朝の光が、ガラス工房の窓から静かに差し込んでくる。
 九月の工房は、夏の名残りを残しつつも、どこか静かだった。

 箱根。山あいに佇む温泉街だ。
 石畳の路地には湯けむりが立ち上り、木造旅館の軒先に赤い提灯が揺れる。

 周囲はなだらかな丘陵と緑に囲まれ、川が街の中心をゆったりと流れている。
 川沿いに並ぶ温泉宿の煙突からは薄く硫黄の香りが漂い、夜になれば提灯の明かりが川面に映るのでこのあたりはより幻想的に見えるのだった。

 老舗の木造旅館の一つの傍に、そのガラス工房“OTOZU”はある。

 外から見ると、瓦屋根の古民家を改築したものだとわかる。外壁の黒漆喰に蔦が絡み、入り口の硝子張りドアだけが現代的なアクセントとなっている。

 内部は梁がむき出しの天井に、炎がゆらぐバーナー台が並び、床にはガラス粉のきらめきが散らばる。奥には電気炉がどっしりと鎮座し、完成品を並べた木製棚が壁一面を埋める。

 じいちゃんは、黙々とガラスを吹いている。
 かつて「東洋のガレ」と呼ばれたその背中は、どこか遠い世界の人みたいで。
 僕にはまだ、じいちゃんの作るガラスのような透明さも、強さもない。

 僕は、じいちゃんの作業台の端っこに座り、スマホの画面を指でなぞる。
 SNSのタイムラインには、誰かの楽しそうな笑顔や、きらびやかな日常が流れていく。
 それをぼんやり眺めながら、僕は今日も「いいね」を押せないでいる。

「お前、今日の撮ってあげてくれたか?」
 じいちゃんの低い声が、静かな工房に響く。

「まだ。光がきれいに入る時間を待ってた」
「もう撮っといてくれるか」

 僕はカメラを構え、じいちゃんの作品にそっとレンズを向ける。
 淡い水色に透き通ったガラスの花瓶。
 朝の陽射しが差し込むと、まるで本物の水のように、
 その中で光が揺れる。

「ガラスはな、壊れやすい。が、美しい。
 人の心も、似たようなもんだな」

 僕は、うまく笑えなかった。

 ……だって。一度壊れたら、もう全部意味がないことを知っているから。