年が明けると、僕たち三年生は始業式の後、一週間ほどで受験のため自由登校となる。すでに推薦で進路を決めた生徒たちは卒業式までの間、のんびりとした時間を過ごしている。しかし、国立大学を目指す僕にとって、年明けからが本当の勝負だった。一月中旬の共通テスト、そして二月下旬の二次試験へ向けて、残された時間は決して多くない。
自由登校となっても、僕は毎日学校へ足を向けた。寮の自室で勉強することもできるのだが、学校へ向かう理由は勉強だけではなかった。
「おはよう!」
寮の玄関を出ると、いつものように明るい声が響く。振り返れば、マフラーを首に巻いた礼央が、息を白く染めながら手を振っていた。
「おはよう、礼央」
ひと月ほど前に恋人になってから、彼は毎朝迎えに来てくれるようになった。朝の澄んだ空気の中、二人で肩を並べて学校へ向かうのが、今では当たり前の風景になっている。
――こんなにも幸せで、いいのだろうか。
歩きながら、僕はそっと礼央の横顔を盗み見た。凛々しい眉のすぐ下にある瞳が、冬の陽光を受けてきらめいている。マフラーに隠れた口元がほころんでいるのが分かった。
「ん? 何か顔についてる?」
視線に気づいた礼央が、困ったような笑顔を向ける。
「……ううん。ただ、こうやって毎日礼央と一緒にいられることが、とても幸せだなって思っただけ」
素直な気持ちを口にすると、礼央の足がぴたりと止まった。握りしめた拳が小刻みに震えている。
「ど、どうしたの?」
「……いや。今すぐ凪を抱きしめたくなって、必死に我慢してるだけ……」
その言葉に、僕の頬がかっと熱くなった。
「も、もうっ! そんなこと急に言わないでよ……。まだこういうの、慣れてないんだから……」
「凪が可愛いこと言うからだろ」
二人して顔を真っ赤にしながら俯く。しかし、自分の気持ちに正直になってから、僕は少し大胆になってしまったようだった。きょろきょろと周りを見回して、通行人がいないことを確認すると、思い切って礼央に歩み寄って抱きしめた。
そして、そっと彼の耳元に唇を近づけて囁いた。
「礼央、大好き」
「……っ! な、凪っ!」
好きという言葉が、こんなにも自然に口から零れるなんて。ずっと心の奥に仕舞い込んでいた想いを、今はこんなにも素直に伝えられる。その変化が愛おしくて、僕は花が綻ぶように微笑んだ。
「早く学校に行こう」
「お、おう……」
礼央の戸惑った様子がまた可愛くて、僕は彼と肩がくっつくほど寄り添いながら歩き出した。
校舎に足を踏み入れると、まっすぐ図書館へ向かう。窓辺の定位置に向かい合って座り、それぞれの参考書とノートを広げた。窓の外には鉛色の雲が重く垂れ込めているけれど、僕たちの周りには一足早い春の陽だまりのような温かさが漂っている。
「それにしても、推薦を辞退して本当によかったの?」
必死に数学の問題と格闘している礼央に、僕は少し心配そうに声をかけた。
「うん。俺が決めたことだから」
礼央は顔を上げて、いつものように人懐っこく笑う。
「凪と同じ大学を目指すって、自分で決めたんだ」
その言葉に胸が熱くなる一方で、僕は礼央が無理をしているのではないかと不安になった。
「だって、推薦の方が確実だったでしょう?」
「でも俺は、ずっと凪と一緒にいたいんだ。だから、自分のやりたい方を選んだ」
迷いのない澄んだ瞳で見つめられて、僕の心臓が大きく跳ねる。同じ大学に合格すれば、これからもずっと一緒にいられる。そう思うだけで、これから待ち受けている受験という険しい道のりも、きっと乗り越えられる気がした。
ふと思い出して、僕は鞄からお守りを取り出した。
「礼央、これ……」
手のひらに乗せた白い布の小さな袋を差し出すと、礼央も慌てたように鞄をごそごそと探り始める。そして、全く同じお守りを取り出した。
「嘘だろ……まさか」
