週末、僕は会社の会議のために自宅に戻った。高級住宅街の一角にある我が家は「白亜の家」と呼ばれている。純白の外壁と西洋建築を模した瀟洒な佇まいは、まるで異国の貴族の館のようだ。
門をくぐると、煉瓦を敷き詰めた小道が緩やかなカーブを描きながら玄関へと続いている。両脇には色とりどりの花が背の高さに合わせて植えられたイングリッシュガーデンが広がり、海外の庭園に迷い込んだような錯覚を覚える。
春の柔らかな陽光が庭園を優しく照らし、淡い色合いの花々が風に揺れていた。バラ園では蕾が膨らみ始め、ラベンダーは新緑のボールのような芽を出していた。庭師の丹精込めた手入れによって、どの植物も完璧な配置と状態を保っていた。
爽やかな風が庭を吹き抜けていったが、僕の心は窓のない閉ざされた部屋のようにどんよりとしていた。ここに帰るたびに感じる重圧感。自分の本当の姿を隠し、「完璧な息子」という仮面をつけなければならない場所。
深く息を吸い、仮面を装着する心の準備をした。口角を上げ、背筋を伸ばし、感情を押し殺して――。
「ただいま戻りました」
玄関ドアを開けると、父の秘書である佐藤が僕の帰りを待っていた。彼は丁寧に腰を折り、まるで執事のような所作で挨拶をした。
「おかえりなさいませ、凪様」
「佐藤さん、こんにちは」
僕は軽く頭を下げた。彼は父の右腕として長年仕えている人物で、志水家と関わる全ての人間を把握している。そのため横柄な態度は取れない。
「凪様、お父様からの伝言がございます。朝比奈家との結納の件ですが、一年早まりまして、来月執り行われることになりました」
僕の足は突然その場に凍りついた。言葉が耳に入ってきても、すぐには理解できなかった。
――結納が、一年早く? 僕がまだ高校を卒業する前に?
僕は喉の奥が乾いていくのを感じながら、かろうじて声を絞り出した。
「……理由は……、なんでしょうか?」
「はい。志水グループの新規プロジェクトにおきまして、朝比奈グループとの連携が急務となりまして……」
佐藤の口から淡々と事務的な説明が続いた。彼の言葉の端々から、僕と美月の結婚はただのビジネス上の取引に過ぎないのだと改めて痛感させられる。僕たちは駒でしかない。感情や希望など、企業間の利益の前では取るに足らないものだった。
胸の奥で怒りが燃え上がる。
――僕の気持ちは? 僕の将来は? 進学のことは? そんなことはどうでもいいというのか!
しかし表面上は、完璧に作り上げた微笑みを崩さない。
「承知しました」
佐藤はカバンから書類を取り出し、僕に手渡した。
「こちらが、今後のスケジュールでございます。赤字の日程は必ず押さえておいてください」
書類を受け取り、目を通すと、会議や式典、朝比奈家との顔合わせなど、予定が詳細に書き記されていた。高校生である僕に、これほど多くの会社関連の仕事を課すなんて……。
小さなため息が漏れそうになるのを必死に押し殺した。
「承知しました。必ず参加します。父に伝えておいてください」
佐藤は満足げに頷くと、丁寧に頭を下げて立ち去った。
彼の足音が遠ざかるのを確認してから、僕は重い鉛の靴を履いたような足取りで自室へと向かった。部屋に入るなり、窓辺に立ち、庭を見下ろした。
手入れの行き届いた庭園は、一本の雑草も生えていない。全てが計画通りに植えられ、剪定され、コントロールされている。まるで僕の人生のように。
――この家にいると、本当に息が詰まる……。
窓の外の空をゆっくりと流れる雲を見つめ、自由に漂う雲のようになれたらと切なく願った。しかし現実は、僕の人生は親によって整えられた庭のように、完全にコントロールされていた。
気持ちを落ち着かせようと、ソファに身を沈め、スマートフォンを取り出した。画面に映し出されたのは、先日の体育祭準備委員会の会議風景。生徒会の書記が送ってくれた写真だ。
そこには屈託のない笑顔の礼央が映っていた。彼は周囲の生徒たちと肩を組み、満面の笑みを浮かべている。その自然な表情と解放感に満ちた姿に、胸の奥が疼いた。
「自由に笑える人生って……どんな感じなんだろうな」
まるで遠い星を眺めるように、僕には手の届かない「自由」を羨ましく思った。
自宅での時間は、いつも決まりきったルーティンの連続だ。今回は会議に向けた資料の確認と、スピーチの原稿の推敲に時間を費やした。その合間に気分転換として本を読む。読書こそが、僕にとって唯一心から安らげる時間だった。
活字の並ぶページに没頭していると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
入室を許可すると、黒いドレスと白いエプロンを着たメイドの紗枝が入ってきた。
「凪様、お食事の準備が整いました」
紗枝は両親より少し年上の女性で、長年我が家で働いている。彼女の立ち居振る舞いには気品があり、言葉遣いも丁寧だ。
「紗枝さん、ありがとうございます」
礼を言い、食堂へと向かったが、その足取りは重かった。志水家の食事の時間は、楽しさとは無縁の厳格な儀式のようなものだ。幼い頃から、この時間が苦痛でしかなかった。
食堂に入ると、重厚なダイニングテーブルには完璧なテーブルセッティングがされていた。僕はいつもの席に着き、静かに両親の到着を待った。
母の絢子は僕にちらりと目を向けただけで向かいの席に着いた。父の圭一は厳格な表情で上座に着く。僕たち家族に目をくれることもなく、ただ当然のように自分の席に座る。
一流シェフが腕を振るった美しい料理が運ばれてきたが、僕はその味をほとんど感じない。ただ機械的に口に運ぶだけだ。
「最近の我がグループの株価の動向は悪くない」
