三年間、ただ見つめるだけの恋だった。好きで好きで好き過ぎて、正面から顔も見られないような、幼い、それでも純粋な恋だったと思う。
 「ごめん、俺、知らない奴とは付き合えない」
 桜舞う校庭で、胸に『祝卒業』と書かれた花かざりを付けた井波聡祐(いなみそうすけ)は、野島湊(のじまみなと)に淡々と言い放った。でもそれは、湊にとって想定内の言葉だ。
 「だよね……ごめん、時間くれてありがとう。これですっきりしたから、大学でまた新しい恋ができるよ」
 精一杯告白して、あっさりとふられた湊はそう言って笑顔を作る。これでいい、これで充分だ――そんな呪文を何度も胸の中で唱えながら、じゃあ行くな、と去って行く聡祐の背中を見えなくなるまで見送った。
 淡く儚い恋が、ひとつ終わった。これはこのままキレイな初恋の思い出として胸の宝箱に大事にしまっておこう――湊はそう思って涙を一筋、頬に落とした。
 しかし、思い出はそのまま桜色の記憶として残ってはくれないことを、湊はひと月後知ることになる。


 「さて、片付けも大体終わったし……あれ、持って行くか」
 今日から暮らす自分だけの1DKの城を見渡して、湊は息をついた。視線の先には二時間前まで小言をいいながら引越し作業をしてくれた母が置いていったお菓子がある。せめて隣だけでも挨拶しなさいと言っていたが、一人暮らしであろう隣人にいきなり食べ物なんて迷惑ではないだろうか。突っ返そうとすると母は、手ぶらで挨拶する訳にはいかないでしょう、と言って強引にそれを置いていった。自分で食べてもいいがそれにしてはちょっと多い。仕方ない、と湊は諦めて袋を手に取った。
 湊が借りたアパートの部屋は、八戸だけの単身用の小さなもので、湊が住むのは二階の向かって左端だった。すぐ下は空き部屋なので実質ご近所さんといえるのは右隣の部屋だけだ。サンダルをひっかけて廊下に出ると、そのまま隣のインターホンを押す。ドア越しにくぐもった声で、はい、と聞こえたので湊は、隣に越してきた者です、と答えた。間もなくして鍵の開く音が聞こえ、ドアが押し開かれた。
 その隙間から覗いた顔に、湊は思わず後退りをした。廊下の手すりに背中をぶつけたが、その痛みも感じないくらい驚いた。心臓がばくばくと音を立て、顔なんか上げられない。なんで、どうして――そんなことばかりが脳裏を巡っていく。驚いたまま動かない湊に怪訝そうな声が降って来た。
 「お前……卒業式の日……」
 「あ、あ、あの……! お、お、おれ、ストーカーとかじゃ全然なくて! てか、ホントここに井波くん住んでるとか知らなくて、てか言い訳みたいだけど、あの、あの……!」
 廻らない頭を必死に動かして弁解する湊に、聡祐は、わかったから、と面倒そうに答えた。
 「知ってたんなら、そんなアホみたいに驚かないだろ。信じるから、そんな泣きそうな顔しなくていい」
 「そ、そっか……ありがと。あ、こ、これ、引越しの挨拶」
 湊は手にしていた袋を差し出してちらりと聡祐の顔を覗き見た。相変わらず整った、男らしい顔立ちをしていた。髪は卒業後に切ったらしく短髪になっていたが、それもまた似合っていて、湊の心はあの日の儚い恋の思い出を早速塗り替えようとしている。湊はそんな自分にダメだ、と言い聞かせ、聡祐から視線を外した。
 「お、梅木堂のどら焼きだ。ご丁寧にどうも」
 中を見た聡祐の言葉に、湊は、ごめんね、と口を開いた。
 「……隣がホモとか気持ち悪いかもしれないけど、おれ、ホント井波くんには何にもしないし、嫌ならなるべく顔合わせないようにするから……おやすみなさい!」
 湊は精一杯の言葉を言うと、逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。ドアを閉めて長い息を吐きながら土間に座り込む。
 「やっぱりカッコイイよぉ……」
 湊は小さく呟いて、聡祐との出会いを思い出していた。

 聡祐と初めて会ったのは、高校に入学してから一週間ほど経った頃だった。次の移動教室は一度も行った事のない旧校舎の音楽室、と言われた日だ。
 その日の湊は日直で、しかもその時に限って担任に仕事を言いつけられていた。仕方なく休み時間にそれをこなしてから教室へ帰ったのだが案の定教室は空。待っててくれてもいいのに、と友人たちを呪いながら、湊は旧校舎を目指した。けれど、寮もあるような広い敷地を持つ学校だったため、湊はあっさりと迷子になる。
 「大丈夫? ここ通るの三回目だよな?」
 美術室の開いた窓からそんな風に声を掛けてくれたのが聡祐だった。そして聡祐は、俺寮生だから大体わかるよ、と湊を目的の教室まで連れて行ってくれた。しかも着いた先で湊を、迷子かよ、と笑った友人に対し聡祐は、俺もたくさん迷ったから知ってるだけ、と優しく言ってくれたのだ。あの顔で、あの声で、そんなことを言われてしまったら恋に落ちないほうがおかしい。
 それ以来湊は聡祐一筋でずっと見つめてきた。話す機会はなかったけれどそれでも湊には満足だったのだ。何か新しい表情を見るたびに、湊の心は震えていた。
 そんな憧れの人が隣に住んでいるなんて、これ以上の幸運なんてない。今だって、スウェット姿もブランド服に見えてしまうくらい均整の取れた体、長い指に、鼻筋の通った顔――取り乱した自分を、わかったから、と一言で落ち着けてしまう中低音の背骨に響くような声……全部にときめいている。
 思い出にしようとしていた恋は、また現在進行形で動き出そうとしている。忘れなきゃと思うのに、愛しさは増すばかりだ。
 「だからダメなんだってば……」
 湊は一人呟きながら自分の膝をぎゅっと抱え込んだ。


 いくら恋列車が暴走しても、辿り着くのが再び失恋という崖ならば、無理にでも止めるしかない。湊はそう思い、勧誘で賑わうサークル棟の方へと歩いていた。ノー井波ノーライフだった三年間は、卒業式に捨てたのだ。これからは大学で新しい何かを始めて、新しい恋もすると決めた。
 「俺高校の頃からバスケやってたから、バスケサークル入るけど、野島は?」
 新入生説明会でたまたま隣になった同級生の水野(みずの)とサークル棟を歩いていた湊は、その言葉に、えっと、と言葉を詰まらせた。
 せっかく大学に入ったのだから大学特有のサークルに入ってみるのも悪くないと考えた。新しいことを始め、新しい友達を作り、あわよくば新しい――今度は成就するような恋をしようと、湊は決意を新たに、サークル棟内を歩いていたのだが、そう言われると何か趣味があるわけでもない。
 「特にこれといって趣味もないんだよね……おれもバスケ始めてみようかな。小さくても出来る?」
 自慢じゃないが、湊は身長が低い方だ。体も華奢なのでスポーツはほとんど門前払いされてしまっていた。
 「おー、出来る出来る。ここもガチの部活とゆるめのサークルあるみたいだから、緩い方入ってみれば?」
 俺はガチの方入ろうと思うけど、と水野に言われ、湊は、そっか、と小さく笑った。どうせ入るなら知り合いがいたほうがいいと思って言った言葉だったが、一緒に入るわけではないのなら別にバスケットボールじゃなくてもいい。
 「だったら、おれ、もう少し見てから決めるよ」
 「そうか? じゃあ、今日はここで。また明日な」
 笑顔を向けてこちらに手を上げる水野に湊は同じように笑って見送ってから小さく息を吐いた。自分も今日は一度帰って、改めてサークルを調べてから来よう――そう思った時だった。ねえ、と肩に手を掛けられ、湊は驚きながら振り返る。
 「サークル決まった?」
 突然茶髪の男に馴れ馴れしく聞かれ、湊は怪訝な表情のまま首を傾げ、男を見上げた。
 「サークルは入っておくべきだよ。せっかく大学生になったんだから」
 「……それで、なんのサークルですか?」
 悪徳商法のような口ぶりに怪しさを感じた湊が訝しんで聞くと、男はにっこりと笑った。
 「イベントサークル。飲み会、パーティー、スポーツ大会、なんでもやるよ。たくさんの人に出会えるし、毎回強制参加じゃないし、それに」
 男はそこで言葉を切るとそっと湊に近づいた。
 「彼女だってすぐ出来る」
 そんな風に耳元で言われ、湊はもう一度男を見上げる。
 「それってヤバいやつじゃないんですか?」
  活動というよりは遊び相手を探すようなサークルがあるというのは田舎者の湊でも知っている。もちろん健全なサークルが多いし、そんなのはきっとごく一部なのだと分かっているが、『彼女がすぐできる』なんて言われたら疑わざるを得ないだろう。
 田舎者だからとすぐに騙せるわけではないと気を張っている今の湊には特に怪しく思えていた。
 「出会い系とかじゃないよ。特にこれといって趣味も特技もない奴らが集まって色んなことしてるだけ。それぞれ好きなこと見つかったらそっちのサークル入ったりしてるんだよ」
 湊も特にのめり込むような趣味もないし、人に自慢できる特技もない。そんな人が集まっていると言われたら、なんとなく飛び込んでもいいのかもしれないと思った。
 きっと今の湊に必要なのは、『井波くんのいない新しい世界』のはずだ。
 目の前にいるこの先輩も今までに知り合ったこともないタイプの人だった。こういう人たちの中に入ったら色々刺激になるだろうか。彼女なんて自分の性癖からいえば、絶対に出来ないのだが、それだけの出会いがあるのなら新しい恋も見つかるだろうか。そう思い、湊は体の横でぐっと拳を握るとゆっくりと口を開いた。
 「おれみたいな地味な田舎者でも入れますか?」
 湊が勧誘してきた先輩を見上げると、いつの間にかその隣に立っていた別の男が、地味じゃないよ、とこちらに微笑んでいた。
 「僕は可愛いと思うよ。こんな可愛い子が入ってくれたら僕は嬉しいけど」
 「か、かわいくは……でも、まだ入るところ決めてない、ので……」
 可愛いなんて親以外から言われたこともなくて動揺していると、そうか、と男が少し考える仕草をする。さらりとまっすぐ伸びた黒髪と眼鏡の乗った優し気な顔は柔らかな雰囲気で、悪い人には見えない。
 すぐに返事が出来ない自分に少し罪悪感を抱いていると、じゃあ、と彼が笑顔を向けた。
 「とりあえず、仮で学部と名前書いてくれる? 入るかどうかはゆっくり考えていいから。あと個人的に僕に連絡先教えてくれる?」
 柔らかく笑んだ彼が手にしていた名簿を差し出す。湊は名簿を受け取りながら流れで、はい、と答えたが、すぐに眉を寄せて名簿から顔を上げた。
 「連絡先?」
 「そう、スマホの番号がいいけど、ダメならSNSのIDでもいいよ。持ってるよね?」
 銀に光る眼鏡の奥の目が、湊の尻のポケットから少し出ているスマホを捉えている。それに気付いた湊が思わずそれを手で隠してしまった。
 優しいのに怖い、そんな目から湊は視線を逸らせた。心の中では、何この人、なんで、何なの、と疑問ばかりがぐるぐると巡る。
 「神崎(かんざき)、新入生びびってるって。そんなハンターみたいな目で見るなよ」
 隣で二人のやり取りをみていた茶髪の先輩がため息をついて笑う。
 神崎と呼ばれた目の前の男は、そんな目で見てないよ、と笑い返した。
 「気をつけろよ、新入生。そいつ、両刀だからな。しかもすげー手早いし。ウチ、ヤリサーとかじゃないのにコイツのせいで学校からも疑われててさー」
 その言葉に湊は首を傾げた。両刀って、と聞き返そうとすると神崎に微笑まれてしまい、それだけでなぜか言葉を返せなくなる。
 「ホント、うるさい外野でごめんね。とりあえず名簿書いて」
 「……あの、先輩ってバイなんですか?」
 優しく名簿を指差す神崎に、湊はそっと聞き返した。驚いたのは神崎の方だ。けれどすぐに穏やかな顔をして、そうだよ、とあっさりと答える。
 「男も女も同じ人間でしょ。だから好きになるよ。ちなみに君なんて、すごく好み」
 「こ、好みとか、言われても……」
 湊はどうしたらいいのか分からず、逃げるように名簿に名前を書きはじめた。字が震えているのが恥ずかしい。
 湊が誰かに好みだとか、そんな好意を向けられるのは初めてだった。確かに人伝いに、何組の誰だかがお前のこと好きらしいよ、なんてことは聞いたことはあるが、直接こんな風に言われたことはないのだ。そもそも高校の頃は聡祐にしか興味がなかったから、何か言われても聞こえていなかったのかもしれないが。
 「ま、教えたくなかったらいいよ。そのかわり今日このまま僕の部屋に来てくれる? えっと……湊くん」
 神崎は湊の手から名簿を引き抜くと、湊を見つめ微笑んだ。湊が唖然としていると、また傍から笑い声が聞こえてくる。
 「神崎、いきなり食う気かよ」
 ……食う? ってなんだ? と一瞬首を傾げてから、湊はその意味を理解し真っ赤になった。
 「い、行きません! 部屋なんて……おれ、そういうことは好きな人とじゃなきゃ出来ません!」
 湊がそう言い切ると、神崎は一瞬驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。いいね、すごくいい、と言いながら湊の目を見つめる。
 「じゃあ、今日はメッセージアプリで友だち追加してくれる? 湊くん」
 その微笑みに、湊は抗えなくて、渋々頷いていた。


 その翌日の朝、湊はぼんやりとしながら玄関ドアを開けた。昨夜はなんだか上手く寝付けなくて、家を出るこの時間になってもまだ眠い。というのも、昨日寝る前に神崎から来たメッセージが原因だ。
 『もう寝る頃かな? 湊くん抱き枕にして僕も一緒に寝たいな』
 そんな言葉をメッセージにしてしまう神崎が恥ずかしいのか、こんなこと言われたこともないせいなのか、なんだか照れてしまって鼓動が早く打ってしまって落ち着かなくて――気付いたら夜が明けていた。
 神崎に自分の気持ちが少しでも傾いているならそれはそれでいいことだと思うのだが、こんな経験は初めてなので、その点に関してはよくわからなかった。
 こんな風に突然の行動で動揺させられることはあるが、こちらから神崎に会いたいとかメッセージを送りたいとか、そんな気持ちはまだ持てなかった。現に昨夜のメッセージに返信はしていない。
 だけど、自分に興味を持ってくれる人なんて、人生のうちに何人いるだろう――そう考えると、神崎を好きになる努力をした方が自分のためにはいいのかもしれない。そう思いながらドアに鍵を掛けると、突然隣のドアが開いた。
 「……はよ」
 姿を見せた聡祐が、湊に気付き笑顔を見せる。それがすごく自然で、意識しまくりの湊とは全然違って、それがまたカッコよくて、湊は返事に手間どってしまう。
 「あ、えっと、お、おはよう!」
 その言葉が出たのは聡祐が既に廊下を歩き出した後で、湊の声を聞いた聡祐はそれに一度だけ振り返ったが、すぐに歩き出した。肩が震えていたのは笑ったせいかもしれない。そんな背中も凛としていて、走って飛びつきたいほどカッコいい。神崎を好きになった方がいい――さっきまでそんなことを考えていたのに、その姿を見ただけで心は簡単に聡祐の虜になってしまう。
 「……これじゃ諦められないじゃん……」
 遠ざかる聡祐の背中を見つめながら、湊は小さく呟いた。
 

 今日は何も用事がないのでまっすぐ帰って部屋の片づけをしようと日が暮れる前に自宅アパートに辿り着いた湊は、階段前に積まれたダンボール箱に首を傾げた。引越しだろうか、と思っていると階段を降りてくる足音が聞こえ湊は顔を上げた。
 「おかえり」
 目の合った湊に声を掛けたのは聡祐だった。途端に湊の鼓動は速度を速める。
 「ただ、いま……これ、井波くん、の?」
 「そう。学校の課題」
 よいしょ、と箱を持ち上げながら聡祐が答える。それでもまだ一つ、箱が残る。湊は一瞬迷ってから意を決して、あの、と口を開いた。
 「おれが触ってもいいなら、これ、運ぼうか?」
 湊の言葉に、聡祐は少し険しい顔をした。やっぱり嫌なんだろうか、と思い湊の心臓はぎゅっと縮むように痛む。
 この性癖はきっと世間では普通ではなくて、気持ち悪いと感じる人もいる。しかもそれが自分に向かっているとなれば、嫌だなとか怖いなと思うかもしれない。
 それは何も悪いことではない。悪いのは、こんな感情を聡祐に向けてしまっている自分だ。
 「ご、ごめん! やっぱり嫌だよね、おれなんかに触られたら……」
 ごめんね、と湊が聡祐の脇をすり抜け階段を上がろうとすると、待てって、と聡祐の腕が湊の手首を捕らえた。その手からダンボール箱が転がり落ちる。
 「あ、箱! 中身大事なんだよね」
  湊が手を伸ばすが届くわけなく、そのまま聡祐を見上げた。聡祐の眉が歪んでいるところを見て、湊が視線を逸らす。聡祐から話してくれたからうっかり話してしまったけれど、聡祐は優しいから無視することもできなくて話しかけてくれただけで、本当は話したくないのかもしれない。しかもこんな迷惑をかけてしまった。
  そう思うと、心臓が痛くてたまらなかった。今すぐ家に引きこもりたい。
  黙ったままでいると、聡祐が小さくため息を吐いた。
 「ちょっとくらい落ちても平気。それより野島、お前先走りすぎ」
 湊の手を離した聡祐が箱を再び持ち上げる。
 「俺は別に野島のこと嫌とか思ってないから。そんなビクビクすんなよ」
 「……井波くん……?」
 首を傾げ聡祐を見ると優しい表情が返ってくる。
 「そういうことだから、そんな緊張しなくていい」
 「うん……ごめん」
 湊が頷くと聡祐が、謝るな、と笑った。
 それからすぐに口を開く。
 「そっちの箱、運んでもらえるか?」
 聡祐に言われ湊が慌てて箱を持ち上げる。聡祐は軽そうにに持っているが、湊には少し重い箱だった。それでも気取られないように湊がそれを抱え直す。
 「これ、中身何?」
 「資料。授業で使うんだ」
 聡祐の後に続いて階段を上がる。部屋の前には二個同じような箱が置いてある。
 「すごい量だな。井波くんってなんの学校だっけ?」
 「デザインだけど」
 聡祐は言いながら部屋の鍵を開け、箱を中へと詰め込んだ。
 「デザイン?」
 「そう、グラフィックデザイン。ところで野島、これから晩飯?」
 箱を片付けた聡祐が湊を振り返る。湊はその言葉を不思議に思いながらも頷く。
 「じゃあ、メシ行かないか?」
 「メシ……? お、おれと、井波くんで?」
 湊が驚いて聞き返すと、聡祐は可笑しそうに笑って、そうだよ、と頷いた。
 「ええ? 二人、で?」
 「そんな驚くことかよ。行こう、野島」
 湊の肩をぽん、と軽く叩いてから聡祐が歩き出す。湊はそれを一歩遅れて追いかけた。

