あの、昇降口でのキスのあと。
ひと月以上の時間が流れても、俺たちの仲は、さほど変わっていなかった。
が、些細なことだが、俺の中での変化はあった。
俺は司への気持ちを、事ある毎に口にするようになっていた。
「好きだ」
そう言う度に、司は「うん」と困ったように頷く。
でも司の気持ちはわからないままだ。
こんな言葉を一方的に押し付けられ、キスまでされても、未だ一緒にいてくれているのは嬉しいし、少なくとも嫌われてはいないのだと思う。
でももし告白の答えが『嫌いではないけど好きでもない』とか『友達としてなら好き』ならば、聞かないほうがいい。
気持ちを聞いてしまったら、今のこの、一番近い友達というポジションまで失ってしまうかもしれないから。
それが怖くて、俺は一生このままでいいのだと思っている。
……いや、必死に自分へ言い聞かせている。
————————————————————————
「佐倉あ!うちらガンダで準備するから、10分後に来いよ!!」
その日は昼休みになるとすぐ、女子たちが皆、競うように教室を飛び出して行った。
名指しされた壮大は「あーーー」と肩を落とした。
「……なに?どうしたの?」
沈んだ背中に向かって俺が尋ねると、ダルそうにこちらを振り返る。
「ごめん。俺、行かなくちゃ」
「どこに?」
「家庭科室。なんか、ケーキ作って持ってきてくれた子がいるみたいで。冷蔵庫と、昼休みに場所を借りたんだって」
「……?」
「司も一緒でいいか聞いたんだけど、俺が他のヤツと話さなくなるからダメだってさー、ひどくない?」
「なんでケーキ?」
「みんなで誕生パーティーしてくれるんだって。俺、誕生日だから」
「え?いつ?」
「今日、6月7日」
「えええ?!」
知らなかった。
「ホントは放課後にって言われたんだけど、それはやだ!って断った。司と帰るから」
「……別にいいのに」
壮大は入学当初は高校近くのバス停から帰っていたのだが、今は駅まで俺と歩き、俺が改札口を通るのを見届けてからバスに乗る。
遠回りなのに、『駅前のバス停のほうが本数が多くて便利だから』という理由をつけて。
今日は部活はオフだ。一緒に帰る約束なんてしていないのに。
「うん。でも一緒に帰りたい」
ああもう。そんな真っ直ぐにこちらを見ないでくれ。
「誕生日、知らなかった」
「言ってないもん。女子たちってどこからそんな個人情報仕入れてくるんだろね?なんかいつのまにか皆知っててビビった」
「……俺もお祝いしたい。壮大にはいつもお世話になってるし」
「え、ほんと?嬉しい!」
「プレゼントとか用意してないけど、何か欲しいものある?」
放課後、どこかに買いに行くか。
「それなら!」
壮大が身を乗り出して、満面の笑みで言った。
「今日の放課後、付き合ってくれない?一日デート権が欲しい」
「……うん、いいよ」
勢いに押されて思わず頷くと、壮大は盛大に「おっしゃ!!」と気合を入れてから、教室を出て行った。
誕生日に手作りのケーキを用意してくれる女の子か。壮大のことが好きなのかな。
壮大は俺に『好きだ』とか言っているけど、そんなのは一時の気の迷いってやつかもしれない。
だれか女の子に告白されたら、付き合ったりすることもあるのだろうか。
……嫌かもしれない。
チクチクと胸が痛んだ。
俺は胸に手のひらを当て、グッと押さえた。
放課後、とりあえず連れ立って駅に向かって歩き出したが、行き先は決めていない。
本当は俺が本日の主役である壮大を引っ張って、楽しい誕生日を過ごさせてあげたい、とは思うのだが。
何せ俺はデートはおろか、友達と遊びに行くのも小学生以来のポンコツだ。最近の高校生がどこでどう遊んでいるのか、全く想像もつかない。
「俺は司とならどこでもいいんだけどな」
「……どこでもいいから、行きたいところ言ってくれ。本当に思いつかないんだ」
「うーん、そうだなー。とりあえずカフェでもいいし、映画とかもデートっぽくていいよな。あとは、カラオケとかスポッチャとか?」
「カフェ……映画……カラオケ……」
作法も何もわからないが、こんな超初心者が行っても大丈夫なのだろうか。いや、カラオケはなかなかハードルが高そうな……。スポッチャってなんだ?
