初雪は思いの外降り続き、外を一面の銀世界に変えていた。まだ誰も登校していない静寂に包まれた教室の窓辺に立ち、僕は校庭を見下ろす。雪化粧を施されたその景色は、まるで別世界への扉を開いたかのように美しい。窓ガラスに手のひらを当てると、冷気が皮膚を通じて身体の奥まで浸透し、僕の心を凍てつかせるようだった。
校庭は朝日を浴びて雪がダイヤモンドのように輝いている。いつもなら、その美しい光景に見入るはずの僕だったが、今日はただぼんやりと昨日のことを反芻していた。
『好きだ、凪』
その言葉が、まるで水晶の音のように僕の心の奥に響き続けている。嬉しくて、一番欲しかった言葉だったのに、僕は――。
『友情と別のものを混同しないで!』
僕の口から飛び出したその言葉も、同じように耳の奥に残り続けている。一度口にした言葉は、どんなに後悔しても取り戻すことはできない。それなのに――。
「どうしてあんなこと言ってしまったんだろう……」
溜息とともに吐き出した言葉が、白い息となって窓ガラスを曇らせる。
喜びと恐怖が同時に心に押し寄せてきた時、僕は恐怖の方に支配されてしまった。そして、最も愛おしい人を傷つけてしまったのだ。
いくら後悔しても、時間は戻らない。僕は自分の愚かさを呪いながら、固く拳を握った。
あれから一週間が経った。しかし、礼央の姿を見ることはなかった。元々、学年の端と端に位置する僕たちのクラスで会う機会は少なかったが、それでも廊下ですれ違ったり、遠くから見かけることはあった。だが、どんなに目を凝らして彼のクラスの方を見ても、礼央の姿を捉えることは一度もできなかった。
――もしかして、もう実業団のバレー部に所属して、練習に参加しているのだろうか。
そんな推測を立てていた時、移動教室の途中で女子生徒たちの会話が耳に入った。
「最近、鳴海くん見かけないよね」
「なんか、ずっと休んでるみたいよ? 一組の子が言ってた」
「え? どうしたの?」
「風邪をひいたかなんかで、熱がなかなか下がらないんだって」
その言葉に、僕の息が一瞬止まった。礼央はお母さんと二人暮らしだ。きっと母親は仕事で家を空けることが多いだろうから、一人で熱にうなされているのではないか。
そんな想像をしただけで、彼のことが心配で胸が締め付けられる。
しかし、ふと思い至った。
――まさか……?
あの日、僕が屋上から立ち去る時、振り返った瞬間に見た礼央の姿が蘇る。彼は雪の降る中、その場に立ち尽くしていた。もしかして、それが原因で――。
――また、僕のせいだ……!
あの時、恐怖に負けて彼の純粋な好意を踏みにじったから。そう考えると、後悔の波が押し寄せて僕の心を押し潰そうとした。
次の時間、僕は礼央が一人で寝込んでいる姿を想像して、全く授業に集中できなかった。
きちんと水分は取れているだろうか。食事は食べているのか。辛い思いをしていないだろうか……。
僕が蒔いた種だと分かっていても、心が苦しくなり、胸元をギュッと掴んだ。
「はい、じゃあ次の問題。解き方を志水、説明してください」
突然教師に当てられて、僕は現実に引き戻された。慌ててガタッと音を立てて立ち上がる。黒板に目を向けても、礼央のことばかり考えてしまっていたせいで、頭の中は真っ白になっていた。
「えっと……すみません」
僕が答えに窮していると、教室内がざわめいた。
「志水が問題分からないなんて、どうしたんだ?」
「珍しいな。体調でも悪いのか?」
クラスメイトたちのひそひそ声が気まずくて、僕は「分かりません」と小さく答えて席に座った。
「受験も控えているんだから、これくらい解けないと困るぞ」
教師の声が遠くに聞こえた。僕の意識は、まだ礼央のことに向いていた。
放課後、気持ちを整理するために図書館に向かった。すっかり毎日の日課になった勉強の時間。いつもの定位置の席に座り、問題集を開いて解いていく。ふと目を上げて向かいの席に視線をやると、そこには誰もいない。
目を細めて、礼央と一緒に勉強した日々を思い出す。
彼は真剣に小論文を書く練習をしていた。そして一瞬目を上げて僕と視線が合うと、太陽のように温かく笑った。
――もう、二人で会うことなんて、ないんだろうな……。
そう考えると、胸の奥が空洞になったような寂しさが込み上げてきて、目頭がじんわりと熱くなった。しかし、礼央のためにはこの方が良かったのだと、心の中で必死に言い聞かせた。
問題を一問解いて次に取り掛かろうとしたが、どうしても集中できない。僕は立ち上がり、いつものように心理学コーナーへ足を向けた。本棚を眺めていると、一冊のタイトルに目が釘付けになった。
『自分の人生を生きるということ』
気づいたら、その本を手に取ってページをめくっていた。パラパラとめくっていた手が、あるページで止まる。
『自分の気持ちに正直になることが、本当の意味での成長の一歩である』
その一文から目が離せなかった。まるで、その言葉が僕の心に直接語りかけてくるようだった。
――僕は、僕の人生を、自分自身の手で選びたい。
その瞬間、強い意志が心の中に芽生えたのを感じた。今まで小さな火種だったものが、一気に大きな炎へと変化する。
このままでいいはずがない。
僕は一歩、踏み出す勇気を決めた。
週末、結納後初めて、美月と二人だけで食事をすることになった。僕が自分の人生を生きると決めた覚悟を、彼女に伝えるつもりだった。
