それから俺たちは、俺の塾と佐倉のバイトの合う日は決まって公園で喋って帰るようになった。最初は新商品のお菓子を食べるために公園に誘ってきた佐倉だったけれど、2回目以降は特にそんな理由もなく、ただベンチに座って喋っているだけだった。その時間がひどく心地よくて、週に3回ある塾がいつしか楽しみになっていた。

 「さっき来た高校生がうちの学校の制服に似てて、バイトしてるのバレたかと思って焦ったわ。せっかく学校から遠いコンビニ選んでるのに。結局違う高校の制服だったけど」

 佐倉も俺も、その日あった他愛のない話をするようになった。

 「まあ、俺にはバレてるけどな」
 「まさか生徒会長にバレるとは思わなくて焦ったよ、あの時は」

 今日も、ベンチに座って一緒に喋る。佐倉は俺がバイト先のコンビニに現れた日のことを思い出して、苦笑いしている。

 「それにしては動じてないように見えたけど」
 「いや、焦ってた。だから次の日もちゃんと早起きして生徒会室に行ったし。いつもバイトの次の日はなかなか起きれなくて遅刻してたんだけどな」

 なるほど、佐倉の遅刻にはそういう規則性があったのか、と納得する。確かに、遅刻がかなり多かったけれど、ちゃんと間に合っている日も週に2回くらいはあったはずだ。

 「でも、最近遅刻しなくなったな。毎日間に合ってるだろ。サボらなくもなったし」
 「ああ、まあ、それはお前のせいだけどね」
 「え?」

 佐倉は、少し照れくさそうに、ちらりと俺の方を見る。

 「生徒会長に怒られたくないし、それに──」

 一呼吸置いてから、佐倉は俺の目を見て笑った。

 「友達ができてから学校行くの楽しいし」

 話の流れからして、友達というのは俺のことで合っているだろうか。“友達“という言葉が、少しだけ胸に引っ掛かる。いや、紛れもなく俺たちは友達なんだけれど。

 そう思う一方で、自分の中の佐倉への気持ちに、友達以外の感情が生まれているのも確かだった。ずっと見て見ぬふりをしてきたけれど、心の奥で少しずつ大きく成長したこの感情は、流石にそろそろ無視できないくらいの大きさになってしまっている。そんなこと、目の前のこいつは少しも知らないのだろうと思うと、なんだか少しだけ悔しかった。

 「──なあ、佐倉」

 俺が隣に座っている彼の名前を呼んだのと、

 「悠月、何してるの」

 鋭い声が背後から聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。驚いて振り返ると、公園の切れかけた街灯に照らされた、母親の姿があった。

 「母さん……?」

 母の表情を見るだけで、母がどれだけ怒っているのかは痛いほど伝わった。隣で佐倉が驚いた顔をしているのだろうけれど、それに気付く余裕もなかった。

 「最近帰りが遅いと思ったら、こんなところで遊んでたわけ!?」

 ヒステリックな彼女の高くて大きな声に、ドクンと心臓が脈打つ。さあっと血の気が引いて、頭が真っ白になる。隣には佐倉がいるのに、ひとりぼっちの暗い闇の中に一気に引き戻されたような感覚になって、眩暈がした。

 「なんのために高いお金払って塾に行かせてるかわかってるの?こんな夜の公園で遊ばせるためじゃないわよ」
 「……はい」

 震える声で、返事をすることしかできない。

 「しかもこんな柄の悪い子となんて……信じられない。こんな子と遊んでたら成績も下がるし悪影響だし、ロクなことないわよ。ほら、早く立ちなさい。帰るわよ」

 母に急かされるけれど、足に力が入らない。ドクン、ドクン、と脈打つ心臓。じわりと背中に浮かぶ汗。

 「ほら、早く!もう2度とこんなところで油売るんじゃないわよ。ただでさえ失敗してるんだから、死ぬ気で勉強しなさい」

 母に腕を引かれて、公園を出る。最後まで、佐倉の方を振り返ることはできなかった。あまりにも情けなくて、佐倉の顔を見れなかった。

 母親にこんなことを言われているのも、それに言い返すことができないのも。だって佐倉は俺とは違って、家族のために働いていて、母親と弟の力になりたいと思っていて。俺たちはあまりにも違いすぎる。俺にとって佐倉は眩しすぎて、直視できない。

 家に帰ってからの母は、俺が高校受験をしなかったあの日の次に機嫌が悪かった。喋らなくても、ドアを閉める音の大きさや、物を置くときの乱暴さで怒りを伝えてくる。俺は自分の部屋に篭って、机に向かっていた。集中なんてできるはずがなくて、視線は問題集の文章を上滑りしている。

 佐倉はあの後、どうしただろうか。きっと俺にドン引きしただろう。もう明日からは、笑いかけてくれないかもしれない。情けないやつだって、見放されたかもしれない。それよりも、何も言わずに帰ったことを怒っているかもしれない。母が佐倉に失礼なことを言っていたもの申し訳ない。色々なことをぐるぐると考えて、頭が痛くなってくる。

 もうしばらく、塾の後の公園には行けないだろう。唯一の楽しみだったのに。もう、佐倉と放課後に会えなくなってしまうのだろうか。今まで通り、たまに言葉を交わすだけのクラスメイトに戻るのだろうか。そんなの……。

 「はぁ……」

 全く眠れなくて、頭がぼーっとしている状態で家を出た。今朝も母の機嫌は直っていなくて、「次のテストで成績落としたら、あの柄の悪い男のせいね」と言われた。
 「それは違う」と言ったけれど、母には聞いてもらえなかった。

 まず教室に着いたら、佐倉に謝ろう。昨日は不快な気持ちにさせてしまった。それから、しばらく公園には行けないと言わなければ。

 そう思うとひどく憂鬱で、寝不足による頭痛が増してくる。教室のドアを開けると、いつも通りの光景が広がっている。1番窓際の、真ん中のあたりの席に目を向けると、自分の席に座ってスマホを見ている佐倉がいた。その横顔に、胸が苦しくなる。佐倉の後ろの自分の席に荷物を置くと、佐倉がスマホから顔を上げて振り返る。

 「佐倉、昨日は──」

 ごめん。そう言おうとした俺の声を、佐倉が遮る。

 「昨日はごめん!ていうか、ずっとごめん。俺たちやっぱ、住む世界違うよな!」

 そう言ってへらりと笑う佐倉に、全身がすっと冷えていく。

 「え……」
 「一緒にいるの楽しかったから、なかなか気づけなくてごめんな。俺みたいに先生にも目つけられてる問題児と一緒にいたら、沢城の株も下がるとか、よく考えたら分かるはずなのに」
 「いや、それは違……」

 佐倉は、笑っている。とりつく島もないくらい笑顔を作っているから、口を挟むことができない。

 「もう、公園で会うのやめようぜ。あんまり話しかけないようにもするし。短い間だけど楽しかった。ありがとうな」
 「佐倉、待って」
 「……頑張れよ、これからも。勉強とか、色々」

 それだけ言って、佐倉は前を向き、俺に背を向けた。再びスマホの画面を操作している佐倉に、こんな教室の中で、声をかけることができなかった。

 怒ってくれた方が、よかった。お前の親失礼だなって、不機嫌になってくれた方がまだよかった。こんなに笑顔で、俺のためにと離れられたら、どうしていいかわからない。俺は謝る機会すら封じられて、授業中、眠そうな佐倉の背中を呆然と見つめていた。