「あ!」
「?」
「司と行ってみたいとこあった!プラネタリウム!」
「おお」
プラネタリウムなら、昔、母と何度か行った覚えがある。俺も久しぶりに行ってみたいかも。
「いいよね?行こう!」
「うん」
結局自分がエスコートされているのが悔しいが、経験値の差がありすぎるのだ。仕方ない。
いつもは手を振り別れる改札口を、初めて二人で通った。
ここからプラネタリウムのある繁華街へは、電車で15分ほどだ。
次の電車が来るまで、まだ時間がある。何となく、二人でホームの先端まで歩いた。
改めて壮大を横目で見ると、最初に会った頃よりも更にイケメン度が増しているような気がする。
黒いダボっとしたパンツに白Tシャツと、モスグリーンの、恐らく名のあるブランドのジャケットを着こなし、黒いメッセンジャーバッグを高めの斜めがけにした姿は、とても学校帰りの高校生には見えない。きっと、オシャレな大学生かモデルだと思われるだろう。
一方俺は、細い体型を隠すためのオーバーサイズの白いパーカーに、ブラックジーンズ。……普通すぎる。
「そういえば、ケーキ、美味しかった?」
「ああ、うん。デコレーションとか結構凝ってて、すごかった。司にも取っておきたかったのに、あいつら遠慮なく全部食っちゃうんだもんなー」
「へえ」
「あ、写真送ってくれてる。見る?」
スマホの画面には、女子たちに囲まれて派手なホールケーキを持った壮大が笑っていた。
「……楽しそう」
「まあな。ありがたかったよ」
「誰かに告白された?」
「え?」
「好きって言われたんじゃない?」
「あーーーー、うん。なんでわかんの?」
「付き合えばいいのに」
「は?」
壮大は眉を寄せ、見たこともない怖い顔をしていた。
「断ったよ。俺、好きな人いるもん」
俺には、ケーキは作れない。
面白い話もできないし、細かい気遣いもできない。
女の子みたいに柔らかい身体じゃないし、綺麗な高い声も出ない。
持っていないものだらけだ。
しかも。
また自分の胸に手のひらを当てる。
これは俺の汚い部分。
これを知ったら、壮大もきっと嫌いになる。
駅にアナウンスが流れ、電車が到着した。
壮大は何も言えない俺の手を取り、一歩踏み出した。
「行こう、司。ちゃんと信じてもらえるようになるまで、俺絶対諦めないから」
そのプラネタリウムはリニューアルオープンしたばかりらしく、最新鋭の機材を備えており、規模の大きさは日本でトップクラスということだ。
飲食コーナーやグッズを売る店も備え、近代的で華やかなレジャー施設という感じ。幼い頃に母と行った公営の施設とは随分イメージが違う。
席の予約はスマホからできるということで、そういうのが得意な壮大に全てお任せした。
俺は二人分の料金を支払うと主張したが、壮大にどうしても受け取ってもらえず、結局割り勘になってしまった。
慣れない人混みに緊張した俺は、壮大に「先に座ってて」と声をかけ、トイレに行った。
壮大は「一番前の、右端の席だよ」と教えてくれた。
戻って一番前の席を探した俺は、その光景に愕然とした。
フワフワでメルヘンチックな、パステルカラーの丸いベッドがずらりと並んでいたからだ。
俺のプラネタリウムのイメージとは絶対的に異なる。
「司、こっち来て」
すでに寝転んでリラックスした様子の壮大が、横に空いたスペースを叩く。
「……なにこれ」
「カップルシート。スマホでここの写真見た時、これがいい!ってビビッときちゃったんだよね」
「カップルシート?!」
「別にカップル限定じゃなくて、お友達やご家族ともお気軽にご利用くださいって書いてあったし」
「……」
「俺、お誕生日だし」
「はあ」
壮大にお任せした以上、ここで話が違うと帰るのも大人気ない。
俺もスニーカーを脱いで横になってみた。
フカフカのクッションが心地よい。
壮大が備え付けのピンクの毛布を掛けてくれた。
頭上と横にも囲いがあるので、周りの視線も気にならない。
……快適だ。
「眠くなりそう」
「寝てもいいよ」
横を向くと壮大の顔が想像以上の至近距離にあった。
恥ずかしい。
でも周囲の薄暗さもあり、目を逸らさずに見続けられた。やっぱりカッコいい。
やがて何も見えない闇に包まれ、頭上には満天の星が瞬き始めた。
普段はあまり見えないけど、こんなにも沢山の星が確かに存在しているんだと感動する。
ストーリー性のある上映内容も面白く、眠くなる心配はなさそうだ。
闇に目が慣れ隣に目を凝らすと、壮大も大きく目を開いて、輝く星たちに夢中になっているようだった。
俺はモゾモゾと毛布の中で身体を動かし、壮大との距離を縮めた。
何となく、そうしたかった。
少しだけ腕に触れると、壮大は上を見たまま俺の手を握った。
俺より大きな、温かい手。
辺りが明るくなるまで、その手は離れることはなかった。
上映が終わると、今度は壮大がトイレに行った。俺は一人で売店に入り、グッズを見て歩いた。
いい匂いがするな、と思ったらアロマオイルのコーナーで、いくつか試しに嗅いでみたら気に入った香りがあった。小さな星のスタッズが付いた瓶のデザインもかわいいので、ひとつ購入した。
それから壮大のリクエストで、ラーメン屋に行った。行列ができている店に敢えて並んだ。
実は、ラーメン屋に並んだのも、友達と学食以外でご飯を食べるのも初めてだ。並んだ甲斐あって、すごく美味しかった。
俺が感動していると壮大が不思議そうに「司、ラーメン好きなの?」と尋ねた。
「うん。感動してる」
「感動って、はは、大袈裟な」
む。陽キャには俺の感動はわからんだろうな。
笑われて、つい本音が溢れてしまう。
「仕方ないだろ。母親以外と外でご飯食べたりするの初めてなんだから」
「え?」
「友達いなかったから。隠キャで悪かったな」
「ええ!」
「そんなに驚く?傷つくんだけど」
「いや、違う、ごめん。あんまり可愛くてびっくりしただけ」
「は?」
「初めてなんて、俺、超ラッキーじゃん!」
「なんだよそれ」
「司、これから俺と色んな初めての経験しような」
「……エロいこと言うな」
壮大は「うわーーー!ごめん!」と首まで赤くなり、ラーメンスープを飲み干した。
ラーメン屋を出ると、公園の横にキッチンカーが止まっていた。そこでレモネードを買い、ベンチに並んで座る。
「司、今日は付き合ってくれてありがとう」
「うん。楽しかった」
俺はリュックから紙袋を取り出した。
「誕生日おめでとう」
「え、俺に?」
「うん」
「ありがとう!開けていい?」
「ん。開けて」
紙袋の中身はプラネタリウムで買ったアロマオイルだ。『星降る夜の森林浴』という、よくわからない名前の香り。
壮大は気に入ってくれるだろうか。
反応をうかがうと、何とも言えない微妙な顔をして固まっていた。
やばい、まずったかも。
