千尋の家に呼ばれた。

ルイの運転する車に乗って千尋の家に着いた。

この前のお礼もかねて昼食を御馳走してくれる。

こうして家に呼ばれるのは中学以来だ。

楽しみで気が急いだからか予定より早く着いてしまった。

「ルイ君も来たんだ!さあどうぞ」

玄関に出てきた千尋が笑顔で迎えてくれる。

「千尋さん、僕はこれから用事があるんですよ」

「ルイはね。これからデートなの」

「えっ。そうなの?」

「はい。じゃあ一華。時間になったら迎えに来るから楽しんで」

ルイを見送った後に私は千尋の家に入った。

「早かったのね」

「楽しみにしていたからつい早く家を出ちゃって」

「まだトマトに水をやっていたところだったから。一華もどう?」

「いいわよ」

私たち二人は庭に出た。

午前中の日課と言ってトマトに水をやる千尋。

私はそれを横に佇んで見ている。

午前中の柔らかい日差しが降り注ぐ中、水に濡れたトマトの赤と緑が目に鮮やかだ。

あのときも同じだった。

中学生のとき、学校帰りに千尋の家に行った。

綺麗で大きな家。

私が生活している環境とはなにもかも違う。

そのときの会話は今でも覚えている。

「素敵なお家だね。……羨ましい」

「一華は損してるよ。人は産まれてくる家族も環境も選べない。もし自分にマイナスな環境なら変えないと」

「環境を変える?」

「自分で掴み取るのよ。自分で」

そう言って笑顔を向ける千尋はまぶしかった。

「どうしたの一華?」

「昔を思い出してたの。こうして千尋が水をやるのを見ていたなって」

「懐かしいね」

微笑む千尋。

本当にこうしていると時間が遡ったような錯覚に陥る。

頭の中が今と昔を行ったり来たり。

決して混ざり合わない。

「素敵ね。時間が経つのも忘れちゃう。こうして見ていると」

トマトに水をやる千尋を見ていると、足下に虹が立ち、その常人離れした美しさにゾクッとした。

「でしょう?癒されるっていうのかな」

千尋はトマトを見ながら言う。

「変わってないのね。昔から」

「進歩がないだけよ」

「まだ観察ノートつけてるの?」

「ええ。この子達の生きた記録だから」

千尋の観察ノートを私は見たことがある。

もうかなり親しくなっていたころ、家に呼ばれたときに千尋がいない隙に見てしまった。

書かれていた内容が頭に浮かんでくる。

トマトの写真の横に人の名前。

さらにページをめくる。

「栄養→贖罪」 「収穫期」の文字が書かれていた。

「あの人。亡くなったお母さんはどういう気持ちで栽培してたんだろう?ってね。最近たまに考えちゃう」

千尋の言葉で現在に引き戻された。

「お母さんも家庭菜園を?」

「ええ。亡くなった後に手入れのされていない、放ったらかしのトマトを見て手入れを始めたのがきっかけ」

「あの人は私みたいに記録とかつけてなかったから。私とは違う楽しみ方をしていたのかもね」

「綺麗なトマトね。上手に育ってる。今度いくつかちょうだいうちの料理にも使ってみたい」

「一華みたいな料理が上手な人に使ってもらえたら、この子達も喜ぶと思うわ」

トマトを見つめる千尋の瞳から慈愛を感じた。

「種をまいて一つ一つ観察して、育て方をその都度変えてお水をあげたり、栄養をあげたり……でもあげすぎないようにしたり、一人一人バラバラだから、気をつけて育てないといけないの。一人一人が望む言葉をかけてあげながら。でもお水も栄養もあげすぎちゃうと破裂しちゃうから」

