文化祭が終わり、いつも通りの日常が戻ってきた。数学の授業を聞きながら、目の前の席に座っている佐倉の背中を眺める。襟足が少し長くて、可愛いなと思う。
学ランは着ないで、ワイシャツの上に黒いパーカーを着ている。先生の話を聞きながら少しノートをとったり、退屈そうにシャーペンをくるくる回したりしている。そんな背中を眺めていると、先生が「あ、プリント忘れた。取ってくるから少し待っててくれ」と教室を出て行った。瞬間、その背中がくるりと振り返る。
「なあ、今日も塾?」
そう聞かれて、頷く。今日は塾の授業がある日だ。
「俺もバイトだから、終わったら公園で会わねえ?新商品のお菓子が美味しいから持っていってやるよ」
「いいね」
それだけで憂鬱だった放課後が少し楽しみになるから不思議だ。
塾が終わって外に出る。佐倉がバイトしているコンビニに向かうと、コンビニの前で佐倉が待っていた。
「お疲れ!」
楽しそうなその顔に、つられて笑ってしまう。佐倉の手にはコンビニのレジ袋が下がっていて、中にはお菓子の箱や袋がいくつか入っているのが見えた。前も2人で行った近くの小さな公園に入って、ベンチに座る。弱い光の街灯と月明かりが、佐倉の横顔を照らしている。
「これこれ。このチョコすげえ美味くてさ。あとこのスナックも美味しいからついでに買ってきた」
佐倉が次々と袋の中からカラフルなパッケージのお菓子を出していく。佐倉が袋を開けると、甘いチョコの香りが広がった。佐倉が紹介したかったという新商品のお菓子は、ミルクチョコの中にホイップクリームが入った小分けのお菓子だった。
俺も1袋もらって口に入れると、甘いチョコが溶けて、中から柔らかいクリームが出てくる。塾で疲れた脳は甘いものを欲していたようで、とても美味しい。それからサワークリームオニオンのポテトチップスを食べると、甘いのとしょっぱいのとが交互になって手が止まらなくなる。
「これは最高に美味しい」
「だよな!これ絶対食べさせたかったんだよな〜」
その言葉に深い意味なんてないのだろうけれど、佐倉はこのチョコを食べた時に俺のことを思い出したのか、と思うと少し嬉しかった。
「そういえば、田中先生って今日すごい寝癖ついてなかった?」
「確かに、ちょっと思った」
「だよなぁ!あと、昼休みに佐藤が騒いでたんだけど……」
いつもよりテンション高く、矢継ぎ早に話す佐倉を見て違和感を感じる。いつも以上に楽しそうに笑っているけれど、どこか無理している気がする。
「なあ、聞いてる!?」
俺の顔を覗き込む佐倉の頬を掴んで、顔を俺の方に向ける。佐倉は驚いて目を丸くしている。
「どうした?」
「え、何が?」
「なんか、空元気に見える。何かあった?」
そう聞けば、佐倉の作り笑いみたいな表情が崩れて、元の佐倉に戻る。それから眉を下げて、困ったように笑った。
「なんで分かるんだよ」
「分かるだろ」
スナック菓子を食べて、それからチョコを食べて、佐倉が話し始めるのを待つ。佐倉もチョコを口に入れて少し考えてから、ぽつりと口を開いた。
「……雪が、入院することになったんだ」
「雪くんが……」
文化祭に来ていた彼の姿を思い出す。儚げで佐倉より真面目そうな見た目だったけれど、笑った顔は佐倉とそっくりだった。
「まあ、昔から定期的に入院してはいて、危険な状態とかそういうのじゃないんだけど。今日も普通に学校行ってたし。入院なんて慣れてるはずなんだけど、やっぱり毎回慣れないっていうか……」
「慣れるとか慣れないとか、そういう問題じゃないだろ」
「最近元気そうだったから、ちょっとショックだったのかも。雪、俺がバイトしてるのも自分の病院にお金がかかるせいだと思ってるみたいで、すげえ気にしてるんだよな。そんなこと思ってほしくて頑張ってるわけじゃねえのになーとか思って」
「ああ……」
「でも俺が不安そうな顔してたら雪も不安になるだろうから、家ではできるだけ見せないように気を張ってたんだけど……。よく気づいたね」
へらりと笑うのは、佐倉の強がりなのだろう。佐倉の気持ちを想像することはできるけれど、境遇の違う自分にはきっと本当に理解することはできないのだろうと思うともどかしい。
「母親も、弟も、誰も悪くないのになんで苦しい気持ちにならないといけないんだろうって、悔しくなる。俺の力じゃ家族のこと守れないし、救えない」
悔しそうに表情を歪める佐倉。その頭をわしゃわしゃと撫でる。いつか、佐倉が俺にしてくれたように。
「お前はすげー頑張ってるし、めちゃくちゃ家族の力になってるよ。俺が保証する」
「……はは、本当に?」
「当たり前だろ。お前に雪くんだってお前に感謝してたし、お前のこと大好きなのが伝わって来た。それはお前が頑張ってて、家族を守ってるからだろ」
「……そう、かな。力に、なれてるかな」