「あ……ごめん俺、こういうのよくわからなくて。ダメだったか?試した中では一番いい匂いだと思ったんだけど……」
狼狽えていると、壮大は「違う!」と叫んだ。
やっぱり間違ったんだ。どうしよう。
泣きそうになる俺に、壮大はカバンから紙袋を取り出して押し付けた。
「これ!開けて」
「……?うん」
中から出てきたのは、見覚えのあるアロマオイルの箱だった。箱の中身は、星のスタッズが付いた小さな瓶。
「これ……『星降る夜の森林浴』?」
「そう!俺も、今日の記念に司に何かあげたいと思って、司がトイレに行ってた隙に急いで買った。俺たち偶然同じの選んでたんだ」
「えええ?!」
そんなすごい偶然、あるのか。
びっくりしすぎて何度も二つの小瓶を見比べた。
「やばい、これって奇跡じゃね?嬉しすぎる!」
「確かに奇跡かも」
壮大がアロマオイルを袋ごと胸に抱きしめた。
「好きだ!」
「…………うん」
「はっ!やば!テンション上がってまた言ってしまった」
「……」
「ごめん、困るよな」
壮大は俺を見て微笑んだ。
笑っているのに、泣き出しそうに見えた。
俺は壮大に悪いことをしてるんだな、と思った。
謝らなくちゃならないのは俺のほうなのに、壮大はいつでも俺に優しい。優しすぎる。
「俺、返事しなくちゃいけないよな」
「え?」
「あの、俺は、」
「っ待って!!言わないで!!」
壮大が俺の言葉を遮る。
待ってって。何だよそれ。
「まだ早い気がする。もう少しだけ言うの待って」
「え……」
「わがままだよなー。女子からの告白は即お断りしたのに、自分の告白の返事はまだ聞けないって。ひどい男だよ」
「……」
「でも今日は、この嬉しいテンションのまま誕生日を終わりたい」
それじゃまるで、俺が壮大を振るのがわかってるみたいだ。
「司、見て!」
壮大は空を見上げた。
夜空には、星が輝いている。
金星や北斗七星は容易に見つけられた。
目を凝らせば、他にもいくつか。
さっきのプラネタリウムよりは全然少ないけど、本当はあの星と星の間にも無数の星が存在しているんだ。
「あー、都会でも結構見えるんだな」
「来月の合宿、楽しみだな!天然のプラネタリウムが見られるかもな」
「うん、楽しみ」
「俺、それまでは何でも頑張れる気がする」
そう言ってニカっと笑う壮大は、やっぱり泣きそうに見えた。
————————————————————————
それからの俺たちは、『香りの研究』にはまっていた。
アロマオイルや香水の成分を調べて、実際に似たものを調合してみたり、花屋に売れ残っていた花を沢山買って、そこからエキスを抽出してみたり。
やっていてわかったことは、俺と司の香りの好みが非常に似ているということだ。
あのプラネタリウムの一件からうすうす気付いてはいたのだが、それがちゃんと証明されていくようで嬉しかった。
その日も俺と司は、化学室を借りて香りの実験をしていた。思ったより手間取って、片付けを終えると下校時刻を少し過ぎてしまった。
先輩達は塾などがあり先に帰っていた。準備室にいた間宮先生に「帰りまーす」と声を掛け、二人で下駄箱に向かう。
遠くでゴロゴロと雷が鳴っていた。雨雲が近いのかもしれない。
「司、傘持ってる?」と尋ね振り返ると、司は俺の後ろで胸に手を当てて立ちすくんでいた。
「司?」
もう一度声をかけると、ハッとした顔で我に返ったようだった。
「あ、ごめんボーッとしてた」
「傘持ってる?」
「うん。折りたたみ持ってる」
「じゃあもし降ってきたら駅まで入れて!」
「……いいよ。ちょっと狭そうだけど」
歩き出すと数分で、やはりポツポツと降り出した。
折りたたみの傘は男二人にはやはり狭くて、お互いの肩が濡れてしまう。
「司、もう少し寄って」
腰に手をやり引き寄せると、司の身体がビクッと震えた。
え、と顔を見ると蒼白になっている。
「大丈夫か?」
「……」
返事はなかった。
でも微かに頷いた。歩みも止めていない。
この間の体育の時のように、全く意識が無いわけではなさそうだ。
駅に着いたが、心配で一緒に改札を入った。
ひとまずホームのベンチに座らせる。
「司、これ飲んで」
水のペットボトルを渡すと、コクンと一口飲み込み、ハァと息を吐いた。
「……ありがとう。もう大丈夫だから、壮大は帰って」
「でもまだ顔色悪いぞ?家の人に連絡するか?」
「ううん、母は出張中で居ないんだ」
「え、お前ひとりなの?」
「そう」
雨はだんだんと強まり、ホームの薄い屋根にバラバラと派手な音を立てている。
司はまた胸に手をやった。
「……雨が、苦手なんだ。特に突然の通り雨が」
「……」
「嫌なことを思い出して、自分を殺したくなる」
「……あのさ、そんなこと聞いて、一人にできる訳ないだろ?家まで送るよ。絶対断らないで」
「でも、うち遠いよ?」
「地球の裏側でも付いて行く」
司の家は、電車を乗り換えて行くベッドタウンにあった。
初めて降りる駅を出ると、雨は止んでいた。路面も濡れていないから、そもそもこの辺りには雨雲が来ていないのだろう。
既に司の顔には赤みが戻り、意識もしっかりしていたが、家まで送り届けるという決意は揺るがなかった。
駅から歩いて15分。駅前以外は人通りも街灯も少なく、寂しい道のりだった。
マンションの入り口で足を止める。オートロックがついていて、セキュリティはしっかりしていそうだ。少し安心した。
「もう大丈夫だな。それじゃ、」
「うち寄らないの?」
「帰るよ」という言葉を飲み込んだ。
「……え」
「ここまで来てくれたんだから、お茶ぐらい出すよ。それかご飯食べてく?」
「いいの?」
「うん。大したおもてなしはできないけど」
やった。役得だ。
俺は速攻で母親に『友達の家寄ってく!晩ごはん不要!』とラインした。
司の家はお洒落なモデルルームのように綺麗だった。無駄なものが何もない。
「すげー綺麗にしてんな。いつでも人を呼べる家じゃん」
「母が片付け好きだから。別に誰も来ないけどね」
「へー、お母さんすごいな」
「何食べようか。ハンバーグか野菜の煮物かクリームシチューか……」
冷蔵庫を開けながら、司が言った。
「え、なんでそんなにメニュー豊富なの?」
「母が休みの日に一週間分まとめて作って、保存しておいてくれるんだ」
「すげー」
「家事も仕事も手を抜かない、超完璧主義者で。俺はいつもご飯だけは自分で炊く。味噌汁かサラダぐらいは作る時もあるけど」
「いつもひとりで?」
「うん。母はいつも遅いから」
「寂しくない?」
「別に。……ハンバーグにしようか」
司は手慣れた様子で炊飯器の用意をしていた。
「ご飯が炊けるまで、俺の部屋行く?」
「……おう」
司の部屋は勿論見たかったが、今の俺の立場で入ってもよいものなのか。変に意識するのも違うのか?
