除冷炉の中で冷えたガラスの器が、青い光を帯びて眠っている。
いい出来ではないけれど、初めて挑戦した動画だって、すっかり完成していた。
「お客さん、まだ来ないのか?」
じいちゃんがコーヒーをすすりながら訊ねてきた。
「……うん、まだ」
「旅館に聞いてみるか? まぁ、明日でもいいけど」
僕はスマホを握りしめたまま、旅館のフロントに電話をかけた。
「すみません、昨日まで宿泊していた美紗さんという方、今日もご滞在でしょうか?」
受話器の向こうで、フロントの女性が丁寧に答える。
「そちらのお客様でしたら、今朝チェックアウトされましたよ」
その瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。
「……そうですか。ありがとうございました」
電話を切ると、手が震えていた。
約束を破られた。
僕は、昨日の彼女の笑顔を思い出そうとするが、頭の中で記憶がどんどん曇っていく。
工房の奥で、じいちゃんがガラスを磨く音だけが響いている。
僕は、除冷炉の蓋を開けて、青いガラスの器を取り出した。
美紗ちゃんが吹いた、あの夏の記憶が詰まった器だ。
「明日、絶対に取りに来る」
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
僕は工房のドアを開け、旅館の方を見やる。
白い壁に映る西陽の反射が、目を刺すように痛い。
僕は旅館の自販機に、飲み物を買いに来た。
夕暮れの旅館ロビーは、自動販売機のLEDが青白く浮かび上がっていた。
コインを入れる音が、静まり返った空間に鋭く響く。
「……お茶にしよ」
僕はボタンを押す指先に力を込めた。缶が転がり落ちる音に、肩がびくっと震えた。
その時、奥のソファスペースから聞き覚えのある笑い声がした。
見ると、ノートPCを開いている男性がいる。
PCで見ている動画から聞こえてきたようだ。
男はイヤホンジャックの接続を確認して、差し直した。声は聞こえなくなった。
その声が、美紗ちゃんのものだと僕はわかっていた。
ガラスの壁越しに、ノートPCを開いた男性の後ろ姿が見える。その画面に、美紗ちゃんが見える。
缶の表面が汗で滑る。思わず両手で、缶を握る。
足が勝手に動き出していた。
絨毯の上を猫のように忍び足で近づく。
男性の手元には。
僕の知らない美紗ちゃんがいた。
海辺でくるくると回ってみせる美紗。
移動中の箱根電鉄の窓から外を眺めてはしゃぐ美紗。
美紗ちゃんが湯上がりの浴衣姿でリンゴをかじる映像が流れていた。
すごく、すごく可愛かった。
けれど、その動画はなんなんだ?
そして、続いて友人らしい同年代女子に囲まれた写真が映し出された。
みんなで並んでポーズを撮っている。
瞬時に、胸がきゅっとなった。
ショックだった。
学校に行けないって話していたのは……嘘だったのか?
僕はきっと学校に行っていないだろうと思って、同情したのか?
指先が震える。
“また僕は、騙されてたのか?”
