その日は夕方から塾に向かっていた。
授業のない日だが、塾の自習室を使いたかった。家に一人でいると暗く嫌なことばかり考えてしまい、勉強に集中できなかったのだ。
駅のほうへ通じる裏道を歩いていると、突然大粒の雨が降ってきた。雨はザーッと音を立てて、視界を奪うほどに強くなる。
傘を持っていない俺は、シャッターが降りたままの古い駄菓子屋の軒先で立ち往生してしまった。

どうしよう。
まだ駅は遠いし、母は仕事だし、こんな時に頼れる人は誰も思い浮かばない。このまま雨が止むのを待つしかないか。

途方に暮れてスマホをいじっていると、
「大丈夫?」といきなり声をかけられた。

「え?」

スマホから顔を上げると、大学生くらいの若い男が俺の顔を覗いていた。

「雨、すごいね」
「……」

男はコンビニの袋とビニール傘を持っていた。
服装や髪型は小綺麗で清潔感がある。ちょっとクールそうな眼差しが、たろー先生を思い出させた。

「うち、すぐ近くなんだ。雨宿りしてかない?」
「……大丈夫です」
「どうせ通り雨でしょ。雨が止むまでの間だけ、お兄さんの話し相手になってよ」
「……」

俺の無言を了承と解釈したらしい男は、俺の腰に手を回した。相合傘で歩くわずかな時間、まるで恋人みたいだなと浮ついた想像をした。
男のアパートは、本当にすぐ近くだった。ドアを開けた時、少し驚いた。小綺麗な彼には似合わない、荒れて乱雑な部屋だったからだ。

「ごめんねー、ちょっと散らかってるけど、適当に座って」
「あ、はい」

俺は床に転がった本やゴミ袋を避けて、部屋の隅に体育座りをした。
男はコーラのペットボトルをくれて、自分は缶ビールを飲んだ。
少し話して、俺が中三とわかると自分の受験の時の自慢話をされた。立派な高校を出て有名な大学に通う、所謂勝ち組というものらしい。あまり興味は湧かなかった。

「よかったら勉強教えようか?」と言われて、生理的に嫌だと感じた。

「……俺、そろそろ帰ります」
「雨まだ止んでないよ?」

男が窓から外を眺め、シャッとカーテンを閉めた。
急に部屋がうす暗くなる。

「でももう、」

俺が腰を浮かせると両肩を押さえられ、いきなり口と口を付けられた。
あまりに突然の出来事に、俺は動くことができない。

「かわいいね」

男は何度も何度も、頬や唇にキスをしてきた。
俺は首を振って避けようとしたが、体格差のある大人にガッチリ肩を掴まれているので逃れるのは難しかった。唇を捕らえられる度に絶望的な気分になる。ハァハァと荒い息がとにかく耳障りだった。

そのうち男は器用に俺の服を脱がせてきた。
大きな手が素肌の至るところを撫でまわる。
首や胸を舐められ、唾液でベトベトにされた。

「ホントにかわいい。肌が白くて、無駄な肉がなくて、体毛も薄くて。理想的な身体だ」

気持ち悪い。
本当に気持ち悪いが、心のどこかで諦めにも似た感情があったようにも思う。

どうせ先生はもう俺のことを見てもくれない。

少し力が抜けたのが伝わったのか、男は俺の下着も剥ぎ取った。
力なく、いつにも増して縮こまったソレをグニグニと握られる。
俺は目をギュッと瞑り、何も考えないようにしていた。

「かわいい、かわいい」

男の手は俺の後ろにも伸びてきた。
自分でも触ったことのないところを撫でられ、思わず「あっ……」と声が出た。

「いいね、気持ちいい?もっと声出してよ」

気持ちいい訳ないだろ。びっくりしただけだ。
男は俺の心の声には気付かず、指で中をこじ開けようとする。

「固いな……ちょっと待ってて。ローションとゴム、どこ置いたっけ」

楽しげな声で呟き、男は洗面所のほうへ行った。
ゴム?
その言葉にハッとした。
あいつ、俺に挿れるつもりなのか。
急にその行為が現実味を持ち、俺の頭を覚醒させた。
嫌だ。
逃げなくちゃ。

