「でさあ、その人がめっちゃかっこよくて!」
休み時間の教室特有のざわめきの中、親友の花恋がわたしに喋る。
興奮したようなその口調から、いつもの恋バナであることが推し量れる。
「花恋、ほんと恋バナ好きだよね」
わたしは思わず言う。
「そうだよ、優雨は男性恐怖症なんでしょ? あんまり恋バナとかしない方が……」
「ああいや、話を聞くだけなら平気だよ。でも、単純に飽きてきたっていうか」
「ひどーい」
わざとらしい花恋の一言に笑いが起こる。
実際のところ、同じ話をずっとされたら飽きるという、ただそれだけの話。
「で、その人の名前は?」
「お、灯里は気になる? 優雨は? 優雨は気にならないの?」
「うん、そうだね、気になるね」
「ちょっと、すごい棒読みじゃん! ほんとに気にならないの!?」
「うん、興味ない」
棒読みへの異論は、即答で叩きのめす。
「まあ話すけどね。石黒圭っていう名前の人。隣のクラスで、めっちゃモテてるらしいよ!」
「あ、わたしも他の女の子から、名前だけ聞いたことある。確か保健と体育が一緒なんだよね。優雨は?」
「聞いたことない……。あんまり、男の子の話しないから」
「そうだったね、ごめん。っていうかその石黒って人、めっちゃモテてるんだったらもう彼女とかいるんじゃないの?」
灯里の疑問に、わたしも同様にうなずく。
モテてる人は、恋人なんて選び放題なんじゃないだろうか。
「確かに花恋も可愛いしモテるけど、彼女がいたら意味ないよね」
灯里に続いたわたしの言葉も聞いて、花恋は神妙な表情をする。
「それが、わかんないの。いろんな人に聞いてるんだけど、みんな知らないって言うの」
花恋の神妙な表情に、わたしや灯里も首をひねる。
「まあ、とにかく。石黒くんの話、なんか聞いたら教えてね」
「うん。花恋でも知らないようなこと、聞くかわかんないけど」
「ねえねえ、わたしの話もしていい?」
灯里が切り出す。
わたしたちは二人そろってうなずいて、続きを促す。
「わたしの友達も最近彼氏ができたって言ってるんだよね」
「おお、良かったじゃん」
わたしが相槌。
「そう、おめでとうって言って祝って。確か手を取りあって跳ねまわったりなんかしたかな」
「すごい喜ぶね」
花恋の相槌。
「そしたら彼氏の顔でマウント取ってきたの。マジで最悪」
「あ、そっちに行っちゃった!? 仲のいい友達と一緒に喜んでる流れだったじゃん」
花恋のツッコミが鋭く入る。
「いや、その彼氏がガチでイケメンだったから」
「灯里も大概面食いだよね……」
「"も"ってなに!? 他に面食いの人がいるみたいじゃん!」
「あんただよ」
わたしの感想に花恋が冗談めいたキレ芸をして、灯里がやっぱり鋭くツッコむ。
なんだかもう収拾がつかなくなっていた。
そうしているうちにチャイムが鳴って、昼休みが終わる。
「次の授業、もしかして人によっては隣のクラスと合同なんじゃない?」
石黒くんのことばかり考えているからか、花恋は隣のクラスには敏感に反応する。
「あ、確かに。石黒くん選択なんなの?」
そこで灯里が石黒くんの選択を尋ねるというファインプレー。
「いや、さすがにそこまでは知らないから……教室に行ってからのお楽しみじゃない? あ、でもわたしと一緒ではなかった気がする」
「わたしが書道で、花恋は音楽だっけ? 灯里は美術だよね」
「うん。綺麗に別れたから、石黒くんと誰かが被る可能性はけっこう高いね。花恋は……まあ、わたしたちが頑張って情報取ってくるから」
灯里が返答したのに対して、花恋は少し残念そうに首を振る。
「そういえば、書道は自由席なんだっけ? じゃあ石黒くん書道だったら大チャンスじゃない?」
「わあ、わたしのプレッシャーすごい……!?」
「いやいや、全然無理はしなくていいからね? そんな男性恐怖症の子に男の子と話すことを強要するほど鬼畜ではないから!」
花恋が心配の言葉をくれる。
わたしは頑張って石黒くんの情報を獲得しなければ、と気合を入れて教室を移動する。
「石黒圭くん、だよね。隣座ってもいい?」
恐る恐る声をかける。怖い人だったらどうしよう、という気持ちが強い。
でも、親友のためにはこれくらいしなければ。
「いいよ。初めまして、なんで俺の名前知ってるの?」
優しい声で促されて、座る。
心底疑問そうな声色から、会話が嫌というわけではなさそうだと察する。
そこで、ほっと安堵の息を吐く。石黒くんは少し不思議そうにこちらを見て、小さく笑う。
「友達から聞いたんだよね、すごくいい人だって言ってた」
「へえ、光栄だ。ところで、君はなんて名前なの?」
「高澤優雨、です」
「隣のクラスだよな、何回か見たことある。あんまり男子と喋ってるところ見ないけど……」
「ちょっとだけ、男の子が怖くて」
「わ、ごめん。馴れ馴れしかったか。ちょっと距離取った方がいいか? あれ、でも優雨が進んで隣に座ったんだったっけ」
肩を並べて座っていたのを、わたしの言葉を聞いて少し椅子を遠ざける。
「うん、優しい人なら大丈夫だから……」
「そっか、まあ怖かったら全然話さなくてもいいから」
その優しさに、わたしは思わず笑みを浮かべる。
ここまで気遣ってくれる男の子はいつぶりだろう。
「男の子が怖いっていう影響で、わたし、あんまり男性経験がないの……」
「そうだよね」
「だから、お手柔らかにお願いします……」
「わかった。……そろそろ授業始まるね。優雨は、授業真面目に受けるタイプ?」
「うん。っていうか、授業真面目に受けないタイプってなに……?」
「ほら、俺の知り合いに授業真面目に受けなくて留年した先輩がいるんだよね」
「あ、待って。その人わたしも知ってる……」
なんなら、書道の授業も同じだ。
ちょうど石黒くんの前に座っているので、わたしと石黒くんはそちらの方を見る。
「あれ、なんか僕のこと見てない?」
「急に振り返らないでくださいよ、翔先輩」
視線を感じて振り返った白橋先輩に、石黒くんが苦言を呈す。
理不尽。
「これ、いつものやつやった方がいい流れ?」
「やっときましょう白橋先輩」
こういう時は、盛り上げておくのが一番。
「春は好きな人のことを見ていてテストは赤点。夏も好きな人のことを見ていてテストは赤点。秋も好きな人のことを見ていてテストは赤点。冬はただ勉強をサボって留年。どうも白橋翔です」
「よっ、恋多き男!」
「恋愛のプロ!」
「全部失恋!」
「そして留年!」
「あとの二つは悪口だろ! あと韻を踏むな!」
「……ってことで、優雨も翔先輩とは知り合いだったんだな」
