「……ん、」

 目が覚めて、ゆっくり瞼を上げると、ベッドの隣の椅子に座って目を閉じている佐倉がいた。どうやら2人とも眠ってしまっていたらしい。

 佐倉の寝顔は何だか幼くて、金色の髪や耳にぎらぎら光るピアスとは裏腹に、あどけない表情をしていた。授業中に前の席で佐倉が寝ている光景はよく見るけれど、いつもは机に突っ伏している後頭部しか見えないから、少し新鮮だ。
 まつ毛が長い。横顔も綺麗で、唇は薄い。思わず見惚れてしまったのは、気の迷いだ。

 ……というか、佐倉も学校の後に毎日のようにバイトに行っているんだよな。そう思うと、俺よりも疲れているのはこいつなんじゃ、という気がしてくる。

 俺が親のお金で塾に行って座っている間、佐倉は自分の力で働いて、お金を稼いでいる。そう思うと目の前のクラスメイトのことが、すごく大人に見える。
 しばらく佐倉の寝顔を見つめていると、視線を感じたのか佐倉の瞼がぴくりと動いて、ゆっくりと目を開ける。

 「……ん、ああ、起きたのか」

 目が覚めている俺を見て、佐倉が言う。それはどちらかといえば俺のセリフでは?と思いながらも、ああ、と頷いた。

 「ありがとうな、連れてきてくれて」
 「俺も授業サボれてラッキー」

 へらりと笑う佐倉に、つられて頬が緩む。時計を見るとたった30分くらいしか経っていなかったけれど、深く眠れたおかげで頭がだいぶスッキリしている。これなら次の授業からは教室に戻れそうだ。睡眠が取れたというのもそうだけれど、佐倉と2人きりの保健室が穏やかで、心地よかったような気がする。



 おかげさまで、俺は無事に午後の授業を乗り切ることができ、放課後の塾の授業も受けることができた。塾の授業中、以前佐倉にもらった濃厚ミルクキャンディ苺味を食べたら、糖分が脳に届いていつもより集中できた気もする。

 授業が終わり、塾を出たのは9:30。真っ暗な空を見上げて大きく息を吸って、歩き出そうとすると近くのコンビニから見慣れた金髪が出てきたのが見えた。

 「お、沢城じゃん」

 ちょうどバイトが終わったところらしい。制服姿の佐倉が嬉しそうに手を振るから、バイトは校則違反だと伝えるのも面倒になってくる。

 「佐倉も今帰り?」
 「そう。バイト終わり」

 俺が先生に報告したりしないと思ったのか、佐倉も堂々とバイトの話をしてくるから呆れてしまう。まあ、報告するつもりもないけれど。

 「こんな時間まで勉強かよ。体調は大丈夫か?」
 「ああ、おかげさまで」
 「そうだ、これ廃棄で貰ったんだけど、食って行かね?」

 佐倉が手に持っていた袋を指差す。最近有料になったコンビニの白いビニール袋に入っている何か。

 佐倉に連れられて入ったのはコンビニの近くの小さな公園で、そろそろ替え時なのか今にも消えそうな、頼りない街灯の下のベンチに座って袋を開ける。中から出てきたのは唐揚げ弁当が2つ。確かにお腹が空いていたので、弁当を見ただけでお腹が鳴りそうだ。

 「店長が優しくて、売れなかった弁当とか持ち帰らせてくれるんだ」

 そう言って嬉しそうに唐揚げ弁当を口に運ぶ佐倉に、俺も弁当パックの蓋を開ける。揚げ物の匂いがふわりと広がって、よりお腹が空いてきた。

 「いいの?俺も貰って」
 「2個あるしいいよ」
 「2個って、誰かと食べるつもりだったんじゃ……」
 「俺が2個食おうとしてただけ。太りそうだし1個にしとくわ」
 「これを2個は確かにやめた方がいいな」

 揚げ物ばかりの弁当を2つも食べたらカロリーが心配だ。
 誰もいない夜の公園で、つい最近まで話したこともなかった佐倉と唐揚げ弁当を食べるなんて、少し前の自分には想像もできなかっただろう。

 少し遠くから、塾から出てくる生徒たちの声が聞こえる。公園の周りの木が風に揺れる音が、現実とこの世界を切り離しているようだった。夏の終わりの、夜の匂いがする。空を見上げればぼんやりと白い光を放つ月が漂っていた。

 「なあ。佐倉はなんでバイトしてるんだ?」

 ただのクラスメイトの校則違反の理由に興味なんてないと思っていたけれど、きっと本当は優しくて真面目な彼が、どうして働いているのかが単純に気になった。

 佐倉は、あー、と少し考えたような表情をしながら、この公園にある唯一の遊具であるブランコを見ていた。俺もつられるように視線を移す。ブランコが、夏の終わりの緩やかな風に吹かれて、小さく揺れていた。

 「俺の家、あんまり裕福じゃないんだよね」

 佐倉はそう言って、唐揚げを口に放り込む。

 「父親が小さい時に出て行って、それから母親が1人で俺と弟を育ててくれてて。気にするなとは言われてるんだけど、朝から晩まで働く母親のこと見てたら、俺も何かできないかなーと思って。まあ、高校生のバイト代くらいじゃ何の足しにもならねえかもしれないけど」

