真夏の熱が遠ざかったものの、いまだに熱のこもった空気が校舎を満たしていた。新学期には文化祭という、体育祭と並ぶ一大イベントが控えている。屋内外に設けられるステージでは、クラスや有志たちによる様々なパフォーマンスが行われ、校舎内には文化部やクラスの展示が並ぶ。校門から校舎へ続く桜並木の道には、色とりどりの模擬店が立ち並ぶ予定だ。
体育祭と違うのは、他校の生徒や近隣住民など、外部からも大勢の人が訪れることだった。そのため生徒会としては、安全面に気を配りながら、訪れる人々が心から楽しめるような工夫を凝らさなければならない。
「志水先輩、この資料を確認していただきたいのですが……」
生徒会役員から差し出された資料にさっと目を通す。早朝から続く打ち合わせで、僕の頭は既に様々な情報で埋め尽くされていた。それでも表情には出さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「野外と屋内のステージの配置を……こうしていただけますか? また何か問題があれば教えてください」
「分かりました」
的確に指示を出しながら校内を回る。完璧な仮面を貼り付けたまま、志水凪という名の精密機械は今日も滞りなく動いていた。
――この文化祭を成功させれば……僕の仕事も終わる。
そう、高校生活最後の大きな仕事がこの文化祭だった。しかし、疲労が蓄積していることは自分でも分かっていた。
六月に美月と結納を交わしてから、一向に執り行われない婚約パーティーに両親は苛立ちを隠せずにいた。「いつになったら婚約パーティーが開かれるのか」と、まるで僕にその責任があるかのように詰問してくる。
――そんなこと、自分で朝比奈社長に連絡すればいいのに……。
おそらく、父の会社の新規事業のプレスリリース前に朝比奈グループとの結びつきを公にしておきたいのだろう。それは理解できるが――。
美月に自分がゲイであることを遠回しに伝えてしまったから、もしかしたら朝比奈家では騒動になっているのかもしれない。あるいは美月自身が引きこもってしまっているのかもしれない。
――あぁ……言わなければよかったのかな……。
僕は大きくため息をついた。結納式の後、美月とは一度も連絡を取っていない。彼女を傷つけてしまったと考えると、胸が針で刺されるように痛んだ。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。画面を確認すると母からのメールだった。
『美月さんには連絡とってくれたの?』
たった一行の文面を読んだだけで、「またか……」と胸の中が鉛を飲み込んだように重くなり、苛立ちが込み上げてきた。品行方正な完璧な生徒会長であるべき僕が、思わず「チッ」と小さく舌打ちをした。
舌打ちをするという行為に自分でも驚いた。以前なら感情など持ち合わせておらず、親に言われたことを何も感じずに行動に移していただろう。だが、礼央と出会ってからというもの、僕の中に「本当の僕」が少しずつ芽吹いているのを感じていた。
「志水先輩!」
背後から声をかけられ、急いで仮面を貼り付けて、柔和な笑顔を作った。
「どうしました?」
「ここの会場の高さなのですが……」
微笑みを絶やさず、生徒会の役員たちの質問に応え続ける完璧な生徒会長。それが僕の役割だった。
「志水先輩、各クラスの企画の確認なのですが……」
別の役員から声をかけられ、資料に目を落とした。まだいくつか企画の確認ができていないクラスがあるようだ。
「僕が行くよ」
「会長は全体を見ないといけないでしょうから……」
そう言われたが、生徒会役員がみんな手一杯であるのは明らかだった。
「いや、大丈夫。これくらいなら」
僕は書類を受け取り、確認が済んでいないクラスへと足を向けた。
案の定、企画が出ていないのは三年生のクラスが多かった。順番にクラスを訪問して、文化祭の企画を聞いていく。
「最後は......三年一組か」
僕は礼央に会えるかもしれないという淡い期待を胸に、教室へと向かった。
「失礼します」
三年一組の扉から教室を覗き込むと、そこには会いたかった人がいた。
「あ、凪! 久しぶり! 元気か?」
相変わらず明るい笑顔で僕に近づいてくる。僕は自分の気持ちを自覚しているからか、少しぎこちなく笑顔が引きつった。
「礼央、インターハイで活躍したみたいだね」
「今回の結果よかったから、もしかしたら大学のスポーツ推薦狙えるかもしれないんだ!」
誇らしげに語る表情に、僕の心は高鳴った。
「文化祭の企画書をもらいに来たんだ」
「あぁ......ちょっと待ってて」
礼央は教室に入り、企画書を持って戻ってきた。
「はい、これ」
「ありがとう」
立ち去ろうとすると、突然腕を掴まれた。
「凪、ちょっといいか?」
唐突に廊下の隅へと連れてこられた。
「何があったの?」
「な、何も......」
いつものように完璧な仮面を貼り付けて礼央を見た。だが彼の目は鋭く僕を見つめていた。
「うそ。笑ってないよね、その目」
「そんな......」
「俺には分かるよ。その笑顔は『本当に』笑っている顔じゃない」
――なんで......。誰も分からないのに、君は......。
僕のことを真剣に見つめる礼央の視線が痛かった。
僕は無意識に口元を手で覆った。まるで心の中を見透かされているようで、呼吸が浅くなり、息苦しくてたまらない。
――なんで、なんで!
