四月、県立音宮(おとみや)高等学校入学式の日。
 吹奏楽部は新入生入退場の際に演奏するので体育館二階で準備をしていた。

「響、ティンパニー運ぶの手伝ってくれ!」
「分かった。今行く」
 高校二年生になったばかりの響。自身のクラリネットを運び終わり席に置いですぐ、体育館一階にいる同じく二年生の男子部員であるトロンボーン担当の朝比奈(あさひな)風雅(ふうが)に呼ばれ、そちらに向かう。
 風雅の元へ向かう途中、マリンバを運びながら階段を上る男子部員二人とすれ違う。
 
 パーカッション担当の昼岡(ひるおか)(とおる)と、ユーフォニアム担当の晩沢(ばんざわ)蓮斗(れんと)だ。二人共響と同じ二年生である。
 
「響、まだパーカッション類残ってるから俺らで運ぶぞ」
 蓮斗がそう声がけする。眼鏡をかけているせいか、知的に見える蓮斗。実際蓮斗の成績は響達の学年のトップを常にキープしている。
「後ティンパニーとドラムセットが残ってたぞ」
 ハハっとおちゃらけたように笑う徹。
「了解」
 響はそのまま階段を急いで下りる。
「風雅、お待たせ」
「おう。じゃあ早速頼むわ」
 ティンパニーを運び始める響と風雅。
「今年は男子部員入るかな? 入ってくれたら大型の楽器運ぶのも人手が増えて助かるんだけど。大型楽器を女子が運ぶ場合三人とか四人くらい人手がいるから別の部分が人手不足になって大変だし」
 響は苦笑する。

 現在音宮高校の吹奏楽部は男子部員が響、風雅、徹、蓮斗の四人だけなのだ。

「まあな。うちの部活は人数が少ないわけじゃないけど、多いって程でもないからな。どこかに人数割いたらどこかが足りなくなる。でもまあ、力仕事で女の子から頼られるの、俺は大歓迎だ」
 チャラそうな笑みの風雅。
「それに俺は、女の子が多い方が嬉しいし。ボーン(※トロンボーンの略)も去年のコンクールで先輩が引退してから男子俺一人で色々頼ってもらえたからさ。バストロ(※バストロンボーンの略)も任せてもらえるし」
「お前なあ」
 響は呆れ気味に笑う。

 ちなみに、バストロンボーンとは普通のトロンボーンよりもサイズが大きく、低い音が出るので主にベースラインを担当する楽器だ。
 
「てかクラス替え早々片っ端にクラスの女子に話しかけてたよな。よくやるわ、この女好きが。程々にしておけよ」
 響と風雅は同じ二年四組なので、お互いのクラスの様子がよく分かるのだ。響はクラスでの風雅の様子を思い出して苦笑する。
「良いだろ、別に。今彼女いるわけじゃないしさ」
 フッと笑う風雅。

 百八十九センチと長身で顔立ちも整っている風雅。女友達が多くチャラいが、やはりその見た目(ゆえ)かモテる。しかし、現在恋人はいない。
 一方響は身長百六十五センチと低めで童顔。よく可愛い顔立ちだと言われ異性から警戒心をあまり抱かれないが、モテるわけではない。
 若干風雅が羨ましく感じつつもも、まあ良いかと思う響だった。

 大型の楽器を運び終えた響は自分の席に座り、真新しいリードを取り出す。
(まさか使い慣れたリードが直前で割れるとは……)
 響は内心ため息をついた。
 しかし、割れてしまったものはどうにもならないので廃棄し、新しいリードを付ける響。
 響は組み立て終わったクラリネットを吹いてチューニングをする。
「小日向くん、よくチューナーなしでチューニング出来るよね。流石は絶対音感の持ち主」
「まあ、はい」
 響は同じクラリネットパートの先輩からそう言われ、曖昧に微笑む。
 
