教室に戻ると、既に前の席には佐倉が座っている。同じクラスで席が前後の佐倉凪はいわゆる不良というやつで、彼は時間通りに登校して来る日よりも、学校に遅刻してくることの方が多い。

 遅刻だけでなく、午前中は学校にいたのに午後はサボって帰ってしまうこともあり、教師たちが手を焼いているのを知っている。

 朝から佐倉が教室にいるのは珍しいのだが、もしかして俺が朝イチに呼び出したから律儀に時間通りに登校してきたのだろうか。
 ……いや、こいつに限ってそんなことはないか。
 

 佐倉の金色の髪が、窓から吹き込む風に揺れる。黄色よりは白に近い色素の薄い髪は、太陽の光を浴びてきらきらと光る。
 その様子を何となく眺めていると、突然その背中が後ろを振り返った。驚いて目を見張る。なかなか席替えをしない担任のせいで佐倉の後ろの席になって数ヶ月経つが、ほとんど言葉を交わしたことがなかったからだ。

 「なあ、いつも思ってたんだけど、お前顔色悪くね?」

 ほぼ初めての会話で、突然振り返って言う言葉がそれなのか。失礼だな、と眉を顰める。

 「何だよ、急に」
 「クマできてる」

 そう言うと、佐倉のごつごつした手が、ゆっくりこちらに伸びてきて、そっと、ひどく優しく、俺の目の下に触れた。俺の頬より佐倉の手の方が温度が低かったようで、少しひんやりする。驚いて目を見張ると、佐倉は何事もなかったように手を引っ込めて。

 「よく分かんねーけど、無理すんなよ」

 そう言った佐倉の声がやさしいから、重すぎず軽すぎず、ちょうどいい温度だったから。こんな風に心配されたのがはじめてだったから。理由がどれだかは分からないけれど、気付いたら、頬を人肌のぬるい雫が伝っていた。それが涙だと分かったのは、目の前の佐倉がぎょっとした顔をしていたからだ。

 「っ、え、大丈夫か?」
 「うわ、何だこれ、何でもない、ごめん」

 何で、泣いてんだ。

 焦ってその雫を拭って、目を逸らす。何してるんだ、こんな問題児の前で泣くなんて、それもこんな教室の真ん中で。意味がわからない。誰にも弱みなんて見せないようにしてきたのに、俺が泣いたらおかしいだろう。
 自分でも予想外の出来事に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 「え、沢城くん泣いてる?どうしたの?」

 と、佐倉の隣に座っていた戸波さんがポニーテールを揺らして振り返り、涙を拭った俺の姿を見て目を見張る。

 「あ、いや、」

 慌てて目を逸らすと、佐倉が「コンタクトずれたらしい。治ったかー?」と俺の顔を覗き込む。俺がもう泣いていないのを確認すると、戸波さんに「大丈夫だってさ」と笑った。
 戸波さんはほっとしたように頬を緩めて、ああ、と納得した顔をした。

 「なんだ、そういうことか。佐倉くんが泣かせたのかと思って焦ったよ〜」
 「そんなことしねえって」

 2人は笑いながら、前に向き直る。助かった、とほっと息を吐く。佐倉が振り返って、小さな声で「気を付けろよ、コンタクト」と囁いた。小さく頷くと、佐倉はまた前に向き直る。

 「気をつけろよ、コンタクト」は、無理するなよ、に聞こえた。俺のことを、心配してくれたクラスメイト。そして泣いてしまった俺のことを、助けてくれた問題児。俺の中で佐倉の印象が、少しだけ変わった1日だった。