理子が帰宅したのは夕方になってからだった。彼女はそのままお風呂に直行すると、1時間ほど長湯をし、食事を摂らずに眠ってしまった。
パパと会った後の理子は、ベッドには入らずにトイレで眠る。「うちにはしっくりくる」なんて戯けて話す彼女に、私は何ひとつ気の利いた返事ができなかった。
そのまま理子は長く……長く眠った。もう二度と目覚めないかと思うほどに。
目が覚めたのは翌、日曜日のお昼前。
私は冬眠から這い出てきた理子のお腹を慮って、お粥を用意しておいた。脂っこいモノが食べたい!とグズっていたが、それは夕食に。と約束してなんとか食べさせた。
そして食後に、例のコーヒーケトルで淹れたコーヒーと”たぬきケーキ“を添えて話の場を設けた。
理子にも私のソワソワした仕草が伝わったのだろう。訝しげに私を見つめては、早く白状しなさいと促してきた。
私は覚悟を決め、呼吸を整えてから切り出した。
「すーちゃん……施設に戻してくれって言われた。7月いっぱいまでなら預かってもいいけどって」
……応答がない。
私は理子の顔を見るのが怖くて、視線を落としたまま、お皿の上のたぬきケーキとにらめっこだ。
なんの音も聞こえない。彼女は身動ぎひとつしていないのではないか。
「おっけ。わかったよ」
予想とは違った答えだった。
もっと、泣き叫んだり、怒り狂ったりするんじゃないかと思って身構えていたのだけれど。
意外にもその声色はケロっとしている。
「ねぇ、ケーキたべよっ」
私は目線を上げて理子の顔を見た。
いつもの可愛らしい表情だ。
「大丈夫だよ、ミチュ。うちにまかせて。ね?」
……任せて?何をだろうか。
すーちゃんを手放すための心の準備。それを任せろ……ということ?
ふと、理子の手元に目をやると、手にした二又のフォークでたぬきケーキをぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。
その無惨な有様を見たからか。私の心の奥底ではこぼれ落ちた不安の雫が水琴窟のように反響している。
以前一緒に食べた時は「カワイイから食べるの可哀想」と言ってはしゃいでいたのに……だから今回もたぬきケーキをチョイスしたのだ。
……嫌な予感がする。
理子は何か間違ったことをするつもりではと。
どうか杞憂であって欲しい。そう願いながら、私は苦手なブラックコーヒーを一気に流し込んだ。
*
天気予報はアテにならない。梅雨明けが発表されたというのに、連日の雨だ。
私は水を含んで重くなった制服に舌打ちしながら、さいたま新都心駅から一路マンションまで駆け抜けた。
マンションの庇の下に転がり込んだ頃には、もはや濡れネズミである。ひとつため息をつき、私はエントランスのオートロックを解除すべく、カードキーを収納している定期入れをスクールバッグから取り出した。
「ミチュ。おかえり」
拗ねた子猫のような声。彼女だ。
理子がエントランスまで出てきていたのである。
「あ……理子……今日もいくの?」
「うん。さっき呼ばれたとこ。一応メッセしといたけど」
私は急いでスマホを取り出した。新着メッセージが一件。
◇ 2番目のパパのとこいってくる。すーちゃんをお願いね
と書かれていた。
理子は、紺色のジャンパースカートに白い半袖のブラウスとボウタイという、私立女子校の生徒のような制服姿で立っていた。これがまた悲しいほどによく似合っている。
きっとその格好が“2番目のパパ”の好みなのだろう……。
「ミチュ。いってきます」
「あっ、理子!」
「大丈夫。うちにまかせて。3人で幸せに暮らそっ」
そう言って、理子はタクシーに乗り、何処かへと向かっていった。
その夜に、理子は酒に酔って帰宅した……
*
────うちに任せて。
その言葉に対する悪い予感は的中した。
理子はすーちゃんを手放す気など毛頭無かったのだ。
ゆえに一計を案じた。いや、一計などという権謀術数の類ではない。彼女が導き出した答えは、子どもの理論の範疇を1ミリとてはみ出すものではなかった。
「お金を貯める?」
「そう。お金を貯めて、見せてやるの。これだけあるぞ!ってね。そしたら、すーちゃんを引き取れると思うんだ」
「いや……そういう問題じゃないと思う。そもそも期間が決まって……」
「あー、ミチュは心配しなくていいから!うちがみーんな幸せにしてあげる。任せて!」
転げ落ちていく。そう思った。
理子がお金を稼ぐ手段など、一つしかないからだ。
「パパが増えたって、どういうこと?」
「新しいパパ。知り合いの紹介でさ、うちと遊びたいって人がいてね」
今現在、理子には“パパ”が3人いる。
そのため、かつては週に一度か二度呼ばれる程度だったものが、いまではほぼ休み無しだ。
