夏休みに入り、科学部合宿へ出発の朝。
ソワソワしてだいぶ早い時刻に目が覚めてしまった。
持ち物を再度確認。よし、抜かりない。

新宿駅での集合時間に合わせ、家を出た。
出勤する母と一緒に駅まで歩く。
母はいつも俺より先に出てしまうので、一緒に駅まで行くことは珍しい。
コツコツとヒールの音が響き、低めに結んだポニーテールの長い髪が揺れる。
今年で37歳の筈だが、もっと全然若く見える。仕事が忙しくても、家のことも、自分磨きも怠らない。我が母ながら、すごい人だと思う。

「合宿楽しみ?」
「うん。楽しみだよ」
「そう、よかった」

母は前を向いたまま、嬉しそうに微笑んだ。

「司、高校入ってから明るくなったわね」
「そうかな」
「そうよ。前はほとんど出歩かなかったし、部活で合宿なんて、考えられなかったでしょ」
「……そうかもね」

中学校では部活に入らなかった。
ろくに友達も作らず、修学旅行にも行かなかった。
辛くても、母にも誰にも言えなかった。
あの頃の自分は、あまり思い出したくない。

「でも今は、なんだか楽しそう」
「うん、楽しいよ」
「いいお友達ができたからかしら。この間うちに泊まりにきたっていう……」
「佐倉壮大」
「そうそう、佐倉くん。クラスも部活も一緒なんでしょ?頼れるお友達ができてよかったわね」
「そうだね」

壮大はただのお友達ではないんだけど。

「今の司なら、言っても大丈夫かな」
「ん?なに?」
「お母さん、話があるの」


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新宿駅から特急電車に乗った。
今日から三泊四日の合宿だ。
科学部は少人数で極ゆるい活動をしているので、合宿といえども、ほぼグループ旅行みたいなものだ。
四日間もずっと司と一緒に居られると思うと、ニヤニヤが収まらない。
この日のために俺は期末テストでクラス首位を勝ち取り、父親から特別ボーナスを授かった。
一言で言えば、最上級確変イベ。
楽しみで仕方ない。

なのに、隣に座る司は、朝からなんだかボーッとしているようだ。今は窓際に肘をつき、流れる景色をぼんやり眺めている。

「司?」
「……うん?」
「大丈夫か?」
「ん」

尋ねても生返事しか返ってこない。

「具合悪い?眠いのか?」
「え、いや、大丈夫」

ぱち。やっと目が合った。
上目遣いの大きな瞳が、窓からの光を写しキラリと輝く。
今日もかわいい、俺の天使。

「そう?」
「うん、ちょっと考えごとしてただけ」
「……何?俺が聞いてもいいこと?」
「んーーー」

司が口を開きかけた時、前のシートに座った先輩がこちらを向いた。

「佐倉くん、沢渡くん!お菓子食べる?甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」
「あ、えっと」
「うんうん、わかるよ、どっちもだよね!じゃあこれあげる」

両手から溢れるほどのお菓子を渡された。先輩たちの浮かれようは、どうやら俺以上のようだ。

「わ、こんなに、ありがとうございます」
「二人とも、楽しんでね!」
「「はい」」

司も笑顔で返事をした。よかった、大丈夫そうだ。
司からは前もって、こういった宿泊を伴う行事はほぼ初めてなのだと聞いていた。
人混みは苦手だし、大浴場などで肌を見せるのも避けたい。
でもそういう不安やリスクを背負ってでも、参加してみたいと言ってくれた。
それならば俺は、全力でサポートするし、楽しいことは一緒に楽しんで、最高の合宿にする。


小淵沢駅で乗り換え、大自然の中をローカル線で走る。
日常と離れていくにつれ、司の表情が柔らかくなっていくのがわかった。キラキラとした目で遠くの山々を眺める司が可愛くて、キスしたくなるのをグッと堪える。

鄙びた味のある駅で降車し、一同は牧場に寄った。
先輩達が乗馬体験をするのを見て、司が自分もやってみたいと言った。恐る恐る馬に跨がる司も最高に可愛くて、何枚も写真を撮った。
そして乗馬の後に食べたソフトクリームは、人生史上最高ランクの美味さだった。

