キリのいいところまで勉強を終えていつも通り家に帰ると、玄関に見慣れない革靴があった。リビングから聞こえる母の楽しそうな声に、ずぶりと心が沈む音がする。

 「……ただいま」

 リビングのドアを開けると、思った通り、東京で一人暮らしをしているはずの兄が帰ってきていた。父はまだ仕事から帰っていないようで、テーブルを囲んで上機嫌の母と兄が喋っているところだった。テーブルの上には、東京で買ったらしい上品な洋菓子が並んでいる。

 「久しぶりだね、悠月」

 綺麗な笑顔を浮かべる兄の沢城律は、ネイビーのポロシャツを着ている。黒い髪も短く切っていて、相変わらず母が気にいる爽やかな好青年の格好をしている。実際、好青年なのだろうけれど。

 兄は、俺とは違って名門私立の高校に合格して、東京の最難関の公立大学を卒業して、誰もが聞いたことのある企業で働いている。勉強もできて、中学でも高校でも生徒会長をしていて、真面目で優秀な兄は母の自慢だ。

 「律、会社の同期の中で1番に昇進したんですって。さすがよね」

 満足げな母に、俺の心はぎゅ、と雑巾が絞られたように締め付けられる。”それに比べてあなたは”という母の言葉が、聞こえる。母の顔にそう書いてある。

 母にとって俺は、失敗作だ。出来のいい兄に追いつけない、出来損ない。兄にできることが俺にはできない。中学までは、成績はトップだったし、兄に倣って生徒会長にもなった。兄と同じ名門私立の高校を受験するはずだったし、受験直前の模試でも合格判定が出ていた。


 けれど第1志望の私立高校の受験の日、俺は試験会場に行かなかった。

 最後の確認にと電車の中で参考書を開いていた俺の目の前で、自分より少し年下に見える、学ランを着た男の子が、苦しそうにしゃがみ込んだ。朝の通勤ラッシュと重なっていて周りの大人たちは見て見ぬふりで、彼は苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。

 俺は咄嗟に参考書を閉じて鞄に入れ、彼の手を引いて次の停車駅で降りた。駅員を呼んで、彼に付き添っているうちに受験の開始時間には間に合わなくなった。

 事情が事情なのだから、ちゃんと話せば遅刻も認められたかもしれない。それでもそうしなかったのは、自分がどうしてもその高校に行きたいわけではなかったからだ。

 兄の進んだ道を辿ることに、疑問を持たずに生きてきた。母が望むことを、それが正解に違いないと思ってやってきた。そういうものだと教えられていたからだ。

 兄の進む道が正解で、それ以外は不正解。だから他の高校に行くことなんて考えてもいなかったけれど、彼を医務室に送り届け、慌てて電車に乗ろうとした時に、ふと我に返った。

 このまま電車に乗らなければ、受験会場に行かなければ、俺は兄の敷いたレールを外れることになる。母に決められたことに従い、兄の真似をするばかりの人生から、逃れることができるのではないかと、そう思った瞬間、目の前で電車のドアが閉まり、電車は駅のホームに俺を置いたまま出発した。

 体調不良になっていた彼が、結局どうなったのかも分からない。彼が誰だったのかも知らないままだ。


 名門私立に入学できなかった俺に、母は激怒した。どうしてそんな見ず知らずの他人のために人生を棒に振ったのか。お前は失敗作だ。これ以上私を失望させるな。あの日の母の言葉は、今でも一言一句思い出せるほど心臓に深く刺さったままだ。

 受験会場に行かなかったことは怒られるだろうが、目の前にいる人を助けたのだから、許してもらえるのではないか。思いやりのある行動を褒めてもらえるのではないか。そんな淡い期待は、母の剣幕に砕け散った。そうか、この選択は間違っていたのか。

 目の前で苦しむ年下の学生を、周りの大人と同じように見て見ぬ振りして放っておけばよかったのか。本当に、そうなのだろうか。あの頃の俺は、人を助けたのだから間違ってなんかいないと思っていた、けれど。

 その話を聞いた当時大学生だった兄は、呆れたように眉を下げて笑った。


 「馬鹿だな、お前。容量悪いと人生損するよ」

 俺にとって、この世界で1番の権力を持っているのは母だった。そして、この世界で唯一正解を持っているのは兄だった。そうか、俺の選択は間違っていたんだ。自分の中で正解が出て、母はずっと俺のことを出来の悪い次男だと思っていて、兄の眼中に俺はいない。父は仕事ばかりで教育には関与しない無関心だ。

 せめて、せめてあの時の少年が今、健康に幸せに暮らしていたらいい。俺にはそう願うことしかできない。