そんな状況が続けば、無論のこと理子は消耗してゆく。
力なく帰ってきては泥のように眠り、またすぐさま呼び出されては体を引きずって次に向かう。
やがて、すーちゃんと触れ合う時間も無くなってゆき、以前はほとんど無かった夜泣きも、ここのところ毎晩のようにするようになった。
私は理子の代わりに夜なべして世話をしているが、それもまた限界がある。
理子も私も、すーちゃんも。もはや全員が不幸になってしまっている現状をなんとかしなくては……ただでさえ、すーちゃんと一緒に過ごすことのできる時間は限られているのだから。
私は理子と話し合い場を設けたのだが……。
「理子、ちょっと待ってよ!」
「呼ばれたから行かなきゃ。話は帰ってからね」
「待ってってば!」
私は理子の腕を掴んだが、理子はそれを振り払って言った。
「なんか文句あるわけ!?ミチュと違って、うちは働いてるんだよ?黙って協力してくれればいーじゃん!」
「……理子」
「あ……ミチュ。違う、違うの。うち頑張るから。だから待ってて。ね?」
そう言って、理子は”仕事“へと向かった。
おそらく、理子だってわかっているはずだ。
子どもの私たちが、すーちゃんを引き取るなど不可能だと言うことに。
それでも何かに縋らずにはいられないのだろう。そう、地獄に垂れ下がった蜘蛛の糸を掴んとするかのように。訪れるはずもない奇跡を信じて。
とはいえ、今まさに転げ落ちているのだ……私たち全員が。行き着く先は見えているのに、私では止めることができない。
だが出向くまでもなかった。
“終わり“はもう、ドアをノックしていたのだから。
その日、理子は朝から上機嫌だった。
先日の諍いを経て、自分でも思うところがあったようで、今日一日を休みにしてゆっくり考えるという。
それを聞いて私も安心した。久しぶりに、理子と笑い合えるような時間が持てるかもしれない。期待に胸を膨らませた私は、理子に見送られながら学校へと向かった。
◇ ミチュ、ごめん。呼ばれたから行かなきゃ。すーちゃんをお願いね
お昼過ぎに受信した理子からのメッセージ。私はため息をついた。
今日は休みにすると言ったのに……。
私は苛立ちながらも、早退すべく荷物をまとめた。すーちゃんをひとりにはできない。幸い、今日は天気も今のところ良さそうなので、帰ったらすーちゃんとお散歩に行こう。淀んだ気分も少しは晴れるかもしれない。
そうして、私は早退の際に使うルートへ向かったのだが────
校舎の裏門に差し掛かったところで、私は数人の女子生徒に道を塞がれてしまった。
「おい、あたしらのこと覚えてるよな?」
ガラの悪い子たち。覚えているかと聞かれたら、特段覚えちゃいない。
ただ、私の通っている円阿弥高校は仏教系の私立校のため、こういったチンピラJKは珍しい。
ただ、心当たりはある。先日の喧嘩だ。
私は少し嫌な汗が背中に流れるのを感じていた。
「この爪。おめーにやられたんだわ」
そう言ってチンピラJKは、ネイルの剥がれた爪を見せた。
やはり、先日のヤツか。理子をバカにした連中だ。
もう一戦やってもいいが、今はすーちゃんのために早く帰らねば。
私は赤の他人を装い、通り抜ける作戦でいく。
「あ、人違いです。じゃあちょっと失礼して」
「人形理子」
チンピラJKの発した名前に、私のカラダはピクリと反応した。だが足は止めない。
「人殺しじゃん?あの女。なんたって堕ろし────」
限界だった。私は振り返って掴みかかろうとする……が、先に繰り出されたのは、金属バットによる腹部への一撃だった。突き刺すように私の鳩尾にめり込ませたのである。
痛みは感じないが、内臓へのダメージは誤魔化せないようで、私はその場に突っ伏して嘔吐した。
「ねぇ、あんたさ。痛み感じないんだって?」
金属バットを握ったチンピラJKがニヤニヤと卑しい笑顔を浮かべた。
気づけば、他2名のJKが私の体を拘束し、右腕を棒のように伸ばして動かせないようにしている。
「実験。してみよっか」
*
右腕が動かない。痛くはないが、これは折れてしまっているのだろうか。
ヤツらが実験と称して行った私への拷問。それは至ってシンプルなもので、私の右腕に金属バットを振り下ろすというものだった。
1回、2回とゲラゲラ笑いながらこなしていったが、3回目で鈍い音が響いた。それにビビったのか、クモの子を散らしたように逃げていったことで私は解放された。
とにかく、病院の前にすーちゃんだ。お腹も空かせているかもしれない。
私は死んだ右腕をプラプラさせながらマンションに辿り着き、11階の私たちの部屋のドアを開けた。
「え……嘘でしょ……」
まずい。そう思った。
室内温度が明らかに高かったのだ。エアコンが点けられていない────!