迷いがあり、ドアから先へ進むのをためらった。
司は俺の横をすり抜け、ベッド横のチェストに置かれた丸いディフューザーのスイッチを入れた。
フワッと好きな香りが漂う。
「あ、これ」
「あのアロマオイル。少しずつ使ってるよ」
「やっぱいい匂いだな」
俺が司にもらった瓶は、大切に自分の部屋に飾ってある。
俺もディフューザー買おうかな。
「壮大、こっち来て」
司はベッドに腰をかけた。
俺は吸い込まれるようにその前へ進む。
「雨が苦手な理由、話すね」
「……無理に話さなくてもいいよ」
「ううん。壮大は二度も助けてくれたし、あんな風になるのは変だと思ってるでしょ?」
「そんなことない」
「それに壮大は、俺を好きって言ってくれた。でも本当の俺を知ったら、きっと好きじゃなくなると思う。それをわかっているのに、このまま黙っているのは……壮大を利用しているみたいで、フェアじゃないよな」
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
「ここに座って」
「……」
ポンポンとシーツを叩かれ、俺は素直に従った。
「俺は自分がそんな価値のない人間だって知ってるから」
「どういうこと?」
「一年ぐらい前かな。俺は知らない男に犯されそうになったんだ」
それから司が話したのは、壮絶な過去だった。
好きな男がいたこと。
そいつに冷たくされ、同級生には揶揄われ、絶望していたこと。
土砂降りの中、雨宿りをしている時に大学生に誘われたこと。
少しのつもりで付いて行き、帰ろうとしたら襲われたこと。
落ちていたカッターナイフで自分を傷つけたこと。
男がひるんでいる隙に、雨の中を逃げ出したこと。
誰にも知らせず、ひとりで痛みに耐えたこと。
「たまたまそこに落ちていたのがカッターナイフだったけど、もしそれがもっと大きくて鋭利な刃物でも、俺は同じようにしたと思う」
司はダボっとしたシャツを脱いだ。
そこに何があるのか、俺はもう知っていた。
「見て。この傷跡、きっともう一生消えないよね。まるで囚人か奴隷の印みたいだろ?」
大きな瞳から、涙が溢れ落ちた。
俺はその肩にシャツを掛け、薄い身体を抱きしめた。
そのまましばらく、司は子供のように声を上げて泣いていた。
俺も一緒に泣いた。
こんなに綺麗な人を、俺は他に知らない。
涙が落ち着いてくると、司はシャツに袖を通し、「お腹すいた」と言った。
キッチンに行くと、真っ赤な目のままハンバーグを温め、サラダを作ってくれた。
ハンバーグもサラダも、美味しくてびっくりした。たぶんソースやドレッシングが、普段家では出てこないようなやつだ。
食べている時、司は俺の話を聞きたがったので、初めて家族の話をした。
設計士の寡黙な父と、ドラッグストアでパートをしている明るい母と、中二の弟。生意気な弟は合気道有段者で、食べ盛り伸び盛りだ。
下町の古い一軒家を父がリノベーションし、今はそこで四人と猫一匹で暮らしている。
そんな平凡な家族の話を、司は面白そうに聞いてくれた。
その後、司も自分の家族のことを話した。
司のお母さんは大学生の時に未婚のまま出産をした。一年間大学を休学し、復学後はほとんど千葉のお婆ちゃんの元に預けられて育ったということだ。
お母さんは大きな企業の開発研究員として就職し、20代でこのマンションを購入した。
ちょうど司が小学校に上がるタイミングで、それからは二人きりでここに暮らしている。
俺の家とは何もかもが違う。
平凡って、何なんだろうな。
一緒に食器を片していると、窓の向こうからザーッという音が聞こえてきた。
どうやら雨雲がこちらへもやって来たらしい。
「傘貸してくれる?」と聞くと、司はさらっと「泊まっていけば?」と言った。
「え?それは流石に……」
だって俺は司が好きで、でもまだ返事は聞けてなくて。
「壮大はもう俺のこと好きじゃないかもしれないけど、今日だけでもいいから、もう少しそばにいてほしい」
「は?」
司は何を言っているんだ?
