文化祭当日。秋の爽やかな風が校舎の中を吹き抜け、色とりどりの装飾がふわりとなびいていた。今か今かと開会式を待ち侘びている生徒たちのざわめきは、これまで時間をかけて準備してきた誇りと、楽しみに出会える期待で満ち溢れていた。窓から差し込む光は床に煌めく模様を描き、緊張と高揚が混ざり合う空気が体育館を満たしていた。
待ち構えている生徒たちの期待に応えるように、開会式が始まった。僕はこの学園で最後の文化祭を取り仕切る生徒会長として緊張と責任感で体がこわばっていた。冷や汗が背中を伝い、呼吸を整えるのに集中する。いつものように、誰にも気づかれないよう表情を引き締めた。
「ただいまより、第四十七回北翔学園、文化祭を開会いたします」
厳かな声が体育館に響き渡ると、生徒たちが「わーっ!」と歓声を上げた。今日この日のために、みんな協力し合って準備をしてきたのだ。生徒会役員に目を向けると、みんな感無量といった表情だ。特に一年生の役員たちは初めての文化祭で緊張と興奮が入り混じった表情を浮かべている。
開会式が終了すると、生徒たちは一斉に自分たちのクラスの持ち場へと向かう。その表情はこの日を待ち侘びていたようで、笑顔に満ち溢れていた。体育館のステージではすぐに吹奏楽部員による演奏の準備が始まる。彼らの真剣な眼差しと緊張した面持ちが、これから始まる文化祭の空気を一層高めていた。
僕は会場から全ての生徒が出たのを見届け、各クラスの状況を見て回った。この瞬間が僕の仕事、完璧な運営のための確認だ。どこかで不具合が生じていないか、予定通りに進んでいるか、細部まで目を光らせる必要がある。
「一年二組の皆さん、吹奏楽部の後のプログラムですが、準備はいかがですか?」
僕が教室へと顔を覗かせると、クラス全員が色めき立った。女子生徒たちは小さく悲鳴を上げている。文化祭実行委員が僕の元へと走り寄ってきた。彼女の目はきらきらと輝き、頬は紅潮していた。
「志水先輩、ありがとうございます! 準備万端で今から体育館へ向かおうと思っています」
「そうですか。本番を楽しみにしていますよ」
その言葉を聞いた一年二組の生徒たちは、キャーキャーと黄色い声をあげて「はい! がんばります!」と口々に答えていた。彼らの純粋な反応に、僕は内心微笑ましく思ったが、表情には出さない。生徒会長としての威厳を保ちながら、頷いて次の場所へ向かった。
その後も舞台発表のクラスを一つずつ確認していった。最後の文化祭を生徒会長として完璧に仕上げたい。どのクラスも準備万端とばかりに、自信に満ち溢れていた。彼らの表情からは、この日のためにどれほど努力してきたかが窺える。その姿を見るたび、僕も静かな誇りを感じていた。
最後に三年一組へと赴いた。廊下の前には所狭しとセットや備品がずらりと並べられている。人がひとり通れるかどうかの隙間を縫って教室の入り口へと向かったのだが、向かいから歩いていた人物とぶつかりそうになった。
「わっ!」
「おっと、危ない」
よろけた僕の体を咄嗟に支えてくれたのは、礼央だった。息がかかるほど、顔が近い。僕の心臓は一気に跳ねた。時が止まったかのように、一瞬、世界が彼だけになった気がした。
礼央は白いシャツにルネサンス風の豪奢な上着を身につけ、すでにロミオの衣装を纏っていた。普段から精錬された姿で人を惹きつける魅力がある礼央なのだが、髪の毛をオールバックにすると、整った顔立ちが強調され、とても綺麗だった。その姿はまさに舞台の上の王子そのもので、見る者の息を呑ませるほどだった。
僕は数秒間、礼央に見惚れてしまった。彼の瞳は、舞台に立つ緊張感からか、普段より深い色に見えた。
「凪、忙しそうだな。大丈夫だったか?」
礼央に声をかけられ、ハッと我に返った。少し頬に熱がこもっているのが分かった。自分の動揺を悟られないように、僕は一瞬目を伏せて心を落ち着かせた。
「うん。……ありがとう」
礼央は太陽のような笑顔を僕に向けてきた。その笑顔が眩しすぎて僕は目を細めた。彼の笑顔には心を解きほぐす不思議な力があった。どんなに緊張していても、その瞬間だけは肩の力が抜けるような。
「ところで、うちのクラスに用だった?」
「えっと、文化祭実行委員に進捗状況を確認に……」
そう言って教室の入り口を見たが、人とセットで溢れかえっていてそこまで辿り着けそうになかった。少し困って眉を下げると、礼央が気を利かせてくれた。彼は僕の表情の微かな変化にもすぐ気づくようだった。
「俺が聞いてこようか?」
「そんな……。主役は忙しいでしょう?」
「これぐらい、どうってことないよ」
そう言うと礼央は踵を返して、教室の入り口に向かった。礼央が立ち去った後、僕は心臓の高鳴りを抑えるのに必死だった。間近で見た礼央の顔を思い返すだけでも顔が赤らんでしまう。胸の中で渦巻く感情を抑えるため、僕は深呼吸を繰り返した。
しばらくすると礼央が戻ってきた。彼の足取りには軽快さがあり、どこか楽しげだった。
「特に問題ないようだよ。準備も全て終わってるから、そろそろ体育館にセットを運び込むって言ってた」
その言葉に僕はホッと安堵した。この安心感は単なる仕事への安堵だけではなく、礼央が戻ってきてくれたことへの喜びも混じっていた気がした。
「そう……。何か問題があったら、僕に連絡するように伝えておいてもらえるかな?」
「おうっ! 任せとけ!」
礼央は親指を立てて、請け負ってくれた。その仕草には彼特有の陽気さがあふれていて、見ているだけで心が軽くなる。
「じゃあ、本番、見に行くから……。頑張って!」
「ありがとう! 凪も頑張れよ!」
僕は「じゃあ」とその場を立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。急な出来事に思わずビクッとした。温かい感触が腕から伝わり、心臓が激しく鼓動する。
「……えっ?」
振り向くと、礼央が少し照れくさそうに口を開いた。彼の頬がほんのりと赤く染まっているように見えた気がした。
「あのさ……」
礼央がそう言った時、「おーい、鳴海―!」と礼央を呼ぶ声が教室の中から聞こえた。礼央は名残惜しそうに腕を離した。その指先が僕の肌を離れる瞬間、言いようのない寂しさが胸をよぎった。
「ごめん、行かなきゃ……」
「うん、頑張って」
僕はそれだけ伝えると、その場から離れた。礼央に掴まれたところに熱がこもっているのが分かる。その温もりが消えないうちに、こっそりと自分の腕に触れてみる。
――ただ、腕を掴まれただけなのに……。
胸の高鳴りを抑えるのに一苦労だった。こんなにも些細な接触で、ここまで動揺してしまう自分が恥ずかしくもあり、不思議でもあった。だけど、この感覚は確かに、僕の中で何かが変わり始めている証だった。
僕は休む暇もなく、校内を歩き回り、不備がないかを確認していった。模擬店を出店している外に電気が通っていないと言うトラブルもあったが、それもすぐに解決した。どんな問題も冷静に処理する。それが生徒会長としての僕の務めだった。
劇の行われている体育館へ頻繁に足を運び、照明や音響の不具合がないことも確認済みだ。プログラムを確認すると、そろそろ礼央のクラスの劇が始まる時間だった。その瞬間、心臓がまた早鐘を打ち始めた。
「そろそろ行くか」
僕が体育館へ到着した時には、礼央のクラスの劇はすでに始まっていた。リハーサルとは違い、緻密に作られたセットで舞台上が装飾されている。出演者も煌びやかな衣装を身に纏い、そこはルネサンス時代を彷彿とさせる華やかな世界が広がっていた。
僕は舞台上の礼央に目が釘付けとなった。彼の額には汗が滲み、照明が反射してキラキラしている。明るく通る声は体育館に響き渡っていた。まるで本物の貴族のような気品と、若さゆえの情熱が完璧に融合した姿に、観客は魅了されていた。
「本当に、王子様みたいだな……」
僕は思わずボソッと呟いてしまった。その言葉は胸の奥から自然と溢れ出たものだった。
――あなたのためなら、家名も捨てましょう。
礼央の練習に付き合った時のセリフが頭をよぎる。ジュリエットの台詞だが、なぜか今、その言葉が僕の心に深く響いた。
『本当に捨てられるの?』
礼央に言われたその言葉が何度も頭の中で繰り返される。僕に、家を捨てる勇気があるだろうか……? 自分の将来を、家の期待を捨てて、本当に望む道を選べるだろうか?
――夢は? 本当にやりたいことは?