結納後に予定されていた婚約パーティーは行われることなく、志水グループの新規事業発表も先送りとなっていた。両家とも、何かを待っているような空気があった。
僕が予約したレストランは、ホテルの最上階に位置する高級店だった。夜景が美しく見える窓際の席を確保してある。落ち着いた琥珀色の照明が店内を優雅に照らし、ホールの中央にはグランドピアノが設置されていて、生演奏が静かに響いている。白いクロスがかけられたテーブルには、銀食器が美しく輝いていた。
僕は美月をエスコートして席に案内する。向かいに座った美月は、いつものように落ち着き払った表情をしていた。
「最近の株価動向について、どう思われますか?」
食事が運ばれてくるまでの間、美月はいつものようにビジネスの話を始めた。その口調は、まるでビジネスパートナーと会話しているかのように冷静で客観的だ。
「堅調ですね。特に医療系分野は上昇傾向が続いています」
僕も機械的に返答した。
しかし、その後しばらく沈黙が続いた。普段なら美月が別の話題を振ってくるはずなのに、今日は違っていた。不思議に思って彼女に目を向けると、美月が僕をじっと見つめていることに気づいた。
「ねぇ、凪。最近、何か変わったこと、ある?」
先ほどのビジネスライクな声音とは打って変わって、美月の声が急に柔らかくなった。それは年相応の女子高生の、素の声だった。僕はその変化に驚いて目を見開いた。
「え……? 特には……」
実は今日、美月を呼び出したのは、自分の人生を歩むと決めた意志を伝えるためだった。それなのに、まだ言葉にできずにいる自分が情けなくて、頬を赤らめて俯いてしまった。
美月は僕をじっと観察している。その眼差しが、どこか痛いほど優しかった。
「誰か、好きな人でもできたの?」
「えっ?」
美月の突然の言葉に驚いて、僕は顔を上げた。目の前の美月の表情は驚くほど柔らかく、温かい眼差しだった。膝の上で握っている僕の手が、小刻みに震えている。
「な……なんで……?」
「ふふっ。分かるのよ。だって顔に書いてあるもの」
僕は自分の表情に抜かりがあったのか、それとも何かが表に出てしまっていたのかと思い返してみる。ビジネス用の仮面を貼り付けていたはずなのに、それでも何かが滲み出ていたのだろうか……。
その時、美月が小さくため息を吐いた。
「実はね、私も……好きな人がいるの。去年、ボストンに留学した時に知り合った人」
いつもはクールな表情を崩さない美月の頬が、ほんのり桜色に染まった。
「えっ? そうだったの?」
「驚いた? でも、これは本当のことよ」
美月はこくりと頷いた。その仕草は、普段の彼女からは想像できないほど愛らしかった。
「だからね、結納の時、本当はその人のこと諦めようと思ってたの。でもあの日、凪が男性を恋愛対象にしているって言ってたから、私も諦めるのをやめようって思ったの」
「じゃあ、婚約パーティーがなかなか開かれなかったのも……」
「ふふっ。あれは私が色々と難癖をつけて、延期させてたのよ」
そう言って笑う美月は、まるでいたずらっ子のような表情になっていた。僕たちの顔は、いつの間にかビジネスライクなものから、年相応の高校生の顔に変わっていた。
「じゃあ、僕たちの婚約って……」
「破棄する方向で考えましょう」
頭を寄せ合って、婚約を上手に破棄する方法を練り上げるのは、想像以上に楽しかった。僕たちは婚約破棄の「共犯者」だ。今まで自分で自分のことを決めたことがなかった僕には、この感覚が何より爽快だった。
こうして僕と美月は、お互いが自分の人生を歩むことを決めた。
「凪、本当に愛せる人と生きてね」
美月のその言葉は、心の奥底から湧いてきた真実だった。僕は自然と笑顔になって答えた。
「うん、美月も。好きな人と、うまくいくといいな」
これが、ビジネス上の駒でしかなかった僕と美月が交わした、初めての本心からの会話だった。
次の日。僕は早速、実家へと足を運んだ。窓の外にはちらちらと雪が舞っている。それは僕の決意を応援しているように見えた。
実家に帰る前に、母に「大切な話がある」と連絡を入れておいた。だから、両親は家で待っているはずだ。
重厚な玄関ドアを開けると、家の中はしんと静まり返っていた。空気が冷たくて、僕は思わず身震いをした。
帰宅の挨拶もそこそこに、僕は真っ直ぐ父の書斎へと向かった。扉をノックすると「入れ」という低い声が返ってきて、入室を許可された。
「失礼します」
父の書斎に入ると、暖炉の温もりが僕を包み込んだ。パチパチと火の弾ける音が心地よく響いている。炎が父の横顔を鋭く照らし出していた。母は書斎の片隅のソファに座り、僕の方を見つめている。その瞳に、今まで見たことのない優しさを感じて、僕は少し驚いた。
「何の用だ?」
父は書類から視線を上げることなく、短く言った。
僕は深呼吸する。緊張のあまり喉がカラカラに渇き、舌が口の中でくっつきそうだった。暖かい室内にいるのに、手先が異常に冷たい。僕は拳をギュッと握りしめ、意を決して口を開いた。
「お話があります。朝比奈家との婚約のことで……」
その言葉に、父はようやく書類から顔を上げた。その目は獲物を見定める猛禽類のように鋭い。
僕は唾を飲み込んで、さらに言葉を続けた。
「朝比奈美月さんとの婚約を……破棄したいと思います」