「そしてできれば、俺を抱いてくれないか?」
ひと月以上の時間が流れても、俺たちの仲は、さほど変わっていなかった。
が、些細なことだが、俺の中での変化はあった。
俺は司への気持ちを、事ある毎に口にするようになっていた。
「好きだ」
そう言う度に、司は「うん」と困ったように頷く。
でも司の気持ちはわからないままだ。
こんな言葉を一方的に押し付けられ、キスまでされても、未だ一緒にいてくれているのは嬉しいし、少なくとも嫌われてはいないのだと思う。
でももし告白の答えが『嫌いではないけど好きでもない』とか『友達としてなら好き』ならば、聞かないほうがいい。
気持ちを聞いてしまったら、今のこの、一番近い友達というポジションまで失ってしまうかもしれないから。
それが怖くて、俺は一生このままでいいのだと思っている。
……いや、必死に自分へ言い聞かせている。
————————————————————————
「佐倉あ!うちらガンダで準備するから、10分後に来いよ!!」
その日は昼休みになるとすぐ、女子たちが皆、競うように教室を飛び出して行った。
名指しされた壮大は「あーーー」と肩を落とした。
「……なに?どうしたの?」
沈んだ背中に向かって俺が尋ねると、ダルそうにこちらを振り返る。
「ごめん。俺、行かなくちゃ」
「どこに?」
「家庭科室。なんか、ケーキ作って持ってきてくれた子がいるみたいで。冷蔵庫と、昼休みに場所を借りたんだって」
「……?」
「司も一緒でいいか聞いたんだけど、俺が他のヤツと話さなくなるからダメだってさー、ひどくない?」
「なんでケーキ?」
「みんなで誕生パーティーしてくれるんだって。俺、誕生日だから」
「え?いつ?」
「今日、6月7日」
「えええ?!」
知らなかった。
「ホントは放課後にって言われたんだけど、それはやだ!って断った。司と帰るから」
「……別にいいのに」
壮大は入学当初は高校近くのバス停から帰っていたのだが、今は駅まで俺と歩き、俺が改札口を通るのを見届けてからバスに乗る。
遠回りなのに、『駅前のバス停のほうが本数が多くて便利だから』という理由をつけて。
今日は部活はオフだ。一緒に帰る約束なんてしていないのに。
「うん。でも一緒に帰りたい」
ああもう。そんな真っ直ぐにこちらを見ないでくれ。
「誕生日、知らなかった」
「言ってないもん。女子たちってどこからそんな個人情報仕入れてくるんだろね?なんかいつのまにか皆知っててビビった」
「……俺もお祝いしたい。壮大にはいつもお世話になってるし」
「え、ほんと?嬉しい!」
「プレゼントとか用意してないけど、何か欲しいものある?」
放課後、どこかに買いに行くか。
「それなら!」
壮大が身を乗り出して、満面の笑みで言った。
「今日の放課後、付き合ってくれない?一日デート権が欲しい」
「……うん、いいよ」
勢いに押されて思わず頷くと、壮大は盛大に「おっしゃ!!」と気合を入れてから、教室を出て行った。
誕生日に手作りのケーキを用意してくれる女の子か。壮大のことが好きなのかな。
壮大は俺に『好きだ』とか言っているけど、そんなのは一時の気の迷いってやつかもしれない。
だれか女の子に告白されたら、付き合ったりすることもあるのだろうか。
……嫌かもしれない。
チクチクと胸が痛んだ。
俺は胸に手のひらを当て、グッと押さえた。
放課後、とりあえず連れ立って駅に向かって歩き出したが、行き先は決めていない。
本当は俺が本日の主役である壮大を引っ張って、楽しい誕生日を過ごさせてあげたい、とは思うのだが。
何せ俺はデートはおろか、友達と遊びに行くのも小学生以来のポンコツだ。最近の高校生がどこでどう遊んでいるのか、全く想像もつかない。
「俺は司とならどこでもいいんだけどな」
「……どこでもいいから、行きたいところ言ってくれ。本当に思いつかないんだ」
「うーん、そうだなー。とりあえずカフェでもいいし、映画とかもデートっぽくていいよな。あとは、カラオケとかスポッチャとか?」
「カフェ……映画……カラオケ……」
作法も何もわからないが、こんな超初心者が行っても大丈夫なのだろうか。いや、カラオケはなかなかハードルが高そうな……。スポッチャってなんだ?