膝がガクガクと小刻みに震え始めた。礼央と向かい合って立っていることさえ困難になり、彼の手を振り解いてその場から走り去った。
「凪っ!」
背後から礼央が僕の名前を呼んだが、振り返る勇気はなかった。
生徒会長が廊下を走るなど、あってはならないことだ。周りの生徒たちが驚いた眼差しで見ている。しかし、そんなことはどうでもよかった。この込み上げてくる感情を、なんとか鎮めるのが先決だった。
僕はあまり生徒が立ち寄らない資料室へと飛び込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
ドアに背中を預け、肩で息をした。額にはうっすらと汗が滲んでいる。それは走ったからなのか、それとも心の動揺からなのか、自分でも分からなかった。
大きく深呼吸をして息を整える。
「ははっ……!」
乾いた笑いが口から漏れ出た。自分の心の中がぐちゃぐちゃで、まるで真っ黒い雲が渦巻いているようだった。
――なんで僕は逃げてきたんだ? あんな反応するなんて、僕らしくない……。
優しく心配してくれた礼央に対して、ひどいことをした。そう思うと、自己嫌悪に陥り、胸が締め付けられた。きっと礼央は僕のことを嫌なヤツだと思って、もう会いたいとは思ってくれないかもしれない。
「くっ……」
悔しくて、悲しくて、唇を強く噛みしめた。そのとき、思いがけず頬を熱いものが伝った。触れてみると、それは――涙だった。
「な、なんで……?」
自分でも驚くほど、目からボロボロと涙がこぼれ落ちてきた。それは心の中に押し殺していた、様々な感情が決壊して堰を切ったように溢れ出したものだった。
礼央への恋心、美月への後ろめたさ、そして常に完璧でなければならないという人生の重圧。
――もう……僕は、どうしたらいいんだ……。
その場に座り込み、膝を抱えると震えが止まらなかった。
すると、資料室の扉が静かに開いた。
「凪……?」
囁くように名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。そこには礼央が心配そうに眉を下げて立っていた。
「こ、こっちに……来ないで……」
僕は顔を見られたくなくて、そっぽを向いた。しかし礼央は何も言わず僕の横に腰を下ろした。
「……」
礼央はじっと僕を見つめている。僕は居た堪れなくなって言った。
「見ないで……こんな……酷い……」
グズっと鼻を啜りながら俯くと、目の前にハンカチが差し出された。
「酷くなんかないよ」
礼央は何も質問せず、慰めの言葉もかけず、ただ僕の横に寄り添って座っていた。
僕は自分のしていることに恥ずかしさを感じた。
「ふっ……たかが泣いているだけで、大げさだよね」
「泣きたいときは、思い切り泣いたらいいんだよ」
礼央の言葉が胸に突き刺さる。今まで人前で泣いたことなど、記憶にない。感情を露わにすることさえ、僕には許されなかった。
「なんか、みっともないね。生徒会長が、こんな……」
礼央は僕の背中を優しくさすった。
「生徒会長なんて、関係ないだろ。お前は『志水凪』なんだ。一人の人間なんだよ」
――『僕』という人間を、認めてくれた……。
礼央の放ったその言葉は、僕の胸を大きく抉った。今まで演じてきた人生そのものを。僕が僕であっていいと言ってくれている、その言葉に、また涙が溢れ出た。
礼央はただただ横に座り、僕の背中を優しく撫でていた。その温もりが、少しずつ、僕の凍えた心を溶かしていくようだった。
文化祭の本番まで残り二週間となった頃、僕は自分のクラスの準備作業を手伝っていた。生徒会の仕事を優先していたため、ほとんどクラスに関わることができていない。それゆえに、クラスの準備は免除されているのだが、手が空いている時には自発的に参加するようにしていた。
「志水、俺らのクラス、進捗状況はまあまあだと思うんだけど」
クラスの文化祭実行委員から声をかけられた。
「確かに、そうだね。君のおかげだよ。ありがとう」
あの涙の一件から、いつものように仮面を貼り付けて通常運転に戻った。だが以前のように完璧な笑顔を作ることができていないことに、自分でも気づいていた。
「おぉっ! 生徒会長にお褒めの言葉、いただきましたー!」
クラス中に響き渡る大きな声で嬉しそうに言うと、クラスの士気が上がったようで「ラストスパート、頑張ろうな!」とお互いに声を掛け合っているのが聞こえた。
僕はその微笑ましい光景を見ながら、思わず本心から微笑んだ。
そのとき、幼馴染で唯一の親友である高城蓮が声をかけてきた。
「なぎっち、ちょっといいか?」
「うん? 蓮、どうした?」
僕と蓮は廊下の窓際へと移動した。蓮は僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「最近、様子が変だなって思ってさ……」
「変……? 僕が?」
「あぁ。なんて言うか……硬いっていうか」
僕が硬いのはいつものことだ。なぜそんなことを言うのか不思議に思い、首を傾げた。
「いつも通りだと思うんだけど」
「まあな。だけど、いつも通りすぎるんだよなぁ」
蓮はふっと笑いながら、手元にあった書類で紙飛行機を折って飛ばした。秋の爽やかな風に乗って、紙飛行機はふわりと舞った。
「それにさぁ、最近、鳴海礼央とよく一緒にいるよなぁ」
突然の話題転換に僕の心臓はドキッと跳ねた。なぜ急に礼央の名前が?
