パンフレットの製本は、クラスメイト総出で手伝ってくれたおかげで、昼休みのうちに全て完成した。とは言っても、終わっていない仕事は山ほどある。放課後も資料作りをしないとならなくて、生徒会室に残って作業を進めていた。

 部活の掛け声やクラスの文化祭の準備なんかで賑やかだった外からも、だんだんと音がしなくなっていく。
 時計を見るともう21時近くになっていて、キリのいいところまで終わらせたら帰ろう、なんて思いながらもう一度パソコンに向き合った。

 その時、突然ガチャ、と音がしてドアが開く。
 驚いて顔を上げて、そこにいた男を見て目を丸くする。

 「佐倉……」

 佐倉の後ろに見える窓の外は真っ暗で、つい1時間前までは賑やかだった廊下も静まり返っている。疲れているからか、わらった佐倉の犬歯を見ただけで、なんだか泣きそうになった。

 「何してるんだよ、こんな時間に」

 佐倉は部活に入っていないはずだから、こんな遅い時間まで学校にいるのは珍しい。普段もバイトがあるからだろうけれど、授業が終わったらすぐに帰っていくのに。

 「数学の課題忘れて居残りさせられてた。沢城はまだ働いてんの?」
 「こんな時間まで居残りか」
 「そー。先生鬼だよな」

 課題全然わからなくて、こんな時間になっちゃった、と笑う佐倉。佐倉はそんな話をしながら、当たり前のように俺の隣の席に座る。ドサ、とスクールバッグを床に置いた音が近くて、すこし驚いた。

 もしかして、俺の作業が終わるのを待っているつもりなのか、と思いつつも何も聞かずに、キリのいいところまで作業を進めていく。隣に座っている佐倉がじっとこちらを見ているから、集中力が削がれる。視線が注がれる指先に、意味もなく力が入る。ああもう、やりづらい。

 「はぁ、終わった……」
 「ん、お疲れ〜」

 パソコンを閉じて、伸びをする。目が疲れた。けれどなんだか心だけはふわふわしているのは、どうしてだろうか。

 「……」

 ふと、佐倉がじっと俺の顔を見ているのに気づいて、眉を顰める。

 「何だよ」
 「んー、」

 佐倉は曖昧な返事をしながら手を伸ばして、佐倉の手が俺の顔に近付いてくる。驚いて思わず目を閉じると、耳の辺りに触れた冷たい手が、俺がかけていた眼鏡をそっと取った。

 「え……」

 目の前のレンズがなくなって、突然ぐにゃりとぼやける視界。あったはずのものがない、耳の辺りの違和感。

 「へえ、沢城って眼鏡外すとこんな顔してんだ」

 眼鏡をしていない俺の顔を見て、佐倉がにやりと笑う。どれだけ視力が悪くたって、こんなに近くにいたら,表情も見えてしまう。ドク、と心臓が跳ねる。近い。なんだ、これ。

 「っ、返せ……」

 眼鏡を取り返そうとして手を伸ばすと、佐倉はそれをうまくかわして、自分の目に俺の眼鏡をかける。金色の髪とじゃらじゃらしたピアスと、眼鏡。それはアンバランスだけれど、思いの外似合っていた。思わず見惚れてしまったのは、気付かないふりをする。

 「……キレーな顔してんね」

 俺の眼鏡をかけたまま、俺の顔を覗き込んで微笑む佐倉に、思わず目を逸らす。

 「っ、なんだよ、急に」
 「沢城、副会長と仲良いの?」

 何で突然、高坂が出てくるんだ。今日教室に来ていたからか?