僕がその言葉を言い切った途端、書斎の空気は氷点下まで冷え込んだ。父は眉間に深い皺を刻み、僕を睨みつけてきた。
「何を馬鹿なことを!」
父の怒号が書斎に響き渡った。
――怖い。
だけど、僕は自分の人生を自分で選ぶと決めたのだ。その決意だけは、決して揺らがない。
「志水家の恥になることを! お前は家のために、上手に立ち回っていればいいのだ!」
次々と浴びせられる怒声の嵐に、僕は一瞬身体を縮こませた。
――逃げ出したい……。
でも、もう後戻りはしない。
僕は縮んでいた身体を真っ直ぐに伸ばし、父の目を正面から見据えた。
「僕の人生は、僕のものです」
震える声だったが、父から目を逸らすことはなかった。それこそが、僕の決意の強さを示していた。さらに言葉を重ねる。
「自分の人生を、自分の意志で決めたいんです。あなたが望む息子になるために、僕の人生を犠牲にするつもりはありません」
父は青筋を立て、鬼のような形相で怒りを露わにした。
「黙れ! お前のような親不孝者は俺の息子ではない! 出て行け!」
激怒する父に頭を下げ、退室しようとしたその時、母がソファからゆっくりと立ち上がり、僕と父の間に割って入った。
「あなた。少し落ち着いて。この子も、もう自分で進む道を決める年頃なのよ」
「……!」
母の言葉に、父は言葉を失った。僕も思いがけない母の擁護に、目を丸くした。
「先日の三者懇談で、凪が本当にやりたいことがあるということが分かりました。表向きは家業を継ぐための学部選択でしたが、私には凪の真意が見えていましたよ」
今まで仕事第一で、僕に興味を示すことがなかったと思っていた母の言葉に、僕の目頭が熱くなった。
「今回の婚約破棄も、美月さんと話し合って決めたのでしょう?」
母の問いかけに、僕は静かに頷いた。
「美月さんから連絡をいただいたの。凪を責めないでやってほしいって」
「そんな……」
「あなたたちにはあなたたちの人生があるもの。私たちのように、しがらみに縛られる必要はないわ」
母は僕の顔を見つめて、にっこりと微笑んだ。母の笑顔を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
僕は堪えていた涙が一気に溢れた。
書斎から出ると、緊張の糸が切れたように、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。
――初めて、自分の言葉で気持ちを伝えた……。
心臓はまだドキドキと早鐘を打っているが、気分は驚くほど晴れやかだった。
週が明けて、また新しい一週間が始まった。僕は週末に起こった出来事が、本当に自分がやったことなのかとまだ信じられずにいる。だが、今まで何かに縛られていた心が、ようやく自由になったような気がした。
何より、美月が僕ではなく本当に好きな人と人生を歩めることが嬉しかった。僕では美月を幸せにすることはできなかったから。
――美月、うまくいくといいな。
そんなことを考えながら教室に入ると、いつものように蓮がいた。
「おっはよ、なぎっち」
蓮は僕に近づいてきて、いつものように馴れ馴れしく肩を組んだ。
「おはよう」
僕から出た言葉が、先週よりもずっと軽やかになっているのが自分でも分かった。
「おっ! なぎっち、週末になんかいいことあった?」
僕の変化をすぐに嗅ぎ取る幼馴染は、僕の肩を抱く腕に力を込めた。
「うん、ちょっとね」
僕は口元を少し上げて微笑んだ。
「おぉ! 何、何? 教えてよ!」
「やだよ」
「いいじゃん、幼馴染なんだしさ。俺となぎっちの仲だろ?」
蓮はニヤニヤしながら僕を覗き込んだ。確かに蓮は今まで、僕の変化に最初に気づき、心を砕いてくれた。仕方ないな、と小さくため息をついて、蓮の耳元に口を寄せた。
「……婚約破棄した」
「えぇぇぇっ! マジで?」
教室中に響く大声で蓮が叫んだ。僕は慌てて口元に人差し指を当てて「しーっ!」と制止した。
「悪い悪い。本当かよ? やるじゃん、なぎっち」
蓮は肘で僕を軽く突いた。僕は頷いて、もう一つのことも打ち明けた。
「志水グループも継がない」
蓮は驚きすぎて額に手を当て、卒倒しそうになった。
「……マジか……」
蓮の驚きも理解できる。今までの僕なら、こんなことは絶対にしなかっただろうから。
家のことは何とか片付いたが、まだ僕の心には大きな課題が残っていた。それを思い出すと、途端に表情が曇る。
蓮は顔を上げて、ニヤリと意味深に笑った。
「なぁ、なぎっち。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
「……? いいけど」
「約束だぞ」
こうして僕と蓮は、一緒に帰ることになった。
放課後、僕と蓮は連れ立って学校を出た。二人とも同じ寮に住んでいるのだが、蓮が向かった先は寮とは逆方向だった。行き着いたのは、学校近くの小さな公園だった。
「何? 買い物じゃなかったの?」
僕は不思議そうに蓮を見上げて聞いた。
「うん。ちょっとなぎっちと話したくてさ」
蓮はそう言うと、ベンチに腰を下ろした。僕もその隣に座る。冬の冷たい空気が、僕たちをそっと包み込んだ。
「今回の婚約破棄と家業を継がないことって、この前言ってた、なぎっちの好きな人と関係あるの?」
蓮は真剣な眼差しで僕を見つめてきた。僕は小さく頷いた。