「……文化祭の件でたまに話すだけだよ」
「ふーん。文化祭の準備ねぇ」
蓮はニヤリと意味ありげな表情で僕を見た。その視線が、なぜか痛かった。
「もしかして……何か噂にでもなってるのか?」
僕があの資料室で泣いてしまったことが外に漏れたのではないかと焦って蓮に聞いた。すると蓮がクスリと笑って、僕の肩をポンと叩いた。
「安心しろよ。でも、いいんじゃないか?」
「えっ?」
――やっぱり、泣いたのがバレてたのか……。
ショックを受けて俯いていると、蓮が僕の耳元で囁いた。
「鳴海の彼女。伊藤さんだっけ? あの子、可愛いよな……」
「……はっ?」
僕は思いっきり顔を歪めた。蓮を見て「はぁ……」と疲れたようにため息をついた。
「なぎっち、あの子のこと、気になってるんじゃないの?」
「違うよ」
蓮の勘違いの甚だしさにうんざりしつつも、僕のことを気にかけてくれていることには感謝した。そもそも親友である蓮にすら、僕は自分が女性を好きになれないということを告げていない。勘違いされても仕方ないのかもしれない。礼央の彼女が気になるのではなく、本当は礼央のことが気になっている――とは言えなかった。
勘違いしている蓮を生ぬるい眼差しで見ていると、当の本人は達観したように言ってきた。
「なぎっち。お前が本当に彼女のこと好きなら、親に言ってみろよ。例の婚約者とは結婚できない、ってさ」
蓮のその言葉が深く僕の心に突き刺さった。そうだ。まだ僕は自分のセクシュアリティを親に伝え切れていない。
「……親に――」
美月を傷つけてしまったことへの後悔が胸に広がり、目を伏せた。僕の暗い表情を見た蓮が言った。
「だってさ、お前の人生だろ? 家のことも理解できるけどさ。一度しかない人生なんだ。正々堂々と好きな人のために努力するお前、俺は応援するぜ!」
親指を立てて精一杯励ましてくれる幼馴染を見ると、「大丈夫だ!」と背中を押されているようだった。しかし、僕の家庭はそう単純なものではない。
「……ありがとう」
複雑な表情で蓮に礼を言うと、「いつでも相談に乗るからな!」と言って彼はその場を後にした。
――蓮が言うほど単純なら、どれだけ楽だろう。親に言えるほど単純なら、どれだけ……。
僕は窓の外の雲ひとつない青空を仰いで、大きくため息をついた。空の青さが、どこか遠く届かない自由を象徴しているようで、胸が締め付けられた。
文化祭まで残すところあと二日となった。この日はステージの設営や模擬店のテントの準備など、校舎の外での作業に追われていた。当日の天気は予報では晴れとのことで、屋外のイベントも賑わいそうだった。
僕は一ヶ所ずつ設営の状況を確認して、書類に記載していく。
「何か変更点などがあれば、いつでも言ってください」
生徒会長の仮面を貼り付け、柔和な笑みを崩さず、設営現場を担当している生徒に声をかけた。
「はい! ありがとうございます!」
僕に声をかけられて嬉しそうにしている生徒を横目に、書類に目を落として見落としがないか確認した。
「外回りはこれで全部か。あとは体育館の舞台の設営状況を見に行こう」
僕はバインダーを小脇に抱えて体育館へ足を運んだ。
体育館の中はすでに舞台設営が完了していた。ステージは拡張されており、広々としたスペースが確保されている。これなら劇をするにも吹奏楽部が演奏するにも十分なスペースがあった。観客席には整然とパイプ椅子が並べられている。
そのとき「今からリハーサルを行いまーす」という声が聞こえた。振り返ると、劇のリハーサルをするようで、生徒たちが舞台に向かって集まっていた。その中に礼央の姿を見つけた。彼は真剣な眼差しで台本に目を落としている。そういえば三年一組は「ロミオとジュリエット」の劇をするのだった。
僕は資料を確認し、今日のすべき作業が完了していることを確認してからリハーサルを見学することにした。体育館の壁に寄りかかり、静かに舞台を見つめる。礼央はロミオ役のようだった。彼のロミオは板についていて、役作りが上手い。
「死んでもなお、美しきジュリエット……」
クライマックスに差し掛かり、熱演する礼央に見入ってしまう。何をやらせても器用にこなす彼は、本当に素晴らしかった。
「お疲れ様でしたー! 本日のリハーサルはこれで終了します。明日のリハーサルもよろしくお願いしますー」
文化祭実行委員が舞台上の生徒に声をかけると、「お疲れっしたー」「あざーす」と言う元気な声が溢れた。僕はみんなが体育館を出ていくのを確認してから、その場を去ろうとした。そのとき、背後から声をかけられた。
「凪!」
振り向くと、そこには礼央が立っていた。
「見てくれてたんだ! どうだった? 俺の演技」
僕は自然と微笑みながら答えた。
「礼央はなんでもできるんだね。すごく上手だったよ。役になりきっていて……」
「本当? でもまだ感情がうまく出せなくて、困ってるんだよな……」
僕はふふっと笑った。
「役者さんは大変だね」
悩んでいる顔をしていた礼央が、何か思いついたようにパッと顔を輝かせた。
「そうだ! 凪、ちょっと練習に付き合ってよ!」
「え?」
礼央は有無を言わさず僕の腕を引っ張って、体育館の裏へと連れて行った。そこで二人きりになると、先日の号泣事件を思い出して恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。
「ねぇ、凪に聞きたいんだけど」
礼央が僕の方を見ながら尋ねてきた。
「何?」
「どうやったら、本気で演技できるんだと思う?」
僕は思いがけない質問に、不思議そうに礼央を見つめた。しかし彼の目は真剣そのものだった。
「それを……僕に聞くの?」
「うん。だって凪、いつも完璧に『演じている』じゃん」