礼央に問われてから、そのことを考えることが多い。もしも、自由に自分の好きなことをできるとしたら? そう考えるとワクワクする。心の奥に小さな炎が灯る感覚だ。長い間押し殺してきた感情が、じわじわと表面に浮かび上がってくる。
だが、そう簡単には行かないのは重々承知している。すんなり家業を捨てられたらどんなにいいか……。僕は大きくため息をついた。現実と理想の間には、深い溝がある。その溝を埋めるには、まだ僕には勇気が足りなかった。
礼央のクラスの劇が終わった後、少し休もうと中庭へと向かった。しばらくは校内を巡回する必要もない。一人になれる時間が欲しかった。心の中のざわめきを静める時間が。
――あぁ……、なんか、疲れたな……。
しかし、学校にいる間は疲れた表情など見せられない。心の中で呟きながら顔はいつもの仮面を貼り付けて疲れを見せないように心がけた。だが、自然と顔は俯きがちだ。中庭を通り抜ける風は爽やかなのに、心の中は暗雲が立ち込めているかのようにどんよりとしている。
「凪、お疲れ〜!」
突然、明るい声が後ろから聞こえて振り返ると、そこには礼央が立っていた。クラスの劇が終わった彼は、豪奢な衣装からいつもの制服に着替えを済ませていた。まだあの王子様ファッションを見たかったな、と少し残念に思った。彼の髪はまだセットされたままで、額に少し汗が光っている。舞台の熱気が残っているのか、頬は上気していた。
「凪、劇、見てくれた?」
「もちろん見に行ったよ。リハーサルの時より、キラキラ輝いてて素敵だった。すごくかっこよかったよ」
僕は自然と本音が出た自分に驚いたが、礼央の前なら自分らしくいられる気がして取り繕うことをしなかった。いつもの完璧な生徒会長ではなく、ただの志水凪として話しているこの瞬間が、どこか心地よかった。
「そっか! そう言ってもらえると、嬉しいな」
礼央は首を傾げて僕に満面の笑みを向けた。その笑顔が眩しくて、僕は目を細めた。彼の笑顔には太陽のような温かさと、人を惹きつける力があった。
「そうだ。凪、これから時間ある?」
礼央は僕の横に腰掛けながら聞いてきた。次の巡回までは少し時間があるから、ここで休むつもりで中庭にやってきたのだ。彼が隣に座ると、肩と肩がほんの少し触れそうになり、僕は微かに身体を強張らせた。
「しばらくは巡回もないし、ここで休もうと思っていたんだけど……。何かあった?」
「よかったらさ、俺と一緒に文化祭、回ってくれない?」
突然の礼央の誘いに僕は戸惑った。だって、彼には彼女がいるからだ。そのことを思い出した瞬間、胸に小さな痛みが走る。
「……僕じゃなくて、他に一緒に行きたい人がいるんじゃない?」
遠回しに伝えてみたが、礼央は真剣な眼差しを僕に向けて言った。彼の瞳には迷いがなく、まっすぐに僕を見つめていた。
「凪と回りたいんだよ。それとも、誰かと約束してる?」
僕には学内に友人はいない。幼馴染の蓮は僕のことを気にかけてくれてはいるが、それほど一緒にいる間柄ではないし、僕の忙しさを知っているからか、あまり蓮からは誘ってこない。完璧な生徒会長は、いつも一人で孤独だった。
「別に、誰とも約束してないけど……」
「だったら、一緒に行こ!」
礼央は嬉しそうに僕の腕を引いた。その仕草には子供のような無邪気さがあった。彼のこの純粋な喜びの表現が、僕の心を少しずつ溶かしていく。
――本当は、一緒にいたかったから、嬉しい……。
心の中で本音を呟いて、礼央と並んで校内を歩き始めた。二人で並んで歩く景色は、初めて見るものではないのに、今日はどこか特別に思えた。
ちょうど昼時で、礼央がお腹が空いたと嘆いていたので、模擬店の立ち並ぶ校門へと向かった。そこにはお腹を空かせた生徒や近隣住民で人だかりができていて、賑わっていた。活気に満ちた声や笑い声、食べ物の匂いが混ざり合い、お祭りの雰囲気を一層盛り上げていた。
「すごい賑わいだな」
純粋に楽しんでいる礼央の姿を見て、僕も自然と笑顔になった。彼の感情は伝染するようだった。誰よりも正直に、誰よりも全力で楽しむ姿が、心を明るくする。
「どの模擬店も繁盛してるみたいだね」
「ねえ、凪。焼きそば食べていい?」
礼央ははしゃぎながら焼きそばを買いに行った。まるでその姿は子供のようで微笑ましかった。彼の後ろ姿を見ていると、胸の中が温かく溶けていくような感覚に襲われる。
「うまっ! これ、めちゃくちゃうまい! ほら、凪も食べてみて」
礼央が焼きそばを挟んだ箸を僕に向けてきた。彼は何の躊躇いもなく、自分の箸を差し出してくる。その仕草に一瞬戸惑った。
「いや……、僕は大丈夫だから……」
「いいから、いいから。ほら、あーん」
有無を言わさず、焼きそばの箸を僕の口元に持ってくる。僕は慌ててしまい、思わずオロオロとしてしまう。頬が熱くなるのを感じた。
「え? いや……こんなとこで?」
僕は周りの目を気にして、辺りを見渡した。だが、僕たちのことを気にしている人など誰もいないように見えた。みんな自分たちの楽しみに夢中で、僕たちに注目している人は一人もいない。
「遠慮すんなって。はい、あーん」
僕は断りきれずに、礼央が差し出した焼きそばをパクッと食べた。ソースの甘辛さと鰹節のうまみが口いっぱいに広がった。キャベツのシャキシャキした食感が心地よい。温かい麺がのどを通る感触に、ほっとするような安らぎを感じた。
「美味しい……」
「だろ?」
礼央は満足げに僕に微笑みかけてきた。その笑顔が僕にだけ向けられていると思うと恥ずかしくなって頬が熱くなった。心臓がまた早鐘を打ち始める。
焼きそばを食べ終えると、また別の模擬店へと向かった。二人で寄り添いながら食べ歩きをする。まるで恋人との時間のようで心がふんわりと温かくなった。時々、人混みで身体が触れ合うたび、僕は小さく息を呑んだ。
「次、かき氷食べたい!」
礼央は僕の手を引っ張ってかき氷を販売している模擬店まで連れて行った。彼の手は大きくて、包まれるように握られた僕の手は、恥ずかしいほど小さく感じた。
「まだ食べるの? 食べすぎるとお腹痛くなるんじゃ……」
「大丈夫、俺の胃腸は鉄でできてるから」
自信満々にお腹をポンと叩いてみせる礼央がなんだか可愛くて、思わず僕は吹き出してしまった。その無邪気な仕草に、心が軽くなる。
「じゃあ、僕も食べようかな?」
「そうこなくっちゃ!」
二人で店の前に並び、僕はいちご味、礼央はマンゴー味を頼んだ。手に取ったかき氷は普通のシロップがかかったものとは違い、果肉が入っているソースがかかっていて、氷もふんわりと削られていてまるでカフェで提供されるようなものだった。その見た目の美しさに、思わず感嘆の声が漏れる。
「この、いちご味、すごく美味しい……」
僕は一口食べて、思わず唸った。これほど美味しいかき氷が文化祭の模擬店で提供されているとは驚きだ。甘酸っぱいいちごの風味が、口の中いっぱいに広がる。
「俺にも、ちょうだい!」
礼央は僕がもうひとくち食べようとスプーンですくっていたかき氷をパクッと食べた。彼の顔が突然近づいてきて、その距離の近さに息が止まりそうになった。
「あっ……」
僕は礼央の顔が近くに寄ってきたのに驚いて、肩をびくつかせてしまった。彼の唇が一瞬、僕の指先に触れた気がして、電流が走ったような感覚に襲われる。
「うわー! めちゃくちゃうまいな、いちご。俺のマンゴーも美味しいよ。はい」
礼央はまた焼きそばの時のように僕にスプーンを差し出してきた。僕は少し戸惑ったが、美味しそうなマンゴーの芳醇な香りが鼻をくすぐり、興味を逸らすことができずにスプーンを口に含んだ。今度は迷いなく、彼の差し出したスプーンを受け入れる。
「すごく濃厚だね」
「うん、美味しいよな」
美味しさのあまりに頬が綻んだ。純粋に「美味しい」と感じる気持ちと、礼央と共有している時間の幸せが混ざり合って、僕の表情を自然と明るくする。その時、少し離れたところから、声がした。
「おー、志水と鳴海、デートみたいじゃん」