「あはは! 僕たち、考えることが一緒だね」
見つめ合って、思わず笑い出してしまう。お互いが買ってきたお守りを交換して、大切そうに鞄につけた。
「なんだか心強いな。これだけで合格できそうな気がする」
「そうだね。頑張ろうって思える」
僕はそっと礼央の手に自分の手を重ねた。彼の手は思いのほか温かくて、その温もりが心の奥まで染み渡っていく。
「お互い、頑張ろうね」
「ああ。二人で乗り切ろう」
僕はもう一人じゃない。一緒に歩んでくれる人がいる。そう思うだけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。
受験まで残り少ない日々、僕と礼央は図書館で朝から夕方まで勉強漬けの毎日を送っていた。授業のある日中は図書館内にいるのは三年生ばかりだったが、放課後になると下級生たちもやってくる。
僕たちの学年では、僕と礼央が恋人同士だということは周知の事実で、多くの人が温かく受け入れてくれていた。しかし、下級生の中には露骨に嫌悪感を示す人もいるようだった。
僕たちが向かい合って勉強している姿を見て、聞こえよがしに話す声が耳に入ってくる。
「ほら、あの人たち。三年の鳴海先輩と志水先輩でしょ? 付き合ってるんだって」
「えー! 男同士なんて、気持ち悪くない?」
「生徒会長が男好きだったなんて、幻滅……」
僕は視線を参考書に落とし、聞こえないふりをして問題を解き続けた。しかし、礼央の表情が険しくなっているのが分かる。ついに彼は立ち上がり、話をしていた生徒たちの方へ歩いて行った。
「あのさ」
礼央の声は普段よりも低く、静かだった。
「俺、凪のこと男だから好きになったんじゃないよ。『人』として好きになったんだ。それって、そんなに悪いことかな?」
その言葉を聞いて、僕の胸がきゅんと高鳴った。それは以前、告白の時に言ってくれた「凪じゃないとダメなんだ」という言葉と同じ響きを持っていた。
毅然として、それでいて優しく諭すような礼央の姿に、僕は改めて惚れ直した。
礼央に詰め寄られた生徒たちは、慌てて頭を下げる。
「す、すみませんでした!」
そう言い残して、そそくさと立ち去っていく。ポケットに手を突っ込み、少し苛立ちを残しながら席に戻ってきた礼央が、僕に向かってやわらかく微笑んだ。
「凪、気にするなよ」
「うん……。全員に受け入れてもらえるなんて、最初から思ってないから」
世間では同性同士のカップルは少数派だ。理解してもらいたいとは思うけれど、それを強要するつもりはない。ただ、僕たちのような人間も存在するということを知っていて欲しい。そして、いつか同じように悩む人たちの心の支えになれるよう、大学でしっかりと学びたいと改めて思った。
帰り支度をして図書館を出ようとした時、図書委員らしき女子生徒がぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきた。
「あ、あの……! さっき、私、あの子たちに注意できなくて、本当にすみませんでした! でも、私、お二人のこと、心から応援していますっ!」
真っ赤な顔でそう告げると、恥ずかしそうに走り去っていく。
僕と礼央は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「応援してくれる人もいるんだね」
「そうだな」
僕たちは自然に手を繋いで、図書館を後にした。
受験が終わり、高校生活も卒業式を残すのみとなった。元生徒会長の僕は、卒業式で答辞を読むことになっている。これが僕の生徒会長としての最後の務めだ。
生徒会室で答辞の原稿と向き合っていたが、なかなか筆が進まない。何度も書いては消しを繰り返し、ついに頭を抱えてしまった。
「随分煮詰まってるみたいだな」