辺りを見渡すと、開いたまま放置されたダンボール箱の横に、カッターナイフが落ちていた。俺はそれを迷わず手に取る。

「あれー?ベッドのほうだっけか」

探しものは見つからなかったらしい。
手ぶらで戻ってきた男に、俺はカッターナイフの刃を向けた。

「来ないで」
「え?!」
「もうやだ。帰る」
「は?何言ってんの?まだ帰さないよ」

冷たい目で俺を睨み、男はテーブルから酒瓶を手に取った。
あれで殴られたら終わりだ。
壁際で逃げ場のない俺は、ジリジリと距離を詰められる。

「大人しくしてれば痛くしないから」
「いやだ」
「それ、返して」

男が瓶を持たないほうの手をこちらへ伸ばす。
俺は咄嗟にカッターを自分の胸に当てた。

力を込め、心臓の上あたりから、右下の方へ刃先を走らせる。細い線から深紅の血が滲んだ。

「おい!!なにしてんだよ!」

男が大きな声を出す。
俺は構わず、今度は胸の左下から右上に向かって刃を入れた。
不思議と痛くはなかった。
球粒になった赤い雫がポタポタとフローリングの床に落ちていく。

「今度は頸動脈を切るよ。きっともっと血が出る。ここで俺が死んだら、お兄さん困るでしょ?」
「……おまえ、頭イッテんな」

男は呆然として、俺の胸にできた大きなバツ印を眺めていた。
俺はカッターナイフを握ったまま、下着をはき、服を着た。
スニーカーに足を突っ込み、震える手でドアを開ける。

外に出ると、まだ滝のような雨が降っていた。大粒の雨粒が全身に殴りかかる。瞬く間にびしょ濡れになったシャツは、滲んだ血でピンク色に染まっていった。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
怖くて一度も振り向けなかった。
どこかでカッターナイフを落としたが、構わず夢中で走り続けた。


家にたどり着くと、服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
全身が気持ち悪くて仕方なかった。
浴室の床が赤く汚れていく。傷は思った以上に深かった。
胸をタオルで押さえて止血した。タオルもすぐに真っ赤になった。

病院に行こうとも、警察に行こうとも思わなかった。
とりあえず傷口に消毒液をかけ、絆創膏を何枚も貼って押さえる。その上にキッチンペーパーを重ねて紙テープで貼りつけた。明日大きなガーゼを買ってこようと心に決める。
着ていた服や汚れたタオルを丸めて処分し、脱衣カゴには違うシャツを入れて置いた。濡れた廊下を拭き、浴室も綺麗に掃除した。母が帰る時間までに、全て自分で処理をした。

自分の部屋のベッドに転がると、傷口が燃えるように痛んだ。
そこで初めて、涙が溢れた。
痛みと後悔の思いに支配され、俺は眠れぬ長い夜を過ごしたのだった。



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月曜日の朝。五日ぶりの登校だ。
俺の足取りは軽かった。
高校まで、いつもはバスを使い20分ぐらいの距離なのだが、今日は張り切って歩いてきてしまった。
誰よりも早く教室に着き、後ろから二番目の席に座る。
ソワソワとして落ち着かない。
その人は、思ったより早くやって来た。

「おはよ」

照れくさそうに挨拶をし、俺の後ろに座る。

「おはよう!司」
「久しぶり」
「なー、参ったよ。熱がずっと下がらなくてさ」
「もう大丈夫なの?」
「おう、全然大丈夫」
「そっか……」

司は何かを言いたそうにし、でも飲み込んだ。

「それより司は?あの体育の日、大丈夫だった?」
「ああ、うん。少し保健室で寝たあと、平田先生が家まで送ってくれたから」
「そっか」
「あの、ありがとう。雨の中、壮大が保健室に運んでくれたって聞いた」
「それくらい大したことないよ。司、軽かったし」
「でもそのあと熱出したって……ごめん」
「あ、違う違う!もしかして気にしてた?俺、溶連菌だったの。潜伏期間とか考えたら、もっと前に感染してたんだわ」
「そうなのか?でも、あの時雨に打たれたから悪化したんじゃ……」
「いや、そんなこと絶対ないから。気にしなくていいよ」
「……」
「それより、俺全然予習とかしてないんだけど!一時間目なんだっけ?」