 「だったら何だよ」

 佐倉は少しムッとしたように、眉を寄せる。

 「副会長にも眼鏡外した顔、見せたの?」
 「は?……別に、外してないけど、」
 「ふーん、じゃあ俺だけが知ってんだ」

 不機嫌な顔をしていたかと思ったら、急に頬を緩める。何なんだ、こいつは。そして、何なんだ。ドクドクうるさい俺の心臓は。

 「見せないでね、副会長に」
 「何、言ってんだよ……」

 佐倉は困惑する俺を見て、へらりと笑って眼鏡を返した。佐倉の顔が急に鮮明になって、思いの外近かった距離に、また目をそらしてしまった。


 「作業終わったの?じゃあ帰ろうぜ」

 そう言って何事もなかったように、バッグを持って立ち上がる佐倉。その落ち着いた態度に、少し複雑な気持ちになった。俺はこんなに動揺していたのに。

 「ああ、帰る──、っ……」

 立ち上がろうとした瞬間ぐらりと視界が揺れて、ふらふらと椅子に座り込む。

 「沢城?どうした?」

 佐倉が驚いた顔をして、俯いた俺の顔を覗き込む。

 「いや、悪い。ちょっと眩暈がしただけ」

 最近寝不足だったからだろうか。貧血なのか、椅子から立ち上がった瞬間、頭がくらくらしてしまった。

 「大丈夫か?一旦座って深呼吸しろ」
 「ああ……」

 座って深呼吸していると、少し落ち着いてきた。「飲むか?」と佐倉から渡された水を飲むと、また少しだけ頭がスッキリする。助かった、と思いつつ、佐倉の冷静な対応に感心する。

 そういえば以前、弟が電車で倒れることもあるくらい体が弱いと言っていたっけ。そういう対応に、もしかしたら慣れているのかもしれない。

 「寝不足か?」
 「……まあ、最近ちゃんと寝れてなくて」
 「文化祭の準備?」

 佐倉が心配そうに俺の顔を覗き込む。それだけで心臓がどきっと跳ねたのは、さっき調子が狂った後遺症だろうか。

 「それもあるけど、帰ってから勉強したり、とか」
 「はぁ?こんな時間まで学校残って、帰ってからも勉強してんの?無理しすぎだろ」

 呆れたように眉根を寄せる佐倉。無理、してるんだろうか。確かに毎日寝不足で体力的には辛いけれど、でもこれが当然のことだと思っていた。

 だって兄は当然のようにこなしていたことだ。それでも最近、なかなか眠れない。ベッドに入ってから、兄の顔が、親の顔が思い浮かんで、苦しくなる。そんな夜が続いていた。でもそれは、俺が弱いからだ。兄にはできていたことが俺にできないなら、俺に問題があるのだろう。

 「……正直、疲れた」

 どうして、こいつの前だと本音が溢れてしまうのだろうか。こんなこと、1人の時すら口に出したことなかったのに。自分でも、自分が疲れていたということに、口に出してみて初めて気がついた。佐倉は何も言わずに隣の椅子に座って、俺の頭をくしゃっと撫でる。

 「お前はやりすぎなくらい頑張ってるよ」
 「でも俺、何の目的もないんだ。親に言われたから、兄がやってたから勉強してるだけで、将来やりたいこともないし、今だって……」

 ずっと考えていた。もし兄と同じ大学に入ることができて、母親が少しは俺のことを認めてくれたとして、その先の自分はどうなるのだろう。俺が大学生になったとき、兄はもっと先を走っているはずで、俺はずっとその背中を追いかけて、兄と同じ人生を歩むのだろうか。でも兄や親の存在がなかったら、俺には何もないんじゃないか。

 そんな漠然とした不安がいつもあって、それなら自分がやりたいようにしたらいいのに、自分が何をしたいのかもわからない。ただ、俺はただ、ずっと……。

 「ずっと、認められたかっただけだ……」

 ずっと認めてほしかった。兄じゃない自分のことを。あの日の選択が間違ってなかったことを、今の自分がここにいてもいいってことを。ただ、誰かに認めて欲しかっただけだった。

 「……お前の兄ちゃんがどれだけすごいのか知らねーけど、俺は沢城悠月を見てるし、お前が頑張ってるのもちゃんと知ってるよ」

 夜の生徒会室。窓から見える夜の空には、消えてしまいそうな三日月。佐倉の落ち着いた声は、静かに夜の空気に溶け込んだ。胸の奥にあった黒い塊をじわりと温めて、温まった部分から、それはゆっくりと溶け出していくようだった。

 佐倉が言うならそれは事実なんじゃないかって、不思議とそう思うことができた。