『冬はつとめて』――清少納言が枕草子でそう記した通り、冬の朝には深い趣がある。寮の窓から望む街並みの屋根という屋根に霜が降り、まるで銀糸を撒いたような幻想的な光景が広がっていた。窓辺に立つと、硝子越しにもひんやりとした空気が肌を刺し、はあっと息を吐き出せば、室内にいるにも関わらずそれは薄白く漂った。
約束の日の朝。僕は昨夜、一睡もできずに夜を明かした。まだ薄闇に包まれた外を眺めると、街灯の灯りがうっすらと雪化粧した地面を淡く照らしている。
今日が運命の日だ。
早朝であることを考えると、洗面所へ行くのは他の寮生に迷惑をかけてしまう。部屋で、礼央に伝えるべき言葉を鏡の前で何度も練習した。
「礼央……僕は、君が……」
違う、そうじゃない。
「礼央、僕が本当に伝えたかったのは……」
これも違う。
何度鏡に向かって練習しても、どの言葉もしっくりこない。恋愛など未経験の僕には、自分の気持ちを伝えることが途方もなく高いハードルのように感じられた。
――何でも完璧にこなしてきた僕が、こんな単純なことさえできないなんて……。
椅子にどかりと腰を下ろし、深く溜息をついた。まるで魂が抜けたような心地だった。
遅い日の出でようやく空が白み始めた頃、僕は重い足取りで寮の食堂へ向かった。眠れぬ夜を過ごした体は鉛のように重く、だるさが全身を支配している。朝食を受け取り、窓際の席に座ると、普段は一緒にならない蓮が向かいの席に座った。
「なぎっち、おはよう!」
蓮はよく眠れたのか、朝から溌剌としている。
「おはよう。蓮は朝から元気だね……」
「ほら、俺、指定校推薦で大学決まったからさ。毎日ぐっすり眠れてるんだ」
蓮はにこにこと笑っていたが、僕の顔を見ると心配そうに覗き込んだ。
「なぎっちは顔色悪いな……大丈夫? 勉強のしすぎ?」
僕はスープを口に運びながら首を振った。
「ううん。今日は……礼央と話をするから、眠れなかっただけ……」
「げっ! なぎっち、鳴海のことで頭がいっぱいなんじゃん!」
僕は大きく溜息をついて、蓮を横目で見た。
「仕方ないでしょ。僕、今まで恋愛したことないし……だから、すごく緊張してる」
「そっか。今日は運命の日だもんな! 頑張れよ!」
蓮が僕の肩をぽんと叩いた拍子に、食べていたパンが喉に詰まって激しく咳き込んでしまった。
「うっ……」
「うわっ! 大丈夫か? ほら、水飲め」
蓮に差し出されたコップの水を一気に飲み干す。
登校してからも、僕はずっと落ち着かなかった。授業に集中できず、時計ばかりを気にしている。
――もう十時か……放課後まで、あと六時間……。
開口一番、何を言えばいいのか。ずっと考えているのに、まだ考えがまとまらない。両手で頭を抱えてしまった。
「はい、じゃあ次、志水君」
突然先生から指名され、慌てて顔を上げて黒板を見る。
「えっと……あの……」
また答えられずに口ごもってしまった。クラスメイトたちがざわめく。
「志水、最近変だよね」
「恋でもしてるんじゃない?」
その声を聞いて、僕は心の中で呟いた。
――そうなんだよ。僕、初めて恋をしているんだ。
恋をするというのは、こんなにも心を乱すものなのだと初めて知った。気持ちがふわふわと宙に浮いているような、でも同時に重い石が胸に沈んでいるような、不思議な感覚だった。
一日をどう過ごしたのか記憶が曖昧なまま、最終授業のチャイムが鳴った。この後、ショートホームルームを終えたら、僕は屋上へ行く。
――ついに、この時間が来てしまった。
結局、何度頭の中で反芻してみても、何を言えばいいのか、礼央から許してもらえるのかが分からなかった。改めて実感したのは、僕は恋愛に関してはとてつもなくポンコツだということ。気の利いた言葉など、一切頭に浮かんでこない。
帰り支度をして、屋上へと向かった。
初めて礼央の名前を聞いたのは、三年に進級した始業式の日。それから体育祭の運営で関わるようになって、バレーの練習試合を観戦しに行った。文化祭では一緒に校内を回ることもできた。そして、告白されたあの雪の日……。
礼央との日々が走馬灯のように頭に蘇る。全てが僕にとって掛け替えのない、宝物のような思い出だった。
今度こそ、本当の気持ちを伝えよう。
僕は屋上のドアに手をかけ、深く息を吸い込んだ。そして、勢いよく扉を開いた。