僕は息を呑んだ。礼央は僕がいつも仮面をかぶっていることに気づいているのだろうか。指先が冷たくなるのを感じた。だが先日、礼央の前で自分を晒けだして泣いてしまったことにより、彼には本当の僕を理解してほしいという気持ちも芽生えていた。
僕は複雑な表情を浮かべながら答えた。
「僕は……本音と演技の境界が、もう、分からなくなってきた」
思わず本音がこぼれ落ちた。
「どういうこと?」
真剣な眼差しを向けてくる礼央に、僕は言葉を選びながら応えた。
「自分が何を演じているのか……分からなくなるときがある――」
「凪はいつも、演じてるの?」
素朴な礼央からの質問が胸を刺した。そうだ。僕は常に『完璧』を演じている。家でも、学校でも。
「……そう……かも」
小さな声でそう呟くと、僕は俯いた。
そのとき、礼央が台本をスッと僕の前に差し出した。
「あのさ、ちょっと付き合ってくれない? ジュリエット役で」
「えっ? ぼ、僕は演技なんて……」
「大丈夫、大丈夫」
そう言うと、その場で礼央はセリフを言い始めた。演技などしたことのない僕は、ただ台本を読むのが精一杯だった。
「星の瞬きにかけて誓うわ、ロミオ」
恥ずかしさで顔を赤らめながらも、僕は必死に台本に目を落としてセリフを言った。
「愛しているよ、ジュリエット。この命に変えても……」
礼央は情熱的にロミオを演じていた。彼のセリフには、どこか切実な響きがあって、僕の心をざわつかせる。次第に僕も役に引き込まれていき、ただ読むだけではなく感情を込めてセリフを言えるようになってきた。
「あなたのためなら、家名も捨てましょう……」
役になりきった僕の声は、少し震えていた。するとそこで礼央が突然、アドリブでセリフを言ってきた。
「本当に……捨てられるのか?」
礼央の問いかけに僕はハッと目を見開いた。彼の表情は愛おしい人を見るような、優しさに満ちた眼差しだった。
「そ、それは……ジュリエットに聞いたんだよね?」
僕は思わず現実に引き戻され、慌てて礼央に尋ねた。
「俺は、凪の本音が聞きたいんだ……」
礼央のまっすぐな眼差しに、言葉を失ってしまう。
どくん。
心臓がうるさく鳴る音が耳元で響いた。僕たちの間には、ほんの少しの距離しかなかった。礼央の瞳に映る自分の姿が、震えているのがわかる。
その瞬間、体育館の扉が開く音がして、二人は反射的に離れた。そこには文化祭実行委員の生徒が立っていた。
「あれ? まだ練習してたんだ。ごめん、ちょっと忘れ物を取りに来ただけだから、そのまま続けてていいよ」
生徒が去った後、先ほどまでの緊張感は消え、気まずい空気だけが残った。礼央は少し照れたように頭をかき、僕の方を見た。
「あー、なんか熱くなっちゃったな。付き合わせちゃってごめん」
「い、いや……僕も楽しかったよ」
僕たちは互いに微笑み合った。礼央のおかげで、少しだけ、演じることではなく「在ること」の意味を感じられた気がした。
とうとう文化祭前日となった。準備が全て終わり、放課後に僕は屋上へと足を運んだ。フェンス越しに下を見ると、運動部の練習が終わったようで、部員たちが後片付けをしている姿が小さく見えた。
文化祭の準備は完璧に整っていた。あとは明日の本番を待つだけだ。
「どれだけ多くの人が来てくれるか、楽しみだな」
夕焼けでオレンジ色に染まった空を見上げた。天気予報では明日は晴れとのことだった。僕の心は晴れやかで、高校最後の年の生徒会最後のイベント。持てる力を全て注ぎ込んだという充実感があった。
そのとき、誰かが屋上へとやってきた。逆光で顔がよく見えない。その人が近づいてようやく、礼央だとわかった。
「凪、やっぱりここにいたんだ」
礼央は爽やかな笑顔で僕に話しかけてきた。その横顔が夕陽に照らされて、まるで絵画のように美しかった。
「今日のリハーサルはうまくいった?」
「うん、凪が練習に付き合ってくれたおかげで、バッチリだったよ。ありがとうな」
太陽のような笑顔を僕に向けてくる。ただお礼を言われただけなのに、胸が高鳴った。
「大したことしてないよ……」
頬に熱がこもっているのがわかったが、夕陽のおかげでそれがばれずに済みそうだった。
「文化祭の準備、順調に終わってよかったな」
「みんな頑張ってたからね……」
礼央はふふっと笑って、僕の顔を覗き込んだ。
「凪のおかげだよ」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。下校する生徒たちの楽しげな声が屋上まで届いてくる。二人は並んでフェンスに寄りかかり、沈みゆく太陽を見つめていた。
「準備は大変だけど、やりがいはあるよ」
「凪はいつも前向きだな」
礼央がははっと快活に笑った。彼の笑い声は、いつも僕の心を温かくする。
「ところでさ、凪の将来の夢って何?」
礼央が突然真剣な顔をして、僕を見つめた。唐突な質問に僕は戸惑い、言葉に詰まった。
「……夢?」
「うん。凪が本当にやりたいこと」
僕は顎に手を当てて考えてみた。だが、やりたいことなど、ない。僕は自分の気持ちを抑えて生きてきたのだから。
「特に……ないな。ただ家業を継ぐだけで」
「それは夢じゃないだろ」
礼央が間髪入れずに反論した。その言葉に、僕はハッとした。言われたことをするのが当たり前だと思っていた。それは確かに、夢とは呼べない。
「俺は前にも凪に言ったと思うけど、プロバレー選手になる。この前のインハイでもいい成績が出せたし、大学のスポーツ推薦もほぼ確定した」
未来を見据える礼央の目は、夕陽を映してキラキラと輝いていた。そんな彼の表情を僕は思わず見入ってしまった。
「母さんを楽にさせてあげたいしな。それに何より、俺がバレーを愛してるから」
本心を曝け出している礼央を僕はじっと見つめた。僕には……僕の夢は……。
「礼央はすごいな」
「凪にも、本当にやりたいこと、あるでしょ?」
「……分から……ない」