「うん。その人がね、僕に言ってくれたんだ。凪の本当にやりたいことは何かって。それで、自分のやりたいことが見つかって、家業を継がないって決めた」
僕は一息つき、さらに言葉を続けた。
「ただ、婚約破棄は美月と話し合って決めたことだよ。彼女にも好きな人がいるって分かったから」
「そっか」
蓮は灰色の空を見上げながら呟いた。
「でさ、なぎっちの好きな人って、鳴海だよな?」
「えっ?」
僕の心臓が一気に跳ね上がった。蓮は僕のことをよく知っているから気づいているとは思っていたが、まさかそれを口にするとは思っていなかった。
「……どうして?」
ハハッと蓮が朗らかに笑った。
「お前の顔見てりゃ、分かるよ」
そして蓮は大きくため息をついた。
「俺となぎっち、何年の付き合いだと思ってる?」
「うっ……」
僕は返す言葉もなかった。しばらく沈黙が二人の間に流れた。僕は観念したように口を開き、小さな声で呟いた。
「うん。僕、礼央のことが……好きだ」
初めて、自分の礼央に対する気持ちを声に出した。すると、なんだか心が温かくなるのを感じた。
「やっと言えたな! ずっと待ってたぞ」
蓮は僕に温かい笑顔を向けてきた。
「なっ……」
「なぎっちが鳴海のこと、どう見てるかなんて、こっちにはお見通しだったっての」
「そ、そっか……」
蓮の態度に拍子抜けする。僕は恥ずかしくなって頬を赤らめ、俯いた。
「でも……もう遅いかもしれない」
「なんで?」
「僕が……彼を拒絶したから」
そう言って、僕はあの日のことを蓮に説明した。その時のことを思い出しただけで、目に涙が滲んできた。
「なぎっち、まだ諦めるな!」
そう言うと蓮は勢いよく立ち上がった。
「蓮……?」
「お前の人生だろ? 好きなら行けよ!」
そう言い残すと、蓮はその場から歩き去った。寒空の下、遠ざかる幼馴染の後ろ姿は、どこか勇ましく、僕に勇気を与えてくれた。
蓮に本心を打ち明けてから、彼はコソコソと何かを企んでいるように見えた。いつもなら馴れ馴れしく肩を組んできたり、ギュッと抱きしめたりしてくるスキンシップも、最小限になったような気がする。
――蓮、何をしているんだろう?
今までと違う幼馴染の行動に違和感を覚えながらも、僕の心は少しずつ軽くなっていた。ただ、礼央と向き合うことだけは、まだできずにいる。連絡を取る勇気が出ないのだ。
このままではいけないということは分かっている。まずは礼央を傷つけてしまったことを謝って、それから体調のことを聞いて……。
頭の中で何度もリハーサルをしてみるが、まだ実際の行動に移せないでいた。
「なぎっち!」
僕が必死に思考を巡らせていると、蓮が声をかけてきた。
「蓮、どうしたの?」
僕は眉間に皺を寄せながら、蓮の方を振り返った。
「なんだよ、その険しい顔……。何か悩みでもあるのか?」
「いや、そういうわけでは……」
僕がもごもごと口ごもると、蓮はハハッと笑った。
「いいじゃないか。真剣に考えるってことは、前向きな証拠だからな」
そう言って、僕の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。そんな蓮を、僕は上目遣いで見つめた。
「そうそう。今日、なぎっちのこと校門で待ってる人がいるぞ」
突然の蓮の言葉に、僕は首を傾げた。
「……誰?」
「行けば分かるって」
蓮は意味深な笑顔を僕に向けてきた。
「ほら、早く行けよ」
蓮に促されるように、僕は帰り支度をして校舎を出た。外は空気が冷たく、雪がちらちらと舞っている。
僕は誰が待っているのか分からないまま、校門へ向かった。だが、門が見えてきた時、自然と足が止まった。校門の脇にある大きな木の下に、人影が見える。マフラーに顔を埋めているが、その人の後ろ姿は遠くからでも誰だか分かった。
僕はゆっくりと、その人の元へ近づいた。
「……礼央」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。鼻と耳が寒さで真っ赤になっている。頬も冷気で紅潮していた。
しばらく沈黙が続いた後、僕は口を開いた。
「もう、風邪は……大丈夫?」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。礼央は嬉しそうに微笑んで、小さく頷いた。
「うん。もう平気だよ」
ぎこちない会話。礼央に伝えたいことが山ほどあるのに、言葉が出てこない。でも、僕は自分の人生を歩むと決めたんだ。意を決して口を開いた。
「あのね」
「あのさ」
二人同時に口を開いてしまい、慌てて言葉を止める。お互い見つめ合ってしまった。
「ごめん、先に……」
「ごめん、先に言ってよ」
また同時に言葉を発してしまう。僕と礼央はお互いを見つめ合い、そして同時にぷっと吹き出した。
「あはは」
「あー、なんだよこれ!」
礼央はお腹を抱えて大笑いした。涙が出るほど二人で笑った後、僕は礼央を見つめて言った。
「明日……話がある」
僕は勇気を振り絞って言った。雪がしんしんと降り続いている。
「俺も……話したいことがある」
礼央の瞳に、少しずつ希望の光が戻ってきたように見えた。
「じゃあ、明日……屋上で」
「ああ、待ってる」
別れ際、礼央が微笑んだ。その笑顔を見て、僕の心に積もっていた雪が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