カトラリーの音だけが響く中、父が口を開いた。冷たく事務的な口調で、まるでビジネスミーティングのようだ。
「凪、明日の取締役会では前列に座るように。朝比奈の令嬢との婚約者として、存在感を示さねばならん」
「......分かりました」
勇気を振り絞り、父に意見しようとした。
「あの......父さん、婚約の件ですが......」
父の鋭い目が僕を射抜いた。その冷たく威圧的な視線だけで、言葉が喉に詰まる。
「志水家の跡取りとして、家の繁栄のためには最適な選択だ。個人の感情など、関係ない」
冷酷な言葉が、刃のように僕の心を切り裂いた。母は何事もなかったかのように黙々と食事を続けている。
父も母も僕のことなど、一切関心がない。彼らの心は家業と社会的地位という氷の城壁に覆われていた。
ふとその時、礼央の太陽のような笑顔が瞼の裏に浮かんだ。真っ直ぐに僕を見つめる瞳。何の計算もなく、ただ純粋に友達になりたいと言ってくれた彼の言葉。
――彼の笑顔は、きっと優しい人たちに囲まれて育まれたものだろうな。
突然、礼央のことをもっと知りたいという欲求に駆られた。それは自分でも驚くほどの強い感情だった。
今まで、親に決められたレールを歩むことが「正しい」ことだと信じてきた。自分の感情は押し殺し、まるで操り人形のように振る舞う。感情の起伏は見せず、常に微笑みを絶やさない「完璧な息子」という仮面を被り続けてきた。
しかし礼央と出会ってから、その確信が揺らぎ始めていた。彼の前では、長年かけて作り上げた仮面がふいに剥がれ落ちそうになる。
それは彼が他の人と決定的に違うからだろう。ほとんどの人が僕に対して一定の距離を保ち、「生徒会長」という肩書きを通してしか僕を見ないのに対し、礼央は何のとまどいもなく僕の領域に踏み込んでくる。誰も「友達になりたい」と言わなかったのに、彼だけは違った。
――僕と仲良くしたって、面白くないのにな。
夕食の時に礼央のことを思い出してから、どうしても彼のことが頭から離れなかった。あの屈託のない笑顔がまた見たいと、心の奥底で切望している自分がいた。
胸の内がモヤモヤとして居心地が悪い。その感覚から逃れるように、僕は再び仕事に意識を向けた。
「もう一度、明日の会議の資料に目を通しておくか」
資料に手を伸ばすと、ぱらりと一枚の紙が手から滑り落ちた。
「おっと」
空中でキャッチしたその紙は、来月の婚約に関する詳細な資料だった。そこには"二十歳になったら、遅くとも大学卒業までには結婚すること"というスケジュールが明記されていた。
――僕、本当に大丈夫だろうか。
僕は自分のセクシュアリティについて、ずっと向き合うことから逃げてきた。だが心の奥底では、自分がゲイであることを認識していた。女性に恋愛感情を抱いたことは一度もない。
しかし男性にも、今まで心を動かされたことはなかった。感情の芽が出そうになれば、即座に摘み取ってきたからだ。
しかし今、結婚という現実が目前に迫り、もう逃げることができなくなった。結婚は跡取りを期待されるということ。つまり女性と……関係を持たなければならない。
その想像だけで、吐き気が込み上げてきた。
美月が嫌いなわけではない。彼女は聡明で、たおやかな素敵な女性だ。だが恋愛対象として見ることはできない。女性の肌に触れ、行為をするという考えだけで、体が拒絶反応を示す。
――美月を、抱くなんて無理だ。絶対に。
異性が好きな男子高校生なら、婚約者との夜を想像して胸を躍らせるのだろうが、僕にはそれが不可能だった。
そう考えると、美月の将来も不幸になることが約束されている。二人とも親の都合で結ばれ、愛のない家庭を築くことになる。美月にはもっと彼女を愛してくれる人との幸せを掴んでほしい。
長い思考の末、僕は自分のセクシュアリティについて母に打ち明けることを決意した。僕と美月の将来のために。
すぐさま母の執務室へと足を向けた。ここまで来る間、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。どんな言葉で伝えれば母が理解してくれるか、どう説明すれば婚約を破棄できるか――。
しかし現実として、僕と両親は親子というより、同じ屋根の下に住む他人のような関係だ。父は厳格で仕事一筋、母も複数の会社を任され常に忙しい。幼い頃から僕の世話はメイドに任せきりで、家族の会話も事務的なものばかり。
それでも、このことだけは親に言わなければならない。母の書斎の前で深呼吸を繰り返した。
――よし。言うんだ。
「僕は男性が好きで、女性に恋愛感情を持ったことがありません。だから、美月との婚約は……」
シンプルに。率直に。そう言葉にするだけでいい。
拳を強く握りしめ、勇気を振り絞ってドアをノックした。
「どうぞ」
冷たい声が返ってきた。ゆっくりとドアを開け、僕は母の執務室に足を踏み入れた。
広々とした書斎には高級な調度品が並び、壁一面の本棚には経営書や美術書が整然と並んでいた。母は大きな机に向かい、パソコンの画面に集中していた。
「母さん、失礼します。少しお話し、いいでしょうか?」
母はパソコンと資料に忙しく目を走らせ、僕に一瞥すらくれなかった。やや苛立ちを含んだ声色で返事をした。
「何かしら? 今、忙しいのよ」
「母さん……、僕から伝えたいことがあります」
それでも彼女はパソコンから目を離そうとしない。僕への関心のなさが痛いほど伝わってきた。
「志水グループの件? それとも、学校の成績のことかしら」
カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響き渡る。その音が僕の心臓を打ちつけ、鼓動が早くなっていった。
――言え! 今言うんだ!