後ろから声をかけられて振り返ると、礼央が扉のところに立っていた。僕は困った顔で振り返る。
「答辞がなかなか書けなくて……」
「どんな内容を考えてるの?」
「先生からは模範的な内容を、って言われてるんだけど……」
僕は再び原稿用紙と睨めっこを始めた。礼央が隣の席に座って、僕の書きかけの文章を覗き込んでくる。
「答辞か……。毎年似たような内容だよな。凪らしい答辞じゃダメなの?」
「僕らしい……」
僕は原稿の横に置いたメモ用紙に目を向けた。そこには参考にしようと思って書き出した、この三年間で僕が経験したことのキーワードがずらりと並んでいる。
生徒会長、家族との対立、本当の自分、そして――愛。
「自分で選ぶ未来……。そうだ、これだ!」
その瞬間、頭の中に答辞の内容が鮮明に浮かび上がった。そこからは、まるで堰を切ったように文章が溢れ出てきて、ペンが軽やかに原稿用紙を走っていく。
その様子を、礼央が頬杖をついて静かに見守っている。時折こちらを見つめる眼差しは太陽のように温かく、僕の心を励ましてくれた。
「いい顔してる。きっと素晴らしい答辞になるよ」
彼がぽつりと呟いた言葉が、僕の背中をそっと押してくれる。
何度も書き直しを重ね、ようやく原稿が完成したのは最終下校時刻になった頃だった。
「できた!」
僕は原稿を掲げて、達成感に満たされた笑顔を浮かべる。
「これが、僕の言葉だ」
満足げに微笑む僕を見て、礼央も嬉しそうに頷いた。
「卒業式が楽しみだな」
「うん。僕の本当の気持ちを、みんなに聞いてもらいたい」
その時、校内放送が響き渡った。
『最終下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』
僕は慌てて荷物を鞄に詰め込み、礼央と一緒に生徒会室を後にした。
卒業式当日。やわらかな春の日差しが体育館の窓から差し込み、会場全体を温かく包んでいる。校庭の桜の蕾はまだ固いけれど、日に日に膨らみを増していて、もうすぐ開花の時を迎えそうだった。
保護者席には多くの家族が座って、式の開始を心待ちにしている。その中に、僕の母・絢子の姿も見えた。しかし、父の姿はそこにはない。それでも構わなかった。僕は自分の選んだ道に、もう迷いはないのだから。
式は一組から順に入場することになっている。開始間近になった時、スマートフォンが震えた。画面を見ると、礼央からのメッセージだった。
『もうすぐだね。緊張してる?』
僕はすぐに返信した。
『少しだけ。でも大丈夫。楽しんでくるよ』
メッセージを送った直後、式が始まった。滞りなく式は進行し、在校生による送辞が読み上げられる。
そして、ついに僕の番がやってきた。
「答辞。卒業生代表、志水凪」
「はい」
僕は透き通った声で返事をして、登壇した。壇上で一礼し、会場をゆっくりと見回してから、大切に準備した原稿を広げる。
「私たちは今日、新たな出発点に立っています」
会場が静寂に包まれる。
「この三年間で学んだ最も大切なことは、自分の人生は自分自身で選ぶものだということです」
僕の声が体育館に響く。保護者席の母が、ハンカチで目元を押さえているのが見えた。
「時には困難な道を選ぶことになったとしても、本当の自分として生きることの価値を、私たちは学びました」
言葉の一つ一つに、僕のこれまでの想いを込める。家族との葛藤、自分自身との戦い、そして愛する人との出会い。すべてが今の僕を作り上げてくれた。
「未来に向かって歩き続けるために必要なのは、自分を信じる勇気と、大切な人を愛する心です」
会場の片隅で、礼央が静かに微笑んでいるのが見えた。
「私たちは今日、胸を張って新しい道へ踏み出します。自分らしく、そして愛する人と共に」
