その日から佐倉は、やたらと俺に絡んでくるようになった。俺が放課後の図書室で明日の授業の予習をしているときも、佐倉はいつも通り着崩した制服で、鞄の持ち手を片方だけ肩にかけて、図書室のドアから入ってきた。
図書室の雰囲気からあまりにも浮いている彼は、俺のことを見つけて、近づいてきたと思ったら前の席にどかっと座った。
「なあ、沢城。ここ教えてよ」
困惑している俺に構もせず、当然のように話しかけてくる佐倉。彼がそう言って鞄の中から取り出したのは、数学の問題集だった。図書室、数学の問題集、金髪にピアスの問題児。あまりにも不自然な状況に、言葉を失う。
「宿題になってただろ、ここ。答え見ても、何でこの答えになるのか意味わかんねえんだよな」
確かにこの問題集は答えがついているけれど、途中式がなく回答だけが羅列されているもので、答え合わせはできるけれど、答えを見て解き方を理解するのは難しいだろう。いや、そんなことよりも、佐倉が真面目に数学の宿題をやっていることの方が衝撃だ。
「……そこは、ここの公式を使って、xを先に求めるんだよ」
けれど、人を見た目で判断してはいけないか、と思い直し、佐倉が見せてきた問題集に目を写す。校則違反に遅刻魔な問題児が、勉強をしようとしている事実はいいことだ。佐倉が開いたノートに自分が持っていたシャーペンで式を書き込むと、佐倉は真剣な表情でノートを覗き込んでいる。
「なるほど、それでyがこの数字になるのか!」
「そう、正解」
閃いたように続きの式を書き込む佐倉は、何だか子供みたいで眩しかった。ヒントを教えただけで自分で解いてしまうということは、よく赤点で追試になっているところを見るけれど、佐倉は頭がいいのかもしれない、なんて考える。
その問題が終わったら帰るのかと思っていたら、佐倉はそのまま俺の前の席に座って宿題の続きを始めた。
集中しているようで静かにペンを走らせているので、俺も解いていた問題集の続きを始める。
今はテスト期間でもないから放課後にまで図書室に来ている人は少なくて、図書委員と思われる1年生の生徒がカウンターで本を読んでいるだけだ。カウンターも少し遠い場所にあるから、この広い図書室でまるで佐倉と2人きりのような感覚になる。
カチ、カチ、と刻まれる秒針の音が静かな部屋に響いて、あまりにも静かだから自分の呼吸や脈拍まで聞こえてしまうんじゃないかと錯覚する。
ふとノートから顔を上げて目の前の佐倉を見ると、彼の金色の髪が窓から差し込む西陽に当たって、きらきらと輝いていた。伏せた目を長いまつ毛が縁取っていて、頬に小さく影を作っている。
……綺麗な顔。
ごく自然と頭に浮かんだ言葉に、慌てて首を振る。俺は男相手に、しかもこんな不良相手に何を?勉強に集中しろ、と自分に言い聞かせて、問題集の続きに戻った。
「……なあ」
佐倉が、ノートに文字を書きながら話しかけてくる。俺も、問題集から目を話さずに聞く。
「何だ」
「沢城って、勉強楽しい?」
その言葉に、思わず手を止める。勉強が、楽しい?少し考えてから、口を開く。
「……考えたこともなかったな」
「まじ?楽しくないのに放課後も勉強してんの?」
その言葉に、軽い衝撃を受ける。
「楽しいとか、楽しくないとかじゃないだろ」
楽しいから勉強するとか、楽しくないからしないとか、そんなのじゃなくて。勉強はしなきゃならないからしてるだけであって。だって学生の本分は勉強で、俺は絶対にこの学校で1番勉強ができないといけなくて。
……楽しくて勉強しているわけじゃないって、そんなの誰だってそうじゃないのか。頭の中でそんなことをぐるぐる考えていると、佐倉が続ける。
「俺は結構楽しいけど、今」
「え……」
意外な言葉に顔を上げると、佐倉も顔を上げて、子供みたいに、確かに楽しそうに笑っている。ちらりと犬歯がのぞいて、飼い主に甘える大型犬みたいだと思った。
「だ、だったら、真面目に学校に来ればいいだろ」
「はは、確かに」
……確かに、今は結構楽しい、かもしれない。何だかよくわからないけれど、この時間は嫌いじゃない。意外と波長が合うのかもしれない、なんて思ったことは、こいつには言わないけれど。
「やべ、そろそろバイトの時間だ」
しばらく静かに勉強していたかと思うと、佐倉は時計を見てハッとして立ち上がる。それからバタバタと問題集やノートを鞄に詰め込んで、慌てたせいでスマホを床に落としたりしている。騒がしい。
「じゃ。ありがとうな、沢城」
「……ああ、また明日」
ナイロンのスクールバッグをリュックみたいに背負って、小走りで図書室を出ていく佐倉の背中を見送る。昨日もバイトしていたのに、今日もバイトに行くのか。そんなに働いて、何か欲しいものでもあるんだろうか。
今度聞いてみてもいいか。というか、生徒会長の俺に堂々とバイトに行くと宣言して帰るなんて、バイトが校則違反だって忘れたのか。なんて考えながら、少し頬を緩めて、俺はまた問題集に視線を落とした。