喉が乾き、唾を飲み込むとのどぼとけが上下に動いた。握りしめた拳に汗が滲んでいる。
「僕は……」
言葉が喉まで出かかったとき、突然、頭の中に礼央の笑顔が浮かんだ。
――なぜ、今、彼の顔が?
礼央の自由な発言や行動は、いつも僕の心を震わせる。彼のように、僕も「自由」に生きられたら――そんな渇望が胸の奥で燃え始めていた。
僕がそんな思いに囚われていると、パソコンの画面を見つめる母の眉間に深い皺が寄った。
「凪、何を言いたいの? 今、仕事が立て込んでて忙しいのよ」
息子のことなど二の次だと言わんばかりの冷たい声色に、僕の中の何かが萎えていくのを感じた。これ見よがしにため息をつく母に、自分のセクシュアリティについて話しても無駄だと悟った。
「あの……幸せとはなんだと思いますか?」
本当に言いたかったことから逸れ、思いもよらない質問が口から零れた。母は鋭い眼差しでようやく僕に視線を向けた。
「……チッ。一体何を馬鹿なことを…」
小さな舌打ちの後、彼女は椅子の背もたれに体を預け、腕を組んで言い放った。
「幸せとは、家の繁栄よ。代々続く志水の名を守り、高めること。個人の感情に流されず、自分の与えられた責任を全うすること。私もあなたのお父さんも、今までそうやってきたの」
その冷徹な言葉に、僕は愕然とした。両親が喧嘩する姿を見たことがない理由が、今やっと分かった。それは互いを愛しているからではなく、お互いの役割を果たすためだけに動き、感情を交わすことがないからだった。
その気づきが、僕の心を氷のように冷たくさせた。この豪邸の中には「愛情」という名の温もりが存在しないのだ。
そんな当たり前のことに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。絶望感が全身を包み込み、体中から熱が奪われていくようだった。
「……申し訳ありません。取るに足らないことでした」
僕は深く頭を下げ、書斎を後にした。廊下に出ると、足取りが重くなった。
――やっぱり、言えない、か。
僕はこの家にとって、ただの駒でしかなく、自分の本心を語ることさえ許されていないのだ。これからも仮面を被り続け、親の敷いたレールの上を歩くしかない。
そう思うと、胸の奥に言葉にできない虚しさが広がっていった。
週末の会議を終えた後、僕は自宅には戻らず学生寮へと帰った。あの白亜の館の息苦しさから少しでも早く離れたかった。
しかし、寮に戻っても心の中には鉛がつまったように重く、暗い感情が渦巻いていた。
「僕には、誰かを好きになったり、自由にやりたいことをやったりすることが、できないのか……」
窓際に立ち、夜空を見上げながら呟いた。
――今までもそう思って生きてきたじゃないか。
自分にそう言い聞かせても、心のどこかで反発する感情が芽生えていた。そこに浮かんでくるのは、いつも礼央の屈託のない笑顔。きっと彼の自由さに憧れてしまっているのだろう。手に入らないものを求める、愚かな感情が。
これからもいつも通りに振る舞うしかないと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。けれど、なかなか眠りにつけなかった。
週明け、学校に向かう足取りは重かった。いつもは生徒会の仕事を考え、充実感と責任感で胸が満ちているのに、今日は違った。婚約が早まることが決まり、自分のセクシュアリティを母に伝えられなかったことが、僕の心を曇らせていた。
――今までと変わらないだけだ。いつもと同じ。だけど……、この仮面を被り続けるのも、もう疲れてきたな。
いつもの笑顔を作り、完璧な生徒会長の姿を保っても、今日は自分でも表情が暗いのを感じた。廊下から外を見ると、三年生が体育祭の競技の練習をしていた。
「そうか。今日は二人三脚の練習日だったな」
僕たちの高校の体育祭は基本的に縦割りのクラス対抗だが、学年間の交流を深める目的で、学年全体でシャッフルして二人三脚のペアを組むことになっていた。僕のパートナーは……鳴海礼央。なんという偶然か、それとも運命か。
なぜか今日は気が重く、練習をサボろうという考えが頭をよぎった。
――ダメだ、ダメだ。僕は生徒会長なのだから「完璧」でなければ……。
頭を振って、体操服に着替えるために教室へと足を向けた。すると、突然廊下に大きな声が響き渡った。
「おいっ! そこの美しき生徒会長っ!」
予想外の大声に、思わず肩がビクッと震えた。振り返ると、礼央が友人たちと笑いながら立っていた。
彼は僕と目が合うと、それほど離れていないのに、まるで遠く離れた友人を見つけたかのように大きく手を振った。その様子はまるで尻尾を振る大型犬のようで、思わず口元が緩んだ。
礼央は大股で飛び跳ねるように近づいてきた。
「凪! 今日も練習だよな。俺、すごく楽しみだったんだ」
僕は慌てて表情を引き締め、仮面を整えた。
「そうだね。僕も楽しみだったよ」
抑揚のない声で答えると、礼央が僕の顔を覗き込んできた。
「そう言う割には、楽しみって顔じゃないけど?」
彼の鋭い直感に、内心でドキッとした。先日のこともあり、礼央には心を見透かす力があるのではないかと思えるほどだ。
小さなため息をつき、正直に答えた。
「……少し、疲れてるだけ……」
それは本当だった。週末の家での出来事で神経をすり減らし、婚約前倒しのニュースに心が落ち着かなかった。