答辞を読み終えて礼をした時、会場からは温かい拍手が沸き起こった。その音に包まれながら、僕は確信していた。これからの人生も、きっと素晴らしいものになると。
卒業式が終わり、最後のホームルームが行われた。教室では思い思いに写真を撮ったり、語り合ったりする姿があちこちに見られる。僕は教室を出て、一組へ向かった。
廊下の向こうから、礼央がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「礼央……」
「俺たち、以心伝心だな」
そう言って、彼はいつものように朗らかに笑った。
「ねえ、校内を一緒に回らない?」
「おお! いいね。思い出巡りってやつか?」
僕たちは肩を並べて歩き出した。まず向かったのは、体育祭の実行委員会で使った会議室だった。
「最初に出会ったのは、この部屋だったね」
「そうそう。体育祭の実行委員会だった」
当時座っていた席に座ってみる。あの頃は、まさか自分たちが恋人になるなんて想像もしていなかった。
「でも俺、あの時から凪のことすごく綺麗な人だなって思ってたんだ」
「なんだよ、それ……」
僕は顔を赤らめながら、彼の肩を軽く叩いた。
次に向かったのは生徒会室だった。僕が生徒会長として過ごした場所だ。
「凪はいつもここで書類整理してたな」
「ははは、そうだったね」
僕は生徒会室を懐かしそうに見回した。
「でも、生徒会長になって本当によかったと思ってる。そのおかげで礼央と出会えたんだから」
礼央を見つめてにっこりと笑うと、彼は照れたように首の後ろを掻いた。
続いて体育館へ向かった。ちょうど卒業式の後片付けを在校生たちが行っている最中だった。
「礼央がバレーボールをしてる時、本当にかっこよかったよ」
「凪はこっそり見学に来てたよな」
「あ、あれは思い出さないで!」
僕はその時のことを思い出して顔を真っ赤にした。
「でも俺、あの時凪が見に来てくれて、すごく嬉しかったんだ」
そう言いながら、礼央は僕の頬をそっと撫でた。その優しい仕草に、心臓が早鐘を打つ。
その後、図書館へ足を向けた。ここは最近まで受験勉強で使っていた場所で、たくさんの思い出が詰まっている。
「最初に一緒に勉強したのは、礼央の推薦が決まったばかりの頃だったね」
「確か、そうだった」
「僕、あの時すごく嬉しかったんだ。好きな人と一緒に勉強できて」
僕は窓際のいつもの席にゆっくりと近づいた。外では卒業生と在校生が別れの挨拶を交わしている声が聞こえる。窓から差し込む光は温かく、春の訪れを告げていた。
最後に、屋上へ向かった。ここは僕たちにとって最も思い出深い場所だ。告白された場所でもあり、一度は拒絶してしまった場所でもあり、そして僕が本当の気持ちを伝えた場所でもある。
扉を開けると、やわらかな春風が頬を撫でていく。
「ここは本当に思い出深い場所だね」
「告白した場所だからな」
「お互いにね」
ふふっと笑いながら、僕は礼央の肩に頭を預けた。彼は優しく僕の髪を撫でてくれる。
「合格発表、もうすぐだね」
「そうだな。どんな結果だったとしても、一緒にいよう」
「うん。同じ大学に行けなくても、大丈夫」
「俺は、凪がそばにいてくれれば、それだけで十分だから……」
僕たちは新たな決意を胸に、屋上を後にした。
最後は校門へ向かう道を歩いた。ここには文化祭の時にたくさんの模擬店が並んでいた場所だ。あの時の楽しい思い出が蘇ってくる。
「文化祭が一番楽しかったかな」
「俺もそう思う。三年間で一番楽しかった」
お互いを見つめ合って、微笑み合う。校門脇の大きな桜の木の下にさしかかった時、礼央が急に立ち止まった。
「礼央……?」
「凪……」
礼央の顔がゆっくりと近づいてくる。夕日に照らされた彼の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
――キス、するの?
