「悠月、大学はちゃんとしたところに行きなさいよ。わかってると思うけど」

 母が、ちらりと冷めた目で俺を見る。兄が買ってきたと思われるテーブルの上のお菓子は、俺の分など用意されていない。母は高そうなティーカップで紅茶を啜っている。ハーブティーのツンとする香りが鼻につく。

 「……わかってるよ」

 俺はそれだけ言ってリビングを出て、階段を上がって自分の部屋に入りドアを閉める。ガチャンとドアの閉まる音がして、1人の空間になって、ようやく息を吸うことができた。失敗作、馬鹿だな、要領が悪いと人生損する。母と兄の声が渦巻いて、胃の辺りがむかついて吐きそうになる。

 「……勉強、しないと」

 こうなってしまった日は、なかなか寝付けない。今までの経験からもうよく分かっているので、机に向かって教科書を広げた。俺は出来損ないだから、失敗作だから、誰よりも努力しないといけない。

 それでも全部、自分が悪い。あの日、間違った選択をした、自分が。兄のように、母が期待する姿に、なれなかった自分が悪いのだから。



 ……これはダメだ、と直感的に思う。

 昨日、思ったとおりうまく寝付けなくて、結局寝たのは明け方の4時頃だった。3時間しか眠れない中で学校に来て、睡眠不足で頭がぼーっとする。

 授業の内容も頭に入ってこないし、頭も痛い。ガンガンと痛む頭に、ぼんやりとした視界。今日は放課後に塾もあるから22時頃まで家には帰れないのに、最悪だ。

 時計を見ても、まだ授業が始まって15分しか経っていなくて絶望した。10分でもいいから一度寝て、リセットさせてほしい。けれど俺は目の前の佐倉とは違って、授業中の居眠りが許されるキャラじゃない。

 「先生、風邪引いたみたいなんで保健室行っていいっすか?」

 と、目の前に座っていた金髪が手を挙げる。こいつも体調不良なのか、と朦朧とした意識の中で考える。

 「フラフラして1人じゃ歩けないんで、会長と」

 ……は?
 佐倉の意味のわからない頼みに何故か先生の許可が降りて、佐倉は俺に「行くぞ」と言って席を立つ。保健室なんて1人で行け、と思いながらも、反抗する元気もなく立ち上がる。

 ついでに俺も保健室で休ませてもらいたい。そんなことを考えながら廊下に出て、1人で歩けないと言っていたくせにさっさと前を歩いていく佐倉の背中に声を掛ける。今日のパーカーは黒だ。

 「体調悪いの?大丈夫か?」
 「おー」

 おー、じゃねえよ。心配してやっているのに、元気そうな返事。寝不足なせいでいつもより苛々する。結局佐倉は1人で歩いて、俺はただ後ろを着いて行っただけで保健室に到着した。

 フラフラなんて少しもしていないし、何ならフラフラしているのは俺のほうだ。ガラガラと音を立ててドアを開けて中に入った佐倉が、部屋の中を見回して「先生いないのか」と呟く。

 「呼んでこようか、先生」
 「いや、いい」

 佐倉は首を振って、俺の肩をぐいと押す。よろけた俺は、そのまま空いているベッドに倒れ込み、驚いて佐倉を見上げた。

 「ちょうど先生もいないし、寝てろよ」
 「え……」
 「寝不足なんだろ」

 ベッドに倒れた俺を見下ろす佐倉の表情は、何だか泣きそうになるくらい優しかった。

 そうか、体調が悪いって、嘘だったのか。俺を保健室に連れてきてくれたのか。頭の中でそう思いながらも、横になれた心地よさに瞼が落ちていく。昨日はあんなにも眠れなかったのに、佐倉と2人きりの保健室は、どうしてこんなに落ち着くのだろう。

 心の奥でぐるぐると渦巻いていた黒い感情や不安な気持ちが和らいで、温かくて柔らかい雰囲気に包まれる。窓から差し込む日差しも柔らかく、保健室特有の硬いベッドも心地いい。

 親もクラスメイトも俺の体調不良に気付かなかったのに、どうして佐倉は気づいてくれたんだろうか。夢と現実の間で、そんなことを考えていた、ような気がする。