春の日差しが廊下を柔らかく包み込む午後、体育祭の準備に勤しむ学生たちの声が校舎中に溢れていた。各クラスがオリジナルのTシャツを作り、揃いのグッズを制作する姿に、活気が感じられる。その賑やかな声の合間を縫うように、僕は体育祭の準備一覧表に目を落としながら校内を巡回していた。

「あとは……三年一組の進捗状況の確認か」

 礼央と距離を置こうと決めていたのに、生徒会の仕事は容赦なく降りかかってくる。僕の十組と礼央の一組は校舎の端と端。授業では接点がないはずなのに、体育祭の準備となると関わらざるを得ない。

 礼央が教室にいないことを密かに願いながら廊下の角を曲がり、三年一組の教室へと向かおうと資料から顔を上げた瞬間、目の前に――距離を置きたいと思っていた相手が現れた。

「おう、凪!」

 嬉しそうに声をかけられた僕は、思わず肩がビクッと震え、手元から書類が滑り落ちた。紙が床に広がる音が、妙に大きく響く。
 ――はぁ……距離を置こうと思った側からこれか。

 散らばった書類を拾おうとしゃがむと、礼央も同時に座り込み、手伝い始めた。彼の指が僕の手の近くを動く度に、心臓が跳ねる。

「ご、ごめん……そんなに驚くなんて思ってなかったからさ――」

「……いや、書類を見ながら歩いていたから、急に呼びかけられて、少しびっくりしただけで……」

 僕は極力、礼央と目を合わせないように努めながら、急いで書類をかき集めた。礼央はというと、拾った書類を手渡しながら、まるで太陽のような笑顔を向けてくる。

「最近、練習以外でもよく会うよな。凪に会えて、俺はうれしいよ」

 礼央は屈託のない笑顔を僕に向けてきた。単なる社交辞令だとわかっているはずなのに、その笑顔を見た途端、どくんと胸が高鳴るのを感じた。まるで胸の奥に小さな炎が宿ったかのように……。

「……体育祭の準備の確認をして校内を回っているから――」

「へぇ、そっか。それなら明日も会えるかな? 楽しみだな。ほら、俺たち教室が端と端だから、二人三脚と準備委員会の時以外、なかなか会わないじゃん」

 礼央は子供のように目を輝かせ、僕の顔を覗き込んでくる。その距離の近さに居心地の悪さを感じ、僕は思わず視線を逸らし、小さく咳払いをした。

「会えるかどうかは、その時次第じゃないか?」

 淡々とした声で答えながらも、僕の心はざわついていた。三年一組の体育祭準備委員である礼央に、クラスの進捗状況を尋ね、記録を済ませると、早々にその場を離れた。背中に彼の視線を感じながら、僕は足早に歩いた。

 翌日の放課後、生徒会室の前で生徒会役員の後輩に呼び止められた。

「志水先輩、この資料なんですが……」

 差し出された書類を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後から明るい声が響いてきた。

「おーい、凪ー!」

 僕のことを「凪」と呼ぶのは、この学園で一人しかいない。振り返ると――礼央が大きく手を振りながら、廊下の向こうから駆け寄ってきた。その姿は、まるで絵の中から飛び出してきたかのように鮮やかだった。

「やっぱり今日も会えたな!」

 礼央は満面の笑みを浮かべ、息を切らしながら僕のそばに走り寄ってきた。僕を見つけて急いで駆けつけたのだろうか。一瞬、胸が温かくなる。

 ――そんなに僕に会えるのが嬉しいのか?