そう思った瞬間、僕は両手を小さく握りしめて目を閉じた。しかし、唇には何の感触もなく、やがて礼央の気配が遠のいた。そっと目を開けると、彼が真っ赤な顔で頬を掻いている。
「ごめん。なんか……緊張して……」
「ふふ、大丈夫だよ。これからずっと一緒なんだから」
僕は彼の手をそっと取った。温かな手のひらを通して、互いの想いが伝わってくる。
桜並木の下を、僕たちは手を繋いで歩いていく。これから待っている新しい生活への期待と、少しの不安を胸に抱きながら。でも、大切な人と一緒なら、きっと乗り越えられる。
夕日が僕たちの影を長く地面に落としていた。それはまるで、これから歩んでいく長い人生の道のりを表しているようだった。
自由登校となっても、僕は毎日学校へ足を向けた。寮の自室で勉強することもできるのだが、学校へ向かう理由は勉強だけではなかった。
「おはよう!」
寮の玄関を出ると、いつものように明るい声が響く。振り返れば、マフラーを首に巻いた礼央が、息を白く染めながら手を振っていた。
「おはよう、礼央」
ひと月ほど前に恋人になってから、彼は毎朝迎えに来てくれるようになった。朝の澄んだ空気の中、二人で肩を並べて学校へ向かうのが、今では当たり前の風景になっている。
――こんなにも幸せで、いいのだろうか。
歩きながら、僕はそっと礼央の横顔を盗み見た。凛々しい眉のすぐ下にある瞳が、冬の陽光を受けてきらめいている。マフラーに隠れた口元がほころんでいるのが分かった。
「ん? 何か顔についてる?」
視線に気づいた礼央が、困ったような笑顔を向ける。
「……ううん。ただ、こうやって毎日礼央と一緒にいられることが、とても幸せだなって思っただけ」
素直な気持ちを口にすると、礼央の足がぴたりと止まった。握りしめた拳が小刻みに震えている。
「ど、どうしたの?」
「……いや。今すぐ凪を抱きしめたくなって、必死に我慢してるだけ……」
その言葉に、僕の頬がかっと熱くなった。
「も、もうっ! そんなこと急に言わないでよ……。まだこういうの、慣れてないんだから……」
「凪が可愛いこと言うからだろ」
二人して顔を真っ赤にしながら俯く。しかし、自分の気持ちに正直になってから、僕は少し大胆になってしまったようだった。きょろきょろと周りを見回して、通行人がいないことを確認すると、思い切って礼央に歩み寄って抱きしめた。
そして、そっと彼の耳元に唇を近づけて囁いた。
「礼央、大好き」
「……っ! な、凪っ!」
好きという言葉が、こんなにも自然に口から零れるなんて。ずっと心の奥に仕舞い込んでいた想いを、今はこんなにも素直に伝えられる。その変化が愛おしくて、僕は花が綻ぶように微笑んだ。
「早く学校に行こう」
「お、おう……」
礼央の戸惑った様子がまた可愛くて、僕は彼と肩がくっつくほど寄り添いながら歩き出した。
校舎に足を踏み入れると、まっすぐ図書館へ向かう。窓辺の定位置に向かい合って座り、それぞれの参考書とノートを広げた。窓の外には鉛色の雲が重く垂れ込めているけれど、僕たちの周りには一足早い春の陽だまりのような温かさが漂っている。
「それにしても、推薦を辞退して本当によかったの?」
必死に数学の問題と格闘している礼央に、僕は少し心配そうに声をかけた。
「うん。俺が決めたことだから」
礼央は顔を上げて、いつものように人懐っこく笑う。
「凪と同じ大学を目指すって、自分で決めたんだ」
その言葉に胸が熱くなる一方で、僕は礼央が無理をしているのではないかと不安になった。
「だって、推薦の方が確実だったでしょう?」
「でも俺は、ずっと凪と一緒にいたいんだ。だから、自分のやりたい方を選んだ」
迷いのない澄んだ瞳で見つめられて、僕の心臓が大きく跳ねる。同じ大学に合格すれば、これからもずっと一緒にいられる。そう思うだけで、これから待ち受けている受験という険しい道のりも、きっと乗り越えられる気がした。
ふと思い出して、僕は鞄からお守りを取り出した。
「礼央、これ……」
手のひらに乗せた白い布の小さな袋を差し出すと、礼央も慌てたように鞄をごそごそと探り始める。そして、全く同じお守りを取り出した。