 アパートから少し歩いた先には大きな通りがあって、その脇にはコンビニやドラッグストアなどが立ち並んでいる。その利便性から湊も今のアパートを選んだのだが、まだ利用したことのないところもいくつかある。その一つが、今聡祐と居るファミレスだ。ひとりで入るには、湊には少し敷居が高い。
 「そっか、野島S大に行ってるんだ。頭いいんだな」
 「おれなんて全然。たまたま受かったから来ただけ。それより井波くんの方が目的持ってる感じで……いい、よ」
 カッコイイ、と言いそうになって、慌てて湊は言葉を切った。そんなことを言ったら、まだそういう目で見てるのかと思われてしまう。そうしたら、こんな風に接してもらえなくなるかもしれない。それは嫌だったので、ぐっと我慢した。
 「簡単な道じゃないとはわかってるけどな。若いうちは足掻いて来いって、親父が言ってくれたから」
 「いいお父さんだね」
 湊が言うと聡祐は照れたように、まあな、と笑んだ。
 「でも大変そうだね、あの箱とか」
 「課題片付けるのに必要で。別に学校でできれば持ち帰る必要もないんだけどな」
 聡祐は笑いながら手元のグラスを手に取った。長い指を、グラスについていた水滴が滑り落ちていく。そんな様子を見ているだけで湊はドキドキと胸が高鳴った。
 今こうして向き合って食事をしているなんて一ヶ月前の自分には想像すら出来なかったことだ。
 「野島って、そうやってじっと見るの、癖?」
 「へ? あ、ごめん、癖っていうか……ごめん」
 井波くんに見惚れてるんです、なんて言えず、湊は自分の手元に視線を落とした。やっぱり男に見つめられてもいい気はしないだろう。
 そんなことを思っていると、聡祐の手が伸び、湊の顎先をぐっと掴んで、その顔を上げさせた。
 「癖かって聞いただけだろ。謝ることない」
 「あ、でも、嫌だったら……」
 強制的に視線を合わせられた先の聡祐の顔は穏やかだった。どうしよう、この手どうしよう、と顎にかかった冷たい指をちらりと見やる。すると、その視線に気づいた聡祐は、悪い、と言ってすっと手を引いた。
 「嫌なら嫌だって言うから。野島も言えよ。俺、どうもこう、口より行動が先に出ちまうから……」
 「全然嫌じゃない。びっくりしただけ」
 むしろ触ってもらえるのは光栄です、と言いたいのを我慢して湊は笑った。
 「そっか、よかった」
 聡祐が安心したように笑った、そのすぐ後、湊のポケットから着信音が響いた。湊は、ごめんね、と聡祐に謝ってからスマホを取り出す。画面を見ると神崎からのメッセージだった。ここ数日貰っている他愛もない内容のものだ。友達と食事中だということだけを返して湊はスマホを再びしまい込む。
 その様子を見ていた聡祐が少し眉を下げた。
 「大事な用とかじゃなかった?」
 「あ、うん。大丈夫」
 湊が答えると聡祐は、そうだ、と言って自分のスマホをパンツのポケットから取り出した。
 「スマホ見て思い出した。俺の番号とか教えるから、野島のも教えて」
 その言葉に湊は目を瞠ったままスマホを握り締めた。スマホの番号を教えてもらえるなんて、これは夢かと自問する。そうしている間に聡祐が不思議そうな顔になり、次第に表情は曇り、嫌か、と聞かれて、湊は眩暈がするほど強く頭を振った。
 「い、嫌じゃない! 教えて欲しい! 番号もアドレスもアカウントとかも!」
 湊が意気込んで答えると、一瞬驚いた顔をした聡祐が声を出して笑った。
 「野島って、なんか面白いよな。高校の時から知り合ってればよかったよ」
 「あ、そう、かな……?」
 ははは、と笑いながら湊は高校の頃は知り合いになるなんてことは出来なかっただろうと思っていた。遠くから覗くだけで心臓が壊れるんじゃないかと思うほどバクバクしていたのに、直接話なんかしてたら確実に倒れていただろう。一度ふられた今だってこんなにときめくのだ。きっと上手く会話することもできなかったはずだ。あの告白だって、死ぬくらいの覚悟はしたのだから。
 「うん。きっといい友達になってた」
 そんな湊の思いを他所に屈託なく笑う聡祐に、湊の心の隅がちくりと痛む。当たり前だが、自分と聡祐では友達以上の関係にはなれないのだ。どんなに前から知り合ったとしても恋人にはなりえない。それを再確認させられたようで湊は少し悲しかった。けれど湊はそれを表面に出すことなく、聡祐とスマホの番号を交換した。

 じゃあおやすみ、と部屋の前で聡祐と別れた湊は緊張から解かれた瞬間、玄関にへたり込んでしまった。切ないけど嬉しい。楽しいけど寂しい――そんな自分でも収拾つかないような感情が湊の中で渦巻いている。
 湊はそっとポケットに入ったままのスマホを取り出した。電話帳を開いて、さっき登録したばかりの名前を表示させる。
 「……井波、聡祐……」
 名前を呼ぶだけで、こんなに胸が苦しくなる。壁ひとつ向こうに居るのに、さっき会ったばかりなのに、もう顔を見たくなってる。
 諦めるはずなのに、そう決めたのに、聡祐との距離が縮まるのがこんなに嬉しい。
 「こんなんじゃヤバイ、かな……」
 だけどもう少しだけこのままで――そう思って湊はスマホをぎゅっと抱きしめた。


 「お、かえり……」
 「おう、ただいま」
 その翌日もアパートの前で会った二人は、聡祐の、腹減らねえ? の言葉をきっかけにファストフード店へと向かった。
 「いつもこの時間なのか?」
 トレーを手に、空いた席に腰掛けた聡祐が湊を見上げる。湊は頷きながらその向かい側に座った。
 「今のところバイトもしてないし、大概は」
 「俺も、まだ授業で手一杯で、帰ってからも課題あるし」
 バイトどころじゃなくて、と聡祐が笑う。
 「大変なんだね、専門学校って」
 「まあ、確かにやることはたくさんかな」
 でも楽しいよ、と聡祐がハンバーガーを齧る。その姿が男らしくて湊はついぼんやりと眺めてしまっていた。すると、ふいに聡祐が、ところでさ、と話題を変える。湊は見惚れているのに気付かれたか、と慌てて手元のハンバーガーを手にとってごまかそうとした。
 「野島、相談があるんだけど」
 けれど聡祐の話題は自分のことではなかったらしく、少し安心した湊は、何? と聞くように首を傾げた。
 「夕飯なんだけど二人で自炊しないか? 正直毎日二食、外で食ってると金続かなくて。二人で交代でやれば負担も減るし」
 確かに、昨日のファミレスでの食事は学生にとってはご馳走で、あんなのを毎日続けられるはずはない。現に今日は500円のセットで済ましているというか、済まさざるをえなくなっている。
 「そうだね。たしかにその方が色々節約できそう」
 湊が頷いて言うと聡祐が、やった、と小さく拳を作る。その姿に湊が笑う。
 「じゃあ、一日交代でやってみよう。といっても、俺、料理なんてしたことないけどな」
 野島もそうだろ、と聞かれ湊は、おれは、と口を開いた。
 「小さい時から親共働きだったから、簡単なのなら作れるよ。あ、じゃあ、おれが作ろうか、毎日」
 聡祐のために毎日料理が出来るなら本望というやつだ。自分が作ったものを聡祐が食べてくれるなら、こんなに嬉しいことはない。けれど聡祐は、湊の提案に首を振った。
 「そんなの公平じゃないだろ」
 「でも……井波くんは課題とかあるんだろうし」
 自分にもあるが、多分聡祐の比ではないだろう。テスト前は大変になるかもしれないが、今のところ毎日ゆったりと過ごしている。そのことを話すと、聡祐は渋々頷いた。
 「じゃあ、俺が食材を買ってくるよ。それでどうだ? 公平になるか? ……てか、やっぱり飯は美味いに限るし」
 にっと歯を見せて笑う聡祐に、湊は笑顔で頷いた。
 「美味しいかは別として、やってみるよ」
 「じゃあ、よろしくお願いします」
 聡祐がぺこりと頭を下げる。湊も、こちらこそ、と笑った。
 「なんか、いいね。こういうの……共同生活って感じで」
 「共同生活?」
 夢心地で呟いた湊の言葉を聡祐が聞き返す。湊は慌てて、違う、と口を開いた。
 「全然違うよね。嫌だよね、おれと一緒みたいなこと言われたら」
 可愛い女の子とならまだしも、何のとりえもない男の自分となんて嫌に決まっているはずだ。けれど聡祐は少し呆れた顔をして、なんだよそれ、と口を開いた。
 「違わないだろ。俺は野島とならいいよ、共同生活」
 「ホント?」
 「じゃなきゃ、同じ釜の飯を食おうなんて提案しないだろ。偶然にせよ、地元の同級生が隣だったんだ。仲良くしたいって思うよ、俺は」
 野島なら大歓迎、と聡祐が言う。その言葉と笑顔に湊はほっとして、ありがと、と答えた。
 「こっちこそ、ありがと」
 そんな言葉をさらりと言える聡祐に、心は湊の許可なくときめいてしまう。湊はそれを隠すように俯いて頷いた。


 今日のおかずは何にしよう――朝からそんなことを考え、気付けば講義用のノートはメニュー名でびっしりになっていた。当然講義はほとんど聞いていない。
 湊は慌てて板書を書き写そうとするが既に半分は消されてしまっていた。
 どのみち誰かにノートを借りなきゃいけないと思って、湊は諦めて筆記用具を片づけた。
 「野島、それ何の暗号?」
 そんな湊に、隣に座っていた水野が怪訝な顔をして聞く。最近はこうして一緒に講義を受けることが多い水野だが、視界に入る湊のノートは初めて見るものだったのだろう。
 「え、あ、これは……夕飯どうしようかな、的な?」
 湊がごまかすように笑う。間違ってはいないが、自分のためならこんなに悩んだりはしない。
 「そういうことか。昼食べたのに腹減っておかしくなったかと思った」
 「違うけど、ノートは見せて」
 湊が顔の前で手を合わせると水野は笑って、いいよ、と答えた。
 「野島って一人暮らしなんだ。俺は一人だと絶対餓死すると思って寮入ったんだよね」
 飯出てくるのありがたすぎる、と水野が笑う。確かに親には寮も勧められた。それでもやっぱり自立したかったので一人暮らしを選んだのだ。
 「確かに、飯だけじゃなくて日々の買い物とか家事とか自分でやるとなると結構手間かも」
 「だろ? 俺多分できないし。寮は常に誰かと一緒っていうのも大変ではあるけど、楽しいし」
 「楽しめるなら、水野には寮が合ってたんだよ」
 常に他人と一緒だとずっと緊張してしまいそうな湊には、きっと寮は合わないだろう。やっぱり部屋に帰ってほっとする時間は大事だ。
 「へえ、湊くんって一人暮らしだったんだ」
 突然そんな声が後ろから響いて、湊と水野が驚いて振り返る。そこにはにこにこと微笑む神崎が立っていた。
 「湊くん全然返信くれないから、探しに来ちゃった」
 「神崎さん……返信って言われても……」
 毎日来るのは『何してるの?』とか『夕飯食べた?』とかそんな他愛もないものだった。先輩ということもあって『家にいます』とか『コンビニで弁当買いました』という報告のような返事をしていたが、これが友達なら『暇かよ』と返してしまうところだ。
 「あ、もしかしてサークルの先輩?」
 だったら俺先に行くな、と水野が要らない気を利かせて湊に聞く。まあ、と曖昧に返す湊に対し、神崎は、ありがとう、と微笑んだ。
 正直、神崎に対してまだ警戒している湊としては、水野にも一緒に居てほしかった。
 去っていく水野の背中に、行かないで、と念じてみるが当然のように届くわけがなく、水野は教室を出ていく。
 「湊くん、僕のこと嫌いだったりする?」
 湊の様子をずっと見ていた神崎が隣へと廻り、その席に腰を下ろす。この後この教室は使われないようで、講義の終わってからは少しずつ人が消えていっていた。
 「嫌い、とかではなくて……初対面で、その……こ、好み、とか言われたら、誰でもびっくりするというか……」
 しかもその後も毎日メッセージが届くのだ。普通は怖いと思って当然だろう。
 「ああ、そうだよね。僕、今ひょっとして湊くんにとって危険人物?」
 そこまでではないが、その通りだ。答えられずにいると何かを察したのか、だよねえ、と神崎が目の前の机に突っ伏した。
 「ちょっと焦ったかも。湊くんと仲良くなりたくて」
 神崎がこちらに顔を向け、湊を見上げる。優しいその視線が悪い人からのものとは思えなくて湊は、分かりました、と頷いた。
 「もう少しゆっくりでお願いしてもいいなら……」
 「もちろんだよ! 嫌われたわけじゃなくて良かった。じゃあ、とりあえず今日、サークルの集まりあるから来ない?」
 みんなと一緒ならいいでしょ、と神崎が体を起こして笑顔を向ける。
 それはもちろんそうなのだが、湊にはサークルには入れない理由がひとつ出来てしまった。放課後はサークルではなくて、聡祐の夕飯作りに使いたい。
 「すみません……放課後は、その……バイトをしようと、思って、て……サークル活動は難しくなって」
 適当な嘘をついて湊が、ごめんなさい、と謝る。神崎はとても残念そうに、そっかあ、とため息を吐いた。
 「でも仕方ないね。サークルは入るのも抜けるのも自由だし」
 その言葉に湊は、優しい人だな、と思う。メンバーが集まらないと活動費が出ないという話も聞いた。辞められたら困るのは中心メンバーである神崎だろう。それでもこんなあっさりと認めてくれるなんて、湊にとってはありがたい話だ。
 「でも僕とは会ってくれないかな? 友達としてさ」
 「友達として……」
 「そう、友達として」
 大事な事だから二回も言っちゃった、と笑う神崎に湊は、友達としてなら、と繰り返してから頷いた。
 「良かった! じゃあまたメッセ送るね。今度は食事でも」
 じゃあね、と神崎が席を立つ。湊はそれを見送ってから、買い物行かなきゃ、と思い出し、慌てて教室を後にした。


