「なんとか無事当日を迎えられましたね……」

 文化祭当日。入り口で来場者にパンフレットを配りながら、高坂が安堵の表情を浮かべている。俺もパンフレットを配りながら、そうだな、と頷いた。忙しかった準備期間が終わり、やっと当日を迎えたと思ったら、文化祭はたった2日で終わってしまうのだ。

 昨日の土曜日は学生のみの参加日で、今日は一般参加がある。他校の生徒や家族なんかも来るから、今日の方が盛り上がるし、実質今日が本番みたいなものだ。佐倉の弟も遊びに来る予定だと、佐倉が楽しみにしていたのお思い出す。どんな弟なのか少し気になるから、時間が合えば会ってみたいな、なんて考えていた。

 「あれ、お兄さん……!」

 と、新たに校内に入ってきた一般参加者にパンフレットを渡していると、そのうちの1人が驚いた声をあげたので、反射的に顔を上げる。

 知り合いかと思ってその顔を見つめたけれどどうしても思い出せなくて困っていると、彼が深く頭を下げた。

 「2年前、電車で具合が悪くなった僕のことをお兄さんが助けてくれたんです!名前も分からなくてあの時お礼が言えなくてずっと後悔していて……まさかここの高校の方だったんですね」

 その言葉に1つだけ思い当たる節があって、目を丸くする。もしかして彼は、あの高校受験の日に電車で倒れた中学生の──。彼は確かに、あの日と同じ学ランを着ていた。当たり前だけれどあの日より元気そうだし、背も高くなっているのですぐに分からなかったのだ。

 「ああ、あの……。元気そうでよかった」

 「あの時は本当にありがとうございました!同じ中学生なのにこんなに優しい人がいるんだって、僕、お兄さんみたいになりたくて──。あ、すみません、名乗りもせず。僕、佐倉雪(さくらゆき)といいます。南中学の3年生で、ここの高校を受験しようと思っていて……」

 佐倉……?聞いたことのある名前に、思考を巡らせていると。

 「あ、いた、雪!迷子にならずに来れたか?」

 俺の目の前の彼の姿を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってくる佐倉の姿が見えた。佐倉雪と名乗った彼は、佐倉の姿を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。

 「兄さん!ねえ、この人、2年前に僕を電車で助けてくれた人なんだ。ずっとお礼が言いたくて探してたんだけど見つからなくて、今偶然──」

 雪と名乗る彼が俺を指して、佐倉の視線がそれを追うように俺に向く。

 「沢城……?」

 佐倉が俺を見て、目を見張る。
 それから目の前の彼に視線を移して、もう一度俺の顔に視線を戻した。

 「じゃあ、沢城が受験の日に助けた人、って」
 「……ああ、お前の弟だったらしい」

 こんな偶然があるのだろうか。佐倉の弟は佐倉とは似ても似つかない儚げな雰囲気で、それでも顔はどこか佐倉に似ていた。

 「……そっか、そうだったのか」

 佐倉は少し考え込んでいたけれど、雪くんに「どこか見たいところあるか?」と声をかける。雪くんは俺を見て、「お兄さんも一緒にどうですか?」と言った。

 「え……」
 「いや、沢城は生徒会長で忙しいんだよ」

 佐倉が止めようとするけれど、俺の隣で一緒にパンフレットを配っていた高坂が、気を使って俺の持っていたパンフレットを引き取る。

 「今少し入場者も落ち着いてきたので、行ってきてください。会長、全然休んでないので遊んできたほうがいいと思います」

 高坂にも背中を押され、俺は佐倉と、その弟の雪くんと、3人で文化祭を回ることにした。いつもの学校に佐倉の家族がいて、並んで歩いていると思うと、なんだか不思議な気持ちになった。

 「沢城さんは生徒会長なんですね」
 「ああ、うん」

 雪くんは人懐っこくて、ますます不良の佐倉とは印象が違う。

 「お兄ちゃん、バイトで疲れて寝坊しちゃったりとかすると思うんですけど、あまり怒らないであげてむください」
 「はは、わかってるよ」

 やっぱり、佐倉の遅刻はバイトの疲れのせいなのか。
 そんなことを雪くんと話していると、佐倉がむっとした表情になる。

 「最近は遅刻しないように気をつけてる」

 確かに、言われてみれば最近の佐倉は遅刻もしないしサボりもしない。授業中に眠そうにしていることはあるけれど、今までとは全然違う佐倉の態度に、先生たちの間でも話題になっていたくらいだ。先生たちは佐倉が改心した理由は何なのかと不思議がっていたけれど、確かにどうしてなんだろうか。

 それから3人で屋台を見たり、体育館のステージ発表を見たりした。去年も文化祭はあったけれど、生徒会で忙しかったのと、あまり興味もなかったのとで、屋台もステージも何も見ていなかったことに気づく。

 今年は初めてお客さんの視点で文化祭を見たけれど、思いの外楽しかった。屋台のまぜそばが意外と美味しいことも、体育館で見たバンドの演奏が本格的なことも、佐倉に出会わなかったら知らないままだったのかもしれない。実際今日だって、雪くんに誘われなければ文化祭を回ってみたりはしなかっただろう。

 「あ、俺、クラスのシフトの時間だ。雪もそろそろ帰るだろ?」

 一通り学内を見て回ったあと、佐倉がスマホで時間を確認して、そう言った。俺たちのクラスはシフト制でクラスの店の手伝いをすることになっている。俺は一般参加日である今日は生徒会の仕事で忙しいからと、昨日にシフトをまとめてもらっていた。

 「うん、そろそろ帰る。今日はありがとう」

 雪くんも時計を見て、帰り支度を始める。

 「気をつけて帰れよ。沢城も付き合わせてごめんな、ありがとう」
 「いや、楽しかったよ。クラスの手伝い頑張って。校門までだけど、雪くん送っていくよ」

 佐倉がバタバタと屋台に向かうのを見送って、雪くんを校門まで送るために歩き出す。

 「沢城さん、今日はありがとうございました。それから、あの時も、助けてくれて本当にありがとうございます」
 「いや、全然」
 「……あと、お兄ちゃんのことも」
 「え?」

 雪くんが改まったように立ち止まり、つられて自分も足を止める。

 「お兄ちゃん、最近学校が楽しいらしくて、勉強とかも頑張りたいんだって、明るくなったんです。どうしたのって聞いたら、クラスで仲良くなった人がいて、毎日楽しいんだって言ってて。それってきっと沢城さんのことですよね。遅刻しなくなったのも、そのおかげだと思います」

 「え……」

 「だから、ありがとうございます。お兄ちゃんのことこれからもよろしくお願いします。いつも僕のこと心配してくれて、家族のために頑張ってバイトしてくれて、本当に優しいお兄ちゃんなんです」

 雪くんの表情が優しくて、温かくて、思わず頬が緩む。

 「こちらこそ、いつも助けてもらって感謝してるよ」

 そう伝えれば、雪くんはぱあっと明るい表情になる。

 「お兄ちゃん、あんな感じだから誤解されやすくて……。そう思ってくれるお友達がいるなら安心しました。よかったです」
 「……いいね、兄弟って」

 思わず口からこぼれた言葉。素直に、2人のことが羨ましかった。雪くんは嬉しそうに笑って、それから家に帰って行った。その背中を見ていると、確かにあの時、電車で苦しんでいた男の子の背中と重なる。

 そうか、あれは佐倉の弟だったのか。だとしたら、彼を見捨てたりしなくて本当に良かった。絶対に助けないといけなかった。あの日の自分の行動は間違いじゃなかった。思いがけない繋がりだったな、と思いながら校舎の方に戻る。