僕は咄嗟に否定しようとそちらへ振り向いて言った。心臓がどきりと跳ねる。
「い……や、そんなんじゃ……」
すると僕の言葉を遮るように礼央が言った。彼の声は明るく、まったく動揺している様子はなかった。
「そうだよ。デートだから邪魔すんな」
ハハっと笑いながらさらりと答えた礼央に、僕は言葉を失った。だけど――。
――デート、だと、いいんだけどな……。
悪い気がしなくて、小さく微笑んだ。礼央のこの言葉に、胸の中で温かな感情が広がっていく。たとえ冗談であっても、その言葉が嬉しかった。
全ての模擬店を回って食べ歩きをした僕たちは中庭に戻り、ベンチに腰掛けた。夕暮れ前の柔らかな光が木々の間から漏れ、二人の周りを温かく包み込んでいた。
「ふぅ……。さすがに食べすぎたか……」
礼央はお腹をさすりながら、背中をベンチの背もたれに預けながら言った。彼の横顔は夕日に照らされて、柔らかく輝いていた。僕はくすりと笑って言った。
「礼央は鉄の胃腸じゃなかったのか?」
すると礼央は照れくさそうに首の後ろをかきながら僕の方を向いた。その仕草には何とも言えない愛らしさがあった。
「だと思ってたんだけどな……。やりすぎた」
「そうだね」
「でも、楽しかったぁ」
礼央は満足そうに微笑んでいた。その顔を見ると僕も嬉しくなって頬がほころんだ。彼の素直な感情表現は、僕の心の壁を少しずつ崩していく。
「僕も楽しかった……」
二人で座っているベンチに木漏れ日が差し込む。僕の心を秋の爽やかな日差しが包み込んだ。この瞬間が永遠に続けばいいのにと、密かに願った。
「凪はさ、普段は何してるの?」
急な質問に僕は驚いて礼央の顔を見た。彼は本当に純粋な好奇心からそう尋ねているようだった。
「何って……。特に、何も。読書とかしか……」
「へぇー、読書かぁ。俺、あんまり本読まないんだよな。どんな本読むの?」
「えっと……、小説。それから、心理学の本とか……」
他人から僕のことを聞かれたことがないからか、恥ずかしくて仕方がない。俯いてもごもごと口ごもった。自分の趣味や好きなことを話すのは、こんなにも難しいものなのかと驚いた。いつも完璧な答えを用意している僕なのに、こんな簡単な質問に戸惑うなんて。
「心理学? 意外!」
礼央は目を見開いて驚きを露わにしていた。その反応に、僕は少しだけ自分の興味を話してもいいのかもしれないと思えた。
「うん……。人の心理ってすごく興味があって……」
それを聞いた礼央は僕の顔をじっと見つめていた。その目は何か僕の中を見てやろうという意思が見て取れた。彼の真っ直ぐな視線に、僕は少し動揺する。普段は他人の視線など気にならないのに、礼央だけは違った。彼に見られると、心の奥まで覗かれているような、でも不思議と怖くない感覚があった。
「なるほど。だから凪は俺の心を見抜くのか……」
なぜか納得した様子の礼央だが、僕は彼の心など見抜いたことは一度もない。むしろ、彼こそが僕の心を見透かしているんじゃないかという気さえしていた。
「僕はそんなことしたことないよ」
僕がくすりと笑うと、礼央は「そうか?」と言いながら朗らかに笑った。彼の笑い声は風のように爽やかで、聞いているだけで心が軽くなる。
しばらく二人で他愛もない話を続けていた時、礼央がふと僕の頭に目を向けた。夕暮れの光が差し込み、僕の髪に何かが輝いたのかもしれない。
「あっ、凪、髪の毛に……」
「何かついてる?」
「うん、落ち葉。動かないで」
礼央が体を少し近づけて手を伸ばした。落ち葉を取ろうとする礼央の指先が、僕の髪の毛に触れた。髪の毛に神経はないはずなのに、触れられたと思っただけで、背中にビリビリと電気が走った。鼓動が一気に速くなり、息が詰まりそうになる。
礼央の指が必要以上に長くとどまっている。それは僕がそう感じているのか、それとも、礼央がわざと長く指をそのままにしているのか、分からなかった。でも、この一瞬が長く続いてほしいという気持ちが、胸の奥から湧き上がってくる。
――……近い。
僕の心臓は爆音を立てて鳴り響いていた。それを悟られないように、自然を装って礼央から目を逸らした。だけど、顔が熱くなっているのは確かだった。この状況を冷静に受け止められるほど、僕はまだ強くなかった。
礼央は落ち葉を摘んで、僕の髪からゆっくり手を離した。その手が僕の頬に微かに触れる。その一瞬の接触で、僕の全身に温かな波が広がるような感覚があった。
「取れた……」
しかし、僕の頬に触れているその手は、一向に離れる気配はなかった。まるでそこに留まるべきもののように、自然な感覚で。僕の頬に触れた礼央の指先からは、かすかな震えが伝わってきた気がした。
僕は思わず礼央を見た。視線が絡み合う。まるで時間が止まってしまったかのような感覚に陥った。礼央の瞳の奥が揺れているのが分かった。その瞳には困惑と、何か言いたげな感情が混ざり合っていた。
「……凪」
礼央の声はいつもの明るいものではなく、慈しみのこもったものであるようにも感じられた。囁くような、優しさに満ちた声音。
その声に、僕の鼓動は早鐘を打つ。全身が熱くなり、頭がぼんやりとしてくる。礼央の存在だけが、今の世界のすべてに思えた。
――どうしよう……。僕の、気持ち、気づかれたら――。
「おーい、鳴海―。セット運ぶの、手伝ってくれー」
その時、遠くから礼央を呼ぶ声が聞こえ、まるで魔法が解けたように、ハッと現実に引き戻された。二人の間にあった不思議な空気が一気に消え、日常の時間が戻ってきた。
「俺、行かないと……」
礼央は名残惜しそうに立ち上がった。一歩踏み出し、僕の方へ振り返りながら言った。彼の表情には複雑な感情が交錯していた。
「また後で……、会える?」
その問いかけには、何か約束を求めるような切実さがあった。僕は心臓の鼓動を抑えられないまま、頷いた。
「……うん」
僕は頬が熱くなるのを感じ、俯いて頷いた。この会話がどんな意味を持つのか、僕にはまだ分からなかった。ただ、もう一度礼央に会いたいという思いだけは、はっきりとしていた。
僕は、そっと礼央が触れた方の頬に手をやった。礼央が去った後も、僕の頬には彼の温もりがいつまでも残っていた。それはまるで、心に刻まれた印のように消えることはなかった。
文化祭一日目が終了し、二日目に向けて不備がないかを確認するために、僕は校内を巡回した。特に問題が起こることがなく、安堵しながら三年生の教室前の廊下を歩いていると、礼央の後ろ姿が見えた。彼の姿を見つけ、心が高鳴るのが分かる。一日中、彼のことを考えていた。あの時の触れ合い、交わした言葉、すべてが鮮明に記憶に残っていた。
『また後で、会える?』
礼央の言葉を思い出して、口を開いた。彼に声をかけようとする胸の内には、期待と緊張が入り混じっていた。
「れ……」
礼央の名前を声に出そうとした時、彼の向かいに小柄な女性が立っているのが見えた。あれは、確かバレーの練習試合で見た、礼央の彼女、伊藤紗奈だ。少し離れた場所から見ても、彼女の可愛らしさは際立っていた。きれいな黒髪、整った顔立ち、礼央にぴったりの女の子。
恋人がいることも知っているし、二人でいる姿を見るのはこれが初めてではない。しかし、間近で見る礼央と彼女の存在が僕の心をざわめかせた。まるで胸に冷たい水を浴びせられたような感覚だった。二人の会話が嫌でも耳に届いた。
「もうっ! 礼央、なんで今日、あたしと回ってくれなかったのよぉ」
「ごめんって。明日は一緒に回るからさ」
紗奈は礼央の腕を掴んで潤んだ瞳で彼を見つめている。女の子特有の甘えた仕草だけど、どこか本気の怒りを含んでいるようにも見えた。礼央は目を紗奈に合わすことをせず、彼女が掴んでいる手をゆっくり振り解いた。その仕草に僕は少し驚いた。
僕が横を通り過ぎようと近づていくと、礼央は足音に気づいたようでこちらを向いた。彼の表情が一瞬で変わるのが見えた。
「あ、凪……」