僕は、まだ学校を辞める前、高校二年――つまり、最後の高校文化祭――でのことが思い出された。
――それは、まだこの温泉街に来る前のこと。
冷え切った体育館の空気が、額に張り付いた汗を刺す。
「よし、これで完成だ……!」
僕は梯子から降り、震える指先で幕布に触れた。
三日間の徹夜で仕上げた弾幕アートだ。
僕は演劇部から頼まれて、舞台背景を担当することになった。
演目は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。
ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗って、南の星々を旅する話だ。
この話の背景を作るにあたって、ただ美しい夜空というだけ作ってはいけない。
神秘的な夜空であるように。
それが、僕の考えだった。
濃紺一色でもいいんじゃない? と言われたが、僕は拘ってピンク、藤色、水色、濃い青、黒を混ぜてグラデーションを作った。
そして、実際に夜空の星々を観察し、その位置や配置を詳細に描いた。
金粉を混ぜた青い絵の具が、スポットライトを受けて微かにきらめくように。
「お前、マジでやべーな」
親友の拓馬が呆れたように笑った。
「背景にここまで気合い入れる奴、いないだろ」
「だって……これが実質最後の文化祭だろ? 来年の今頃は受験前でどれだけ力入れられるかわかんないし。いい思い出作りたいじゃん!」
「おう。そうだな」
拓馬も僕も、演劇部の部員だった。表には立たず、こういった裏方を担当していた。ただ、拓馬と僕が担当になった背景作りは、実際ほぼ僕だけで作り上げていた。
別に不満はない。僕はこだわりがあって作りたいように作ったし、拓馬は「それいいじゃん」「この色よくね?」などと賛同してくれた。それだけで、俺は一緒に作っている気分になれた。
「宮沢賢治は、夜空を単なる背景ではなく、物語の重要な要素として設定していたはずなんだ」
「へー。お前、そういう作り手のエピソードっていうの? 好きだよな」
「そりゃ、もちろん。リスペクトは絶対だろ」
「さすが」
拓馬はそんなやる気でいっぱい僕と、僕の作った背景弾幕を呑気に見上げていた。
そして、本番当日。
まさか、あんなことになるなんて。
暗転した舞台裏で、僕は幕の引き紐を握り締めていた。
「3、2、1……」
カーテンが開く音。
次の瞬間、観客席から「えっ?」というざわめきが起こった。
「な……?」
僕の目が、幕の中央でぶら下がる裂け目に釘付けになった。
それは、縦にまっすぐ——
まるで日本刀で斬りつけられたような、完璧な一直線の破れ目。
金色の糸がぶら下がり、僕が作り上げた夜空は、舞台上で真っ二つに裂けていた。
「なんで……!?」
声が喉の奥で軋む。
指先が震えて、裂け目の縁をつまむ。
切り口が滑らかすぎる——
はさみでもない。カッターか何かで、丁寧にゆっくりと切られた痕跡だ。
「このまま進めるぞ!」
部活の顧問が、さも当然のように舞台袖で叫んだ。
「えっ? でも……! あれじゃだめです!」
「時間がない。お前の自己満足で、全校の行事を台無しにするな!」
その一言で、僕の膝はがくんと折れた。
目の前が真っ暗になった気がした。
それだけじゃなかった。
いざ劇が始まってからも、観客席からのヒソヒソ声がやけに大きく聞こえた気がした。
「なんか破れてない? ……あれ、合ってる?」
「いや、どう見てもミスでしょ。間に合わなかったのかな?」
幕が降りた瞬間、拓馬が駆け寄ってきた。
「大丈夫か? おい、顔色悪いぞ」
「……拓馬、お前知ってたのか?」
僕は震える指で破れ目を指す。
「こんなの、絶対わざとだろ。誰が……」
拓馬の目が一瞬泳いだ。
「あぁ……まあ、でもさ。そんなに気にすんなよ。そんなことも、あるって」
その励ましに、軽い失望を感じた。
帰り際、下駄箱でたまたま演劇部員の女子の会話が聞こえてきた。
「でか、あの変な幕破れててウケたわ」
「え。流石に可哀想じゃない?」
「だってあれやばくなかった? 自己満すごいっていうか。結構恥ずかしかったし」
「まぁ、それはわかる。みんな言ってたよね」
女子たちの笑い声が、鋭利なガラスのように耳を刺した。
下駄箱の蛍光灯が、突然眩しすぎた。
僕の影は、しばらくそこから動けず、廊下に残っていた。
まるで僕自身が真っ二つに裂かれたみたいに、歪つな形で。