 響は絶対音感の持ち主で、チューナーを見なくてもピッチ(※音程のこと)を合わせることが出来るのだ。
 
 もう一度クラリネットを吹いてみる響。
 しかし、思ったような音が出ない。
(もう少し音を強くしたら)
 響は強くクラリネットを吹いてみた。
 すると、きつい音が出てしまった。
(違う、強過ぎだ。もっと柔らかく……)
 響は軽く深呼吸をしてもう一度クラリネットを吹いた。
 すると今度は先程よりも柔らかい音が響く。
(まあこんなものか。いつも通りではないけれど、今は時間がないから仕方ない。このリードでも早く良い音出したいな。何とか使えるリードで良かった)
 響は軽くため息をついた。
 クラリネットのリードは一箱に十枚入っているが、その中でも使える当たりのリードはせいぜい一枚か二枚程度なのだ。
 
 そして全体チューニングの後、演奏する曲の順番など確認して新入生入場までの間、保護者達を楽しませる為に二曲演奏した。
 その二曲の間に響は少し調子が出て来た。
(これなら行けそうだ)
 響はホッとしたように口角を上げた。

 しばらくすると開会の辞があり、新入生入場の時間になる。
 響達は吹奏楽顧問の指揮で演奏を開始した。
 響は顧問の指揮を見ながら夢中で演奏している。
 入学式らしい曲や、誰もが知っている流行りの曲など、体育館内には吹奏楽部の合奏が響き渡る。音は空間に彩りをもたらしてくれているようだ。
 そして新入生の最後の一クラスが着席すると、指揮がピタリと止まり響達も演奏を止める。
 
 こうして、音宮高校入学式が始まった。
 厳かな雰囲気の中、入学式が進んでいく。
 校長や来賓の祝辞などは退屈で仕方がない。響を含め、吹奏楽部員達の中には欠伸をする者もいた。
 そして生徒会長による歓迎の言葉の次に、新入生代表挨拶が行われる。
(そういえば、新入生代表挨拶は入試トップの人がやるんだったな。俺達の代は確か蓮斗だったっけ……?)
 響はゆっくり去年のことを思い出し、チラリと蓮斗に目を向ける。蓮斗は響の視線には気付かず、ただ前を向いている。
「新入生代表、一年三組、大月奏」
 新入生代表が呼ばれた瞬間、響はハッと目を開く。そして、心臓がトクリと跳ねる。
(え……!? 大月奏って……もしかして、かなちゃん!?)
 懐かしい名前だった。
 響は体育館中央を歩く奏を注意深く凝視する。

 華奢で小柄な体つき。サラサラとした黒髪のロングヘアは彼女が歩くたびに艶やかに波打つ。
 後ろ姿から、凛として堂々とした様子がよく分かる。挨拶の声も、芯の通ったものだった。
 新入生代表挨拶が終わると、奏はくるりと元来た道を戻る。
 大きく見える黒目、小柄な割に大人びた顔立ち。体育館の二階からでも、それがよく分かった。
(かなり大人っぽくなったけど、あの頃の面影も残ってる……! 間違いない、あの子はかなちゃんだ! まさか高校が同じだなんて……! しかも入試トップとか凄いなあ……!)
 確信に変わり、響は嬉しさが込み上げてきた。そして、当時抱いていたほのかな恋心も蘇る。

 奏はかつて響と同じマンションで部屋が隣同士。そして同じ音楽教室に通っていた。
 響は奏と過ごすうちに、彼女に恋心を抱くようになったのだ。それが響の初恋である。
 奏との日々が続くと信じ切っていたが、響が小学六年の時、奏は両親の仕事の都合でイタリアに行くことになってしまう。それ以降、響は奏と会っていない。
 響は奏と中学に入ったら吹奏楽部でクラリネットとフルートの二重奏をしようと約束していた。しかし、日本に戻った奏は引越しにより響とは違う中学に入学し、その約束は果たされることはなかったのだ。

(かなちゃん、まだフルート続けてるかな? また一緒に演奏したいな。あの子のフルートの音色、また聴きたい)
 響は着席する奏を見つめながら、表情を綻ばせていた。
(それに……また一緒に過ごしたいな)
 蘇る恋心を響は素直に受け止めていた。