その後は、メインの目的地である大天文台に移動し、予約していた見学ツアーに参加した。
世界最大級という、どでかい電波望遠鏡をはじめ、幾つもの望遠鏡が並ぶ様子は圧巻だ。ガイドのおじさんが饒舌で面白かったし、普通は見られないような所まで入らせてもらい、めちゃめちゃ興味を惹かれた。
司はノートにメモを取りながら、人一倍熱心に見学していた。俺も展示に夢中になって、ふと気がつくと、司がいない。
あれ?と思って周りをキョロキョロ見回す。天文台の構内は携帯電話が使えない。焦ってあちこち探すと、見学フロアの片隅で、知らない天文オタクから「僕が個人的に案内してあげようか」と囲われていた。

「はあ?!」

思わず、その場には不似合いな大きな声が出た。
ズンズン大股で近づき、司の手を取る。

「お前、俺から離れんなよ」
「あ、うん。ごめん」
「……」

横目で睨むと、オタクはすぐに立ち去っていった。
はあ。自分に腹が立つ。
何が全力でサポートするだ。全然できてないじゃないか。

「あれ?一年生くんたち、手ぇ繋いでるの?仲良いね」

先輩たちに見つかり、司がパッと俺の手を振り払った。

「あー、司、迷子になってたんすよ。今見つけたところで」
「わ、そうなの?ここ広いからな、気をつけてね」
「はい」

先輩の言葉には全く嫌味も揶揄いも含まれていない。純粋に俺たちを気遣ってくれているのが伝わってくる。こういう先輩部員たちの人柄が、この部に入って良かったと思うところの一つだ。
正直俺は、先輩たちに俺たちが付き合っていると知られても構わない。むしろみんなの前で発表したいぐらい、浮かれている。
でも司は、少しでも揶揄われる危険を感じたらダメだ。スッと熱が冷めていってしまう。
まずった。こんな所で手を繋いだのは、俺の失態だ。配慮が足りなかった。
俺は司から一歩だけ離れ、強張った表情が再び緩むのを待った。


お世話になるペンションは、天文台からローカル線で数駅先の高原にポツンと建っていた。
煉瓦造りの建物は多少古いが、洋風で落ち着いたいい雰囲気だ。
広いテラスでは天体観測もできるということで、望遠鏡の設備も整っている。「今日はお天気がいいから観測日和ですよ」と、オーナー夫妻が和(にこや)かに出迎えてくれた。

客室は、建物の二階に四人用のファミリールームが一つと、二人用のツインルームが三つだけの、小さなペンションだ。今回は我が科学部の貸し切りなので、他のお客さんはいない。
二年生部員が4人いるので広いファミリールームを使い、2人ずつの三年生と一年生はツインルームという部屋割りになった。
残りの一部屋は顧問の間宮先生用だが、先生は仕事の関係で明日の夕方に到着する予定だ。
司と二人きりの部屋。最高じゃないか。

「わー!かわいい部屋だ」

ペンションに着いた頃には上機嫌に戻っていた司は、部屋に入ると更にテンションが上がり、あちこち覗いて見てまわっていた。
あちこち、というほど広くはなく、シングルベッドが2台並んでいる他は、アンティークっぽいクローゼットと文机、小さな二人掛けのソファーがあるのみだ。
ベッドカバーやソファーにリバティーの小花柄が使われていて、昔の洋画に出てきそうな雰囲気がある。

荷物を置くとすぐに夕食に呼ばれ、一階の食堂に降りた。
細長いテーブルの上に、シーフードいっぱいのパエリアや生ハムが乗った大きなピザが所狭しと並んでいる。銀の燭台には蝋燭の火が灯り、男子学生の合宿には申し訳ないような気がする。

「うわー、美味そう!」
「いただきまーす!」

先輩たちとソフトドリンクで乾杯し、めちゃめちゃ食べた。どの料理も最高に美味しかった。
司も美味しいと言って、よく食べ、終始楽しそうにしていた。

夕食の後はテラスに集まり、天体観測をした。
都会の空とは勿論違う。プラネタリウムとも全然違う。怖いくらいに深く美しい星空に圧倒され、しばし言葉を失ってしまう。降るような星空とはこのことなのか。
天の川やスピカやアンタレスが明るく輝き、その周りに無数の星々。星座はあまり詳しくないが、先輩たちがあれこれ教えてくれた。
この星空を観られただけでも、この場所に来て良かったと思える。そんな空だった。