そこからは部活にも顔を出せなくなったし、クラスでもうまく息ができなくなった。
休み時間は机につっぷして過ごすことが多くなった。
この頃は拓馬も学校に来ないことが多くなってたから、一人だった。
クラスのグループLINEで「文化祭の忘年会やろう!」と盛り上がったのは、それから1週間後のことだ。
「駅前のイタリアン集合で!」
「楽しみだね!」
「みんなで今年最後に盛り上がろう!」
僕は、久しぶりに少しだけ胸が高鳴った。
文化祭の一件以来、クラスの輪の中に入れずにいたけれど、
もしかしたら、またみんなと笑い合えるかもしれない。
そんな小さな期待が、心の奥に灯っていた。
忘年会用に、服も買った。普段はあまり着ないけど、最近流行っている韓国系のファッションを売っている店に行って店員にコーディネートを組んでもらった。
少し予算をオーバーしたけど、その一式を購入した。
駅前のイルミネーションが、白い粉雪を反射して、街全体がぼんやりと光って見える。
僕はコートの襟を立てて、指定されたレストランの前で立ち尽くしていた。
吐く息が白く、手の指先はじんじんと冷たかった。
雪がしんしんと降る夜だった。
「本当にここで合ってるよな……」
スマホの画面を何度も確認する。
約束の時間から、もう一時間が過ぎていた。
店の前を行き交う人たちが、僕をちらりと見ては通り過ぎていく。
店の中からは、楽しそうな笑い声とグラスがぶつかる音が漏れてくる。
けれど、僕の知っている顔はひとつも見えない。
「……みんな、遅れてるのかな」
LINEを開く。
新着メッセージはない。
手袋を外して、何度もグループチャットをスクロールする。
指先がかじかんで、スマホを落としそうになる。
ふと、SNSの通知が鳴った。
「今日の忘年会、めっちゃ楽しかったねー!」
「次は新年会だね!」
「また集まろう!」
僕は固まった。
画面に貼られた写真には、クラスメイトたちが笑顔でピースしている。
背景は、僕がいるレストランではない。
見覚えのない、別の店のカラフルな壁紙と、
「貸し切り」の札が映り込んでいた。
「……どこ、ここ」
唇が震えた。
もう一度、最初のメッセージを読み返す。
「駅前のイタリアン」としか書いていない。
SNSを見ると、「カフェ&ダイニングバーAND CATさん、ありがとうございました! またみんなで来よう!」の文字と店たタグ付けされていた。
写真の店は、駅から少し離れた新しくできたダイニングバーだった。
「なんで……」
僕は、雪の中で立ち尽くした。
指先がどんどん冷たくなっていく。
足元の雪が、じわじわと靴の中まで染みてくる。
周りの人たちは、誰も僕のことなんて気にしていない。
「……帰ろう」
小さく呟いて、駅までの道を歩き出す。
雪がコートの肩に積もっていく。
家に着く頃には、すっかり身体の芯まで冷え切っていた。
リビングで母がテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった? 忘年会。お酒とか飲んでないでしょうねー」
僕は靴を脱ぎながら、できるだけ平静を装った。
「うん。大丈夫」
そう言って、自分の部屋に直行して電気もつけず、ベッドに横になった。
忘年会用に買った服も、しわしわになることももうどうでもよかった。
少しすると、母が俺の部屋をノックしてきて「忘年会でなにかあったの?」と聞いてきた。
きっと、僕の様子がおかしかったのだろう。
「なにかあったなら、話してみなさい」
僕は自分が惨めすぎて、言いたくなかった。
けれど、勇気を出して言ってみることにした。
「……みんな、来なかった」
「え?」
「違う店でやってたみたい。僕、連絡来なくて知らなくて」
母は少しだけ眉をひそめて、
「……そう。みんな忙しかったのよ。気にしすぎじゃない?」
と、あっさり言った。
「……うん」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
自分がどれだけ期待していたか、どれだけ寂しかったかなんて誰も興味がないし、誰にも伝わらないのだと、その時、はっきりと分かった。
部屋に戻り、布団にくるまる。
スマホの画面には、楽しそうなクラスメイトたちの写真が、
何度も何度も流れてくる。
僕の居場所なんて、どこにもなかった。
雪はまだ、静かに降り続いていた。
はっとした。
まさか、美紗ちゃんは、そんなやつらとも笑い合える人種だったっていうのか?