屋上へは約束の時間よりも早く到着した。日陰にはまだ雪が残っているが、見上げると雲一つない青空が無限に広がっていた。空気は肌を刺すように冷たいが、太陽の暖かな光が僕を優しく包み込んでいる。まるで「心配することはない」と励ましてくれているかのようだった。
僕は校庭を見下ろしながら、ぎゅっと拳を握りしめた。空気が冷たいのに、緊張からか脇の下にじっとりと汗をかいている。
屋上の扉がギィと軋んで開いた。
「……凪」
名前を呼ばれて振り返ると、礼央が立っていた。階段を駆け上がってきたのか、息が弾んでいる。礼央の吐き出す息は白く、頬は寒さで薔薇色に染まっていた。首には紺色のマフラーがふんわりと巻かれていて、その姿は言葉にできないほど愛らしかった。
「来てくれたんだ……」
僕はぎこちない笑みを浮かべながら礼央に言った。握りしめた拳の指先が氷のように冷たい。
「約束したから」
礼央は一歩ずつ、ゆっくりと僕に近づいてきた。けれど僕との距離は、まるで赤の他人と接するほど遠く感じられた。
僕はじっと礼央の瞳を見つめた。礼央も視線を逸らすことなく、僕を見つめ返している。
「あの……」
「その……」
またしても二人同時に口を開き、お互い苦笑いする。
「ごめん、礼央から先に……」
すると礼央は首を振った。
「いや、凪から先に言って。聞きたい」
僕はこくりと頷いて、拳をきつく握りしめた。心臓が緊張のあまり太鼓のように鳴り響いている。俯いて大きく深呼吸をひとつしてから、顔を上げた。
「あの日のこと……謝りたくて」
「えっ?」
僕はその時の自分の行動を思い出し、思わず俯いてしまった。
「ひどいことを言った。礼央の気持ちを……踏みにじるようなことを」
僕は心から「ごめん」と頭を下げた。
その時、礼央は一歩近づいた。二人の距離が少しだけ縮まる。
「俺の方こそ……急にあんなこと言って、凪を困らせた……」
「違うっ!」
僕は勢いよく顔を上げて、礼央の瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「困ったんじゃない。嬉しかった……でも、怖かったんだ」
礼央の強張った表情が、ふわりと緩んだ。
「怖かった?」
「うん……本当のことを、全部礼央に話したい」
僕の言葉に、礼央は真剣な表情で頷いた。
僕たちの間を、冬の冷たい風が吹き抜けていく。けれど太陽の光が暖かく、僕たちを慈しむように照らしてくれていた。
僕と礼央はフェンスの傍らに並んで立った。校庭からは部活動に励む生徒たちの声が風に乗って響いてくる。遠くに見える街並みが、夕陽の光でオレンジ色に染まり始めていた。
僕はゆっくりと口を開いた。
「僕は今まで、本当の自分を隠して生きてきた」
礼央は、静かに話し始めた僕の横顔をじっと見つめていた。僕は遠くの街並みに視線を向けたまま続けた。
「生徒会長として、志水グループの跡取りとして……みんなが期待する『完璧な志水凪』を演じ続けてきた」
礼央は口を挟むことなく、ただ静かに僕の言葉に耳を傾けてくれている。
「でも、礼央といる時は違った」
僕の声が、ほんの少し震える。フェンスを握る手に、無意識のうちに力がこもった。
「初めて、張り付けている仮面を外すことができた。本当の自分でいることができたんだ」
僕は大きく深呼吸をした。胸の奥で、何かが静かに燃え上がっているのを感じる。
「礼央が言ってくれたんだ。『自分の人生だから、自分で決めていい』って」
僕は礼央に向き直った。彼の瞳の奥が、まるで湖面のように揺れている。
「それで気づいたんだ。僕が人生でずっと探していたのは……」
僕は息を呑んだ。緊張のあまり、言葉が喉の奥で詰まりそうになる。
けれど、もう逃げないと決めたから。最後まで、僕の言葉で、礼央に伝える。
「本当の僕を……仮面をつけていない、ありのままの僕を見てくれる人だった」
気づけば僕の頬を、温かい涙が伝っていた。
「その人は……君だったんだよ、礼央」
僕は俯くことなく、まっすぐに礼央を見つめて言った。初めて僕という人間を見てくれた、愛おしい人。心から愛している人。
礼央は僕の言葉を聞くと、目を真っ赤にして、ついには大粒の涙を流した。
「俺も……俺も、凪じゃなきゃダメだった」
礼央の声が感情で震えている。
「紗菜と別れたのは、凪のことしか考えられなくなったから。凪といると、俺も本当の自分でいられる。こんなこと、生まれて初めてなんだ……」
礼央は僕の両手を、彼の温かな手で包み込んだ。
温かい。
冷たい空気で凍えそうになっていた指先が、一瞬で熱を帯びるのが分かった。