僕の暗い口調を察したのか、礼央は心配そうな目で見てきた。
「……そっか。いつも完璧な生徒会長でも疲れることもあるよな。実は俺も、今日はサボろうかなーって思ってたんだけどさ」
首の後ろをポリポリと掻きながら、彼は照れくさそうに笑った。それは僕に気を遣っているのだと分かった。
「でもさ、凪が行くって言うんなら、俺もサボるのやめる。だって俺ら、二人三脚のパートナーだからさ」
彼はにっと歯を見せて笑った。その無邪気な笑顔に、胸の奥が温かくなる。
「え? でも……無理しなくても……」
「いいっていいって。ほら、行こう!」
礼央は僕の腕を掴んで引っ張った。その勢いで、彼の手に持っていたスポーツドリンクが僕のシャツに跳ねた。
「…………」
僕は思わず、シャツについた染みを見つめた。少し甘い香りが僕の体温で立ち上ってくる。
「やべっ! ごめん! マジでわざとじゃないんだ……」
オロオロと焦りながら、彼は自分のタオルで僕のシャツを拭こうとした。いつも明るく自信に満ちた礼央がこんなに慌てる姿が、なぜか愛おしく思えて、思わず笑みがこぼれた。
「シミになるかな……。ちょっと水洗いしたほうがいいかも」
「そうだね」
僕は微笑みながら手洗い場まで行き、スポーツドリンクのついた部分を水でゴシゴシと洗った。幸い、シミになりそうな気配はなかった。
「ホント、ごめんな……」
「いいって。シミにならないみたいだし」
しおらしくうなだれる礼央の姿があまりにも普段と違って、思わず吹き出してしまった。すると礼央は目を丸くした。
「おっ! 凪、笑えるじゃん!」
彼もくすくすと笑い出し、やがて二人で笑い合っていた。
不思議だった。彼といるだけで、心が軽くなる。重苦しい思いも、押し殺してきた感情も、少しずつ溶けていくような気がした。
二人三脚の練習を終え、制服に着替えた後も、さっきのスポーツドリンクの出来事を思い出すたびに笑みがこぼれた。しかし「完璧な生徒会長」としての仮面を被っている間は、表情を抑えなければならない。本当は大声で笑いたいのに、微笑む程度に留めなければならない。
――あぁ……、彼みたいに自由に笑いたいな……。
一人で笑うことはできても、それは本当の意味での解放ではない。誰かと共に笑い、感情を共有できてこそ、本当の喜びがあるのだ。
着替えを終えた僕は、ふと思い立って屋上へと向かった。夕暮れ時の屋上は、昼間の喧騒から解放された静かな空間だった。ひんやりとした風が吹き抜け、梅雨前のカラっとした空気が肌に心地よい。
フェンスにもたれかかり、先ほどまでの二人三脚の練習を思い返していた。
礼央と二人、足をはちまきで結び、体をぴったりと寄せ合う感触。彼が僕の腰に手を回した時の温もり。耳元で「いち、に……」とリズムを刻む時の低い声。掛け声をかける際に耳に感じる彼の息遣い。うまくいったときに交わした笑顔。
思い出すだけで、心臓が早くなる気がした。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。取り出すと、美月からのメッセージだった。
『来月の婚約パーティー、よろしくお願いします』
彼女との婚約、そして将来の結婚。僕は彼女を幸せにすることができるだろうか? 愛することができるだろうか? 早まった婚約のことを考えると、胸が締め付けられた。
すると、生徒会のメンバーから別のメッセージが届いた。
『卒業アルバム用に撮った体育祭の練習風景。会長の笑顔が素敵だったので送ります』
そこには、僕と礼央が二人三脚の練習をしている写真が映っていた。お互いに見つめ合いながら、心から楽しそうに笑っている。いつも仮面で隠している僕の表情が、自然な笑顔に溢れていた。
どくん――。
心臓が大きく跳ねた。
「……まさか……」
突然の気づきに、鼓動が耳元で鳴り響く。
「違う、違う、絶対に違う!」
慌てて頭を振るが、スマートフォンを握る手に汗が滲んでいた。
「これは友情だ。ただ、それだけだ!」
――僕には、婚約者がいて、家の期待があって……。
これは一時的な気の迷いだ。きっと明日になれば忘れているに違いない。
必死に自分に言い聞かせるが、そうすればするほど、礼央のことが頭から離れなくなった。
「……礼央とは、距離を置こう……」
フェンスをギュッと強く握りしめる。陽が落ちた屋上では、空気がさらにひんやりと冷たくなっていた。
距離を置くと心の中で決意した途端、礼央の笑顔と楽しそうな笑い声が脳裏に浮かび上がった。
「……なんて皮肉なんだろうな……」
離れようとすればするほど、彼のことが頭から離れなくなる。
「でも、こんなに必死に否定するってことは……」
僕は息を呑んだ。胸の奥で、長い間抑え込んできた感情が少しずつ形を成し始めていた。
――僕は、本当は、もう……。
その先を考えるのが怖くて、僕は屋上を後にした。しかし、心の奥では既に答えが見えていた。それを認めたくないだけだった。
門をくぐると、煉瓦を敷き詰めた小道が緩やかなカーブを描きながら玄関へと続いている。両脇には色とりどりの花が背の高さに合わせて植えられたイングリッシュガーデンが広がり、海外の庭園に迷い込んだような錯覚を覚える。
春の柔らかな陽光が庭園を優しく照らし、淡い色合いの花々が風に揺れていた。バラ園では蕾が膨らみ始め、ラベンダーは新緑のボールのような芽を出していた。庭師の丹精込めた手入れによって、どの植物も完璧な配置と状態を保っていた。
