寮のカーテンの隙間から差し込む朝の光が、僕の頬を優しく撫でた。目を開けると、白い天井と、その上で踊る埃の粒子が見える。ゆっくりと体を起こし、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けた。窓ガラスに吐息をかけると、一瞬だけ白く曇り、すぐに消えていく。ひんやりとした空気が窓辺から漂い、僕の素肌を粟立たせた。

 普段なら目覚めは良いほうだ。「朝型人間」と呼ばれるくらいには。だが今日は違う。昨晩、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。鏡を覗き込むと、うっすらと目の下にクマができている。顔色も冴えない。冷たい水で顔を洗い、頬を叩いて血色を取り戻そうとする。無表情の自分と鏡越しに見つめ合い、深いため息をついた。

「大丈夫、いつもの志水凪でいればいい」

 自分自身に言い聞かせるように呟く。手早く身支度を整え、朝食を済ませた。寮から学校まで徒歩五分とかからない距離だ。同じ敷地内ではないが、隣接しているのでほとんど同じと言ってもいい。

 寮を出て空を見上げると、晩秋の空は鉛色の雲に覆われていた。紅葉が終わりかけている木々は、冷たい風にまだ枝に踏ん張って残る葉を震わせている。その姿が、何故か自分と重なって見えた。

「おはよう!」

「今日、寒いよなー」

 季節の変わり目に急に冷え込んだせいか、登校する生徒たちは手袋やマフラー、中には薄手のコートを羽織り始めた者もいる。学校が近いからと油断していた僕は、手先が冷たくなり、両手を擦り合わせては「はぁ」と白い息を吹きかけた。

 昇降口で靴を履き替えようと目をやると、いつもならきっちりと揃えておいてあるはずの上履きが、まるで投げ込まれたかのように無造作に突っ込まれていた。それを見た瞬間、昨日の出来事が鮮明に蘇ってきた。

 ――昨日の夜のこと。あれは夢だったんじゃないかって思いたい。

 だがそれは夢などではなかった。

『凪のことを考えてしまうからなんだ』

『凪と一緒にいると、心が安らぐんだよ』

 礼央の言葉が、耳の奥で残響のように鳴り続けている。心臓がその音に合わせて高鳴り、呼吸が浅くなる。その時、不意に肩を叩かれ、僕の体は電気でも流れたようにビクッと震えた。

「おっはよ! なぎっち」

 振り向くと、蓮が満面の笑みを浮かべていた。彼は馴れ馴れしく肩を組んでくる。

「……おはよう」

 僕はチラッと蓮を見て、すげなく挨拶をした。視線を合わせられない。

「あれぇ? なぎっち、どうした? 顔色悪いぞ? 熱でもあんの? 元気もないし」

 蓮の問いに僕はぶんぶんと頭を振った。心配されるほど顔に出ていたのか。

「ううん。ただの、寝不足」

 蓮は不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。温かみのある茶色の瞳が、心配そうに僕を見つめている。

「なぎっちが寝不足なんて、珍しいね。勉強頑張ってたの?」

「うん……、まぁ……」

 幼馴染とはいえ、自分の恋愛対象が男だということを知らない蓮には、礼央のことは相談できない。だから曖昧に答えるしかなかった。僕は彼に肩を組まれたまま、ぼんやりとしながら教室に向かった。

 ――礼央に会ったら、どうしたらいいんだろう?

 恋愛に疎い僕には、こんな状況でどう振る舞うべきなのかが全く見当もつかない。機械のように足をリズミカルに前に出して教室へ向かっていると、廊下の向こうに空色のジャージを着た礼央の姿が目に入った。

「あっ……!」

 僕は蓮の手を振り解き、反射的に身を翻した。

「お、おいっ! なぎっち、どうしたんだよ、急に」

「ご、ごめん! トイレ!」

 僕はトイレに駆け込み、個室に閉じこもった。ドアにもたれかかり、ずるずると床に腰を落とす。

「はぁ、はぁ」

 肩を上下させて息を整える。だが、心臓はドラムのように激しく打ち付けていた。胸を押さえても、その鼓動は収まらない。

「……落ち着け、落ち着けよ……。ただ、姿を見ただけじゃないか……」

 深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻す。シャツの襟元を整え、制服のしわを手で伸ばし、扉を開けた。すると、腕組みをして仁王立ちした蓮が、眉間に皺を寄せて待っていた。