「嘘だろ……まさか」
「あはは! 僕たち、考えることが一緒だね」
見つめ合って、思わず笑い出してしまう。お互いが買ってきたお守りを交換して、大切そうに鞄につけた。
「なんだか心強いな。これだけで合格できそうな気がする」
「そうだね。頑張ろうって思える」
僕はそっと礼央の手に自分の手を重ねた。彼の手は思いのほか温かくて、その温もりが心の奥まで染み渡っていく。
「お互い、頑張ろうね」
「ああ。二人で乗り切ろう」
僕はもう一人じゃない。一緒に歩んでくれる人がいる。そう思うだけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。
受験まで残り少ない日々、僕と礼央は図書館で朝から夕方まで勉強漬けの毎日を送っていた。授業のある日中は図書館内にいるのは三年生ばかりだったが、放課後になると下級生たちもやってくる。
僕たちの学年では、僕と礼央が恋人同士だということは周知の事実で、多くの人が温かく受け入れてくれていた。しかし、下級生の中には露骨に嫌悪感を示す人もいるようだった。
僕たちが向かい合って勉強している姿を見て、聞こえよがしに話す声が耳に入ってくる。
「ほら、あの人たち。三年の鳴海先輩と志水先輩でしょ? 付き合ってるんだって」
「えー! 男同士なんて、気持ち悪くない?」
「生徒会長が男好きだったなんて、幻滅……」
僕は視線を参考書に落とし、聞こえないふりをして問題を解き続けた。しかし、礼央の表情が険しくなっているのが分かる。ついに彼は立ち上がり、話をしていた生徒たちの方へ歩いて行った。
「あのさ」
礼央の声は普段よりも低く、静かだった。
「俺、凪のこと男だから好きになったんじゃないよ。『人』として好きになったんだ。それって、そんなに悪いことかな?」
その言葉を聞いて、僕の胸がきゅんと高鳴った。それは以前、告白の時に言ってくれた「凪じゃないとダメなんだ」という言葉と同じ響きを持っていた。
毅然として、それでいて優しく諭すような礼央の姿に、僕は改めて惚れ直した。
礼央に詰め寄られた生徒たちは、慌てて頭を下げる。
「す、すみませんでした!」
そう言い残して、そそくさと立ち去っていく。ポケットに手を突っ込み、少し苛立ちを残しながら席に戻ってきた礼央が、僕に向かってやわらかく微笑んだ。
「凪、気にするなよ」
「うん……。全員に受け入れてもらえるなんて、最初から思ってないから」
世間では同性同士のカップルは少数派だ。理解してもらいたいとは思うけれど、それを強要するつもりはない。ただ、僕たちのような人間も存在するということを知っていて欲しい。そして、いつか同じように悩む人たちの心の支えになれるよう、大学でしっかりと学びたいと改めて思った。
帰り支度をして図書館を出ようとした時、図書委員らしき女子生徒がぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきた。
「あ、あの……! さっき、私、あの子たちに注意できなくて、本当にすみませんでした! でも、私、お二人のこと、心から応援していますっ!」
真っ赤な顔でそう告げると、恥ずかしそうに走り去っていく。
僕と礼央は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「応援してくれる人もいるんだね」
「そうだな」
僕たちは自然に手を繋いで、図書館を後にした。
受験が終わり、高校生活も卒業式を残すのみとなった。元生徒会長の僕は、卒業式で答辞を読むことになっている。これが僕の生徒会長としての最後の務めだ。
生徒会室で答辞の原稿と向き合っていたが、なかなか筆が進まない。何度も書いては消しを繰り返し、ついに頭を抱えてしまった。
「随分煮詰まってるみたいだな」
後ろから声をかけられて振り返ると、礼央が扉のところに立っていた。僕は困った顔で振り返る。
「答辞がなかなか書けなくて……」
「どんな内容を考えてるの?」