PCの画面には、続いて男とのツーショット写真も映し出された。
映っている男は、今PCを操作している男と同じようだ。
あーあ、もうだめかもしれない。
手に持ったままの缶の表面が冷たくって、指先がじんじんとしびれていた。
男性はPCをバタンと閉じ、カバンに入れると席を立った。
僕は、思わず自動販売機の陰に隠れた。
男は鞄を抱え、旅館の裏口から外へ出ていく。
僕は冷えた缶を握りしめ、廊下を走り出していた。
「あの……」
呼び止めようとした声は、男の背中に吸い込まれた。
僕はスニーカーの底が絨毯に引っ掛かりそうになりながら、ただただ、追うことしかできなかった。
あの男は、美紗ちゃんのなんなんだ?
旅館での写真を見ていた。撮影できる相手だとすると、家族か? まさか、彼氏じゃないよな?
だって、今朝もう美紗ちゃんはチェックアウトしたと言っていた。
いったいどういうことだ?
頭にぽんぽんとはてなマークが浮かぶ。
見るからにこの男は歳も離れている。
もしかして――パパ活じゃないよな?
心臓がバクバク飛び跳ねている。
よし。僕が、暴いてやる。
自分の醜い気持ちが湧き上がる。
そんな自分が嫌だ。
でも、仕方がないんだ。
騙された方がいつも、傷を負うだけ。
全部嘘をつくやつが悪いに決まっているんだから。
わからないことは多いけれど、とにかく、確かなのは。
“嘘をつかれていた”ということ。
憤りがふつふつと湧いてくる。
僕は、こっそり男を追いかけることにした。
いい出来ではないけれど、初めて挑戦した動画だって、すっかり完成していた。
「お客さん、まだ来ないのか?」
じいちゃんがコーヒーをすすりながら訊ねてきた。
「……うん、まだ」
「旅館に聞いてみるか? まぁ、明日でもいいけど」
僕はスマホを握りしめたまま、旅館のフロントに電話をかけた。
「すみません、昨日まで宿泊していた美紗さんという方、今日もご滞在でしょうか?」
受話器の向こうで、フロントの女性が丁寧に答える。
「そちらのお客様でしたら、今朝チェックアウトされましたよ」
その瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。
「……そうですか。ありがとうございました」
電話を切ると、手が震えていた。
約束を破られた。
僕は、昨日の彼女の笑顔を思い出そうとするが、頭の中で記憶がどんどん曇っていく。
工房の奥で、じいちゃんがガラスを磨く音だけが響いている。
僕は、除冷炉の蓋を開けて、青いガラスの器を取り出した。
美紗ちゃんが吹いた、あの夏の記憶が詰まった器だ。
「明日、絶対に取りに来る」
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
僕は工房のドアを開け、旅館の方を見やる。
白い壁に映る西陽の反射が、目を刺すように痛い。
僕は旅館の自販機に、飲み物を買いに来た。
夕暮れの旅館ロビーは、自動販売機のLEDが青白く浮かび上がっていた。
コインを入れる音が、静まり返った空間に鋭く響く。
「……お茶にしよ」
僕はボタンを押す指先に力を込めた。缶が転がり落ちる音に、肩がびくっと震えた。
その時、奥のソファスペースから聞き覚えのある笑い声がした。
見ると、ノートPCを開いている男性がいる。
PCで見ている動画から聞こえてきたようだ。
男はイヤホンジャックの接続を確認して、差し直した。声は聞こえなくなった。
その声が、美紗ちゃんのものだと僕はわかっていた。
ガラスの壁越しに、ノートPCを開いた男性の後ろ姿が見える。その画面に、美紗ちゃんが見える。
缶の表面が汗で滑る。思わず両手で、缶を握る。
足が勝手に動き出していた。
絨毯の上を猫のように忍び足で近づく。
男性の手元には。
僕の知らない美紗ちゃんがいた。
海辺でくるくると回ってみせる美紗。
移動中の箱根電鉄の窓から外を眺めてはしゃぐ美紗。
美紗ちゃんが湯上がりの浴衣姿でリンゴをかじる映像が流れていた。
すごく、すごく可愛かった。
けれど、その動画はなんなんだ?
