新学年の始まりを告げる春風が、桜の花びらを纏って校舎の窓を軽やかに叩いていた。四月の柔らかな日差しが降り注ぐ中、生徒たちが初めての全校集会のために体育館へと集まっていく。僕はその光景を少し離れた廊下から、静かに眺めていた。

 冷たく澄んだ空気に包まれた体育館には、生徒たちの活気ある声が響き渡っている。クラスメイトたちが春休みの思い出話に花を咲かせる中、僕は生徒会長として完璧な立ち振る舞いを意識しながら、静かに自分の位置につく。体の芯にある緊張感を隠すように、背筋を伸ばし、誰にでも向けられる穏やかな微笑みを浮かべた。

 身に纏うのは、いつもの”仮面”。どんな時も崩れることのない、完璧な志水凪の表情。

「それでは、新年度最初の生徒集会を始めます」

 司会役の生徒の声が体育館に響き渡ると、それまでざわついていた場内が一気に静まり返った。まるで一瞬にして全ての音が吸い込まれたかのようだ。

「最初に、校長先生からご挨拶をいただきます」

 壇上に現れた校長に小さなざわめきが広がる。北翔学園の校長は四十代前半と若く、生徒からの信頼も厚い。彼が口を開くと、体育館の空気がほんの少し柔らかくなった。

「えー、新年度になり、君たちは新しいクラスになったけど、もう慣れたかな?」

 校長は学生の気持ちをよく理解している人物で、いつも簡潔で心に届く話をしてくれる。生徒たちの表情が和らぐのが見て取れた。

 遠くの方で、小さな囁き声が聞こえる。

「今日も話短めで終わってくれるかな?」

「大丈夫だろ? 校長先生、俺らの気持ち、よく分かってるし」

 僕は声のした方を振り向いたが、自分の位置からは遠すぎて顔を特定できない。本来なら生徒会長として注意すべき場面だが、この距離では難しい。僕は小さく息を吐き、再び前を向いた。

 予想通り、校長の挨拶はあっという間に終わり、生徒たちの顔には安堵の表情が浮かんだ。次は僕の番だ。

「それでは次に、生徒会長からの挨拶です」

 僕は司会のアナウンスを合図に、ゆっくりと壇上へと足を進めた。一歩一歩、靴音を立てないよう意識しながら。いつものように、体育館にはざわめきが広がる。

「あー、志水先輩、今日もかっこいい!」

「完璧だよなー、さすが生徒会長」

 ――また始まった。

 耳に入る囁きに、僕は内心で小さくため息をついた。でも、表情には出さない。いつもの”笑顔"を絶やさないように、丁寧に礼をして挨拶を始める。

「新学期を迎え、私たち北翔学園は新たな一歩を踏み出します……」

 準備していた言葉が、機械のように滑らかに口から紡ぎ出される。自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感覚。

 その時だった。

 体育館の片隅、三年一組の列から、くすくすという笑い声が漏れてきた。無意識に目を向けると、男子生徒数名が頭を寄せ合って何かを話している。本来なら注意すべき場面だが、その声が不思議と耳に心地よく響いた。真っ直ぐで、どこか温かみのある声色。

 僕の胸に、小さな波紋が広がった。何だろう、この感覚は。今まで感じたことのない、心の揺らぎに戸惑いを覚える。

 挨拶を終え、僕は再び自分のクラスの列に戻った。先ほどの笑い声がした一組の方へ、さりげなく視線を向ける。まだあの生徒たちは話をしているようだ。僕のいる十組とは体育館の端と端。声をかけることもできず、そっと舌打ちをした。

 集会が終わり、生徒たちが教室へと戻っていく中、僕は背筋を伸ばしたまま最後まで立ち尽くしていた。その時、後ろから明るく弾むような声が聞こえてきた。

「礼央、お前この前の春季大会、すごかったな!」

「ハハっ! まあな。でも、俺一人の実力というより、チームのおかげだけどな。今度の試合はもっと頑張るから、楽しみにしとけよ」

 声のした方へ振り向くと、一人の男子生徒が自信に満ちた表情で友人と話をしていた。短い黒髪が爽やかに風になびき、背筋の伸びた姿勢で立っている。その明るい笑顔に、思わず見とれてしまう。