その表情はとても気まずそうで、笑顔を向けているがその顔は少し引き攣っていた。まるで何かを隠しているような、そんな表情。僕は自分が二人の間に割り込んでしまったことに申し訳なさを感じた。
「お疲れ様……」
僕はそう言って二人の横を通り過ぎようとした。礼央が紗奈と一緒にいる姿を一分一秒でも見たくない。心臓が締め付けられるように痛み、早く立ち去りたいと思った。その時、礼央に呼び止められた。
「凪……。えっと――」
礼央が何か言おうとした時、紗奈が口を開いた。彼女は僕をじっと見つめていた。
「志水先輩、こんにちは。あたし、伊藤紗奈っていいます」
紗奈はにっこりと微笑みながら僕へと自己紹介をした。顔は微笑んでいるのに、その瞳はまるで氷のように冷たかった。彼女は何かを察したのかもしれない。女性特有の鋭い勘で、僕の気持ちを見抜いたのだろうか。
「伊藤さん、こんにちは」
僕は生徒会長の仮面をピッタリと貼り付け、それが剥がれ落ちないように笑顔で答えた。しかし、僕を見つめる紗奈の眼差しが痛い。その視線は僕の心の奥まで貫き、脆さを暴き出しそうだった。僕は居た堪れなくてその場を後にしようとした。
「じゃあ、僕はまだ仕事が残ってるから、これで」
そう言って立ち去ろうとすると、紗奈の声が耳に入った。その声には、何かを確かめようとする鋭さがあった。
「ねぇ、礼央」
「ん?」
礼央の声がなんとなく僕に聴かれたくなように思えた。彼の声には緊張感が漂っていた。
「志水先輩のこと、好きなの?」
「えっ?」
紗奈の突拍子もない質問に僕はその場から動けなくなり、驚きの声を小さく上げて礼央の方を向いた。心臓が喉元まで飛び上がるような衝撃だった。
「は? お前、何言ってんの?」
礼央は少し上擦った声で紗奈の質問に答えた。その表情を見て、紗奈は目を釣り上げて礼央に食いついた。彼女の鋭い直感は、僕たちの間に生まれていた何かを感じ取ったのだろう。
「だって……、見てたら分かるもんっ!」
その声は少し涙声にも聞こえる。僕の方からは紗奈の表情は見えない。そっと礼央を見やると、彼は目を泳がせながら必死に言い訳をした。礼央のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも堂々としていて、臆することを知らない彼が、こんなにも狼狽えている。
「いや……凪とは、友達だよ。今日、一緒に文化祭、回っただけで……」
「ふうん。そう……」
紗奈は俯いていたが、肩が上がり、怒っているようにも見えた。僕は何も言うことができず、その場に立ち尽くすしかなかった。気まずい沈黙が三人の間に流れる。
「あたし、飲み物買ってくる」
そう言うと、紗奈は走り去っていった。彼女の足取りからは、怒りよりも悲しみが伝わってきた気がした。
残された僕と礼央は、お互い目を合わせられずにいた。言いたいことは山ほどあるのに、どちらも口を開くことができなかった。
「ご、ごめん……。なんか、紗奈が変なこと言って……」
「いや、別に……」
張り詰めた空気が漂い、気まずさが募る。言葉を交わしても、その緊張感は解けなかった。
――だけど、本当に、礼央が僕のこと好きだったらいいのに――。
紗奈には悪いけど、そんなことを思ってしまう自分がいた。この感情は間違っているのだろうか。他人の恋人を好きになるなんて、もう取り返しのつかない過ちなのかもしれない。でも、止められなかった。礼央への想いは、もう僕の心に深く根付いてしまっていた。
文化祭二日目。その日は土曜日ということもあり、一日目よりも賑わっていた。学外の生徒や保護者の姿も多い。部活で他校との交流がある生徒などは、グループになって楽しそうに話している姿もちらほら見えた。あちこちから笑い声や歓声が響き、文化祭は最高潮を迎えていた。
昨日の紗奈の言動により、僕と礼央は少し気まずくなった。と言っても、僕が意識しすぎているだけなのかもしれないが。心の中で何度も昨日の出来事を反芻し、考えれば考えるほど混乱した。
だからか、今日は礼央とは会っていない。きっと紗奈と二人の時間を過ごしているのだろう。それを考えると、胸の奥がちくりと針で刺されたように痛んだ。妬みという感情が、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。
――僕は二人の仲を邪魔しちゃいけないんだ。
心の中で自分にそう言い聞かせる。だが、昨日、二人きりの時間を過ごしたことを思い出すと、礼央がずっと僕のそばにいてくれたらいいのに、とも思ってしまう。その時間は、僕の人生で最も幸せな時間の一つだった。
昨日からずっと礼央のことが頭から離れない。僕は心のざわつきを押し殺し、生徒会長の仮面を貼り付けて、淡々と学内の見回りをこなした。仕事に没頭すれば、少しは心が落ち着くかと思ったが、思うようにはいかなかった。
二日目も無事に終了し、文化祭の閉会式が執り行われた。僕は壇上に上がり、閉会の挨拶を行う。深呼吸をして、いつもの冷静な表情を取り戻した。
「これを持ちまして、第四十七回北翔高校文化祭を閉会いたします」
生徒たちから拍手が湧き起こり、口々に感想を言い合っている様子が見えた。僕は無事に文化祭を終えたことに安堵し、肩の荷が降りた。緊張から解放されたせいか、急に疲れが押し寄せてきた。
――これで、僕の生徒会長の任も終わり、か。
そう考えると、少し寂しさが滲んだ。この一年、生徒会長としてがむしゃらに頑張ってきたからだ。生徒会から引退したら、あとは受験に向けて勉強に励むしかない。家が望む大学、家が望む学部、家が望む未来。その決められた道を、黙って歩いていくだけ。
撤収作業を全て終えて、僕は生徒会室へと向かい、今回の文化祭の総括の文章をパソコンで作成した。最後まで完璧に仕事をやり遂げることが、僕の務めだった。
「よし、これでいいか」
出来上がった資料を見返して、呟いた。最後の文化祭実行委員会までにもう一度見直しておけば十分だろう。全ての作業を終え、僕はほっと息をついた。
校庭では後夜祭終了の花火が上がっている。全校生徒は後夜祭できっと盛り上がったことだろう。一人で働き続けた僕には、その賑わいが妙に遠く感じられた。
僕はパソコンをシャットダウンして、帰宅する準備をする。ドアに向かおうとした時、誰かがそこに立っているのが分かった。近づくと、それは礼央だった。突然の彼の姿に、僕の心臓は大きく跳ねた。
「あれ、礼央? 後夜祭には参加してないの?」
僕はてっきり彼女と後夜祭を楽しんでいるのだと思っていた。後夜祭はカップルにとって学内で特別な時間を過ごせる唯一の時間だからだ。花火を見上げるロマンチックな雰囲気は、恋人たちにとって格好の場所のはずだった。
「凪を……探してた」
その言葉に僕は息を呑んだ。彼の声には、いつもの明るさとは違う、静かな真剣さがあった。
「……僕を?」
僕は驚いて礼央を見た。笑顔を見せているが、目はとても真剣だった。その眼差しの奥には、言葉にできない何かが潜んでいる気がした。
「ちょっと話、できる?」
礼央は生徒会室に入って椅子に座った。僕は彼の横に座る。気まずい空気が流れるが、思い切って口火を切った。この沈黙を破らなければ、何も前に進まない。
「あの……、今日、伊藤さんは?」
ためらいがちに聞くと、礼央の表情が曇った。彼の明るい表情が一瞬で陰り、肩が少し落ちた。
「あぁ、紗奈なら先に帰ったよ。ちょっと二人で話し合っててさ……」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。話し合ったって、何を? 様々な可能性が頭をよぎる。
「俺たち、ちょっと距離を置くことになった」
「……え? どうして?」
僕は驚きを隠せなかった。彼の表情から、それが単なる喧嘩ではないことが伝わってきた。
「まあ、色々とあってね……」
礼央はそれ以上は語ろうとしなかった。彼の言葉少なさに、何か大きな決断があったことを感じ取った。
――もしかして、僕のせいで?
