最初の印象は、『邪魔な背中』だった。

念願叶って入学した進学校。制服やめんどくさい校則が無く、自由な校風に憧れて、受験勉強を頑張った。
その入学式が終わり、初めてのクラスホームルーム。
名簿を見て同中の知り合いが誰もいないのを確認してから、ドキドキしながら教室に入った。
ザワザワと楽しげに話す人達を横目に見ながら、おずおずと歩く。彼らは中学校からの知りあいなのか、それとも初対面なのにもう仲良くなったのだろうか。
こんな時いつも、自分は人見知りを発動してしまう。自由な高校で明るく楽しいスクールライフを夢みていたが、こんな調子で大丈夫なのか。前途が不安でしかない。
座席は出席番号順で指定されていたので、迷うことなく一番後ろの席についた。
ホッと小さく息を吐く。一番後ろは、ありがたい。人の視線があまり気にならないから。

……それにしても。

「……見えない……」

先ほどから担任の先生が黒板に何か書きながら、今後のスケジュールを説明している。初老の男性教師は、かすれ気味の声でボソボソと話す。
それに対して、周りの人達が『えーっ』と大袈裟なリアクションを返した。
今なんて言った?
目の前に壁のような背中があるせいで聴き取りにくく、板書もよく見えない。
何が起きているのかわからないので、手元に配られた入学の資料をパラパラとめくった。
資料によると、背中の持ち主は、佐倉壮大(さくらそうた)出席番号13番。
出席番号14番の俺、沢渡司(さわたりつかさ)の前だから間違いない。
身長166センチの俺より、10センチ以上は高いであろう、その背中は嫌味なくらい背筋がまっすぐ伸びていた。細身で無駄な肉はついていない。でも肩幅はしっかりあって、背筋が発達していそうだ。ヒョロヒョロと細いだけの俺とは全然違って、正直羨ましい体型。
レジュメに飽きた俺は他に見るものが無いので、仕方なくその背中をじっと観察していた。するといきなり椅子が引かれ、彼はスッと立ち上がった。
周りの人達もガタガタと音を立てて何処かへ歩き出す。

「……え?え?」

訳がわからずに慌てていると、背中の持ち主がいきなりクルリと振り返った。

「……大丈夫?」

わわわ。声を掛けられるとは思わず、焦った俺は視線が泳いでしまう。
彼は腰を屈めて、俺の目線に合わせようとしてきた。
真ん中で分けられた前髪。形の良いおでこ。無造作にセットされた髪型はツーブロックというのだろうか。耳から下はスッキリと刈り上げられている。
間違いなくイケメンだ。しかも陽キャに違いない。
ちょっと苦手なタイプだが、せっかく声をかけてくれたことだし、今はこの人に頼るしかない。

「え、と……みんなどこ行くの?」
「講堂。これから新入生オリエンテーションと、部活紹介だって」
「あ、そうなんだ」
「もしかして、聞こえなかった?」
「ああ、うん、あんまり」
「……俺が大きいからだよな。先生に言って席変えてもらおうか」

教室の前の方を振り返り、教師の姿を探す佐倉くんの腕を思わず掴んだ。

「っやめて!俺、ここがいいから」

佐倉くんがキョトンと俺を見た。

「……なんで?」
「え、と……」

顔が熱くなる。
俺はあまり自分のことを話すのが得意じゃない。でも佐倉くんの邪気のない涼しげな瞳に見つめられて、もう少し話してみてもいいかと思ってしまった。

「あの、俺、前から人の視線が少し怖くて……人見知りの重めなやつ?ていうか」
「……」
「だから前に壁があるの、助かるから……」
「壁?俺のこと?」
「あ!ごめん」

初対面の人に向かって、失礼なことを言ってしまった。やっぱり話すんじゃなかった。ああもう、俺の高校生活は終わったかもしれない。

「はは……うん、わかった、了解」

焦りまくる俺とは対照的に、佐倉くんは穏やかに笑っていた。

「え」
「でもお前、先生の話あんま聞こえてなかっただろ?」
「それはそう……なんだけど」

確かにそれも困るんだが。
俺はそれより安心安全な席を死守したい。

「じゃあ、お前が慣れるまで、壁の俺が聞こえなかったところは教えてやる。何でも聞いて。黒板が見えなかったら、ノートも見せてやるよ」
「え!ほんと?!」
「おう、全然いいよ。その代わり、俺と友達になって」

