「ミュシャを好きになったのは、なにかきっかけがあるの?」
「きっかけはね、お母さんかな」
「お母さんも好きなんだ?」
「うん。お母さんはアール・ヌーヴォーが大好きで。昔エミール・ガレの研究してたんだって」
「へぇ」
「数年前にね、ラトビアのリガまで建築を見に行ったの。アール・ヌーヴォーの建築がいっぱい見られる通りがあってね。知ってる? 黒猫の街とも言われてて」
「ううん。黒猫の街?」
「そう。“猫の家”っていう有名な建築物もあるの。その街にいるだけで、まるで、芸術作品の中に迷い込んだみたいだった」
美紗ちゃんの瞳が、工房の窓ガラス越しの光にきらめいた。
「ほら、これ」
そう言って、美紗ちゃんはまたスマホを見つめて微笑み、僕に見せてきた。
「ここを歩いたの。通りの両側に、色とりどりのアール・ヌーヴォーの建物が並んでいて、まるで美術館の中を歩いているみたいだった。アルベルト通りって言うの。すごくって」
画面には、アール・ヌーヴォー建築が通り一面にずらっと並んでいる。僕は思わず「わぁ」と声を漏らした。
色も白と水色だったり、ピンク色、クリーム色っぽかったりと、さまざまだ。
まるで、その通り自体が芸術品のよう。
「こんなところがあるなんて……」僕は呟くようにそう言っていた。
「ね。この建物のここ。同じ顔が並んでるでしょ? なにかを叫んで伝えたがっているみたい。建築そのものが、昔からずっと生きてるみたいだった」
僕は、“確かに“と頷いた。
趣味がいいのか悪いのかわからないが、巨大な顔が壁についていて、そのどれもが同じ表情をしている。ということは、数ミリも違いもなく作られたに違いない。
「今みたいな技術とかもまだないのに、よくもまぁこんな昔に同じ顔を量産できたよね」
「ほんとそれなの!」
目を大きくして興奮したように話す美紗ちゃん。
すごく、すごく可愛かった。
そして、実態に見たら、その驚きももっとあるんだろうな、と思った。
「ラトビアって、どこだっけ?」
「バルト三国の真ん中。ヨーロッパの、ロシアに近いところ」
「あぁ。あのあたりか」
「面白かったよ。それから、現地で食べたお豆とベーコンの煮込みとか、じゃがいものもちもちしたお料理とか。あ、黒パンも美味しかった。これはデザートの蜂蜜ケーキ」
そう言って、画面をスライドして思い出の写真を次々と見せてくれる。
「でも、じゃがいもってすごくお腹いっぱいになるの」
スライドする指先が微かに震えている。
少し気になったが、特に言及しなかった。
「すごいな。当たり前だけど、日本とは……この温泉街とは、全然違うね」
「ね。違う世界みたい。街を歩く人も、当たり前だけどみーんな見慣れない感じの人でさ。絶対おすすめ。あ、今回ミュシャのクリアファイル持ってきてたな。旅館か。写真あったかな」
そう言って、美紗ちゃんはまたスマホを見つめて微笑んだ。
その横顔が、まるでミュシャのポスターの中の女性みたいに、
やわらかく、でもどこか凛として見えた。
彼女は僕の視線に気づいてか、顔をあげて微笑んだ。
「ミュシャと、美紗。音が似てるでしょ? きっと、好きになる運命だったんだと思う」
その言葉に、僕は頭のなかまで見えてないか不安になったくらいだった。
「ねえ、おじいさん、今日は工房にいらっしゃらないんだよね?」
彼女の声は少し浮き足立っていて、ただの観光客の好奇心とは違う、何かを探しているような響きがあった。
「うん。今日は出かけてて戻ってこないと思う」と僕が答えると、美紗ちゃんは「そっか」と小さくうなずき、工房の奥の作業台や、壁にかかった古い道具を興味深そうに眺めた。
夏の工房の窓から入る陽炎が、
彼女の輪郭をゆらゆらと揺らしていた。
こんな子は見たことがなかった。それなりに都会に住んでいた時も。
こんなに、美しい女性なんて。
「あの……差し支えなければだけど。美紗ちゃんは、どこから来たの?」
ふと尋ねると、彼女はくるりと振り返った。
海藻のような黒髪がひらりと舞う。
「海から来たの」
そう言って、目を細めた。
彼女の指が、棚のガラス花瓶をそっと撫でる。
青い光がその手の甲を泳いだ。
“海”? 冗談なのかなんなのか、まったく読めないこの人に、僕はもう心を奪われていた。
まるで本当に海の底から現れた人魚が、
ふいに陸に上がったような、