「好きだ、凪」
「僕も……礼央が好きだよ」
やっと言えた。心の底から、真実の言葉を。君が好きだということを。
僕と礼央は手を繋いで、フェンスにもたれかかっていた。山の稜線に沈みかけている夕陽が、僕たちを琥珀色の光で包み込んでいる。
僕は礼央の肩に頭を預け、オレンジと紫のグラデーションに染まった空を見上げた。そんな僕の髪を、礼央が指で優しく撫でる。礼央の肩と手から伝わってくる温もりを感じ取ると、幸せで胸が満たされた。
今まで人に甘えるということができなかった僕が、こうして礼央に甘えることができる。それが嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
礼央の腰にそっと腕を回して、上目遣いで見つめながら言った。
「これから……どうしようか?」
礼央が不思議そうな顔をする。
「どうしようって?」
「えっと……学校でのこと。みんなの反応とか、気になるし」
すると礼央はくしゃりと笑って、繋いでいる手に指を絡めてしっかりと繋ぎ直した。
「俺は、凪と一緒にいられるんだったら、周りなんて気にしない」
礼央の瞳が、まっすぐに僕を捉える。
「でも……」
「俺たちが幸せなら、それでいいじゃん」
ね? と言いながら、礼央がこてんと首を傾げた。その仕草があまりにも愛らしくて、僕は思わず顔を赤らめてしまう。
やっぱり、まだ慣れない。なんといっても、初めて好きになった人で、初めての恋人だから。
――恋人……。
心の中でその言葉を反芻すると、さらに恥ずかしさが増した。
「あのさ……礼央は、恋人って言葉、恥ずかしくない? 礼央には彼女がいたから、そんなことないか……」
僕がしゅんと眉尻を下げて言うと、礼央は頬を薔薇色に染めて答えた。
「え? こ、恋人かぁ……」
礼央は耳の先まで真っ赤になっている。僕はその表情を見て、さらに恥ずかしくなって俯いた。
「や、やっぱり恥ずかしいよね……」
恋人という響きは、僕にとってまだ甘酸っぱくて照れくさい言葉だが、礼央と一緒だったら悪くない。それが嬉しくて、ふっと笑みがこぼれた。礼央も僕の顔を見ながら、同じように微笑んでいる。
「でも、嬉しいな。凪と恋人になれたの」
「うん。僕も」
僕は沈みゆく夕陽をまっすぐ見つめて、静かに口を開いた。
「礼央となら、本当の自分で生きていける」
僕の言葉を聞いた礼央も、優しく微笑みながら答えた。
「俺も。凪と一緒なら、なんでもできる気がする」
空は徐々にオレンジと深紫のグラデーションへと変化していく。僕は部活を終え、片付けをしている生徒たちを見ながら言った。
「明日から……変わるのかな」
「きっと。でも、俺がそばにいるから大丈夫」
僕と礼央は、まっすぐ前を見つめた。これからの未来を見据えるように。まるで新しい世界の扉が、今まさに開かれようとしているみたいに。
「よう。おはよう、凪」
翌朝、寮を出ると玄関前に礼央の姿があった。
「え? どうしたの?」
僕は礼央の元に小走りで駆け寄った。寒い中、しばらく立っていたのだろう。頬と耳が林檎のように赤くなっている。
「恋人とは少しでも長くいたいからさ。迎えに来た」
「……っ!」
僕はその言葉を聞いて、心臓の鼓動が止まらなくなった。
――礼央って、こんなにも情熱的な人だったんだ……。
でも、嬉しい。だから、僕は自分の気持ちを素直に伝えることにした。
「ありがとう。僕も一緒にいたかったから、嬉しい」
「そ、そうか?」
礼央は頬を染めながら、はにかむように微笑んだ。僕たちは肩を並べて学校へ向かう。触れ合うほどの近い距離で、礼央の温もりが伝わってくる。
「でもさ、凪の寮、いいよなぁ。学校まで徒歩五分って……」
「ははっ。でも僕は、いつも早い時間に学校に行ってるんだよ」
「こんなに早く行って、いつも何してるの?」
僕は礼央を見ながら、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ふふ。学校に着いてからのお楽しみ」
五分間の短いデートを終え、学校に着くと靴を履き替えた。廊下を並んで歩いて向かった先は図書館だった。
「図書館?」
礼央が不思議そうな声を上げる。
「うん。僕が、僕でいられる唯一の場所だったところ」
そう言って図書館の扉を開けた。冬の早朝の図書館は、静寂に包まれてひんやりとした空気が漂っている。僕は窓際の定位置に座った。