「なぁ、なぎっち。誰かに追われてんの?」

「え?」

 蓮の厳しい表情からは想像できない言葉が発せられ、僕は呆気に取られた。もっと怒られるのかと思っていたのに。

「だってさ、なんか逃げ回ってるみたいだったから……」

 幼馴染というのはこういうものなのだろうか? ちょっとした変化にも気づいてくれる。頼もしくもあり、ありがたい存在だ。だが、蓮には「好きな人から逃げている」なんてことは口が裂けても言えない。僕は頬が熱くなるのを感じて俯きながら言った。

「そ、そんなことないよ」

「そうか? ならいいんだけど。なんかあったら俺に相談しろよな!」

 そう言うと、蓮は腕を大きく広げて、僕をぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。小さい頃からやっている、僕を慰める時のスキンシップだ。僕は苦笑いしながら「ありがとう」と答えるしかなかった。その背中は、いつも通りに温かかった。

 放課後、図書館の定位置で勉強をしていた。だが、いくら本に目を落としても頭に入ってこない。目で文字を追っても、頭の中は礼央のことでいっぱいだった。僕は本に顔を埋めて「うーん」と唸った。

 その時、ポケットの中のスマートフォンがブルっと震えた。画面を確認すると、礼央からのメッセージが届いていた。

『まだ学校にいるんだったら、話がしたい。屋上で待ってる』

 シンプルな内容のメッセージ。だが、僕の心臓はドクンと大きな音を立て、指は震えが止まらなかった。返信しなきゃと思っているのに、指が凍りついたように動かない。

 ――なんて返事する? 会いたい……、でも、怖い。

 結局、返信することができずに、そのまま画面を閉じた。図書館の窓から見える空は、次第に暗くなっていく。まるで僕の心のように。


 礼央から会いたいと言うメッセージをもらったのに、それを無視してから数日が経った。その間も、食堂で目が合いそうになれば別の方向を向き、廊下ですれ違いそうになれば進路を変え、礼央をずっと避け続けていた。

 ――こんなことしても、何も変わらないんだけど……。

 心の中ではそう思っていても、いざ礼央と会おうとすると腰が引けてしまう。これは恋愛経験の欠如が生み出す臆病さだけなのか、それとも男同士という関係への恐れなのか。自分でも分からない。

 その日の昼休み、他の生徒をやりすごし、人気のない校舎裏に逃げ込んだ。空は鉛色の雲に覆われ、時折冷たい風が吹き抜ける。

 ――ここなら、礼央に会うこともないだろう。

 そう高を括っていたのに。秋も終わり、葉が散った木々の向こうから話し声が聞こえてきた。それは聞き覚えのある声だった。

「……本当に、ごめん。紗奈」

 僕はそっと木の影から顔を覗かせると、そこには礼央と紗奈がいた。礼央は僕に背を向ける形で立っていて、表情は見えない。紗奈の表情はこちらから見えた。彼女は涙で頬を濡らし、震える唇を噛んでいる。