僕は恥ずかしくなって俯いた。夢を持てない自分が情けなかった。
「探したらいいよ。自分の人生なんだから。自分で決めていいんだよ」
――自分で決める……そんな選択肢、今まで考えたこともなかった。
礼央の言葉が心の中の何かを崩していくのを感じた。まるで長い間閉ざされていた窓が、少しずつ開いていくような感覚だった。
「……そうだね」
僕は礼央に微笑んだ。それはもう、仮面をかぶった笑顔ではなかった。
夕陽に染まる空の下、二人は言葉を交わさずに並んで立っていた。この瞬間が永遠に続けばいいのに――そう思いながら、僕は礼央の横顔を盗み見た。彼の存在が、少しずつ僕の凍りついた心を溶かしていくように感じた。
きっと明日は、素晴らしい一日になるだろう。そんな予感とともに、僕たちは屋上を後にした。
体育祭と違うのは、他校の生徒や近隣住民など、外部からも大勢の人が訪れることだった。そのため生徒会としては、安全面に気を配りながら、訪れる人々が心から楽しめるような工夫を凝らさなければならない。
「志水先輩、この資料を確認していただきたいのですが……」
生徒会役員から差し出された資料にさっと目を通す。早朝から続く打ち合わせで、僕の頭は既に様々な情報で埋め尽くされていた。それでも表情には出さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「野外と屋内のステージの配置を……こうしていただけますか? また何か問題があれば教えてください」
「分かりました」
的確に指示を出しながら校内を回る。完璧な仮面を貼り付けたまま、志水凪という名の精密機械は今日も滞りなく動いていた。
――この文化祭を成功させれば……僕の仕事も終わる。
そう、高校生活最後の大きな仕事がこの文化祭だった。しかし、疲労が蓄積していることは自分でも分かっていた。
六月に美月と結納を交わしてから、一向に執り行われない婚約パーティーに両親は苛立ちを隠せずにいた。「いつになったら婚約パーティーが開かれるのか」と、まるで僕にその責任があるかのように詰問してくる。
――そんなこと、自分で朝比奈社長に連絡すればいいのに……。
おそらく、父の会社の新規事業のプレスリリース前に朝比奈グループとの結びつきを公にしておきたいのだろう。それは理解できるが――。
美月に自分がゲイであることを遠回しに伝えてしまったから、もしかしたら朝比奈家では騒動になっているのかもしれない。あるいは美月自身が引きこもってしまっているのかもしれない。
――あぁ……言わなければよかったのかな……。
僕は大きくため息をついた。結納式の後、美月とは一度も連絡を取っていない。彼女を傷つけてしまったと考えると、胸が針で刺されるように痛んだ。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。画面を確認すると母からのメールだった。
『美月さんには連絡とってくれたの?』
たった一行の文面を読んだだけで、「またか……」と胸の中が鉛を飲み込んだように重くなり、苛立ちが込み上げてきた。品行方正な完璧な生徒会長であるべき僕が、思わず「チッ」と小さく舌打ちをした。
舌打ちをするという行為に自分でも驚いた。以前なら感情など持ち合わせておらず、親に言われたことを何も感じずに行動に移していただろう。だが、礼央と出会ってからというもの、僕の中に「本当の僕」が少しずつ芽吹いているのを感じていた。
「志水先輩!」
背後から声をかけられ、急いで仮面を貼り付けて、柔和な笑顔を作った。
「どうしました?」
「ここの会場の高さなのですが……」
微笑みを絶やさず、生徒会の役員たちの質問に応え続ける完璧な生徒会長。それが僕の役割だった。
「志水先輩、各クラスの企画の確認なのですが……」
別の役員から声をかけられ、資料に目を落とした。まだいくつか企画の確認ができていないクラスがあるようだ。
「僕が行くよ」
「会長は全体を見ないといけないでしょうから……」
そう言われたが、生徒会役員がみんな手一杯であるのは明らかだった。
「いや、大丈夫。これくらいなら」
僕は書類を受け取り、確認が済んでいないクラスへと足を向けた。
案の定、企画が出ていないのは三年生のクラスが多かった。順番にクラスを訪問して、文化祭の企画を聞いていく。
「最後は......三年一組か」
僕は礼央に会えるかもしれないという淡い期待を胸に、教室へと向かった。
「失礼します」
三年一組の扉から教室を覗き込むと、そこには会いたかった人がいた。
「あ、凪! 久しぶり! 元気か?」
相変わらず明るい笑顔で僕に近づいてくる。僕は自分の気持ちを自覚しているからか、少しぎこちなく笑顔が引きつった。
「礼央、インターハイで活躍したみたいだね」
「今回の結果よかったから、もしかしたら大学のスポーツ推薦狙えるかもしれないんだ!」
誇らしげに語る表情に、僕の心は高鳴った。
「文化祭の企画書をもらいに来たんだ」
「あぁ......ちょっと待ってて」
礼央は教室に入り、企画書を持って戻ってきた。
「はい、これ」
「ありがとう」
立ち去ろうとすると、突然腕を掴まれた。
「凪、ちょっといいか?」
唐突に廊下の隅へと連れてこられた。
「何があったの?」
「な、何も......」
いつものように完璧な仮面を貼り付けて礼央を見た。だが彼の目は鋭く僕を見つめていた。
「うそ。笑ってないよね、その目」
「そんな......」
「俺には分かるよ。その笑顔は『本当に』笑っている顔じゃない」
――なんで......。誰も分からないのに、君は......。
僕のことを真剣に見つめる礼央の視線が痛かった。
僕は無意識に口元を手で覆った。まるで心の中を見透かされているようで、呼吸が浅くなり、息苦しくてたまらない。
――なんで、なんで!