「いい意味でも悪い意味でも、目立つからね」
「悪い意味ってなんだ」
「恋人いたことないのに恋愛のプロってなんなんだろうね」
「まあ、それ以外なにもないから。恋愛のプロくらいは名乗らせてあげないと可哀想じゃん?」
「一応先輩なんだけど? ひどい言いようだね!?」
「留年してるんだから先輩かすら怪しいよな」
「可哀想じゃん、ここは嘘でも先輩だって言ってあげないと」
「全部聞こえてるよ? その方が可哀想だよ?」
書道の授業なので、片手間に筆を持ちつつ、石黒くんと話す。
「結構話弾んでるし、翔先輩とも普通に話してるよな。男子が怖いってもしかして冗談?」
「いやいや。石黒くんは優しくて話しやすいし、白橋先輩は……なんか男子って感じしないじゃん?」
「え? もしかして僕が毎回フラれる理由、それ?」
「確かに、翔先輩はあんまり男子って感じしないな……」
「だよねだよね!」
「待って、その話詳しく……」
白橋先輩の声は、虚空に寂しく消える。
「高澤、ちょっと消しゴム拾ってくれない?」
隣の席の知らない男の子が、わたしに声をかけた。
「え、あ、その……」
その少し低い声が、怖い。なにより、わたしよりずっと大きな体が、怖い。
「……?」
「う、えっと……」
怪訝そうな表情が、まるで怒っているかのように思われた。
時間が、ずっとずっとゆっくり流れる。
沈黙。
「書道の授業で消しゴムは使わないだろ。優雨は男子が得意じゃないんだから、あんまり怖がらせるなよ」
知らない男の子に、笑いながら声をかける石黒くんが、さっきまでよりずっとかっこよく見える。
わたしは、安堵して、笑う。
「お、優雨いいじゃん。笑ってる方が、さっきまでよりずっといい」
そうやって優しく声をかける石黒くんが――。
俯く。
駄目じゃん。石黒くんは、花恋の好きな人なんだから。
そうだ、花恋の話をしてみよう。
「そういえば、わたしのクラスの花恋って知ってる? 桑島花恋」
「全然聞いたことない。優雨の友達?」
「うん、一番の親友。その子から、石黒くんのこと聞いたんだよね。いい人だって言ってたから、気になって」
「へえ。じゃあ俺と優雨が出会ったのはその子のおかげなのか」
なんかこの人、言い回しがいちいち思わせぶりだなあ。
モテるのも納得だけど、そういうところはあんまり好きなタイプではないかも。
「まあ、そうだね? それでその子が石黒くんと話してみたいって言ってて……」
「ああ、そういうこと。優雨はそれでいいの?」
俯く。
「と、いうと?」
わかってないふりをしてみる。
「俺がその子と付き合うかもよ?」
究極の二択を迫られているみたいだ。
「……駄目」
言ってしまった。
「友達思いなのはいいけど、たまには自分のことも考えなよ」
「……いや、全然友達思いじゃないし、いつも自分のこと考えてるよ」
「ふうん。優雨が満足してるなら、それがいいけど」
そう言った石黒くんは、見透かすようにわたしの目を見た。
わたしは、そんな彼からさっと目を逸らした。
「真剣な話はこのくらいでいいや。翔先輩、気まずいからって急に前向くと不自然ですよ」
「じゃあ僕は前向けばいいのか後ろ向けばいいのかわかんないじゃん」
ツッコミみたいな表情と口調だけど、彼が留年していることを加味するとちょっと無理があるのではと思える。
「横向けばいいんじゃないですか?」
「へえ、君は僕がずっと横向いて、先生に注意されればいいと思ってるんだ。それで横向いてたせいで首の骨も折って、その痛みに耐えながら生徒指導室で先生に指導されればいいと思ってるんだ。それで留年すればいいんだ」
「ヒス構文やめてください」
ふたり、仲いいなあ。
わたしは少し置いてきぼりを食らいながら、他人事みたいに考えた。
「花恋ごめん! 石黒くん美術じゃなかった!」
「そっかあ。優雨は? 石黒くんいた?」
「いたよ。ちょっとだけど、話もできた」
わたしの言葉に、花恋は一気に顔色を明るくする。その様子を見て、わたしは罪悪感に表情を曇らせる。
「よかった! 石黒くんどうだった? 恋人の話とかしてた?」
「いや、それはしてなかったかな。でも、花恋の話はしたよ。知らないって言われちゃったけど」
「花恋のこと知らない男子なんて珍しいね」
灯里がコメントする。
確かに花恋は有名ではあるけど、そこまででもないような……。
「言いすぎだよ灯里。わたしより石黒くんの方がずっとずっと有名だと思う」
「そういえば優雨、石黒くんってかっこよかったの?」
灯里に言われて、記憶を思い出すように虚空を見上げる。
「うん、かっこよかった。花恋が好きだって言うのも納得」
そういうわたしの目を見る灯里の表情は、少しの驚愕を孕む。
しかし、そうしているだけでは気まずいと思ったのか、彼女は質問を続ける。
「顔がかっこよかったってこと?」
「いや、顔もかっこよかったんだけど、なによりわたしにも優しかったから、モテるんだろうなって」
「あー……。もしかして、話したの? 優雨が男性恐怖症だってこと」
「うーん、男子が怖いってことは、一応。それをどのくらい深刻に受け取ってるかはわからないけど」
「優雨、そういうことあんまり他の人に話さない方がいいと思う」
花恋が気を遣って、優しく諭すように言う。
「そうだよ、今回石黒くんは優しい人だからなんとかなったけど、そうじゃなかったら……。まあ、石黒くんなら大丈夫って思って話したんだとは思うけど」
二人とも、わたしを心配してくれるいい友達だ。
「ありがとう」
心配してくれるのは嬉しくて、笑う。
でも、だからこそ後ろめたくて、俯く。
「優雨、体調悪い?」
「え、なんで?」
突然、花恋が私をのことを気遣うように尋ねる。
「なんか、今日よく下向いてるから……体調悪いのかもしれないって」
「全然、そんなことはないんだけど……」
「ないんだけど?」
灯里が続ける。
ここからはもうわたしのことを追及する空気感だった。
「ごめん、言えない」
「ちょっと、気になるじゃん」
「そうだよ、気になる。石黒くんのこと好きになっちゃったとか?」
灯里が異議を申し立てると、花恋もそれに乗っかるように茶化す。
しかし、その茶化しはけっこうまずかった。
わたしは思わず黙り込む。灯里は、そんなわたしを凝視する。
「……ごめん」
「え、それはなにがあったのか言えないっていう……?」
花恋が、確認や念押しみたいに、恐れながらわたしに尋ねる。
灯里は、わずかに汗を垂らしながらわたしと花恋を交互に見る。