 夕方のスーパーでメニューに迷い、やっぱり初めての手料理は洋食かな、と考えて、いやいや彼氏に作るラブご飯じゃないんだから、と考えを打ち消す。だけど――
 「……美味しいもの、食べて欲しいしな」
 湊はそう呟いて、買ってきた材料を取り出した。今日のメニューはエビフライに決めた。アレルギーはなさそうだったし、キライな人が少ないメニューだ。それに最近ようやく真っ直ぐに揚げられるようになって、今湊の中ではいちおしのメニューだったからだ。
 湊はえびのパックを開けると、塩と片栗粉をまぶして軽くもみ、水洗いする。これをすると臭みが取れるらしい。今日ネットでメニューを見ている時に見た知識だ。その後はちまちまと背わたを取り始めた。面倒だけれどこの作業もまた聡祐のためだと思えば少し楽しい。
 鼻歌まじりにその作業をしていると、ベッドに放り投げていたスマホが着信音を鳴らした。聡祐かもしれないと思い、湊は慌ててスマホをてにしたが、メッセージの発信者は神崎だった。幾分落胆してベッドの縁に座り込み、メッセージを開く。
 『さっそくだけど、明日の夕飯一緒にどう? まだバイト始まってないんでしょ』
 確かにバイトなんて嘘だから時間はある。けれど、明日だってきっと聡祐のご飯を作るに決まっている。そうなるとやっぱりそちらを優先したい。友達として、と言ってくれた神崎を無下に扱っていることには罪悪感を覚えるが、今の湊はまだ聡祐に気持ちが向いている。
 『明日は用があるので、ごめんなさい』
 胸の奥が少し痛む感覚を覚えながら、湊はそのまま、パタン、とベッドに倒れこんだ。結局、聡祐を選んでしまった。聡祐を諦めるなら、絶対逆の選択をするべきなのだ。わかっている。わかっているけれど、友達としてでも聡祐に会えるのなら、そちらを取ってしまう――だって、まだ好きなのだ。というより、むしろどんどん好きになっているのだ。このままじゃ拙い。だけど、やっぱり傍に居られるなら居たいのだ。それが終わりのある関係でも、一番傍に居られるわけじゃないとしても。
 湊がため息を吐くと、再びスマホが鳴った。
 画面には神崎の文字が見える。湊は少し迷ったがさっきメッセージを返してしまったこともあり、無視するのもよくないと思って通話ボタンにそっと触れた。
 『湊くん? よかった、声聞けて』
 「すみません、神崎さん」
 『え? 食事のこと? 別にいいよ、急に明日って言い出したの僕だし。また今度会おうよ』
 電話を通すと穏やかな声が更に柔らかく聞こえる。きっと自分なんかに執着しなくても男女問わずモテるだろう。
 「おれと会っても楽しくないですよ」
 『言っただろ? 湊くんは僕の好みなんだよ。連れ歩くだけでも満足なんだ』
 ふふふ、と小さな笑い声が聞こえる。そこには余裕みたいなものが隠れていて少しだけドキドキしてしまった。こんなことを言われるなんて慣れていないせいだろう。
 「先輩が楽しいなら、いいんですけど……」
 『うん。今度、ランチ誘うよ』
 夜はバイトだろうから、と神崎がさらりと口にする。そこまで見抜かれていると分かり、湊は少し自分のことが恥ずかしくなった。
 「ランチなら、ぜひ……」
 答えながら自分勝手だな、と思う。夜は聡祐の夕飯を作りたい、ただそれだけの理由で時間が作れないなんて、他人が聞いたらどう思うだろうか。主婦が旦那の夕食を作るわけではないのだ――湊にとっては、気持ちはそれに近いのだが。
 『じゃあまたね。声聞けてよかった』
 今日はぐっすり眠れそうだ、と笑って神崎は電話を切った。湊はぼんやりとしながらスマホの画面をスリープにした。なんだか不思議な気分だった。神崎が優しく接してくれるたびに恥ずかしいような、それでも嬉しい気分になる。けれど同時にそれに応えられない自分の気持ちに罪悪感を覚えるのだ。まだ、神崎の気持ちにまっすぐ向き合えない自分がいる。
 どうしたって今はまだ聡祐が一番なのだ。


 台所で付け合せのトマトを切り終えた湊は、隣のドアが開く音を聞いて、急いでそれを皿に盛り付けた。聡祐に夕飯を作るのは、今日で三日目だった。一日目のエビフライも昨日の回鍋肉も聡祐は美味しかったとメッセージをくれた。今日はチキン南蛮だ。どうかな、とわくわくしながら食事をトレーに載せて湊は廊下へ出た。隣のインターホンを押すと聡祐が顔を出す。
 「お帰り、井波くん。今日のご飯届けに来た」
 「ただいま。ありがとな――待ってて、昨日の皿返すから」
 湊からトレーを受け取った聡祐はそのまま奥へと消える。湊はそれを玄関先で待っていた。しばらくすると昨日渡したトレーを抱えて聡祐が戻ってくる。
 「あ、洗ってくれたんだ。ありがと」
 「まあ、そのくらいは。ていうかさ、野島、俺の言い方が悪かったのかもしれないけど、こういうんじゃなくてな……」
 聡祐はトレーを差し出しながら眉を下げた。それに首を傾げる湊のポケットから着信音が響く。湊は勿論、聡祐も驚いて湊のスマホを見る。
 「あ、ごめん……何?」
 「いや、いい。出なよ、電話」
 「うん、ありがと」
 湊はそっとスマホを取り出し通話ボタンに触れる。相手は神崎だった。
 「もしもし。ええ、今家です。何って……晩御飯作ってました」
 今何してたの? どんなもの着てるの? なんていうイタズラ電話みたいな冗談を言う神崎に湊は笑って返す。きっと今日もくだらない話をするためだけに電話してきたのだろう。朝送られてきたメッセージも『起き抜けの湊くんに会ってみたいな』という少し恥ずかしくなるようなものだった。当然それには返信していない。
 『湊くん、ご飯作れるんだ。今度ウチに作りに来てよ』
 「神崎さん家に作りに? それはちょっと……」
 家になんて行ったら何をされるか分からない。友達として会うと言ってくれたのに、神崎は時々こんなふうに湊を試すようなことを言う。
 『じゃあ何人か友達呼んでパーティーみたいな感じで……』
 神崎の言葉をそこまで聞いた時だった。聡祐が湊の袖を、つんと小さく引いた。
 「野島、部屋帰って話せよ」
 傍で立っていた聡祐が小さく言う。けれど神崎と話すより今は聡祐と話していたい。しかし電話の向こうの神埼は電話を切る気はなさそうだ。その神崎に、ちょっと待ってください、と声をかけ保留にする。
 「ごめん、井波くん。さっき、なんか言いかけたよな?」
 「いいよ。明日にする。すぐに切れる電話じゃなさそうだし」
 「ごめんね。切ってもいいような電話なんだけど、先輩だからできなくて……じゃあまた明日」
 おやすみ、と笑ってから湊は保留を解除した。電話の向こうで神崎が、誰か来てた? と言うのを聞きながら湊は聡祐に手を振る。そのドアが閉まり聡祐の姿が見えなくなってから湊は、大丈夫です、と答えた。
 『ならいいけど……家に来てっていうのは、また今度でもいいから、近いうちランチはどう?』
 「いいですよ。でもおれ、毎日午後も講義あるんで学食になりますよ」
 神崎の、やった、という華やいだ声を聞きながら、湊は自分の部屋のドアを開けた。閉まったままの隣のドアをしばらく見つめてから、神崎じゃなくて聡祐と食事が出来たら最高なのに、と思いながら部屋へと入った。


 神崎とランチを摂ったその日、湊は急いで家に向かっていた。講義の後、そのまま残って課題を片付けていたので、今日は六時を過ぎていた。もしかしたら聡祐はもう帰宅しているかもしれない。そう思うと湊は自然に歩調を速めた。しかしそれが、スーパーの前でぴたりと止まる。
 湊の視界には聡祐が居た。その姿はスーパーの中へと吸い込まれていく。
 買い物だろうか。声を掛けたい。けれどここで声を掛けたらストーカーみたいになっちゃうだろうか。いやでも、聡祐は仲良くしたいと言ってくれた――湊はそこでしばらく逡巡してから、よし、と小さく呟いて歩き出した。聡祐の後を追うようにスーパーの中に入ると聡祐はすぐに見つかった。キャベツをなにやら真剣に見つめている。その姿が妙に可愛く見えた湊は、くすりと笑ってから、聡祐の傍まで歩み寄る。井波くん、と声を掛けると、一瞬驚いた顔をした聡祐がすぐに笑顔を向ける。
 「お、野島。いいトコに来たな。夕飯の買い物に来たんだ」
 でも何買えばいいかわかんなくて、と聡祐が苦く笑う。
 「食べたい物の材料買ってくれればいいよ。初めて作るものでも頑張ってみるし」
 湊が言うと、聡祐は驚いたように、すごいな、と湊を見やる。
 「いつでも嫁に行けるな、野島」
 「いつか、もらってくれる人がいればいいんだけどね」
 軽口のつもりで言った湊だったが、その言葉に聡祐の表情が少し翳る。そういえばこの間自分はこの人にふられていたんだと思い出し、湊は、えっと、と話題を変えようと口を開いた。
 「今日、昼にパスタ食べたんだよね。学食なんだけどボンゴレがすごく美味しくてさ。アサリつながりで、酒蒸しとかどうかな?」
 今日安いみたいだし、と湊は冷蔵ケースに並ぶアサリに手を伸ばした。すると聡祐が、昼? と聞き返す。湊は頷いた。
 「それって、この間電話で話してた人と?」
 「そう。同じ大学の先輩なんだ。……それが?」
 まだ浮かない顔をしている聡祐に湊が首を傾げる。すると聡祐は、すき焼き、と突然口を開いた。
 「野島、今日すき焼きにしよう。食えるよな?」
 「食べれるけど、分けるの難しいよ?」
 一度同じ鍋で作ってそれを分けるしかないかな、なんて考えていると聡祐が、そうじゃなくて、とその考えを遮った。
 「鍋を別々に食うバカがいるかよ。一緒に食うの。俺の部屋に来いよ」
 「一緒……? 部屋、入っていいの?」
 聡祐の言葉に驚くばかりの湊が聞き返すと、当たり前だろ、とその笑顔が頷く。
 「一緒の方が楽しいだろ」
 な、と聡祐が湊の頭を軽く小突く。湊はそれに頷いてから、触れられたところからじわりと暖かくなっていくのを感じて、ドキドキしながら、買い物の続きを始める聡祐の後についた。


 くつくつと煮える鍋の向こうに聡祐が居る。その現実離れした光景に、湊は軽く眩暈を覚えた。
 しかもここは聡祐の部屋だ。湊は視線だけで部屋を見渡してから夢ではないだろうかと膝に乗った左手の甲をぎゅっとつねってみた。痛いし、ほんのり赤くなっている。多分これは現実だ。
 「野島、食わないと俺が全部食っちまうよ」
 向かいから聡祐の声が飛んできて、湊は慌てて箸を伸ばした。まさかいきなり同じ鍋から食べるなんて想像もしていなかったから、湊は胸がいっぱいになるほど緊張して味なんかよくわからない。結局湊は箸を置いて本棚に目を向けた。
 「これ、全部デザイン関係の本?」
 「――とか、写真集とか。見てもいいよ」
 茶碗を抱えるように白飯を掻っ込む聡祐が答える。湊はその言葉に、そっと本棚に手を伸ばした。引き抜いた厚い本は海の写真集だった。
 「きれいだね」
 「だろ? それ、表紙のデザインにも凝ってて好きなんだ」
 「やっぱりそういうところに目行くんだ」
 写真集から目を上げて聡祐を見やると少し照れたように、まあね、と笑った。
 「井波くん、こういうデザインとかしたいの?」
 「まだそこまで具体的には決めてない。ただ、自分がやっていける、自分に合ってる業界ならいいかなって」
 そう言った後、恥ずかしかったのか聡祐はすぐに立ち上がり冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出した。一本目は既に空になっているようだ。湊の、カフェインとりすぎじゃない? という言葉に苦笑いを返しながら聡祐は元の場所に座り直す。
 「でもなんかいいね、将来やりたいことがあるって。おれなんてなんとなく大学に来ちゃったって感じだし」
 学部だってつぶしがききそうだから、という理由で経済学部だ。多分このまま自分はなんか役に立ちそうだからという理由で授業をとって、卒業して、入れそうだったからと適当な会社に就職するのだろう――そう思うと、聡祐がとても羨ましく思えた。やりたいことに向かって努力する姿はやっぱりかっこいい。
 「それでもいいと思うよ、若いんだし。あ、でも飯が美味いのは才能だと思うよ」
 「適当に言ってない?」
 少し眇めた目を向けると聡祐が、事実だって、と皿に取っていた肉を口に放り込む。しょうがない奴だな、と思いながらも、そのいたずらめいた笑顔はやっぱり愛しい。
 「食べよう、ほら。煮詰まるよ」
 聡祐が肉を鍋から摘み取り湊に差し出す。湊はそれを取り皿で受けながら頷いた。

 満腹になるまで食べた後、聡祐と共に後片付けを始めた。最初は動けないなら寝てろ、と湊一人でやるつもりだったのだが聡祐が片付けは自分がやると譲らなかった。しかし一人にやらせるのはなんだか心配で、結局狭いシンクの前に二人で並ぶことになった。
 「手際いいな、やっぱり」
 湊が洗い終わった皿を布巾で受け取りながら聡祐が呟く。
 「小さい時からおれしかいなかったからね、こういう手伝いするの」
 湊には妹がいるが、兄がこういうことを一手に引き受けるような家庭では、妹というものはあまり戦力にならないものだ。湊は甘やかしてきたし、妹も疑うことなく甘えてきた。今頃は面倒くさがりながら自分のことくらいはやっているのだろう。
 「なんかいい嫁さんタイプだな」
 「よ、嫁?」
 「あ、いや、流行のイクメンとかになりそうだな、と」
 「そんなことないって。おれ、掃除とか苦手だし、子供だって大好きってわけじゃないし」
 言いながら最後の皿を聡祐に渡す。聡祐はそれを受け取って拭き終わると皿を棚にしまった。その間に湊は布巾を洗い始める。その時だった。後ろに気配を感じたかと思うと、伸びてきた腕に手を取られていた。本気で一瞬、心臓が止まったか思うほど驚いた。
 「野島の手ってきれいだな。指長いし、モデルとか出来そうだな」
 「え、え、あの、井波くん……?」
 耳元できれいだなんて囁かれ、湊の思考回路は一瞬でショートする。蛇口から流れる冷たい水の中、酔った聡祐の手は熱くて、余計にその肌を感じる。
 「今度写真撮っていいか? 素材写真に使えるかも」
 「いいけど、その……」
 耳元で好きな人に話されてドキドキしないはずがない。湊も鼓動が聡祐に伝わらないようにするので必死だ。急に固まった湊を不思議に思ったのだろう、聡祐はぱっと手を離し、ごめん、と謝った。
 「いや、いいけど……」
 湊はなんとなく寂しさを感じながらもほっとして水を止めた。
 「じゃあ、おれ帰る」
 「そっか。あのさ、野島」
 上着を持って玄関へ向かった湊に聡祐が声を掛ける。
 「次から一緒に食事しないか? お互いに連絡取って、都合のいい日だけでも」
 「一緒に? おれは嬉しいけど、井波くんはいいの?」
 「よくないなら誘わない。俺も課題とかあるからどうなるかわかんないけど、なるべく一緒にしたいんだ。その方が野島も楽だろ?」
 「まあ、確かに」
 わざわざ聡祐の帰宅に合わせて温めたり盛り付けたりする必要もなくなるし、今日のように片付けも分担できる。なにより、一人で食べるより聡祐と一緒の方が楽しい。緊張して味はわからなくなるけれど、そんなものは問題の内に入らない。
 「じゃあまた明日連絡するよ」
 「うん。明日もし都合よければ今度はウチに来てよ」
 湊が言うと、聡祐は笑顔で頷いた。それを見てから湊はドアを開ける。
 「野島」
 呼ばれて振り返ると聡祐の手が頬に伸びた。ぎゅっと目を閉じるとその指がそっと耳元の髪を梳いていく。
 「糸くずついてた。おやすみ」
 目を開けた湊に聡祐は笑顔を向ける。優しいその顔を見ていたら、湊の心臓はいつもよりも忙しく仕事を始めた。聡祐と目も合わせられないまま、湊が小さく口を開く。
 「ありがと……おやすみ」
 心臓の鼓動が耳の奥で響いているのを感じながら湊は部屋へと戻った。
 「どうしよう、おれ……」
 ドキドキする。嬉しくて、楽しくて明日が待ち遠しい。こんなに浮かれていいだろうか、何か落とし穴が待っているのでは……そんな風に思いながらも気持ちが逸るのは止められない。もう聡祐に向かって走る恋心は止められないところまで来ているのだろう。辛い思いをするかもしれない。それでも今は聡祐を想うことをやめることはできなかった。