そして僕は、明日という日を心待ちにしながら、雪の降る道を歩いて帰った。自分の未来は、もう目の前に広がっている。それを選び取るのは、僕自身の勇気次第なのだ。
校庭は朝日を浴びて雪がダイヤモンドのように輝いている。いつもなら、その美しい光景に見入るはずの僕だったが、今日はただぼんやりと昨日のことを反芻していた。
『好きだ、凪』
その言葉が、まるで水晶の音のように僕の心の奥に響き続けている。嬉しくて、一番欲しかった言葉だったのに、僕は――。
『友情と別のものを混同しないで!』
僕の口から飛び出したその言葉も、同じように耳の奥に残り続けている。一度口にした言葉は、どんなに後悔しても取り戻すことはできない。それなのに――。
「どうしてあんなこと言ってしまったんだろう……」
溜息とともに吐き出した言葉が、白い息となって窓ガラスを曇らせる。
喜びと恐怖が同時に心に押し寄せてきた時、僕は恐怖の方に支配されてしまった。そして、最も愛おしい人を傷つけてしまったのだ。
いくら後悔しても、時間は戻らない。僕は自分の愚かさを呪いながら、固く拳を握った。
あれから一週間が経った。しかし、礼央の姿を見ることはなかった。元々、学年の端と端に位置する僕たちのクラスで会う機会は少なかったが、それでも廊下ですれ違ったり、遠くから見かけることはあった。だが、どんなに目を凝らして彼のクラスの方を見ても、礼央の姿を捉えることは一度もできなかった。
――もしかして、もう実業団のバレー部に所属して、練習に参加しているのだろうか。
そんな推測を立てていた時、移動教室の途中で女子生徒たちの会話が耳に入った。
「最近、鳴海くん見かけないよね」
「なんか、ずっと休んでるみたいよ? 一組の子が言ってた」
「え? どうしたの?」
「風邪をひいたかなんかで、熱がなかなか下がらないんだって」
その言葉に、僕の息が一瞬止まった。礼央はお母さんと二人暮らしだ。きっと母親は仕事で家を空けることが多いだろうから、一人で熱にうなされているのではないか。
そんな想像をしただけで、彼のことが心配で胸が締め付けられる。
しかし、ふと思い至った。
――まさか……?
あの日、僕が屋上から立ち去る時、振り返った瞬間に見た礼央の姿が蘇る。彼は雪の降る中、その場に立ち尽くしていた。もしかして、それが原因で――。
――また、僕のせいだ……!
あの時、恐怖に負けて彼の純粋な好意を踏みにじったから。そう考えると、後悔の波が押し寄せて僕の心を押し潰そうとした。
次の時間、僕は礼央が一人で寝込んでいる姿を想像して、全く授業に集中できなかった。
きちんと水分は取れているだろうか。食事は食べているのか。辛い思いをしていないだろうか……。
僕が蒔いた種だと分かっていても、心が苦しくなり、胸元をギュッと掴んだ。
「はい、じゃあ次の問題。解き方を志水、説明してください」
突然教師に当てられて、僕は現実に引き戻された。慌ててガタッと音を立てて立ち上がる。黒板に目を向けても、礼央のことばかり考えてしまっていたせいで、頭の中は真っ白になっていた。
「えっと……すみません」
僕が答えに窮していると、教室内がざわめいた。
「志水が問題分からないなんて、どうしたんだ?」
「珍しいな。体調でも悪いのか?」
クラスメイトたちのひそひそ声が気まずくて、僕は「分かりません」と小さく答えて席に座った。
「受験も控えているんだから、これくらい解けないと困るぞ」
教師の声が遠くに聞こえた。僕の意識は、まだ礼央のことに向いていた。
放課後、気持ちを整理するために図書館に向かった。すっかり毎日の日課になった勉強の時間。いつもの定位置の席に座り、問題集を開いて解いていく。ふと目を上げて向かいの席に視線をやると、そこには誰もいない。
目を細めて、礼央と一緒に勉強した日々を思い出す。
彼は真剣に小論文を書く練習をしていた。そして一瞬目を上げて僕と視線が合うと、太陽のように温かく笑った。
――もう、二人で会うことなんて、ないんだろうな……。
そう考えると、胸の奥が空洞になったような寂しさが込み上げてきて、目頭がじんわりと熱くなった。しかし、礼央のためにはこの方が良かったのだと、心の中で必死に言い聞かせた。
問題を一問解いて次に取り掛かろうとしたが、どうしても集中できない。僕は立ち上がり、いつものように心理学コーナーへ足を向けた。本棚を眺めていると、一冊のタイトルに目が釘付けになった。
『自分の人生を生きるということ』
気づいたら、その本を手に取ってページをめくっていた。パラパラとめくっていた手が、あるページで止まる。
『自分の気持ちに正直になることが、本当の意味での成長の一歩である』
その一文から目が離せなかった。まるで、その言葉が僕の心に直接語りかけてくるようだった。
――僕は、僕の人生を、自分自身の手で選びたい。
その瞬間、強い意志が心の中に芽生えたのを感じた。今まで小さな火種だったものが、一気に大きな炎へと変化する。
このままでいいはずがない。
僕は一歩、踏み出す勇気を決めた。
週末、結納後初めて、美月と二人だけで食事をすることになった。僕が自分の人生を生きると決めた覚悟を、彼女に伝えるつもりだった。
結納後に予定されていた婚約パーティーは行われることなく、志水グループの新規事業発表も先送りとなっていた。両家とも、何かを待っているような空気があった。