「先生からは模範的な内容を、って言われてるんだけど……」
僕は再び原稿用紙と睨めっこを始めた。礼央が隣の席に座って、僕の書きかけの文章を覗き込んでくる。
「答辞か……。毎年似たような内容だよな。凪らしい答辞じゃダメなの?」
「僕らしい……」
僕は原稿の横に置いたメモ用紙に目を向けた。そこには参考にしようと思って書き出した、この三年間で僕が経験したことのキーワードがずらりと並んでいる。
生徒会長、家族との対立、本当の自分、そして――愛。
「自分で選ぶ未来……。そうだ、これだ!」
その瞬間、頭の中に答辞の内容が鮮明に浮かび上がった。そこからは、まるで堰を切ったように文章が溢れ出てきて、ペンが軽やかに原稿用紙を走っていく。
その様子を、礼央が頬杖をついて静かに見守っている。時折こちらを見つめる眼差しは太陽のように温かく、僕の心を励ましてくれた。
「いい顔してる。きっと素晴らしい答辞になるよ」
彼がぽつりと呟いた言葉が、僕の背中をそっと押してくれる。
何度も書き直しを重ね、ようやく原稿が完成したのは最終下校時刻になった頃だった。
「できた!」
僕は原稿を掲げて、達成感に満たされた笑顔を浮かべる。
「これが、僕の言葉だ」
満足げに微笑む僕を見て、礼央も嬉しそうに頷いた。
「卒業式が楽しみだな」
「うん。僕の本当の気持ちを、みんなに聞いてもらいたい」
その時、校内放送が響き渡った。
『最終下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』
僕は慌てて荷物を鞄に詰め込み、礼央と一緒に生徒会室を後にした。
卒業式当日。やわらかな春の日差しが体育館の窓から差し込み、会場全体を温かく包んでいる。校庭の桜の蕾はまだ固いけれど、日に日に膨らみを増していて、もうすぐ開花の時を迎えそうだった。
保護者席には多くの家族が座って、式の開始を心待ちにしている。その中に、僕の母・絢子の姿も見えた。しかし、父の姿はそこにはない。それでも構わなかった。僕は自分の選んだ道に、もう迷いはないのだから。
式は一組から順に入場することになっている。開始間近になった時、スマートフォンが震えた。画面を見ると、礼央からのメッセージだった。
『もうすぐだね。緊張してる?』
僕はすぐに返信した。
『少しだけ。でも大丈夫。楽しんでくるよ』
メッセージを送った直後、式が始まった。滞りなく式は進行し、在校生による送辞が読み上げられる。
そして、ついに僕の番がやってきた。
「答辞。卒業生代表、志水凪」
「はい」
僕は透き通った声で返事をして、登壇した。壇上で一礼し、会場をゆっくりと見回してから、大切に準備した原稿を広げる。
「私たちは今日、新たな出発点に立っています」
会場が静寂に包まれる。
「この三年間で学んだ最も大切なことは、自分の人生は自分自身で選ぶものだということです」
僕の声が体育館に響く。保護者席の母が、ハンカチで目元を押さえているのが見えた。
「時には困難な道を選ぶことになったとしても、本当の自分として生きることの価値を、私たちは学びました」
言葉の一つ一つに、僕のこれまでの想いを込める。家族との葛藤、自分自身との戦い、そして愛する人との出会い。すべてが今の僕を作り上げてくれた。
「未来に向かって歩き続けるために必要なのは、自分を信じる勇気と、大切な人を愛する心です」
会場の片隅で、礼央が静かに微笑んでいるのが見えた。
「私たちは今日、胸を張って新しい道へ踏み出します。自分らしく、そして愛する人と共に」
答辞を読み終えて礼をした時、会場からは温かい拍手が沸き起こった。その音に包まれながら、僕は確信していた。これからの人生も、きっと素晴らしいものになると。
卒業式が終わり、最後のホームルームが行われた。教室では思い思いに写真を撮ったり、語り合ったりする姿があちこちに見られる。僕は教室を出て、一組へ向かった。
廊下の向こうから、礼央がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「礼央……」