 湊がメッセージを送信してスマホの画面を閉じたタイミングで、神崎がトレーにコーヒーを二つ載せて戻ってきた。
 「お待たせ。こんなにゆっくり出来るんならちゃんとしたカフェに行けばよかったのに」
 大学構内にあるカフェテリアは十分立派なものだが、神崎にとっては少し不満なようだ。今日は学校の中で『偶然』神崎と会い、カフェでも行かないかと誘われた。一年しか取らない必修講義が終わって、その教室を出た瞬間に声を掛けられたので、きっと意図的に待っていたのだろう。それが分かってしまったら、なんだか断わることも出来なくて湊は、『学内なら』とここまで付いてきた。
 「でも、この後神崎さん、サークルの予定あるんですよね? だったらここの方が都合いいじゃないですか」
 「でも四講目休講になったことをもっと早く知ってたらどこかに連れてったのに」
 湊の隣に座った神崎がコーヒーをすすりながら子供みたいに唇を尖らせる。
 「そんな気遣わなくてもいいですよ。それに、おれも休講知ったの、昼の後だったし」
 水野と昼食を摂った後、教授からメールが来てそこで知ったのだ。だったら三講目終わったら帰ろうかな、と思っていたところに神崎と会って今に至る。
 「謙虚だな、湊くんは」
 神崎は柔らかい笑顔で湊を見やる。その視線に湊は手元に視線を移した。確かに神崎と会った時は、この人なら聡祐を忘れさせてくれるかもと思った。けれど、聡祐との距離が縮まるにつれ、聡祐への気持ちは諦めきれないものへと変化してしまった。そうなってしまっては、こういう優しさも申し訳ない気分になってしまって、上手く受け止められない。
 「今度、休みの日にでもどこか行こうか、湊くん」
 「どこかって……」
 「どこでもいいよ。僕の部屋にもいつかおいで」
 ふふ、と笑いながら神崎が言う。湊は、部屋って、と怪訝な顔を向ける。そういえば初めて会った時もそんなことを言っていた気がする。
 「身の危険を感じるので行きません」
 湊が神崎から距離を取るように身を引くと、神崎が可笑しそうに笑った。
 「まあ、そうしたい願望はあるけど、でもそれだけが目的じゃないよ。湊くんとゆっくり過ごせるのはやっぱりどっちかの部屋でしょ」
 「確かにそうですが……」
 二人だけの空間が一番ゆっくり過ごせるというのは、多分親しい間柄の者同士なのではないかと思いながらも湊は曖昧に頷く。神崎はきっと自分とそういう関係になりたいのだろうということはわかっていたから否定も出来ない。けれど、湊は神崎と二人になりたいとは思わなかった。
 あれから聡祐とは毎日互いに時間を合わせ、一緒に夕飯を食べている。あの時は緊張で味なんかわからなかったけれど、段々と落ち着いて過ごせるようになった。そして、日を重ねる毎にその時間が何より大切なものになっていった。
 ゆっくりと話す今日の出来事も、湊が作った夕飯を美味しそうに頬張りながら湊の話に相槌を打ってくれる様子も、全部が幸せだ。
 聡祐が自分と夕飯を食べたいと思ってくれているうちは、自分からそれを手放す気はなかった。
 「ホントは湊くんの家にも行ってみたいけどね」
 湊くんは自分の部屋に招いてくれなさそうだし、と神崎がじっと湊の横顔を見つめる。期待しているその目から湊は視線を外して一度唇を噛み締めてから、あの、と湊が再び神崎を見やった。
 「神崎さん、おれ……神崎さんとは付き合えないと思うんです。冗談とかからかってるとかなら、もう……」
 視線に耐え切れなくなった湊は告白するように呟いた。そっと神崎の顔を見るが、その顔はいつもと同じように微笑んでいた。
 「冗談でも、からかってるわけでもないんだけど……まあ、ちょっと軽いのは否定しない。湊くんに警戒されたくなくて」
 「いや、充分警戒してますが……」
 初対面でいきなり『好み』だなんて言われ、周りからも『手が早いから』なんて聞かされたら誰だって警戒する。
 湊の言葉に、そうだよね、と神崎が笑った。
 「今はそう思ってても仕方ないと思うよ。まだ会ったばかりだし、湊くんは男と恋愛経験なんてないでしょ。怖がるのもわかる」
 「怖いとかじゃなくて……」
 湊が否定しようと口を開いたその時、テーブルに置いていたスマホが震えて着信を告げた。神崎の顔を窺うとその顔が頷いたので、湊はスマホを開いた。メッセージの送信元は聡祐だ。
 『今学校出た。買い物寄るとこあるから六時くらいに着くよ』
 いつものこれから帰るよというメッセージだ。一緒に夕飯を摂ろうと約束してからお互いにメッセージを送りあうのが習慣になっていた。何時になるというメッセージを送りあえば、互いにそれにあわせるように都合をつけることが出来る。おとといなんか、課題を終わらせたいからとなかなか帰らない聡祐を待って、結局食べ始めたのが十時を過ぎていていた。
 そこまで遅くなるのなら聡祐も外で食べて来ればいいのだし、湊だって待つ必要はない。それでも二人で食べたかったことに二人で笑った。
 湊は聡祐に、『おれももうすぐ帰る。何食べたいか考えといて』と返信してからスマホを閉じた。湊の頭の中はすっかり今日のメニューになる。目の前に神崎がいるのにこんな風になってしまうのだから、神崎を好きになるなんて初めから無理なのかもしれない。
 「神崎さん、おれもう帰ります」
 湊がスマホを持ったまま傍に置いていたカバンを肩に掛ける。
 突然の言葉に神崎は驚いたようで、少し眉根を寄せた。確かにまだ神崎と会ってから三十分も経っていない。理由も言わず突然帰ると言われたらいい気もしないだろう。
 「誰かからの呼び出しメッセージだった?」
 「呼び出しってわけじゃないですけど、この後約束があるので」
 すみません、と湊が席を立つと、神崎がその手からスマホを取り上げた。突然のことに抵抗も出来ずあっさりと神崎の手に収まってしまった。
 「ちょっ、神崎さん!」
 取り返そうと手を伸ばすが神崎に腕を抑えられ、湊の手は空を掴む。その間に神崎は湊のスマホの画面を覗く。聡祐とのメッセージ画面を開いたままだったので、神崎はすぐにその画面を見れたのだろう。神崎の眼鏡の奥がすっと鋭く尖った。
 「……井波聡祐って、誰?」
 「友達です。返してください」
 鋭く睨みながら湊は言うが、神崎はものともせず過去の文面も見たようだった。
 「ただの友達が、今日は何買って帰ればいい? とか、六時くらいに着くよ、なんて言うのか?」
 明らかに不機嫌な神崎に、湊は少し怯んだが、勝手に他人のスマホを見たのは神崎の方だ。ゆっくりと息をしてから湊は口を開いた。
 「だから約束があるって言いましたよね」
 「どういう関係? 彼と」
 「どうって……勝手にスマホ見るような人には教えません」
 湊がはっきりと言うと神崎の手が緩んだ。湊はそこから腕を引き剥がすとスマホを奪って歩き出した。
 「教えてくれなくても、僕は調べるし、諦めるつもりはないから」
 湊くん、と神崎の声が背中に聞こえたが湊はそれに応じることなくカフェテリアを後にした。


 「井波くん、ついでにおれにもおかわり!」
 空になった茶碗を勢いよく聡祐に差し出した湊は、炊飯器から白飯をよそっていた聡祐に驚いた顔をされた。
 「いいけど……今日はよく食べるな、野島」
 聡祐が大盛りにした自分の茶碗をテーブルに置いて、代わりに湊の茶碗を受け取る。食卓には聡祐のリクエストで作ったトンカツを中心にした食事が並べられていて、聡祐は白飯が進むらしく、いつも通りおかわりをしていたが、元々小食の湊はいつもご飯は一杯で済んでいる。だから珍しいようだ。
 「珍しいっていうか、多分こんなに食べるの初めて」
 「無理するなよ」
 これで終わりな、と聡祐に言われ、湊は頷きながら聡祐から茶碗を受け取った。
 「帰ってきてからなんかイライラしてたけど、なんかあった?」
 優しく問われ、湊は箸を置いて少しだけ俯いた。聡祐には関係ないことなのにイライラをぶつけてしまっていたのだろうか――そう思うと申し訳ない気分になる。
 「何もない。ちょっとだけ嫌なことがあって……ごめんね、井波くん関係ないのに。おれなんかのこと気にさせて、ごめん」
 「関係ないってことはないだろ。こうやって一緒に飯食う仲なんだし、部屋だって隣なんだし」
 「けど、それだけを理由に巻き込んでいいなんてことはないし」
 湊が言うと、聡祐は少し怒った表情を見せて、巻き込めよ、と返した。
 「同じ高校出て、同じアパートに住んで、同じ釜の飯食って……そういう関係なのに、関係ないって言われる方が寂しい」
 最後は少し悲しそうな顔をした聡祐を見て、湊の胸は少し痛んだ。
 聡祐はちゃんと自分の事を友達だと思ってくれている。少なくとも春よりはきっと聡祐の中で自分の存在は大きくなってくれているのだろう。
 「……そっか。ごめん、井波くん」
 関係ないという言葉は、気を使って言っているつもりでも時に人を傷つける一言になる。自分だって聡祐に関係ないと言われたら、やっぱり悲しいかもしれない。
 「いや、いいって。それ自体を解決してやれないけど愚痴とか聞くし、ストレス発散には付き合うよ」
 優しい言葉に湊の胸が熱くなる。優しいのはずっと前から知っていた。明るくていつも笑顔で――そんなことはずっと遠くから見ているだけでわかっていた。それでもこうして改めてその優しさとか笑顔とかが自分に向けられると、やっぱり好きだと再認識してしまう。これが惚れ直すという感情なのだろう。
 湊が、ありがとう、と小さく呟いた時だった。床に放り投げていたスマホが音を立てる。慌てて引き寄せると、神崎からのメッセージだった。
 「そういえばさっきも鳴ってたな、トンカツ揚げてる時」
 聡祐が食事の続きをしながら言う。確かに神崎からのメッセージと着信が残っていた。『もう家に居る?』
 『誰と会ってる?』
 『何してる?』
 そんなメッセージが五分おきに入っていた。背中がすうっと冷えていくような感覚に湊は思わず唇を噛む。
 きっとあんな別れ方をしたせいだろう。監視されているようで怖かった。
 「どうした? 野島」
 「いや、なんでもない……」
 湊が言ったその直後、再びスマホが鳴る。今度は、井波って奴と居るの? というメッセージだ。湊は震えそうになる手を抑えて平静を装おうと、しつこいなあ、と笑った。
 「大学の先輩で、飲み会来いってさ。まだ酒飲めないのにね」
 「飲めなくても参加はできるだろ。いいのか? 行かなくて」
 「いいんだよ、おれは井波くんとご飯食べてるから」
 今日のトンカツ美味しく出来たし、と笑いながら箸で一切れ摘む。けれどその時またメッセージが入ってきて、湊は唇を尖らせてそれを開いた。返事をくれという内容の神崎からのメッセージだったので、湊はそのまま『恋人でもないのに答える義務はないと思います』と返信した。
 生意気なことを言った自覚もあって反応が怖かったし、更に追究されてまたうるさくメッセージや電話が来そうなので、湊は電源を切ろうとしたその時だった。右手が持っていかれるような感覚に湊は顔を上げた。するとずっと箸で摘んでいたトンカツを、聡祐がぱくりと食べてしまっていた。
 「ちょっ……井波くん?」
 「行儀悪いぞ、箸で挟んだままスマホいじるの」
 「他人の箸からトンカツくすねるのは行儀いいの?」
 しかも箸の先は当然聡祐の口の中に入っていた。間接キスなんて中学生みたいなことも考えてしまう。聡祐は気持ち悪くないのだろうか。今は友達に昇格してくれているが、陰から三年見ているだけで告白なんかしてきた、少し間違えばストーカーのようなやつだ。気持ち悪いと言われても仕方ないという自覚はある。
 「野島は他人じゃないよ」
 「ヘリクツ」
 湊が軽く聡祐を睨むと、聡祐はにっと笑った。つられて湊も笑顔になる。
 「とりあえず飯くらい楽しく食べよう」
 聡祐に言われ、湊は頷いて電源の落ちたスマホを放り投げた。

 食卓に並んだ皿はとうに空になり、湊はいつもよりもたくさん食べたせいもあってすっかりウトウトしてしまっていた。聡祐と色々話して、大分聡祐といても緊張しなくなったせいもあるだろう。
 「野島、寝るならベッド行けよ」
 「寝てない……」
 「床に転がって目閉じてる奴はどう見ても寝てるだろ」
 聡祐に言われ、湊はゆっくりと目を開ける。いつの間にか横になっていたようだ。それさえも気づかないほど聡祐に心を許しているらしい。しかし、それに気づいたからといって体を起こそうとしても起きられなかった。とにかく体が重い。
 「眠いんだろ? 手伝うからベッド入れよ」
 「でも……片付け……」
 「そんなの俺がやるから、ほら」
 力強く腕を引かれ上体を起こされる。自分で起きなきゃと思うのに、体は全く動いてくれなかった。
 「腹いっぱいで眠くなるとか、子どもみたいだな」
 仕方ない奴、と聡祐が耳元で小さく笑う。そのまま背中と足に腕を廻されたかと思うと、一気に抱き上げられた。
 「い、な、……」
 「暴れるなよ、落っことすぞ」
 その言葉に湊はもがいていた腕を大人しく引っ込めた。二、三歩の距離だが、聡祐に抱き上げられベッドへ運ばれてしまったと思うと、ドキドキと速い鼓動が生まれる。
 「ほら、ちゃんと布団掛けて」
 ベッドへと下ろされ、布団を掛けられる。その優しさに一瞬遠のいた睡魔が再び戻ってくる。
 「寝てろ。片付けたら、鍵ドアポスト入れて帰るから」
 「ん……ごめん」
 「いいよ」
 聡祐の笑顔を見てから湊はすぐに目を閉じた。そっと髪を撫でる手が温かい。聡祐が片付ける音を心地よく聞きながらウトウトしていた。せめて、聡祐が帰るまでは眠らずにいたいと湊は懸命に睡魔と戦う。
 しばらくして、野島、と呼ばれた気がしたが湊は半分意識を睡魔に明け渡していたので反応は出来なかった。
 「帰るな」
 それでもそんな湊に聡祐は言いながら、頬を撫でた。それを心地よく感じた次の瞬間、その温もりは唇にあった。温かくて柔らかくて心地いい、手ではない何か――キスだったらいいな、なんて自分勝手なことを思いながら湊は眠りに落ちた。

 翌日は少し胃がもたれていて気持ち悪かったことと、休講が重なったこともあり、湊は学校を休むことにした。水野にはメッセージでそれを伝え、『ノートは後で写真撮って送ってやる』というありがたい言葉を貰って、湊は普段はしない二度寝をした。
 夕方改めて見たスマホには、着信が十件。メッセージが二十三件。どちらもほとんどが神崎で、メッセージ二件が別の友人と聡祐からだった。
 湊はすぐに聡祐からのメッセージを開くと『大丈夫か? 無理すんなよ。ところで今日なんだけど夕飯一緒できない。ごめんな』と書かれていた。残念だなと心は落胆したが、今の体調で夕飯を作るのは少しきつい。もしかしたらこのメッセージも聡祐が自分の体調を気遣ってくれたものだろうか、と勝手にいい方向へ変換してしまう。
 「そんなわけないか……」
 湊は再びベッドへ転がった。きっと学校の友達と予定でも入ったのだろう。湊はスマホを手にし『了解。じゃあまた明日』と返信した。それから開いていないメッセージの束を見てため息を零した。内容はきっと昨日の続きだろう。
 とりあえず見てみようかとスマホを操作したところだった。突然スマホが震えだした。湊はその着信の相手に少しだけうんざりしながらそれでも今なんかしらの連絡をしようと思っていたところだったので、仕方なく通話ボタンに触れた。
 「はい」
 『湊くん? よかった、繋がって。心配した』
 神崎の声はいつもの明るいものとは違い、本当に安心したような優しいものだった。
 「昨日は電源切ってたので」
 『そっか……もしかしなくても僕のせいだよね? ごめん、やりすぎたって反省してるよ』
 「ああいうのは、ちよっと困ります」
 『湊くんの言うとおりだよ。恋人でもない僕が詮索なんてするべきじゃないよね』
 「わかってくれたなら、もういいです。おれもちゃんと答えなかった部分もあるし」
 湊はベッドから起き上がり冷蔵庫を開けた。中にはミネラルウォーターが一本入っているだけだった。そういえば昨日、食材は使い切ったんだったと思い出す。湊はミネラルウォーターを取り出すと冷蔵庫を閉めた。おなかがか細い音を立てる。昨日眠くなるまで満腹にしたというのに、一日も経たずに腹は減るものなんだな、と自分の燃費の悪さに一人で小さく笑う。
 『湊くん、もしよければお詫びに夕飯ご馳走させてくれないかな?』
 見透かされたような言葉に湊は自分のおなかを押さえた。聞こえたわけではないだろうが、恥ずかしい。
 「いや、でも、今日は……」
 家から出たい気分ではない。まして神崎となんて憂鬱になるだけだ。
 『もちろん、もう湊くんの嫌がるような事はしない。関係修復させてもらえないか。頼むよ』
 土下座でもしてそうなその声に、湊は唇を噛んで黙り込んだ。今日は聡祐との約束もない。神崎のことは確かにいきすぎだと思っているが、自分がちゃんと答えていればよかった部分があるのも事実だ。それに自分が聡祐に対してしたことを鑑みれば、まだ堂々としている気さえする。少し悩んでから湊は、わかりました、と答えた。
 『よかった。じゃあまた後で』
 神崎との電話を切った後で湊は、本当に会っていいのだろうかと、途端に不安になった。空腹で判断が鈍っていたのではないだろうか――しかし、承諾してしまったので今更という話だ。
 「まあ、食事だけだし……」
 湊はそう呟いて出かける準備を始めた。 