久しぶりに見る、困ったような司の顔が可愛すぎて、それ以上平静を保てる気がしなかった。
俺は一旦落ち着こうかと前を向き、筆記用具をカバンから取り出す。
すると、ツンツン、と控えめに背中をつつかれた。

「ん?」

後ろを振り返ると、司が白色のファイルを差し出していた。

「これ、あげる」
「なにこれ?」
「休んでた時のノートと、課題のプリントと、その答え。全部コピーして、教科ごとにファイルしてある」
「え?!」

パラパラとページをめくる。
どのページにも、几帳面に書かれた小さめで美しい文字が並んでいた。
ノートをただコピーするだけでなく、大事そうなところにカラーペンでマーキングまでしてある。

「……俺のために作ってくれたの?」
「うん、まあ」

嬉しすぎて、泣きそうだった。
好きだ。

「ありがとう!!家宝にする!!」
「はは、しなくていいよ」
「ハグさせて」

思わず立ち上がって手を広げた時、席の近い友達がやって来た。

「佐倉ぁー、元気になったか。早速沢渡といちゃついてんのか?」
「おう、邪魔すんなよ」
「ははは、沢渡良かったな!ずっと寂しそうだったもんな」
「……そうなの?」

司を見ると、恥ずかしそうに目を逸らした。

「別に……、前が見やすくて、勉強が捗ったけど」
「わーそれ傷つくなー。もしかして俺いない方が良かった?」
「そんなことない。……寂しかった、かも」

わわわ。
最後のひと言は、俺にしか聞こえない位の小さな声だった。でも確かに聞こえた。司からそんな言葉が出るなんて。
熱を出した代わりにすごいプレゼントを二つももらってしまった。授業が始まっても顔のニヤケが止まらなくなって困った。


放課後は久しぶりに部室にも顔を出した。
俺がいない間、司も部活は休んでいたらしい。
『俺も体調がイマイチだったから』と司は言ったが、その理由に『壮大がいないから』も含まれていたらいいのに、と思ってしまった。

俺たちを待ち構えていた先輩たちは、「じゃーん!!」と一枚の紙を渡してきた。

「佐倉くん、沢渡くん!これ見て!」
「……夏合宿のお知らせ?」

科学部では、毎年夏休みに入ると合宿が行われている。計画を立てるのは三年生というのが恒例で、その合宿で部活は引退となるのだ。俺たちが休んでいるうちに、その計画がまとまったらしい。

「へえ……すごい」

行き先は長野県。
三泊四日で組まれた日程表には、自然探索、天文台見学、夜の天体観測などがびっしり書かれていた。
電車好きの先輩がいるので、ローカルな電車に乗ったり、道中で牧場に寄ったりと、楽しそうな予定がいっぱいだ。
宿泊予定の小さなペンションは、建物は古くて部屋は狭いが食事は美味しいとの評判で、8人以上ならリーズナブルに貸し切ることができるらしい。もう仮押さえはしてあるそうだ。さすが先輩。

面白そうだな。
でも司は、どうだろう。泊まりがけの合宿は抵抗がありそうな気もするけど。

司のほうをチラリと伺うと、日程表を両手に持ち、キラキラした目で熟読していた。
案外乗り気そうだ。

「司、行く?」
「うん。行きたい」
「じゃあ俺も行きます」
「オーケー、君たちホントに仲良いんだね」

三年生の部長が言う。

「間宮先生に確認して、合宿費とかの細かいことが決まったらまた伝えるね」
「あ、間宮先生も行くんすか?」
「行くよ。毎年顧問も行くことになってて……そのペンション、先生の紹介だし。なんか先生も高校の頃に合宿で使ったことあるらしいんだよねー」
「へえ……」
「間宮先生、うちの卒業生って知ってた?」
「そうなんですか?」
「そうなんだよー。しかも科学部の創設者なんだって!」

それまで黙って日程表に目を落としていた司が、パッと顔をあげた。

「え?」
「創設者、って、部を作ったってことっすか?」
「そうそう。それまでなかった科学部を、友達と一緒に立ち上げたんだって。すごいよな」
「……」

司の表情は固く強張っていた。さっきまでニコニコキラキラしていたのに、これは何だ?

