」
「司、もういい」
壮大に促され、俺はチャポンと肩まで湯に浸かった。視線から解放され、ハァーと長い息を吐く。
「あの……それより、たろー先生にはすごく感謝してるんです。
先生は、よく高校時代の話をしてくれましたよね。俺はそれを聞いて、先生の母校に入る決心をしました。その希望があったから、受験までの日々を何とか乗り越えられた。
お陰で今は毎日充実していて、本当に楽しいし、壮大とも出会えたし。一年前の自分に、こんなすごい未来が待ってるよって教えてあげたいです」
早口で喋る俺の言葉を、先生たちは黙って聞いてくれていた。
いつか伝えたいと思っていた。でもそんな機会は二度と来ないだろうとも思っていた、たろー先生への感謝の言葉。
話し終わると、背後にいた壮大が、俺の両肩にポンと手を置いた。
「かわいいですよね?うちの司くん」
「「はい」」
先生たちが声を揃えて頷いた。
「間宮先生、先程の件、太郎先生にも協力要請していただいていいですか」
「了解です。太郎くん、あとで話すね」
「うん、何でも協力させてもらいます」
「?」
何故か三人が団結している。よくわからないが、心強いことは確かだ。
「司、忘れないで。俺も、間宮先生も太郎先生も、司の味方だよ。何かあったら、俺たちを頼って。もう一人で悩まないで」
「うん、ありがとう……」
こんなに頼もしい味方が三人もできるなんて、俺はなんて幸せなんだろう。
心の底に沈澱していた、ドロドロとしたものが駆逐され、軽くなっていくような気がする。
幸せすぎてフワフワした気持ちのまま、部屋に戻り、かわいい花柄のベッドで壮大に抱きついた。
たぶん俺の脳内は、ドーパミンやオキシトシンといった幸福物質でいっぱいだ。
スッキリと刈り上げられた、ツーブロックのうなじにキスをする。くすぐったいと壮大が笑い、俺の瞼にキスをし返した。
俺はたぶん一生、今日のことを忘れない。
この思い出だけで生きていけるように、残りの合宿も楽しむんだ。