そう言う佐倉くんの笑顔を、俺は一生忘れないだろう。そう断言できるほど、キラキラと輝いて見えた。

「……うん」

佐倉くんは神様なのかもしれない。
入学早々、こんな友達ができるなんて、思いもしなかった。顔だけでなく、胸もじんわり熱くなる。

「名前は……沢渡司?さわたりって長いな。つかさって呼んでいい?」
「うん」

コクコクと頷く俺に、佐倉くんは
「じゃあ、俺はそうたって呼んで」と続ける。

「講堂行こうぜ、司」

周りの人達はもう移動を始めていた。俺も急いで歩き出す。

「あ、あの、壮大?早速一つ聞いていい?」
「どーぞ?」
「さっき、みんなが『えー』って騒いでたのってなんだったの?」
「ああ、あれか。来週早速、英語と数学のテストがあるらしいよ。範囲は入学前の課題になってたところ」
「えーーーっ!」
「ははは、司のリアクション、おそ!」


講堂にはまだ紅白の幕が貼られ、入学式の雰囲気が残っていた。
生徒主催のオリエンテーションは、生徒会や委員会の紹介のあと、部活紹介へと続く。
吹奏楽部の賑やかな演奏の後は、ダンス部が踊ったり、体操部がアクロバットを披露したり。どの部もレベルが高くて感心してしまう。

「司、部活どうすんの?」

隣に座る壮大に聞かれた。

「うーん、悩み中だけど……文化部のどこか」

帰宅部でもいいんだけど、明るく楽しいスクールライフに部活は必須な気もする。
とはいえ体力も素質も持ち合わせていないので、運動部はありえない。平和な文化部希望だ。

「文化部か」
「壮大は運動部でしょ?スポーツ得意そうだもんな」
「うんまあ、運動も好きだけど。俺も文化部にしようかな」
「えっなんで」
「中学では合気道やってたんだけど、この高校にはないから」
「へえ……」

背筋の通った大きな背中は合気道の賜物なのか。道着を纏ってかっこよくキメる姿が容易に想像できる。

「文化部も面白そうなのいっぱいあるよな。音楽系か、放送部、書道部、演劇部、文芸部、科学部……」
「科学部」
「興味ある?」
「うん」
「じゃあ放課後見学に行こうぜ」

科学部、という響きに自然と身体が反応した。部員数も多くなさそうだし、落ち着いて活動できそうな気がする。
明るく楽しいスクールライフとは少し離れているかもしれないけど、まずは平和な環境を手に入れたい。
でも。壮大のことはまだよく知らないが、もっと陽気な部の方が似合っているように思うのだが。合気道部がないなら、他の運動部にすればよいのに。

「……壮大も一緒に行くの?」
「うん」
「いいのか?」
「いいよ。俺も理科系結構好きだし。理科室の独特の雰囲気とか、良くない?標本とか骸骨とかあって、女子たちは嫌がってたけど、俺はなんか落ち着くんだよなー」
「うん、わかる」

正直なところ、一人で見学に行くのは自分にとってかなり勇気の要ることだ。壮大が一緒に行ってくれるのは助かる。俺はその申し出をありがたく受け入れた。

結果、俺は科学部に入部した。
先輩たちの大歓迎モードに、断わる選択肢はいつの間にかなくなっていた。
既存の部員は二、三年生を合わせて6人だけ。しかも全員男だ。少人数の科学部にとって、新入生は余程貴重な存在なのらしい。見学だけのつもりで行ったら、その場で囲まれ、入部届を書かされてしまった。
そして壮大も、同時に科学部に入った。
本当にそれでいいのかと何度も確かめたが、彼はニコニコと笑って「いいよ」と言った。
俺たち以外の新入生はいくら待っても来なかったので、結局二人きりの新入部員となってしまったのだった。

科学部の顧問は間宮という化学の先生だ。
フワフワとした長めの癖毛に、黒縁の眼鏡とシワのついた白衣。猫背気味だが背はスラリと高い。歳は30位で、飄々としていて掴みどころがない。
案外?授業はわかりやすく面白いのだと先輩から教えてもらった。

間宮先生と初めて対面した時、部室には俺と壮大しかいなかった。先生は俺の顔をじっと見て言った。

「君は科学部で何をしたいの?」
「え……と……」
「授業でできないような実験をしたり、あと天文にも興味があります」

言葉に詰まる俺の横から、壮大が口を挟んだ。

「ふふ、君はいいんだけどね」
「は?」
「あ……俺も、同じです。二人で、実験とかしたいよなって話してて。宇宙科学も面白そうだし、まずはいろんな分野を知るところから始めたいなと」