僕が予約したレストランは、ホテルの最上階に位置する高級店だった。夜景が美しく見える窓際の席を確保してある。落ち着いた琥珀色の照明が店内を優雅に照らし、ホールの中央にはグランドピアノが設置されていて、生演奏が静かに響いている。白いクロスがかけられたテーブルには、銀食器が美しく輝いていた。
僕は美月をエスコートして席に案内する。向かいに座った美月は、いつものように落ち着き払った表情をしていた。
「最近の株価動向について、どう思われますか?」
食事が運ばれてくるまでの間、美月はいつものようにビジネスの話を始めた。その口調は、まるでビジネスパートナーと会話しているかのように冷静で客観的だ。
「堅調ですね。特に医療系分野は上昇傾向が続いています」
僕も機械的に返答した。
しかし、その後しばらく沈黙が続いた。普段なら美月が別の話題を振ってくるはずなのに、今日は違っていた。不思議に思って彼女に目を向けると、美月が僕をじっと見つめていることに気づいた。
「ねぇ、凪。最近、何か変わったこと、ある?」
先ほどのビジネスライクな声音とは打って変わって、美月の声が急に柔らかくなった。それは年相応の女子高生の、素の声だった。僕はその変化に驚いて目を見開いた。
「え……? 特には……」
実は今日、美月を呼び出したのは、自分の人生を歩むと決めた意志を伝えるためだった。それなのに、まだ言葉にできずにいる自分が情けなくて、頬を赤らめて俯いてしまった。
美月は僕をじっと観察している。その眼差しが、どこか痛いほど優しかった。
「誰か、好きな人でもできたの?」
「えっ?」
美月の突然の言葉に驚いて、僕は顔を上げた。目の前の美月の表情は驚くほど柔らかく、温かい眼差しだった。膝の上で握っている僕の手が、小刻みに震えている。
「な……なんで……?」
「ふふっ。分かるのよ。だって顔に書いてあるもの」
僕は自分の表情に抜かりがあったのか、それとも何かが表に出てしまっていたのかと思い返してみる。ビジネス用の仮面を貼り付けていたはずなのに、それでも何かが滲み出ていたのだろうか……。
その時、美月が小さくため息を吐いた。
「実はね、私も……好きな人がいるの。去年、ボストンに留学した時に知り合った人」
いつもはクールな表情を崩さない美月の頬が、ほんのり桜色に染まった。
「えっ? そうだったの?」
「驚いた? でも、これは本当のことよ」
美月はこくりと頷いた。その仕草は、普段の彼女からは想像できないほど愛らしかった。
「だからね、結納の時、本当はその人のこと諦めようと思ってたの。でもあの日、凪が男性を恋愛対象にしているって言ってたから、私も諦めるのをやめようって思ったの」
「じゃあ、婚約パーティーがなかなか開かれなかったのも……」
「ふふっ。あれは私が色々と難癖をつけて、延期させてたのよ」
そう言って笑う美月は、まるでいたずらっ子のような表情になっていた。僕たちの顔は、いつの間にかビジネスライクなものから、年相応の高校生の顔に変わっていた。
「じゃあ、僕たちの婚約って……」
「破棄する方向で考えましょう」
頭を寄せ合って、婚約を上手に破棄する方法を練り上げるのは、想像以上に楽しかった。僕たちは婚約破棄の「共犯者」だ。今まで自分で自分のことを決めたことがなかった僕には、この感覚が何より爽快だった。
こうして僕と美月は、お互いが自分の人生を歩むことを決めた。
「凪、本当に愛せる人と生きてね」
美月のその言葉は、心の奥底から湧いてきた真実だった。僕は自然と笑顔になって答えた。
「うん、美月も。好きな人と、うまくいくといいな」
これが、ビジネス上の駒でしかなかった僕と美月が交わした、初めての本心からの会話だった。
次の日。僕は早速、実家へと足を運んだ。窓の外にはちらちらと雪が舞っている。それは僕の決意を応援しているように見えた。
実家に帰る前に、母に「大切な話がある」と連絡を入れておいた。だから、両親は家で待っているはずだ。
重厚な玄関ドアを開けると、家の中はしんと静まり返っていた。空気が冷たくて、僕は思わず身震いをした。
帰宅の挨拶もそこそこに、僕は真っ直ぐ父の書斎へと向かった。扉をノックすると「入れ」という低い声が返ってきて、入室を許可された。
「失礼します」
父の書斎に入ると、暖炉の温もりが僕を包み込んだ。パチパチと火の弾ける音が心地よく響いている。炎が父の横顔を鋭く照らし出していた。母は書斎の片隅のソファに座り、僕の方を見つめている。その瞳に、今まで見たことのない優しさを感じて、僕は少し驚いた。
「何の用だ?」
父は書類から視線を上げることなく、短く言った。
僕は深呼吸する。緊張のあまり喉がカラカラに渇き、舌が口の中でくっつきそうだった。暖かい室内にいるのに、手先が異常に冷たい。僕は拳をギュッと握りしめ、意を決して口を開いた。
「お話があります。朝比奈家との婚約のことで……」
その言葉に、父はようやく書類から顔を上げた。その目は獲物を見定める猛禽類のように鋭い。
僕は唾を飲み込んで、さらに言葉を続けた。
「朝比奈美月さんとの婚約を……破棄したいと思います」
僕がその言葉を言い切った途端、書斎の空気は氷点下まで冷え込んだ。父は眉間に深い皺を刻み、僕を睨みつけてきた。
「何を馬鹿なことを!」
父の怒号が書斎に響き渡った。
――怖い。