 僕と一緒にいたって、面白くもなんともないだろうに。

 そう思いながらも、僕は顔に仮面を貼り付けて、優しく微笑んだ。

「君に今日も会えるなんて、思ってもみなかったな」

 礼央に微笑みかけると、彼はまるで朝日を浴びた花のように、輝くような表情になった。

 すると、廊下の向こうから女子生徒たちのひそひそ話が聞こえてきた。

「最近、志水先輩と鳴海先輩、よく一緒にいるよね?」

「ほら、三年の競技、なんだっけ? あぁ、そうそう。二人三脚! あれでパートナーになってすっかり息があってるらしいよ」

「そっかー。だからか。ほら、先輩たち、全然性格が違うっていうか、正反対っていうか。だから仲良いのなんでかなーって思ってたんだよね」

 そのひそひそ話を聞いた僕は、心が揺れるのを感じながらも、表情を取り繕って礼央に尋ねた。

「僕に、何か用だった?」

 その質問に礼央は首を振った。髪の毛が揺れる様子が、どこか愛らしく見えた。

「いや。特には。ただ見かけたから、嬉しくてさ! 声かけちゃった」

 礼央の無邪気で真っ直ぐな言葉に、僕は胸を締め付けられる感覚を覚えた。言葉にできないような感情が、心の奥底からわき上がってくる。

 ――僕にこんなふうに接してくれる人、初めてだ。

 挨拶程度の会話をする人はいても、わざわざ遠くから駆け寄ってくる人などいない。しかもこんなにも親しげに話しかける人は、礼央以外には誰もいなかった。

 そのことを改めて認識すると、胸が締め付けられ、同時に暖かい何かが心に広がっていくのを感じた。

 ――距離を置こうとしているのに。逆に近くなってる気がする。

 そのことを拒もうとは思えない自分がいることに、僕は戸惑いを覚えた。


 体育祭まであと数日というある日の放課後、僕は体育祭関連の資料をまとめるために生徒会室に赴いていた。

 窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、窓辺で作業をしている僕の影を長く伸ばしていた。光の粒子が舞い、静かな空間に浮かぶ埃を金色に輝かせている。

「もうほとんど準備も終わって、テントや椅子の準備が残るのみか。順調でよかった」

 資料を確認して、ホッと胸を撫で下ろした僕の耳に、入り口から明るい声が届いた。

「よお、凪!」

 振り返ると、そこには礼央が立っていた。窓から差し込む夕日に照らされ、彼の姿が眩しく輝いていた。

「凪、まだ残ってたんだ」

 教室のドアから顔を覗かせながら、礼央は柔らかな笑顔で声をかけてきた。

「君、今日はバレー部の練習は?」

「今日は休み。だから暇で校内をぶらぶらしてたんだよねー。体育祭の準備も終わって、もう何もすることないしさ」

 そう言いながら礼央は生徒会室に入ってきた。彼の足音が静かな部屋に響き、僕の心拍数を上げた。

「凪は何してるの?」

 僕は礼央と目を合わせられず、資料に目を落としながら答えた。見つめられると、顔が熱くなりそうで怖かった。

「えっと……体育祭の資料の整理」

 するとすぐに、礼央がスッと僕の横に立って「手伝おうか?」と顔を覗き込んできた。その近さに、思わず息を止めてしまう。

「いや、これは生徒会の仕事だから……」

「いいって、いいって。ほら、この資料を分ければいいんでしょ?」

 有無を言わさずに礼央が資料に手を出し、手伝い始めた。彼の腕が僕の視界に入るたび、緊張感が走る。

「……あ、ありがとう……」

 僕がぎこちなくお礼を言うと、お安い御用とばかりに礼央は鼻歌を歌いながら資料整理を始めた。その自然な仕草に、心が和む。

 黙々と作業をする二人の間に沈黙が流れる。だがその沈黙は、不思議と居心地の悪いものではなかった。礼央が隣にいるという安心感が、僕の緊張した心を柔らかく包み込んでいた。

 やがて礼央が静寂を破って口を開いた。

「ねぇ、生徒会ってさ……っていうか、凪っていつもこんな作業してるの?」

 礼央は不思議そうな表情で僕に尋ねてきた。その素直な疑問に、思わず本音が漏れそうになる。

「そ……うだな。他の人は専門委員会に所属しているから……でも、手の空いた人がやれば問題ないかと思って、いつもやってはいるけど」

 礼央は目を丸くして僕を見つめた。その純粋な瞳に見つめられ、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

「凪は責任感が強いんだな」

「責任感か――そう……だろうか……ただの――」

 「義務でやっている」という言葉を、思わず飲み込んでしまった。

 その瞬間、僕は自分の家での立場を思い出してしまった。志水家での僕の行動は、責任感というより、義務でしかない。会議も、結婚も――すべては家の後継者としての義務。

 思わず口を噤み、俯いた僕の顔を、礼央が心配そうに覗き込んできた。

「どうした?」

「……いや。なんでもない」

 僕は止まっていた手を再び動かし出した。夕陽がさらに傾き、窓辺で作業する二人の影を長く伸ばしていた。その影が重なる部分に、どこか安らぎを感じる。

「俺なんてさ、母さんからいつも『もっと責任持ちなさい!』って言われるよ」

 礼央はカラカラと楽しそうに笑って話す。彼の育った環境はどんなものなのだろう。知りたい、彼のことをもっと知りたいという衝動に駆られた。

「お母さんは厳しいのか?」

「うーん、どうだろうな? うちの母さん、俺が小さい時に離婚してて、シングルマザーなんだよ。一人で育ててくれて、すごく感謝してる」

 礼央の母親はきっと彼に寂しい思いをさせないように、たっぷりと愛情を注いだのだろう。だから彼はこんなに明るくまっすぐな人に育ったに違いない。その想像が、どこか切なく、そして羨ましかった。