わたしは、首を横に振った。
「石黒くんのこと」
続きを言うまでもなく、花恋は絶句する。灯里が、そんな花恋を見る。
「そう、なの……。一回、頭冷やしてくる……」
それだけ言い残して、花恋は教室を後にする。
わたしと灯里だけが、残された。
「優雨……大丈夫?」
「え、心配するのは花恋の方じゃないの」
「いや、花恋が石黒くんのことを好きだなんて言ってる中、わたしもだなんて言いだすのは、勇気のいることだったでしょ」
「それは、そうだけど。でも花恋の方が」
「いいの。優雨は他人の心配をしすぎ。もっと自分のことを気にしてもいいの」
「それ、今じゃないでしょ。灯里はわたしを励ます余裕があるなら、花恋と話をしてきてよ」
「優雨は行かないの?」
「わたしとは顔合わせたくないと思う」
「そうかも」
小さく無表情で、灯里が同意する。そうして、花恋と同じように、灯里も教室を去った。
しばらくぼうっとしていると、教室の扉が開く。
花恋が戻ってきたのかと思い、そちらの方を向くと、それは花恋ではなかった。
「白橋先輩」
「お、残ってる。大丈夫?」
「大丈夫、ってなんですか」
「なんか、優雨ちゃんの友達も圭のこと好き、みたいなこと言ってなかったっけ。それで迷ってるんじゃないかと思って。優雨ちゃんも圭のこと好きなんでしょ?」
「なんで知ってるんですか、そんなこと」
喋りながら隣の席に腰掛ける白橋先輩に、すこし不機嫌な目で尋ねる。
すると彼は、当然のことだとでもいうように説明する。
「いや、書道のとき話してたじゃん。僕書道も二週目だからあんまり練習がいらないんだよね」
「わたしが石黒くんのこと好きって話はしてなかったですよ。あと留年ネタやめてください、反応に困ります」
「優雨ちゃんが圭のこと好きなんて、見てればわかるでしょ」
「……こう見えても、やっぱり先輩は恋愛が得意ってことなんですね」
「どういうこと!? 皮肉!?」
慌てたように言う白橋先輩は、留年してるだけって、先輩には見えなくて、わたしは小さく笑う。
「白橋先輩、先輩っぽくないですね」
「いや、それは普通に悪口でしょ」
「でも、わたしの気持ちをちゃんと知ってるところは、先輩みたい」
「それ迷ってるところなんだよ……僕は先輩を名乗るべきなのか、同級生を名乗るべきなのか。で、優雨ちゃんは大丈夫なわけ?」
言われて、わたしは黙り込む。
その様子を見て、白橋先輩はあきれるように笑う。
「話ぐらいは聞くけど」
「じゃあ、遠慮なく」
そう言ってわたしが話し出そうとすると、彼は少しわたしの方に身を寄せる。
無意識で彼から離れようとして、ずれる。これ以上近づくのは駄目だった。
「近いです、先輩」
「ごめん。そういえば、男性恐怖症みたいな話、言ってたっけ」
「といっても、面識のある人と普通にする分には大丈夫なんですけど」
「普通にする、っていうのは?」
「たとえば恋愛とかするのはちょっと……」
わたしの言葉に、白橋先輩は怪訝そうな表情を浮かべる。
「でも、圭のことは好きなんでしょ」
「石黒くんは、なんか大丈夫なんですよ」
「悩みっていうのはそれ?」
「いえ、違います。……花恋――石黒くんのこと好きな親友なんですけど、その子に――嫌われたかもしれなくて」
「嫌われた」という言葉を口にするのに、勇気が必要だ。
「好きな人が、被ったから?」
「はい、そうです」
「それは仕方ないよ」
「だけど、花恋はたぶん傷ついて」
「恋愛っていうのは、ライバルに忖度した時点で負けなんだよ」
「え、白橋先輩は恋愛成就したことは、ないんですよね?」
「そうだけど。ライバルのことを気にかけてるやつが勝ったのは見たことない」
わたしのツッコミにも、白橋先輩はあくまで真剣に答える。
「仮定の話ですけど、もしわたしが石黒くんと付き合ったら、花恋との関係はどうなるんですか」
「どうだろう。僕が見てきた限りでは、意外といい関係になると思うんだけど」
にわかには信じがたいことで、わたしは眉を顰める。
「優雨ちゃん、初恋でしょ?」
「そう、ですね」
「だったらいいんじゃない、初恋が、決まりきった失恋なんて悲しいじゃない。譲るくらいなら、精一杯ぶつかってみなよ。それが、花恋ちゃんへの、そして圭への最大限の敬意だと思う」
「敬意」
腑に落ちる。
あまりにもしっくりするその言葉を、反芻する。
「きっと花恋ちゃんも、本当は気づいてる。優雨ちゃんは、なにも悪くないってこと。それで、ガチンコでぶつかってくるんじゃないの? その全力に応えるのが敬意で誠意でしょう」
「じゃあ、石黒くんへの敬意、っていうのは?」
「単純な話だよ。本当に石黒くんのことを思うなら、石黒くんへの恋を諦める理由は、自分自身か、石黒くんのせいであるべきでしょ」
そして、少し置いて、続ける。
「友達のために石黒くんを諦めるなんて、筋違いだ」
強く、心に響く。
「でもわたし、どうしたらいいかわからないです」
「まあ、友達のために石黒くんを諦めるのは良くないけど、友達を無視しろってことじゃない、それだけ覚えておけばたぶん問題ないよ。気を遣うのは優雨の得意分野だから」
「そんなわかったみたいなこと、よく言えますね」
冗談めかして笑いながら尋ねるわたしの言葉を、白崎先輩は真面目に受け止めたらしい。
「初めて会った時も、そうだったじゃん」
「……ああ、あの時」
「そう、僕がまだ先輩だった時」
「いや、その話はもういいです」
「なんでよ。今いいところじゃん」
「思い出したいと思ってないので」
「嫌な後輩」
「まあ、それでもいいですよ」
「僕はそろそろ帰るね。花恋ちゃんと話すの、忘れないように」
もちろんですよ、って心の中だけで返して、先輩が教室を去るのを見送った。
「花恋は、優雨を応援したいとは思わないわけ?」
「……先に石黒くんのことを好きになったのは、わたしだから」
放課後、空き教室。灯里が、詰める。花恋はどうしても意地を張る。
「百歩譲って、優雨と本気で戦うのはいいとしても、直接優雨を傷つけるとか、被害者面するとか、そういうのは」
「灯里には、わからないでしょ。わたしにとって、恋がどれだけ重要なものなのか」
「そりゃあ花恋みたいな感性はしてないからね」
「それどういう意味?」
「花恋の感性は変だってこと」
「変だっていいじゃん、わたしにはこれしかないんだから!」
会話は徐々にヒートアップし、気づけば言い合いになっていた。
「だいたいあんたは中立みたいな顔してわたしに話しかけに来て、結局優雨の味方なんじゃん!」