しばらく外にいると空気が冷えてきたので、部長が一旦解散を決めた。
三年生の2人はしっかり寝袋持参で、夜通しテラスにいるつもりだという。インターバル撮影という、星の動きを線にして写真に撮る方法に挑戦するらしい。二年生は部屋でUNO大会をするそうだ。
俺と司もUNOに誘われたが、丁重にお断りして先に風呂を使わせてもらうことにした。
小さめだが露天風呂も備えた立派な風呂があるらしく、皆んなが来ないうちに入っておきたかったのだ。
「今なら誰も来ないだろうから」と言って司を誘うと、少しだけ迷ってから「うん、行こう」とはっきり頷いた。

脱衣所で俺は勢いよくパパッと服を脱ぎ、「先行ってんな!」と声を掛けた。何となく気恥ずかしくて、司を直視できない。
風呂は普通の洗い場と、洞窟の中のような岩の壁に囲まれた浴槽と、緑いっぱいの露天風呂があった。
洗い場でシャンプーを泡立てていると、司が隣に立った。
前にタオルを垂らしているが、細く白い足が艶かしくて、目のやり場に困る。

「結構広いんだね。5人ぐらいなら余裕そう」
「そうだな。向こうに洞窟風呂とか露天風呂もあるぞ」
「へー、楽しみ」

司も俺の横に座り、髪を洗い始めた。

「背中流そうか?」
「えっ」

司がピタッと動きを止める。

「はは、警戒しなくていいよ。合宿中は流石に、不健全なことはしないから」
「ええっ」
「普通に洗うだけ」
「……うん」

司が後ろを向いた。浮き出た肩甲骨が、まるで天使の羽みたいだ。
俺はボディーソープでモコモコといっぱいの泡を立て、フワリと羽根の上に乗せた。きめの細かい肌に傷をつけないよう、手のひらで優しく擦る。
すべすべで、気持ちいい。
……。
数分前の自分の言葉に首を絞められる。
これ以上はやばい。頭の中で激しく警告音が鳴った。
俺はシャワーを出して、司の背中の泡を流した。

「終わり。身体洗ったら、洞窟行こうぜ」
「うん……ありがと。俺も背中やる?」
「いや、大丈夫、もう洗ったから」
「そう?」
「うん。先、行ってるよ」
「あ、ちょっと待って!」

洗い場から離れようとすると、司に呼び止められた。

「え?」
「行かないで。一人だと、不安なんだ。……そばにいてほしい」
「ええ?」
「俺、思ったことを口にするのが得意じゃなくて……さっきも、天文台で壮大が助けてくれて嬉しかったのに、あんな態度をとっちゃって、ごめん。
でも、これからはなるべく素直に気持ちを伝えていきたいと思ってるんだ。すぐに壮大みたいになれる訳はないってわかってるけど……。
だから壮大も、俺がおかしかったり、嫌だったりしたらちゃんと言ってほしいんだけど」
「え、やば、嬉しい」

嫌なことなんか、ある訳がない。
司が俺のことを考えて、自分にして欲しいことを言葉にしてくれたのが嬉しすぎて、他に言葉がみつからなかった。
俺は司が全身を潔めるのをニコニコと待ち、一緒に洞窟風呂に入った。
薄暗い照明が異世界のような岩と水面をゆらゆらと照らす。
二人で湯船に並んで座り、お湯の中で手を繋いだ。

「司、好きだよ」
「俺も、壮大、好き」

横を向いて視線が合うと、磁石が引き寄せ合うように、二人の唇が重なる。
数回のキスのあと、気がついたら司の顔は真っ赤になっていた。
手を挙げて偉い人に質問したい。先生、キスは不健全に入りますか?入るなら、ごめんなさい。俺は嘘をつきました。

