その日の夜。じいちゃんはやけに陽気な顔をして帰ってきた。
 きっと麻雀でうまいこといったんだろう。

 じいちゃんは、僕が書いた来訪者記録の「旅館宿泊者」「高校生1名」「制作なし」の記載を確認したあと、作業台のところに一直線に向かっていった。

「今日の人、なにも作らなかったのか?」
「うん。でも、明日も来るって。吹きガラス。なんかじいちゃんに会いたがってた」
「俺にぃ? ていうか、明日も学校、休みなのか?」
 金槌でガラスの型を叩きながら、じいちゃんが呟いた。
「高校生なんだろ? もうどこも学校始まってるだろ」
 たしかに、それはそうだ。

 工房の灯りを消して、じいちゃんと二人、家までの坂道を歩く。
 じいちゃんの家は、工房から歩いて8分のところにある。築50年の平屋だ。

 温泉街の夕暮れは、湯けむりと湯宿の灯りが混ざり合っている。

 都会にいた頃は、夜になってもネオンや車のヘッドライトが絶え間なく光っていた。
 でも、温泉街の夕暮れは違う。ゆらゆらと立ちのぼる湯けむり。旅館の窓やガス灯がひとつ、またひとつと灯る風景が当たり前になりつつあった。

 ――学校をやめた日。
 春の終わり、僕は制服姿で、学校の事務室に向かった。
 窓の外では桜の花びらが静かに舞っていた。

「退学届、確かに受け取りました」

 事務員の女性が静かに書類を確認する。
 書類の隅には、親のサインと印鑑もある。完璧な書類だ。
 僕はうなずくだけで、何も言えなかった。

 教室のざわめきも、廊下の足音も、もう自分には関係のない音になった気がした。
 担任や学年主任の先生との面談からは、スムーズだった。親もきっと、諦めていた。

 復学可能な休学にしないかと面談の時に学年主任は言ったが、正直なんの魅力も感じなかった。時間が経っても、ここに通う自分のビジョンは想像つかなかった。

「いえ。自主退学します」そう答える僕の横にいる母も、一緒に「息子がそう言いますので。お世話になりました」と頭を下げたものだから、学年主任はそれきり何も言わなかった。

「さようなら、青春。さようなら、高校生の僕」

 そう思いながら、学校をあとにした。

 帰り道、制服のポケットに手を突っ込んだ。

「本当にこれでよかったのかな」

 心の奥に、ぽっかりと穴が開いたような気持ち。
 でも、あの教室に戻る勇気も、もう残っていなかった。
 これで楽になった、という気持ちもどこかにあった。

 スマホを開くと、母親からのメッセージが届いていた。
『おつかれさま。自分のペースで、一歩ずつ進めばいいよ』

 その後、クラスメイトからも親友――だと僕が勝手に思っていたやつ――からも、なんの連絡は届かなかった。


 そんなことを、思い返していた。


「今日は何食べるんだ?」

 玄関について、じいちゃんが背中越しに尋ねてきて、はっとした。
 玄関にはじいちゃんが作ったガラス風鈴が下がり、風が通るたびリリンと憂いを帯びた音が鳴る。

「あー。じゃがいもあったよね」
「あるぞ。好きにしろ」
 じいちゃんはそう言い残して、玄関で早々に上着を脱ぐと、
「今夜は夜通し麻雀だ。遅くなる」と言った。
「また? さっきのは?」
 僕は目を丸くする。
「相手が違う」
 と、出かけていった。

 僕は「いってらっしゃい」と小さく手を振る。
 窓の外はもう夜で、湯けむりの向こうに街灯がぼんやり光っている。

 玄関が静かになると、家の中の空気もすっと落ち着いた。

 夕飯はいつも一人で食べたり、じいちゃんと食べたり。じいちゃんは温泉街の麻雀コミュニティに出かけることも多いから、そういう時は一人分だけ作って食べる。

 今日みたいなことはわりとよくあって、一人分の夕飯を作るのは、もう慣れっこだ。
 寂しいとかは思わない。むしろ、じいちゃんのこの距離感の感じが、心地がいい。

 実家で親と暮らしていたときは、食べたくもない気分の時にもリビングに行って食べないといけなかったから。
 自由があるということが、嬉しかった。

 そしてこんな時、いつも作るレパートリーは僕のなかで何種類かある。
 野菜を適当に煮てスープにして、そこに米を入れておじやみたいにするやつ。
 なぜか僕は、昔から柔らかい米が好きなのだ。
 風邪でもないのに、お粥を通って食べたりもする。

 この温泉街には、お粥に合わせるのにぴったりな漬物、副菜がたくさんある。
 隣の旅館でお土産コーナーに売っている梅干しも酸っぱくなくて美味しいし、鮭を焼いてほぐして混ぜても良いし、漬物をきざんでまぶしても、良い。
 あと理屈はよくわからないけど、昆布茶の香りがするお粥もこの温泉街では流行っている。
 家でそれを作ることはないけど、何度か近くの店に行って食べた。
 やはり美味しかった。