私はすーちゃんのいるリビングへと走った。
「すーちゃん?すーちゃん……嘘……」
ベビーベッドを覗くと、すーちゃんが荒い呼吸で苦しそうに息をしていた……。
明らかに、異常事態である。
「すーちゃん……すーちゃん!」
理子が半狂乱で処置室に入ってきた。
すーちゃんは軽い熱中症に罹っていた。いまは安静にして点滴を受けている。
「大丈夫だから、落ち着いて」
看護師さんが理子をなだめる。
「あぁ……すーちゃん……」
理子は赤ちゃん用の医療ベッドに寝ているすーちゃんの小さな手を握った。そして長くため息をつくと、傍に腰掛けている私の眼前に立った。
正直……理子が来る前からずっと動悸がしていた。間違いなく、理子に怒られることがわかっていたからだ。
「ミチュ……なにしてたの?すぐ帰ってきてって、言ったよね?」
あぁ……やっぱり怒っている。当然か。
私は目を逸らしたまま答えた。
「いや……それがその……」
「なにその腕?」
「あ……これは……骨折とかじゃないよ。ちょっと打撲で」
「……また喧嘩したわけ?」
「そ、それは……」
「なにやってんのよ……」
「理子……あのね……」
「ふざけないでよ!すーちゃんが死んじゃうとこだったじゃない!それなのに喧嘩!?なにやってんのよ!」
なに騒いでるの。やめなさい。と看護師さんが止めに入るも、理子はかまわず捲し立てた。
「ミチュはうちを責めたよね?うちがすーちゃんの世話をしてないって。自分はどうなわけ?すーちゃんほっといて喧嘩なんかして!」
「責めてなんてないよ。責めてない。私は責めたんじゃなくて……」
「もういいって!ミチュにとってすーちゃんはその程度なんでしょ?本当は大事に思ってないんだ!」
頭が一気に重苦しくなった。額に、青筋が浮かび上がるのがわかる。
「本当は……本当はすーちゃんなんて死ねばいいと思ってるんでしょ!」
パチン!と乾いた音が響いた。
私の動かないはずの右腕は無意識に振り抜かれ、理子の頬をはたいていたのだ。
「……何言ってんの?エアコン点けなかったのは理子でしょ?」
ダメだ。そう思っても私はもう抑えが効かない。
「働いてる?仕事?あのさ、理子。自分が何してるかわかってんの?」
ダメだ。やめろ。それは言っちゃいけない────
「売春っていうんだよ。そういうの」
私は今になって口を塞いだ。文字通り、手で口を覆ったのだ。
なぜ言ってしまう前にこうしなかったのか。
もう全てが手遅れになってしまう前に────
荊に身を包まれるような沈黙が続いた。どちらとも声を発することができずにいる。
そんな不気味な均衡を破ったのは、他ならぬすーちゃんだった。
──泣き出したのだ。
それは、生命力に満ちた赤子の声ではない。もうやめてくれ。と、すーちゃんが言葉にしているかのような痛々しい叫びだった。
「……理子。ごめんなさい、私……」
「終わりにしよう」
「えっ」
「うちら。もう終わりにしよう。ぜんぶ」
「理子……」
「わかってるよ。うちが汚いってことくらい。汚れてるってことくらい」
「違うよ。私そんな……」
「うちはひとりでいい。ずっとそうだったんだから」
「……私はいらないってこと?」
「…………そうだよ。ミチュは……うちにはもういらない」
「そっか。わかった」
私は理子にカードキーと物理錠を押し付けるように手渡した。いずれも理子が私に貸してくれていた合鍵である。
「私たち……会わなければよかったね」
立ち去ろうとした背後から、すーちゃんの泣き声が聞こえる。
「さよなら」
捨てられたのか……いや、捨てたのか。きっと両方だ。
私はそのまま一瞥もすることなく、病院を出た。
今日もまた雨だ。予報が外れてばかりで嫌になる。私は傘立てに傘を突き刺すと、思い切り雨に打たれたくて、そのまま庇の下から飛び出した。
あてもなく歩いた。降り頻る雨の中。
家には帰れない。私は本当にひとりぼっちになったのだと知った。
さいたま新都心駅が目に入る。無意識のうちに駅へと足が向かっていたようだ。