「違う、今の花恋が変だからそれを伝えようとしてるだけ! 中立だよ!」
「だったらなんでこんなに熱くなってるの!? 中立なんだったら、落ち着いて、客観的に見てよ!」
「客観的に、花恋は変だって言ってるんだよ! 好きな人ができたからって、ずっと仲良くしてきた親友を拒絶する!? 今の花恋は普通じゃない、頭冷やしなよ!」
「……わかったよ、頭冷やしてくる。でも、あんたも一回考え直してみなよ」
熱くなっていても仕方ない、そう判断して、花恋は教室を後にする。
灯里は、一人取り残された。
「あんなにムキにならなくてもいいじゃん」
灯里が一人ぼやいたところに、優雨が姿を現す。
彼女は灯里の正面に、座った。
「優雨。花恋とは、会った?」
「うん。すごく、つらそうな顔してた。泣きそうに顔をゆがめて」
「わたし、花恋の話を聞いてあげないといけないのに、感情的になっちゃった……」
灯里は俯いて、悔いるように歯を食い縛って、涙を零す。
「そっか。花恋は、傷ついてると思う?」
灯里があまりにも後悔しているように見えて、わたしはたずねる。
「きっと」
ただ一言、その重みは普通ではなかった。
「わたし、話をしてくる」
「え、優雨が? それ、大丈夫なの?」
「どっちにしても、ちゃんと向き合わないといけないんだから」
わたしが変わったと思ったのか、灯里の目は大きく見開かれて。
「優雨、すごいよ」
ただ純粋な賞賛が、わたしを駆り立てる。
そこへ、花恋が姿を現す。
「頭冷やしてきたよ」
わたしを見つける。
しばしの沈黙。
「……優雨も、いたんだ」
静かに告げた花恋が、わたしを見つける。教室に入って、わたしに向かい合う。
いつもより静かな雰囲気の中で、緊張の中で、花恋は漏らす。
「うん。花恋、大丈夫なの?」
「わたしは大丈夫だよ。ただ、ちょっと怒ってるだけ」
「……そうだった。わたしは花恋の心配をするんじゃなく、自分の決意を伝えなきゃいけない。花恋が怒っていたとしても、石黒くんへの気持ちは譲れないっていうこと」
花恋は目を見開く。わたしの意志が強くなったことに驚く。
「そうは言ったって、わたしも石黒くんのことを譲るつもりはない。これまでの人生、恋愛に捧げてきたんだから。そう簡単に諦められない」
「わたしも、諦めるつもりはないよ」
「……ずるい。後出しで好きになったくせに。わたしが石黒くんのこと好きだってこと、知ったうえで好きになって、譲るつもりはないなんて」
瞑目する。
反応はしないけど、その言葉には深く共感する。
「それを決めるのはわたしたちじゃない」
「なに? そうやって責任から逃れるつもり? 親友と同じ人を好きになったって、罪悪感から逃れるつもりなの?」
震える声で静かに責める。
「……」
じっと花恋の目を見る。
灯里は慌てながらも静観することしかできない。
「黙ってたってわかんないじゃん! そんな言い訳が成り立つんだったら、後出しし得じゃん!」
怒声が響く。
普段の高音からは想像もつかないような、低い声。
「そうだね。でも、せっかく初めて好きになれた男の子を、諦めるなんてわたしにはできない」
「なんなの!? どうせ、男性恐怖症だって嘘なんじゃないの!?」
そこでようやく、感情が大きく揺れる。
また、わかってもらえなかった。
悔しさに表情が歪む。強く奥歯を噛み締める。涙が零れそうだ。
「嘘じゃないよ。全部本当」
「ずるい。男性恐怖症だから、初めて好きになったから、そんな理由で後出しを許せるわけないじゃん」
その言葉全部、受け入れるのがわたしの役目。
そんな気がして、表情を消して、花恋の言い分全部受け入れるみたいに、深く深く頷く。
そして、告げる。ひどく一方的に。
「許してもらわなくてもいい。……しばらくの間は友達じゃなくて敵だね」
わたしはごくごく真剣な顔で、花恋に宣戦布告する。
花恋は怒りと涙に歪んだ表情でわたしを睨みつけ、わたしに背を向けて教室を去っていく。
ずっと静観していた灯里が、わたしを見て、申し訳なさげに両手を合わせてから、慌てて花恋を追う。
静まり返った教室で、わたしは一人椅子に座る。
「……優雨! やっと見つけた、探したよ。なんで誰も使わないような空き教室に……?」
突然姿を現したのは、石黒くんだった。
「花恋のこと探していろんな教室覗いてたら、なぜかこの教室に花恋がいたの」
「……その花恋ちゃんと、話してきたよ」
それを聞いて、驚く。
花恋と石黒くんが話すというのは、できれば避けたかったことだったから。
「なんて?」
「連絡先交換しませんか、って。すごい顔色悪かったから、LINE交換してから保健室に行くように言ったけど」
「……そっか。そういえば、わたしたちも連絡先交換してないよね」
すこし落ち込んで、話題を変えた。
「そうなんだよ。連絡先交換するの忘れたと思って、優雨のこと探してたの」
その言葉に、ひとまずほっと胸を撫でおろす。
「じゃあわたしがQRコード出すね」
そうやって言って、いつも通りに手際よくLINEを交換する。
「男の子が怖いって、プロフには書いてないんだね」
「……傷つけちゃうかもしれないから。それに、必要最低限の情報だけ載せるようにしてるし。石黒くんは、猫のアイコンなんだ。ちょっと意外」
「うちで飼ってる猫でね。白玉って名前なんだよ。ちっちゃいと思うじゃん? 名付けたときは良かったんだけど、どんどん大きくなっていって、気づけばホールケーキくらい大きくなっちゃった」
「へえ。でも、大きくなっても可愛いね」
「でしょ? 休日はずっと白玉眺めながら寝てる」
石黒くんには、意外に可愛いところもあったらしく、わたしは思わず笑みを浮かべる。
「……そういえば、花恋も猫好きだって言ってたな」
「あー、確かに猫好きそう。優雨はどうなの?」
「わたしも、猫は好きだよ。っていうか動物が全体的に好き、裏切らないから」
「わ、ごめん。傷付けちゃった?」
石黒くんの気遣いが身に染みる。
「ううん、大丈夫」
「……優雨が男の人のことを怖いと思うのは、なにか理由があるの?」
「それ、僕も知りたいかも」
ひょっこりと気づけば姿を現すのは、白橋先輩だ。
さっきの、ちゃんと「先輩」だった白橋先輩はどこへやら、コメディキャラに逆戻り。
「なんでいるんですか」
突然現れた白橋先輩に、わたしが尋ねる。
「いや、優雨ちゃんのこと気になって」
「翔先輩気持ち悪いですね、優雨に変なこと言わないでくださいよ?」
「僕のことなんだと思ってる?? 言っとくけどこれは、コメディキャラなんじゃなくて、場を和ませようとしてるだけだからね?」