 入学式は特にトラブルもなく終わり、新入生退場の時間になる。
 再び吹奏楽部の演奏時間だ。
 響は顧問の指揮を見つつ、懸命に奏に向かって音を奏でていた。
 まるで自分をアピールするかのように。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 入学式終了後、片付けや吹奏楽部内での新入生勧誘の打ち合わせが終わると、響は吹奏楽部の勧誘用の看板を持ってダッシュで一年生の教室に向かった。
(かなちゃん、確か一年三組だったはず)
 響は奏のクラスに向かおうとした。しかし、廊下には他の部活の新入生勧誘でごった返している。
(うわ……。三組の教室まで辿り着きそうにないな)
 響は身動き取れず、廊下の端にいることしか出来ない。
(……どうしよう)
 響は人がごった返す廊下を見てため息をついた。
 しかし、響はこちらに歩いて来る人物を見て目を大きく見開く。
 
 サラサラとなびくロングヘア。華奢で背丈は百六十五センチの響より頭半分程低く小柄だが、大人びた顔立ち。綺麗な二重瞼に大きく見える黒目。長い睫毛はその目に影を落としていた。
 
 奏である。
 奏は響には気付かず、通り過ぎようとしていた。
「あの……!」
 響は若干緊張しながらも奏に声をかけた。その声は少し掠れている。
「何でしょうか?」
 奏はきょとんとした様子だ。
「かなちゃん……だよね? 昔、駅前の音楽教室に通ってた。住んでたマンションも隣の部屋で」
 響の声は少しだけ震えていた。
 すると奏は少し考え込む。
「もしかして、響くん……?」
 奏は恐る恐る、確認するような感じであった。
「うん。久し振りだね」
 響は安心し、口元を綻ばせた。
「本当、六年振りだね」
 奏は懐かしそうな表情だ。そして次の瞬間ハッとする。
「あ、もしかして響くんは二年生?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ小日向先輩って呼んだ方が良いですね」
 控えめに微笑み、言葉遣いを敬語に直す奏。
「昔みたいに、響で良いよ。俺も呼び方かなちゃんのままだし」
 少しはにかむ響。
「じゃあ……響先輩で」
 クスッと笑う奏。
 
 先輩と呼ばれたことに、響はドキリとしてしまう。
 
「かなちゃん、その、入学おめでとう」
 若干照れて頭を掻く響。
「ありがとうございます」
 奏は控えめな笑みで答えた。
「それで、響先輩はどうして一年の教室がある階にいるんですか?」
 きょとんと首を傾げる奏。
「実はさ、吹奏楽部の新入生勧誘」
 ニッと明るく笑い、後ろに持っていた吹奏楽部の勧誘看板を奏に見せる響。
「吹奏楽部……!」
 すると、奏は一瞬表情を輝かせた。
 それに気付いた響は明るく話し出す。
「俺さ、中学からクラリネットやっていて、高校でも続けてるんだよ。かなちゃんはフルートやってたよね。是非、吹奏楽部に入ってくれないかな?」

 しかし、奏の表情は曇る。
 
「私……吹奏楽部に入る気はありません」
 俯く奏。
「え……?」
 突然の奏の変化に戸惑う響。
「それに私……音楽が嫌いなので」
 奏の声は少し冷たくなった。
「何で……? どういうこと……?」
 響は背後から頭をいきなりハンマーで殴られたかのような感覚になった。
「そのままの意味です。音楽なんか大嫌い。フルートなんか二度と吹かない」
 奏は表情を消したまま、響の元から去ろうとする。
「かなちゃん待って」
 響は奏の手首を握り、引き止める。
「ごめんなさい。友達待たせているんで、失礼します」
 奏は響の顔も見ずに、手を振り払い行ってしまった。
 響は呆然とその場に立ち尽くしていた。
(かなちゃん……どうして……?)
 ショックで何も考えられなくなっていた。