そんな不思議な午後だった。
「きっかけはね、お母さんかな」
「お母さんも好きなんだ?」
「うん。お母さんはアール・ヌーヴォーが大好きで。昔エミール・ガレの研究してたんだって」
「へぇ」
「数年前にね、ラトビアのリガまで建築を見に行ったの。アール・ヌーヴォーの建築がいっぱい見られる通りがあってね。知ってる? 黒猫の街とも言われてて」
「ううん。黒猫の街?」
「そう。“猫の家”っていう有名な建築物もあるの。その街にいるだけで、まるで、芸術作品の中に迷い込んだみたいだった」
美紗ちゃんの瞳が、工房の窓ガラス越しの光にきらめいた。
「ほら、これ」
そう言って、美紗ちゃんはまたスマホを見つめて微笑み、僕に見せてきた。
「ここを歩いたの。通りの両側に、色とりどりのアール・ヌーヴォーの建物が並んでいて、まるで美術館の中を歩いているみたいだった。アルベルト通りって言うの。すごくって」
画面には、アール・ヌーヴォー建築が通り一面にずらっと並んでいる。僕は思わず「わぁ」と声を漏らした。
色も白と水色だったり、ピンク色、クリーム色っぽかったりと、さまざまだ。
まるで、その通り自体が芸術品のよう。
「こんなところがあるなんて……」僕は呟くようにそう言っていた。
「ね。この建物のここ。同じ顔が並んでるでしょ? なにかを叫んで伝えたがっているみたい。建築そのものが、昔からずっと生きてるみたいだった」
僕は、“確かに“と頷いた。
趣味がいいのか悪いのかわからないが、巨大な顔が壁についていて、そのどれもが同じ表情をしている。ということは、数ミリも違いもなく作られたに違いない。
「今みたいな技術とかもまだないのに、よくもまぁこんな昔に同じ顔を量産できたよね」
「ほんとそれなの!」
目を大きくして興奮したように話す美紗ちゃん。
すごく、すごく可愛かった。
そして、実態に見たら、その驚きももっとあるんだろうな、と思った。
「ラトビアって、どこだっけ?」
「バルト三国の真ん中。ヨーロッパの、ロシアに近いところ」
「あぁ。あのあたりか」
「面白かったよ。それから、現地で食べたお豆とベーコンの煮込みとか、じゃがいものもちもちしたお料理とか。あ、黒パンも美味しかった。これはデザートの蜂蜜ケーキ」
そう言って、画面をスライドして思い出の写真を次々と見せてくれる。
「でも、じゃがいもってすごくお腹いっぱいになるの」
スライドする指先が微かに震えている。
少し気になったが、特に言及しなかった。
「すごいな。当たり前だけど、日本とは……この温泉街とは、全然違うね」
「ね。違う世界みたい。街を歩く人も、当たり前だけどみーんな見慣れない感じの人でさ。絶対おすすめ。あ、今回ミュシャのクリアファイル持ってきてたな。旅館か。写真あったかな」
そう言って、美紗ちゃんはまたスマホを見つめて微笑んだ。
その横顔が、まるでミュシャのポスターの中の女性みたいに、
やわらかく、でもどこか凛として見えた。
彼女は僕の視線に気づいてか、顔をあげて微笑んだ。
「ミュシャと、美紗。音が似てるでしょ? きっと、好きになる運命だったんだと思う」
その言葉に、僕は頭のなかまで見えてないか不安になったくらいだった。
「ねえ、おじいさん、今日は工房にいらっしゃらないんだよね?」
彼女の声は少し浮き足立っていて、ただの観光客の好奇心とは違う、何かを探しているような響きがあった。
「うん。今日は出かけてて戻ってこないと思う」と僕が答えると、美紗ちゃんは「そっか」と小さくうなずき、工房の奥の作業台や、壁にかかった古い道具を興味深そうに眺めた。
夏の工房の窓から入る陽炎が、
彼女の輪郭をゆらゆらと揺らしていた。
こんな子は見たことがなかった。それなりに都会に住んでいた時も。
こんなに、美しい女性なんて。
「あの……差し支えなければだけど。美紗ちゃんは、どこから来たの?」
ふと尋ねると、彼女はくるりと振り返った。
海藻のような黒髪がひらりと舞う。
「海から来たの」
そう言って、目を細めた。
彼女の指が、棚のガラス花瓶をそっと撫でる。
青い光がその手の甲を泳いだ。
“海”? 冗談なのかなんなのか、まったく読めないこの人に、僕はもう心を奪われていた。
まるで本当に海の底から現れた人魚が、
ふいに陸に上がったような、
そんな不思議な午後だった。