「そうなんだ……大変だったんじゃないか?」

 変なことを聞いてしまったかもしれないと反省していると、礼央は明るい声で話を続けた。

「まあね。俺と母さん、二人っきりだったけど、いろんな経験させてくれてさ。母さん、メンタルめちゃくちゃ強くてさぁ。全くへこたれないの。だから俺も強くいないとなって思ってる」

「そっか」

 資料の整理を終えた僕たちは、窓辺に腰かけて話を続けた。夕焼けに染まった空を背景に、礼央のシルエットが美しく浮かび上がる。

「俺、だからバレーもすごく頑張ってるんだ。絶対プロになって、母さんに恩返ししたいしな」

 礼央はにいっと人好きのする笑顔を浮かべ、僕を見つめた。その瞳には純粋な情熱と決意が宿っていて、思わず見入ってしまう。

「すごいな……きちんと将来のこと考えてて……」

 僕は自分が親に定められたレールの上を歩いていることが恥ずかしくなって、思わず俯いた。自分には選択肢がなかったことが、この瞬間、痛いほど心に突き刺さる。

「あれ? 俺、すごい話しすぎた? あんまり自分のこと、人に話したことなくてさ……ごめん、ちょっと重かったかも……」

 礼央は少し頬を赤らめて、首の後ろをがしがしとかいた。その仕草に、思わず笑みがこぼれる。

「いや……素敵な目標だと思うよ」

 僕は礼央に向かって微笑んだ。いつもの仮面をかぶった表情ではなく、本当の自分の素顔で。

「ところでさ、凪って恋愛とか、どうなの? イケメンだからモテるんじゃない?」

 礼央の唐突な質問に、思わず背筋が凍りついた。胸の奥が痛む。

「えっ? ……何で、そんなこと……」

「いや、さっきさ、ここにくる前に彼女と電話してて。なんとなく、凪はどうなのかなって思っただけ」

 僕は背中に冷たいものが流れるのを感じた。指先が急激に冷えてくる。体の中の血液が一瞬で凍りついたかのように。しかし、冷静なふりをして答えた。

「僕には……親の決めた許嫁(いいなずけ)がいる」

「げっ! マジで? 今どきそんなのあるんだ。なんかお坊ちゃんとお嬢様の物語みたいじゃん」

 ――本当に、『今どき』って思われてもしょうがないよな。

 僕は内心、礼央の率直な意見に同意した。それに加え、僕には彼には言えない秘密がある。自分のセクシュアリティという、誰にも打ち明けられない真実。

 礼央は真剣な眼差しで僕を見つめた。

「でもさ、好きな人と一緒になれるのが一番幸せと思うんだよな。母さんも言ってたわ。『恋をしたら全力で』って」

 礼央はそう言うと少し恥ずかしそうに笑った。その笑顔の中に、どれほどの幸せが詰まっているのだろう。

 僕の心に礼央の言葉は、深く刺さった。これまで自分のセクシュアリティから逃げ、恋愛とも向き合わずに生きてきた。家の期待に応えること以外、考えたこともなかった。

 ――誰かを本気で好きになる……か。

 僕はチラリと横目で礼央を見た。

 夕日に染まる礼央の横顔があまりにも美しく、眩しすぎて、思わず目を細めた。心臓がどくんと跳ねる。もしかして、これが――。


 春の一大イベントである体育祭はトラブルもなく無事に終わった。

 後片付けも全て終わり、体育祭準備委員会の最後の会議が行われていた。教室に集まった委員たちの顔には、達成感と疲労感が入り混じっていた。

「皆さんのご協力のおかげで、本年度の体育祭も無事に終了しました。来年度はさらに良い体育祭にするために、改善点などありましたら出してください」

 僕は会議の司会進行役として、落ち着いた声で委員たちに呼びかけた。すると、次々と活発な意見が飛び交う。書記担当の役員が黒板に一つずつ丁寧に書き綴っていった。

 ある程度意見が出尽くした後、僕は締めの言葉を伝えた。

「皆さん、貴重なご意見ありがとうございました。これらの改善点をもとに、来年度はさらに充実した体育祭にしたいと思います。それではこの準備委員会は本日で散会といたします。ありがとうございました」