膝がガクガクと小刻みに震え始めた。礼央と向かい合って立っていることさえ困難になり、彼の手を振り解いてその場から走り去った。
「凪っ!」
背後から礼央が僕の名前を呼んだが、振り返る勇気はなかった。
生徒会長が廊下を走るなど、あってはならないことだ。周りの生徒たちが驚いた眼差しで見ている。しかし、そんなことはどうでもよかった。この込み上げてくる感情を、なんとか鎮めるのが先決だった。
僕はあまり生徒が立ち寄らない資料室へと飛び込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
ドアに背中を預け、肩で息をした。額にはうっすらと汗が滲んでいる。それは走ったからなのか、それとも心の動揺からなのか、自分でも分からなかった。
大きく深呼吸をして息を整える。
「ははっ……!」
乾いた笑いが口から漏れ出た。自分の心の中がぐちゃぐちゃで、まるで真っ黒い雲が渦巻いているようだった。
――なんで僕は逃げてきたんだ? あんな反応するなんて、僕らしくない……。
優しく心配してくれた礼央に対して、ひどいことをした。そう思うと、自己嫌悪に陥り、胸が締め付けられた。きっと礼央は僕のことを嫌なヤツだと思って、もう会いたいとは思ってくれないかもしれない。
「くっ……」
悔しくて、悲しくて、唇を強く噛みしめた。そのとき、思いがけず頬を熱いものが伝った。触れてみると、それは――涙だった。
「な、なんで……?」
自分でも驚くほど、目からボロボロと涙がこぼれ落ちてきた。それは心の中に押し殺していた、様々な感情が決壊して堰を切ったように溢れ出したものだった。
礼央への恋心、美月への後ろめたさ、そして常に完璧でなければならないという人生の重圧。
――もう……僕は、どうしたらいいんだ……。
その場に座り込み、膝を抱えると震えが止まらなかった。
すると、資料室の扉が静かに開いた。
「凪……?」
囁くように名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。そこには礼央が心配そうに眉を下げて立っていた。
「こ、こっちに……来ないで……」
僕は顔を見られたくなくて、そっぽを向いた。しかし礼央は何も言わず僕の横に腰を下ろした。
「……」
礼央はじっと僕を見つめている。僕は居た堪れなくなって言った。
「見ないで……こんな……酷い……」
グズっと鼻を啜りながら俯くと、目の前にハンカチが差し出された。
「酷くなんかないよ」
礼央は何も質問せず、慰めの言葉もかけず、ただ僕の横に寄り添って座っていた。
僕は自分のしていることに恥ずかしさを感じた。
「ふっ……たかが泣いているだけで、大げさだよね」
「泣きたいときは、思い切り泣いたらいいんだよ」
礼央の言葉が胸に突き刺さる。今まで人前で泣いたことなど、記憶にない。感情を露わにすることさえ、僕には許されなかった。
「なんか、みっともないね。生徒会長が、こんな……」
礼央は僕の背中を優しくさすった。
「生徒会長なんて、関係ないだろ。お前は『志水凪』なんだ。一人の人間なんだよ」
――『僕』という人間を、認めてくれた……。
礼央の放ったその言葉は、僕の胸を大きく抉った。今まで演じてきた人生そのものを。僕が僕であっていいと言ってくれている、その言葉に、また涙が溢れ出た。
礼央はただただ横に座り、僕の背中を優しく撫でていた。その温もりが、少しずつ、僕の凍えた心を溶かしていくようだった。
文化祭の本番まで残り二週間となった頃、僕は自分のクラスの準備作業を手伝っていた。生徒会の仕事を優先していたため、ほとんどクラスに関わることができていない。それゆえに、クラスの準備は免除されているのだが、手が空いている時には自発的に参加するようにしていた。
「志水、俺らのクラス、進捗状況はまあまあだと思うんだけど」
クラスの文化祭実行委員から声をかけられた。
「確かに、そうだね。君のおかげだよ。ありがとう」
あの涙の一件から、いつものように仮面を貼り付けて通常運転に戻った。だが以前のように完璧な笑顔を作ることができていないことに、自分でも気づいていた。
「おぉっ! 生徒会長にお褒めの言葉、いただきましたー!」
クラス中に響き渡る大きな声で嬉しそうに言うと、クラスの士気が上がったようで「ラストスパート、頑張ろうな!」とお互いに声を掛け合っているのが聞こえた。
僕はその微笑ましい光景を見ながら、思わず本心から微笑んだ。
そのとき、幼馴染で唯一の親友である高城蓮が声をかけてきた。
「なぎっち、ちょっといいか?」
「うん? 蓮、どうした?」
僕と蓮は廊下の窓際へと移動した。蓮は僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「最近、様子が変だなって思ってさ……」
「変……? 僕が?」
「あぁ。なんて言うか……硬いっていうか」
僕が硬いのはいつものことだ。なぜそんなことを言うのか不思議に思い、首を傾げた。
「いつも通りだと思うんだけど」
「まあな。だけど、いつも通りすぎるんだよなぁ」
蓮はふっと笑いながら、手元にあった書類で紙飛行機を折って飛ばした。秋の爽やかな風に乗って、紙飛行機はふわりと舞った。
「それにさぁ、最近、鳴海礼央とよく一緒にいるよなぁ」
突然の話題転換に僕の心臓はドキッと跳ねた。なぜ急に礼央の名前が?