そして、続いて友人らしい同年代女子に囲まれた写真が映し出された。
みんなで並んでポーズを撮っている。
瞬時に、胸がきゅっとなった。
ショックだった。
学校に行けないって話していたのは……嘘だったのか?
僕はきっと学校に行っていないだろうと思って、同情したのか?
指先が震える。
“また僕は、騙されてたのか?”
僕は、まだ学校を辞める前、高校二年――つまり、最後の高校文化祭――でのことが思い出された。
――それは、まだこの温泉街に来る前のこと。
冷え切った体育館の空気が、額に張り付いた汗を刺す。
「よし、これで完成だ……!」
僕は梯子から降り、震える指先で幕布に触れた。
三日間の徹夜で仕上げた弾幕アートだ。
僕は演劇部から頼まれて、舞台背景を担当することになった。
演目は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。
ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗って、南の星々を旅する話だ。
この話の背景を作るにあたって、ただ美しい夜空というだけ作ってはいけない。
神秘的な夜空であるように。
それが、僕の考えだった。
濃紺一色でもいいんじゃない? と言われたが、僕は拘ってピンク、藤色、水色、濃い青、黒を混ぜてグラデーションを作った。
そして、実際に夜空の星々を観察し、その位置や配置を詳細に描いた。
金粉を混ぜた青い絵の具が、スポットライトを受けて微かにきらめくように。
「お前、マジでやべーな」
親友の拓馬が呆れたように笑った。
「背景にここまで気合い入れる奴、いないだろ」
「だって……これが実質最後の文化祭だろ? 来年の今頃は受験前でどれだけ力入れられるかわかんないし。いい思い出作りたいじゃん!」
「おう。そうだな」
拓馬も僕も、演劇部の部員だった。表には立たず、こういった裏方を担当していた。ただ、拓馬と僕が担当になった背景作りは、実際ほぼ僕だけで作り上げていた。
別に不満はない。僕はこだわりがあって作りたいように作ったし、拓馬は「それいいじゃん」「この色よくね?」などと賛同してくれた。それだけで、俺は一緒に作っている気分になれた。
「宮沢賢治は、夜空を単なる背景ではなく、物語の重要な要素として設定していたはずなんだ」
「へー。お前、そういう作り手のエピソードっていうの? 好きだよな」
「そりゃ、もちろん。リスペクトは絶対だろ」
「さすが」
拓馬はそんなやる気でいっぱい僕と、僕の作った背景弾幕を呑気に見上げていた。
そして、本番当日。
まさか、あんなことになるなんて。
暗転した舞台裏で、僕は幕の引き紐を握り締めていた。
「3、2、1……」
カーテンが開く音。
次の瞬間、観客席から「えっ?」というざわめきが起こった。
「な……?」
僕の目が、幕の中央でぶら下がる裂け目に釘付けになった。
それは、縦にまっすぐ——
まるで日本刀で斬りつけられたような、完璧な一直線の破れ目。
金色の糸がぶら下がり、僕が作り上げた夜空は、舞台上で真っ二つに裂けていた。
「なんで……!?」
声が喉の奥で軋む。
指先が震えて、裂け目の縁をつまむ。
切り口が滑らかすぎる——
はさみでもない。カッターか何かで、丁寧にゆっくりと切られた痕跡だ。
「このまま進めるぞ!」
部活の顧問が、さも当然のように舞台袖で叫んだ。
「えっ? でも……! あれじゃだめです!」
「時間がない。お前の自己満足で、全校の行事を台無しにするな!」
その一言で、僕の膝はがくんと折れた。