 僕の挨拶を聞くと、委員たちはガタガタと席を立って会議室を後にした。礼央だけが残り、僕の元にやってきて、柔らかな笑顔で言った。

「お疲れさん。もう生徒会長の役も終わり?」

「いや、まだ文化祭があるから……それで終わりかな」

 僕は微笑みながら答えた。礼央と二人きりになると、自然と笑顔がこぼれる。

「そっか。俺らよりちょっと長いのかー。生徒会って大変だな」

「礼央はインターハイに向けてだな」

 僕が自然に彼の名前を呼ぶと、礼央は驚いたように目を見開いた。

「凪……俺の名前、呼んでくれた……」

 ――あれ? 今まで呼んだことなかったか?

 感動して目を潤ませている礼央に、僕は思わず笑みを浮かべた。

「あれ? 僕と仲良くなりたかったんじゃなかったのか?」

「いや、もう、その通りなんだけどさ。いつも『君』って呼ばれてたから、すごく感動してる」

 そんなに感動することだろうかと首を傾げながらも、礼央の素直な反応に胸が温かくなる。

「これからも、名前で呼んでくれよな。あっ、やべっ! 練習行かなきゃ。じゃあな、凪!」

 礼央はまるで台風のようにあっという間に教室を出ていってしまった。僕は彼の後ろ姿を見送りながら、思わず口元を緩めた。

 ――礼央……楽しい人だな。


 会議の後片付けをさっさと終えて、僕は体育館へと足を運んだ。中ではバスケ部とバレー部が練習をしていた。掛け声やキュッとシューズの擦れる音、ボールの弾む音が、壁に反響している。

 体育館の入り口のドアに体を隠すように、僕は頭だけ出して中を覗き見た。

 ――これは、純粋に生徒会としての、視察の一環だ。

 なぜここに来てしまったのかと自問しながらも、目はバレー部の練習に釘付けになっていた。ちょうどその時、コートの中で礼央が高く飛び上がり、スパイクを打つ姿が見えた。

 バチンっ!

 凄まじい音を立てて、スパイクが相手コートに突き刺さった。その一瞬に、僕の心臓も高鳴る。

「ナイスキー!」

 チームメイトたちが礼央の周りに集まって、ハイタッチを交わしている。彼の表情は、いつもの屈託のない明るい笑顔とは違い、真剣で、鋭く、そして美しかった。鍛え上げられた肉体から溢れ出る力強さに、息を呑む。

 僕は礼央の男らしく力強い姿を見つめながら、胸の内に広がる高鳴りを抑えることができなかった。どくどくと耳元で脈打つ鼓動が、全身に響き渡る。

 ――いや、これはスポーツを見ているからだ。スパイクが決まって、興奮しているだけに決まっている。

 そう自分に言い聞かせながらも、視線は礼央から離れようとしなかった。彼の一挙手一投足に、魅了されてしまう。

 休憩の合間、礼央はチームメイトたちに次の指示を出していた。汗で濡れた前髪を掻き上げる姿に、胸が締め付けられる。

「次はBチームとCチームでワンセット試合形式で」

「はいっ!」

 部員たちの大きな返事が体育館中に響き渡る。礼央のそんな姿を見て、僕は彼のリーダーシップに感心した。いつも明るく無邪気な彼だが、バレーとなると別人のように凛々しい。