「……文化祭の件でたまに話すだけだよ」
「ふーん。文化祭の準備ねぇ」
蓮はニヤリと意味ありげな表情で僕を見た。その視線が、なぜか痛かった。
「もしかして……何か噂にでもなってるのか?」
僕があの資料室で泣いてしまったことが外に漏れたのではないかと焦って蓮に聞いた。すると蓮がクスリと笑って、僕の肩をポンと叩いた。
「安心しろよ。でも、いいんじゃないか?」
「えっ?」
――やっぱり、泣いたのがバレてたのか……。
ショックを受けて俯いていると、蓮が僕の耳元で囁いた。
「鳴海の彼女。伊藤さんだっけ? あの子、可愛いよな……」
「……はっ?」
僕は思いっきり顔を歪めた。蓮を見て「はぁ……」と疲れたようにため息をついた。
「なぎっち、あの子のこと、気になってるんじゃないの?」
「違うよ」
蓮の勘違いの甚だしさにうんざりしつつも、僕のことを気にかけてくれていることには感謝した。そもそも親友である蓮にすら、僕は自分が女性を好きになれないということを告げていない。勘違いされても仕方ないのかもしれない。礼央の彼女が気になるのではなく、本当は礼央のことが気になっている――とは言えなかった。
勘違いしている蓮を生ぬるい眼差しで見ていると、当の本人は達観したように言ってきた。
「なぎっち。お前が本当に彼女のこと好きなら、親に言ってみろよ。例の婚約者とは結婚できない、ってさ」
蓮のその言葉が深く僕の心に突き刺さった。そうだ。まだ僕は自分のセクシュアリティを親に伝え切れていない。
「……親に――」
美月を傷つけてしまったことへの後悔が胸に広がり、目を伏せた。僕の暗い表情を見た蓮が言った。
「だってさ、お前の人生だろ? 家のことも理解できるけどさ。一度しかない人生なんだ。正々堂々と好きな人のために努力するお前、俺は応援するぜ!」
親指を立てて精一杯励ましてくれる幼馴染を見ると、「大丈夫だ!」と背中を押されているようだった。しかし、僕の家庭はそう単純なものではない。
「……ありがとう」
複雑な表情で蓮に礼を言うと、「いつでも相談に乗るからな!」と言って彼はその場を後にした。
――蓮が言うほど単純なら、どれだけ楽だろう。親に言えるほど単純なら、どれだけ……。
僕は窓の外の雲ひとつない青空を仰いで、大きくため息をついた。空の青さが、どこか遠く届かない自由を象徴しているようで、胸が締め付けられた。
文化祭まで残すところあと二日となった。この日はステージの設営や模擬店のテントの準備など、校舎の外での作業に追われていた。当日の天気は予報では晴れとのことで、屋外のイベントも賑わいそうだった。
僕は一ヶ所ずつ設営の状況を確認して、書類に記載していく。
「何か変更点などがあれば、いつでも言ってください」
生徒会長の仮面を貼り付け、柔和な笑みを崩さず、設営現場を担当している生徒に声をかけた。
「はい! ありがとうございます!」
僕に声をかけられて嬉しそうにしている生徒を横目に、書類に目を落として見落としがないか確認した。
「外回りはこれで全部か。あとは体育館の舞台の設営状況を見に行こう」
僕はバインダーを小脇に抱えて体育館へ足を運んだ。
体育館の中はすでに舞台設営が完了していた。ステージは拡張されており、広々としたスペースが確保されている。これなら劇をするにも吹奏楽部が演奏するにも十分なスペースがあった。観客席には整然とパイプ椅子が並べられている。
そのとき「今からリハーサルを行いまーす」という声が聞こえた。振り返ると、劇のリハーサルをするようで、生徒たちが舞台に向かって集まっていた。その中に礼央の姿を見つけた。彼は真剣な眼差しで台本に目を落としている。そういえば三年一組は「ロミオとジュリエット」の劇をするのだった。
僕は資料を確認し、今日のすべき作業が完了していることを確認してからリハーサルを見学することにした。体育館の壁に寄りかかり、静かに舞台を見つめる。礼央はロミオ役のようだった。彼のロミオは板についていて、役作りが上手い。
「死んでもなお、美しきジュリエット……」
クライマックスに差し掛かり、熱演する礼央に見入ってしまう。何をやらせても器用にこなす彼は、本当に素晴らしかった。
「お疲れ様でしたー! 本日のリハーサルはこれで終了します。明日のリハーサルもよろしくお願いしますー」
文化祭実行委員が舞台上の生徒に声をかけると、「お疲れっしたー」「あざーす」と言う元気な声が溢れた。僕はみんなが体育館を出ていくのを確認してから、その場を去ろうとした。そのとき、背後から声をかけられた。
「凪!」
振り向くと、そこには礼央が立っていた。
「見てくれてたんだ! どうだった? 俺の演技」
僕は自然と微笑みながら答えた。
「礼央はなんでもできるんだね。すごく上手だったよ。役になりきっていて……」
「本当? でもまだ感情がうまく出せなくて、困ってるんだよな……」
僕はふふっと笑った。
「役者さんは大変だね」
悩んでいる顔をしていた礼央が、何か思いついたようにパッと顔を輝かせた。
「そうだ! 凪、ちょっと練習に付き合ってよ!」
「え?」
礼央は有無を言わさず僕の腕を引っ張って、体育館の裏へと連れて行った。そこで二人きりになると、先日の号泣事件を思い出して恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。
「ねぇ、凪に聞きたいんだけど」
礼央が僕の方を見ながら尋ねてきた。
「何?」
「どうやったら、本気で演技できるんだと思う?」
僕は思いがけない質問に、不思議そうに礼央を見つめた。しかし彼の目は真剣そのものだった。
「それを……僕に聞くの?」
「うん。だって凪、いつも完璧に『演じている』じゃん」
僕は息を呑んだ。礼央は僕がいつも仮面をかぶっていることに気づいているのだろうか。指先が冷たくなるのを感じた。だが先日、礼央の前で自分を晒けだして泣いてしまったことにより、彼には本当の僕を理解してほしいという気持ちも芽生えていた。
僕は複雑な表情を浮かべながら答えた。
「僕は……本音と演技の境界が、もう、分からなくなってきた」
思わず本音がこぼれ落ちた。
「どういうこと?」
真剣な眼差しを向けてくる礼央に、僕は言葉を選びながら応えた。