爽やかな風が庭を吹き抜けていったが、僕の心は窓のない閉ざされた部屋のようにどんよりとしていた。ここに帰るたびに感じる重圧感。自分の本当の姿を隠し、「完璧な息子」という仮面をつけなければならない場所。
深く息を吸い、仮面を装着する心の準備をした。口角を上げ、背筋を伸ばし、感情を押し殺して――。
「ただいま戻りました」
玄関ドアを開けると、父の秘書である佐藤が僕の帰りを待っていた。彼は丁寧に腰を折り、まるで執事のような所作で挨拶をした。
「おかえりなさいませ、凪様」
「佐藤さん、こんにちは」
僕は軽く頭を下げた。彼は父の右腕として長年仕えている人物で、志水家と関わる全ての人間を把握している。そのため横柄な態度は取れない。
「凪様、お父様からの伝言がございます。朝比奈家との結納の件ですが、一年早まりまして、来月執り行われることになりました」
僕の足は突然その場に凍りついた。言葉が耳に入ってきても、すぐには理解できなかった。
――結納が、一年早く? 僕がまだ高校を卒業する前に?
僕は喉の奥が乾いていくのを感じながら、かろうじて声を絞り出した。
「……理由は……、なんでしょうか?」
「はい。志水グループの新規プロジェクトにおきまして、朝比奈グループとの連携が急務となりまして……」
佐藤の口から淡々と事務的な説明が続いた。彼の言葉の端々から、僕と美月の結婚はただのビジネス上の取引に過ぎないのだと改めて痛感させられる。僕たちは駒でしかない。感情や希望など、企業間の利益の前では取るに足らないものだった。
胸の奥で怒りが燃え上がる。
――僕の気持ちは? 僕の将来は? 進学のことは? そんなことはどうでもいいというのか!
しかし表面上は、完璧に作り上げた微笑みを崩さない。
「承知しました」
佐藤はカバンから書類を取り出し、僕に手渡した。
「こちらが、今後のスケジュールでございます。赤字の日程は必ず押さえておいてください」
書類を受け取り、目を通すと、会議や式典、朝比奈家との顔合わせなど、予定が詳細に書き記されていた。高校生である僕に、これほど多くの会社関連の仕事を課すなんて……。
小さなため息が漏れそうになるのを必死に押し殺した。
「承知しました。必ず参加します。父に伝えておいてください」
佐藤は満足げに頷くと、丁寧に頭を下げて立ち去った。
彼の足音が遠ざかるのを確認してから、僕は重い鉛の靴を履いたような足取りで自室へと向かった。部屋に入るなり、窓辺に立ち、庭を見下ろした。
手入れの行き届いた庭園は、一本の雑草も生えていない。全てが計画通りに植えられ、剪定され、コントロールされている。まるで僕の人生のように。
――この家にいると、本当に息が詰まる……。
窓の外の空をゆっくりと流れる雲を見つめ、自由に漂う雲のようになれたらと切なく願った。しかし現実は、僕の人生は親によって整えられた庭のように、完全にコントロールされていた。
気持ちを落ち着かせようと、ソファに身を沈め、スマートフォンを取り出した。画面に映し出されたのは、先日の体育祭準備委員会の会議風景。生徒会の書記が送ってくれた写真だ。
そこには屈託のない笑顔の礼央が映っていた。彼は周囲の生徒たちと肩を組み、満面の笑みを浮かべている。その自然な表情と解放感に満ちた姿に、胸の奥が疼いた。
「自由に笑える人生って……どんな感じなんだろうな」
まるで遠い星を眺めるように、僕には手の届かない「自由」を羨ましく思った。
自宅での時間は、いつも決まりきったルーティンの連続だ。今回は会議に向けた資料の確認と、スピーチの原稿の推敲に時間を費やした。その合間に気分転換として本を読む。読書こそが、僕にとって唯一心から安らげる時間だった。
活字の並ぶページに没頭していると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
入室を許可すると、黒いドレスと白いエプロンを着たメイドの紗枝が入ってきた。
「凪様、お食事の準備が整いました」
紗枝は両親より少し年上の女性で、長年我が家で働いている。彼女の立ち居振る舞いには気品があり、言葉遣いも丁寧だ。
「紗枝さん、ありがとうございます」
礼を言い、食堂へと向かったが、その足取りは重かった。志水家の食事の時間は、楽しさとは無縁の厳格な儀式のようなものだ。幼い頃から、この時間が苦痛でしかなかった。
食堂に入ると、重厚なダイニングテーブルには完璧なテーブルセッティングがされていた。僕はいつもの席に着き、静かに両親の到着を待った。
母の絢子は僕にちらりと目を向けただけで向かいの席に着いた。父の圭一は厳格な表情で上座に着く。僕たち家族に目をくれることもなく、ただ当然のように自分の席に座る。
一流シェフが腕を振るった美しい料理が運ばれてきたが、僕はその味をほとんど感じない。ただ機械的に口に運ぶだけだ。
「最近の我がグループの株価の動向は悪くない」
カトラリーの音だけが響く中、父が口を開いた。冷たく事務的な口調で、まるでビジネスミーティングのようだ。
「凪、明日の取締役会では前列に座るように。朝比奈の令嬢との婚約者として、存在感を示さねばならん」
「......分かりました」
勇気を振り絞り、父に意見しようとした。
「あの......父さん、婚約の件ですが......」