 だがどうしてだろう――彼に引き込まれてしまうのは。

 その時、礼央が水を飲みながらこちらへと視線を向けた。バチっと目が合ってしまう。

 僕は「しまった!」と慌ててドアの影に隠れたが、既に遅かった。

「凪!」

 礼央が手を振りながら僕に近づいてきた。逃げられない。

「え? 何? 見にきてくれたの?」

 汗に濡れた前髪をかきあげながら、礼央は驚くほど嬉しそうな表情で僕に尋ねてきた。その無邪気な喜びようが、胸を打つ。

「い、いや……ただ、通りかかっただけで……さっき、練習に行くと言ってたから――」

 練習を覗いていて、変に思われたのではないか……そう考えると、冷や汗が背中を伝った。

「見にきてくれたんだ! 嬉しいなぁ」

 汗で張り付いたウェアが、礼央の鍛え上げられた体を強調している。それを間近で見た僕は、胸のドキドキが抑えられず、視線を逸らした。

 ――違う、これは。絶対……。

 目を逸らして、「じゃあ……」とその場を立ち去ろうとすると、礼央が僕の腕を掴んで引き留めた。その温もりが、まるで電流のように僕の体を駆け抜ける。

「待って! 今度、練習試合あるんだ。凪、見にきてよ!」

「ぼ、僕は、バレーはあまりルールとか分からないし……」

 すると礼央は、まるで子供のようにはしゃいで言った。

「だったら、なおさら! バレーのこともっと知ってもらいたいし、面白いって思って欲しいからさ。ね? それに、俺のかっこいいところも見て欲しいし」

 人たらしなことを無邪気に述べる礼央は、眩しすぎる笑顔を僕に向けてきた。その表情に、断る理由が見つからなくなる。

「わ、分かった……」

 僕の言葉を聞いた礼央は、ぱあっと明るい笑顔を浮かべ、まるで花が開くように輝いた。

「絶対だよ! あ、俺、練習に戻らないと。じゃあな!」

 僕は走りながらコートに戻る礼央の後ろ姿を見つめた。その背中からは、喜びが溢れ出ているのが感じられて、思わず胸が温かくなる。

 ――これは友情、ただそれだけだ。

 だんだんと自分に言い聞かせる言葉に慣れてきたことが、どこか悲しかった。本当は自分でもわかっている。これは「友情」などという言葉では片付けられない感情だということを。


 梅雨前の貴重な晴れの日、僕と美月は父が贔屓にしている老舗料亭で結納を交わした。結局、僕は自分のセクシュアリティについて母に伝えることができず、このように結納の日を迎えてしまった。

 爽やかな風が室内に吹き抜ける中、僕の心の内はどんよりとした雲に覆われていた。いつもの完璧な息子の仮面をかぶりながらも、その笑顔は引きつっていた。

 滞りなく結納を終えた後、料亭の庭園を美月と二人で並んで歩いた。春の木々の緑が美しく、小鳥のさえずりが響く庭園。その美しさに反して、僕の心は重かった。

 美月は予想していたとおり、特に喜ぶ様子もなく、淡々とこの日を迎えていた。この日までに何度も彼女とは顔を合わせているが、お互い相手に対して恋愛感情がないのは明らかだった。僕たちは家の"駒"でしかないのだ。

「美月、よかったのか?」

 僕は何気なく今日の結納について尋ねた。その質問に、美月はどこか遠くを見るような目で答えた。

「……仕方ないよね。私たちの気持ちなんて、考えてくれる人たちじゃないし……」

 美月は人生に達観しているような静かな口調で言った。まるで自分の感情を凍結させたかのように。

「そう……だな……」

 僕は相槌を打ったものの、心の中がモヤモヤとしていた。それは自分が女性を愛することができないという事実により、美月を不幸にしてしまうかもしれないという懸念からだった。

 このことは、美月に伝えておく必要がある――そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れた気がした。

 意を決して、僕は口を開いた。

「美月、聞いて欲しいことがある」

「何?」

 美月は優雅に振袖の袂を押さえながら、風に揺れる黒髪を撫で付けた。その仕草に、生まれながらの上品さが滲み出ている。

「……僕は、結婚しても――君を愛することができない……」

 美月は驚きのあまり、目を大きく見開いた。その瞳に一瞬、混乱の色が浮かんだ。

「な……んで? 他に好きな人がいる……とか?」

 僕はゆっくりと首を振って否定した。拳をギュッと握る手のひらには、爪が食い込み、痛みが走る。

「……いや、好きな人がいるわけじゃない。僕は、女性が……愛せない」

 それを聞いた美月は、小さく息を呑み、口元を両手で覆った。その手はワナワナと小刻みに震えている。沈黙が二人の間に広がる。

「なん……で、今、それを……」

「ごめん……。本当は母さんに言おうとしたんだけど……言えなくて……。僕の心が弱いからだ……」

 僕は後悔と恥ずかしさで俯くしかできなかった。言葉にした瞬間、自分の本当の姿を曝け出したような気持ちになる。

 僕がゲイであると言うことを伝えたのが原因なのかは分からないが、結納の後すぐ行われる予定だった婚約パーティーは、朝比奈家のスケジュール調整が難しくなったという理由で延期された。その時期は未定とのことだった。僕はそのことに、小さな安堵を覚えた。