「さすが、バレー部のエースだな! 今年のインターハイ、バレー部の活躍楽しみにしてるぞ」

 バレー部のエース——あの短髪の明るい笑顔の持ち主が、例の"鳴海礼央(なるみれお)"か。

 その時、礼央がこちらへ顔を向けた。瞬間、目が合った。

 その一瞬、時間が止まったような感覚に陥る。礼央の瞳は、まるで星を閉じ込めたようにキラキラと輝いていて、眩いばかりの光を放っていた。その光に引き込まれそうになる自分を感じる。

 礼央は僕と目が合うと、にっこりと微笑んだ。あまりにも眩しい笑顔に、僕は咄嗟に目を逸らした。

 突然、胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じる。

 ――なんだ、これは……。目が合っただけなのに。

 頬に熱が集まってくるのを感じ、思わず俯いた。そして他の生徒たちに紛れるように、体育館を後にした。

 目が合っただけなのに、長年かけて作り上げてきた完璧な仮面が、少しだけ剥がれ落ちる感覚。それを堪えるように、僕は唇を引き結び、拳を強く握りしめた。

 春の日差しが差し込む窓辺を通り過ぎながら、僕は自分の影をじっと見つめた。小さく揺れる影は、いつもと同じ形をしているはずなのに、どこか違って見えた。


 生徒会には多くの役割がある。学校をより良くするための改革を推進し、先生と生徒の架け橋となり、行事の運営に携わる。特に春は体育祭の時期。僕は書類の束を手に、その日も放課後の生徒会室へと向かっていた。

「春季行事予定表が十五部、各委員会名簿が二十四部、あとは……」

 頭の中で印刷すべき書類を整理しながら廊下を歩いていると、突然、後ろから誰かが勢いよくぶつかってきた。手元から書類が宙を舞い、廊下一面に散乱する。

「あっ! ごめん! 俺、すごい急いでて……」

 振り返ると、そこにはバレー部のエース、鳴海礼央の姿があった。彼の表情には焦りの色が滲んでいる。いつも見せている太陽のような笑顔とは違う表情が、なぜか新鮮に映った。

 彼はすぐにしゃがみ込み、散らばった書類を拾い始めた。その仕草に不思議な優しさを感じる。

「急いでいるのなら、別にいいですよ。大したことないので」

 僕は仮面に貼り付けた笑顔で言ったが、礼央は首を振った。

「いや、ダメだって。俺がぶつかったんだから」

 彼は真剣な眼差しで僕を見上げた。

「生徒会長、怪我とかない? ほら、俺、結構ガタイがいいだろ? 痛くなかった?」

 彼の無邪気な笑顔と率直な言葉に、僕は一瞬言葉を失った。こんなに気軽に話しかけてくる人がいるなんて。

 僕に話しかける生徒は、いつも少し遠慮がちだ。それは生徒会長という立場のせいなのか、それとも僕自身が無意識に壁を作っているからなのか--。

 礼央の姿を見つめていると、彼の横顔が夕陽に照らされ、まるで太陽そのもののように輝いて見えた。

 最後の一枚の書類に手を伸ばした時、礼央も同時にそれに手を伸ばした。指先が触れる。僕は思わず手を引っ込めた。それが恥ずかしくて、俯いてしまう。

「はい、これで最後だよな?」

 礼央が最後の書類を差し出す。僕はそれを受け取り、微かに頭を下げた。

「手伝ってくれてありがとう。それでは」

 立ち去ろうとする僕の袖を、礼央が掴んだ。

「……え?」

 予想外の行動に、僕は驚いて振り返った。

「ねぇ、生徒会長。名前、なんだっけ?」

 その質問に、僕は目を見開いた。北翔学園で僕の名前を知らない人がいるなんて……。

「僕は三年十組の志水凪です」

 僕が答えると、礼央は笑顔で右手を差し出してきた。

「俺は、一組の鳴海礼央。みんな礼央って呼んでるから、凪も俺のこと、礼央って呼んで」

 礼央は何の躊躇いもなく、僕の名前を「凪」と呼んだ。学校では生徒会長か、志水君、後輩からは志水先輩としか呼ばれたことがない。その親しみのある呼び方が、どこか温かく感じられた。