「そうだとしたら絶対にタイミングを間違えてますよ?」
反論に対して即座に鋭く切り込む石黒くん。
「そうですよ、今はシリアスな雰囲気なので」
わたしも続ける。
「まあまあ、緊張しすぎだよ。そんなんじゃ柔軟に反応できないでしょ?」
「なんか、ちゃんと頼りになるところを見せられた後にそう言われると、確かにそんな気がしてきますね」
わたし、陥落。
残るは石黒くんだった。
「……優雨を傷つけないために、柔軟さ必要かもしれないですね」
石黒くん、陥落。
「で、優雨ちゃんが男性恐怖症になった理由、僕も聞きたい」
「昔、わたしに好きだって言ってくれた男の子がいたんですけど」
語り始める。
「わたしはその感情がよく理解できなくて、ただおぼろげに『嬉しい』とだけ思って、なんとなく浮かれていたんです」
二人は、相槌を交えながら、静かに聞く。
「それで、彼のことが好きかもよくわからなかったのに、彼に迫られるまま仲が良くなっていって……」
二人は固唾を飲む。
「その時、彼に彼女がいるっていうことが発覚して……わたしは勝手に裏切られたような気分になって、それでもう男性恐怖症でした。……だから、初恋ではないのかもしれません」
わたしが言い切るのを聞いて、二人はそれぞれの反応を見せる。
石黒くんは、険しい顔で黙り込む。
白橋先輩は、呆れたように溜息を吐く。
「これはひどい……。結局その彼はどうなったの?」
「さあ、どうでしょう。今でも幸せにやってるんじゃないですか?」
「そんなことより俺は『初恋ではないのかもしれません』ってところが気になったんだけど。優雨の話?」
わたしは白橋先輩と目を見合わせる。
「秘密」
白橋先輩と一緒に、笑う。
「ちょっと、ええ? 気になる気になる」
「駄目だよ」
石黒くんは、そうやって言いながらも、満足しているみたいだった。
「……ともかく、その男性恐怖症のせいで、男の子があんまり信用できなくて、怖いんだよね」
「で、僕は男の子と認識されてなくて、圭はなんか大丈夫、と」
「いい意味で、ですよ」
白橋先輩のまとめに、つけたす。
「なんでも『いい意味で』ってつければいいと思ってる?」
「そうじゃないんですか?」
「全然違うからね? 結構傷付いたよ?」
「翔先輩なら大丈夫ですよ」
「根拠ないでしょそれ」
「いやいや、これまでも大丈夫だったんでこれからも大丈夫ですよ」
「傷つけてるって自覚あったんなら直してよ……」
「おはよ、灯里」
「……優雨、おはよう」
「元気ないね」
「そりゃそうだよ、親友二人が対立して板挟み。元気だったらおかしいでしょ」
「そうなんだけど。妙に落ち込んでるというか、普通よりずっと気にしてるように見えて」
「……わたしさ、本音で話せるくらいの友達なんて、二人しかいないんだよ」
唐突に打ち明けられた本音。
灯里は深刻な表情をしていた。
「そっか。出来るだけ早く終わらせるから、待ってて」
「本当に早くしてね。じゃあ、わたし花恋の方行ってくるから」
そう言って、灯里は今度は花恋の席に歩いていく。
灯里も大変なんだな、なんて他人事みたいに思う。
「あー、高澤さん、これ学級日誌」
「あ、うん」
ぼうっとしていて、男の子に話しかけられたと認識する暇もなかった。
「あれ、高澤さん、男子は苦手だって言ってなかったっけ」
「治ってきたかも」
相変わらずぼうっとして、よそ見をしながら適当に喋る。
「へ、へえ。そうなんだ。よかったら今度、遊びに行かない?」
「考えとく」
ぼうっとしているうちに男の子は「じゃあまた後で」と言って去っていった。
「今の子、誰?」
石黒くんが突然現れる。
「男性恐怖症、克服したの?」
「どうだろう、今はそれどころじゃないからかもしれない」
「なんかある?」
「……いや、特には?」
「ないんじゃん」
二人して笑い合う。
「で、石黒くんはなんで急に現れたわけ?」
「前、優雨が言ってた……花恋ちゃん? その子に、今日の放課後呼び出されてて。どういう子か、詳しく見に来た」
「え、もう?」
「もうってなんだよ」
石黒くんは笑いながら尋ねる。
「いや、こっちの話」
「まあ、そろそろホームルーム始まるから、俺は戻るね」
「あ、ちょっと待って。昼休み、昨日の空き教室に来てくれない?」
「おう」
それだけ言い残して、彼は教室を後にする。
鳴り始めるチャイムに、わたしの心臓は、鼓動を速める。
「で、急に呼び出してどうした?」
「昼休みにごめんね。石黒くんに伝えたいことがあるんだ」
静寂は緊張だ。
石黒くんは黙ってわたしの目を見る。わたしも、黙って石黒くんの目を見る。
「わたし、石黒くんのことが――好きです」
一呼吸置く。
黙り込んだ空気を吸う。
「付き合ってください」
沈黙が長くて、心臓の鼓動が遅く感じる。
「無理」
「――え」
口を衝いたのは、声にもならない声。
「俺、彼女いるから。あーでも、セフレとかなら全然いいよ?」
なにも悪いと思っていないような表情、言葉選び、声のトーン。
その全部、受け入れたくなかった。
「わたしを、気遣ってくれたのは?」
「ああしたほうがモテるだろ。告白までしてくるのは想定外だけど。距離感下手じゃない? やっぱり恋愛経験ないから?」
無神経な言葉だ。
「あー、あれか。花恋ちゃんが呼び出したっていうから焦ったのか」
涙が零れる。
「泣いちゃった……。トラウマ、呼び出しちゃったからか」
彼がこんな人だったなんて。
優しい人だと、信じられる男の子だと思っていたのに、その対極みたいな……。
考えるほど、嗚咽が溢れる。
「悪いな、彼女の方が顔がいいから。花恋ちゃんは結構惜しいと思うんだけど」
辛い。
「優雨も、可哀想だよな。友情を失って、失恋もして。まあ、花恋ちゃんも同じか。あ、昼休み終わっちゃう。俺もう行くわ」
「……また、会いに来るね」
「おう、今度は彼女も連れてきて、どっちが可愛いか比べてみるか?」
彼はそれだけ言い残して、去っていった。
「……授業を受ける気にも、なれないや」
誰もいない空間に、一人虚しく呟く。
妙に落ち着いた低音。
「好きだったのに。好きなのに。彼女がいるなんて聞いてないし、でも好きだとも言われてないから、わたしが勝手に勘違いしてただけなのかな……」
「そんなわけない。正真正銘、圭が最低だっただけ」
「なんでいるんですか」
「優雨ちゃんが傷ついてるから」
「授業はどうしたんですか」
「それより優雨ちゃんの方が大事でしょ」
「……それだから、留年するんですよ」