壮大が不機嫌になりそうな気配を感じ、俺も慌てて答えた。

「いいね」

間宮先生は、俺から視線を離さなかった。眼鏡の奥には、よく見ると掘りが深く非常に整った顔。ソワソワと、妙な心地悪さを感じる。

「そうだ、君にはいつか、毒薬の作り方を教えよう」
「え?」

高校教師に相応しくない言葉を聴いた気がして、俺は固まった。

「コロリと逝けて、全く跡は残らない。完全犯罪に使えるやつだよ」
「……えええ?」
「先生」

壮大がスッと間宮先生と俺の間に割り入り、視線を遮った。

「もうやめてください」
「……」

俺は何も言えなかった。先生に腐った内臓を見透かされたような気がして、とにかく居心地が悪かった。

「はは、ごめん。かわいい新入生を揶揄いたくなってしまった」
「揶揄うって、教育者のすることですか」
「壮大、いいよ、もう」

今にも先生に掴みかかりそうな壮大の腕を掴んで、ようやく俺は言った。

「……先生、いつか教えてください。毒薬の作り方」
「司!」
「うんうん、そうだね」

間宮先生は微笑んで、手をヒラヒラと振った。

「じゃあね、佐倉くんと、司くん。科学部、楽しんで」

部室を出ていく先生を見送ると、壮大がイライラと頭を掻きむしった。

「あーーー!何なのあいつ。司は名前呼び?」
「あ、そこ?」

単に俺の苗字を覚えてなかったんじゃなかろうか。

「毒薬って、犯罪だろ。司、今後あいつに関わるんじゃねーぞ」
「いや、顧問だし、化学の授業もあるし」
「一応聞くけど、今から部活変えない?」
「変えないよ」
「……じゃ、俺も変えない」

壮大はスン、と真顔に戻った。感情表現が素直で表情がコロコロ変わるところ、面白い。

その後俺たちは、過去の科学部の記録を見ながら、これからの活動について話し合った。この実験面白そうだとか、夏に天体観測をしようとか。
話しながらも俺は、心の数パーセントを、あの『毒薬』という言葉に囚われているのを感じていた。



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最初の印象は、『小さな背中』だった。

高校受験本番の日、試験開始時間よりかなり余裕を持って会場に到着した。受験票を確認し、番号順に座った席は、窓際の一番後ろ。寒い日で、窓の外にはチラチラと雪が舞っていた。
緊張しながら座り、前の席を見ると、俺よりもっと緊張していそうな小さな背中があった。
男?女?ブレザーを着た背中と長めのショートカットでは、判断がつかなかった。
下の方に目をやるとスラックスを履いていたので、ああ男か、と思う。
何故緊張していると思ったのかというと、その背中が小刻みに震えていたからだ。
俺はポケットからカイロを取り出し、前に座る人の背中をトントンと叩いた。

「……え?あ、はい?」

振り向いたその顔があまりにも可愛くて、俺の心臓がドキッと跳ねた。

「あの、これ、どーぞ」
「……はい?」

カイロを渡したが、相手は明らかに戸惑っている。
そりゃそうか。全然知らない人にいきなりカイロ渡されてもな。

「今日、寒いから」
「……ありがとう?」

不審がりながらも、その人はカイロを手に受け取り、再び前を向いた。
可愛かったな。
男だけど、今まで会った誰よりも可愛かった。大きな瞳が上目遣いにこちらを見た時、天使かと思った。
天使の背中は震えが止まったように見えて、よかった、と安心した。
よし。テストがんばろう。絶対合格して、もしまた高校で出会えたら……絶対に友達になろう。
俺は固く心に誓った。


合格発表の日、俺は自分の番号と、ひとつ前の番号があるのを確認し、狂喜した。
あの誓いが現実になるかもしれない。
それまでに少しでも自分を磨こうと、都会の美容院に行き、オシャレな服を研究し、毎朝走り、脱毛にも通った。
天使の隣に立つために、相応しい男にならなくてはならない。そのためには何でもできそうな気がした。