「大変なのね。まるで人を育てるみたい」

「そうかもね」

「でも、これなんて、結構な大きさだし、もういいんじゃない、これ以上は上げすぎになっちゃうんじゃない?」

「うん、でももう少し様子を見ようかなって」

「これ私にちょうだい。色もいいし、大きさもいいし」

千尋の目の前でトマトをもぎ取った。

「いいよ。どうぞ」

千尋はいつもの笑顔で言ったが、その一瞬前に見せた表情は過去に一度だけ見たものだった。

私がお母さんと一緒にやり直すと報告したときに見せたもの。


昼食時の話題は智花と福島。未だ行方不明のクラスメイトの話しになった。

「福島先生が智花の死にどう関わっているのかしら……」

千尋が暗い表情で言う。

あれから智花の遺体から福島の指紋がついた包丁が発見されたとは、どの媒体のニュースでも言及されていなかった。

遺体のそばから行方不明中の福島の所持品が見つかり、事件に巻き込まれたものと見て捜査中と繰り返し報道されていた。

「ニュースを見ていても同じことの繰り返しで、目新しい情報がないもんね。警察も殺人事件だから本腰はいれてるんでしょうけど」

あの小野寺は今度の事件をどう見るだろう。

そこに興味があった。

「平和だよね。私たち。なんだか申し訳ない」

力無く笑う千尋。

「愛は無事でいてほしいな。千尋の友人だし、いい人だし」

「他の人たちは?」

「悪いけど、他のは私からしたらどうでもいい人たち。私をいじめ、それを見て見ぬふりをしていた人だから。正直、なんの感情もわかない」

「そうだよね……」

「私がこうだからってわけじゃないけど、千尋もあまり気に病まない方がいいわ。心配なのはわかるけど」

「わかってる。わかってるんだ。ごめんね。暗くして」

申し訳なさそうに言う千尋に、私は笑顔で首を振った。

「それよりも美味しいわ。千尋の作ってくれたご飯」

「本当?良かった。一華の口に合うかどうか、それだけが心配だったの。だってあんなに料理が上手いんだもん」

「料理の味なんて誰と食べるかで全然違うんだから。私にとっては千尋と一緒に食べることが最高の味つけになるわ」

「それって、私の料理に対する評価としては微妙な感じじゃない?」

千尋に明るい笑が戻った。

「そんなことないわよ。とっても美味しい」

そう言って口を大きく開けて頬張る。

「もう。一華ったら」

互いに笑いあうリビングに、さっきまでの暗い影はなかった。



昼食を終えると千尋は紅茶をいれてくれた。

「そういえばどうだった?村重君と美術館に行って」

「そのことでちょっと相談があるんだけど」

千尋は改まった風に言った。

「なにかしら?」

「村重先生のことなんだけど」

「ああ、村重君ね。彼がどうかした?」

千尋が言うには、この前美術館に二人で行った帰りに告白されデートに誘われたそうだ。

「いい話しじゃない」

「でもなんだか悪い気がして」

「どっち?明さん?村重君?」

「両方。村重先生の好意は嬉しいけど、私は結婚しているし、今の生活に不満はないから……だから村重先生とはお付き合いできるわけないの」

「そう?良いじゃない。良いとこ取りすれば」

「もう。簡単に言わないでよ」

千尋は困った風に眉根を寄せながら笑った。

「仮に付き合っても村重先生にとっては時間の無駄でしかないもの」

「無駄かどうかなんてわからないわ。それは村重君が決めることよ。もういい大人なんだし」

「それが繁殖の機会を逃すことがわからないなんて」

「繁殖?」

「人間の性的欲求や興奮の根源は繁殖でしょ。私と一緒にいても無理なんだから」

千尋はセックスをこんなふうに考えていたのか。

これは進化心理学のような考え方だ。

聞いたことはあるが、私としてはにわかに首肯しかねる考え方だ。

「そんな。前にも言ったけど、恋も性も楽しむもの。娯楽よ。娯楽はたしかに無駄だけど、でも人生には無駄じゃないの」

「それはそうかもしれないけど」

「それとも歳下は好みじゃない?」

「そういう問題じゃあ」

「彼といてときめかなかった? 」

「新鮮な気分にはなったかな……」

「なら、このまま楽しんじゃえばいいのよ。明さんに悪いって言うのも背徳感がスパイスになって盛り上がるんじゃない?」

「なんか慣れた言い方は嫌だな」

「千尋も慣れちゃえばいいの。これから」

どうにも千尋は煮え切らない感じだ。

村重の方から強引にいかせるようにしようか考えた。

「もったいないよ。若い方から寄ってくるなんて、これからどんどんなくなるんだから」

「そうだけどさあ……でもねえ……」

大人になった千尋はこんなにもモラルに縛られる人間になったのか?

それとも昔から恋愛にはそういう価値観なのか?

なにしろ、千尋とこういう話をするのは初めてだった。

最初からこうなのか?今までの過程でそうなったのか?

まあいい。

多少強引にやられた方が吹っ切れるだろう。

村重には強引でもいいからさっさと関係を結ぶように言おう。

「そういえば一華はルイ君とどうやって出会ったの?」

ふいに千尋が聞いてきた。

「どうしたの?急に」

「純粋に興味があるの。どうやって出会ったのかなって」

ルイとの出会い。

あれは私がパリにきて五年ほどの頃だった。

当時の私は名前も作品も売れ出して、パトロンも何人かつき、生活には全く困らずに創作に没頭できる環境にいた。

私が女を武器に賞をとり、パトロンを籠絡したという噂もあったが、そんなことは全く気にならなかった。

褒貶は人にあり。他人はあれこれ勝手気ままに言えばいい。

あの頃の私は、いろんなことに負けまいとしていた。



わないとならない。

千尋に対して能動的なアクションが成されてない今なら、まだ緊急ではないと見ていいかも。

「いいわ。今まで通りにして」

「わかった」

運転するルイの横顔に目をやった。

ルイは私と出会ったことで、人生が変わった。

私はルイを引き取ってから毎晩洗脳した。

安定剤とライトを使い、朦朧とした意識に私を刷り込んでいく。

繰り返すうちにルイは私の崇拝者になった。

このことは誰にも話していない。

そこでさっきの会話を思い出した。

私は千尋にルイとの出会いを正直に言う必要はなかったのではないか。

今になって僅かな不安の波紋が広がる。

「どうかした?俺の顔見つめてるけど」

ルイが前を見ながら聞いてきた。

「さっき千尋にあなたとの馴れ初めを聞かれてね。それで思い出していたの。会ったころを」

「行倒れのアル中を助けたって」

笑いながら聞くルイ。

「ええ。それだけ話しといた」

「これからどこかへ行く?」

「家に帰りましょう」

ルイは返事をすると高速の入口に進路を変えた。

その晩は千尋からもらったトマトでサラダを作った。

格別な味だった。