 結納の翌日、寮の自室に閉じこもっていると、次々と様々な思いが押し寄せてきて、落ち着かなかったため、街に出ることにした。普段は街歩きなどほとんどしないのだが、じっとしていると、美月のことや礼央のことが頭から離れなかった。

 街に出ると、新規オープンしたらしいカフェが目に留まった。週末にもかかわらず混み合っていたが、テラス席はいくつか空いていた。カフェラテを注文して、テラス席に腰かけた。バッグから本を取り出して開く。爽やかな初夏の風が吹き抜け、鬱々とした気分を少しだけ和らげてくれた。

 本を読んでいる時が一番心が休まる時間だった。物語の中に自分を投影して現実逃避することができるから。現実の自分から離れられる、数少ない瞬間。

 ゆったりと椅子の背もたれに体を預け、本のページをめくる。指先に触れる紙の感触が心地よかった。

 キリのいいところで本から目を上げて、何気なく店内を見渡した。すると、窓際の席に見覚えのある姿を見つけた。礼央だった。僕の心臓は大きく跳ね、思わず息を呑んだ。

 ――なんで礼央が、ここに?

 彼は今まで見たこともないような柔らかな笑顔で何かを話している。相手の方に目をやると、女の子と向かい合っていた。礼央は彼女がいると言っていたから、きっとその子だ。その光景を見た瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。

 ――なんだ、この感覚は……。

 僕は思わず胸を押さえた。息が詰まって、喉が締め付けられるような感覚。心臓が痛むような、奇妙な感情。

 礼央は今日はデートなのだろうか。その時、彼女の手が礼央の口元に伸びた。口についていたクリームを優しく拭い、ぺろっと舐める仕草。その後、礼央と彼女はくすくすと楽しそうに笑い合っていた。

 見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、目を逸らそうとする。でも体が言うことを聞かない。まるで磁石に引き寄せられるように、視線は二人に釘付けになった。

 なんであんなに楽しそうにしているんだ! 頭に血が上ったようにグラグラとしてきた。心臓を鷲掴みにされたような痛みと苦しさが広がる。

 ――まさか……これって、嫉妬?

 その感情を認識した途端、頬に熱が籠るのがわかった。自分の本当の気持ちに気づいてしまった。混乱と衝撃で、勢いよく席から立ち上がった。

 ガタン!

 その拍子に椅子が大きな音を立てて倒れた。周りの人たちが一斉に僕の方に視線を向ける。カフェの中の礼央たちも何事かと振り返った。

 僕は咄嗟に礼央たちに背を向け、その場から逃げるように立ち去り、急いで人ごみの中に紛れ込んだ。胸を押さえながら足早に歩く。

 カフェから十分に離れたところまで来ると、肩で息をしながら、壁に寄りかかった。頭のなかは混乱で一杯だった。

「こんな気持ち……初めてだ」

 はあ、はあと息を整えながら、礼央と彼女の様子を思い出してしまう。それだけで胸が苦しくて、息が詰まる。まるで重い鎖で胸を締め付けられているかのように。

 ――なんで……礼央たちのことを考えただけで、こんなに胸が苦しいんだ?

 まさか、これが恋なのか? 僕は自分の気持ちに向き合えずに天を仰いだ。今まで感じたことのない感情に、戸惑いと恐れが混ざり合った。


 体育祭が終わると、礼央と会う接点がなくなったからか、滅多に出会うことがなくなった。それはそれで、都合が良かった。礼央に会うと、彼女といた場面を思い出して胸が苦しくなってしまう。心が乱れる。気持ちを整理する時間が必要だった。

 体育館に一度だけバレー部の練習を見に行ってからは、足を運んでいない。だが、あの時のことを思い出しながら、生徒会室で書類整理をしていると、ふと礼央の言葉が蘇ってきた。