「なんだ、キミ。どうした?」
ゆらりと声の方に目をやると、そこにはスーツ姿の中年男性がいた。仕事帰りのサラリーマンだろう。
ジロジロと私を品定めするように見ている。
「あー、あれか?立ちんぼだろ?」
中年男性が3本、指を立てた。
「これでどうだ。嫌か?じゃあ、これでいいか?」
今度は5本。
ああ、そういうことか。私を買うつもりなんだ。
──私は小さく頷いた。
「よっし!じゃあ、行こうか。安いホテル知ってるから。んで、それコスプレ?もし本物のJKだったら追加でお小遣いあげるからね〜」
中年男性が上機嫌に私の腕を掴んで引っ張ってゆく。
これで理子の“痛み”が少しでもわかるかもしれない……ならばこれでいい。
そうだ。そうだった。私はセックスでしか痛みがわからない人間だった。おあつらえ向きじゃないか。
……笑いがこみあげてきた。
「ふ……ふふっ。あはは……最低……最低だよ……あははっ」
────急に歩みが止まった。
「あん?おいおい、今更やめようなん……て」
振り向いた中年男性の顔に恐怖の色が浮かんでいる。
何事かと私も後ろを見てみた。そして気づく。私は”彼“に引き止められていたんだと。
「カモくん……」
この雨の中、カモくんは傘もささずに仁王立ちしていた。
微動だにしないまま、じっと中年男性を見据えている。睨むでもなく、ただ無表情に。そして口を開いた。
「手ぇ離せ。わかるよな?」
中年男性はカバンを抱え、夜逃げするかの如く駆け出した。一度転び、すぐさま立ち上がってまた駆けていき、雑踏の中へと消えていった。
「なにやってんの、みっちゃん」
カモくんは傘を広げ、私の頭上に掲げてくれた。
「俺は予備校の体験授業。受けにきただけなんだけどな」
顔を見上げると、彼はやれやれといった表情を浮かべて小さく微笑んでいた。
「みっちゃんの服。コインランドリーで回してるから」
あの日、あの時と同じ場所。
さいたま新都心駅から徒歩10分の場所に立つ、寂れたラブホテル。遊郭をイメージしたであろう切り絵のような装飾と紅い壁に囲まれた一室に、私たちはいる。
いつも利用していたから、自分の実家のように思っていたフシがあるのかもしれない。
私は久方ぶりに、妙な安心感を得ていた。
そして同時に……抑え難い衝動も。目の前には“彼”がいるのだから。しかもこの場所に。もう十二分に舞台は整っているだろう。
「ほらよ、みっちゃん。『飲むナポリタン』だってさ。ネタ商品が目について買っちゃったからやるよ。え、いらない?」
カモくんが、イタズラっぽい笑顔を浮かべながら、紙パック入りの飲み物を差し出してきた。
バスローブ姿の私は一瞥もせず、ただベットの端に腰掛けて俯いている。機を伺っているのだ。あとはいつ切り出そうか……それだけだ。
さっきは助けてもらったというのに、礼のひとつもしていない。
私の頭の中は“ソレ”のことでいっぱいだったからだ。
最低だ……本当に。
「んじゃ、これはどう?シャインマスカットチョコだって。2つ買ったから……」
「カモくん」
私は彼の言葉を遮った。
もういいんだ。私にはわかっている。彼の優しさの全てが。
けれど、今ほしいのは優しさじゃない。
────“痛み”だ。
「シたい……お願い……」
まるで首を絞められているかのようだ。必死に捻り出した声はしゃがれていて、まるで可愛げがない。
「いーよ?」
私はさっと顔を上げて彼を見た。随分とカラっとした声色に驚いたからだ。
カモくんは、包み紙に覆われたうずらの卵くらいある大きさのチョコレートを眺めながら「ふーん」とつぶやいている。
「んじゃ、これ食べて。毒味ね」
と言って、彼は私にシャインマスカットチョコを手渡した。
ズッシリとした重みがある。正直、食欲など皆無だが、私を抱いてくれるというなら是非もない。
私はチョコを口に放り込む。そして奥歯で噛み潰した。
「……ん?……んむっ!?」
噛んだ瞬間に口いっぱいに溢れ出した異臭。これはシャインマスカットではない……!?