だけど、僕は自分の人生を自分で選ぶと決めたのだ。その決意だけは、決して揺らがない。
「志水家の恥になることを! お前は家のために、上手に立ち回っていればいいのだ!」
次々と浴びせられる怒声の嵐に、僕は一瞬身体を縮こませた。
――逃げ出したい……。
でも、もう後戻りはしない。
僕は縮んでいた身体を真っ直ぐに伸ばし、父の目を正面から見据えた。
「僕の人生は、僕のものです」
震える声だったが、父から目を逸らすことはなかった。それこそが、僕の決意の強さを示していた。さらに言葉を重ねる。
「自分の人生を、自分の意志で決めたいんです。あなたが望む息子になるために、僕の人生を犠牲にするつもりはありません」
父は青筋を立て、鬼のような形相で怒りを露わにした。
「黙れ! お前のような親不孝者は俺の息子ではない! 出て行け!」
激怒する父に頭を下げ、退室しようとしたその時、母がソファからゆっくりと立ち上がり、僕と父の間に割って入った。
「あなた。少し落ち着いて。この子も、もう自分で進む道を決める年頃なのよ」
「……!」
母の言葉に、父は言葉を失った。僕も思いがけない母の擁護に、目を丸くした。
「先日の三者懇談で、凪が本当にやりたいことがあるということが分かりました。表向きは家業を継ぐための学部選択でしたが、私には凪の真意が見えていましたよ」
今まで仕事第一で、僕に興味を示すことがなかったと思っていた母の言葉に、僕の目頭が熱くなった。
「今回の婚約破棄も、美月さんと話し合って決めたのでしょう?」
母の問いかけに、僕は静かに頷いた。
「美月さんから連絡をいただいたの。凪を責めないでやってほしいって」
「そんな……」
「あなたたちにはあなたたちの人生があるもの。私たちのように、しがらみに縛られる必要はないわ」
母は僕の顔を見つめて、にっこりと微笑んだ。母の笑顔を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
僕は堪えていた涙が一気に溢れた。
書斎から出ると、緊張の糸が切れたように、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。
――初めて、自分の言葉で気持ちを伝えた……。
心臓はまだドキドキと早鐘を打っているが、気分は驚くほど晴れやかだった。
週が明けて、また新しい一週間が始まった。僕は週末に起こった出来事が、本当に自分がやったことなのかとまだ信じられずにいる。だが、今まで何かに縛られていた心が、ようやく自由になったような気がした。
何より、美月が僕ではなく本当に好きな人と人生を歩めることが嬉しかった。僕では美月を幸せにすることはできなかったから。
――美月、うまくいくといいな。
そんなことを考えながら教室に入ると、いつものように蓮がいた。
「おっはよ、なぎっち」
蓮は僕に近づいてきて、いつものように馴れ馴れしく肩を組んだ。
「おはよう」
僕から出た言葉が、先週よりもずっと軽やかになっているのが自分でも分かった。
「おっ! なぎっち、週末になんかいいことあった?」
僕の変化をすぐに嗅ぎ取る幼馴染は、僕の肩を抱く腕に力を込めた。
「うん、ちょっとね」
僕は口元を少し上げて微笑んだ。
「おぉ! 何、何? 教えてよ!」
「やだよ」
「いいじゃん、幼馴染なんだしさ。俺となぎっちの仲だろ?」
蓮はニヤニヤしながら僕を覗き込んだ。確かに蓮は今まで、僕の変化に最初に気づき、心を砕いてくれた。仕方ないな、と小さくため息をついて、蓮の耳元に口を寄せた。
「……婚約破棄した」
「えぇぇぇっ! マジで?」
教室中に響く大声で蓮が叫んだ。僕は慌てて口元に人差し指を当てて「しーっ!」と制止した。
「悪い悪い。本当かよ? やるじゃん、なぎっち」
蓮は肘で僕を軽く突いた。僕は頷いて、もう一つのことも打ち明けた。
「志水グループも継がない」
蓮は驚きすぎて額に手を当て、卒倒しそうになった。
「……マジか……」
蓮の驚きも理解できる。今までの僕なら、こんなことは絶対にしなかっただろうから。
家のことは何とか片付いたが、まだ僕の心には大きな課題が残っていた。それを思い出すと、途端に表情が曇る。
蓮は顔を上げて、ニヤリと意味深に笑った。
「なぁ、なぎっち。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
「……? いいけど」
「約束だぞ」
こうして僕と蓮は、一緒に帰ることになった。
放課後、僕と蓮は連れ立って学校を出た。二人とも同じ寮に住んでいるのだが、蓮が向かった先は寮とは逆方向だった。行き着いたのは、学校近くの小さな公園だった。
「何? 買い物じゃなかったの?」
僕は不思議そうに蓮を見上げて聞いた。
「うん。ちょっとなぎっちと話したくてさ」
蓮はそう言うと、ベンチに腰を下ろした。僕もその隣に座る。冬の冷たい空気が、僕たちをそっと包み込んだ。
「今回の婚約破棄と家業を継がないことって、この前言ってた、なぎっちの好きな人と関係あるの?」
蓮は真剣な眼差しで僕を見つめてきた。僕は小さく頷いた。
「うん。その人がね、僕に言ってくれたんだ。凪の本当にやりたいことは何かって。それで、自分のやりたいことが見つかって、家業を継がないって決めた」
僕は一息つき、さらに言葉を続けた。