「いつも朝の時間、ここで『完璧な志水凪』の仮面を外して、自分らしく過ごしていたんだ」
僕が唯一、本当の自分でいられた時間だった。けれど、それも、もう必要ない。
「でも、もうその時間はいらなくなったね。僕には礼央がいるから」
「……っ!」
礼央は見る見るうちに顔を赤らめた。
「そ、そんなこと言うなよ……」
恥ずかしがっている礼央を見て、僕はくすりと笑って言った。
「これからは朝の時間、ここで受験勉強するよ。自分のやりたいこと目指すために」
「じゃあ、俺も付き合う」
僕と礼央はノートを取り出し、勉強を始めた。時々、目を上げて見つめ合い、微笑み合いながら。こんな些細な時間が、こんなにも幸せだなんて思いもしなかった。
予鈴が鳴った。僕たちは片付けて図書館を後にしようとした時、礼央が僕の腕をそっと掴んだ。
「凪、抱き締めても……いい?」
僕はこくりと頷く。礼央は僕を優しく抱き締めた。僕は礼央の胸に顔を埋め、彼の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。石鹸の匂いと、礼央だけの甘い匂いが混じり合って、めまいがしそうになる。
「あ〜、離れたくないなぁ」
礼央が僕の耳元で囁いた。背筋がゾクリと震える。
「じゃあさ、僕が礼央のクラスに休み時間、会いに行くよ。僕も少しでも一緒にいたいから」
それから僕と礼央は、朝一緒に登校して図書館で勉強し、休み時間ごとにお互いの教室を行き来した。昼休みは一緒に食事をとり、放課後には図書館で勉強して一緒に帰る。数日もすると、クラスメイトの間で噂になっていた。
「あれ? 鳴海と志水、仲良くない?」
「そういえば最近、ずっと一緒にいるよな」
ずっと一緒にいると、こう言われることは覚悟していた。でも僕は、もう礼央と一緒にいるから。二人で前を向いて歩くと決めたから、全然気にならない。
休み時間、礼央と廊下で話していると、蓮が近づいてきて大声で言った。
「おぉっ! やっとくっついたか〜!」
僕はぎょっとして蓮を見た。
「れ、蓮。声が大きいっ!」
蓮はにやりとしながら僕に言った。
「なぎっち、おめでとう!」
「あ、ありがとう……」
そして蓮は礼央の方を向いた。
「鳴海、なぎっちのこと、よろしくな。頼んだぞ!」
蓮は礼央の肩をぽんぽんと叩く。礼央は「任せとけ」と頷いた。
それから、僕と礼央の関係はあっという間に学校内に知れ渡った。
「志水と鳴海、付き合ってるの? お似合いだよな」
「なんか意外だけど、納得する」
「あの二人の雰囲気、すごくいいよね」
「応援したくなるカップルだ」
男同士で付き合っていると知られたら、もっと否定的なことを言われるのではないかと思っていたのに、意外にも好意的な反応が多かった。
「意外とみんな優しいね」
「うん……僕が心配しすぎていただけかも」
放課後、二人で過ごす図書館の時間が、今まで以上に温かく愛おしいものになった。
もしかしたら、一部の人は嫌悪感を抱いているかもしれない。でも、僕たちのことを認めてくれている人がいるということが、何よりも嬉しかった。
下校時間になって、僕は自分から礼央の手を取った。礼央は少し驚いた表情を見せたが、それを優しく受け入れてくれた。肩を並べて学校を後にする。そばを通る生徒たちは皆、温かな眼差しで僕たちを見送ってくれた。
新しい毎日が、今、始まったのだった。
手を繋いだまま校門を出ると、桜並木の向こうに夕陽が沈もうとしていた。まだ蕾も膨らんでいない枝々が、春の訪れを静かに待っている。
「来年の春には、ここで桜が咲くんだね」
僕が呟くと、礼央が僕の手を優しく握り返した。
「その時も、こうして一緒に歩いてる?」
「当たり前じゃん」
礼央の即答に、僕の胸が温かくなる。
――そうだ。僕たちにはこれから、たくさんの季節が待っている。桜の春も、緑陰の夏も、紅葉の秋も、そして再び巡る雪の冬も。
全部、礼央と一緒に迎えるんだ。
「ありがとう、礼央」
「何が?」
「僕に、本当の自分で生きる勇気をくれて」
礼央は立ち止まって、僕の方を向いた。夕陽が彼の横顔を黄金色に染めている。
「俺の方こそ、ありがとう。凪に出会えて、本当によかった」
風が頬を撫でていく。もう、あの雪の日のように冷たくはない。冬の冷たい風だが僕たちには、優しい風だった。
僕たちは再び歩き始めた。影が長く伸びて、二つの影がぴったりと寄り添っている。まるで離れることなど考えられないみたいに。