 ――まさか、下の名前で呼ばれるなんて……。

 僕は口元を緩め、戸惑いながらも礼央が差し出した手を握った。

「よろしくお願いします。礼央」

 僕が「礼央」と呼ぶと、彼は満面の笑みを浮かべ、力強く手を握り返してきた。その手のひらから伝わる温もりが、僕の胸の奥まで染み込んでくるようだった。

「それにしても、凪って生徒会長だから近寄りがたい存在かと思ってたけど……意外と可愛いんだな」

「……そういうこと、軽々しく言うのは、どうかと思いますけど……」

 思わず声が上ずってしまう。頬が熱くなるのを感じた。

「ハハっ! ごめんごめん。つい本音が出た」

 あっけらかんと笑う礼央を見つめながら、僕は心の中で小さく呟いた。

 ――なんて不思議な人なんだろう。

「あ、俺、部活に行かなきゃいけないんだった。今日はぶつかってごめんな! またな!」

 彼は手を振り、風のように走り去って行った。本来なら「廊下は走らないように!」と注意するところだが、彼と握手した手のひらが妙に熱を持っていて、その言葉が喉に引っかかったままだった。

「不思議な魅力のある人だったな……」

 僕は手のひらを見つめ、そこに残る彼の温もりを静かに握りしめた。春の柔らかな光が廊下に差し込み、僕の影を長く伸ばしていた。


 体育祭が近づき、準備委員会が開催された。生徒会役員のほかに、各運動部の部長と各クラスの委員長で構成されるこの委員会には、約五十人の生徒が集まっている。緊張感の漂う生徒会室で、僕は静かに資料を手に取った。

「それでは今から体育祭準備委員会を開催します。資料を前から回しますので、一部ずつ取ってください」

 僕の声が静かな部屋に響く。生徒たちは黙々と資料を受け取り、後ろへと回していく。全員に行き渡ったことを確認するように視線を巡らせると、ふと、礼央と目が合った。

 彼は僕に向かって嬉しそうに手を振っている。その仕草があまりにも無邪気で、思わず目を細めそうになる。だが、生徒会長としての立場を意識して、僕はわずかに頷くことしかできなかった。

「それでは、資料が行き渡ったようなので、会議を始めます」

 僕は進行役として、粛々と会議を進めていく。体育祭までの準備スケジュール、当日の役割分担、必要な備品の確認……。一つ一つの議題を丁寧に処理していく。

 ――今日も完璧だな。

 心の中でそう呟きながら、僕は資料に目を落とした。しかし、時折視線を上げると、礼央がじっと僕を見つめていることに気づく。その視線に捉えられるたびに、なぜか胸が締め付けられるような感覚に陥った。

 会議が終了し、生徒たちは次々と教室を後にしていく。しかし、礼央だけが一人残っていた。彼はゆっくりと僕に近づいてきた。

「凪、お疲れ! 生徒会も大変だな。でも、最後の体育祭だし、いいものに仕上げたいよな!」

 屈託のない笑顔を向けられ、僕はどう返せばいいのか分からず、いつもの仮面に笑顔を貼り付けて言った。

「そうですね。いいものにしましょう」

 すると礼央は首を傾げ、くすりと笑った。

「なんで敬語なんだよ? 同級生だし、別にタメ口でよくない?」

 そう言って、彼は僕の顔をじっと見つめた。その瞳に映る自分の姿が、どこか透けて見えるような気がして、居心地の悪さを覚える。

「俺、凪と仲良くなりたいんだよねー」

 その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。こんなにも真っ直ぐに自分に踏み込んでこられたことがない。一瞬戸惑いを覚えたが、同時に胸の奥で小さな温かさが灯るのを感じた。

「わ、分かった……」

 やっとのことで絞り出した言葉に、礼央は満面の笑みを浮かべた。

「じゃあ、また!」

 礼央は手を振って教室を出て行った。その背中を見送りながら、僕は小さくため息をついた。

 ――今までにない距離感で詰められてる気がする……。けど、悪くない。

 会議終了後、僕は他の生徒会の仕事を済ませてから、使用した備品を片付けるために再び会議室へと戻った。静かな部屋で黙々と片付けを進めていると、突然ドアが開いた。

 振り返ると、そこには礼央が立っていた。

「あ、凪。まだいたんだ」

 彼は僕に軽く手を振ると、先ほど座っていた席へと向かった。

「何か忘れ物?」

 僕が問いかけると、彼は机の下に潜り込んで何かを探し始めた。

「あれ〜? どこいった?」

 ゴン!