「司?大丈夫か?」
「……ああ、うん……」
「どうかした?」
「……間宮先生のところ、行ってくる」
「え?」
「話をしなくちゃ」
「俺も、」

立ち上がりかけた俺の肩は、司に押さえられた。

「いい。ひとりで行ってくる」


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たろー先生。
昔先生から聞いた話で、印象的なものがあった。

先生が高校生だった頃の話。
この高校は今より部活動が盛んではなかった。
部活より学業優先。自由だが、団結力に欠け個人主義な生徒たち。
当時の先生はそんな校風に物足りなさを感じていたという。
何かを変えたくて生徒会に入った先生は、そこで気の合う友達と出会った。
生徒会長のたろー先生と、副会長の友達。二人で学校を変えようと、精力的に活動した。
その一つが、科学部の立ち上げだ。
二人が共通して興味あることを心置きなくできる場を一から作ったのだ。
顧問になってくれる先生を探し、生徒会総会の議題にかけ、承認を勝ち取った。徐々に賛同する仲間が加わっていき、科学部の活動は充実し、卒業まで楽しい日々を過ごしたという。
自分たちの居場所を自分たちの手で作ったという話は、中学生の俺には夢のようで、先生を心から尊敬した。
いつか俺にもそんな仲間や居場所ができたらいいのに、と憧れた。
俺が志望校を決めるきっかけにもなった話だ。



「間宮先生」

化学準備室のいつもの席に、その人は座っていた。

「いらっしゃい、司くん」
「あの、俺、先生に聞きたいことがあって」
「なに?部活のこと?それとも勉強の質問かな?」
「……先生が、科学部を創設したって本当ですか」

間宮先生は目をまん丸にして、大袈裟に驚いたそぶりをした。
空いている椅子に俺を座らせ、インスタントのコーヒーを淹れてくれる。ゆったりした動作の間に、言うべき言葉を探しているようだった。

「コーヒーは甘いほうがいい?あいにくミルクはないんだけど」

コト、と小さな瓶が目の前に置かれた。中身はカラフルな金平糖だ。

「修学旅行のお土産に、誰かがくれたんだ。それ入れてみて」
「……はい」

俺は金平糖を何粒かコーヒーに入れた。
金平糖はなかなか溶けず、こげ茶色の海に浮かんだままだった。

「司くん、誰に聞いたのそれ」
「え?」
「科学部の創設者って」
「部長です」
「ああ、前に言ったことあったかな。びっくりした。太郎くんかと思った」

サラッとその名前を出されて、今度は俺の目が丸くなる。

「たろー先生のこと、知ってたんですか?」
「大切な相方だからね」
「相方?」
「高校の頃からずっと。大学も同じ教育大に進んだし、教師になろうって夢も一緒に叶えた」
「え……」
「実は去年、気になる生徒がいるって話も聞いていたんだ。俺は名前までは知らなかったし、詳しくはわからないけど、彼はその生徒をひどく傷つけてしまったって悔やんでいた」
「……」
「ごめんね、こんな教師の裏側みたいな話、教え子に言うことじゃないんだろうけど」

間宮先生はまだ迷っているようだった。

「いいえ……聞きたいです」
「そう?……太郎くんは、その生徒を助けたいけど、自分が動けば事態が悪化する恐れがあると、ずっと悩んでいたみたい。結局何もできないまま卒業を迎えてしまって……、申し訳なかった、いつか謝りたいと言っていたよ」
「……」

先生も、人間なんだな、と思った。
悩んで、それでもできないこともある、ただの人間。
俺は勝手に、スーパーヒーローか何かだと勘違いしていたのかもしれない。

俺はたろー先生から見捨てられたと思っていた。
色んな人からひどい言葉をかけられ、他の人たちとも上手く接することができなくなって、挙げ句の果てには、あんな馬鹿なことまでしてしまって。