 初めて神崎と学食以外で食事をしたせいか、神崎は帰り道まで上機嫌だった。神崎はアルコールが入っているせいもあるのか、家まで送るというのを何度も断ったのに「で、何線で帰るの?」といつもよりしつこく聞いてきた。悪気がないのはわかっているので湊は仕方なく神崎と共に家路を歩いていた。
 家を教えてしまうのはやっぱり拙い気がしたのでこの辺りで別れようと思った、その時だった。
 「湊くん、僕、君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
 神崎がゆっくりと歩く速度を落とし、ぽつりと話し始めた。
 「昨日のことならもういいですよ、別に怒ってないですし」
 勝手に他人のスマホを奪って見るなんて、いい事ではないが、それだけでいつまでも許せないと怒るほどのものではない。
 「それもそうだけど……僕、湊くんのこと賭けの対象にしてたんだ――サークルの奴らと」
 神崎の言葉に湊が首を傾げる。神崎はそんな湊をちらりと見てからまた話し始めた。
 「僕が夏休みまでに湊くんを落して体の関係までたどり着いたら、仲間から一万ずつ貰える事になってた」
 「………え?」
 神崎の言葉に湊は思わず足を止めた。へえそうですか、と聞き流せるような話ではない。自分の『初めて』をゲームにされていたなんて、女の子じゃなくてもやっぱりショックだ。
 これで本当に神崎を好きになって、そこまで辿り着いていたらと思うとぞっとする。
 「ごめん! 最低だって罵られても仕方ないと思う。でも今はもう、その賭けはやめたんだ――湊くんを好きになったから」
 「……どういうことですか?」
 わけがわからなくて、湊は怪訝な顔で神崎を見上げる。その顔からはいつもの柔和な笑顔が消えていた。見たこともない、真剣で真っ直ぐな目が湊を映している。
 「この間まではゲーム感覚で君を落そうと思っていた。けど、湊くんのスマホに他の男の番号があって、それが随分親しそうで、もしかしたらその男といい関係になってるのかもしれない……そう思ったら急に腹の底が熱くなって――嫉妬したんだ」
 神崎は湊に近づき、その手を取った。神崎の指先は、お酒を飲んでいるにも関わらず冷たくなっていた。緊張しているのかもしれない。きっと今向けられている言葉は神崎の本当の気持ちなのだろう。
 「あんなみっともないことして、ごめん。でも、気づいたら止められなかった。君を他の男に取られると思ったら怖かったんだ」
 神崎が湊の手を引く。傾いだ体を抱きしめられ、湊は身じろぐ。けれど更に強い力で抱きしめられて湊は神崎の腕の中で、神崎さん、と離してくれるように訴えた。
 やっぱり聡祐に抱き上げられた時とは、まるで違う。あの時はドキドキしながらも、いつまでもこうされていたいなんて思った。けれど今は一刻も早く離れたいと思ってしまっている。
 「好きなんだ、湊くん……好きだ」
 耳元で響く情熱的な言葉は、憧れていたものではあるが、神崎からのものだと思うと素直に嬉しいとは思えない。湊の心はやはり聡祐に向かっているのだと改めて感じる。
 「神崎さん、あの……」
 離してください、と神崎の胸をそっと押すと、ゆっくりと神崎の腕が解けた。
 「ごめんね、こんなところで。……帰ろうか」
 神崎がいつもの笑顔で言う。湊はそれに頷いて歩き出した――その時だった。顔を上げた湊の視界に入ったのは、こちらを見ている人影だった。やっぱりここは公道だ。男同士で抱き合っているなんて、誰かが好奇の目で見ていてもおかしくなかったのだ。どうしよう、と俯く湊に、野島? という聞きなれた声が届く。え、と驚いて顔を上げるとそこに居たのは聡祐だった。隣には可愛らしい小柄の女性が立っている。
 「……井波くん……?」
 「今、帰り、か?」
 ぎこちない言葉に、神崎に抱きしめられていた光景を見られていたんだと気づく。そういえば隣の女性の表情もなんだか落ち着かないものだ。
 「あ、そう。大学の先輩と飯食って、て……神崎さん、おれ、ここでいいです」
 ありがとうございました、と頭を下げる湊に神崎は、家まで行くよ、と優しく返す。
 「もうすぐそこですから。おやすみなさい――井波くんも」
 神崎と聡祐両方に頭を下げ、湊は逃げるようにそこを走り去った。今の一瞬で色んな事が起こって湊の容量は既にオーバーしている。とにかく一度一人になって一つ一つ考えたい。
 家にたどり着き玄関に入ると、湊は電池が切れたように土間に座り込んだ。走ったせいだけではない胸の苦しさに、湊がシャツの胸の部分をぎゅっと握りしめた。
 「……女の子、連れてた……」
 いつか直面する光景だとは思っていた。聡祐だって年頃の健全な男だ。あれだけの容姿と性格ならば、彼女が出来ても不思議ではない。可愛い子だった。よくは見えなかったけれど、黒髪の、細身のパンツが似合うスタイルのいい子だった。高校の頃はたまたま見なかっただで、付き合っていた子もいたかもしれない。いつか自分がそれを知ることもあるだろうということはわかっていた。ただ、その覚悟ができていなかっただけだ。
 浮かれていた昨日までが、今はこんなにも遠く、滑稽に感じる。じわりと目元が熱くなって、湊は堪えるように膝を抱えた。
 その時、隣のドアの鍵が開く音が聞こえた。聡祐と……もしかしたら彼女も一緒に帰宅したのかもしれない。薄い壁越しに色々聞こえてしまうかもしれない。
 「やだ……そんなの嫌だ……」
  自分なんかが聡祐の隣に立てるなんて思っていない。でも誰かが聡祐に愛されている、それを知るのは耐えられなくて、湊は這うように部屋を渡り、ベッドへと滑り込んだ。頭から布団を被り音を遮断する。
 やっぱり諦められない。三年積み重なった想いは、すぐに捨てることなんかできなかった。分かっていても理解できないことはある。
 震える体を自分で抱きしめるように小さく丸くなって、湊は目を閉じた。なのに、その隙間から次々に涙が溢れて来て、嗚咽が漏れないようにぐっと唇を噛む。湊はそのまま一睡もすることが出来なかった。


 ぐっすりとよく眠った日も、泣いても泣いても涙が止まらず泣き疲れてそれでも眠れなかった日も朝日は必ず平等に昇るものだ。
 いつものアラームが鳴って湊はずるずるとベッドから這い出た。そこに誰か居たら確実に死体が転がり落ちたと思っただろう。幸い、ここには湊しかいなかったので誰も驚かすことはなかったのだが、それでも湊の気持ちは深く沈んでいた。
 「ガッコ、行かなきゃ……」
 さすがに二日も休むわけにいかない。湊は重たい体を引きずるように風呂場へと入る。鏡に映った顔は自分じゃないようだった。
 「すげー顔」
 まぶたは腫れて、クマもすごくて、こころなしかげっそりとしている。この顔で外に出たくはないが、一講目に必修が入っているのでそれだけでも出なくてはいけない。そう思いながらシャワーを出す。目を閉じるとまだ昨日のことが鮮明に思い出された。
 神崎の告白――自分が賭けの対象にされていたこと、そして神崎が自分を好きだということ。その神崎との場面を聡祐に見られてしまったこと。それから――聡祐と一緒にいた、女の子のこと。
 今もこの壁の向こうに二人が居るのかもしれない……そう思うとまた、シャワーに紛れるように涙が零れてくる。自分はこのまま泣きすぎて脱水で死ぬんじゃないかと思い、それならそれでもいいや、と自嘲して笑う。聡祐には一度ふられているのだし、付き合える確率なんてゼロだったのだから、こんなこと当然だというのに、苦しさとか切なさとか悲しさとか、そんなものを吐き出そうとするように、しばらく涙は止まらなかった。
 「もう会えないな、井波くんには……」
 会うどころか声だって聞けないだろう。当然夕飯を一緒に食べることも、もうない。二人で食べると何でも美味しかった。楽しくて幸せで暖かくて、あの時間がなによりも大事だった。だけど、それはもう幻だ。
 心に開いた穴を埋めきれないまま、それでもこの現実を受け止めようと決めて湊は風呂場を出た。


 「……これ、どう見ても部屋の鍵……だよな?」
 神様がいるとしたら、多分すごく暇なんだと思う。そして、時々いたずらでもしてやらないと死にそうになるのかもしれない――湊は廊下に落ちていたキーホルダー付きの鍵を拾い上げてそんなことを思った。
 数十分前に会えない、声も聞けない、と思っていたその人の部屋の鍵を見つけてしまった。ここに置いておくわけにもいかず、しかし連絡を取るにも勇気がいる。湊はその鍵を握り締めてしばらく部屋の前で悩んだ。けれどそう時間を使ってもいられない。
 湊はその鍵をポケットに入れ、とりあえず大学へと行くことに決めた。
 講義中ずっとどうしたらいいか考えた結果、湊は大学構内の中庭で『部屋の鍵拾ったから帰ったらウチ寄って』とメッセージを送った。鍵を渡すくらいなら一瞬で済む。それがダメなら暗証番号で開く貸しロッカーみたいなところに預けておけば顔を合わせることもないのではないか――そんな回りくどいことも考えていた。
 けれど聡祐はいつもの調子で『悪い、ありがと』と返信してきた。きっとこれが最後だ――そう思って湊はスマホを閉じた。
 これからどうしよう、ずっと聡祐の隣に住んで、聡祐の幸せを横で見ていられるのかな――そんなふうにぼんやりと考えていると、手の中のスマホが音を立てた。相手は神崎だった。あまり出たくないが、昨日のこともあるから出なければ何度も掛かってくるだろう。湊はそっとスマホの画面に触れた。
 「……もしもし」
 『湊くん、昨日は悪かったね、あんな場所で』
 「いえ、済んだことですから……」
 ベンチにぼんやりと座ったまま目の前を過ぎていく学生たちの姿を眺める。中には手を繋いで校舎へと歩いていくカップルもいて、それが聡祐と彼女の姿と重なってしまい、眩暈を覚える。一人きりでこんな光景、耐えられるはずがない。
 『湊くん、少しは考えてくれた? 僕とのこと』
 「まだ、そこまでは……」
 神崎の告白は、衝撃ではあった。けれどそれよりも女の子といた聡祐のことばかり考えていた。やっぱり忘れるべきなのかもしれない、諦めるべきなのかもしれない。でも好きな気持ちはすぐに無くすことは出来ない。そればかりをただ繰り返し考えて朝を迎えたのだ、神崎のことは少しも考えていなかった。
 『そうだよね。でも、話くらいできないかな? 夕飯、一緒に食べられない?』
 「夕飯、ですか……」
  もう聡祐との約束は無くなったと思っていいのだろう。彼女がいるなら、そちらを優先するに決まっているし、いくら相手にもならないような自分でも、彼氏の周りをうろついていたら目障りに違いない。
 「はい。分かりました」
 湊が答えると、良かった、と電話の向こうで安心した声が聞こえた。

 夕方、インターホンが鳴って、湊は心なしか緊張して玄関まで出た。そっとドアを開けると、予想通りそこには聡祐が立っていた。そして、その隣には昨日見た彼女もいた。こちらは予想外だ。あれがずっと一緒にいるのかと思うと、ずきずきと心臓が痛む。
 「鍵拾ってくれてありがとう、野島」
 「いや、偶然見つけただけだから……これ、鍵」
 ドアを完全に開けず、その隙間から湊が鍵を差し出す。その様子に聡祐が訝しげな顔をして口を開いた。
 「野島……? どうかしたか?」
 いつもならきっと、おかえり、と笑顔で出迎えていただろうし、上がってく? なんて聞いていたかもしれない。けれど今日はそんなことは出来ない。
 こちらの気持ちなんか知らない聡祐には不思議に思えただろうが、無理なものは無理だ。
 「ど、どうって……お、おれ、これから出掛けるから、じゃあ」
 ドアを閉めようとすると、聡祐がそれを掴んだ。その姿に驚いて湊が顔をあげる。
 聡祐の表情はいつもよりも真剣だった。
 「どこ、行くの? よかったら一緒に食事しようかと思ったんだけど」
 聡祐はちらりと後ろにいた彼女を振り返った。三人で食事をしようということなのだろう。もしかしたらその場で彼女と付き合っていることを自分に話すつもりなのかもしれない。『友達』なら彼女の自慢もしたいだろう。聡祐の後ろに居る女の子は湊もキレイだと思う。
 ただ、それは今の湊にとって耐えられないことだ。
 「それは……無理、だよ……」
 湊が告白してからまだ二ヶ月、もうとっくに気持ちが冷めただなんて思っているのか、それとも自分がまた聡祐のことを好きにならないように牽制したいのだろうか。だとしたらどっちも湊にとっては辛いことでしかない。
 泣き出しそうになった湊は部屋に戻ろうとしたが、ドアをしっかり押さえられてしまって閉めることが出来ない。湊は諦めて部屋の中から荷物を取り上げると、そのまま靴を引っかけた。ドアを閉めさせてもらえないのなら、自分が出ていくしかない。
 「ごめん、もう出掛けるから」
 俯いたまま湊が言うと、聡祐が驚いた顔をしてドアから手を離した。
 「どこに?」
 「どこでもいいだろ。井波くんに関係ない」
 「関係なくないって、前にも言っただろ。どこに行くかくらい言えよ」
 若干イラついた声が湊に掛かる。しかし、こっちだって聡祐の無神経な行動に怒っているのだ。いくらこっちはふられているからとはいえ、彼女を連れてくるなんて、湊にそれを笑顔で受け入れる余裕なんかないのだ。湊は答えることなく歩き出した。その腕を聡祐が掴む。
 「どこ、行くんだ?」
 真剣な目が湊を見つめる。湊はその目から顔を背け呟くように、どこでもいいだろ、と答えた。
 「もしかして……昨日の、人と?」
 湊が彼女を認識したということは、聡祐が神崎を認識していてもおかしくない。湊は、そうだよ、と頷いた。
 「仲いい、のか?」
 「……うん、そうだね。だから、食事は行けない……せっかくなんだから二人で行けばいいよ」
 じゃあ、と湊は聡祐の腕を振り解いて階段を駆け下りて行った。


 「湊くんが飲んでるのって、ウーロン茶だよね……」
 「そうですが!」
 「酔ってるわけではないんだね」
 「酔ってないです。ただ、出掛けにものすごく腹が立つことがあったので」
 まだ酒が飲める歳ではない湊はやけ酒ならぬ、やけ茶をするようにグラスの中を一気に飲み干す。それでも心の中のもやもやは晴れなかった。
 「何? 話してみてよ」
 お酒が飲めない湊のために神崎が誘ってくれたのは、ダイニングバーだった。お酒も飲めるが、食事の種類も豊富なので、夕飯として来ることもある、とテーブルを挟んだ向こうに座る神崎が話してくれていた。
 ちゃんと自分の事を考えてくれている、その優しさにはきゅんとする。そして、こうして穏やかな笑顔を向けてくれることに対しても、湊は素敵な人だなと思っていた。
 「でも、大した話ではない、ので……」
 「もしかして、昨日会った、あの男絡み?」
 図星をつかれ、湊は咄嗟に、違います、と首を振るが、神崎には何か伝わってしまったようだ。
 「あいつさー、女連れてるのにこっちのこと見て、しかも声掛けるとかないよね。そこはお互い様でスルーがデフォだと思うんだけど」
 ありえないな、とため息を吐く神崎に、湊は咄嗟に、そうじゃないと思います、と口を開いた。
 「井波くんは、多分無視できなかったっていうか……すごく社交的で優しい人だから、目が合ってしまったなら声を掛けるべきかなって思ったんだと、思います……」
 それに道のど真ん中で自分の隣人が同性に抱きしめられていたら驚きで声も出てしまうだろう。嫌な顔をしなかったところに聡祐の性格の良さが出ていると思えた。
 湊が言葉を返すと神崎は、かばうんだ、と小さく呟いてから、こちらに笑顔を向けた。
 「彼が例の井波くんなんだ。ホントに友達ってだけ?」
 もしかしたらわざと聡祐に反感を持つようなことを言ったのかもしれない。そう気づいたのは、神崎に問われてからだった。けれどもう遅い。湊は仕方なく、友達です、と口を開いた。
 「同じ高校を出ててるから前から知ってるだけで……」
 「そうなんだ。じゃあこれからもずっと友達ってこと?」
 「そう、なります」
 湊にとって聡祐は今でも好きな人だけれど、聡祐にとっては友達なのだろう。だから、彼女だって紹介するし、一緒に食事にも誘う。
 だからきっともう、湊も聡祐とは『友達』にならなくてはいけないのだ。
 「ふうん……じゃあ、僕らのこと、どう思っただろうね。別の友達に言いふらしたりするかな」
 「え……あ、井波くんは何でも言いふらしたりするような人じゃないですよ。真面目で、約束はちゃんと守る人なので」
 困っている人にはちゃんと手を差し伸べられて、ひとの話も聞いてくれる人――こんなに完璧な人は他にいないと湊は思っている。
 「そっか。だから湊くんは彼が好きなんだね」
 「……へ?」
 「好きなんでしょ? 彼のこと」
 「す、好きって、そんな……」
 慌てて首を振るけれど神崎は穏やかな顔でこちらをじっと見つめたままで何も言葉を返さない。湊はその圧に耐え切れず、はい、と小さく頷いた。
 「やっぱりねえ。友達に性癖バレたってレベルじゃない慌て方してたから、もしかしたらって思ったんだけど……好きな人にあんなとこ見られて、その上彼女がいることも分かってしまったってわけか。それは荒れるね、ウーロン茶でよければ、いくらでも飲みな」
 頼んであげるよ、と神崎がテーブルの上の注文用タブレットを操作する。
 「神崎さん……ありがとうございます」
 「うん。湊くんの中の好感度上げたいからね。早く好きになってもらいたいし」
 だから気にしないで、と笑う神崎が素直すぎて、湊はひとつも憎めなかった。湊は笑顔の神崎をまっすぐに見つめた。
 「神崎さんを好きになったら……幸せになれます、か?」
 「うん。なれるよ。めっちゃ甘やかすし、めっちゃ大事にする」
 ほんとだよ、と神崎がこちらに手を伸ばす。その指が頬に触れ、湊は反射的に目を閉じた。
 「だから早く僕を好きになっちゃいなよ」
 再び目を開けると、優しい神崎の顔が見えた。
 この人を好きになった方がきっと毎日楽に息ができる。それは分かっているのに、湊の心の中には、まだ聡祐の笑顔がこびりついていて、離れなかった。