 ――盗み聞きなんてするべきじゃない。でも……。

 足が地面に縫い付けられたように動かなかった。罪悪感と好奇心が入り混じる。

「もう、気持ちは変わらない?」

 紗奈の声は震えていた。彼女の細い指が制服のスカートをきつく握りしめている。

「……うん。ごめん。正直に言うと、俺、他に好きな人ができた」

 礼央の声は低く、とても申し訳なさそうだった。いつも明るい彼には似合わない、悲痛な声。僕は胸がぎゅっと締め付けられた。

 ――僕のせいで……。

 僕は胸元をキツく握りしめた。この痛みは何なのだろう。罪悪感? それとも喜び? どちらにしても、自分を恥じる気持ちが込み上げてくる。

「もしかして、それって、志水先輩?」

 紗奈の言葉に僕は息を呑んだ。心臓が早鐘を打つ。背中に冷たいものがつうっと落ちるのが分かった。名指しで言われると、隠れる場所など、どこにもない。

 礼央は紗奈の言葉に黙って頷いた。

「やっぱり……」

 紗奈は笑顔を見せていたが、それはとても悲しそうだった。月光のように儚く、消えそうな微笑みだ。

「初めから気づいてた。礼央が志水先輩を見る時の目が特別だったし……。それに、生徒会新聞に載ってた文化祭の写真。あんな笑顔、初めて見た……」

 紗奈は笑顔を崩さなかったが、ツウっと涙が頬を伝った。彼女の言葉に、僕の心臓は激しく鼓動した。礼央が僕を特別な目で見ていたなんて。それはいつからだったのだろう。

「……ごめん」

 礼央の口から漏れる言葉はとても苦しそうだった。その声を聞くと、僕も喉が詰まって苦しく感じた。

「いいよ。本当のこと言ってくれて、ありがとう」

 紗奈は手の甲で涙を拭いながら、微笑んだ。紗奈の強さが、僕にはまぶしく見えた。

「そろそろ行くね。……さよなら、礼央」

 そう言うと、紗奈はその場から走り去って行った。あとには、僕と礼央だけが残された。紗奈が去った後、礼央は大きく長いため息をひとつついた。彼の表情は僕からは見えない。だがその背中は罪悪感で苛まれているような寂しさが漂っていた。

 僕は物音を立てないように注意しながら、その場を後にした。冬の始まりを告げるような冷たい空気が頬を撫でる。空を見上げると、今にも雪が降りそうなほどの鉛色をしていた。

 ――礼央、辛そうだったな……。全部、僕のせいだ……。

 僕はこれからどうすべきなのか、分からずに頭を抱えた。ひんやりと冷たい風が頬を撫でていった。


 礼央と紗奈の別れの場面に出くわしてしまって数日が過ぎた。自分が原因で二人が別れてしまったという事実が、どうしても受け入れられない。僕は何も手につかず、心と体が切り離されたような日々を過ごしていた。

 放課後の教室で、何をするでもなく、ぼうっと窓の外を眺める。冬が近づくと日暮れが早く、教室にはオレンジ色の夕日が差し込み、誰もいない机に長い影を落としていた。木漏れ日の斑模様が床に映り、僕の心が細切れになったように感じられた。

 僕は赤く夕日で染まった机に突っ伏して、大きくため息をついた。

「おい、なぎっち!」

 その時、後ろから声をかけられた。顔を上げると、蓮が僕の顔を覗き込んでいた。いつの間に教室に入ってきたのだろう。

「……蓮」

「どうした? 最近、マジでおかしいぞ? なんかあったのか?」

 僕は何を言っていいのか分からず、しばらく、蓮の顔を見つめた。瞳の奥に心配と優しさが混在しているのが見てとれる。そしてゆっくりと口を開いた。

「蓮……。人を好きになるって、どんな感じ?」

 急に口をついた言葉に、自分でも驚いた。心の中で押し殺していた言葉が、思わず溢れ出てしまった。

「おぉっ! とうとうなぎっちも、恋をしたのか?」

 蓮が急に目を爛々と輝かせて僕に近づいてきた。その表情は冗談めかしていたが、どこか真剣さも感じられた。

「そ、そんなんじゃないよ……」

 僕は顔を赤らめてそっぽを向いた。窓ガラスに映る自分の顔が、夕日で真っ赤に染まっているのが見えた。

「え? 誰だよ。クラスの子?」

 蓮は僕の前の席の背もたれを抱え込むように座り、僕の顔を覗き込んだ。興味津々の蓮の問いに、息がつまる。何と答えればいいのか。

「もしさ。それが……もし、普通じゃない恋だったら……?」

 僕は言葉を慎重に選びながら蓮に聞いた。声が震えるのを止められない。

「普通じゃない? ……まさか、先生、とか?」

「違うっ! そんなんじゃなくて……」

 僕はその後の言葉を続けられず、言葉を切った。沈黙が二人の間に広がる。教室に差し込む夕日の光が徐々に弱まっていく。しばらく沈黙が続いた後、蓮がゆっくりと口を開いた。

「もしかして……男子、とか?」

 蓮のその言葉に僕の肩はびくりと震えた。机の下で指先が小刻みに震えている。震えを止めることができない。心臓の鼓動が、耳の中でうるさいほどに響いていた。

「…………」

 僕は口を開くことができずに俯いた。だが、黙っていることが肯定の答えだと気づいていた。何も言うことができない僕に、蓮はぽんと肩を叩いた。その手はとても優しく、嫌悪など一切感じられなかった。

「別にいいじゃん。好きなら、好きでさ」

 蓮の意外な言葉に僕は目を見開いた。そして涙が零れ落ちそうになるのを堪えた。

「……え?」

「お前の人生だろ? 好きなヤツのために頑張れよ。相手もきっとそれを望んでるって」

 蓮の言葉が僕の胸を温かく包んだ。まるで凍りついていた心に、熱い陽だまりが差し込んだような感覚。きっと蓮は僕が誰を好きなのかを知っている。小さい頃からそうだった。僕の態度は蓮にいつも筒抜けだ。