父の鋭い目が僕を射抜いた。その冷たく威圧的な視線だけで、言葉が喉に詰まる。
「志水家の跡取りとして、家の繁栄のためには最適な選択だ。個人の感情など、関係ない」
冷酷な言葉が、刃のように僕の心を切り裂いた。母は何事もなかったかのように黙々と食事を続けている。
父も母も僕のことなど、一切関心がない。彼らの心は家業と社会的地位という氷の城壁に覆われていた。
ふとその時、礼央の太陽のような笑顔が瞼の裏に浮かんだ。真っ直ぐに僕を見つめる瞳。何の計算もなく、ただ純粋に友達になりたいと言ってくれた彼の言葉。
――彼の笑顔は、きっと優しい人たちに囲まれて育まれたものだろうな。
突然、礼央のことをもっと知りたいという欲求に駆られた。それは自分でも驚くほどの強い感情だった。
今まで、親に決められたレールを歩むことが「正しい」ことだと信じてきた。自分の感情は押し殺し、まるで操り人形のように振る舞う。感情の起伏は見せず、常に微笑みを絶やさない「完璧な息子」という仮面を被り続けてきた。
しかし礼央と出会ってから、その確信が揺らぎ始めていた。彼の前では、長年かけて作り上げた仮面がふいに剥がれ落ちそうになる。
それは彼が他の人と決定的に違うからだろう。ほとんどの人が僕に対して一定の距離を保ち、「生徒会長」という肩書きを通してしか僕を見ないのに対し、礼央は何のとまどいもなく僕の領域に踏み込んでくる。誰も「友達になりたい」と言わなかったのに、彼だけは違った。
――僕と仲良くしたって、面白くないのにな。
夕食の時に礼央のことを思い出してから、どうしても彼のことが頭から離れなかった。あの屈託のない笑顔がまた見たいと、心の奥底で切望している自分がいた。
胸の内がモヤモヤとして居心地が悪い。その感覚から逃れるように、僕は再び仕事に意識を向けた。
「もう一度、明日の会議の資料に目を通しておくか」
資料に手を伸ばすと、ぱらりと一枚の紙が手から滑り落ちた。
「おっと」
空中でキャッチしたその紙は、来月の婚約に関する詳細な資料だった。そこには"二十歳になったら、遅くとも大学卒業までには結婚すること"というスケジュールが明記されていた。
――僕、本当に大丈夫だろうか。
僕は自分のセクシュアリティについて、ずっと向き合うことから逃げてきた。だが心の奥底では、自分がゲイであることを認識していた。女性に恋愛感情を抱いたことは一度もない。
しかし男性にも、今まで心を動かされたことはなかった。感情の芽が出そうになれば、即座に摘み取ってきたからだ。
しかし今、結婚という現実が目前に迫り、もう逃げることができなくなった。結婚は跡取りを期待されるということ。つまり女性と……関係を持たなければならない。
その想像だけで、吐き気が込み上げてきた。
美月が嫌いなわけではない。彼女は聡明で、たおやかな素敵な女性だ。だが恋愛対象として見ることはできない。女性の肌に触れ、行為をするという考えだけで、体が拒絶反応を示す。
――美月を、抱くなんて無理だ。絶対に。
異性が好きな男子高校生なら、婚約者との夜を想像して胸を躍らせるのだろうが、僕にはそれが不可能だった。
そう考えると、美月の将来も不幸になることが約束されている。二人とも親の都合で結ばれ、愛のない家庭を築くことになる。美月にはもっと彼女を愛してくれる人との幸せを掴んでほしい。
長い思考の末、僕は自分のセクシュアリティについて母に打ち明けることを決意した。僕と美月の将来のために。
すぐさま母の執務室へと足を向けた。ここまで来る間、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。どんな言葉で伝えれば母が理解してくれるか、どう説明すれば婚約を破棄できるか――。
しかし現実として、僕と両親は親子というより、同じ屋根の下に住む他人のような関係だ。父は厳格で仕事一筋、母も複数の会社を任され常に忙しい。幼い頃から僕の世話はメイドに任せきりで、家族の会話も事務的なものばかり。
それでも、このことだけは親に言わなければならない。母の書斎の前で深呼吸を繰り返した。
――よし。言うんだ。
「僕は男性が好きで、女性に恋愛感情を持ったことがありません。だから、美月との婚約は……」
シンプルに。率直に。そう言葉にするだけでいい。
拳を強く握りしめ、勇気を振り絞ってドアをノックした。
「どうぞ」
冷たい声が返ってきた。ゆっくりとドアを開け、僕は母の執務室に足を踏み入れた。
広々とした書斎には高級な調度品が並び、壁一面の本棚には経営書や美術書が整然と並んでいた。母は大きな机に向かい、パソコンの画面に集中していた。
「母さん、失礼します。少しお話し、いいでしょうか?」
母はパソコンと資料に忙しく目を走らせ、僕に一瞥すらくれなかった。やや苛立ちを含んだ声色で返事をした。
「何かしら? 今、忙しいのよ」
「母さん……、僕から伝えたいことがあります」
それでも彼女はパソコンから目を離そうとしない。僕への関心のなさが痛いほど伝わってきた。
「志水グループの件? それとも、学校の成績のことかしら」
カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響き渡る。その音が僕の心臓を打ちつけ、鼓動が早くなっていった。
――言え! 今言うんだ!