「俺たち、以心伝心だな」
そう言って、彼はいつものように朗らかに笑った。
「ねえ、校内を一緒に回らない?」
「おお! いいね。思い出巡りってやつか?」
僕たちは肩を並べて歩き出した。まず向かったのは、体育祭の実行委員会で使った会議室だった。
「最初に出会ったのは、この部屋だったね」
「そうそう。体育祭の実行委員会だった」
当時座っていた席に座ってみる。あの頃は、まさか自分たちが恋人になるなんて想像もしていなかった。
「でも俺、あの時から凪のことすごく綺麗な人だなって思ってたんだ」
「なんだよ、それ……」
僕は顔を赤らめながら、彼の肩を軽く叩いた。
次に向かったのは生徒会室だった。僕が生徒会長として過ごした場所だ。
「凪はいつもここで書類整理してたな」
「ははは、そうだったね」
僕は生徒会室を懐かしそうに見回した。
「でも、生徒会長になって本当によかったと思ってる。そのおかげで礼央と出会えたんだから」
礼央を見つめてにっこりと笑うと、彼は照れたように首の後ろを掻いた。
続いて体育館へ向かった。ちょうど卒業式の後片付けを在校生たちが行っている最中だった。
「礼央がバレーボールをしてる時、本当にかっこよかったよ」
「凪はこっそり見学に来てたよな」
「あ、あれは思い出さないで!」
僕はその時のことを思い出して顔を真っ赤にした。
「でも俺、あの時凪が見に来てくれて、すごく嬉しかったんだ」
そう言いながら、礼央は僕の頬をそっと撫でた。その優しい仕草に、心臓が早鐘を打つ。
その後、図書館へ足を向けた。ここは最近まで受験勉強で使っていた場所で、たくさんの思い出が詰まっている。
「最初に一緒に勉強したのは、礼央の推薦が決まったばかりの頃だったね」
「確か、そうだった」
「僕、あの時すごく嬉しかったんだ。好きな人と一緒に勉強できて」
僕は窓際のいつもの席にゆっくりと近づいた。外では卒業生と在校生が別れの挨拶を交わしている声が聞こえる。窓から差し込む光は温かく、春の訪れを告げていた。
最後に、屋上へ向かった。ここは僕たちにとって最も思い出深い場所だ。告白された場所でもあり、一度は拒絶してしまった場所でもあり、そして僕が本当の気持ちを伝えた場所でもある。
扉を開けると、やわらかな春風が頬を撫でていく。
「ここは本当に思い出深い場所だね」
「告白した場所だからな」
「お互いにね」
ふふっと笑いながら、僕は礼央の肩に頭を預けた。彼は優しく僕の髪を撫でてくれる。
「合格発表、もうすぐだね」
「そうだな。どんな結果だったとしても、一緒にいよう」
「うん。同じ大学に行けなくても、大丈夫」
「俺は、凪がそばにいてくれれば、それだけで十分だから……」
僕たちは新たな決意を胸に、屋上を後にした。
最後は校門へ向かう道を歩いた。ここには文化祭の時にたくさんの模擬店が並んでいた場所だ。あの時の楽しい思い出が蘇ってくる。
「文化祭が一番楽しかったかな」
「俺もそう思う。三年間で一番楽しかった」
お互いを見つめ合って、微笑み合う。校門脇の大きな桜の木の下にさしかかった時、礼央が急に立ち止まった。
「礼央……?」
「凪……」
礼央の顔がゆっくりと近づいてくる。夕日に照らされた彼の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
――キス、するの?
そう思った瞬間、僕は両手を小さく握りしめて目を閉じた。しかし、唇には何の感触もなく、やがて礼央の気配が遠のいた。そっと目を開けると、彼が真っ赤な顔で頬を掻いている。
「ごめん。なんか……緊張して……」
「ふふ、大丈夫だよ。これからずっと一緒なんだから」
僕は彼の手をそっと取った。温かな手のひらを通して、互いの想いが伝わってくる。
桜並木の下を、僕たちは手を繋いで歩いていく。これから待っている新しい生活への期待と、少しの不安を胸に抱きながら。でも、大切な人と一緒なら、きっと乗り越えられる。
夕日が僕たちの影を長く地面に落としていた。それはまるで、これから歩んでいく長い人生の道のりを表しているようだった。