「いいんだよ。僕のことを気にしないで、自分のことを気にして」
やっぱり先輩は「先輩」だ。
「わたし、石黒くんがあんな人だって知っても、嫌いになれないんです」
「それは、優しいから?」
「……たぶん、『恋愛経験ないから』」
「無理に嫌いになる必要はないよ」
「でも、石黒くんのこと好きなままでいても、きっと辛いだけ」
「それは成長に繋がる痛みだ。なんて言っても綺麗事か。そういう時に、親友を頼るんじゃないの」
言われて、はっとする。
「親友……。花恋に、伝えなきゃ。石黒くんのこと」
「どういうこと?」
「今日の放課後、たぶん花恋も石黒くんに告白するんです。だから、石黒くんは優しい人じゃないって、伝えないと」
「……どっちにしろ、放課後までは時間があるんだから、この時間くらいは休みな。僕で良ければ、話くらいなら聞けるから」
堪えていた涙が、安堵で零れる。
堪えていた声が、安堵で崩れる。
「……」
白橋先輩はただ静かに傍にいた。
近づきすぎるわけでもなく、遠すぎるわけでもない。わたしにはちょうどいい距離感。
「……」
声を押さえて、声を崩して泣く。
そんな中に、焦ったような花恋と灯里が現れる。
「優雨、大丈夫!?」
「優雨、どうしたの!?」
「花恋、灯里」
まだ涙で震える声を抱えて、名前を呼ぶ。
「ごめん、優雨! わたし、自分のことばっかりで、優雨のこと、ぜんぜん」
「わたしも、ごめん、辛いとき傍にいれなくて! どうしたの!?」
「……いいんだよ、花恋、灯里。わたしも自分のことばっかりだったし、二人が辛いときに傍にいるなんてできてなかった。花恋と灯里に、一つずつ言いたいことがある」
白橋先輩は、変わらず優しく見守っている。
「石黒くんには、彼女がいるよ。わたしでも、花恋でもない」
「……優雨」
明らかに落ち込んだような花恋は、それでもわたしを気にかけるように声を漏らす。
灯里は、ただすぐ近くにいる。
「桑島さん、田原さん、授業中ですよ!」
二人はきっと、教室から突然抜け出してきたのだろう。
追いかけてきた先生が、声を張り上げる。
「……今は、いいでしょう。友達の傍にいてください。ただ、あとで呼び出します。白橋くんは今すぐ職員室まで着いてきてください」
「なんで僕だけ!?」」
白橋先輩は、素っ頓狂な声を出して、職員室に連行されていった。
「優雨。放課後、石黒くんと話しに行くよ」
花恋が、わたしに決定事項を通達するように、告げる。
「待って花恋、今の優雨は石黒くんとは……」
「怖いかもしれないけど、辛いかもしれないけど、わたしは気が済まない」
「……わたしも、必要なことだと思う。ちゃんと乗り越えないと、ずっと男性恐怖症なんて言ってられないよ」
再び涙が溢れて、止まらない。それでも、言い切る。
「優雨、花恋。わたしも行きたい」
灯里が、続く。
わたしと花恋は目を見合わせて、うなずく。
「いや、本当ですって! 優雨ちゃんが傷ついてたから、傍にいてあげようと思っただけですよ!」
職員室、先生と白橋が言い争う。
「でも、高澤さんは男性のことが全般的に得意じゃない。矛盾ですよね、『傍にいてあげる』という行為がプラスにならないことは容易に想像できます」
「違うんです! 優雨ちゃんは、僕のことは男だと思ってなくて、平気らしいんですよ!」
「……さすがにそれは無理がありますよ。観念してください」
「まあこの際僕のことはまあいいですよ、でも放課後の彼女たちは自由にしてやってくださいよ!」
「いや、白橋くんの言うことはあまり信用できないですね……」
「なんで!?」
「日ごろの行いです」
「そう言われるとなにも言えませんよ、確かに留年してるんですよ! それでも今回だけは信じてください!」
「……まあ、いいでしょう。その代わり、次やったら二留も視野に入れておいてください」
「視野に入れるもんじゃないですそんなもの。そもそも一留ですら怪しいでしょ」
「じゃあ留年しないでください。勉強してください提出物出してください」
「ごめんなさい、僕が悪かったです」
「お、花恋ちゃん来たね。やっぱ優雨よりは可愛いよ」
隣に可愛い女の子を携えて、石黒くんが待っていた。
そこは、もう定番となってしまった、いつもの空き教室。
「優雨と……知らない人も連れてきたんだね。公開告白?」
「もともとは告白するつもりだったけど、もう違う」
「あー、優雨から聞いたのか。あんまり広めないでよ? ま、俺の言うことの方が信憑性は高いと思うけどね」
「本当、あなた最低だね。優雨も、花恋も、どれだけ傷付いたかわかってるの?」
眉を顰めながら、灯里が切り出す。
「知らないよ、俺は異性恐怖症でも恋愛中毒でもないんだから」
「そうよ、圭があなたたちの気持ちなんてわかるわけないでしょ」
石黒くんの隣に立つ女の子。
彼女も口を開いて加勢する。
「その子は……石黒くんの彼女?」
花恋が尋ねる。
しかし、それはこれまで抱いていた興味とかよりも、もっと違う感情だった。
「うん。圭にちょっと優しくされて飛び上がってるあなたたちとは違う」
わたしは、まだ黙ったまま。
「わたし、石黒くんのことが嫌い。だから、もう二度と会わないようにしよう」
花恋が、怒りと憎悪と、いろいろなマイナスの感情を込めて、力強く告げる。
わたしは、そんなに割り切れなくて。
「……石黒くん。わたしはまだ、好きだよ」
静かな空気がゆらぐ。
ちょっとでも、ほんの僅かでも、石黒くんの心に響いたらいい。
「彼女と別れろなんて傲慢なことは言わない。ただ、もうちょっとだけ、他人に優しくなることはできるって、まだ信じてる」
「圭はもう、十分優しいでしょう。少なくとも表面上は、気遣って、話題も提供して、場を回して」
「本音でも、人に優しくなってくれる。きっとそうなれる」
「……俺が? 冗談はやめろよ、そのオチが翔先輩みたいな結果だろ?」
「わたしは、翔先輩の方がいいなって思ったよ。自分勝手でも、そう思った」
それから先、続けるのには勇気が必要だった。
息を吸う。
一気に涙が溢れて、涙の笑顔と、力強く震えた声。
「だから、しばらくはさようなら。心から優しくなった石黒くんを、見てみたい」
「優雨、言うねえ」
自分たちの教室に戻って、荷物をいじくりまわす。
隣に石黒くんのクラスがあると思うと、少し怖いような、嬉しいような。
「それ、掛詞?」
「違うちがう、ただ優雨が自分の考えを押し付けるタイプだって言うイメージがなかったから」
花恋と笑い合うのは、一日ぶり。