目の前が真っ暗になった気がした。
それだけじゃなかった。
いざ劇が始まってからも、観客席からのヒソヒソ声がやけに大きく聞こえた気がした。
「なんか破れてない? ……あれ、合ってる?」
「いや、どう見てもミスでしょ。間に合わなかったのかな?」
幕が降りた瞬間、拓馬が駆け寄ってきた。
「大丈夫か? おい、顔色悪いぞ」
「……拓馬、お前知ってたのか?」
僕は震える指で破れ目を指す。
「こんなの、絶対わざとだろ。誰が……」
拓馬の目が一瞬泳いだ。
「あぁ……まあ、でもさ。そんなに気にすんなよ。そんなことも、あるって」
その励ましに、軽い失望を感じた。
帰り際、下駄箱でたまたま演劇部員の女子の会話が聞こえてきた。
「でか、あの変な幕破れててウケたわ」
「え。流石に可哀想じゃない?」
「だってあれやばくなかった? 自己満すごいっていうか。結構恥ずかしかったし」
「まぁ、それはわかる。みんな言ってたよね」
女子たちの笑い声が、鋭利なガラスのように耳を刺した。
下駄箱の蛍光灯が、突然眩しすぎた。
僕の影は、しばらくそこから動けず、廊下に残っていた。
まるで僕自身が真っ二つに裂かれたみたいに、歪つな形で。
そこからは部活にも顔を出せなくなったし、クラスでもうまく息ができなくなった。
休み時間は机につっぷして過ごすことが多くなった。
この頃は拓馬も学校に来ないことが多くなってたから、一人だった。
クラスのグループLINEで「文化祭の忘年会やろう!」と盛り上がったのは、それから1週間後のことだ。
「駅前のイタリアン集合で!」
「楽しみだね!」
「みんなで今年最後に盛り上がろう!」
僕は、久しぶりに少しだけ胸が高鳴った。
文化祭の一件以来、クラスの輪の中に入れずにいたけれど、
もしかしたら、またみんなと笑い合えるかもしれない。
そんな小さな期待が、心の奥に灯っていた。
忘年会用に、服も買った。普段はあまり着ないけど、最近流行っている韓国系のファッションを売っている店に行って店員にコーディネートを組んでもらった。
少し予算をオーバーしたけど、その一式を購入した。
駅前のイルミネーションが、白い粉雪を反射して、街全体がぼんやりと光って見える。
僕はコートの襟を立てて、指定されたレストランの前で立ち尽くしていた。
吐く息が白く、手の指先はじんじんと冷たかった。
雪がしんしんと降る夜だった。
「本当にここで合ってるよな……」
スマホの画面を何度も確認する。
約束の時間から、もう一時間が過ぎていた。
店の前を行き交う人たちが、僕をちらりと見ては通り過ぎていく。
店の中からは、楽しそうな笑い声とグラスがぶつかる音が漏れてくる。
けれど、僕の知っている顔はひとつも見えない。
「……みんな、遅れてるのかな」
LINEを開く。
新着メッセージはない。
手袋を外して、何度もグループチャットをスクロールする。
指先がかじかんで、スマホを落としそうになる。
ふと、SNSの通知が鳴った。
「今日の忘年会、めっちゃ楽しかったねー!」
「次は新年会だね!」
「また集まろう!」
僕は固まった。
画面に貼られた写真には、クラスメイトたちが笑顔でピースしている。
背景は、僕がいるレストランではない。
見覚えのない、別の店のカラフルな壁紙と、
「貸し切り」の札が映り込んでいた。
「……どこ、ここ」
唇が震えた。
もう一度、最初のメッセージを読み返す。
「駅前のイタリアン」としか書いていない。
SNSを見ると、「カフェ&ダイニングバーAND CATさん、ありがとうございました! またみんなで来よう!」の文字と店たタグ付けされていた。