佐倉は俯いていた顔を上げて、俺を見て、小さく笑った。
「むしろ頑張りすぎだから、少しは休めよ」
「じゃあ、これからもたまに息抜きに、こうやって遊んでよ」
佐倉が、悪戯っぽく笑う。その表情に、ドクンと心臓が鳴った。頬が熱くて、思わず視線を逸らす。
「そ、そんなことでいいのかよ」
「だって楽しいし。沢城といるの」
「あ、そ……」
なんだか照れくさくて、ベンチの上の、俺と佐倉の真ん中に広がっているお菓子を食べる。佐倉もつられたようにスナック菓子を食べる。少し遠くから、塾終わりの生徒たちの声が聞こえてくるけれど姿は見えなくて、佐倉と2人、切り離された世界にいるみたいだ。
「お、ボールが落ちてる」
お菓子を食べていた佐倉が何かに気付いたように立ち上がり、公園の地面に転がっていたオレンジ色のバスケットボールを手に取った。暗いから気づかなかったけれど、この公園にはバスケゴールがあるらしい。佐倉はバスケットボールをドリブルしながら歩く。ドン、ドン、とボールと地面がぶつかる音が、夜の空に響く。
「バスケやってたの?」
そう聞けば、佐倉は頷く。
「中学生の時バスケ部だった」
何回かドリブルをしたあと、シュッと音を立てて佐倉の手から離れたボールは宙を舞って、ゴールの四角い枠に一度ぶつかってから、ゴールネットを揺らした。バスケ部だったという中学生の佐倉を想像して、目の前の彼と重ねる。
中学生の時も、髪は染めていたんだろうか。それとも黒髪だったんだろうか。背はどのくらいだったんだろう。中学は学ランとブレザーのどっちだったんだろう。バスケ部ではどのポジションで、どんな存在だったんだろう。そう思うと俺は佐倉のことを何も知らなくて、数年前の佐倉がどんな風だったのか、見てみたかったなと思った。
中学生の時に佐倉に出会っていたら、どうなっていたんだろうか。もっと早く、心が救われていただろうか。
……いや、きっと、今の俺たちが出会えたからこそ、救われたんだろう。あの頃の俺たちが出会っていても、仲良くなっていたかもわからない。お互いに色々なことを抱えた今だからこそ、分かり合えることがあったのだろう。
「なあ、1on1しようぜ」
佐倉がそう言って、ボールをこちらに投げる。向かってきたボールを取るために慌てて立ち上がり、見た目よりも重いオレンジのボールを受け取る。
「元バスケ部なのはずるいだろ。俺は体育でしかやったことない」
「まあまあ、いいじゃん」
仕方なくドリブルを始めると、佐倉がカットしにくる。それを避けてゴールに進み、ゴールの目安らしき四角い黒枠に向かってボールを投げてみたけれど、枠から少しズレたボールはゴールには入らずに、跳ね返って地面に落ちた。それを拾ってボールを奪った佐倉が、ボールをゴールに綺麗に投げ込んだ。月明かりに照らされたオレンジが、ゴールネットを揺らして、地面に落ちる。
「さすが」
「沢城も意外と上手くてびっくりした。スポーツしてるイメージなかったけど、ちゃんと動けるんだな」
「馬鹿にするな」
ムッとして佐倉を睨むと、はは、と楽しそうに笑う。これはさっきまでの作り笑顔じゃなくて、本当に笑っているようで安心した。
「投げる時は、膝を使うといいんだよ」
佐倉はそう言って、俺にボールを渡す。俺の背中から手を回して、こう、と腕を掴んでボールを投げる。ドクン、とまた心臓が跳ねる。それと同時に宙に浮いたボールは、綺麗な弧を描いてゴールネットに吸い込まれていった。
「ほら、入った」
得意げな顔をする佐倉。ドクン、ドクン、と脈打つ心臓がうるさくて、目を逸らす。地面に落ちたボールは、何度か弾んだあと、静かに止まった。
「……沢城って、好きなやつとかいんの?」
「え……。いや、いない、けど」
「ふーん、そっか」
「なんで」
「いや、そういうの興味あるのかなって思っただけ」
クラスメイトの男子同士で、クラスの誰が好きとか、誰が可愛いとか、話すのは普通のことだ。それなのに、こんなに頭の奥が熱くなるのはどうしてだろう。
「佐倉は、どうなんだよ」
「うーん、よくわかんねえ」
「なんだそれ」
佐倉は眉を下げて、へらりと笑う。俺だってよくわからない。佐倉に抱くこの感情が、一体何なのか。今はまだ、分かりたくなかった。
「次はいつ塾ある?」
「塾は毎週月水金」
「ふーん、じゃあ俺もバイトのシフト合わせよっかな」
「お前がバイトの日に俺が自習に来ればいいんじゃない」
「それもありだな」
秋の風に、佐倉の金色の髪が揺れる。月明かりに照らされて、きらきら光る。男同士なのに、目の前の彼のことをこんなに綺麗だと思うのは可笑しいだろうか。俺がこんなふうに思ってるって知ったら、気持ち悪いだろうか。それとも、佐倉も──。
「何?どうかした?」
「……いや、なんでもない」
とりあえずはこのまま、放課後を共有できたらそれでいいか。