愛は、確かにここにあった。僕の胸の中に、礼央との間に、そして僕たちが歩いていくこれからの道のりすべてに。
約束の日の朝。僕は昨夜、一睡もできずに夜を明かした。まだ薄闇に包まれた外を眺めると、街灯の灯りがうっすらと雪化粧した地面を淡く照らしている。
今日が運命の日だ。
早朝であることを考えると、洗面所へ行くのは他の寮生に迷惑をかけてしまう。部屋で、礼央に伝えるべき言葉を鏡の前で何度も練習した。
「礼央……僕は、君が……」
違う、そうじゃない。
「礼央、僕が本当に伝えたかったのは……」
これも違う。
何度鏡に向かって練習しても、どの言葉もしっくりこない。恋愛など未経験の僕には、自分の気持ちを伝えることが途方もなく高いハードルのように感じられた。
――何でも完璧にこなしてきた僕が、こんな単純なことさえできないなんて……。
椅子にどかりと腰を下ろし、深く溜息をついた。まるで魂が抜けたような心地だった。
遅い日の出でようやく空が白み始めた頃、僕は重い足取りで寮の食堂へ向かった。眠れぬ夜を過ごした体は鉛のように重く、だるさが全身を支配している。朝食を受け取り、窓際の席に座ると、普段は一緒にならない蓮が向かいの席に座った。
「なぎっち、おはよう!」
蓮はよく眠れたのか、朝から溌剌としている。
「おはよう。蓮は朝から元気だね……」
「ほら、俺、指定校推薦で大学決まったからさ。毎日ぐっすり眠れてるんだ」
蓮はにこにこと笑っていたが、僕の顔を見ると心配そうに覗き込んだ。
「なぎっちは顔色悪いな……大丈夫? 勉強のしすぎ?」
僕はスープを口に運びながら首を振った。
「ううん。今日は……礼央と話をするから、眠れなかっただけ……」
「げっ! なぎっち、鳴海のことで頭がいっぱいなんじゃん!」
僕は大きく溜息をついて、蓮を横目で見た。
「仕方ないでしょ。僕、今まで恋愛したことないし……だから、すごく緊張してる」
「そっか。今日は運命の日だもんな! 頑張れよ!」
蓮が僕の肩をぽんと叩いた拍子に、食べていたパンが喉に詰まって激しく咳き込んでしまった。
「うっ……」
「うわっ! 大丈夫か? ほら、水飲め」
蓮に差し出されたコップの水を一気に飲み干す。
登校してからも、僕はずっと落ち着かなかった。授業に集中できず、時計ばかりを気にしている。
――もう十時か……放課後まで、あと六時間……。
開口一番、何を言えばいいのか。ずっと考えているのに、まだ考えがまとまらない。両手で頭を抱えてしまった。
「はい、じゃあ次、志水君」
突然先生から指名され、慌てて顔を上げて黒板を見る。
「えっと……あの……」
また答えられずに口ごもってしまった。クラスメイトたちがざわめく。
「志水、最近変だよね」
「恋でもしてるんじゃない?」
その声を聞いて、僕は心の中で呟いた。
――そうなんだよ。僕、初めて恋をしているんだ。
恋をするというのは、こんなにも心を乱すものなのだと初めて知った。気持ちがふわふわと宙に浮いているような、でも同時に重い石が胸に沈んでいるような、不思議な感覚だった。
一日をどう過ごしたのか記憶が曖昧なまま、最終授業のチャイムが鳴った。この後、ショートホームルームを終えたら、僕は屋上へ行く。
――ついに、この時間が来てしまった。
結局、何度頭の中で反芻してみても、何を言えばいいのか、礼央から許してもらえるのかが分からなかった。改めて実感したのは、僕は恋愛に関してはとてつもなくポンコツだということ。気の利いた言葉など、一切頭に浮かんでこない。
帰り支度をして、屋上へと向かった。
初めて礼央の名前を聞いたのは、三年に進級した始業式の日。それから体育祭の運営で関わるようになって、バレーの練習試合を観戦しに行った。文化祭では一緒に校内を回ることもできた。そして、告白されたあの雪の日……。
礼央との日々が走馬灯のように頭に蘇る。全てが僕にとって掛け替えのない、宝物のような思い出だった。
今度こそ、本当の気持ちを伝えよう。
僕は屋上のドアに手をかけ、深く息を吸い込んだ。そして、勢いよく扉を開いた。
屋上へは約束の時間よりも早く到着した。日陰にはまだ雪が残っているが、見上げると雲一つない青空が無限に広がっていた。空気は肌を刺すように冷たいが、太陽の暖かな光が僕を優しく包み込んでいる。まるで「心配することはない」と励ましてくれているかのようだった。