 眉を下げて笑う佐倉に、心臓のあたりがぎゅっと締め付けられた。俺と同い年なのに、そんな風にしっかり考えて、自分で行動しているのか。

 親に言われるがままに勉強して、生徒会に入っている俺なんかよりも、彼の方がよっぽど出来た人間だ。親のお金で塾に通わせてもらっているのに、第1志望の高校を受験すらしなかった自分が心底恥ずかしくなる。

 「そっか……すごいな」

 思わず俯いてそう言うと、佐倉は照れたように笑った。さっきまで隣に座っていた佐倉が、急に遠くの存在のような気がする。こんな風に力になりたいと思えるような家族がいることも、少し羨ましかった。

 「沢城は?どこか行きたい大学でもあんの?」

 こんなに勉強しているのだから、何か目標のがあるのだと、普通は思うだろう。

 行かなきゃいけない大学は、ある。けれど行きたい大学と言われると、言葉に詰まった。佐倉はきっと、俺が彼にバイトする理由を尋ねたように、俺が塾に行く理由を聞いているのだろう。家族のために働いているという彼の話を聞いた後にこんなことを言うのは恥ずかしいけれど、他に理由は思いつかなかった。

 「……兄に、追いつくために。高校受験の時に第1志望に行けなくて親に呆れられているから、大学は兄と同じところに行かないと、いけなくて」

 佐倉は少し意外そうな顔をして、へえ、と呟いた。
 
 「第1志望って、どこなの?」と聞かれて答えると、佐倉は「すげえ……」と目を丸くする。誰もが聞いたことのある大学名だったからだろう。

 「でも、その割にはいつも苦しそうな顔してるよな」
 「え……」

 思いがけない言葉に、隣に座っている佐倉を見る。俺より少し背の高い彼を見上げると、金色の髪が風に揺れて、佐倉の目元にかかった。

 「行きたい大学があって希望に溢れてる、みたいな感じじゃなくて、いつも追い詰められたみたいな、溺れそうな顔してるから」
 「……はは、本当にそうだな」

 なぜだか、こいつの前だと強がることができない。確かに溺れているという表現が1番近いのかもしれない。いつだって苦しくて、上手く息ができない。
 佐倉の見透かしたようなまっすぐな瞳を、見つめ返すことができない。

 「……高校受験の時、第1志望の高校に行けなかったんだ。兄が通ってた名門私立に行けってずっと言われてたのに。それで今度こそは兄と同じ大学に行かないと、と思って」

 こんなこと、誰にも話したことがなかったのに。どうして佐倉の前では言葉が出てくるんだろう。いつもだった適当なことを言って誤魔化しているけれど、佐倉にはそれをしたくなかった。

 「へえ、沢城でも受からない高校があったんだな」
 いつも成績トップなのに、と続ける佐倉。
 「受験すらしなかったんだ」
 「え?」

 家族にしか話していなかった受験しなかった理由を話すと、佐倉は驚いたように目を丸くしていた。

 「電車の中で体調不良の人を助けて試験に間に合わなくて……っていうのはただのきっかけで、親の言いなりになってばかりの自分が急に嫌になって。人助けが理由なら許されるんじゃないかと思ったけど、そんなに甘くなくて、結局今は親の言いなりで勉強してるっていう。……馬鹿みたいだよな」

 「そうか?優しくてすごいなとしか思わないけど」
 「いや、でもそれを受験しなかった言い訳に使うなんて最低だ」

 だからバチがあったんだと思う。人を助けたなら仕方ないって、言ってもらえる。そんなずるい気持ちで逃げたから、きっと。

 「でも、実際助けたんだろ。その体調不良の人」
 「そうだけど……」

 「俺の弟も病弱でさ、満員電車乗って倒れたりしたこともあって。今は結構元気になってきたんだけど。見て見ぬふりする大人も多い中で、中学生で動けるのはすげえよ。その人も絶対感謝してるし、別に言い訳とか思わないけど。そんなの、誰でもできることじゃないだろ」

 佐倉に真っ直ぐに見つめられ、心の奥の黒い塊が、じわりと温かく、やさしく溶けるのを感じた。本当は誰かに、そう言ってほしかった。認めてほしかった。お前は失敗作じゃないよ、その行動は正しかったよと言ってほしかったのかもしれない。

 じわり、じわりと溶けた氷が、心の奥を包み込むように温めてくれる。こんなに満たされたような気持ちになったのは、救われたような気持ちになったのは初めてで、どういう顔をしたらいいのかわからない。

 「優しいんだな、沢城」
 「っ……」

 泣きそうになっている俺に、佐倉は気付かないふりをしてくれているのか、唐揚げ弁当を頬張っている。何度も瞬きをして、溢れそうな涙を必死に乾かした。

 「ま、お互いいろいろ大変だけど、頑張ろうぜ。沢城」
 「……ああ、そうだな」

 ずっと後悔していたあの冬の日を、佐倉はたったひと言で救ってくれた。雪が夜を過ごして硬い氷になった冷たいそれを、じんわりと温めて、溶かしてくれるようだった。憂鬱だった放課後を、やさしく照らしてくれた。
 佐倉の存在が、俺の中で少しずつ大きくなっていくのを感じていた。