「……やばい、のぼせるから外行こう」
「ん」

手を繋いだまま露天風呂へ移動する。湯船には浸からず、周りに置かれたベンチに座った。

「気持ちいいな」
「うん。いい風」

都会のものとは違う、マイナスイオンたっぷりの涼しい風が、ほてった身体に心地良かった。

「壮大見て、すごい」

司に言われて見上げると、満天の星空だった。

「ああ、綺麗だな」
「うん。……ふふふ」
「ん?なに」
「これがホントの『星降る夜の森林浴』だね」
「ああ。でも正しくは『星降る夜の露天風呂』じゃない?」
「そっか。ふふ」

俺の誕生日に、偶然送り合った、あのアロマオイル。ここには無いのに、一瞬その香りを嗅いだような気がした。

「身体冷めたかな。少しあったまってから出ようか」

露天風呂に肩まで浸かると、司が「ねえ、壮大」と言った。

「部屋に戻ったら、少し話したいことがあるんだ」
「え?なに?今でもいいけど」
「んー、ちょっと長くなるかもだから、後にする」
「……そう?」

何だろう。改まって言われると、あまり良い話ではないような気がする。
まあでも俺のことは好きって言ってくれてるし、別れ話ではない筈。だから何を言われても大丈夫。どーんとこい。
そう思っていた俺だが、話はそう簡単なものではなかったのだ。


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話は今日の早朝に遡る。
合宿の集合時間に合わせて駅までの道を母と歩いていた、その時。
母が爆弾発言をしたのだ。

「お母さん、結婚するわ」

大学生の時に俺を一人で産んで、卒業してからは仕事一筋、着実にキャリアを積み上げてきた母だ。
今まで彼氏がいるなどという話は一度も聞いたことがない。

「は?」
「だから、結婚」
「……誰と」

母が語った相手のプロフィールは、同じ職場の32歳。母より5歳年下だ。
バツイチだが子供はいない。趣味は読書と釣り。性格は温厚で、俳優のナントカって人に似たイケメンらしい。
交際歴は3年ほどになるという。
3年もの間、俺は全く気が付いていなかった。母にそんな人がいるなんて、想像すらしたことがない。
鈍感にも程がある。俺は自分のことに精一杯で、たった一人の家族のことさえ、ちゃんと見えていなかったんだ。
下ばかり向いていた頃は、真っ直ぐ前を見て突き進む母とは永遠に分かり合えない気がしていた。
この3年の間には、二人の間に結婚という選択肢が浮かんだこともあったのかもしれない。
きっと母は、俺のために、それを選ばなかった。
『今なら言っても大丈夫かな』という母の言葉は正解だ。
今の俺なら、母の幸せを祝える。

「……おめでとう」
「ありがとう。近いうちに紹介するわね」

母は幸せそうに微笑んだ。
年齢よりだいぶ若く見られる母なら、歳下の相手ともきっとお似合いなのだろう。
仕事と家事しか興味がなさそうに見えた母が、しっかり恋愛もこなしていたとは。尊敬するしかない。

「で、その彼が今度名古屋の研究所に転勤することになったんだけど、私も一緒に移動願いを出そうかと思ってて」
「え、名古屋?」
「そう。この機会に籍を入れて、一緒に暮らそうってプロポーズされたの」
「……なるほど」
「司、一緒に名古屋行ってくれるわよね?彼は息子さんもぜひ一緒にって言ってるから」
「え」
「その場合、高校は転校しなくちゃならないんだけど」
「えええ?」
「今の高校は楽しそうだし、頑張って入学したところだから嫌かもしれないけど。千葉のおばあちゃんちも遠すぎるし、高校生に一人暮らしさせる訳にもいかないから」
「……」
「考えておいてくれる?」
「……わかった」
「それじゃ、合宿楽しんできてね」

最寄りの駅に着いてからは、母は颯爽としたキャリアウーマンの顔になり、プライベートな話をすることはなかった。
俺は、今聞かされた話と今日から始まる合宿のことで頭のキャパがオーバーしそうだった。