そう考えると胸が苦しくなった。思わず、胸元をギュッと掴んだ。自分が原因で誰かを傷つけることなど、考えたこともなかった。特に礼央を苦しめるなんて、最も避けたいことだった。
「ごめん……」
「なんで凪が謝るの?」
「……僕が、伊藤さんが勘違いするような行動取ってたから……」
僕は俯いて、拳を握った。手が小刻みに震えていた。自分の感情を抑えられなかった弱さを恥じた。
「それは違う! 俺の気持ちの問題だから……」
礼央が僕の手を握ってきた。それの手は大きくてとても温かい。僕の冷え切った心を包み込んでくれるようだった。その温もりが、少しずつ僕の緊張を解きほぐしていく。
外は花火が終わりすっかり真っ暗な空になっていた。生徒たちがガヤガヤと下校している声が遠くに聞こえる。礼央が僕の方を見つめて言った。その眼差しには、僕が今まで見たことのない柔らかさがあった。
「不思議なんだよな」
「何が?」
僕は礼央を振り返って言った。彼の瞳は潤んでいるように見えた。
「こうして凪と二人でいると、なんだか頑張れる気がするんだ」
そう言うと礼央はくしゃっと顔を歪めて笑った。その笑顔には少し切なさが混じっていた。僕は彼の目を見つめて眉を下げた。
「ごめん……。僕のせいで、伊藤さんと……」
「違うって。俺が自分で決めたことだよ」
礼央は僕の髪をサラッと撫でた。その優しい仕草に、僕の心は震えた。彼の手の温もりが、頭を通して全身に広がっていくようだった。
その時、校内放送が響き渡った。
『全校生徒の皆さんは下校してください』
それを聞いて僕たちは生徒会室を後にした。廊下に出ると、ほとんどの生徒は帰った後のようで、がらんとしていた。その静けさが、二人の存在を際立たせる。
「なんだか名残惜しいな」
空っぽの廊下に二人だけの足音が響いた。僕たちは肩が触れ合いそうなほど近い距離で並んで昇降口に向かった。その近さに、心が高鳴る。
「文化祭……、初めて楽しいと思えたよ」
僕は礼央を見つめて感謝の意を伝えた。これは心からの言葉だった。彼と過ごした時間のおかげで、初めて自分らしく笑うことができた気がした。
礼央も僕を見つめ返してきた。彼の瞳には、言葉にできない何かが宿っていた。
「俺も。凪と過ごした時間が、一番楽しかった」
その言葉に、僕は返すことができなかった。だが、心の中は今まで感じたことがないほど、温かく幸せで満ちていた。この感情を、大切にしたいと思った。礼央と過ごすこの瞬間を、この気持ちを、永遠に忘れたくなかった。
待ち構えている生徒たちの期待に応えるように、開会式が始まった。僕はこの学園で最後の文化祭を取り仕切る生徒会長として緊張と責任感で体がこわばっていた。冷や汗が背中を伝い、呼吸を整えるのに集中する。いつものように、誰にも気づかれないよう表情を引き締めた。
「ただいまより、第四十七回北翔学園、文化祭を開会いたします」
厳かな声が体育館に響き渡ると、生徒たちが「わーっ!」と歓声を上げた。今日この日のために、みんな協力し合って準備をしてきたのだ。生徒会役員に目を向けると、みんな感無量といった表情だ。特に一年生の役員たちは初めての文化祭で緊張と興奮が入り混じった表情を浮かべている。
開会式が終了すると、生徒たちは一斉に自分たちのクラスの持ち場へと向かう。その表情はこの日を待ち侘びていたようで、笑顔に満ち溢れていた。体育館のステージではすぐに吹奏楽部員による演奏の準備が始まる。彼らの真剣な眼差しと緊張した面持ちが、これから始まる文化祭の空気を一層高めていた。
僕は会場から全ての生徒が出たのを見届け、各クラスの状況を見て回った。この瞬間が僕の仕事、完璧な運営のための確認だ。どこかで不具合が生じていないか、予定通りに進んでいるか、細部まで目を光らせる必要がある。
「一年二組の皆さん、吹奏楽部の後のプログラムですが、準備はいかがですか?」
僕が教室へと顔を覗かせると、クラス全員が色めき立った。女子生徒たちは小さく悲鳴を上げている。文化祭実行委員が僕の元へと走り寄ってきた。彼女の目はきらきらと輝き、頬は紅潮していた。
「志水先輩、ありがとうございます! 準備万端で今から体育館へ向かおうと思っています」
「そうですか。本番を楽しみにしていますよ」
その言葉を聞いた一年二組の生徒たちは、キャーキャーと黄色い声をあげて「はい! がんばります!」と口々に答えていた。彼らの純粋な反応に、僕は内心微笑ましく思ったが、表情には出さない。生徒会長としての威厳を保ちながら、頷いて次の場所へ向かった。
その後も舞台発表のクラスを一つずつ確認していった。最後の文化祭を生徒会長として完璧に仕上げたい。どのクラスも準備万端とばかりに、自信に満ち溢れていた。彼らの表情からは、この日のためにどれほど努力してきたかが窺える。その姿を見るたび、僕も静かな誇りを感じていた。
最後に三年一組へと赴いた。廊下の前には所狭しとセットや備品がずらりと並べられている。人がひとり通れるかどうかの隙間を縫って教室の入り口へと向かったのだが、向かいから歩いていた人物とぶつかりそうになった。
「わっ!」
「おっと、危ない」
よろけた僕の体を咄嗟に支えてくれたのは、礼央だった。息がかかるほど、顔が近い。僕の心臓は一気に跳ねた。時が止まったかのように、一瞬、世界が彼だけになった気がした。
礼央は白いシャツにルネサンス風の豪奢な上着を身につけ、すでにロミオの衣装を纏っていた。普段から精錬された姿で人を惹きつける魅力がある礼央なのだが、髪の毛をオールバックにすると、整った顔立ちが強調され、とても綺麗だった。その姿はまさに舞台の上の王子そのもので、見る者の息を呑ませるほどだった。
僕は数秒間、礼央に見惚れてしまった。彼の瞳は、舞台に立つ緊張感からか、普段より深い色に見えた。
「凪、忙しそうだな。大丈夫だったか?」
礼央に声をかけられ、ハッと我に返った。少し頬に熱がこもっているのが分かった。自分の動揺を悟られないように、僕は一瞬目を伏せて心を落ち着かせた。
「うん。……ありがとう」
礼央は太陽のような笑顔を僕に向けてきた。その笑顔が眩しすぎて僕は目を細めた。彼の笑顔には心を解きほぐす不思議な力があった。どんなに緊張していても、その瞬間だけは肩の力が抜けるような。
「ところで、うちのクラスに用だった?」
「えっと、文化祭実行委員に進捗状況を確認に……」
そう言って教室の入り口を見たが、人とセットで溢れかえっていてそこまで辿り着けそうになかった。少し困って眉を下げると、礼央が気を利かせてくれた。彼は僕の表情の微かな変化にもすぐ気づくようだった。
「俺が聞いてこようか?」
「そんな……。主役は忙しいでしょう?」
「これぐらい、どうってことないよ」
そう言うと礼央は踵を返して、教室の入り口に向かった。礼央が立ち去った後、僕は心臓の高鳴りを抑えるのに必死だった。間近で見た礼央の顔を思い返すだけでも顔が赤らんでしまう。胸の中で渦巻く感情を抑えるため、僕は深呼吸を繰り返した。
しばらくすると礼央が戻ってきた。彼の足取りには軽快さがあり、どこか楽しげだった。
「特に問題ないようだよ。準備も全て終わってるから、そろそろ体育館にセットを運び込むって言ってた」
その言葉に僕はホッと安堵した。この安心感は単なる仕事への安堵だけではなく、礼央が戻ってきてくれたことへの喜びも混じっていた気がした。
「そう……。何か問題があったら、僕に連絡するように伝えておいてもらえるかな?」
「おうっ! 任せとけ!」
礼央は親指を立てて、請け負ってくれた。その仕草には彼特有の陽気さがあふれていて、見ているだけで心が軽くなる。
「じゃあ、本番、見に行くから……。頑張って!」
「ありがとう! 凪も頑張れよ!」
僕は「じゃあ」とその場を立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。急な出来事に思わずビクッとした。温かい感触が腕から伝わり、心臓が激しく鼓動する。
「……えっ?」
振り向くと、礼央が少し照れくさそうに口を開いた。彼の頬がほんのりと赤く染まっているように見えた気がした。
「あのさ……」
礼央がそう言った時、「おーい、鳴海―!」と礼央を呼ぶ声が教室の中から聞こえた。礼央は名残惜しそうに腕を離した。その指先が僕の肌を離れる瞬間、言いようのない寂しさが胸をよぎった。
「ごめん、行かなきゃ……」
「うん、頑張って」
僕はそれだけ伝えると、その場から離れた。礼央に掴まれたところに熱がこもっているのが分かる。その温もりが消えないうちに、こっそりと自分の腕に触れてみる。
――ただ、腕を掴まれただけなのに……。
胸の高鳴りを抑えるのに一苦労だった。こんなにも些細な接触で、ここまで動揺してしまう自分が恥ずかしくもあり、不思議でもあった。だけど、この感覚は確かに、僕の中で何かが変わり始めている証だった。
僕は休む暇もなく、校内を歩き回り、不備がないかを確認していった。模擬店を出店している外に電気が通っていないと言うトラブルもあったが、それもすぐに解決した。どんな問題も冷静に処理する。それが生徒会長としての僕の務めだった。
劇の行われている体育館へ頻繁に足を運び、照明や音響の不具合がないことも確認済みだ。プログラムを確認すると、そろそろ礼央のクラスの劇が始まる時間だった。その瞬間、心臓がまた早鐘を打ち始めた。
「そろそろ行くか」
僕が体育館へ到着した時には、礼央のクラスの劇はすでに始まっていた。リハーサルとは違い、緻密に作られたセットで舞台上が装飾されている。出演者も煌びやかな衣装を身に纏い、そこはルネサンス時代を彷彿とさせる華やかな世界が広がっていた。
僕は舞台上の礼央に目が釘付けとなった。彼の額には汗が滲み、照明が反射してキラキラしている。明るく通る声は体育館に響き渡っていた。まるで本物の貴族のような気品と、若さゆえの情熱が完璧に融合した姿に、観客は魅了されていた。
「本当に、王子様みたいだな……」
僕は思わずボソッと呟いてしまった。その言葉は胸の奥から自然と溢れ出たものだった。
――あなたのためなら、家名も捨てましょう。
礼央の練習に付き合った時のセリフが頭をよぎる。ジュリエットの台詞だが、なぜか今、その言葉が僕の心に深く響いた。
『本当に捨てられるの?』
礼央に言われたその言葉が何度も頭の中で繰り返される。僕に、家を捨てる勇気があるだろうか……? 自分の将来を、家の期待を捨てて、本当に望む道を選べるだろうか?
――夢は? 本当にやりたいことは?