「あ!」
「?」
「司と行ってみたいとこあった!プラネタリウム!」
「おお」
プラネタリウムなら、昔、母と何度か行った覚えがある。俺も久しぶりに行ってみたいかも。
「いいよね?行こう!」
「うん」
結局自分がエスコートされているのが悔しいが、経験値の差がありすぎるのだ。仕方ない。
いつもは手を振り別れる改札口を、初めて二人で通った。
ここからプラネタリウムのある繁華街へは、電車で15分ほどだ。
次の電車が来るまで、まだ時間がある。何となく、二人でホームの先端まで歩いた。
改めて壮大を横目で見ると、最初に会った頃よりも更にイケメン度が増しているような気がする。
黒いダボっとしたパンツに白Tシャツと、モスグリーンの、恐らく名のあるブランドのジャケットを着こなし、黒いメッセンジャーバッグを高めの斜めがけにした姿は、とても学校帰りの高校生には見えない。きっと、オシャレな大学生かモデルだと思われるだろう。
一方俺は、細い体型を隠すためのオーバーサイズの白いパーカーに、ブラックジーンズ。……普通すぎる。
「そういえば、ケーキ、美味しかった?」
「ああ、うん。デコレーションとか結構凝ってて、すごかった。司にも取っておきたかったのに、あいつら遠慮なく全部食っちゃうんだもんなー」
「へえ」
「あ、写真送ってくれてる。見る?」
スマホの画面には、女子たちに囲まれて派手なホールケーキを持った壮大が笑っていた。
「……楽しそう」
「まあな。ありがたかったよ」
「誰かに告白された?」
「え?」
「好きって言われたんじゃない?」
「あーーーー、うん。なんでわかんの?」
「付き合えばいいのに」
「は?」
壮大は眉を寄せ、見たこともない怖い顔をしていた。
「断ったよ。俺、好きな人いるもん」
俺には、ケーキは作れない。
面白い話もできないし、細かい気遣いもできない。
女の子みたいに柔らかい身体じゃないし、綺麗な高い声も出ない。
持っていないものだらけだ。
しかも。
また自分の胸に手のひらを当てる。
これは俺の汚い部分。
これを知ったら、壮大もきっと嫌いになる。
駅にアナウンスが流れ、電車が到着した。
壮大は何も言えない俺の手を取り、一歩踏み出した。
「行こう、司。ちゃんと信じてもらえるようになるまで、俺絶対諦めないから」
そのプラネタリウムはリニューアルオープンしたばかりらしく、最新鋭の機材を備えており、規模の大きさは日本でトップクラスということだ。
飲食コーナーやグッズを売る店も備え、近代的で華やかなレジャー施設という感じ。幼い頃に母と行った公営の施設とは随分イメージが違う。
席の予約はスマホからできるということで、そういうのが得意な壮大に全てお任せした。
俺は二人分の料金を支払うと主張したが、壮大にどうしても受け取ってもらえず、結局割り勘になってしまった。
慣れない人混みに緊張した俺は、壮大に「先に座ってて」と声をかけ、トイレに行った。
壮大は「一番前の、右端の席だよ」と教えてくれた。
戻って一番前の席を探した俺は、その光景に愕然とした。
フワフワでメルヘンチックな、パステルカラーの丸いベッドがずらりと並んでいたからだ。
俺のプラネタリウムのイメージとは絶対的に異なる。
「司、こっち来て」
すでに寝転んでリラックスした様子の壮大が、横に空いたスペースを叩く。
「……なにこれ」
「カップルシート。スマホでここの写真見た時、これがいい!ってビビッときちゃったんだよね」
「カップルシート?!」
「別にカップル限定じゃなくて、お友達やご家族ともお気軽にご利用くださいって書いてあったし」
「……」
「俺、お誕生日だし」
「はあ」
壮大にお任せした以上、ここで話が違うと帰るのも大人気ない。
俺もスニーカーを脱いで横になってみた。
フカフカのクッションが心地よい。
壮大が備え付けのピンクの毛布を掛けてくれた。
頭上と横にも囲いがあるので、周りの視線も気にならない。
……快適だ。
「眠くなりそう」
「寝てもいいよ」
横を向くと壮大の顔が想像以上の至近距離にあった。
恥ずかしい。
でも周囲の薄暗さもあり、目を逸らさずに見続けられた。やっぱりカッコいい。
やがて何も見えない闇に包まれ、頭上には満天の星が瞬き始めた。
普段はあまり見えないけど、こんなにも沢山の星が確かに存在しているんだと感動する。
ストーリー性のある上映内容も面白く、眠くなる心配はなさそうだ。
闇に目が慣れ隣に目を凝らすと、壮大も大きく目を開いて、輝く星たちに夢中になっているようだった。
俺はモゾモゾと毛布の中で身体を動かし、壮大との距離を縮めた。
何となく、そうしたかった。
少しだけ腕に触れると、壮大は上を見たまま俺の手を握った。
俺より大きな、温かい手。
辺りが明るくなるまで、その手は離れることはなかった。
上映が終わると、今度は壮大がトイレに行った。俺は一人で売店に入り、グッズを見て歩いた。
いい匂いがするな、と思ったらアロマオイルのコーナーで、いくつか試しに嗅いでみたら気に入った香りがあった。小さな星のスタッズが付いた瓶のデザインもかわいいので、ひとつ購入した。
それから壮大のリクエストで、ラーメン屋に行った。行列ができている店に敢えて並んだ。
実は、ラーメン屋に並んだのも、友達と学食以外でご飯を食べるのも初めてだ。並んだ甲斐あって、すごく美味しかった。
俺が感動していると壮大が不思議そうに「司、ラーメン好きなの?」と尋ねた。
「うん。感動してる」
「感動って、はは、大袈裟な」
む。陽キャには俺の感動はわからんだろうな。
笑われて、つい本音が溢れてしまう。
「仕方ないだろ。母親以外と外でご飯食べたりするの初めてなんだから」
「え?」
「友達いなかったから。隠キャで悪かったな」
「ええ!」
「そんなに驚く?傷つくんだけど」
「いや、違う、ごめん。あんまり可愛くてびっくりしただけ」
「は?」
「初めてなんて、俺、超ラッキーじゃん!」
「なんだよそれ」
「司、これから俺と色んな初めての経験しような」
「……エロいこと言うな」
壮大は「うわーーー!ごめん!」と首まで赤くなり、ラーメンスープを飲み干した。
ラーメン屋を出ると、公園の横にキッチンカーが止まっていた。そこでレモネードを買い、ベンチに並んで座る。
「司、今日は付き合ってくれてありがとう」
「うん。楽しかった」
俺はリュックから紙袋を取り出した。
「誕生日おめでとう」
「え、俺に?」
「うん」
「ありがとう!開けていい?」
「ん。開けて」
紙袋の中身はプラネタリウムで買ったアロマオイルだ。『星降る夜の森林浴』という、よくわからない名前の香り。
壮大は気に入ってくれるだろうか。
反応をうかがうと、何とも言えない微妙な顔をして固まっていた。
やばい、まずったかも。