「……名古屋?え、ダメ。絶対反対!!」

壮大が顔を思い切りしかめて言った。
やっぱり、そうだよな。
壮大なら反対してくれるかもと思ってはいたので、ちょっと嬉しい。

「でも、今日ずっと考えてたんだけど、そうするしかないのかなって」
「なんで」
「母には幸せになって欲しいし、俺はまだ高一の子どもだし。一人で稼いで生きていける歳じゃないから、親についていくのが自然だろ」
「でも」
「……母は、未婚のまま俺を産んだって話したよな。今の家に越してきてからは、ずっと一人で、こんな頼りない息子を育ててきてくれた。今まで、やりたいこととか、我慢することも色々あったと思う。これ以上、母の幸せを妨げる存在になりたくないんだ」
「お母さんにはもちろん幸せになって欲しいよ。でも、それと司が名古屋に行っちゃうことは別じゃん……」

壮大は情けない顔で俺の手を握ってくれた。
俺は今、どんな顔をしているだろう。

「俺、今住んでいる街にあんまりいい思い出がなくて。ずっと、どこか遠くへ行きたいなーって望んでたんだ。これはある意味チャンスなのかもな。あのマンションを売れば、新生活の資金の足しにもなるんだろうし」
「……俺は?」
「え?」
「俺は、ここに留(とど)まる理由にならない?」

やばい。堪(こら)えていた涙が溢(あふ)れてしまった。
こんな気持ち、母に説明できる訳がない。
でも。
壮大にだけは、伝えなくちゃ。

「…………壮大と離れたくない。俺、どうしたらいい?」
「司……」

壮大はそれ以上無責任な言葉を吐くことはなく、黙って俺を抱きしめてくれた。
俺たちはどうしようもなく未熟で、でも純粋無垢な子どもではなくて。
泣き疲れた俺は、壮大の腕の中で眠りについた。



翌日は夕方まで自由行動ということになっていた。
夕食は間宮先生も来てペンションのテラスでバーベキューをすることになっているが、それ以外は白紙のスケジュールだ。
先輩たちは、ローカル線に乗って日帰り温泉に行くグループと、近くのリゾートホテルでプール&ビュッフェランチというグループに分かれた。
俺は温泉とプールは避けたいので、路線バスに乗り、秘境の蕎麦屋を目指すことにした。ペンションのご主人に教えてもらった、穴場中の穴場ということで、楽しみだ。
壮大は本当はプールとビュッフェ派なのかもな、と思うのだが、「水着持ってきてねーし」と、迷わず俺に付いてきてくれた。
昨夜はつい泣いてしまったけど、二人きりの自由な一日。気持ちを切り替えて、ちゃんと楽しみたい。

田舎のバスはびっくりするほど長閑(のどか)だ。全員知り合いのような地元の人しか乗っていない。ちょっとしたアウェイ感を感じながら、一番後ろの席に壮大と並んで座った。

「なんかエモい風景だよな」と壮大が言った。

「トトロ出てきそうだな」
「ねこバスも走ってそう」

緑いっぱいの景色に見惚れながら一時間近くバスに揺られ、更にバス停から歩くこと20分。
この上なく辺鄙な場所にあるにも関わらず、その蕎麦屋はお客さんで賑わっていた。みんなどうやって調べて来ているのか、不思議だ。
店のオススメだという天ぷら蕎麦は、揚げたての天ぷらと風味のあるお蕎麦が美味しくて、遠くまで来た甲斐があった。
壮大と食べると、天ぷら蕎麦もパエリアもラーメンも、全部すごく美味しいと思う。一人で食べる夕飯と全然違うような気がするのは何故なんだろう。母の手料理だって、いつも完璧に美味しいのに。
デザートに蕎麦粉のクレープまで食べて、大満足でお店を後にした。

帰りのバスにはまだ時間がある。
俺たちは来る途中で見かけた小さな川に寄ってみることにした。
ゴツゴツした岩場を降りると澄み切った清流が流れている。川幅は狭く、水深も浅そうだ。容易に歩いて渡れそうに見える。

「うわぁ、綺麗」
「ザ・夏休みって感じの光景だな」
「入ってみても平気かな?」
「いや、やめといた方がいいぞ。緩やかに見えても案外流れが速いところがあるから、知らない川には入るのは危ない」
「んー、そうなのか」