 
 まずは毎日メッセージを送りあおうよ、と神崎に言われた湊は、今日の夕飯です、というメッセージに写真を添えて送信ボタンをタップした。
 「野島が自分の飯の写真撮るって珍しいな」
 スマホの画面から視線を上げると、小さなテーブルの向かい側には、スプーンを持ってこちらを見ている聡祐がいた。
 もうきっと一緒にご飯を食べることはないだろうと思っていたのだが、あの翌日も普通に『今日の帰りは七時頃、中華食べたい』というメッセージが送られてきていた。
 彼女がいるのだから、彼女と夕飯を食べればいいのにと思った湊が『おれでいいの?』と聞くと『野島がいい。野島のご飯が食べたい』と言われてしまい、調子に乗って回鍋肉を作ったのが三日前だ。
 今日はオムライスが食卓に並んでいる。これも聡祐のリクエストだ。
 「び、備忘録っていうか、日記代わり、的な?」
 素直に先輩に送っているとは言えなくて、湊は曖昧な言葉でやり過ごす。聡祐はそれに、ふーん、と特に興味もなさそうに答えてから、いただきます、と目の前のオムライスにスプーンを差した。
 「そういえば、前にも飯時にメッセ送ってくる先輩いたけど、あれからどう? 落ち着いた?」
 「あ……うん。向こうも別に悪気があったわけじゃないから。新入生だから構ってあげよう、みたいな」
 気遣いみたいなものだよ、と笑いながら湊も目の前のスプーンを手に取る。すると聡祐が、アレも、とこちらを見やる。
 「路上で抱きしめるとかも、気遣い?」
 聡祐の言葉を聞いて、湊は驚いて手からスプーンを滑らせた。見られていなかったかもしれないということももしかしたらあるかも、なんて思っていたが、やはりその可能性はなかったようだ。動揺して上手く言葉が返せない。
 聡祐はそんな湊に小さく笑ってから、床に派手に金属音を響かせ転がるスプーンを拾った。
 「見られてないとでも思ってた?」
 「だっ……て、井波くん、普通、だから……」
 「いや、これでも結構動揺してた。普通だったのは野島の方だろ。次の日に『鍵拾った』なんて連絡してきて」
 「それは……仕方なく……」
 視線を下へと向けた湊に、分かってる、と言いながら、聡祐が立ち上がる。キッチンで水を流したかと思うとすぐにこちらに戻ってきた。目の前に水滴のついたスプーンが差し出される。きちんと洗ってくれたのだろう。
 「野島は根が優しいから、放っておけなかったんだよな」
 「そんなこと、ないけど……」
 聡祐からそっとスプーンを受け取ると、聡祐は元の場所に戻って座る。それから少し強張った表情で湊を見つめた。
 「あとお人よしで、押しに弱いよな。あの人が、野島のスマホ鳴らす先輩だろ? 仲いいみたいだけど、付き合ってるのか?」
 「つ、付き合ってない!」
 それだけは誤解されたくなくて、湊は思い切り頭を振った。頭を強く振りすぎたせいか、少しくらくらしたまま聡祐を見やると、その表情が緩み、全力否定だな、と笑った。
 「でも、あの様子だと好意は持たれてる感じだな」
 「……まあ、そう、かも……」
 好きだと言われていると聡祐に打ち明けたら、だったら付き合えばいいじゃないか、と軽く言われてしまいそうで怖かった。まだ好きな人に、他人と付き合うことを勧められたくはない。
 「なあ、野島。次の休み、一緒に出掛けないか?」
 「……え?」
 話に脈絡がなくて、湊が思わず聞き返す。聡祐はそんな湊に微笑んで、気分転換だよ、と更に言葉を繋げた。
 「行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれそうなヤツ、野島くらいしか思いつかなくて。少し時間くれない?」
 聡祐にだったら、自分なんかの時間でいいのなら、何十時間だって差し出せる。この時も湊は当然のように頷いた。
 「おれで良ければ、いくらでも」
 「良かった。当日は迎えに行くよ」
 隣だしな、と聡祐が笑う。
 これって実質デートじゃないか、しかも隣とはいえ迎えに来てくれるとか、嬉しすぎて、湊は頷いたまま顔を上げることができなかった。
 今きっと自分の顔はだらしなくにやついているだろう。そんな顔を聡祐には見せたくなかった。
 諦めなければいけない恋。でも、もう少しだけ幸せな思い出を貰えるのならやっぱり受け取りたくて、湊は心の中で聡祐の彼女に、ごめんね、と謝っていた。


 週末はあいにくの曇り空だったが、湊の気持ちは晴天だった。
 昼前に湊の部屋のインターホンを鳴らした聡祐は、いつもと変わらない笑顔で湊を連れ出した。それだけで湊は心臓がどうにかなってしまうのではないかと思うほどにドキドキしていた。聡祐にとってはただ友達と出掛けるだけかもしれないけれど、湊にとってはまたとない『デートごっこ』だ。
 「ここ。野島、俺の部屋にあった写真集見て、キレイって言ってただろ? その写真家の展覧会なんだ」
 聡祐が連れてきたのは美術館だった。その特別展のポスターを指さし、聡祐が微笑む。
 確かに初めて聡祐の部屋に入った時、間がもたなくて写真集を見せてもらった。聡祐のセンスの良さにもドキドキしたが、確かにその写真集はキレイだった。そんなことまで覚えてくれていたことに湊の心は喜びで満ちていく。
 「こういうところなら、学校の友達とかの方が話も合うんじゃない? 多分おれ、ろくな感想言えないよ?」
 写真なんて全く知識がないのだから、このアングルがとか、光の具合がとかそんな話は全くできない。それで聡祐が楽しいとは思えなかった。
 「俺もよく分かんないよ。写真集だって、表紙のデザインがカッコいいなって思って買っただけだし。だから、ちょうどいいんだよ」
 「でも、ほら、この間の女の子、とか……」
 湊でさえ、デートみたいと喜んでいるのだから、彼女となら本物のデートになるだろう。自分で自分に言葉のナイフを刺しているような気がしないでもないが、やっぱり確かめたいとも思ってしまう。
 今この時だけは、自分が一番であって欲しいなんて、浅ましいことも考えていた。
 「うーん……あいつはこういう静かなとこ来ないだろうな。一緒に見て楽しそうだなと思ったのが野島なんだよ」
 「おれと……」
 「うん、野島と来たかった」
 入口でチケットを買った聡祐が笑顔で湊にその一枚を手渡す。湊はそれを見て、慌てて自分が肩から掛けていたカバンに手を掛けた。
 「ごめん、チケット代……」
 「ここはいいよ。俺に付き合ってくれてるんだから」
 それより早く行こう、と手を差し出される。湊はその手を見つめ固まった。
 正直に言えば聡祐に触れたい。けれどここで湊が手を出していいものか分からなかった。
 聡祐は彼女によくこういうことをするから、癖で手を出しただけかもしれない。大体、男同士で手を繋ぐことなんかあるだろうか。湊の数少ない交友関係の中にはそんなことはなかった。
 しばらく動かなかった湊を見て、聡祐は、ごめん、と小さく謝ってから差し出した手を引いた。
 「早く見たいって気持ちが勝っちゃって……子どもじゃないんだから、手なんか引かれたくないよな」
 「あ、いや……」
 「行こう、野島」
 湊が上手く言葉を返せないでいると、すぐに聡祐は前を向き、歩き出した。
 本当は繋ぎたかった。子ども扱いでもいい、聡祐に触れてもらえるならどんな理由でもよかった。ただ、それを素直に口にすることは出来なくて、結局、聡祐を傷つけてしまった。
 少し沈んだ表情の横顔と空いたままの手のひらを見つめ、湊は後悔にぐっと唇を噛み締めた。


 写真展は、静かで落ち着いていてささくれた気持ちを癒してくれるような空間だった。やっぱりたまにはキレイなものを見に行くことをしないと日々心は汚れていくのかもしれない、と思うくらい、清々しい気持ちになった湊は、会場を出るとすぐに、ありがとう、と聡祐に微笑んだ。聡祐がそれに首を傾げる。
 「付き合って貰ったのはこっちだけど」
 「ううん、それでも、すごく良かったから。少し気持ちが軽くなった感じ」
 「分かる。キレイなものとか好きなものを見ると、風呂上りみたいなさっぱりした気持ちになるよな」
 「そう、そんな感じ! 井波くんも同じで嬉しいな」
 なかなかこういう感覚が合う人は少ないと思う。少しでも共通点が見つかって、湊は嬉しかった。聡祐の顔を見上げると、その顔も優しく笑んでいた。
 湊が恋したその表情を不意打ちで見せられ、心臓がどきりと高く鳴る。
 やっぱり好きだ。
 彼女がいて、自分なんかもうこんなふうに隣に立つことはできないのに、それでも気持ちは捨てられない。できることならもう少し、思い出が欲しい。
 湊がそう思った、その時だった。
 ざあ、と屋根を鳴らす水音が聞こえ、湊は美術館のラウンジの窓の外を見やった。窓を水滴が流れ落ちていく。
 「雨、だな」
 隣で同じように窓の外を見ていた聡祐が呟く。
 「おれ、傘持ってないな」
 「俺も」
 美術館から近くの駅までは十分ほど歩く距離がある。この雨の激しさだと歩いているうちにずぶ濡れになるだろう。
 「……もう少し休んでいこうか」
 「そうだね。時間もあるし……」
 突然の雨で困っている人もいるだろう。それでも湊はこの雨に感謝したい気持ちでいっぱいだった。聡祐と一緒にいる理由が出来た。それが嬉しい。
 「自販機で何か買ってくるよ。野島、何がいい?」
 ラウンジにあるソファに腰かけると、聡祐がカバンから財布を取り出した。湊が、自分で買うよ、と立ち上がるが、だめ、と聡祐がその肩を押さえる。
 「雨で出られない他のお客さんが増えてきてる。野島はここの確保をしていて」
 確かにラウンジには少しずつ人が集まり始めている。今日は雨の予報は出ていなかったから傘を持っている人も少ないだろう。自分たちと同じように止むまで待つ判断をする人が増えたら、数個あるソファもすぐに埋まるかもしれない。
 「分かった。じゃあ、お茶お願いしていい?」
 湊が聞くと、了解、と言って聡祐が傍を離れた。
 こんなふうに気遣いができて、優しくて、イケメンで、明るくて、話し上手で。
 聡祐のいいところを上げたらキリがないのだから、聡祐はきっとモテるだろう。たくさんある選択肢の中で、どんな待っていても自分を選んでくれる日なんか来ないかもしれない。だったらこのまま『いい友達』で居たほうがいいのかもしれない。
 湊はそんなことを思いながらポケットからスマホを取り出した。そのタイミングでスマホが震え、湊は驚いて相手の名前も見ずに通話ボタンに触れる。
 「も、しもし……」
 『今もしかしてスマホ触ってた? 湊くん』
 耳元に響くのは神崎の声だった。湊はそれに、はい、と答える。
 なんとなく今日は『井波くんデー』と決めていたので神崎のことは考えないようにしていたのだが、電話を取ってしまったのだから仕方ない。
 『どこか出掛けてる?』
 「はい。友達といて……」
 だからまた後で、と言うつもりだった。けれどすぐに神崎が、じゃあ、と言葉を被せる。
 『この雨で困ってるんじゃない? 僕、車あるから迎えに行けるよ』
 「迎え、ですか……」
 この雨がいつ止むか分からない。もしかしたら聡祐にはこれから予定があるかもしれないし、帰れるのなら早く帰りたいかもしれない。
 聡祐は休日も課題をやっていたし、空いた時間で彼女に会いたいかもしれない。
 『もちろん一緒にいる友達も送ってあげるよ。その後僕と食事でもしない?』
 「食事、ですか……」
 多分、それが今一番いい選択なのだろう。雨に濡れることもなく聡祐を家に帰してあげられて残りの休日を彼の好きなように使う事が出来て、自分だって望みのない恋から離れて神崎のことを知る時間を作れば、気持ちも少しは動くかもしれない。
 耳元で、どうかな? と問う声に、分かりました、と言おうとした、その時だった。
 「野島、お待たせ。お茶、どっちがいい?」
 湊の隣に腰を下ろした聡祐がこちらに二本のペットボトルを差し出す。
 湊が電話をしていることに気づいていないのかと思い、聡祐を見やると、その視線はしっかりとこちらに注がれていた。分かっていて声をかけているようだ。
 「井波くん、おれ……」
 電話中だと言おうとするけれど、聡祐は笑顔を向けるだけで、更に言葉を繋ぐ。
 「雨上がったら、飯に行こう。この間、いい店教えてもらって」
 野島誘いたかったんだ、と聡祐が笑う。
 そんなことを言われてしまっては、ここで聡祐と別れるなんて出来なかった。
 聡祐に指名されて嬉しくないわけがない。
 湊は聡祐の言葉に頷いてから電話の向こうへと、すみません、と口を開いた。
 『……井波くんと居るんだね、湊くん』
 「はい、聞こえてました、か?」
 『うん、ほとんどね。湊くんは、彼と食事に行くの? 誘ったのは僕が先だよね』
 「……です、けど……今一緒にいるのは井波くん、なので……すみません」
 まだ今日は終わっていない。美術館を出た後も湊と一緒にいたいと聡祐が思ってくれているのなら、デートごっこは終わりじゃない。まだ夢の中にいていいというなら、ギリギリまで浸っていたいのだ。
 湊が答えると、電話の向こうからため息が聞こえた。残念と思っているのか、もしくは呆れているのかもしれない。
 『……わかった。また今度ね』
 それでも神崎はいつものように優しい声でそれだけ言うと、電話を切った。湊もゆっくりとスマホを下ろし、聡祐に視線を向けた。
 「今の、例の先輩だろ? 休みの日までって、少ししつこくない?」
 「あ、いや……電話は滅多に来ないんだけど……悪い人じゃないんだ」
 少し眉を寄せた聡祐に、湊は笑顔を向けて言葉を返した。悪い人じゃない、それは本当だ。湊が聡祐に気持ちを向けていることを知ったうえで、それでも自分に好きだと言ってくれる優しい人なのだ。
 「そっか。でも、俺との時間を優先してくれて嬉しいよ」
 その言葉に、どきりと大きく心臓が跳ねた。言葉まで優しくてイケメンだなんて、益々好きになってしまう。湊は聡祐の顔を見ることができなくて、俯いたまま頷いた。
 勘違いしてはいけない。これだってきっと友達としての気遣いだ。
 湊は小さく息を吐いてから、ふと窓に視線を向けた。まだ雨は激しく降っている。この雨が降っている間だけは、聡祐は湊の隣に居てくれる。動けないのだから仕方ないと分かってはいるけれど、すぐそこに聡祐の存在を感じているだけで、湊は嬉しかった。
 「……雨、止まなきゃいいな……」
 湊が思わずぽつりと呟いてしまった。聡祐が、え? と聞き返すが、湊はそれに首を振った。
 「早く雨上がるといいねって」
 「うん、そうだな」
 窓の外を見つめる聡祐の横顔はいつもよりも整っているような気がして、湊はただそれを見つめていた。

 雨が上がったのはそれから三十分ほどしてからで、それから聡祐と食事をして軽く買い物をしてから自分たちが住むアパートへと戻ってきた。
 「野島、よかったら少し寄ってかない? この間配信のサブスク入れたから、今映画見放題なんだ」
 何か観ない? と聞かれ、湊は自分の部屋のドアを開けずに頷いた。節約中である湊がそんなサブスクリプションに入っているわけないので、好きな映画が観れるという言葉に惹かれたのももちろんあるが、家に着いても一緒に居てくれようとする、そのことがすごく嬉しかった。
 「井波くんは時間いいの?」
 「うん。今週は課題も終わらせたし、余裕あるんだ」
 聡祐が自分の部屋のドアを開けながら笑う。湊を中へと導いてから、ベッドに座っていいよ、と声を掛ける。随分と慣れてきた聡祐の部屋だけれど、いつもは台所かテーブル前にしかいないので、ベッドに座るのは初めてだった。
 いつも聡祐が寝ている場所だと思うと、なんだか少し緊張する。
 「野島はコーヒーと紅茶どっち好き?」
 台所で電気ケトルに水を入れながら聡祐がこちらを振り返る。そこでまだ座っていない湊に笑いかけた。
 「遠慮しないで座れよ。そこからじゃないとテレビ観にくいから」
 確かにいつも座っている位置からだと、テレビを見るには少し振り返る形になる。それでここを勧めたのだと合点して、湊はベッドに座り込んだ。ふわりと聡祐の香りがする。
 「そこにリモコンあるから、観たいもの探していいよ」
 「あ、うん。ありがと」
 湊がテーブルの上にあるリモコンを手に取る。実家にも同じものがあったから使い方は分かるが、これは聡祐のものだと思うと指先が震えてしまう。聡祐の部屋で聡祐の物に触れているだけでこんなに胸がドキドキするのだから、もう恋っていう病気の末期だと思う。
 湊が小さく息を吐くと、突然座っていたベッドが揺れる。驚いて隣を見上げると、すぐ傍に聡祐が座っていた。
 「はい。なんとなく野島は紅茶の方が好きかと思って、紅茶淹れた」
 聡祐が両手に持っていたカップの片方をこちらに手渡す。
 「ありがと……よく分かったね」
 「まあ、だてに数カ月一緒に飯食ってないからね」
 聡祐が笑いながら湊の髪を乱すように頭を撫でる。その仕草に固まっている湊に気づかず、聡祐は言葉を繋いだ。
 「あとはー、頑張り屋で意外と凝り性、真面目で息抜きの仕方が分からなくて、色々考えがち。しかも考えてること、大体顔に出る」
 当たりだろ? と聡祐はこちらを見やる。その途端、慌てたように湊から手を引っ込めた。ごめん、と謝るその横顔は少し赤くなっている。
 「そ、そんな数カ月くらいで、分かった気になるなってな」
 ははは、と笑いながら聡祐がカップに口を近づける。少し動揺しているのだろう、あち、と言いながら小さく舌を出した。
 この数カ月、聡祐はちゃんと自分のことを見てくれて、知ってくれていた。それだけで胸が震える。
 「そんなこと、ない。色々覚えててくれるのは嬉しいよ。……考えてること顔に出るってのは聞き捨てならないけど」
 湊が怪訝な顔で聡祐を見上げると、聡祐は少し安心したように笑って、今だって、とこちらを見つめた。
 「めちゃくちゃ不満に思ってるだろ? あと、俺の苦手なピーマンをこっそり料理に混ぜた時も分かる」
 「え? そこまで?」
 「うん。食べろーっていう念が飛んできてる」
 「ホントに? 次から気を付ける」
 「いや、その前にピーマン食わせよう作戦の中止を考えてよ」
 「それはダメです」
 湊がはっきりと答えると、聡祐は一瞬驚いた顔をしてからくすくすと笑い出した。それを見て湊も笑い出す。
 「あ、映画観るんだった。野島、何系好き?」
 「うーん、あんまり映画のこだわりなくて、いつも『全米ナンバーワンヒット』みたいなものばっかり観てるかも」
 「だったら、この間去年公開してたやつがサブスク対象になってたな。これにする?」
 聡祐がリモコンを手に取り、テレビにその映画のページを表示させる。
 正直、聡祐と観られるならなんだって嬉しい湊は、その問いにすぐに頷いた。