「ただ、婚約破棄は美月と話し合って決めたことだよ。彼女にも好きな人がいるって分かったから」
「そっか」
蓮は灰色の空を見上げながら呟いた。
「でさ、なぎっちの好きな人って、鳴海だよな?」
「えっ?」
僕の心臓が一気に跳ね上がった。蓮は僕のことをよく知っているから気づいているとは思っていたが、まさかそれを口にするとは思っていなかった。
「……どうして?」
ハハッと蓮が朗らかに笑った。
「お前の顔見てりゃ、分かるよ」
そして蓮は大きくため息をついた。
「俺となぎっち、何年の付き合いだと思ってる?」
「うっ……」
僕は返す言葉もなかった。しばらく沈黙が二人の間に流れた。僕は観念したように口を開き、小さな声で呟いた。
「うん。僕、礼央のことが……好きだ」
初めて、自分の礼央に対する気持ちを声に出した。すると、なんだか心が温かくなるのを感じた。
「やっと言えたな! ずっと待ってたぞ」
蓮は僕に温かい笑顔を向けてきた。
「なっ……」
「なぎっちが鳴海のこと、どう見てるかなんて、こっちにはお見通しだったっての」
「そ、そっか……」
蓮の態度に拍子抜けする。僕は恥ずかしくなって頬を赤らめ、俯いた。
「でも……もう遅いかもしれない」
「なんで?」
「僕が……彼を拒絶したから」
そう言って、僕はあの日のことを蓮に説明した。その時のことを思い出しただけで、目に涙が滲んできた。
「なぎっち、まだ諦めるな!」
そう言うと蓮は勢いよく立ち上がった。
「蓮……?」
「お前の人生だろ? 好きなら行けよ!」
そう言い残すと、蓮はその場から歩き去った。寒空の下、遠ざかる幼馴染の後ろ姿は、どこか勇ましく、僕に勇気を与えてくれた。
蓮に本心を打ち明けてから、彼はコソコソと何かを企んでいるように見えた。いつもなら馴れ馴れしく肩を組んできたり、ギュッと抱きしめたりしてくるスキンシップも、最小限になったような気がする。
――蓮、何をしているんだろう?
今までと違う幼馴染の行動に違和感を覚えながらも、僕の心は少しずつ軽くなっていた。ただ、礼央と向き合うことだけは、まだできずにいる。連絡を取る勇気が出ないのだ。
このままではいけないということは分かっている。まずは礼央を傷つけてしまったことを謝って、それから体調のことを聞いて……。
頭の中で何度もリハーサルをしてみるが、まだ実際の行動に移せないでいた。
「なぎっち!」
僕が必死に思考を巡らせていると、蓮が声をかけてきた。
「蓮、どうしたの?」
僕は眉間に皺を寄せながら、蓮の方を振り返った。
「なんだよ、その険しい顔……。何か悩みでもあるのか?」
「いや、そういうわけでは……」
僕がもごもごと口ごもると、蓮はハハッと笑った。
「いいじゃないか。真剣に考えるってことは、前向きな証拠だからな」
そう言って、僕の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。そんな蓮を、僕は上目遣いで見つめた。
「そうそう。今日、なぎっちのこと校門で待ってる人がいるぞ」
突然の蓮の言葉に、僕は首を傾げた。
「……誰?」
「行けば分かるって」
蓮は意味深な笑顔を僕に向けてきた。
「ほら、早く行けよ」
蓮に促されるように、僕は帰り支度をして校舎を出た。外は空気が冷たく、雪がちらちらと舞っている。
僕は誰が待っているのか分からないまま、校門へ向かった。だが、門が見えてきた時、自然と足が止まった。校門の脇にある大きな木の下に、人影が見える。マフラーに顔を埋めているが、その人の後ろ姿は遠くからでも誰だか分かった。
僕はゆっくりと、その人の元へ近づいた。
「……礼央」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。鼻と耳が寒さで真っ赤になっている。頬も冷気で紅潮していた。
しばらく沈黙が続いた後、僕は口を開いた。
「もう、風邪は……大丈夫?」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。礼央は嬉しそうに微笑んで、小さく頷いた。
「うん。もう平気だよ」
ぎこちない会話。礼央に伝えたいことが山ほどあるのに、言葉が出てこない。でも、僕は自分の人生を歩むと決めたんだ。意を決して口を開いた。
「あのね」
「あのさ」
二人同時に口を開いてしまい、慌てて言葉を止める。お互い見つめ合ってしまった。
「ごめん、先に……」
「ごめん、先に言ってよ」
また同時に言葉を発してしまう。僕と礼央はお互いを見つめ合い、そして同時にぷっと吹き出した。
「あはは」
「あー、なんだよこれ!」
礼央はお腹を抱えて大笑いした。涙が出るほど二人で笑った後、僕は礼央を見つめて言った。
「明日……話がある」
僕は勇気を振り絞って言った。雪がしんしんと降り続いている。
「俺も……話したいことがある」
礼央の瞳に、少しずつ希望の光が戻ってきたように見えた。
「じゃあ、明日……屋上で」
「ああ、待ってる」
別れ際、礼央が微笑んだ。その笑顔を見て、僕の心に積もっていた雪が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
そして僕は、明日という日を心待ちにしながら、雪の降る道を歩いて帰った。自分の未来は、もう目の前に広がっている。それを選び取るのは、僕自身の勇気次第なのだ。