喉が乾き、唾を飲み込むとのどぼとけが上下に動いた。握りしめた拳に汗が滲んでいる。
「僕は……」
言葉が喉まで出かかったとき、突然、頭の中に礼央の笑顔が浮かんだ。
――なぜ、今、彼の顔が?
礼央の自由な発言や行動は、いつも僕の心を震わせる。彼のように、僕も「自由」に生きられたら――そんな渇望が胸の奥で燃え始めていた。
僕がそんな思いに囚われていると、パソコンの画面を見つめる母の眉間に深い皺が寄った。
「凪、何を言いたいの? 今、仕事が立て込んでて忙しいのよ」
息子のことなど二の次だと言わんばかりの冷たい声色に、僕の中の何かが萎えていくのを感じた。これ見よがしにため息をつく母に、自分のセクシュアリティについて話しても無駄だと悟った。
「あの……幸せとはなんだと思いますか?」
本当に言いたかったことから逸れ、思いもよらない質問が口から零れた。母は鋭い眼差しでようやく僕に視線を向けた。
「……チッ。一体何を馬鹿なことを…」
小さな舌打ちの後、彼女は椅子の背もたれに体を預け、腕を組んで言い放った。
「幸せとは、家の繁栄よ。代々続く志水の名を守り、高めること。個人の感情に流されず、自分の与えられた責任を全うすること。私もあなたのお父さんも、今までそうやってきたの」
その冷徹な言葉に、僕は愕然とした。両親が喧嘩する姿を見たことがない理由が、今やっと分かった。それは互いを愛しているからではなく、お互いの役割を果たすためだけに動き、感情を交わすことがないからだった。
その気づきが、僕の心を氷のように冷たくさせた。この豪邸の中には「愛情」という名の温もりが存在しないのだ。
そんな当たり前のことに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。絶望感が全身を包み込み、体中から熱が奪われていくようだった。
「……申し訳ありません。取るに足らないことでした」
僕は深く頭を下げ、書斎を後にした。廊下に出ると、足取りが重くなった。
――やっぱり、言えない、か。
僕はこの家にとって、ただの駒でしかなく、自分の本心を語ることさえ許されていないのだ。これからも仮面を被り続け、親の敷いたレールの上を歩くしかない。
そう思うと、胸の奥に言葉にできない虚しさが広がっていった。
週末の会議を終えた後、僕は自宅には戻らず学生寮へと帰った。あの白亜の館の息苦しさから少しでも早く離れたかった。
しかし、寮に戻っても心の中には鉛がつまったように重く、暗い感情が渦巻いていた。
「僕には、誰かを好きになったり、自由にやりたいことをやったりすることが、できないのか……」
窓際に立ち、夜空を見上げながら呟いた。
――今までもそう思って生きてきたじゃないか。
自分にそう言い聞かせても、心のどこかで反発する感情が芽生えていた。そこに浮かんでくるのは、いつも礼央の屈託のない笑顔。きっと彼の自由さに憧れてしまっているのだろう。手に入らないものを求める、愚かな感情が。
これからもいつも通りに振る舞うしかないと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。けれど、なかなか眠りにつけなかった。
週明け、学校に向かう足取りは重かった。いつもは生徒会の仕事を考え、充実感と責任感で胸が満ちているのに、今日は違った。婚約が早まることが決まり、自分のセクシュアリティを母に伝えられなかったことが、僕の心を曇らせていた。
――今までと変わらないだけだ。いつもと同じ。だけど……、この仮面を被り続けるのも、もう疲れてきたな。
いつもの笑顔を作り、完璧な生徒会長の姿を保っても、今日は自分でも表情が暗いのを感じた。廊下から外を見ると、三年生が体育祭の競技の練習をしていた。
「そうか。今日は二人三脚の練習日だったな」
僕たちの高校の体育祭は基本的に縦割りのクラス対抗だが、学年間の交流を深める目的で、学年全体でシャッフルして二人三脚のペアを組むことになっていた。僕のパートナーは……鳴海礼央。なんという偶然か、それとも運命か。
なぜか今日は気が重く、練習をサボろうという考えが頭をよぎった。
――ダメだ、ダメだ。僕は生徒会長なのだから「完璧」でなければ……。
頭を振って、体操服に着替えるために教室へと足を向けた。すると、突然廊下に大きな声が響き渡った。
「おいっ! そこの美しき生徒会長っ!」
予想外の大声に、思わず肩がビクッと震えた。振り返ると、礼央が友人たちと笑いながら立っていた。
彼は僕と目が合うと、それほど離れていないのに、まるで遠く離れた友人を見つけたかのように大きく手を振った。その様子はまるで尻尾を振る大型犬のようで、思わず口元が緩んだ。
礼央は大股で飛び跳ねるように近づいてきた。
「凪! 今日も練習だよな。俺、すごく楽しみだったんだ」
僕は慌てて表情を引き締め、仮面を整えた。
「そうだね。僕も楽しみだったよ」
抑揚のない声で答えると、礼央が僕の顔を覗き込んできた。
「そう言う割には、楽しみって顔じゃないけど?」
彼の鋭い直感に、内心でドキッとした。先日のこともあり、礼央には心を見透かす力があるのではないかと思えるほどだ。