僕は校庭を見下ろしながら、ぎゅっと拳を握りしめた。空気が冷たいのに、緊張からか脇の下にじっとりと汗をかいている。
屋上の扉がギィと軋んで開いた。
「……凪」
名前を呼ばれて振り返ると、礼央が立っていた。階段を駆け上がってきたのか、息が弾んでいる。礼央の吐き出す息は白く、頬は寒さで薔薇色に染まっていた。首には紺色のマフラーがふんわりと巻かれていて、その姿は言葉にできないほど愛らしかった。
「来てくれたんだ……」
僕はぎこちない笑みを浮かべながら礼央に言った。握りしめた拳の指先が氷のように冷たい。
「約束したから」
礼央は一歩ずつ、ゆっくりと僕に近づいてきた。けれど僕との距離は、まるで赤の他人と接するほど遠く感じられた。
僕はじっと礼央の瞳を見つめた。礼央も視線を逸らすことなく、僕を見つめ返している。
「あの……」
「その……」
またしても二人同時に口を開き、お互い苦笑いする。
「ごめん、礼央から先に……」
すると礼央は首を振った。
「いや、凪から先に言って。聞きたい」
僕はこくりと頷いて、拳をきつく握りしめた。心臓が緊張のあまり太鼓のように鳴り響いている。俯いて大きく深呼吸をひとつしてから、顔を上げた。
「あの日のこと……謝りたくて」
「えっ?」
僕はその時の自分の行動を思い出し、思わず俯いてしまった。
「ひどいことを言った。礼央の気持ちを……踏みにじるようなことを」
僕は心から「ごめん」と頭を下げた。
その時、礼央は一歩近づいた。二人の距離が少しだけ縮まる。
「俺の方こそ……急にあんなこと言って、凪を困らせた……」
「違うっ!」
僕は勢いよく顔を上げて、礼央の瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「困ったんじゃない。嬉しかった……でも、怖かったんだ」
礼央の強張った表情が、ふわりと緩んだ。
「怖かった?」
「うん……本当のことを、全部礼央に話したい」
僕の言葉に、礼央は真剣な表情で頷いた。
僕たちの間を、冬の冷たい風が吹き抜けていく。けれど太陽の光が暖かく、僕たちを慈しむように照らしてくれていた。
僕と礼央はフェンスの傍らに並んで立った。校庭からは部活動に励む生徒たちの声が風に乗って響いてくる。遠くに見える街並みが、夕陽の光でオレンジ色に染まり始めていた。
僕はゆっくりと口を開いた。
「僕は今まで、本当の自分を隠して生きてきた」
礼央は、静かに話し始めた僕の横顔をじっと見つめていた。僕は遠くの街並みに視線を向けたまま続けた。
「生徒会長として、志水グループの跡取りとして……みんなが期待する『完璧な志水凪』を演じ続けてきた」
礼央は口を挟むことなく、ただ静かに僕の言葉に耳を傾けてくれている。
「でも、礼央といる時は違った」
僕の声が、ほんの少し震える。フェンスを握る手に、無意識のうちに力がこもった。
「初めて、張り付けている仮面を外すことができた。本当の自分でいることができたんだ」
僕は大きく深呼吸をした。胸の奥で、何かが静かに燃え上がっているのを感じる。
「礼央が言ってくれたんだ。『自分の人生だから、自分で決めていい』って」
僕は礼央に向き直った。彼の瞳の奥が、まるで湖面のように揺れている。
「それで気づいたんだ。僕が人生でずっと探していたのは……」
僕は息を呑んだ。緊張のあまり、言葉が喉の奥で詰まりそうになる。
けれど、もう逃げないと決めたから。最後まで、僕の言葉で、礼央に伝える。
「本当の僕を……仮面をつけていない、ありのままの僕を見てくれる人だった」
気づけば僕の頬を、温かい涙が伝っていた。
「その人は……君だったんだよ、礼央」
僕は俯くことなく、まっすぐに礼央を見つめて言った。初めて僕という人間を見てくれた、愛おしい人。心から愛している人。
礼央は僕の言葉を聞くと、目を真っ赤にして、ついには大粒の涙を流した。
「俺も……俺も、凪じゃなきゃダメだった」
礼央の声が感情で震えている。
「紗菜と別れたのは、凪のことしか考えられなくなったから。凪といると、俺も本当の自分でいられる。こんなこと、生まれて初めてなんだ……」
礼央は僕の両手を、彼の温かな手で包み込んだ。
温かい。
冷たい空気で凍えそうになっていた指先が、一瞬で熱を帯びるのが分かった。
「好きだ、凪」
「僕も……礼央が好きだよ」
やっと言えた。心の底から、真実の言葉を。君が好きだということを。