礼央に問われてから、そのことを考えることが多い。もしも、自由に自分の好きなことをできるとしたら? そう考えるとワクワクする。心の奥に小さな炎が灯る感覚だ。長い間押し殺してきた感情が、じわじわと表面に浮かび上がってくる。
だが、そう簡単には行かないのは重々承知している。すんなり家業を捨てられたらどんなにいいか……。僕は大きくため息をついた。現実と理想の間には、深い溝がある。その溝を埋めるには、まだ僕には勇気が足りなかった。
礼央のクラスの劇が終わった後、少し休もうと中庭へと向かった。しばらくは校内を巡回する必要もない。一人になれる時間が欲しかった。心の中のざわめきを静める時間が。
――あぁ……、なんか、疲れたな……。
しかし、学校にいる間は疲れた表情など見せられない。心の中で呟きながら顔はいつもの仮面を貼り付けて疲れを見せないように心がけた。だが、自然と顔は俯きがちだ。中庭を通り抜ける風は爽やかなのに、心の中は暗雲が立ち込めているかのようにどんよりとしている。
「凪、お疲れ〜!」
突然、明るい声が後ろから聞こえて振り返ると、そこには礼央が立っていた。クラスの劇が終わった彼は、豪奢な衣装からいつもの制服に着替えを済ませていた。まだあの王子様ファッションを見たかったな、と少し残念に思った。彼の髪はまだセットされたままで、額に少し汗が光っている。舞台の熱気が残っているのか、頬は上気していた。
「凪、劇、見てくれた?」
「もちろん見に行ったよ。リハーサルの時より、キラキラ輝いてて素敵だった。すごくかっこよかったよ」
僕は自然と本音が出た自分に驚いたが、礼央の前なら自分らしくいられる気がして取り繕うことをしなかった。いつもの完璧な生徒会長ではなく、ただの志水凪として話しているこの瞬間が、どこか心地よかった。
「そっか! そう言ってもらえると、嬉しいな」
礼央は首を傾げて僕に満面の笑みを向けた。その笑顔が眩しくて、僕は目を細めた。彼の笑顔には太陽のような温かさと、人を惹きつける力があった。
「そうだ。凪、これから時間ある?」
礼央は僕の横に腰掛けながら聞いてきた。次の巡回までは少し時間があるから、ここで休むつもりで中庭にやってきたのだ。彼が隣に座ると、肩と肩がほんの少し触れそうになり、僕は微かに身体を強張らせた。
「しばらくは巡回もないし、ここで休もうと思っていたんだけど……。何かあった?」
「よかったらさ、俺と一緒に文化祭、回ってくれない?」
突然の礼央の誘いに僕は戸惑った。だって、彼には彼女がいるからだ。そのことを思い出した瞬間、胸に小さな痛みが走る。
「……僕じゃなくて、他に一緒に行きたい人がいるんじゃない?」
遠回しに伝えてみたが、礼央は真剣な眼差しを僕に向けて言った。彼の瞳には迷いがなく、まっすぐに僕を見つめていた。
「凪と回りたいんだよ。それとも、誰かと約束してる?」
僕には学内に友人はいない。幼馴染の蓮は僕のことを気にかけてくれてはいるが、それほど一緒にいる間柄ではないし、僕の忙しさを知っているからか、あまり蓮からは誘ってこない。完璧な生徒会長は、いつも一人で孤独だった。
「別に、誰とも約束してないけど……」
「だったら、一緒に行こ!」
礼央は嬉しそうに僕の腕を引いた。その仕草には子供のような無邪気さがあった。彼のこの純粋な喜びの表現が、僕の心を少しずつ溶かしていく。
――本当は、一緒にいたかったから、嬉しい……。
心の中で本音を呟いて、礼央と並んで校内を歩き始めた。二人で並んで歩く景色は、初めて見るものではないのに、今日はどこか特別に思えた。
ちょうど昼時で、礼央がお腹が空いたと嘆いていたので、模擬店の立ち並ぶ校門へと向かった。そこにはお腹を空かせた生徒や近隣住民で人だかりができていて、賑わっていた。活気に満ちた声や笑い声、食べ物の匂いが混ざり合い、お祭りの雰囲気を一層盛り上げていた。
「すごい賑わいだな」
純粋に楽しんでいる礼央の姿を見て、僕も自然と笑顔になった。彼の感情は伝染するようだった。誰よりも正直に、誰よりも全力で楽しむ姿が、心を明るくする。
「どの模擬店も繁盛してるみたいだね」
「ねえ、凪。焼きそば食べていい?」
礼央ははしゃぎながら焼きそばを買いに行った。まるでその姿は子供のようで微笑ましかった。彼の後ろ姿を見ていると、胸の中が温かく溶けていくような感覚に襲われる。
「うまっ! これ、めちゃくちゃうまい! ほら、凪も食べてみて」
礼央が焼きそばを挟んだ箸を僕に向けてきた。彼は何の躊躇いもなく、自分の箸を差し出してくる。その仕草に一瞬戸惑った。
「いや……、僕は大丈夫だから……」
「いいから、いいから。ほら、あーん」
有無を言わさず、焼きそばの箸を僕の口元に持ってくる。僕は慌ててしまい、思わずオロオロとしてしまう。頬が熱くなるのを感じた。
「え? いや……こんなとこで?」
僕は周りの目を気にして、辺りを見渡した。だが、僕たちのことを気にしている人など誰もいないように見えた。みんな自分たちの楽しみに夢中で、僕たちに注目している人は一人もいない。
「遠慮すんなって。はい、あーん」
僕は断りきれずに、礼央が差し出した焼きそばをパクッと食べた。ソースの甘辛さと鰹節のうまみが口いっぱいに広がった。キャベツのシャキシャキした食感が心地よい。温かい麺がのどを通る感触に、ほっとするような安らぎを感じた。
「美味しい……」
「だろ?」
礼央は満足げに僕に微笑みかけてきた。その笑顔が僕にだけ向けられていると思うと恥ずかしくなって頬が熱くなった。心臓がまた早鐘を打ち始める。
焼きそばを食べ終えると、また別の模擬店へと向かった。二人で寄り添いながら食べ歩きをする。まるで恋人との時間のようで心がふんわりと温かくなった。時々、人混みで身体が触れ合うたび、僕は小さく息を呑んだ。
「次、かき氷食べたい!」
礼央は僕の手を引っ張ってかき氷を販売している模擬店まで連れて行った。彼の手は大きくて、包まれるように握られた僕の手は、恥ずかしいほど小さく感じた。
「まだ食べるの? 食べすぎるとお腹痛くなるんじゃ……」
「大丈夫、俺の胃腸は鉄でできてるから」
自信満々にお腹をポンと叩いてみせる礼央がなんだか可愛くて、思わず僕は吹き出してしまった。その無邪気な仕草に、心が軽くなる。
「じゃあ、僕も食べようかな?」
「そうこなくっちゃ!」
二人で店の前に並び、僕はいちご味、礼央はマンゴー味を頼んだ。手に取ったかき氷は普通のシロップがかかったものとは違い、果肉が入っているソースがかかっていて、氷もふんわりと削られていてまるでカフェで提供されるようなものだった。その見た目の美しさに、思わず感嘆の声が漏れる。
「この、いちご味、すごく美味しい……」
僕は一口食べて、思わず唸った。これほど美味しいかき氷が文化祭の模擬店で提供されているとは驚きだ。甘酸っぱいいちごの風味が、口の中いっぱいに広がる。
「俺にも、ちょうだい!」
礼央は僕がもうひとくち食べようとスプーンですくっていたかき氷をパクッと食べた。彼の顔が突然近づいてきて、その距離の近さに息が止まりそうになった。
「あっ……」
僕は礼央の顔が近くに寄ってきたのに驚いて、肩をびくつかせてしまった。彼の唇が一瞬、僕の指先に触れた気がして、電流が走ったような感覚に襲われる。
「うわー! めちゃくちゃうまいな、いちご。俺のマンゴーも美味しいよ。はい」
礼央はまた焼きそばの時のように僕にスプーンを差し出してきた。僕は少し戸惑ったが、美味しそうなマンゴーの芳醇な香りが鼻をくすぐり、興味を逸らすことができずにスプーンを口に含んだ。今度は迷いなく、彼の差し出したスプーンを受け入れる。
「すごく濃厚だね」
「うん、美味しいよな」
美味しさのあまりに頬が綻んだ。純粋に「美味しい」と感じる気持ちと、礼央と共有している時間の幸せが混ざり合って、僕の表情を自然と明るくする。その時、少し離れたところから、声がした。
「おー、志水と鳴海、デートみたいじゃん」
僕は咄嗟に否定しようとそちらへ振り向いて言った。心臓がどきりと跳ねる。
「い……や、そんなんじゃ……」
すると僕の言葉を遮るように礼央が言った。彼の声は明るく、まったく動揺している様子はなかった。
「そうだよ。デートだから邪魔すんな」
ハハっと笑いながらさらりと答えた礼央に、僕は言葉を失った。だけど――。
――デート、だと、いいんだけどな……。
悪い気がしなくて、小さく微笑んだ。礼央のこの言葉に、胸の中で温かな感情が広がっていく。たとえ冗談であっても、その言葉が嬉しかった。
全ての模擬店を回って食べ歩きをした僕たちは中庭に戻り、ベンチに腰掛けた。夕暮れ前の柔らかな光が木々の間から漏れ、二人の周りを温かく包み込んでいた。
「ふぅ……。さすがに食べすぎたか……」