「そう言えば、練習試合があるって言ってたな……」

 確かそれは、今週末に行われる予定のはずだ。カフェでのことがあったが、約束は約束だ。

 絶対に来て欲しいと、あの明るい笑顔で言われたことを思い出し、僕は考え込んだ。自分の気持ちに正直になれば――行きたい。けれど……。

 ――僕なんかが、応援しに行ってもいいものだろうか……。

 そう思ったが、行きたいという思いが頭をもたげ、抑えきれなくなる。

「そっと見るだけなら、大丈夫か?」

 そう自分に言い聞かせて、練習試合に行くことに決めた。

 練習試合当日、僕は開始時間から少し遅れて会場に入った。場所がわからなかったわけではない。わざとだった。目立たないように、こっそりと。

 すでに試合は進行中で、スコアボードには22—21と刻まれていた。接戦だ。コート上では礼央が躍動していた。その額には汗が滲み、真剣な眼差しでチームメンバーに何か指示を飛ばしている。その姿に、胸が高鳴る。

 応援席には多くの人が集まっていた。その中に、この前カフェで礼央と一緒にいた彼女の姿も見つけた。彼女は最前列で、声援を送っていた。

「礼央ー! ファイトー!」

 彼女は礼央に向かって、熱のこもった声援を送る。礼央は彼女の方に顔を向けて、ガッツポーズで応えた。

 チクリ。

 胸の奥が痛む。まるで小さな針で突き刺されたように。

「鳴海先輩、かっこいいー!」

紗菜(さな)ちゃん、ほら、先輩の応援、もっと頑張って!」

 紗菜は頬を赤らめながら隣に座っている友人に言った。その恥じらう姿が、どこか愛らしかった。

「もうっ! ちゃんと応援してるからっ!」

「かっこいい彼氏が羨ましいわー」

 友人たちにからかわれながらも、紗菜の目は礼央を捉えて離さなかった。彼女の瞳には誇りと愛情が宿っていた。

 ――当然だよな。彼女なんだから……。でも、僕は、何の権利があってここに来たんだ?

 居た堪れなくなり、退席しようかと思った瞬間、ちょうど礼央がサーブをする場面だった。彼の眼差しは鋭く集中していて、その姿に思わず目が釘付けになる。

 バシッ!

 礼央の放ったサーブが相手コートに鋭く突き刺さった。力強い音が体育館中に響き渡る。

「ナイスサーブ! 礼央!」

 紗菜の応援が響き渡る。その声に少し苦い思いを抱きながらも、僕は試合に見入った。

 今まで僕はバレーの試合を真剣に見たことがなかった。しかし目の前で繰り広げられる駆け引きのような展開にいつしか引き込まれていった。バレーのルールなんて全く分からないのに、礼央の姿だけを必死で追っていた。

 スコアは24—24のデュース。先に二点先取した方が勝ちとなる。体育館全体に緊張感が漂っていた。

 相手チームからサーブが打ち込まれた。礼央のチームがブロックするも、そのボールは腕をするりと通り過ぎた。後ろの選手がそのボールを必死に受ける。セッターがそれを受けてトスを上げた。

「礼央っ!」

 礼央が高く飛び上がった。まるで空中で静止しているかのような、一瞬の浮遊感。時間が止まったように感じた。その姿は、まさに飛翔する鳥のように美しかった。

 鋭いスパイクが相手コートに突き刺さると、会場は大きな歓声に包まれた。興奮と喜びの声が体育館中に響き渡る。

「ナイスキー!」

 紗菜も興奮して立ち上がり、礼央に向かって大きな拍手を送っていた。彼女の喜ぶ姿を見て、複雑な思いが胸をよぎる。

 礼央はコートの中でチームメイトと喜ぶわけでもなく、紗菜を見て笑顔を見せるわけでもなく、真っ直ぐに僕の方を見つめた。視線がぶつかり合い、心臓が早鐘を打った。まるで世界が二人だけになったかのような感覚だ。

 礼央は僕に向かって指を指し、大きな声で言った。

「見てたか? 凪!」

 僕を見て満面の笑みを浮かべる礼央。その声が、騒がしい会場の中でも、まるで魔法のように僕の耳に届いた。その声を聞くと、胸の高まりが抑えられなくなった。

 僕は思わずその場に立ち上がってしまった。周りの人たちは何事かと僕に視線を向けてきたが、もはやそんなことは気にならなかった。その瞬間、僕はまるで礼央と二人きりの空間にいるかのような感覚に包まれた。

 ――もう、ダメだ……逃げられない――。

 この感情を否定することが、もはや不可能だと悟ってしまった。周りの視線も、家族の期待も、全てが遠くなっていく。

 僕は――礼央に恋をしている。