僕と礼央は手を繋いで、フェンスにもたれかかっていた。山の稜線に沈みかけている夕陽が、僕たちを琥珀色の光で包み込んでいる。
僕は礼央の肩に頭を預け、オレンジと紫のグラデーションに染まった空を見上げた。そんな僕の髪を、礼央が指で優しく撫でる。礼央の肩と手から伝わってくる温もりを感じ取ると、幸せで胸が満たされた。
今まで人に甘えるということができなかった僕が、こうして礼央に甘えることができる。それが嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
礼央の腰にそっと腕を回して、上目遣いで見つめながら言った。
「これから……どうしようか?」
礼央が不思議そうな顔をする。
「どうしようって?」
「えっと……学校でのこと。みんなの反応とか、気になるし」
すると礼央はくしゃりと笑って、繋いでいる手に指を絡めてしっかりと繋ぎ直した。
「俺は、凪と一緒にいられるんだったら、周りなんて気にしない」
礼央の瞳が、まっすぐに僕を捉える。
「でも……」
「俺たちが幸せなら、それでいいじゃん」
ね? と言いながら、礼央がこてんと首を傾げた。その仕草があまりにも愛らしくて、僕は思わず顔を赤らめてしまう。
やっぱり、まだ慣れない。なんといっても、初めて好きになった人で、初めての恋人だから。
――恋人……。
心の中でその言葉を反芻すると、さらに恥ずかしさが増した。
「あのさ……礼央は、恋人って言葉、恥ずかしくない? 礼央には彼女がいたから、そんなことないか……」
僕がしゅんと眉尻を下げて言うと、礼央は頬を薔薇色に染めて答えた。
「え? こ、恋人かぁ……」
礼央は耳の先まで真っ赤になっている。僕はその表情を見て、さらに恥ずかしくなって俯いた。
「や、やっぱり恥ずかしいよね……」
恋人という響きは、僕にとってまだ甘酸っぱくて照れくさい言葉だが、礼央と一緒だったら悪くない。それが嬉しくて、ふっと笑みがこぼれた。礼央も僕の顔を見ながら、同じように微笑んでいる。
「でも、嬉しいな。凪と恋人になれたの」
「うん。僕も」
僕は沈みゆく夕陽をまっすぐ見つめて、静かに口を開いた。
「礼央となら、本当の自分で生きていける」
僕の言葉を聞いた礼央も、優しく微笑みながら答えた。
「俺も。凪と一緒なら、なんでもできる気がする」
空は徐々にオレンジと深紫のグラデーションへと変化していく。僕は部活を終え、片付けをしている生徒たちを見ながら言った。
「明日から……変わるのかな」
「きっと。でも、俺がそばにいるから大丈夫」
僕と礼央は、まっすぐ前を見つめた。これからの未来を見据えるように。まるで新しい世界の扉が、今まさに開かれようとしているみたいに。
「よう。おはよう、凪」
翌朝、寮を出ると玄関前に礼央の姿があった。
「え? どうしたの?」
僕は礼央の元に小走りで駆け寄った。寒い中、しばらく立っていたのだろう。頬と耳が林檎のように赤くなっている。
「恋人とは少しでも長くいたいからさ。迎えに来た」
「……っ!」
僕はその言葉を聞いて、心臓の鼓動が止まらなくなった。
――礼央って、こんなにも情熱的な人だったんだ……。
でも、嬉しい。だから、僕は自分の気持ちを素直に伝えることにした。
「ありがとう。僕も一緒にいたかったから、嬉しい」
「そ、そうか?」
礼央は頬を染めながら、はにかむように微笑んだ。僕たちは肩を並べて学校へ向かう。触れ合うほどの近い距離で、礼央の温もりが伝わってくる。
「でもさ、凪の寮、いいよなぁ。学校まで徒歩五分って……」
「ははっ。でも僕は、いつも早い時間に学校に行ってるんだよ」
「こんなに早く行って、いつも何してるの?」
僕は礼央を見ながら、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ふふ。学校に着いてからのお楽しみ」
五分間の短いデートを終え、学校に着くと靴を履き替えた。廊下を並んで歩いて向かった先は図書館だった。
「図書館?」
礼央が不思議そうな声を上げる。
「うん。僕が、僕でいられる唯一の場所だったところ」
そう言って図書館の扉を開けた。冬の早朝の図書館は、静寂に包まれてひんやりとした空気が漂っている。僕は窓際の定位置に座った。
「いつも朝の時間、ここで『完璧な志水凪』の仮面を外して、自分らしく過ごしていたんだ」
僕が唯一、本当の自分でいられた時間だった。けれど、それも、もう必要ない。