私は吐き出す場所を探してキョロキョロと首を左右に振った。
どうぞ。とニヤニヤしたカモくんがティッシュを渡してくれたので、そこに粗相をした。
「ネタ商品だって言ったろ?それは“猫のお尻”フレーバー。どうだった?」
笑いを堪えてプルプルと震えるカモくん。
ハメられた……私はもう一つあるはずのチョコを袋から取り出すと、彼の口に捩じ込んでやった。
数秒後、彼もめでたく恐慌状態になるのだった。フレーバーは“部活帰りの靴下”だったらしい。
*
「なるほどね。家出したとは聞いてたけど……」
カモくんと話すのは、あの時以来だ。理子が一緒に住もうと言ってくれた日から。
不義理をした手前、負い目からつい彼を避けてしまっていたのである。
「ごめん。心配かけて……」
私は彼に話した。
理子と出会ったこと。私に居場所を作ってくれたこと。共に赤ちゃんを預かっていたこと。そして……理子と別れたこと。
カモくんは、それら全てをただ静かに聞いてくれた。
理子が愛人をやっていようと、子ども2人による母親代行などという痛々しい”おままごと“だろうと、彼は何一つ批判することもなく、時折微笑みながら受け入れてくれた。私はそれが嬉しかった。
「ちょっと……いやかなり嫉妬してる」
「えっ?」
カモくんが『飲むナポリタン』を一口飲み、そう言った。
「みっちゃん。はじめてじゃないの?そんなに人と深く関わったの」
「あ……」
「別に無痛症になったからってわけじゃない。みっちゃんは昔から、心を開くタイプじゃなかったんだよ。いじめられても怒らない、悲しむ様も見せない。かと言って、楽しんでるのか喜んでるのかもわかんなくてさ」
みっちゃんも飲みなさい。と彼はもう一つの『飲むナポリタン』を私に手渡した。
「俺はさ、嫌いだったよ……そんなみっちゃんが」
カモくんの顔を見る。
嫌い。はじめて言われた言葉だった。
「だからさ。嬉しかったんだ。みっちゃんが俺を頼ってきてくれて。そりゃ、カラダだけの関係なんて、側から見れば最低だけどさ」
「……嫌いなのに、嬉しかったの?」
「好きだからね」
────みっちゃんのことが。
彼は私を見つめてそう言った。その眼差しは少し寂しげで、冗談でなく本心だと物語っていた。
私は、顔を背けて俯いた。気恥ずかしさからではない。わかっていたからだ。自分の中に、彼に対する恋愛感情が無いことに。
「だから、俺がみっちゃんを治してやりたいって思ったんだよ。前に言ったろ?旅行いってみようって。ガキだからそんくらいしか思いつかなくてさ。でも上手くいったら……」
私は自らの手の甲に爪をめり込ませた。
「俺のことも好きになってくれるんじゃないかって。泣いたり怒ったり、楽しく笑って喜んで……そんな姿を俺だけには見せてくれるかもしれないって。そう思ってた」
ぎゅっと、目を瞑り、より強い力で爪を立てる。
痛みは無論。ほんの少しも感じない。
「それも全部……人形理子に取られちゃったな」
──言葉が途切れた。
沈黙が水面に落ちた絵の具のように広がってゆく。赤い色をした絵の具だ。それはこの部屋の壁の色と溶け合って、やがて私たちを包み込んでいった。
「シようか。みっちゃん」
「…………うん」
そうだ。私にはもう、理子はいないんだ。
カモくんが私に飽きて愛想を尽かすまで。私はこうして彼と関係を持ち続ける。それでいいのかもしれない。それがあるべき姿だったのかもしれない。理子を……知らなければ……。
カモくんがそっと、私のバスローブをはだけさせた。
目を瞑り、少し俯く。
耳に届くのはシャツの擦れた音。鼻先をくすぐるのは淡い柑橘系の香り。
「みっちゃん。わかる?」
彼の声に、私は半眼を開いた。そして抱きしめられているのだと知った。