 ふわふわと、暖かい何かでくるまれているような、そんな安心感が湊を包み込んでいた。新しい布団に変えたんだっけ、そんなはずないよな、そもそも自分は聡祐の部屋で映画を観ていたはずだ――湊はそんなことをぼんやり思いながら、ゆっくりと目を開けた。
 「……これ、どこ……」
 薄暗い視界には、白いシャツが見える。聡祐が着ていたものと同じだ、と思い、ゆっくりと視線を上に向けると、とても近くに聡祐の顔があった。
 「い、なみ、く……」
 驚きで一気に意識がクリアになった湊は慌てて聡祐から距離を取ろうともがく。けれど、背中側はすぐに壁で、湊はしたたかに頭をぶつけるだけで少しも距離を取ることはできなかった。
 「ん……野島?」
 「は、はい……あの、おれ、どうして……」
 「……昨日、映画観てる途中で寝ちゃったからベッドで寝かせて……うち、布団これしかないから隣で寝た、けど……」
 半分開かない目で聡祐は話しながらベッドの下へと腕を伸ばした。自身のスマホを拾い上げ、時間を見ると、まだ五時だ、と再びスマホを床に落とす。
 「いいから、もう少し寝て行きなよ」
 ほら、と聡祐が湊の肩を引き寄せる。再び聡祐の腕の中にすっぽりと収まった湊は、心臓が壊れるのではないと思うほど速く大きく鳴っている鼓動を感じながら聡祐の顔を見上げた。
 「おれ、と寝る、とか……嫌じゃない、の……?」
 「んー……嫌なら蹴り出してる……いいからもう少し寝かせて」
 湊はそっと頷いてから、目の前の聡祐のシャツを少しだけ掴んだ。
 それを何かの合図とでも思ったのだろうか。聡祐の腕が湊の肩を抱き寄せる。
 数カ月前、付き合えないと言った人がこんなに傍に居る。もう抱いた気持ちを自分で捨てるなんてできない。
 「もう……諦めるなんて、無理だよ……」
 潤む視界に蓋をするように湊が目を閉じる。
 この時が永遠に続いて、朝が来なければいいのにと思いながら、湊は聡祐の胸に顔を埋めた。


 週が明けて月曜日の昼休み、湊は学校の食堂で、今日何度目かのため息を吐いた。
 「今日のラーメン美味しくない? そりゃ、ラーメン屋よりはアレかしれないけど、俺は美味しいと思うよ」
 テーブルを挟んで向かい側に座る水野が茶碗を持ったままこちらに心配そうな顔を向ける。
 「あ、いや、美味しいよ」
 「じゃあ考え事か? ため息ついてばっかで」
 「え、おれ、ため息ついてた?」
 「ん、割と頻繁に」
 水野は食事を進めながら頷く。
 きっと湊から漏れているのは夢から覚めたくない甘いため息だ。
 週末のことを思い出すと今でもすぐに心臓が忙しなく音を立てる。ずっと見ているだけだった聡祐と一日出掛けて、しかも抱きしめられて眠るなんて、幸せ以外の言葉が見つからない。
 「ごめん、悩みとか心配とかじゃないんだ。ただ、その……いいことがあって」
 「ははーん、名探偵水野、ぴんと来たよ。彼女出来たんだろ?」
 「か、彼女、とかじゃない、けど……その、好きな人とデート、したんだ」
 湊が照れながら水野を見やると、少し泣きそうな顔をしていて、湊は首を傾げた。
 「ずるい。それってもう彼女出来たみたいなものだろ。キスくらいした?」
 「し、してないよ! 朝まで一緒にはいたけど……」
 きっと聡祐にとっては、友達との距離感はあのくらいが普通なのかもしれない。思い起こせば高校の頃の友達は、一晩中ゲームをして雑魚寝になった、なんて話をよくしていた。狭いシングルのベッドで男二人が寝るには抱き寄せるのが一番楽だったのだろう。
 「……何もしなかったのか?」
 「……何もしなかったね」
 水野が真剣な顔で問うので、湊は当たり前のように頷いた。一緒に居られる嬉しさと近距離の緊張で、何かしようなんて考えもできなかった。湊の場合、考える余裕があったとしても経験が全くないのでそんな状況で何をしたらいいのか分からないから、結局同じだっただろうとは思う。
 「いやいやいや、野島は聖人君子か! 成人男子じゃないのか!」
 いきなり大きな声を出す水野に、湊は慌てて、声大きいよ、と咎める。水野はちらりと周りを一瞥してから、少し声を落として、それさ、と言葉を繋ぐ。
 「向こう、待ってたと思うよ? じゃなきゃ、一晩二人きりにはならないだろ」
 「え、そんなこと……てか、おれ、映画観てる途中で寝落ちて、気づいたら一緒に寝てた、みたいな……」
 「寝落ちとか小学生か、もう少し緊張感持てよ。それは、あれだ。可愛い弟にクラスチェンジされてる可能性はあるな」
 「可愛い弟、か……」
 一晩一緒にいても興奮しない相手だということは間違いないだろう。聡祐にとっての湊はきっと良くて親友、悪ければ同じ高校出身のお隣さん――どちらにせよ、恋愛には発展しない。
 「あ、でも、それだけ心を許してるってことは少しはチャンスあると思うよ。近くにいても安心できる相手ってことだろうしな」
 水野は湊を励ますように笑った。湊がそれに、ありがと、と笑顔を返した、その時だった。
 「安心な相手って、結局ドキドキしないってことなんじゃないかな?」
 そんな言葉が後ろから聞こえ、湊は驚いて振り返った。そこには神崎が立っていて、こちらにいつもの優しい笑顔を向けている。
 「神崎さん……」
 「湊くんの好きな子って、いつも晩ご飯作ってるっていう子だよね」
 神崎は空いていた湊の隣の椅子を引いてそのまま腰かけた。湊はそんな神崎を見上げ怪訝な表情を向けた。その通りではあるが、それをオープンにしているわけではないし、水野にも話していない。
 「え、野島って料理出来るの?」
 水野が驚いた顔でこちらを見やる。好きな人にご飯を作っているという神崎の発言はきっと水野にとって情報過多だったのだろう。一番気になったのは湊が料理をするというところだったらしい。
 湊はそんな水野に頷いた。
 「うん。夕飯は自炊するようにしたんだ」
 「そういえば、前に呪文みたいにノートにメニュー書いてたな」
 「ああ……うん、そうだった」
 聡祐に夕飯を作り始めた頃、何を作れば喜んでもらえるか分からなくて、一日メニューに悩んでいたことがある。今は定番メニューをルーティンさせている感じだが、好きな人に食べてもらう喜びは今も変わらない。
 「でさー、湊くんのご飯、僕も食べてみたくて。今度家に食べに行ってもいい?」
 「え、家に、ですか……?」
 この人を家に招くということは、この人を受け入れると同義だ。ただ食事をして帰っていくような人ではないだろう。
 「えー、先輩ずるいです。俺も食べたい、野島」
 湊が返事に困っていると、向かいの水野が少し不機嫌な顔でこちらを見た。きっと水野に他意はないとは思うのだが、この言葉は湊にとっては助け舟だ。
 「じゃあ、水野と一緒なら……」
 「あ、やったー。先輩よろしくお願いします」
 野島の友達の水野です、とここで初めて自己紹介をした水野が神崎に笑顔を向ける。神崎は一瞬冷たい目をしたが、すぐに、三年の神崎だよ、と笑顔を返した。
 「湊くん、いつならいいかな?」
 「あ、おれはいつでも……二人で決めてくれたら、その日は空けますから」
 水野が一緒であれば懸念していることはないだろうし、聡祐に対しても友達が来るからと言えば了承してくれるだろう。聡祐さえよければ、聡祐も一緒でも構わない。
 「じゃあ、さっそく明日はどうかな? 二人とも」
 「俺、明日はサークル休みだ」
 「そっか。じゃあ、水野には買い出しから付き合ってもらうよ」
 湊が言うと、いいよ、と水野が頷く。外にいる時点から水野と一緒に居れば、神崎と二人きりになる事もないだろう。
 そう思うと湊は少し安心して息を吐いた。


 水野も居るとはいえ、自分の部屋に聡祐以外の誰かを呼ぶのはなんだか気乗りしない。
 「……アパートの壁、決して厚くはないしなあ……」
 聡祐の夕飯を作らずに神崎と水野に食べさせている、それが聡祐に筒抜けになるのはなんだか心苦しい。じゃあ俺も一緒に食べる、と言ってくれればいいが、聡祐はきっと遠慮してしまうだろう。
 一日くらい気にしないとは思うが、どうしても湊は気にしてしまう。
 「あいつ、新しい男に乗り換えたか、とか思われたら死ねる」
 ああー、そんなのやだー、と道の真ん中で頭を振ってしまってから、今は公道を歩いているのだった、と我に返る。幸い通行人はいなかったが、かなり怪しい人物になっていたかもしれない。
 家に帰り着く前に聡祐に明日のことをメッセージで話そうと思っていたのだが、どう切り出したらよいか分からずに、湊はとうとうアパートまで帰ってきてしまった。
 スマホを手に取り、どう言葉にしようか悩みながら階段を上がると、ふと話し声が聞こえ、湊は階段の途中で足を止めた。
 「ごめんね、一日中居座っちゃって」
 「いや、こっちも話したいことあったし」
 女の子の声が聞こえ、続いて聞こえてきたのは聡祐の声だった。
 湊の手のひらがじわりと嫌な汗をかく。
 「聡祐の方は上手くいくと思うよ。私は……分かんないけど」
 「麻衣子の方こそ、大丈夫だって。とりあえず帰って向き合えばいいよ」
 お互いに名前で呼び合っているところをみると、先日見た聡祐の彼女で間違いないだろう。何の話をしているのか分からないけれど、今日は一日聡祐の部屋で過ごしていたようだ。湊は家に一日恋人同士が二人で居ると起こりうる下世話な想像をしてしまって、ぎゅっと目をつぶった。
 当たり前のことと分かっていても、聡祐の優しい手が他人に触れていると思うのはやっぱり辛い。
 「うん、そうする。やっぱり、好き、なんだよね」
 「俺もそう思うよ。結局そこかな」
 その会話を聞いた途端、湊の心臓がぎゅっと握られた様に痛んだ。
 好き、だなんて決定的な言葉を聞いてしまった。
 付き合っているのだから当然のことなのに、その言葉を聞いたことがなかったから、なんとなくまだ自分にも少しでも気持ちを傾けてもらえるのでは、なんて甘いことも考えていた。
 でも、それは自分の都合のいい妄想でしかなかったのだ。
 「じゃあ、私帰るね。また明日、学校で」
 彼女の声が響き、靴音が近づく。鉢合わせするのはまずい気がしたので、湊はすぐに階段を降りて、アパートの駐輪場へと逃げ込んだ。しゃがみ込んで様子を見ていると、白いTシャツに黒のパンツを着た女性が去っていく後ろ姿が見えた。以前見た聡祐の彼女で間違いないだろう。
 「やっぱりキレイな人……」
 自分なんか性別からして太刀打ちできない相手だ。
 聡祐のことが好きだからこそ、彼女との仲は割きたくない。だけど、恋を終わらせる手段が湊には分からなかった。
 胸の奥深くまで根付いてしまった『聡祐が好き』という気持ちを消してしまうには、少し強引な手段も考えなければいけないのかもしれない。
 例えば、無理やりにでも自分のものにしてくれるような人が居れば――湊は手の中のスマホに届いた神崎からのメッセージを見てから唇を噛み締めた。


 翌日の夕方、湊は一人で自宅へとたどり着き、三人分の食材が入った袋を台所の床に下ろした。
 水野から『サークルの臨時集合かかったから、買い物付き合えない』というメッセージを貰い、仕方なく一人で買い物をしてきた。それ自体は別に普段と同じことだからいいのだが、水野がいつ来るかわからないことが怖い。
 昨日は神崎を利用して無理に聡祐を忘れさせてもらおうなんてことも考えたが、まだその決心はついていなかった。できれば今日は穏便に終わってほしい。
 聡祐にもメッセージを送ったけれど、『俺のことは気にしないで』と返事が来ていたので、今日は一緒に食べることはないようだ。正直今は聡祐に会った途端泣いてしまいそうだからこれに関してはちょうどいいのかもしれない。
 「ご飯作り終わるまでに来てくれるといいな、水野」
 湊はため息をついて、それでもゆっくりと夕飯作りを始めた。