 だけど、それを言葉に出すことなく、励ましてくれた。その優しさに目頭が熱くなり、涙が溢れた。長い間抱えていた重荷から解放されたような、そんな感覚だった。

「……でも……、みんなに、迷惑……かけるかも……」

 グズっと鼻を啜りながら涙声で言った。両親のこと、学校のこと、礼央自身のことも考えると、不安が消えることはなかった。

「誰も迷惑なんてしないって。大事なのは、自分の気持ちに正直になることだろ?」

 そう言うと、蓮は僕の頭をくしゃっと撫でた。いつもの仕草なのに、今日はなぜかいつも以上に温かく感じられた。

「……うん。……うん」

 僕はみっともないと思いながらも、泣きながら何度も頷いた。小さい頃から慰めてくれる蓮の温かい手と言葉が、僕の心をふんわりと抱きしめてくれるように心に沁みた。


 蓮に僕の気持ちを打ち明けてから数日後、勇気を振り絞って、以前礼央から貰っていたメッセージにようやく返事を打った。

『今日の放課後、屋上で会います』

 そう返信して教室の窓から空を見上げる。どんよりと黒い雲が空を覆い尽くしていた。これから会う礼央に、どんな顔をして、何を言えばいいのか。そんなことを考えながら、授業の内容は一言も頭に入らなかった。

 放課後、屋上に出ると、空からは雪が舞っていた。初雪だ。うっすらと屋上を覆い始めてはいるが、積もるほどではない。白い息を吐きながら、僕は手摺りを握りしめた。

 僕は、はあっと息を吐いた。その息は白く、冷たい空気に溶けていった。季節外れの初雪が舞い落ちるのを見上げながら、僕は礼央の到着を待った。鼓動は次第に速くなり、手のひらには汗が滲んでいた。

 ――本当に、来るのかな?