「仲が悪かったのは一日だけなのに、すごい長い間だったような気がするね」
灯里がわたしの思ったことを的確に言い当てる。
「それ、わたしも思った」
「わたしも」
「優雨はさ、本当にまだ石黒くんのことが好きなの?」
「……うん。石黒くんの優しさは、本当に表面上だけのものってわけじゃ、ないような気がして」
「そっか、すごいや。わたしにはそんなことできない。薄情かもしれないけど」
花恋がわたしを褒める。
そんなことない。むしろ花恋の方が。
「いやいや、わたしからしてみれば花恋の方がすごいよ、よくそんなすぐ切り替えられるね。わたし、たまに『重い』って言われるんだよね……」
「もう、両方すごいってことでいいじゃん」
こういう時、灯里がまとめてくれる。
「じゃあ、そろそろ帰りますか」
灯里の提案で、二人は帰る空気になっていた。
「……わたし、ちょっとだけ残るね」
「わかった。気を付けてね、また明日」
「また明日」
休み時間の教室特有のざわめきの中、親友の花恋がわたしに喋る。
興奮したようなその口調から、いつもの恋バナであることが推し量れる。
「花恋、ほんと恋バナ好きだよね」
わたしは思わず言う。
「そうだよ、優雨は男性恐怖症なんでしょ? あんまり恋バナとかしない方が……」
「ああいや、話を聞くだけなら平気だよ。でも、単純に飽きてきたっていうか」
「ひどーい」
わざとらしい花恋の一言に笑いが起こる。
実際のところ、同じ話をずっとされたら飽きるという、ただそれだけの話。
「で、その人の名前は?」
「お、灯里は気になる? 優雨は? 優雨は気にならないの?」
「うん、そうだね、気になるね」
「ちょっと、すごい棒読みじゃん! ほんとに気にならないの!?」
「うん、興味ない」
棒読みへの異論は、即答で叩きのめす。
「まあ話すけどね。石黒圭っていう名前の人。隣のクラスで、めっちゃモテてるらしいよ!」
「あ、わたしも他の女の子から、名前だけ聞いたことある。確か保健と体育が一緒なんだよね。優雨は?」
「聞いたことない……。あんまり、男の子の話しないから」
「そうだったね、ごめん。っていうかその石黒って人、めっちゃモテてるんだったらもう彼女とかいるんじゃないの?」
灯里の疑問に、わたしも同様にうなずく。
モテてる人は、恋人なんて選び放題なんじゃないだろうか。
「確かに花恋も可愛いしモテるけど、彼女がいたら意味ないよね」
灯里に続いたわたしの言葉も聞いて、花恋は神妙な表情をする。
「それが、わかんないの。いろんな人に聞いてるんだけど、みんな知らないって言うの」
花恋の神妙な表情に、わたしや灯里も首をひねる。
「まあ、とにかく。石黒くんの話、なんか聞いたら教えてね」
「うん。花恋でも知らないようなこと、聞くかわかんないけど」
「ねえねえ、わたしの話もしていい?」
灯里が切り出す。
わたしたちは二人そろってうなずいて、続きを促す。
「わたしの友達も最近彼氏ができたって言ってるんだよね」
「おお、良かったじゃん」
わたしが相槌。
「そう、おめでとうって言って祝って。確か手を取りあって跳ねまわったりなんかしたかな」
「すごい喜ぶね」
花恋の相槌。
「そしたら彼氏の顔でマウント取ってきたの。マジで最悪」
「あ、そっちに行っちゃった!? 仲のいい友達と一緒に喜んでる流れだったじゃん」
花恋のツッコミが鋭く入る。
「いや、その彼氏がガチでイケメンだったから」
「灯里も大概面食いだよね……」
「"も"ってなに!? 他に面食いの人がいるみたいじゃん!」
「あんただよ」
わたしの感想に花恋が冗談めいたキレ芸をして、灯里がやっぱり鋭くツッコむ。
なんだかもう収拾がつかなくなっていた。
そうしているうちにチャイムが鳴って、昼休みが終わる。
「次の授業、もしかして人によっては隣のクラスと合同なんじゃない?」
石黒くんのことばかり考えているからか、花恋は隣のクラスには敏感に反応する。
「あ、確かに。石黒くん選択なんなの?」
そこで灯里が石黒くんの選択を尋ねるというファインプレー。
「いや、さすがにそこまでは知らないから……教室に行ってからのお楽しみじゃない? あ、でもわたしと一緒ではなかった気がする」
「わたしが書道で、花恋は音楽だっけ? 灯里は美術だよね」
「うん。綺麗に別れたから、石黒くんと誰かが被る可能性はけっこう高いね。花恋は……まあ、わたしたちが頑張って情報取ってくるから」
灯里が返答したのに対して、花恋は少し残念そうに首を振る。
「そういえば、書道は自由席なんだっけ? じゃあ石黒くん書道だったら大チャンスじゃない?」
「わあ、わたしのプレッシャーすごい……!?」
「いやいや、全然無理はしなくていいからね? そんな男性恐怖症の子に男の子と話すことを強要するほど鬼畜ではないから!」
花恋が心配の言葉をくれる。
わたしは頑張って石黒くんの情報を獲得しなければ、と気合を入れて教室を移動する。
「石黒圭くん、だよね。隣座ってもいい?」
恐る恐る声をかける。怖い人だったらどうしよう、という気持ちが強い。
でも、親友のためにはこれくらいしなければ。
「いいよ。初めまして、なんで俺の名前知ってるの?」
優しい声で促されて、座る。
心底疑問そうな声色から、会話が嫌というわけではなさそうだと察する。
そこで、ほっと安堵の息を吐く。石黒くんは少し不思議そうにこちらを見て、小さく笑う。
「友達から聞いたんだよね、すごくいい人だって言ってた」
「へえ、光栄だ。ところで、君はなんて名前なの?」
「高澤優雨、です」
「隣のクラスだよな、何回か見たことある。あんまり男子と喋ってるところ見ないけど……」
「ちょっとだけ、男の子が怖くて」
「わ、ごめん。馴れ馴れしかったか。ちょっと距離取った方がいいか? あれ、でも優雨が進んで隣に座ったんだったっけ」
肩を並べて座っていたのを、わたしの言葉を聞いて少し椅子を遠ざける。
「うん、優しい人なら大丈夫だから……」
「そっか、まあ怖かったら全然話さなくてもいいから」
その優しさに、わたしは思わず笑みを浮かべる。
ここまで気遣ってくれる男の子はいつぶりだろう。
「男の子が怖いっていう影響で、わたし、あんまり男性経験がないの……」
「そうだよね」
「だから、お手柔らかにお願いします……」
「わかった。……そろそろ授業始まるね。優雨は、授業真面目に受けるタイプ?」
「うん。っていうか、授業真面目に受けないタイプってなに……?」
「ほら、俺の知り合いに授業真面目に受けなくて留年した先輩がいるんだよね」