小さなため息をつき、正直に答えた。
「……少し、疲れてるだけ……」
それは本当だった。週末の家での出来事で神経をすり減らし、婚約前倒しのニュースに心が落ち着かなかった。
僕の暗い口調を察したのか、礼央は心配そうな目で見てきた。
「……そっか。いつも完璧な生徒会長でも疲れることもあるよな。実は俺も、今日はサボろうかなーって思ってたんだけどさ」
首の後ろをポリポリと掻きながら、彼は照れくさそうに笑った。それは僕に気を遣っているのだと分かった。
「でもさ、凪が行くって言うんなら、俺もサボるのやめる。だって俺ら、二人三脚のパートナーだからさ」
彼はにっと歯を見せて笑った。その無邪気な笑顔に、胸の奥が温かくなる。
「え? でも……無理しなくても……」
「いいっていいって。ほら、行こう!」
礼央は僕の腕を掴んで引っ張った。その勢いで、彼の手に持っていたスポーツドリンクが僕のシャツに跳ねた。
「…………」
僕は思わず、シャツについた染みを見つめた。少し甘い香りが僕の体温で立ち上ってくる。
「やべっ! ごめん! マジでわざとじゃないんだ……」
オロオロと焦りながら、彼は自分のタオルで僕のシャツを拭こうとした。いつも明るく自信に満ちた礼央がこんなに慌てる姿が、なぜか愛おしく思えて、思わず笑みがこぼれた。
「シミになるかな……。ちょっと水洗いしたほうがいいかも」
「そうだね」
僕は微笑みながら手洗い場まで行き、スポーツドリンクのついた部分を水でゴシゴシと洗った。幸い、シミになりそうな気配はなかった。
「ホント、ごめんな……」
「いいって。シミにならないみたいだし」
しおらしくうなだれる礼央の姿があまりにも普段と違って、思わず吹き出してしまった。すると礼央は目を丸くした。
「おっ! 凪、笑えるじゃん!」
彼もくすくすと笑い出し、やがて二人で笑い合っていた。
不思議だった。彼といるだけで、心が軽くなる。重苦しい思いも、押し殺してきた感情も、少しずつ溶けていくような気がした。
二人三脚の練習を終え、制服に着替えた後も、さっきのスポーツドリンクの出来事を思い出すたびに笑みがこぼれた。しかし「完璧な生徒会長」としての仮面を被っている間は、表情を抑えなければならない。本当は大声で笑いたいのに、微笑む程度に留めなければならない。
――あぁ……、彼みたいに自由に笑いたいな……。
一人で笑うことはできても、それは本当の意味での解放ではない。誰かと共に笑い、感情を共有できてこそ、本当の喜びがあるのだ。
着替えを終えた僕は、ふと思い立って屋上へと向かった。夕暮れ時の屋上は、昼間の喧騒から解放された静かな空間だった。ひんやりとした風が吹き抜け、梅雨前のカラっとした空気が肌に心地よい。
フェンスにもたれかかり、先ほどまでの二人三脚の練習を思い返していた。
礼央と二人、足をはちまきで結び、体をぴったりと寄せ合う感触。彼が僕の腰に手を回した時の温もり。耳元で「いち、に……」とリズムを刻む時の低い声。掛け声をかける際に耳に感じる彼の息遣い。うまくいったときに交わした笑顔。
思い出すだけで、心臓が早くなる気がした。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。取り出すと、美月からのメッセージだった。
『来月の婚約パーティー、よろしくお願いします』
彼女との婚約、そして将来の結婚。僕は彼女を幸せにすることができるだろうか? 愛することができるだろうか? 早まった婚約のことを考えると、胸が締め付けられた。
すると、生徒会のメンバーから別のメッセージが届いた。
『卒業アルバム用に撮った体育祭の練習風景。会長の笑顔が素敵だったので送ります』
そこには、僕と礼央が二人三脚の練習をしている写真が映っていた。お互いに見つめ合いながら、心から楽しそうに笑っている。いつも仮面で隠している僕の表情が、自然な笑顔に溢れていた。
どくん――。
心臓が大きく跳ねた。
「……まさか……」
突然の気づきに、鼓動が耳元で鳴り響く。
「違う、違う、絶対に違う!」
慌てて頭を振るが、スマートフォンを握る手に汗が滲んでいた。
「これは友情だ。ただ、それだけだ!」
――僕には、婚約者がいて、家の期待があって……。
これは一時的な気の迷いだ。きっと明日になれば忘れているに違いない。
必死に自分に言い聞かせるが、そうすればするほど、礼央のことが頭から離れなくなった。
「……礼央とは、距離を置こう……」
フェンスをギュッと強く握りしめる。陽が落ちた屋上では、空気がさらにひんやりと冷たくなっていた。
距離を置くと心の中で決意した途端、礼央の笑顔と楽しそうな笑い声が脳裏に浮かび上がった。
「……なんて皮肉なんだろうな……」
離れようとすればするほど、彼のことが頭から離れなくなる。
「でも、こんなに必死に否定するってことは……」
僕は息を呑んだ。胸の奥で、長い間抑え込んできた感情が少しずつ形を成し始めていた。
――僕は、本当は、もう……。
その先を考えるのが怖くて、僕は屋上を後にした。しかし、心の奥では既に答えが見えていた。それを認めたくないだけだった。