 でも。
 今日はなんとなく、新しいことをしたくなった。

 スマホで「ラトビア 料理」と検索してみる。
 美紗ちゃんが話していたリガの話が、忘れられなかったからだ。

 画面には「じゃがいものパンケーキ」というレシピが表示された。
 ラトビア語で「ラツィ・プァンカーカス」というらしい。

 すりおろしたじゃがいも、玉ねぎ、卵、小麦粉――
 主要な材料は、どれも家にあるものばかりだ。

「あ」

 トッピングにサワークリームが必要らしい。
 あと、ピンクペッパーがあると良いと。

 僕は簡単にトートバックをてひとつ持って、家を出た。

 この町は、人の声も、車の音も、都会のざわめきとはまるで違う。
 夜になると、温泉街の道はしんと静まり、
 湯畑や川沿いのガス灯が、淡く足元を照らすだけだ。

「もう慣れてきたな」と、ふと思う。
 最初はこの静けさが心細かったけれど、
 今はこの町のリズムが、すっかり自分の日常になっている。

 温泉街で暮らす前まで、食材の買い物はどうするのかと思っていた。
 実は、ここの温泉街の中心には昔ながらの八百屋や魚屋があって、地元の人はそういう個人商店で野菜や魚を買うことも多い。

 でも、最近はコンビニや小型スーパーも増えてきて、徒歩圏内にセブンイレブンやローソンがいくつかあるし、少し歩けば小型スーパーもある。

 都会のスーパーと違うのは、夜遅くまで煌々と明かりがついているわけじゃないこと。
 閉店時間も早めだし、売っている量もそう多くないから、必要なものは早めに買っておかないといけない。

「都会と違って不便じゃない?」とこっちの人に聞かれても、この静かな温泉街の暮らしが、きっと僕にはちょうどいい。

 今では、この買い物のスタイルにもすっかり慣れてしまった。

「あー、ないかぁ」

 小型スーパーに来たものの、サワークリームは売っていなかった。
 乳製品コーナーにはヨーグルトとバター、チーズしか並んでいない。
 棚の前で立ち止まる。スマホを取り出して、調べる。

「サワークリーム 代用」
 ヨーグルトとレモン汁と塩でできるらしい。

 都会の大型スーパーなら当たり前のように並んでいるものも、
 ここではなかなか手に入らない。

 でも、そのかわりに地元産のヨーグルトがずらりと並んでいる。
「まぁ、これでいけるか」
 僕は一番プレーンなヨーグルトを手に取る。
 レモン1つだけが入ったカゴに、そっと投入した。

 レジ近くの惣菜コーナーには、温泉まんじゅうや地元の漬物が並ぶ。
「じいちゃん好きなやつだな」と漬物を一つ選び、カゴに入れた。
 もう冷蔵庫に残りが少なかった気がする。

 それから、意外なことにピンクペッパーも売っていたので、それも買うことにした。

 買い物帰りに湯けむりと旅館の灯りの中を歩く。
 ぼわーっとした明かりが、どこか異世界のよう。

 これも、この町ならではの楽しみだ。

 家に帰って、キッチンに立つ。
 スマホで「サワークリーム 代用」と検索した結果の「ヨーグルトに塩をひとつまみ、レモン汁を少し混ぜると近くなる」と書いてあるのを、じっと見る。
「よし」と両手で頬をぱんと叩いた。

 ボウルにヨーグルトを入れ、冷蔵庫の奥からレモンを半分だけ取り出す。
 小さじ一杯分のレモン汁を絞り、塩をぱらりと振りかけて、スプーンで丁寧に混ぜてみる。

「……これでいいのかな」
 味見をすると、ほのかな酸味とまろやかさがちゃんとあって、思ったよりもサワークリームっぽい。
「うん、これならいける」
 ボウルは冷蔵庫に入れて、冷やすことにした。

 じゃがいもは、2個。
 じゃがいもをすりおろすことなんて、人生で初めてだった。すりおろしていくと、手が冷たくなった。

 玉ねぎのみじん切りでは、目がしみる。
 ボウルの中で、卵と粉を混ぜて、塩と胡椒を少し多めに入れる。

 フライパンに多めに油をひいて、スプーンでもったりとした生地を落とすと、
 じゅうっと音がして、キツネ色の香ばしい匂いが広がった。

「合ってるのかな……」

 思わず独り言が漏れる。

 合ってるっていうのは、料理として合っているのか、というより、美紗ちゃんが食べたものがこれで合っているのかなっていう意味合いのほうが強かった。

 焼き上がったパンケーキ2枚を皿に重ねて、
 冷蔵庫からひえひえに冷やした自家製サワークリームを取り出す。

 サワークリームを上に乗せて、その上からピンクペッパーを散らした。

 いい感じだ。

 テーブルに一人分だけ並べて、
「いただきます」と声に出した。

 そのときスマホの通知に気づいて見ると、じいちゃんから「今夜は三万点で終了だ」とだけ書かれたLINEが届いていた。

「これは強いのか? なんだ?」
 首を傾げながら、パンケーキをひと口食べる。

 ほくほくしているのかと思いきや、外はカリッと、生地はもっちりとしていて、ほんのり甘い安心する味だった。自家製サワークリームは爽やかで、うまくいったことを確信した。

 正直、これが料理として正解なのか不正解なのかはわからない。

 けれど、素敵な女の子が食べたというラトビアの異国の味。
 それに少し近づけたと思うと、それだけで満足感があった。