その週の土曜日。
 普段土曜日も部活がある。しかしこの日は顧問の先生の都合で部活は休みだった。
「ああ、どうしよう」
 響はリビングで母親が困っていることに気付いた。
「母さん、何かあった?」
 響は首を傾げている。
「いやこの前、響から大月さんの話聞いたじゃん。それで、せっかくだし先週お父さんと二人で旅行した時、大月さんにもお土産買ってみたのよ。それで響から大月さんの連絡先と家も聞いたし、今日渡しに行こうかなって思ったんだけど、急な仕事が入って。お父さんも出掛けてるし……」
 響の母親は困ったようにお土産の袋を持っている。
 響はこれがチャンスだと思った。
「母さん、じゃあ俺が届けようか?」
 ニッと笑う響。
「良いの? じゃあお願い。日持ちしないものだから、なるべく早くね」
 響の母親は彼にお土産の袋を託す。
「分かった」
 響は早速準備する。
 奏にメッセージを送った。
《かなちゃん、うちの親がかなちゃんの両親に渡したいお土産があるって。今から俺が届けるけど、家に行って大丈夫?》
 すると、すぐに既読が付いた。
《はい。大丈夫です。でも、今両親も祖父母も不在で私一人ですよ》
 奏からそう返事があった。
《うん。丁度かなちゃんと話したいこともあったから、行くね》
 響はそう返事をし、お土産と自身のクラリネットケースを持って家を出た。





♪♪♪♪♪♪♪♪




 
(うわあ……大きい家ばっかり……)
 地図アプリを使い、奏の家まで歩いていた響。
 現在響がいる場所は高級住宅街。
 いかにも富裕層が住んでいそうな家ばかりで響は気が引けてしまう。
(あ、ここだ。かなちゃん、こんな凄い家に住んでるんだ……。そういえば、マンションの隣の部屋に住んでた時も、かなちゃんの家の家具は高級そうだったなあ。かなちゃんの両親、どっちも実家がお金持ちだって聞いたことあったし……)
 響はたどり着いた奏の家を見て完全に気後れしていた。
 それは響が今まで見た中で一番大きく高級感ある外観の家だった。
 響は奏に到着したとメッセージを送り、門のベルを鳴らした。
 するとインターホンから声が聞こえる。
『どちら様ですか?』
 控えめな奏の声だ。
「小日向響です。かなちゃん、来たよ」
 響は緊張しながらインターホンに向かって話した。
『今開けます』
 インターホン越しに奏がそう言い、それ程待たないうちに玄関から奏が出て来た。
 奏は広い庭を通り、門の前にやって来て鍵を開けてくれた。
「どうぞ」
 奏は上品な白いリボンブラウスに、紫のロングスカートを履いていた。
(かなちゃん、私服が上品だ……。綺麗……)
 響は思わずドキッとし、見惚れていた。
「響先輩?」
 奏は怪訝そうな表情だ。
「あ、ごめん」
 響はハッと我に返る。
「ありがとう。……凄い家だね。庭も広いし」
 響は家と庭を見渡し目を大きく見開いていた。
「曽祖父の代から住んでいる土地みたいです」
 奏は控えめに微笑んでいた。
 
「お邪魔します……」
 響は家に入り、豪華な玄関に圧倒されていた。
(うわあ……! 凄過ぎる……! こんな家に住むなんて、やっぱりかなちゃんお嬢様じゃん……!)
 響は家中キョロキョロ見渡していた。
「とりあえず、リビングにどうぞ。今紅茶を淹れますね」
 奏はそう言い、響をリビングに案内した。
 響の予想通り、リビングも高級感があった。
 緊張しながらシックなソファに座る響。
 肌触りから高級そうな感じがして、緊張感が余計に高まる響である。
 奏は慣れた様子で高級感が漂う空間を歩き、紅茶を淹れている。
(かなちゃん、様になってるなあ……)
 響は思わず奏に見惚れていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 しばらくして、出された紅茶を飲む響。
 今まで飲んだことのないような高級な味がした。
「それで、うちの親からのお土産なんだけど」
 少し落ち着きを取り戻した響は、お土産が入った袋を奏に渡す。
「ありがとうございます、響先輩。両親にも伝えておきますね」
 奏は響からお土産を受け取った。
 響の一つ目のミッションはこれでクリアである。
「うん。それとさ、今は学校じゃないし、昔みたいにタメ口でも良いよ」
「でも……響先輩は一学年上ですし……」
 奏は困ったように苦笑した。
「じゃあ無理にとは言わないけど」
 響は柔らかく微笑んだ。ここで奏を困らせるわけには行かない。
 そして、残るミッションは一つ。
 響は先程とは違う緊張感を持ち、持って来たクラリネットケースにゆっくりと手を伸ばす。
「響先輩、何でクラリネットを持って来たのですか?」
 怪訝そうな表情の響。
「かなちゃんのフルートがまた聴きたくて。俺がクラリネット吹いたら、もしかしたらかなちゃんも乗ってくれるかなって思った」
 真っ直ぐ奏を見る響。
 奏の表情が強張った。

「中一の時、かなちゃんに何があったのか聞いたよ。フルートコンクールのことも。だけど……俺はかなちゃんが本気で音楽が嫌いになったようには思えなかった」
 すると奏は俯き、右腕が震える。それを左手で守るように押さえる奏。
 響はそっと奏の右手を包み込むように握る。
 奏は驚いたように響を見た。
「腱鞘炎……もう治ってるけど……怖いよね」
 すると、奏の右腕の震えが止まる。
「……フルートを……吹こうと思っても……あの時のことを思い出して吹けなくなるんです」
 奏の声は震えていた。
「小四の頃やイタリアにいた頃もフルートのコンクールに出場して、賞を取っていたんです」
 奏はゆっくりと話し始めた。
「うん。凄いね、かなちゃんは」
 響は優しく頷いた。
「日本に戻った頃には、音楽関係者の方々から少し注目され始めて……中一のコンクールは、絶対に結果を残してフルート奏者への道を進みたいと思っていました。でも……」
 奏の声は暗くなる。
「あの時はとにかくフルートに触れていたくて、部活もレッスンも詰め込んでいたんです。でも、それが良くなかったんですよね。コンクール本戦直前で腱鞘炎になって、無理矢理出場したら、途中棄権です。あの時の音楽関係者の方々の残念そうな表情を思い出すと……怖くなって……」
 奏の目からは涙がこぼれる。
「あの時、全てから否定されたような気がしたんです」
 奏は嗚咽を漏らした。
 その小さな体で、どれだけ深い悲しみ、悔しさを抱え込んだのだろうか。
「そっか。かなちゃん、それまで上手くいってたから、怖くなるよね」
 響の声色は包み込むような優しさがあった。
 響は奏の涙が止まるまで待っていた。