「あ……ごめん俺、こういうのよくわからなくて。ダメだったか?試した中では一番いい匂いだと思ったんだけど……」
狼狽えていると、壮大は「違う!」と叫んだ。
やっぱり間違ったんだ。どうしよう。
泣きそうになる俺に、壮大はカバンから紙袋を取り出して押し付けた。
「これ!開けて」
「……?うん」
中から出てきたのは、見覚えのあるアロマオイルの箱だった。箱の中身は、星のスタッズが付いた小さな瓶。
「これ……『星降る夜の森林浴』?」
「そう!俺も、今日の記念に司に何かあげたいと思って、司がトイレに行ってた隙に急いで買った。俺たち偶然同じの選んでたんだ」
「えええ?!」
そんなすごい偶然、あるのか。
びっくりしすぎて何度も二つの小瓶を見比べた。
「やばい、これって奇跡じゃね?嬉しすぎる!」
「確かに奇跡かも」
壮大がアロマオイルを袋ごと胸に抱きしめた。
「好きだ!」
「…………うん」
「はっ!やば!テンション上がってまた言ってしまった」
「……」
「ごめん、困るよな」
壮大は俺を見て微笑んだ。
笑っているのに、泣き出しそうに見えた。
俺は壮大に悪いことをしてるんだな、と思った。
謝らなくちゃならないのは俺のほうなのに、壮大はいつでも俺に優しい。優しすぎる。
「俺、返事しなくちゃいけないよな」
「え?」
「あの、俺は、」
「っ待って!!言わないで!!」
壮大が俺の言葉を遮る。
待ってって。何だよそれ。
「まだ早い気がする。もう少しだけ言うの待って」
「え……」
「わがままだよなー。女子からの告白は即お断りしたのに、自分の告白の返事はまだ聞けないって。ひどい男だよ」
「……」
「でも今日は、この嬉しいテンションのまま誕生日を終わりたい」
それじゃまるで、俺が壮大を振るのがわかってるみたいだ。
「司、見て!」
壮大は空を見上げた。
夜空には、星が輝いている。
金星や北斗七星は容易に見つけられた。
目を凝らせば、他にもいくつか。
さっきのプラネタリウムよりは全然少ないけど、本当はあの星と星の間にも無数の星が存在しているんだ。
「あー、都会でも結構見えるんだな」
「来月の合宿、楽しみだな!天然のプラネタリウムが見られるかもな」
「うん、楽しみ」
「俺、それまでは何でも頑張れる気がする」
そう言ってニカっと笑う壮大は、やっぱり泣きそうに見えた。
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それからの俺たちは、『香りの研究』にはまっていた。
アロマオイルや香水の成分を調べて、実際に似たものを調合してみたり、花屋に売れ残っていた花を沢山買って、そこからエキスを抽出してみたり。
やっていてわかったことは、俺と司の香りの好みが非常に似ているということだ。
あのプラネタリウムの一件からうすうす気付いてはいたのだが、それがちゃんと証明されていくようで嬉しかった。
その日も俺と司は、化学室を借りて香りの実験をしていた。思ったより手間取って、片付けを終えると下校時刻を少し過ぎてしまった。
先輩達は塾などがあり先に帰っていた。準備室にいた間宮先生に「帰りまーす」と声を掛け、二人で下駄箱に向かう。
遠くでゴロゴロと雷が鳴っていた。雨雲が近いのかもしれない。
「司、傘持ってる?」と尋ね振り返ると、司は俺の後ろで胸に手を当てて立ちすくんでいた。
「司?」
もう一度声をかけると、ハッとした顔で我に返ったようだった。
「あ、ごめんボーッとしてた」
「傘持ってる?」
「うん。折りたたみ持ってる」
「じゃあもし降ってきたら駅まで入れて!」
「……いいよ。ちょっと狭そうだけど」
歩き出すと数分で、やはりポツポツと降り出した。
折りたたみの傘は男二人にはやはり狭くて、お互いの肩が濡れてしまう。
「司、もう少し寄って」
腰に手をやり引き寄せると、司の身体がビクッと震えた。
え、と顔を見ると蒼白になっている。
「大丈夫か?」
「……」
返事はなかった。
でも微かに頷いた。歩みも止めていない。
この間の体育の時のように、全く意識が無いわけではなさそうだ。
駅に着いたが、心配で一緒に改札を入った。
ひとまずホームのベンチに座らせる。
「司、これ飲んで」
水のペットボトルを渡すと、コクンと一口飲み込み、ハァと息を吐いた。
「……ありがとう。もう大丈夫だから、壮大は帰って」
「でもまだ顔色悪いぞ?家の人に連絡するか?」
「ううん、母は出張中で居ないんだ」
「え、お前ひとりなの?」
「そう」
雨はだんだんと強まり、ホームの薄い屋根にバラバラと派手な音を立てている。
司はまた胸に手をやった。
「……雨が、苦手なんだ。特に突然の通り雨が」
「……」
「嫌なことを思い出して、自分を殺したくなる」
「……あのさ、そんなこと聞いて、一人にできる訳ないだろ?家まで送るよ。絶対断らないで」
「でも、うち遠いよ?」
「地球の裏側でも付いて行く」
司の家は、電車を乗り換えて行くベッドタウンにあった。
初めて降りる駅を出ると、雨は止んでいた。路面も濡れていないから、そもそもこの辺りには雨雲が来ていないのだろう。
既に司の顔には赤みが戻り、意識もしっかりしていたが、家まで送り届けるという決意は揺るがなかった。
駅から歩いて15分。駅前以外は人通りも街灯も少なく、寂しい道のりだった。
マンションの入り口で足を止める。オートロックがついていて、セキュリティはしっかりしていそうだ。少し安心した。
「もう大丈夫だな。それじゃ、」
「うち寄らないの?」
「帰るよ」という言葉を飲み込んだ。
「……え」
「ここまで来てくれたんだから、お茶ぐらい出すよ。それかご飯食べてく?」
「いいの?」
「うん。大したおもてなしはできないけど」
やった。役得だ。
俺は速攻で母親に『友達の家寄ってく!晩ごはん不要!』とラインした。
司の家はお洒落なモデルルームのように綺麗だった。無駄なものが何もない。
「すげー綺麗にしてんな。いつでも人を呼べる家じゃん」
「母が片付け好きだから。別に誰も来ないけどね」
「へー、お母さんすごいな」
「何食べようか。ハンバーグか野菜の煮物かクリームシチューか……」
冷蔵庫を開けながら、司が言った。
「え、なんでそんなにメニュー豊富なの?」
「母が休みの日に一週間分まとめて作って、保存しておいてくれるんだ」
「すげー」
「家事も仕事も手を抜かない、超完璧主義者で。俺はいつもご飯だけは自分で炊く。味噌汁かサラダぐらいは作る時もあるけど」
「いつもひとりで?」
「うん。母はいつも遅いから」
「寂しくない?」
「別に。……ハンバーグにしようか」
司は手慣れた様子で炊飯器の用意をしていた。
「ご飯が炊けるまで、俺の部屋行く?」
「……おう」
司の部屋は勿論見たかったが、今の俺の立場で入ってもよいものなのか。変に意識するのも違うのか?