礼央はお腹をさすりながら、背中をベンチの背もたれに預けながら言った。彼の横顔は夕日に照らされて、柔らかく輝いていた。僕はくすりと笑って言った。
「礼央は鉄の胃腸じゃなかったのか?」
すると礼央は照れくさそうに首の後ろをかきながら僕の方を向いた。その仕草には何とも言えない愛らしさがあった。
「だと思ってたんだけどな……。やりすぎた」
「そうだね」
「でも、楽しかったぁ」
礼央は満足そうに微笑んでいた。その顔を見ると僕も嬉しくなって頬がほころんだ。彼の素直な感情表現は、僕の心の壁を少しずつ崩していく。
「僕も楽しかった……」
二人で座っているベンチに木漏れ日が差し込む。僕の心を秋の爽やかな日差しが包み込んだ。この瞬間が永遠に続けばいいのにと、密かに願った。
「凪はさ、普段は何してるの?」
急な質問に僕は驚いて礼央の顔を見た。彼は本当に純粋な好奇心からそう尋ねているようだった。
「何って……。特に、何も。読書とかしか……」
「へぇー、読書かぁ。俺、あんまり本読まないんだよな。どんな本読むの?」
「えっと……、小説。それから、心理学の本とか……」
他人から僕のことを聞かれたことがないからか、恥ずかしくて仕方がない。俯いてもごもごと口ごもった。自分の趣味や好きなことを話すのは、こんなにも難しいものなのかと驚いた。いつも完璧な答えを用意している僕なのに、こんな簡単な質問に戸惑うなんて。
「心理学? 意外!」
礼央は目を見開いて驚きを露わにしていた。その反応に、僕は少しだけ自分の興味を話してもいいのかもしれないと思えた。
「うん……。人の心理ってすごく興味があって……」
それを聞いた礼央は僕の顔をじっと見つめていた。その目は何か僕の中を見てやろうという意思が見て取れた。彼の真っ直ぐな視線に、僕は少し動揺する。普段は他人の視線など気にならないのに、礼央だけは違った。彼に見られると、心の奥まで覗かれているような、でも不思議と怖くない感覚があった。
「なるほど。だから凪は俺の心を見抜くのか……」
なぜか納得した様子の礼央だが、僕は彼の心など見抜いたことは一度もない。むしろ、彼こそが僕の心を見透かしているんじゃないかという気さえしていた。
「僕はそんなことしたことないよ」
僕がくすりと笑うと、礼央は「そうか?」と言いながら朗らかに笑った。彼の笑い声は風のように爽やかで、聞いているだけで心が軽くなる。
しばらく二人で他愛もない話を続けていた時、礼央がふと僕の頭に目を向けた。夕暮れの光が差し込み、僕の髪に何かが輝いたのかもしれない。
「あっ、凪、髪の毛に……」
「何かついてる?」
「うん、落ち葉。動かないで」
礼央が体を少し近づけて手を伸ばした。落ち葉を取ろうとする礼央の指先が、僕の髪の毛に触れた。髪の毛に神経はないはずなのに、触れられたと思っただけで、背中にビリビリと電気が走った。鼓動が一気に速くなり、息が詰まりそうになる。
礼央の指が必要以上に長くとどまっている。それは僕がそう感じているのか、それとも、礼央がわざと長く指をそのままにしているのか、分からなかった。でも、この一瞬が長く続いてほしいという気持ちが、胸の奥から湧き上がってくる。
――……近い。
僕の心臓は爆音を立てて鳴り響いていた。それを悟られないように、自然を装って礼央から目を逸らした。だけど、顔が熱くなっているのは確かだった。この状況を冷静に受け止められるほど、僕はまだ強くなかった。
礼央は落ち葉を摘んで、僕の髪からゆっくり手を離した。その手が僕の頬に微かに触れる。その一瞬の接触で、僕の全身に温かな波が広がるような感覚があった。
「取れた……」
しかし、僕の頬に触れているその手は、一向に離れる気配はなかった。まるでそこに留まるべきもののように、自然な感覚で。僕の頬に触れた礼央の指先からは、かすかな震えが伝わってきた気がした。
僕は思わず礼央を見た。視線が絡み合う。まるで時間が止まってしまったかのような感覚に陥った。礼央の瞳の奥が揺れているのが分かった。その瞳には困惑と、何か言いたげな感情が混ざり合っていた。
「……凪」
礼央の声はいつもの明るいものではなく、慈しみのこもったものであるようにも感じられた。囁くような、優しさに満ちた声音。
その声に、僕の鼓動は早鐘を打つ。全身が熱くなり、頭がぼんやりとしてくる。礼央の存在だけが、今の世界のすべてに思えた。
――どうしよう……。僕の、気持ち、気づかれたら――。
「おーい、鳴海―。セット運ぶの、手伝ってくれー」
その時、遠くから礼央を呼ぶ声が聞こえ、まるで魔法が解けたように、ハッと現実に引き戻された。二人の間にあった不思議な空気が一気に消え、日常の時間が戻ってきた。
「俺、行かないと……」
礼央は名残惜しそうに立ち上がった。一歩踏み出し、僕の方へ振り返りながら言った。彼の表情には複雑な感情が交錯していた。
「また後で……、会える?」
その問いかけには、何か約束を求めるような切実さがあった。僕は心臓の鼓動を抑えられないまま、頷いた。
「……うん」
僕は頬が熱くなるのを感じ、俯いて頷いた。この会話がどんな意味を持つのか、僕にはまだ分からなかった。ただ、もう一度礼央に会いたいという思いだけは、はっきりとしていた。
僕は、そっと礼央が触れた方の頬に手をやった。礼央が去った後も、僕の頬には彼の温もりがいつまでも残っていた。それはまるで、心に刻まれた印のように消えることはなかった。
文化祭一日目が終了し、二日目に向けて不備がないかを確認するために、僕は校内を巡回した。特に問題が起こることがなく、安堵しながら三年生の教室前の廊下を歩いていると、礼央の後ろ姿が見えた。彼の姿を見つけ、心が高鳴るのが分かる。一日中、彼のことを考えていた。あの時の触れ合い、交わした言葉、すべてが鮮明に記憶に残っていた。
『また後で、会える?』
礼央の言葉を思い出して、口を開いた。彼に声をかけようとする胸の内には、期待と緊張が入り混じっていた。
「れ……」
礼央の名前を声に出そうとした時、彼の向かいに小柄な女性が立っているのが見えた。あれは、確かバレーの練習試合で見た、礼央の彼女、伊藤紗奈だ。少し離れた場所から見ても、彼女の可愛らしさは際立っていた。きれいな黒髪、整った顔立ち、礼央にぴったりの女の子。
恋人がいることも知っているし、二人でいる姿を見るのはこれが初めてではない。しかし、間近で見る礼央と彼女の存在が僕の心をざわめかせた。まるで胸に冷たい水を浴びせられたような感覚だった。二人の会話が嫌でも耳に届いた。
「もうっ! 礼央、なんで今日、あたしと回ってくれなかったのよぉ」
「ごめんって。明日は一緒に回るからさ」
紗奈は礼央の腕を掴んで潤んだ瞳で彼を見つめている。女の子特有の甘えた仕草だけど、どこか本気の怒りを含んでいるようにも見えた。礼央は目を紗奈に合わすことをせず、彼女が掴んでいる手をゆっくり振り解いた。その仕草に僕は少し驚いた。
僕が横を通り過ぎようと近づていくと、礼央は足音に気づいたようでこちらを向いた。彼の表情が一瞬で変わるのが見えた。
「あ、凪……」
その表情はとても気まずそうで、笑顔を向けているがその顔は少し引き攣っていた。まるで何かを隠しているような、そんな表情。僕は自分が二人の間に割り込んでしまったことに申し訳なさを感じた。
「お疲れ様……」
僕はそう言って二人の横を通り過ぎようとした。礼央が紗奈と一緒にいる姿を一分一秒でも見たくない。心臓が締め付けられるように痛み、早く立ち去りたいと思った。その時、礼央に呼び止められた。
「凪……。えっと――」
礼央が何か言おうとした時、紗奈が口を開いた。彼女は僕をじっと見つめていた。
「志水先輩、こんにちは。あたし、伊藤紗奈っていいます」
紗奈はにっこりと微笑みながら僕へと自己紹介をした。顔は微笑んでいるのに、その瞳はまるで氷のように冷たかった。彼女は何かを察したのかもしれない。女性特有の鋭い勘で、僕の気持ちを見抜いたのだろうか。
「伊藤さん、こんにちは」
僕は生徒会長の仮面をピッタリと貼り付け、それが剥がれ落ちないように笑顔で答えた。しかし、僕を見つめる紗奈の眼差しが痛い。その視線は僕の心の奥まで貫き、脆さを暴き出しそうだった。僕は居た堪れなくてその場を後にしようとした。
「じゃあ、僕はまだ仕事が残ってるから、これで」
そう言って立ち去ろうとすると、紗奈の声が耳に入った。その声には、何かを確かめようとする鋭さがあった。
「ねぇ、礼央」
「ん?」
礼央の声がなんとなく僕に聴かれたくなように思えた。彼の声には緊張感が漂っていた。
「志水先輩のこと、好きなの?」
「えっ?」
紗奈の突拍子もない質問に僕はその場から動けなくなり、驚きの声を小さく上げて礼央の方を向いた。心臓が喉元まで飛び上がるような衝撃だった。