少し残念な気持ちで、川の流れを眺める。
サラサラという水音が耳に心地良い。魚とか、いるのだろうか。

「ここ、釣りはできるかな?」
「どうなんだろ。川魚はいるんじゃないかな」
「母の結婚相手さん、釣りが趣味なんだって」
「え」
「俺もいつか一緒に連れてってもらえるかな」
「……」
「名古屋にもこういう川あるのかな」

言ってしまってからすぐに、言わなければ良かったと後悔する。
こんなの、壮大を困らせるだけなのに。

「司」
「……」
「行かないで」
「……」
「お母さんと、ちゃんと話してみてほしい。こっちに残る方法はないのか」
「……」

それは、俺もずっと考えている。でも。

「俺、何でも協力するよ。一人であのマンションに住むのがダメなら、俺んちに住んでもいい。うちの親を説得しようか」
「いや、それは壮大のご家族に申し訳ないし、俺の性格的にも無理だ」
「じゃあ、俺が壮大の家に住む」
「そんなの、現実的じゃない」
「俺が一緒に名古屋に引っ越してもいい」
「ばか」

堂々巡りの話をしているうちに、さっきまでの晴天の夏空が俄かに曇ってきた。
ひんやりと湿った風が頬に当たる。

「まずいな。雨降るかも」
「山の天気は変わりやすいっていうからね。ひとまずバス停に戻ろうか」
「おう」

田舎道を歩きながら、俺はだんだん不安に負けそうになる。そんな俺の気持ちを読んだように、壮大は手をギュッと握っていてくれた。
この手があれば、大丈夫。
でも、手が届かないところに行ってしまったら、どうなるんだろう。

20分ほど歩き、どうにか雨が降る前にバス停に着いた。しかし時刻表を確かめると、なんとバスはあと1時間以上来ないことになっている。

「わー、まじか」
「俺、古い時刻表見てたんだ……確認ミスだ。ごめん司」
「いや、俺もよく見てなかったし」
「どうしようか」
「歩ける距離じゃないし、バスを待ってるしかないだろうけど……雨が」

そう言っている間に、ポツポツと大粒が降ってきた。
幸いバス停には雨除けの簡易な屋根とベンチが備えてあったので、そこに腰をかける。

「一応、部長に連絡しておくな。『俺と司、蕎麦屋の近くのバス停で雨宿りしてます。バスはあと1時間以上来ないんで、夕飯に遅れたらすみません』、と」

壮大の長い指が、タタタとスマホの画面を叩く。

「雨だとテラスでバーベキューはできないかな」
「そうだなー、残念だけど」

だんだんと雨足が強くなってきた。吹き込む雨を避け、ベンチの隅っこに肩を寄せ合う。
風上の壮大が俺の盾になってくれているのがわかった。

「司、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」

怖くない。今は壮大がいるから。

「雨、すぐに止むといいけどな」
「うん」

今夜もあの、降るような星空が見られるだろうか。

「あ、部長から返信きた。『オッケー、そこでいい子に待っててね』だって」
「ふふ、いい子にだって」
「あーそれムズいかも。俺、悪い子になっちゃいそ」
「……いいよ?悪い子でも。壮大はいつもいい子すぎるぐらいだから」
「まじ?」
「まじ」

首を壮大の肩に乗せて、腰に手を回した。
壮大は黙って、されるがままになっていてくれた。
この体勢、すごく収まりが良い気がする。
バス停には他に誰もいないし、雨がカーテンのように視界を遮っている。だから俺は体重を壮大に預け、二人の体温が混ざるまで、そのままじっとしていた。

壮大の背中しか見えていなかった俺は、その時一台の車が目の前に止まったことに気が付かなかった。
壮大の「え?」という訝(いぶか)しげな声に顔をあげると、黒いワゴン車のスライドドアが開いた。

「二人とも、早く後ろ乗って!」

助手席の人がこちらへ手を振る。

「え?間宮先生?」
「おー、迎えにきたぞ」
「まじか」

壮大が立ち上がり、こちらを振り返った。

「助かったな。司、行こう」
「うん。ありがとうございま……」

俺も立って、運転席の人へ挨拶をしようとした。
その時、息が止まった。

「……たろー先生」

俺の好きだった人が、そこにいた。