「自分が何を演じているのか……分からなくなるときがある――」
「凪はいつも、演じてるの?」
素朴な礼央からの質問が胸を刺した。そうだ。僕は常に『完璧』を演じている。家でも、学校でも。
「……そう……かも」
小さな声でそう呟くと、僕は俯いた。
そのとき、礼央が台本をスッと僕の前に差し出した。
「あのさ、ちょっと付き合ってくれない? ジュリエット役で」
「えっ? ぼ、僕は演技なんて……」
「大丈夫、大丈夫」
そう言うと、その場で礼央はセリフを言い始めた。演技などしたことのない僕は、ただ台本を読むのが精一杯だった。
「星の瞬きにかけて誓うわ、ロミオ」
恥ずかしさで顔を赤らめながらも、僕は必死に台本に目を落としてセリフを言った。
「愛しているよ、ジュリエット。この命に変えても……」
礼央は情熱的にロミオを演じていた。彼のセリフには、どこか切実な響きがあって、僕の心をざわつかせる。次第に僕も役に引き込まれていき、ただ読むだけではなく感情を込めてセリフを言えるようになってきた。
「あなたのためなら、家名も捨てましょう……」
役になりきった僕の声は、少し震えていた。するとそこで礼央が突然、アドリブでセリフを言ってきた。
「本当に……捨てられるのか?」
礼央の問いかけに僕はハッと目を見開いた。彼の表情は愛おしい人を見るような、優しさに満ちた眼差しだった。
「そ、それは……ジュリエットに聞いたんだよね?」
僕は思わず現実に引き戻され、慌てて礼央に尋ねた。
「俺は、凪の本音が聞きたいんだ……」
礼央のまっすぐな眼差しに、言葉を失ってしまう。
どくん。
心臓がうるさく鳴る音が耳元で響いた。僕たちの間には、ほんの少しの距離しかなかった。礼央の瞳に映る自分の姿が、震えているのがわかる。
その瞬間、体育館の扉が開く音がして、二人は反射的に離れた。そこには文化祭実行委員の生徒が立っていた。
「あれ? まだ練習してたんだ。ごめん、ちょっと忘れ物を取りに来ただけだから、そのまま続けてていいよ」
生徒が去った後、先ほどまでの緊張感は消え、気まずい空気だけが残った。礼央は少し照れたように頭をかき、僕の方を見た。
「あー、なんか熱くなっちゃったな。付き合わせちゃってごめん」
「い、いや……僕も楽しかったよ」
僕たちは互いに微笑み合った。礼央のおかげで、少しだけ、演じることではなく「在ること」の意味を感じられた気がした。
とうとう文化祭前日となった。準備が全て終わり、放課後に僕は屋上へと足を運んだ。フェンス越しに下を見ると、運動部の練習が終わったようで、部員たちが後片付けをしている姿が小さく見えた。
文化祭の準備は完璧に整っていた。あとは明日の本番を待つだけだ。
「どれだけ多くの人が来てくれるか、楽しみだな」
夕焼けでオレンジ色に染まった空を見上げた。天気予報では明日は晴れとのことだった。僕の心は晴れやかで、高校最後の年の生徒会最後のイベント。持てる力を全て注ぎ込んだという充実感があった。
そのとき、誰かが屋上へとやってきた。逆光で顔がよく見えない。その人が近づいてようやく、礼央だとわかった。
「凪、やっぱりここにいたんだ」
礼央は爽やかな笑顔で僕に話しかけてきた。その横顔が夕陽に照らされて、まるで絵画のように美しかった。
「今日のリハーサルはうまくいった?」
「うん、凪が練習に付き合ってくれたおかげで、バッチリだったよ。ありがとうな」
太陽のような笑顔を僕に向けてくる。ただお礼を言われただけなのに、胸が高鳴った。
「大したことしてないよ……」
頬に熱がこもっているのがわかったが、夕陽のおかげでそれがばれずに済みそうだった。
「文化祭の準備、順調に終わってよかったな」
「みんな頑張ってたからね……」
礼央はふふっと笑って、僕の顔を覗き込んだ。
「凪のおかげだよ」
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。下校する生徒たちの楽しげな声が屋上まで届いてくる。二人は並んでフェンスに寄りかかり、沈みゆく太陽を見つめていた。
「準備は大変だけど、やりがいはあるよ」
「凪はいつも前向きだな」
礼央がははっと快活に笑った。彼の笑い声は、いつも僕の心を温かくする。
「ところでさ、凪の将来の夢って何?」
礼央が突然真剣な顔をして、僕を見つめた。唐突な質問に僕は戸惑い、言葉に詰まった。
「……夢?」
「うん。凪が本当にやりたいこと」
僕は顎に手を当てて考えてみた。だが、やりたいことなど、ない。僕は自分の気持ちを抑えて生きてきたのだから。
「特に……ないな。ただ家業を継ぐだけで」
「それは夢じゃないだろ」
礼央が間髪入れずに反論した。その言葉に、僕はハッとした。言われたことをするのが当たり前だと思っていた。それは確かに、夢とは呼べない。
「俺は前にも凪に言ったと思うけど、プロバレー選手になる。この前のインハイでもいい成績が出せたし、大学のスポーツ推薦もほぼ確定した」
未来を見据える礼央の目は、夕陽を映してキラキラと輝いていた。そんな彼の表情を僕は思わず見入ってしまった。
「母さんを楽にさせてあげたいしな。それに何より、俺がバレーを愛してるから」
本心を曝け出している礼央を僕はじっと見つめた。僕には……僕の夢は……。
「礼央はすごいな」
「凪にも、本当にやりたいこと、あるでしょ?」
「……分から……ない」
僕は恥ずかしくなって俯いた。夢を持てない自分が情けなかった。
「探したらいいよ。自分の人生なんだから。自分で決めていいんだよ」
――自分で決める……そんな選択肢、今まで考えたこともなかった。
礼央の言葉が心の中の何かを崩していくのを感じた。まるで長い間閉ざされていた窓が、少しずつ開いていくような感覚だった。
「……そうだね」
僕は礼央に微笑んだ。それはもう、仮面をかぶった笑顔ではなかった。
夕陽に染まる空の下、二人は言葉を交わさずに並んで立っていた。この瞬間が永遠に続けばいいのに――そう思いながら、僕は礼央の横顔を盗み見た。彼の存在が、少しずつ僕の凍りついた心を溶かしていくように感じた。
きっと明日は、素晴らしい一日になるだろう。そんな予感とともに、僕たちは屋上を後にした。