「は? お前、何言ってんの?」
礼央は少し上擦った声で紗奈の質問に答えた。その表情を見て、紗奈は目を釣り上げて礼央に食いついた。彼女の鋭い直感は、僕たちの間に生まれていた何かを感じ取ったのだろう。
「だって……、見てたら分かるもんっ!」
その声は少し涙声にも聞こえる。僕の方からは紗奈の表情は見えない。そっと礼央を見やると、彼は目を泳がせながら必死に言い訳をした。礼央のそんな姿を見るのは初めてだった。いつも堂々としていて、臆することを知らない彼が、こんなにも狼狽えている。
「いや……凪とは、友達だよ。今日、一緒に文化祭、回っただけで……」
「ふうん。そう……」
紗奈は俯いていたが、肩が上がり、怒っているようにも見えた。僕は何も言うことができず、その場に立ち尽くすしかなかった。気まずい沈黙が三人の間に流れる。
「あたし、飲み物買ってくる」
そう言うと、紗奈は走り去っていった。彼女の足取りからは、怒りよりも悲しみが伝わってきた気がした。
残された僕と礼央は、お互い目を合わせられずにいた。言いたいことは山ほどあるのに、どちらも口を開くことができなかった。
「ご、ごめん……。なんか、紗奈が変なこと言って……」
「いや、別に……」
張り詰めた空気が漂い、気まずさが募る。言葉を交わしても、その緊張感は解けなかった。
――だけど、本当に、礼央が僕のこと好きだったらいいのに――。
紗奈には悪いけど、そんなことを思ってしまう自分がいた。この感情は間違っているのだろうか。他人の恋人を好きになるなんて、もう取り返しのつかない過ちなのかもしれない。でも、止められなかった。礼央への想いは、もう僕の心に深く根付いてしまっていた。
文化祭二日目。その日は土曜日ということもあり、一日目よりも賑わっていた。学外の生徒や保護者の姿も多い。部活で他校との交流がある生徒などは、グループになって楽しそうに話している姿もちらほら見えた。あちこちから笑い声や歓声が響き、文化祭は最高潮を迎えていた。
昨日の紗奈の言動により、僕と礼央は少し気まずくなった。と言っても、僕が意識しすぎているだけなのかもしれないが。心の中で何度も昨日の出来事を反芻し、考えれば考えるほど混乱した。
だからか、今日は礼央とは会っていない。きっと紗奈と二人の時間を過ごしているのだろう。それを考えると、胸の奥がちくりと針で刺されたように痛んだ。妬みという感情が、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。
――僕は二人の仲を邪魔しちゃいけないんだ。
心の中で自分にそう言い聞かせる。だが、昨日、二人きりの時間を過ごしたことを思い出すと、礼央がずっと僕のそばにいてくれたらいいのに、とも思ってしまう。その時間は、僕の人生で最も幸せな時間の一つだった。
昨日からずっと礼央のことが頭から離れない。僕は心のざわつきを押し殺し、生徒会長の仮面を貼り付けて、淡々と学内の見回りをこなした。仕事に没頭すれば、少しは心が落ち着くかと思ったが、思うようにはいかなかった。
二日目も無事に終了し、文化祭の閉会式が執り行われた。僕は壇上に上がり、閉会の挨拶を行う。深呼吸をして、いつもの冷静な表情を取り戻した。
「これを持ちまして、第四十七回北翔高校文化祭を閉会いたします」
生徒たちから拍手が湧き起こり、口々に感想を言い合っている様子が見えた。僕は無事に文化祭を終えたことに安堵し、肩の荷が降りた。緊張から解放されたせいか、急に疲れが押し寄せてきた。
――これで、僕の生徒会長の任も終わり、か。
そう考えると、少し寂しさが滲んだ。この一年、生徒会長としてがむしゃらに頑張ってきたからだ。生徒会から引退したら、あとは受験に向けて勉強に励むしかない。家が望む大学、家が望む学部、家が望む未来。その決められた道を、黙って歩いていくだけ。
撤収作業を全て終えて、僕は生徒会室へと向かい、今回の文化祭の総括の文章をパソコンで作成した。最後まで完璧に仕事をやり遂げることが、僕の務めだった。
「よし、これでいいか」
出来上がった資料を見返して、呟いた。最後の文化祭実行委員会までにもう一度見直しておけば十分だろう。全ての作業を終え、僕はほっと息をついた。
校庭では後夜祭終了の花火が上がっている。全校生徒は後夜祭できっと盛り上がったことだろう。一人で働き続けた僕には、その賑わいが妙に遠く感じられた。
僕はパソコンをシャットダウンして、帰宅する準備をする。ドアに向かおうとした時、誰かがそこに立っているのが分かった。近づくと、それは礼央だった。突然の彼の姿に、僕の心臓は大きく跳ねた。
「あれ、礼央? 後夜祭には参加してないの?」
僕はてっきり彼女と後夜祭を楽しんでいるのだと思っていた。後夜祭はカップルにとって学内で特別な時間を過ごせる唯一の時間だからだ。花火を見上げるロマンチックな雰囲気は、恋人たちにとって格好の場所のはずだった。
「凪を……探してた」
その言葉に僕は息を呑んだ。彼の声には、いつもの明るさとは違う、静かな真剣さがあった。
「……僕を?」
僕は驚いて礼央を見た。笑顔を見せているが、目はとても真剣だった。その眼差しの奥には、言葉にできない何かが潜んでいる気がした。
「ちょっと話、できる?」
礼央は生徒会室に入って椅子に座った。僕は彼の横に座る。気まずい空気が流れるが、思い切って口火を切った。この沈黙を破らなければ、何も前に進まない。
「あの……、今日、伊藤さんは?」
ためらいがちに聞くと、礼央の表情が曇った。彼の明るい表情が一瞬で陰り、肩が少し落ちた。
「あぁ、紗奈なら先に帰ったよ。ちょっと二人で話し合っててさ……」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。話し合ったって、何を? 様々な可能性が頭をよぎる。
「俺たち、ちょっと距離を置くことになった」
「……え? どうして?」
僕は驚きを隠せなかった。彼の表情から、それが単なる喧嘩ではないことが伝わってきた。
「まあ、色々とあってね……」
礼央はそれ以上は語ろうとしなかった。彼の言葉少なさに、何か大きな決断があったことを感じ取った。
――もしかして、僕のせいで?
そう考えると胸が苦しくなった。思わず、胸元をギュッと掴んだ。自分が原因で誰かを傷つけることなど、考えたこともなかった。特に礼央を苦しめるなんて、最も避けたいことだった。
「ごめん……」
「なんで凪が謝るの?」
「……僕が、伊藤さんが勘違いするような行動取ってたから……」
僕は俯いて、拳を握った。手が小刻みに震えていた。自分の感情を抑えられなかった弱さを恥じた。
「それは違う! 俺の気持ちの問題だから……」
礼央が僕の手を握ってきた。それの手は大きくてとても温かい。僕の冷え切った心を包み込んでくれるようだった。その温もりが、少しずつ僕の緊張を解きほぐしていく。
外は花火が終わりすっかり真っ暗な空になっていた。生徒たちがガヤガヤと下校している声が遠くに聞こえる。礼央が僕の方を見つめて言った。その眼差しには、僕が今まで見たことのない柔らかさがあった。
「不思議なんだよな」
「何が?」
僕は礼央を振り返って言った。彼の瞳は潤んでいるように見えた。
「こうして凪と二人でいると、なんだか頑張れる気がするんだ」
そう言うと礼央はくしゃっと顔を歪めて笑った。その笑顔には少し切なさが混じっていた。僕は彼の目を見つめて眉を下げた。
「ごめん……。僕のせいで、伊藤さんと……」
「違うって。俺が自分で決めたことだよ」
礼央は僕の髪をサラッと撫でた。その優しい仕草に、僕の心は震えた。彼の手の温もりが、頭を通して全身に広がっていくようだった。
その時、校内放送が響き渡った。
『全校生徒の皆さんは下校してください』
それを聞いて僕たちは生徒会室を後にした。廊下に出ると、ほとんどの生徒は帰った後のようで、がらんとしていた。その静けさが、二人の存在を際立たせる。
「なんだか名残惜しいな」
空っぽの廊下に二人だけの足音が響いた。僕たちは肩が触れ合いそうなほど近い距離で並んで昇降口に向かった。その近さに、心が高鳴る。
「文化祭……、初めて楽しいと思えたよ」
僕は礼央を見つめて感謝の意を伝えた。これは心からの言葉だった。彼と過ごした時間のおかげで、初めて自分らしく笑うことができた気がした。
礼央も僕を見つめ返してきた。彼の瞳には、言葉にできない何かが宿っていた。
「俺も。凪と過ごした時間が、一番楽しかった」
その言葉に、僕は返すことができなかった。だが、心の中は今まで感じたことがないほど、温かく幸せで満ちていた。この感情を、大切にしたいと思った。礼央と過ごすこの瞬間を、この気持ちを、永遠に忘れたくなかった。