迷いがあり、ドアから先へ進むのをためらった。
司は俺の横をすり抜け、ベッド横のチェストに置かれた丸いディフューザーのスイッチを入れた。
フワッと好きな香りが漂う。
「あ、これ」
「あのアロマオイル。少しずつ使ってるよ」
「やっぱいい匂いだな」
俺が司にもらった瓶は、大切に自分の部屋に飾ってある。
俺もディフューザー買おうかな。
「壮大、こっち来て」
司はベッドに腰をかけた。
俺は吸い込まれるようにその前へ進む。
「雨が苦手な理由、話すね」
「……無理に話さなくてもいいよ」
「ううん。壮大は二度も助けてくれたし、あんな風になるのは変だと思ってるでしょ?」
「そんなことない」
「それに壮大は、俺を好きって言ってくれた。でも本当の俺を知ったら、きっと好きじゃなくなると思う。それをわかっているのに、このまま黙っているのは……壮大を利用しているみたいで、フェアじゃないよな」
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
「ここに座って」
「……」
ポンポンとシーツを叩かれ、俺は素直に従った。
「俺は自分がそんな価値のない人間だって知ってるから」
「どういうこと?」
「一年ぐらい前かな。俺は知らない男に犯されそうになったんだ」
それから司が話したのは、壮絶な過去だった。
好きな男がいたこと。
そいつに冷たくされ、同級生には揶揄われ、絶望していたこと。
土砂降りの中、雨宿りをしている時に大学生に誘われたこと。
少しのつもりで付いて行き、帰ろうとしたら襲われたこと。
落ちていたカッターナイフで自分を傷つけたこと。
男がひるんでいる隙に、雨の中を逃げ出したこと。
誰にも知らせず、ひとりで痛みに耐えたこと。
「たまたまそこに落ちていたのがカッターナイフだったけど、もしそれがもっと大きくて鋭利な刃物でも、俺は同じようにしたと思う」
司はダボっとしたシャツを脱いだ。
そこに何があるのか、俺はもう知っていた。
「見て。この傷跡、きっともう一生消えないよね。まるで囚人か奴隷の印みたいだろ?」
大きな瞳から、涙が溢れ落ちた。
俺はその肩にシャツを掛け、薄い身体を抱きしめた。
そのまましばらく、司は子供のように声を上げて泣いていた。
俺も一緒に泣いた。
こんなに綺麗な人を、俺は他に知らない。
涙が落ち着いてくると、司はシャツに袖を通し、「お腹すいた」と言った。
キッチンに行くと、真っ赤な目のままハンバーグを温め、サラダを作ってくれた。
ハンバーグもサラダも、美味しくてびっくりした。たぶんソースやドレッシングが、普段家では出てこないようなやつだ。
食べている時、司は俺の話を聞きたがったので、初めて家族の話をした。
設計士の寡黙な父と、ドラッグストアでパートをしている明るい母と、中二の弟。生意気な弟は合気道有段者で、食べ盛り伸び盛りだ。
下町の古い一軒家を父がリノベーションし、今はそこで四人と猫一匹で暮らしている。
そんな平凡な家族の話を、司は面白そうに聞いてくれた。
その後、司も自分の家族のことを話した。
司のお母さんは大学生の時に未婚のまま出産をした。一年間大学を休学し、復学後はほとんど千葉のお婆ちゃんの元に預けられて育ったということだ。
お母さんは大きな企業の開発研究員として就職し、20代でこのマンションを購入した。
ちょうど司が小学校に上がるタイミングで、それからは二人きりでここに暮らしている。
俺の家とは何もかもが違う。
平凡って、何なんだろうな。
一緒に食器を片していると、窓の向こうからザーッという音が聞こえてきた。
どうやら雨雲がこちらへもやって来たらしい。
「傘貸してくれる?」と聞くと、司はさらっと「泊まっていけば?」と言った。
「え?それは流石に……」
だって俺は司が好きで、でもまだ返事は聞けてなくて。
「壮大はもう俺のこと好きじゃないかもしれないけど、今日だけでもいいから、もう少しそばにいてほしい」
「は?」
司は何を言っているんだ?
「そしてできれば、俺を抱いてくれないか?」