入学式の日、天使の姿を見つけた時は密かにガッツポーズをした。
奇跡が起こった。なんてことだ、しかも同じクラス。しかもすぐ後ろの席。神に大大大感謝だ。
どうしよう。俺のこと、覚えてないだろうか。話しかけてもいいだろうか。
ぐるぐる考えているうちに初めてのクラスホームルームが終わり、講堂に移動することになった。
後ろにぶつからないように、そっと椅子を引き立ち上がると、「え?え?」と小さな声が聞こえた。
俺は意を決して後ろを振り返る。
そこには怯えたように俺を見上げる、天使がいた。

「……大丈夫?」


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高校生活は、想像以上に順調に始まった。
クラスで徐々に話せる友達も増えていったし、部活も楽しい。
学業は少し大変だが、壮大に聞けば大抵何でも教えてくれる。
俺が平和に過ごせているのは、全て壮大のお陰だと言っても過言ではないのだ。

壮大と俺は何もかもが違う。
小柄で女顔の俺と、背が高くて男らしい壮大。
人見知りで口下手な俺と、活発で誰とでも仲良くなれる壮大。
正反対の二人なのに、何故か近くにいて心地よい。自分のことながら本当に不思議だ。
俺は壮大に、毎日いろんな場面で助けてもらっている。でも壮大には何も返せていない。それが心苦しくもある。
壮大は俺なんかに構わずに、他の友達といればいいのに。女の子にも絶対モテるのだから、とっとと彼女を作ってもいいんだし。
そう本人にも言ってみたが、「いいの、俺は好きで司といるんだから」といつもの爽やかな笑顔で笑うだけだった。解せない。

次の授業は体育だ。
俺は着替えを持って、更衣室に向かった。
この高校では男女別に更衣室が用意されているが、大抵の男子は面倒くさがって教室で着替える。毎回更衣室を使うのは俺くらいだ。
初めのうちは壮大も俺に付いて来ようとしていたが、俺が何度も断ったのでついに諦めたらしい。だからこの時ばかりは一人だ。
ロッカーに、脱いだパーカーやジーンズを入れていく。体育用のTシャツを頭から被ると、古い傷跡がピリッと疼いた。雨が近いのかもしれない。

運動場に出ると、思った通り今にも降りそうな曇天だった。
軽い体操のあとは、30分間の持久走。といっても体育の先生はそんなに厳しくないので、走ってもいいし、歩いてもいい。とにかく30分、前に進めばいいのだ。
俺はゆっくり、歩くよりは少しマシな位のペースで走る。壮大はガチで走るタイプだ。
フィールドをぐるぐる回っているので、何度か壮大に追い越される。その度に壮大は「つかさ、がんばれ!」と声を掛けてくれた。
おまえもな、と心の中では返すが、俺には声を出す余裕はない。黙々と足を前に進ませていると、終了間際、雨が降ってきた。
雨雲は急激に本気を出し、あっという間にどしゃ降りとなる。ゲリラ豪雨だ。
先生がピーーーッと笛を吹き、「終了!校舎の中に入って!」と叫ぶ。
わらわらと生徒たちは校舎へ駆け込んでいった。

俺も行かなくちゃ。
そう思うのに、足は勝手にピタリと止まる。
行ったらダメだ。ダメだ。行くな!
心の中で、誰かが叫ぶ。
足が重くて重くて、地面にめり込んでいく。
俺はとうとう、その場にうずくまった。
雨は容赦なく全身を叩き続けていた。


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雨だ。
急な通り雨が、体育で持久走をしていた俺たちを濡らしていく。
校舎の中へと次々に駆け込んでいくクラスメイトたち。
その中に司の姿を探すが、見つけられない。
あれ?と思って運動場を振り返ると、どしゃ降りの中、遠くに小さな人影があった。
人影は、そのままそこでしゃがみ込む。

「司?!」

そこらじゅうにできた水溜りを蹴散らしながら、俺は走った。
思った通り、司だ。


「どうした?」

顔を覗き込むが、返事はなく、うつろな視点も定まらない。
とにかくこのままにはできないので、無理矢理横抱きに抱えた。
司の身体はガタガタと小刻みに震えていた。

「せんせーっ!!」

雨音にかき消されないよう、大声で叫ぶ。
体育教師が気付き、傘を持ってこちらへ駆けてきた。

「大丈夫かー?!それ誰だ?!」
「沢渡です!俺、このまま保健室連れて行きます」

体育教師は、保健室の平田先生に司を引き継いだ。平田先生は、ふくよかな40代の女性で、絶対的な安心感がある人だ。
平田先生と協力して、ひとまず司をソファーに座らせた。
自分にもタオルを貸してもらうと、俺は更衣室に向かった。早く司を着替えさせないと。
男子更衣室には一人分の荷物しか残っていなかった。黒いパーカーに見覚えがある。司のだ。
急いで保健室に戻ると、平田先生が司の頭をタオルで拭いていた。司は人形のようにされるがままになっている。