「でも、もうその時間はいらなくなったね。僕には礼央がいるから」
「……っ!」
礼央は見る見るうちに顔を赤らめた。
「そ、そんなこと言うなよ……」
恥ずかしがっている礼央を見て、僕はくすりと笑って言った。
「これからは朝の時間、ここで受験勉強するよ。自分のやりたいこと目指すために」
「じゃあ、俺も付き合う」
僕と礼央はノートを取り出し、勉強を始めた。時々、目を上げて見つめ合い、微笑み合いながら。こんな些細な時間が、こんなにも幸せだなんて思いもしなかった。
予鈴が鳴った。僕たちは片付けて図書館を後にしようとした時、礼央が僕の腕をそっと掴んだ。
「凪、抱き締めても……いい?」
僕はこくりと頷く。礼央は僕を優しく抱き締めた。僕は礼央の胸に顔を埋め、彼の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。石鹸の匂いと、礼央だけの甘い匂いが混じり合って、めまいがしそうになる。
「あ〜、離れたくないなぁ」
礼央が僕の耳元で囁いた。背筋がゾクリと震える。
「じゃあさ、僕が礼央のクラスに休み時間、会いに行くよ。僕も少しでも一緒にいたいから」
それから僕と礼央は、朝一緒に登校して図書館で勉強し、休み時間ごとにお互いの教室を行き来した。昼休みは一緒に食事をとり、放課後には図書館で勉強して一緒に帰る。数日もすると、クラスメイトの間で噂になっていた。
「あれ? 鳴海と志水、仲良くない?」
「そういえば最近、ずっと一緒にいるよな」
ずっと一緒にいると、こう言われることは覚悟していた。でも僕は、もう礼央と一緒にいるから。二人で前を向いて歩くと決めたから、全然気にならない。
休み時間、礼央と廊下で話していると、蓮が近づいてきて大声で言った。
「おぉっ! やっとくっついたか〜!」
僕はぎょっとして蓮を見た。
「れ、蓮。声が大きいっ!」
蓮はにやりとしながら僕に言った。
「なぎっち、おめでとう!」
「あ、ありがとう……」
そして蓮は礼央の方を向いた。
「鳴海、なぎっちのこと、よろしくな。頼んだぞ!」
蓮は礼央の肩をぽんぽんと叩く。礼央は「任せとけ」と頷いた。
それから、僕と礼央の関係はあっという間に学校内に知れ渡った。
「志水と鳴海、付き合ってるの? お似合いだよな」
「なんか意外だけど、納得する」
「あの二人の雰囲気、すごくいいよね」
「応援したくなるカップルだ」
男同士で付き合っていると知られたら、もっと否定的なことを言われるのではないかと思っていたのに、意外にも好意的な反応が多かった。
「意外とみんな優しいね」
「うん……僕が心配しすぎていただけかも」
放課後、二人で過ごす図書館の時間が、今まで以上に温かく愛おしいものになった。
もしかしたら、一部の人は嫌悪感を抱いているかもしれない。でも、僕たちのことを認めてくれている人がいるということが、何よりも嬉しかった。
下校時間になって、僕は自分から礼央の手を取った。礼央は少し驚いた表情を見せたが、それを優しく受け入れてくれた。肩を並べて学校を後にする。そばを通る生徒たちは皆、温かな眼差しで僕たちを見送ってくれた。
新しい毎日が、今、始まったのだった。
手を繋いだまま校門を出ると、桜並木の向こうに夕陽が沈もうとしていた。まだ蕾も膨らんでいない枝々が、春の訪れを静かに待っている。
「来年の春には、ここで桜が咲くんだね」
僕が呟くと、礼央が僕の手を優しく握り返した。
「その時も、こうして一緒に歩いてる?」
「当たり前じゃん」
礼央の即答に、僕の胸が温かくなる。
――そうだ。僕たちにはこれから、たくさんの季節が待っている。桜の春も、緑陰の夏も、紅葉の秋も、そして再び巡る雪の冬も。
全部、礼央と一緒に迎えるんだ。
「ありがとう、礼央」
「何が?」
「僕に、本当の自分で生きる勇気をくれて」
礼央は立ち止まって、僕の方を向いた。夕陽が彼の横顔を黄金色に染めている。
「俺の方こそ、ありがとう。凪に出会えて、本当によかった」
風が頬を撫でていく。もう、あの雪の日のように冷たくはない。冬の冷たい風だが僕たちには、優しい風だった。
僕たちは再び歩き始めた。影が長く伸びて、二つの影がぴったりと寄り添っている。まるで離れることなど考えられないみたいに。
愛は、確かにここにあった。僕の胸の中に、礼央との間に、そして僕たちが歩いていくこれからの道のりすべてに。