あぁ、やっぱり。まるで────
「粘土みたい?」
私は答えなかった。言い当てられたからだ。
体温のない、しっとりと冷たい大きな粘土がしがみついている。そんな風にしか、彼を感じ取ることができない。
「ごめん……ごめんね、カモくん」
「みっちゃん。手の置き場、そこじゃないだろ?」
「えっ?」
「いまだけでいい。俺のことも抱きしめてほしい」
「カモくん……」
私はそっと、彼の背に手を置いた。やはり冷たい。それが、ただただ悲しかった。
そして気づいた。私の戻るべき場所も。
「みっちゃん。もうわかってんだろ?こんなとこで油売ってちゃいけないって」
「……わかってる。でも無理だよ。私に理子は救えないから」
「何言ってんだよ、みっちゃん」
カモくんが、私を抱きしめながら、頭を撫でた。
「俺たちはまだ子どもだろ。ヒーローになんかなれっこないんだ。だから……子どもになれよ、みっちゃん」
子どもになれ。
私の中で、何かが弾けた。
そうだ。私も理子も────
「ありがとう、カモくん。私、行ってくるよ」
「あぁ。気をつけてな」
私はいま一度、ぎゅっと強く彼を抱きしめた。
「よっし。今日一日携帯切って、ミチュとすーちゃんと過ごす!」
「ん。よく出来ました」
ドヤ顔でスマホの電源を切る理子。私はその姿に小さな拍手を送った。
あの後。
マンションに戻った私の姿を見て、理子は泣き崩れて許しを求めた。自分が悪かった、どこにも行かないで……と。
謝罪などいらない。理子の元を離れるつもりなどないから。
今日という日を共に過ごすのだ。3人で過ごす……最後の一日を。
*
「すーちゃん、かわいいね」
「ほんとうだね」
私たちはいま、ベッドの上で川の字になっている。真ん中がすーちゃんだ。
朝から3人で出かけ、夕方には帰り、料理が得意な私は腕を振るって晩ごはんを用意した。最初の頃のように、私たちは笑顔を浮かべ和やかな時間を過ごしたのだ。
「ねぇ、ミチュ……ずっと……こうして暮らそうね……3人で…………うち……頑張る…………から……」
「おやすみ。理子…………ごめんね」
理子はお酒が入ると眠くなる。私の思った通りだった。
──だから料理に加えた。理子に起きていてもらっては困るからだ。
インターホンが鳴った。
“彼”にはエントランス内の客間で待機してもらっていたのだ。私は玄関まで向かい、ドアを開けた。
「こんばんは。放課後育児界隈・乙種担当の快尼です」
────すべてはこの時のために
マンションの敷地内にはちょっとした日本庭園がある。
時刻は夜半。
雨の帷が常夜灯の明かりと合わさって、まるで異国を映す蜃気楼のようにゆらめいていた。
すーちゃんを施設に返した後。快尼さんに駅前で下ろしてもらい、ここまで傘をささずに歩いてきた。
もうとっくに濡れネズミである。それは“彼女”も同じようだ。
こういうのを、シンクロニシティというのだろうか。日本庭園を通ってから部屋に戻ろうと足が向いたのには理由があったのだと思い知った。
“結ぶ”という神道的な意味合いが込められて設置されているアーチ状の赤い反橋。そのちょうど真ん中に彼女は立っていた。
──待っているのだ。この雨の中で。
わかっている。私は歩を進め、反橋の上で彼女と向き合った。
「理子……」
理子は俯いたまま、私に問いかけた。
「どこにやったの……すーちゃんを……すーちゃんをどこに連れてったの……」
「わかってるはずだよ。理子だって」
理子が私に掴みかかる。
「なんで!どうして!一緒に……ずっと一緒だって……そう言ったのに!」
「理子……」
「蜘蛛の糸だって……地獄だって……そう言ったのに……!」
「理子…………」