心がボロボロになった時に、助けてくれる人は誰もいなかった。あの時先生が何か声をかけてくれていたら、俺は救われたのだろうか。
そんなこと、今考えてもわからない。

胸の上に手のひらをそっと当てた。
大きなバツ印は、傷口が少し盛り上がって、赤黒く跡が残っている。
いつかこの跡が消える日は来るのだろうか。

「でも、その子がうちの高校に進学するって知って、本当に喜んでた。お前が教えることになったら、よろしく頼むなって何度も念押しされて」
「……そうなんだ」

そうだ。
たろー先生から聞いた楽しそうな高校生活。
それだけが俺の救いだった。
未来の明るいスクールライフだけを夢見て、高校にさえ行けば何とかなると、希望を持ってここまで来れたんだ。
『先生の母校に合格しましたよ』って、本当は笑って報告したかった。

「……間宮先生は、その生徒が俺だって、どうしてわかったんですか?」
「太郎くんが、めちゃくちゃかわいい子だって言ってたから。俺は男か女かも知らされてなかったんだけど、司くんを見た時直感でわかった。あ、この子だ!って。それで出身中学を調べて、ビンゴだと確信した」

たろー先生が、俺のことを、めちゃくちゃ可愛いだなんて。
もし言ってくれてたら、嬉しかっただろうな、あの頃の俺。

「……もし、これからたろー先生に会うことがあったら、伝えてください。沢渡司は、高校で楽しくやってますよって」
「うんうん、今日帰ったら言っとくわ」

は?今なんて。

「今日帰ったら?」
「うん。僕たち一緒に住んでるから」
「ええ?!」

どういうことだ。

「同棲してるんだ。他の人にはナイショだよ」
「はあ?!」

驚いたけど、ああそういうことかと腑に落ちた。
ただの相方じゃないのか。
たろー先生と、間宮先生。
めちゃめちゃお似合いじゃないか。
好きだった筈の人のことなのに、不思議と平静に受け入れられた。

「俺に言っちゃってもいいんですか」
「んー、太郎くんが君のこと、あんまりかわいいって褒めるもんだから、ちょっと妬いちゃって」
「え?」
「年甲斐もなく牽制しちゃったかな」
「牽制……?」
「初めて会った時も、意地悪言ってごめんね」
「ああ……」

毒薬のことか。

「でもあの約束は生きてるからね。いつでも教えてあげるよ」
「……」
「司くん、殺したい人いるんじゃない?」

殺したい人?
いるとしたら、たろー先生でも、昔の同級生でも、あの大学生でもない。

この俺自身だ。



化学準備室を出ると、辺りはもう薄暗くなっていた。
いつの間にか下校時刻を過ぎていたらしい。
人気のない階段を降りて昇降口に向かうと、下駄箱のそばのベンチに壮大がポツンと座っていた。
膝の上には俺があげたノートのファイルが乗っている。あれを読みながら、ずっと待っていてくれたのか。
壮大は俺の姿を見つけると、嬉しそうに立ち上がり、大型犬のように尻尾を振って笑う。

「司!よかった、遅いから探しに行こうかと」

自然と足が動く。
俺は衝動的に駆け出し、大きな身体に正面から抱きついていた。

「え?!え?!」
「……ごめん、ちょっとだけ」

回した腕に力を込めた。
壮大はそのまま、大木のように動かなかった。
あたたかい。
あたたかくて、優しい人。

「……はい、終わり。ありがとう」

たぶん10秒ほどして、俺は壮大から離れた。

「……司?どうした?大丈夫か?」
「ん?」
「間宮先生になんかされたとか」
「ないない、話してただけ」
「……」
「ちょっと、自分の中の殺人衝動と闘ってたんだ」
「え、なに?また変なこと言われた?!」
「でも壮大に会ったら全部どうでもよくなった」
「……」
「待っててくれてありがとう」

壮大は目をギュッと閉じ、またゆっくりと開いた。

「好きだ」

そして低い声でそう言うと、少しだけ膝を折り、俺にそっと口づけをした。