 今日のメニューは『肉が食べたい』という水野のリクエストでハンバーグにしていた。野島家のハンバーグは炒めた玉ねぎと細かくした人参、それに絹ごし豆腐が入る。母がカロリーを気にして作り始めたのだが、湊も好きな味だった。
 それを焼き終える頃、湊の部屋のインターホンが鳴る。水野であってくれと願ったが、そこに立っていたのは神崎一人だった。
 「神崎さん……だけ、ですか?」
 「水野くん、今日来られなくなったみたい。湊くんのところにも連絡来てない?」
 「え……えっと……いえ、来てません、けど……」
 玄関のドアを開けると、神崎が玄関の中へと入りながらそんなことを言った。湊はそれに驚いてエプロンのポケットにしまっていたスマホを手に取るが、水野からのメッセージは入っていなかった。
 「何かあったとか聞いてますか? おれから連絡してみようかな」
 水野とのメッセージの画面を開くと、『明日楽しみにしてる!』というメッセージとわくわくしてる犬のスタンプが最後になっている。水野は裏表のないやつだというのは、友達として分かっているので、今日自分から行かない選択をするとは思えない。となると、何か事情があるとしか思えない。
 「サークルの用事みたいだよ。さっき学校で会ってね、湊くんに謝ってくれって頼まれた」
 「そう、ですか……だったら今連絡しても繋がらないかな」
 バスケットボールのサークルだから、活動中はスマホを見ないだろう。終わるころまた連絡してみよう、と湊はスマホを再びエプロンのポケットへとしまい込んだ。
 神崎と会ったからといって、湊に連絡をくれないのは少し寂しい。
 「僕だけじゃダメだったかな?」
 玄関に立ったままの神崎が湊を見つめる。湊はそれに、いえ、と首を振ってからゆっくりと数歩下がった。
 「中、どうぞ」
 湊が声をかけると、神崎が、ありがとう、と靴を脱ぐ。それをちらりと見てから湊は狭いキッチンへと立った。
 フライパンの中には三人分のハンバーグが入っている。
 湊に直接連絡をくれなかった水野の分まで食べてしまおうとも思ったが、やっぱり可哀そうなので一つだけ皿にとりわけて冷蔵庫へとしまい込む。明日弁当にしてやれば喜んでくれるだろう。
 「ねえ、それ、もしかして『井波くん』の分?」
 冷蔵庫の扉を閉めた途端、すぐ後ろから声が響いて、湊は驚いて振り返った。とても近くに神崎が立っている。
 「神崎さん……テーブルの前で待っててもらえたら……」
 クッション使っていいので、と湊が笑顔を向け、ちらりと部屋を見やる。聡祐と一緒にご飯を食べるようになってから、フローリングの床に座るのは体が痛くなるだろうと思って買いそろえたものだ。湊にとってはペアのものを買ったような気分で嬉しかったのを覚えている。今日は神崎と水野に貸す予定だった。
 「あのさ、湊くん。ご飯食べたいなんて口実だって、分かってるよね?」
 「え……」
 神崎がさらにこちらに近づく。距離を取ろうと後ろへ下がるけれど、すぐにシンクに腰がぶつかってしまう。
 「湊くんの部屋に来たかった。できれば二人きりになりたかった。どうしてか、くらいは察しがつくだろう?」
 神崎の目がこちらをじっと見つめる。眼鏡の奥の目がすっと眇められ、湊は目も逸らせないまま唇を噛み締めた。
 湊だって子どもじゃない。どうしてかなんて、想像はつく。けれど、だからといって許すわけではない。
 「……水野が来ないのは、神崎さんのせい、ですか?」
 「サークルが忙しいなら、またの機会にしようかと提案しただけだよ」
 水野のことだ、買い物にも付き合えないのに食べるだけなんて湊に悪いと思って、すぐに、そうします、と言っただろう。あとは神崎が、湊に伝えるとでも言えばいい。
 頭のいい人だと思っていたけれど、ここまで狡猾とは思っていなかった。
 「だったら、おれにもそう言ってくれたら……」
 「言ったらこうして二人きりにはなってないだろう?」
 神崎の体がさらに近づく。怖くて嫌で、湊は思い切り腕を伸ばして神崎の胸を押し返そうとした。けれど、その腕はあっさりと神崎に捕まり、逆に引き寄せられてしまう。
 「道端で抱きしめてから、ずっと抱き心地を想像してた。細いけど骨ばってなくて、まだ完全に大人の体じゃない、それを抱いたらきっと気持ちいいだろうなって思ってた」
 腰に腕を廻され、着ていたシャツの裾から神崎の手が入って、湊はびくりと肩を震わせた。その手が怖い。
 「嫌、です……やめてください」
 背中を滑る手が気持ち悪かった。聡祐に抱き寄せられた時はこのままでいたいとさえ思ったのに、神崎の手はどうしても受け入れられなかった。
 胃の上部から何かせり上がるものを感じて、湊は身をよじった。けれど神崎の腕は湊を解放する様子はなく、むしろ、さらに強く抱きしめられてしまう。
 「大丈夫、怖いことはしない。僕に身を任せていればいいから」
 「そ、じゃなくて……やっ……!」
 今まで湊の背中をまさぐっていた腕がふいに腰に廻される。そのまま体を持ち上げられ両足が浮いてしまい、湊は驚くが、暴れる隙も与えられないまま、神崎に運ばれる形になってしまった。目の前に、いつも自分が使っているベッドが見えて、湊は神崎に組み敷かれることを察して足をばたつかせた。
 このまま神崎に抱かれるなんて、絶対に嫌だ。
 「離して、ください!」
 「暴れると危ないってば、湊くん」
 ぼふ、と鈍い音を立ててベッドが軋む。投げ捨てられるようにベッドに下ろされた湊は、そのまま起き上がろうとした。けれどすぐに神崎が湊の腰を跨いで馬乗りになる。
 「嫌です! 離してください!」
 なんとか神崎の下から抜け出そうと腕を伸ばすが、神崎に振り払われ強かに壁に手をぶつけてしまう。痛みはあるが、それよりも自分の貞操を守るほうが大事だ。
 「そんなに怖がることないよ。優しくするし」
 「そうじゃなくて、おれは、こういうのは好きな人としたいんです……それは、神崎さんじゃない」
 「……そう。でも、気持ちいいこと覚えたら、案外好きになるかもよ?」
 「そんな、こと、絶対ないです! おれは、井波くんじゃなきゃ……」
 神崎に触れられても気持ちいいなんてきっと思えない。聡祐なら、髪に触れられただけでドキドキするのだ。そんなのもう、答えは出ている。
 「井波くんって、彼女連れてたよね? それでも好きなの? 不毛じゃない?」
 忘れなよ、と神崎がこちらに体を倒す。湊は咄嗟に両腕を伸ばして神崎と距離を取った。
 「好き、です! 自分でもばかみたいって思うけど、でも……どうしようもないから……忘れるなんて出来ないんです」
 じわりと視界が潤む。
 聡祐に好きな人がいることは分かっている。その人に太刀打ちできないことも分かっている。望みのない恋だと知っているのに、諦めきれない。
 まだ好きでいたい。
 「……湊くん、荒療治って知ってる?」
 「え……?」
 「時にはそういうのも必要だと思うんだよね」
 神崎が言うが早いか、湊の手をベッドへと押し付け、胸を合わせる。反射的に顔をそむけた湊の首筋に生ぬるい感覚が走り、湊の肌が震えた。
 「湊くん、こっち向いてよ。次は唇にキスしたいな」
 湊は神崎の言葉を無視して横を向いたままぎゅっと目を閉じた。
 神崎のため息が耳元で聞こえる。
 「じゃあ、少し強引にするね」
 神崎が湊の手を離し、今度は顎を掴んだ、その時だった。
 部屋にインターホンの音が響く。それは連続して何度も鳴り響いたので、さすがに神崎も怪訝な顔をして振り返った。
 その瞬間、今度は部屋のドアが開く。
 「良かった、鍵かかってなくて。大丈夫か? 野島」
 玄関から慌てた様子で部屋に入ってきたのは聡祐だった。
 そのままこちらに近づくと、神崎の肩を掴む。
 「何だよ、お前! 触るな!」
 神崎は聡祐にいらだったように返しながら、聡祐の手を思い切り振り払った。聡祐はそれでバランスを崩し、床に尻もちをつく。床についた手を一瞬もう一方の手でかばったが、すぐに体を起こし立ち上がって湊に視線を向けた。
 「まだ何もされてないな」
 聡祐が湊の様子を見てほっと息を吐く。
 お姫様のピンチを王子様が救ってくれる――そんな物語は何度も読んだけれど、まさか自分が体験できるなんて思っていなくて、湊は物語のお姫様たちのように可愛らしく王子様の胸に飛び込むことはできなくて、ただ聡祐を見つめるだけだった。
 「……他人の家に断りもなく入って……出ていってくれないか」
 神崎が湊の上から立ち上がり、聡祐と対峙する。その間に湊は慌てて体を起こした。
 「俺が不法侵入なら、そっちは暴行未遂だ。このアパート、壁薄いから静かにしてたら隣の話し声くらい聞こえるんだよ」
 「暴行未遂だなんて……不同意だという証拠なんかないし、湊くんだって初めてで恥じらって『嫌だ』と言っただけだ。悪いが帰ってもらおうか……聞きたいなら隣の部屋でどうぞ?」
 眇めた目を向ける聡祐に、神崎が言葉を返して鼻で笑う。
 聡祐が更に不機嫌に表情を歪ませた。神崎がこんなに冷静に返してくるとは思っていなかったのかもしれない。それでも聡祐は神崎から湊を救おうと次の言葉を探し対峙したままでいてくれている。湊は自分も頑張らなきゃ、と大きく息を吸った。
 「ち、違う!」
 ベッドの隅に膝を抱えて二人を見ていた湊が叫んだ。もっとも声が震えてしまっていて叫ぶというほどの声量ではなかったが、今の湊の精一杯だった。
 「おれは、嫌だから嫌だって言った! 恥ずかしいからじゃない」
 聡祐以外とは考えられないから嫌だった。それが叶わなくても、今はまだ誰かのものになりたくない。
 「だったらどうして僕を遠ざけなかった? メッセに毎日返事をして、会えば笑いかけて、今日だって拒むことなく家に入れて……期待するだろう、そんなの!」
 神崎がこちらを振り返る。
 いつも優しい顔ばかり見てきたから、こんな怒の色を前面にした表情は初めてだった。湊がそれに驚き、反射的に、すみません、と小さく謝る。
 「野島は悪くない。あんた先輩なんだよね? 後輩が先輩からのメッセ無視できると思う? 仏頂面のまま話せると思う? 家に来たあんたを追い返さなかったのは、野島があんたを信じたからなんじゃないのかよ?」
 聡祐の言葉を聞いていた神崎は、目の前の湊をしばらく見つめてから大きくため息を吐いた。
 「……追い詰めるつもりはなかった。今日は帰る」
 神崎はそれだけ言うと、聡祐の肩を押してそのまま部屋を出ていった。その後ろ姿が見えなくなって、湊はようやく安堵の息を吐いた。
 「もう、あいつ何なの? 今日は帰るって、一生来るなっての。ね、ホントに無事? 何もされてない?」
 神崎が出ていって開いたままになっていた玄関のドアからそんな声と共に顔を出した人物に、湊は吐いていた息を飲み込んでしまった。
 「麻衣子……お前、出てくるなって言っただろ?」
 そこにいたのは聡祐の彼女だった。お邪魔するね、と部屋に入った麻衣子は、あのねえ、と聡祐を眇めた目で見やる。
 「ひとに記録係させておいて、無関係扱いはないんじゃない? それに、絶対勘違いされてるよ、大好きな湊くんに」
 ねえ、と麻衣子がこちらを見やる。
 何のことか分からなくて、湊は助けを求めるように聡祐に視線を向けた。
 「……野島、俺と麻衣子が付き合ってるって思ってるだろ? ないから」
 簡単に言われ湊が、え、と首を傾げる。
 「ちゃんと話すから、俺の部屋、来ない?」
 聡祐が湊に手を差し出す。湊はそれを取ろうとして、あ、と叫んだ。
 「井波くん、手首、腫れてない?」



 「やっぱり病院行った方がいいよ、井波くん」
 聡祐の部屋に移動してから、聡祐の右手首に湿布を貼った湊が眉を下げてその顔を見つめた。
 「気にしなくていいのよ、こんなの。あなたを守った傷なんだから。名誉の負傷なのよ」
 その様子を傍で見ていた麻衣子が湊ににっこりと微笑む。
 「ちょっとカッコ悪い負傷だけどな。ありがと、野島」
 ベッドの端に座っていた聡祐が、自室から持ってきた薬箱を片づけている湊に笑いかける。湊はそれに頷いてからおそるおそる隣にいる麻衣子に視線を向けた。
 「あの、さ……おれ、全然この状況が理解できないんだけど」
 どうしてここに聡祐と自分と彼女が一緒にいるのか。どうして自分を助けてくれたのか。しかもいくら壁が薄いとはいえ、湊が襲われていると分かったのか。どれも全部疑問だ。
 「ああ、うん。まず、誤解して欲しくないから先に紹介するよ。友達の麻衣子」
 「聡祐と同じ学校なの」
 麻衣子が湊を見つめ笑う。彼女ではないのか、と驚いた湊を見て、麻衣子が聡祐を見やる。
 「やっぱり勘違いされてたんじゃない? 聡祐」
 「だったみたい。野島、麻衣子は絶対俺と付き合うことはないから」
 聡祐が湊を見つめ言うが、湊は納得がいくわけがない。麻衣子はどう見てもきれいな子だし、聡祐とのバランスもいい。
 「私ね、好きな子がいるの。同じ学校の子で……女の子なの」
 その言葉に湊は、え、と小さく叫んでしまった。自分のことを棚にあげて驚くなんて、と思い口を押さえると、気にしないよ、と麻衣子がからからと笑った。
 「でね、聡祐にそれがばれて、それからはいい相談相手。お互いにね」
 「お互い?」
 ということは聡祐も麻衣子に相談することがあったということだろうか。首を傾げると、麻衣子は、そうだよ、と微笑む。
 「聡祐ね、課題とかほとんど持ち帰ってるの。飲み会とかも全部パスして……って、まだ知らないんだよね」
 可愛らしくウインクされて、湊はドキドキと一人勝手に期待する心臓を押さえ、聡祐を見やった。もし、それが自分と夕飯を食べるために都合してくれているとしたら嬉しい。恋人じゃなくても、そこまで思ってくれるなら、気に掛けてくれるなら友達だって充分だ。
 わざとらしく咳払いをした聡祐が麻衣子を軽く睨んでから湊を見つめる。
 「あのな、野島、俺な……」
 「ちょっと待って! 話ふっておいて悪いけど、私帰るね。続きはその後二人でにしてくれる? その方がいいよね」
 麻衣子が立ち上がり、そのまま玄関へと向かう。それから、ああそうだ、と湊を見やる。
 「さっきの録音、聡祐に送っておくから、有効利用してね」
 その姿を聡祐が慌てて追い、分かったから早く帰れ、とため息を吐いて見送った。
 「有効利用って……」
 湊が苦く笑うと、こちらに戻ってきた聡祐が、そのために録った、と湊の隣に腰を下ろした。その近い距離に湊の心臓はドキドキと鼓動の速度を速める。
 「ホントは、あいつが部屋に来た時点で乗り込んでやろうと思った。でも、この先絶対に野島を困らせない様にするには、切り札が欲しいと思って……壁越しの音を録ったんだ。声大きかったしよく録れてると思う。何かあったら、警察に持ってくとでもいえば何もしてこないんじゃないかな」
 「そんなこと、考えてくれて……ありがとう、井波くん」
 本当に優しい人だと思った。それからいつでもちゃんと最善を考えられる人なのだと思うと、やっぱり好きになってよかったと思う。
 さっき麻衣子は彼女じゃないと言っていたけれど、いつか聡祐をすきになる女の子が出てくるだろう。それまでにゆっくりと今の気持ちを手放していけばいい。
 「いや、考えたのは麻衣子だ。俺は……全然冷静になれなかった」
 聡祐がぐっと両手のひらを握りしめる。それから、こちらを真剣な目で見つめた。
 「野島、俺のこと好きだって言ったよな?」
 「え、あ……うん。でも、もう諦めるよ。これからは友達でいるつもり」
 「もう、俺に興味ないか?」
 「興味って……えっと……」
 まだものすごく、誰よりもあるけれど、そんなことを素直に言って聡祐に嫌われたくない。そう思うと素直には答えられなかった。
 「ごめん、野島の気持ち確認してても仕方ないよな」
 一度視線を外して大きく息を吐いた聡祐は、居ずまいを正すとまっすぐに湊を見つめた。湊もいつもと違う聡祐に緊張してその目を見る。
 「好きなんだ」
 その一言に、湊の心臓は高く波打った。鼓動を早める呪文のような言葉は、簡単に湊を混乱に引き込む。どういうことなんだ? と考えると、くらくら眩暈がして何も答えられなかった。すると、そんな気持ちが伝わったのか、聡祐は少しだけ笑って言葉を繋いだ。
 「野島にとっては今更だと思う。でも、野島のことを知るたびに惹かれていって……」
 「惹かれたって……井波くんはおれとは付き合えないって言ってたよね?」
 「あの時は、野島のことをよく知らなかったから――今は、すごくよく知ってる」
 聡祐が湊の頬に手を伸ばす。そのまま優しく撫でてから、微笑んだ。
 「俺が居るのに気を許して寝ちゃった野島見た時、自覚したんだよ。キスしたいって思って……ごめん、勝手にしちゃいました」
 ごめんなさいと頭を下げる聡祐を見て、湊はいつかのことを思い出した。自分の妄想かと思っていたあのキスは本物だった――そう思うと嬉しくて体の芯が熱くなる。
 「今日も大学の友達呼ぶからって聞いて、部屋で聞き耳立てて……気持ち悪いよな」
 ごめんなさい、と再び頭を下げる聡祐が可笑しくて、湊はくすくすと笑い出した。
 「確かにびっくりしたけど嬉しかった。こっちこそ、怪我させてごめんね」
 「俺にとっては、こんな手の怪我よりも、野島を取られる方がずっと痛い」
 「でも右手だよ? 困るよ、色々と」
 「野島が手伝ってくれればいいよ」
 聡祐は言いながらそっと湊の手を取った。それを自分の肩に廻させる。湊は突然のことに驚いて首を傾げた。そんな湊に聡祐が微笑む。
 「反対も同じようにしてくれれば、野島のこと抱きしめられる」
 「……井波くん……」
 「答え、聞かせて? 俺とお付き合いしてくれますか?」
 湊はドキドキしながら頷いて、おずおずと聡祐の首に腕を廻した。緊張で強張る湊の顔に笑顔を向けてから、聡祐は湊の体を左腕で抱き寄せ、キスをした。そのまま舌先を絡め取られ、深く口腔内を舐め上げられる。背筋が悦に震えた。
 「……湊って、呼んでいい?」
 互いの目しか見られないほど近い距離で言われ、湊は頷いた。こつん、と額がぶつかる。その様子に聡祐が微笑み、湊、と囁いて再びキスをする。ドキドキするなんてものじゃない。ずっと憧れていた人に求められている今が本当に信じられなくて、心臓が飛び出そうなくらいだ。
 「井波くん……好きだよ」
 キスの隙間から湊か囁くと、聡祐は、聡祐って呼んでよ、と囁いた。その顔がひどく艶っぽくて男らしくて、湊は手を伸ばさずにはいられなかった。そっと両手で頬を包むと、聡祐が微笑んだ。
 「湊、すごいエロい顔してる」
 「う、嘘!」
 「ホント。でも、すごく好きだよ、その顔――押し倒したくなる」
 甘く艶めいた囁きに、湊の心は体より早く押し倒される。その誘いを振り払うなんてできない――多分、湊も待っていたから。
 「――いいよ。井波くんなら、いい」
 「……湊もいいって言ってくれてめっちゃ嬉しいしそうしたいんだけど、これ、治るまで待ってもらってもいいかな? 手が治ったらちゃんと抱くから」
 そう言って聡祐が右手を目の前まで軽く上げる。湊は赤くなりながら、それでも強く頷いた。



 「どうして和食なんかリクエストするんだよ? この手で。サンドイッチとかのが食べやすいだろ」
 翌日の朝、食卓には出汁巻き卵と焼き鮭、それにご飯と味噌汁が並んでいる。上手く箸が使えない聡祐のために湊はそれらを口に運んでやっていた。確かにこんなのは甘い恋人同士になったのだからやってみたい事のひとつではあったが、こんなふうに介護するのは何か違う気がする。
 「だって、世話されたいからな」
 「だってって……言ってくれればこんな回りくどいことしなくても世話くらいいくらでもするよ、おれ」
 別にわざわざ食べにくいもの食べなくても、と湊が言うと聡祐は、ホントに? と微笑む。
 「そりゃ、そ、聡祐、の頼みならいくらでも」
 湊がぎこちなく答えると、聡祐は意味深な笑顔を向けた。
 「じゃあ湊、夜も頼むな」
 「よ、夜?」
 夜という単語に、手が治ったら抱くと言われたことを思い出し、湊は赤くなった。それを見て聡祐がにやりと口角を引き上げる。
 「今、えっちい想像しただろ、湊。俺が言ったのは夕飯のことだけど?」
 にやにやと笑う聡祐がじっと湊を見つめる。その笑顔に頭の中を見抜かれたようで、湊は真っ赤になった。
 「な、ち、違うよ! もういい、学校行く!」
 聡祐にからかわれどうしようもなくなった湊は、逃げるように立ち上がった。
 「待てって、湊」
 聡祐も立ち上がり、それを引き止める。抱き寄せられキスをされると、湊も仕方なく立ち止まる。
 「ごめん、からかって」
 「ん。……今日、何食べたい? 聡祐」
 「デザートが湊のキスならなんでも」
 笑顔でそう言いきる聡祐に、湊は唇を尖らせた。
 「えっちいのはそっちじゃないか」
 「男ですから。でも、毎日楽しみにしてたんだよ、夕飯」
 「じゃあ、今夜も楽しみにしてて」
 湊の言葉に聡祐が、うん、と頷く。
 今日も一緒にご飯を食べよう、と聡祐が囁いた。