写真の店は、駅から少し離れた新しくできたダイニングバーだった。
「なんで……」
僕は、雪の中で立ち尽くした。
指先がどんどん冷たくなっていく。
足元の雪が、じわじわと靴の中まで染みてくる。
周りの人たちは、誰も僕のことなんて気にしていない。
「……帰ろう」
小さく呟いて、駅までの道を歩き出す。
雪がコートの肩に積もっていく。
家に着く頃には、すっかり身体の芯まで冷え切っていた。
リビングで母がテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった? 忘年会。お酒とか飲んでないでしょうねー」
僕は靴を脱ぎながら、できるだけ平静を装った。
「うん。大丈夫」
そう言って、自分の部屋に直行して電気もつけず、ベッドに横になった。
忘年会用に買った服も、しわしわになることももうどうでもよかった。
少しすると、母が俺の部屋をノックしてきて「忘年会でなにかあったの?」と聞いてきた。
きっと、僕の様子がおかしかったのだろう。
「なにかあったなら、話してみなさい」
僕は自分が惨めすぎて、言いたくなかった。
けれど、勇気を出して言ってみることにした。
「……みんな、来なかった」
「え?」
「違う店でやってたみたい。僕、連絡来なくて知らなくて」
母は少しだけ眉をひそめて、
「……そう。みんな忙しかったのよ。気にしすぎじゃない?」
と、あっさり言った。
「……うん」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
自分がどれだけ期待していたか、どれだけ寂しかったかなんて誰も興味がないし、誰にも伝わらないのだと、その時、はっきりと分かった。
部屋に戻り、布団にくるまる。
スマホの画面には、楽しそうなクラスメイトたちの写真が、
何度も何度も流れてくる。
僕の居場所なんて、どこにもなかった。
雪はまだ、静かに降り続いていた。
はっとした。
まさか、美紗ちゃんは、そんなやつらとも笑い合える人種だったっていうのか?
PCの画面には、続いて男とのツーショット写真も映し出された。
映っている男は、今PCを操作している男と同じようだ。
あーあ、もうだめかもしれない。
手に持ったままの缶の表面が冷たくって、指先がじんじんとしびれていた。
男性はPCをバタンと閉じ、カバンに入れると席を立った。
僕は、思わず自動販売機の陰に隠れた。
男は鞄を抱え、旅館の裏口から外へ出ていく。
僕は冷えた缶を握りしめ、廊下を走り出していた。
「あの……」
呼び止めようとした声は、男の背中に吸い込まれた。
僕はスニーカーの底が絨毯に引っ掛かりそうになりながら、ただただ、追うことしかできなかった。
あの男は、美紗ちゃんのなんなんだ?
旅館での写真を見ていた。撮影できる相手だとすると、家族か? まさか、彼氏じゃないよな?
だって、今朝もう美紗ちゃんはチェックアウトしたと言っていた。
いったいどういうことだ?
頭にぽんぽんとはてなマークが浮かぶ。
見るからにこの男は歳も離れている。
もしかして――パパ活じゃないよな?
心臓がバクバク飛び跳ねている。
よし。僕が、暴いてやる。
自分の醜い気持ちが湧き上がる。
そんな自分が嫌だ。
でも、仕方がないんだ。
騙された方がいつも、傷を負うだけ。
全部嘘をつくやつが悪いに決まっているんだから。
わからないことは多いけれど、とにかく、確かなのは。
“嘘をつかれていた”ということ。
憤りがふつふつと湧いてくる。
僕は、こっそり男を追いかけることにした。