 大きな音に驚いて、僕は彼の側へと駆け寄った。

「いってー!」

 頭を机にぶつけたのか、礼央は後頭部を撫でながら顔を上げてきた。勢いよく僕の目の前に彼の顔が現れ、あまりの近さに僕は息を呑んだ。

「……わっ! 近っ!」

 僕は驚いて目を見開いたが、すぐに目を逸らし、小さく咳払いをした。その反応に礼央は楽しそうに笑った。

「ハハっ! 凪もびっくりした顔してんじゃん。意外と動揺するんだな」

「……別に。礼儀としてパーソナルスペースを守って欲しいだけ」

 僕は冷静を装いながら言ったが、顔が熱くなるのを感じた。

「へぇ〜。それが"生徒会長"の本音かぁ」

 からかうように言う彼の声には、どこか優しさが混じっている。

「あったあった。よかったぁ! 筆箱忘れててさ。こう見えて意外とおっちょこちょいなんだよな、俺」

 彼は照れたように頭をかいている。教室には僕と礼央だけ。静けさの中に二人の呼吸だけが響いていた。

「それにしても、最近、よく凪と会うよね? なんか運命みたい」

 突然の言葉に、僕は思わず礼央の方を見た。夕陽に照らされた彼の頬が、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。

「……運命、か。僕は運命なんて、信じていない」

 僕は少し冷めた口調で答えた。それは半分は本心から、もう半分は自分を守るための言葉だった。

「あはは、そっか。じゃあ、偶然ってことで」

 礼央はすぐに退室するかと思ったが、彼は動く気配を見せなかった。代わりに、真剣な眼差しで僕を見つめてきた。その視線に捉えられ、僕は動けなくなった。

「あのさぁ……。俺、ずっと思ってたんだけど。凪ってさ、どこか苦しそうに見えるんだよね……」

 その言葉に、僕は心臓が一拍飛んだような感覚を覚えた。今まで誰にも見破られなかった"仮面"を、この人は見抜いてしまったのか。

「……それは、君の勘違いじゃない?」

 僕はいつものように完璧な笑顔を作った。だが、その表情がどこか不自然に感じられて仕方なかった。

「……そうかな? でもさ、無理して笑ってる人って、俺、すぐ分かるんだよね……」

 僕は彼の言葉に返す言葉が見つからず、ただ俯くことしかできなかった。誰にも気づかれないように、ずっと冷静に、完璧に"演じて"きていたはずなのに。それなのに、この人だけには見破られてしまったのだろうか。

 そんな僕の内面を探るように、礼央はしばらく僕を見つめていた。しかし、それ以上何も言わず、やがて微笑んで「じゃあ、またね!」と手を振って教室を出て行った。

 彼の去った後、窓から差し込む夕陽が床に長い影を落としていた。僕はその影に自分の姿を重ね合わせながら、静かに息を吐いた。本当の自分の姿を見られたような不思議な感覚と、同時に少しだけ解放された気持ち。

 それは怖いことなのか、それとも……。


 その日、寮の自室に戻った僕は、机の上に今日の体育祭準備委員会の資料を整然と並べた。資料の文字を追いながらも、心はどこか別の場所をさまよっていた。

 礼央の言葉が繰り返し頭に浮かんでくる。

『無理して笑っている人って、俺、すぐ分かるんだよね』

 窓の外を見つめながら、僕は自問自答を繰り返した。本当に僕はそんなにわかりやすく無理をしているのだろうか。小さい頃から、笑顔を張り付けることには慣れているはずなのに。

 気分を変えようと本棚から一冊の本を取り出し、机に戻って開いた。文字を追おうとするが、内容は一つも頭に入ってこない。礼央の言葉と、彼の眩しい笑顔が、何度も何度も脳裏に浮かんでは消えていく。

 そのとき、机の端に置いたスマートフォンが震えた。画面には母からのメッセージ。週末の会議についての連絡だった。

 僕はそのメッセージを開くことなく、画面を伏せた。代わりに、もう一度礼央の言葉を思い出す。

「無理して笑っている人は、すぐ分かるから」

 僕はそんなに無理して笑っていただろうか? 考えれば考えるほど、自分でも分からなくなってきた。

 長い間、僕は"正しくあろう"としてきた。志水家の後継者として、常に完璧であることを求められ、その期待に応えようと努力してきた。

 だけど、今日、初めて"本当の僕"を見られたような気がした。そして、それは意外にも心地よかった。

「鳴海……礼央」

 僕は思わず彼の名前を口にした。この名前を、明日には忘れることができるだろうか。

 窓から見える夜空には、たくさんの星が瞬いていた。遠い星々を見上げながら、僕は彼の存在が、少しずつ心の中を侵食していくのを感じていた。それは怖いことのはずなのに、どこか温かい予感に満ちていた。