「あ、着替えありがとうね。佐倉くん、ついでにこれ脱がせるの手伝ってくれる?」
「はい」

雨に濡れたTシャツは肌にへばりついて、先生は悪戦苦闘している。
今だに意識がボーッとしている司の首から、俺は勢いよくTシャツを抜き取った。

「あ……」

同じものを見たに違いない平田先生が、司の身体をサッとタオルで包む。

「ああ、佐倉くん、お手伝いもういいわ、ありがとう。あなたも早く着替えて教室に戻りなさい」

司は下を向いて、何かに怯えるように震えていた。
きっと司は、今の自分を俺に見られたくない。

「……はい」
「このこと、他の人には」
「言いません」
「うん。お願いね」
「……失礼します」


教室に戻ると、もう次の授業が始まっていた。
気にせずズカズカと自分の席に進む。
「大丈夫か?やば、濡れてるじゃん」と小声で言う友達に無言で頷き、机から荷物を取る。
教室の後ろに並んだロッカーからバッグを取り出し、ついでに司のリュックも担いだ。

「佐倉?どうした」

古文教師が眉をひそめる。

「すみません。佐倉と沢渡、具合が悪いんで早退します」

授業を遮ってしまったのは申し訳ないので、深く一礼して、そのまま教室を出た。
更衣室で私服に着替え、再び保健室に向かう。
ドアをノックすると、先生が出てきた。

「授業に戻ったんじゃなかったの?」

平田先生は呆れたように俺を見た。

「自主的早退します」
「沢渡くん、ベッドで眠ってるわ。しばらく私が様子見てるから、今は会えません」
「待ってます」
「……今はそっとしておいてあげて。あとでちゃんと私が責任を持って、自宅まで送り届けるから」
「……わかりました。これ、あいつのです」

司のリュックを先生に託した。

「司をお願いします」

司のためにこれ以上何もできない自分が歯痒い。
でも確かに、今はそっと眠らせてあげるしかなさそうだ。
先程の怯えたような表情を思い出す。
うつろな瞳には、俺は映っていないようだった。
普通でない様子に、『心的外傷』という言葉が浮かんだ。例えば突然の豪雨が、何かしらの嫌な過去を思い出させた、とか?
司は、人の目が怖いと言っていた。
それに、さっき見たアレは———。

すでに早退宣言をしてしまった俺は、そのまま帰宅することにした。校門をくぐる頃には、雨はもうすっかり上がっていた。
途中、なんか寒気がするなとは思っていたのだが、家にたどり着く頃にはもうフラフラだった。
俺は高熱を出し、それから三日も寝込むこととなったのだった。


————————————————————————

壮大が、学校に来ない。
水曜日から休んで、今日はもう金曜日だ。
この三日間で、俺は何人もの人から「佐倉はどうしたの?」と聞かれた。
どうやらうちの高校では、俺と壮大がニコイチだと認識されているらしい。
まあクラスでも部活でも、ほとんどの時を一緒に過ごしているのだから、それは仕方ない。
でも俺には、壮大がどうして休んでいるのか、全くわからないのだ。

一応、俺は壮大の連絡先を知っている。
でも電話もラインもしたことはない。
俺はそういうのが苦手だし、学校に来ればいつでも会えるからだ。
でも今日で三日も、会えていない。俺には壮大が何故休んでいるのか、知る権利があるのではないか。ニコイチの友達なんだし。
でも。あの、いつも元気の見本みたいな男がこんなに休むなんて、余程具合が悪いのだろうか。だとしたら連絡するのは迷惑にならないだろうか。もう少し待ってからのほうがいいのかもしれない。
グルグルと巡る思考はまとまらず、結局俺は壮大に連絡ができずにいた。

火曜日の体育で、持久走をしていた時までは、確かにいつも通りだったのだ。
運動ガチ勢な壮大は軽快に走り、俺はゆっくりとマイペースに走り……そして急に、雨が降ってきた。
大粒の、本気の大雨だ。
すぐに逃げなきゃ、と思った。
なのに、『行くな』と誰かに言われた気がして、足が止まってしまった。
そこで俺の記憶は途絶える。