 フェンスから校庭を見下ろしながら考えていると、扉が開く音がした。古びた金属音が、僕の神経を揺さぶる。

「凪!」

 振り返ると、そこには礼央が立っていた。息を切らして、頬を紅潮させている。まるで走ってきたかのように。

「待たせてごめん! 部活の後輩に捕まって……」

「もう引退したのに?」

「うん。たまに後輩の相談とか、のってるんだよ」

 そう言いながら、礼央は一歩ずつ僕に近づいてきた。薄く積もった雪の上に、礼央の足跡が刻まれた。その足音は、僕の心臓の鼓動と同じリズムを刻んでいるように思えた。

 フェンスの前に並んで立った僕と礼央の間にはしばらく沈黙が続いた。ピリピリとした緊張感が漂う。雪が二人の間に舞い落ち、消えていった。その時、礼央が沈黙を破った。

「……あの日から、会いたかった」

 礼央の言葉はいつもより低く、真剣さを帯びていた。その声から緊張していることが分かった。指で手摺りを強く握りしめている。

「……ごめん。避けてた……」

 僕は正直に礼央に謝った。無意識に逃げていたことを認める。彼はくしゃっと笑って言った。その笑顔に、少し安堵が混じっていた。

「分かってる。俺もごめん。急にあんなこと言って……」

 礼央は少し俯いた。雪の結晶が彼の黒い髪に落ち、溶けずに残っている。

「でも、本当なんだ。凪のことを考えると……、胸がざわざわして、落ち着かなくて……」

 礼央は顔を上げ、僕の目を見つめた。彼の目は真っ直ぐで、嘘偽りのない感情が見て取れた。僕と礼央の間に雪がふわりと舞い落ちる。

「凪のことばかり……考えてしまうんだ」

 そう言うと礼央は一歩、僕に近づいた。二人の間の距離がわずかに縮まる。その一歩が、僕には大きな意味を持って感じられた。

「……礼央」

 僕は喉に何か詰まったようになり、名前を呼ぶことがやっとだった。これから言うべき言葉は、まだ整理できていなかった。

「好きだ、凪」

 礼央は僕の目をまっすぐ見つめて、言った。その瞳は揺れている。不安と期待と、そして何かを決意したような強さが混在していた。

 僕の胸は激しく鼓動した。心の中で様々な感情が入り乱れる。

 ――嬉しい。これが本当なら……。でも、怖い。もし礼央の気持ちが違ったら……。

 僕は息を呑んで、その場に立ち尽くした。


 礼央の告白の言葉が、冷たい空気の中に響いた。「好きだ」。たった三文字なのに、その重みは雪よりも強く僕の肩にのしかかる。

 礼央の表情を見れば、それが本当の気持ちだと分かる。瞳に嘘はない。だけど、僕たちは男同士で、礼央は女の子も好きになれる。男しか好きになれない、僕とは違う。

 それを考えると、今は僕のことが好きでも、いつかは「普通の恋愛」へと戻り、僕から離れていく未来が見えてしまった。一時の感情に流されるだけではないか。その不安が、凍えるような寒さとなって僕を包み込む。

 それが怖くて、僕は一歩後ずさった。雪を踏みしめる音が、決意を表すように響いた。

「……わかってない」

 僕の口から出た声はとても小さかった。だが、雪の降る周りの空気と同じぐらい冷たいものだった。心とは裏腹に。

「え?」

 礼央には僕の声が聞こえなかったようで、聞き返してきた。少し首を傾げて、不安そうな表情を浮かべている。

「礼央は何もわかっていない!」

 僕の声が大きく屋上に響いた。思わず感情を爆発させてしまう。声を荒げたことにも自分で驚いた。

「これは……ただの一時的な気の迷い、だよ……」

 告白されて嬉しいのに、自分でも驚くほど冷たい言葉が口から出た。それは僕の本心ではない。ただ、怖かっただけなのに。

「違う! 俺は本気だ!」

 礼央は頭を振って僕の言葉を強く否定した。その言葉には必死さが滲み出ていた。目を真っ赤にして、僕に向かって叫んだ。

 僕の心の中では礼央が間違いに気づいて僕から離れていく恐怖が渦巻いていた。その恐怖が僕を突き動かしている。守るために、傷つけているような矛盾。

「友情と別の何か別のものを混同しないで!」

 心の中では「嬉しい、受け入れたい」と思っていても恐怖が増してしまい、裏腹な言葉が口から溢れ出る。自分でも、何を言っているのかわからない。

「……凪」

 礼央は僕の名前を呟くと、表情が曇った。目の光が消えている。その姿は、胸を刺すように痛かった。

「これが現実なんだよ……。僕たちは、男同士だ」

 震える声で言葉を絞り出した。唇が震える。それは寒さのせいなのか、礼央を拒絶する恐怖からかは分からなかった。

 薄く雪が積もり始める中、僕は一歩踏み出した。距離を置こうとする一歩。

「だから、もう、この話は……」

 そう言いかけた時、足が滑ってしまった。薄い雪が思いのほか滑りやすかったのだ。

「わっ!」

 バランスを崩して転びそうになったところ、礼央が素早く手を差し伸べてきた。いつでも僕を支えようとする彼の姿勢に、胸が締め付けられる。

「危ないっ! 大丈夫か?」

 しかし僕はその手を払い除けた。温かな手のひらに触れることが、自分の決意を崩してしまいそうで怖かった。

「触らないで!」

 思わず大きな声が出てしまった。その声は屋上に響き、やがて雪と共に消えていった。礼央はその声を聞くと、俯いていた。表情はよく見えないが拳が小刻みに震えている。怒りなのか、悲しみなのか、それとも寒さなのか。

「……分かった。無理に迫ることは、しない」

 その声は諦めと哀しみに満ちていた。いつもの明るい礼央の声ではなく、何かが壊れてしまったような声だった。

 僕は黙ってその場を後にした。ドアを閉める際に、礼央を振り返った。雪の中に立ち尽くす礼央の背中は、とても小さく見え、孤独に満ちていた。舞い落ちる雪が彼の輪郭をぼやかし、幻のように儚く見せていた。

 僕は階段を一段ずつゆっくり降りながら礼央に心の中で謝った。自分の弱さに対する怒りと、彼を傷つけた罪悪感が交錯する。

 ――ごめん、礼央。でもこれが、礼央のためにはいいんだ。これが正しいんだ……。

 今まで我慢していた涙がどっと堰を切ったように溢れ出た。階段の踊り場で膝から崩れ落ち、壁に背を預けて泣き続けた。誰にも見られない場所で、初めて素直に涙を流す。それは自分のためなのか、礼央のためなのか、もはや分からなかった。