「返せ……返せ返せ……返せぇ……!」
理子が私の髪を留めている“かんざし”を抜き取った。そして逆手に持ち、振りかぶる。
見開かれた理子の目から涙が一筋こぼれ落ちた刹那、私の右胸にかんざしが振り下ろされた。
「……痛い」
雨が覗きにきた。それも大勢で。おかげで私の声はかき消されてしまった。
それでも、理子には届いていたようだ。
「ミチュ……いま、痛いって……」
「痛い。痛いよ理子……」
私の目から、涙が溢れてこぼれ落ちた。
理子は私の胸に刺さったかんざしを抜き、地面に落とした。風鈴のような切ない金属音が木霊する。
そして理子は私のシャツをはだけさせると、露わになった傷口の血をペロペロと舐めはじめた。
「理子……ごめんね…………ごめんね…………」
私は彼女の姿を眺めながら、ただただ謝り続けた。
降り頻る雨も、溢れ出る血も……私の涙も。止まるところを知らぬようだった。
彼女の背中を見たのは、その時がはじめてだった。
見せたいものがある。そう言って、理子は私をお風呂に誘ったのだ。
「この刺青を入れ終えた日にね。すーちゃんを見つけたの。ゴミ袋に入れられてた。死んじゃうところだった……でも、思ったんだ」
理子は私に背を向けたまま話す。
その背中に描かれた『悲母観音』の刺青が、理子の”痛み”を私に教えてくれた。
人形理子は堕ろしたことがある。それこそが彼女の傷なのだと。
「会いに来てくれた……うちに、また……会いに来てくれたんだって……だから……」
理子の肩が震えている。
私はそっと、彼女を抱き寄せた。理子は私に頭を預け、声を殺して泣いた。
「会いに行こうよ。いつか。大人になって会いに行こう。だからいまは……ちゃんと子どものままでいよう」
大人にならざるを得なかった私たちは、今になってやっと。子どもとして生きようと。そう決めた。
私と理子。16歳のお母さんごっこは、この時を持って終わりを告げた。
雨上がりの空を見上げている。
7月の下旬だ。
こうして屋上に立っているだけでも、熱中症になりそうだが、人を待っているので仕方ない。
どちらが先に倒れるか。夏の日差しと我慢比べと洒落込んでいる。
「ミチュー。補習終わったよー」
拗ねた子猫みたいな声。私は振り返った。
セーラー服を纏った、”赤毛“のベビーショートが可愛らしい美少女……理子だ。
「お疲れ様」
「もー、体力残ってないぁ〜」
「これで夏休みゆっくりできるよ。よく頑張ったね」
理子はまた高校に通いはじめた。母親代行の間フルでサボっていたため補習地獄だったが、私も協力して期末テストも乗り切ることができた。
「ん〜?”カノジョ“との夏を妄想してんのかぁ?ミチュどの〜?」
理子は未だ愛人のままだ。後見人である男性とは、住居の関係もあってそう簡単には清算できないのだろう。それでも、いつかは卒業すると私と約束した。
そして、理子は持って生まれた“赤毛”を伸ばすのだと意気込んでおり、先日坊主頭となった時にはさすがに驚いた。それでも美少女なのにはさらに驚いたが。
「妄想してますよ、理子どの。アレやコレや……ね」
私もまだ無痛症のまま。理子に与えられた“痛み”で、魔法のように解決とはいかなかった。
「今日は行く?放課後育児界隈」
「体力残ってないんじゃなかったの?」
「いーじゃん。新しい赤ちゃん入ったんだってさ。会いに行こうよ〜」
「はいはい。わかりました」
スキップするように歩き出した理子の背中を見て、思う。
大人になってゆくのだ。私も彼女も。
後ろを向いても、膝を抱えて座り込んでも。みんな大人になってゆく。
ならばせめて、彼女のように歩いてゆきたい。
痛みも傷も拾い集めて。
花束みたいに、小脇にかかえて────