養護教諭の平田先生の話では、動けない俺を壮大が保健室まで運んでくれたらしい。
その時雨に濡れたせいで、壮大は体調を崩したのか?……だとしたら、俺の責任だ。

壮大は俺の着替えや荷物を届けてくれてから、授業に戻ったのだろう。
俺は保健室のベッドでしばらく眠り、目が覚めたら、平田先生の軽自動車で家まで送ってもらえることになった。
シングルマザーで、フルタイムで働いている母は忙しく、すぐに迎えには来られない。
まだ少しボーッとしていたし頭痛もひどかった。いつもは電車を乗り継ぎ一時間近くかかる道のりなので、ご厚意は非常にありがたかった。

車内で先生は、「学校楽しい?」とお決まりの質問をしてきた。
「楽しいです」
「そう。佐倉くん、いいお友達ね」
「はい。本当に」

壮大のお陰で、高校生活が楽しいと心から言える。あんなにいいやつ他にいないだろう。
その壮大に、また迷惑をかけてしまった。
俺はこの恩をどうやって返したらいい?羽をむしって機織りでもしようか。

「……よくこういうことあるの?」
「こういうこと?」
「意識を失うとか、倒れるようなこと」
「ありません」

高校に入ってからは初めてだ。

「それならいいけど……あとひとつ聞いてもいい?」
「……はい」
「それ、どうしたの?」

平田先生は俺の胸を指で刺した。
やっぱり、そうくるよな。
でも何と答えるべきか、なかなか言葉が出てこない。

「答えたくなければいいんだけど……、誰かに、つけられた?」
「いえ……違います」

いつも笑顔の先生が顔をしかめ、怒っているように見えた。

「沢渡くん、一度カウンセリング受けてみない?」
「……」
「学校の相談室でもいいし、病院でもいいし」
「……大丈夫です」
「そんなに大袈裟に構えなくてもいいの。気軽に話してみたら?」
「ありがとうございます。でも必要ないです」
「そう……」

俺が拒否すると、先生はそれ以上無理強いしなかった。
本当に大丈夫。
たとえカウンセラーや病院の医師にでも、話せないことはあるのだ。




一年ほど前。
俺には好きな人がいた。

その人は、中三の時の担任の先生。数学担当の男性教師で、佐藤太郎というありふれた名前だ。
年齢は20代後半。いつもクールでカッコいいのだが、不意に見せる笑顔は少年のようで、そのギャップにやられた。
先生は生徒から『たろー先生』と呼ばれていた。『たろう』じゃなくて、『たろお』と伸ばすやつだ。
皆から慕われ、いつも大勢に囲まれていた。
俺もその一人に過ぎなかったが、それで良かった。告白してどうにかなろうなんて、全く考えもしなかった。ただ少しでも側にいたくて、放課後数学の質問に通っては「また来たのか」と笑われた。
先生はよく、自分の高校時代の話をしてくれた。
校則なんて窮屈なものに縛られず、自由で楽しい最高の高校生活だったと。気の合う友達と成し遂げた、伝説的な話をたくさん聞いた。
親しい友達もおらず、今、正に窮屈な中学校に身を置く自分には、全て夢のように思えた。
その高校は、俺には少し難しいレベルで、家からも遠かった。でもがんばって、絶対入学してやろうと思った。そうすれば先生との距離も少しは近くなれるような気がした。

ある時、俺がたろー先生のことを好きなのではという噂が立った。
誰にも言ったことはないのに、何故だろう。毎日のように質問に行っていたし、いつも先生のことを目で追っていたせいかもしれない。
「おまえホモなの?」と面白そうに言ってくる生徒もいて、違うと否定しても「沢渡かわいいもんなー、男でもありだよな」といつまでもニヤニヤと揶揄われた。
自分の隠していた気持ちを好き勝手に噂されるのが苦痛で、みんなの目が怖くなった。
同級生たちは俺を無視したり、理由なく身体に触ってくるようになった。
オドオドする俺が、面白いオモチャのように見えたのかもしれない。又は異分子の扱いに戸惑った結果なのかもしれない。

俺はなるべく先生と関わるのをやめたが、遠くからこっそりと見つめることはやめられなかった。
でも稀に視線が合った時、それまでは優しく微笑み返してくれていたのに、噂が立ってからはスッと目を逸らされるようになった。

もうダメだと思った。