「あ、待って。その人わたしも知ってる……」
なんなら、書道の授業も同じだ。
ちょうど石黒くんの前に座っているので、わたしと石黒くんはそちらの方を見る。
「あれ、なんか僕のこと見てない?」
「急に振り返らないでくださいよ、翔先輩」
視線を感じて振り返った白橋先輩に、石黒くんが苦言を呈す。
理不尽。
「これ、いつものやつやった方がいい流れ?」
「やっときましょう白橋先輩」
こういう時は、盛り上げておくのが一番。
「春は好きな人のことを見ていてテストは赤点。夏も好きな人のことを見ていてテストは赤点。秋も好きな人のことを見ていてテストは赤点。冬はただ勉強をサボって留年。どうも白橋翔です」
「よっ、恋多き男!」
「恋愛のプロ!」
「全部失恋!」
「そして留年!」
「あとの二つは悪口だろ! あと韻を踏むな!」
「……ってことで、優雨も翔先輩とは知り合いだったんだな」
「いい意味でも悪い意味でも、目立つからね」
「悪い意味ってなんだ」
「恋人いたことないのに恋愛のプロってなんなんだろうね」
「まあ、それ以外なにもないから。恋愛のプロくらいは名乗らせてあげないと可哀想じゃん?」
「一応先輩なんだけど? ひどい言いようだね!?」
「留年してるんだから先輩かすら怪しいよな」
「可哀想じゃん、ここは嘘でも先輩だって言ってあげないと」
「全部聞こえてるよ? その方が可哀想だよ?」
書道の授業なので、片手間に筆を持ちつつ、石黒くんと話す。
「結構話弾んでるし、翔先輩とも普通に話してるよな。男子が怖いってもしかして冗談?」
「いやいや。石黒くんは優しくて話しやすいし、白橋先輩は……なんか男子って感じしないじゃん?」
「え? もしかして僕が毎回フラれる理由、それ?」
「確かに、翔先輩はあんまり男子って感じしないな……」
「だよねだよね!」
「待って、その話詳しく……」
白橋先輩の声は、虚空に寂しく消える。
「高澤、ちょっと消しゴム拾ってくれない?」
隣の席の知らない男の子が、わたしに声をかけた。
「え、あ、その……」
その少し低い声が、怖い。なにより、わたしよりずっと大きな体が、怖い。
「……?」
「う、えっと……」
怪訝そうな表情が、まるで怒っているかのように思われた。
時間が、ずっとずっとゆっくり流れる。
沈黙。
「書道の授業で消しゴムは使わないだろ。優雨は男子が得意じゃないんだから、あんまり怖がらせるなよ」
知らない男の子に、笑いながら声をかける石黒くんが、さっきまでよりずっとかっこよく見える。
わたしは、安堵して、笑う。
「お、優雨いいじゃん。笑ってる方が、さっきまでよりずっといい」
そうやって優しく声をかける石黒くんが――。
俯く。
駄目じゃん。石黒くんは、花恋の好きな人なんだから。
そうだ、花恋の話をしてみよう。
「そういえば、わたしのクラスの花恋って知ってる? 桑島花恋」
「全然聞いたことない。優雨の友達?」
「うん、一番の親友。その子から、石黒くんのこと聞いたんだよね。いい人だって言ってたから、気になって」
「へえ。じゃあ俺と優雨が出会ったのはその子のおかげなのか」
なんかこの人、言い回しがいちいち思わせぶりだなあ。
モテるのも納得だけど、そういうところはあんまり好きなタイプではないかも。
「まあ、そうだね? それでその子が石黒くんと話してみたいって言ってて……」
「ああ、そういうこと。優雨はそれでいいの?」
俯く。
「と、いうと?」
わかってないふりをしてみる。
「俺がその子と付き合うかもよ?」
究極の二択を迫られているみたいだ。
「……駄目」
言ってしまった。
「友達思いなのはいいけど、たまには自分のことも考えなよ」
「……いや、全然友達思いじゃないし、いつも自分のこと考えてるよ」
「ふうん。優雨が満足してるなら、それがいいけど」
そう言った石黒くんは、見透かすようにわたしの目を見た。
わたしは、そんな彼からさっと目を逸らした。
「真剣な話はこのくらいでいいや。翔先輩、気まずいからって急に前向くと不自然ですよ」
「じゃあ僕は前向けばいいのか後ろ向けばいいのかわかんないじゃん」
ツッコミみたいな表情と口調だけど、彼が留年していることを加味するとちょっと無理があるのではと思える。
「横向けばいいんじゃないですか?」
「へえ、君は僕がずっと横向いて、先生に注意されればいいと思ってるんだ。それで横向いてたせいで首の骨も折って、その痛みに耐えながら生徒指導室で先生に指導されればいいと思ってるんだ。それで留年すればいいんだ」
「ヒス構文やめてください」
ふたり、仲いいなあ。
わたしは少し置いてきぼりを食らいながら、他人事みたいに考えた。
「花恋ごめん! 石黒くん美術じゃなかった!」
「そっかあ。優雨は? 石黒くんいた?」
「いたよ。ちょっとだけど、話もできた」
わたしの言葉に、花恋は一気に顔色を明るくする。その様子を見て、わたしは罪悪感に表情を曇らせる。
「よかった! 石黒くんどうだった? 恋人の話とかしてた?」
「いや、それはしてなかったかな。でも、花恋の話はしたよ。知らないって言われちゃったけど」
「花恋のこと知らない男子なんて珍しいね」
灯里がコメントする。
確かに花恋は有名ではあるけど、そこまででもないような……。
「言いすぎだよ灯里。わたしより石黒くんの方がずっとずっと有名だと思う」
「そういえば優雨、石黒くんってかっこよかったの?」
灯里に言われて、記憶を思い出すように虚空を見上げる。
「うん、かっこよかった。花恋が好きだって言うのも納得」
そういうわたしの目を見る灯里の表情は、少しの驚愕を孕む。
しかし、そうしているだけでは気まずいと思ったのか、彼女は質問を続ける。
「顔がかっこよかったってこと?」
「いや、顔もかっこよかったんだけど、なによりわたしにも優しかったから、モテるんだろうなって」
「あー……。もしかして、話したの? 優雨が男性恐怖症だってこと」
「うーん、男子が怖いってことは、一応。それをどのくらい深刻に受け取ってるかはわからないけど」
「優雨、そういうことあんまり他の人に話さない方がいいと思う」
花恋が気を遣って、優しく諭すように言う。
「そうだよ、今回石黒くんは優しい人だからなんとかなったけど、そうじゃなかったら……。まあ、石黒くんなら大丈夫って思って話したんだとは思うけど」
二人とも、わたしを心配してくれるいい友達だ。
「ありがとう」
心配してくれるのは嬉しくて、笑う。
でも、だからこそ後ろめたくて、俯く。
「優雨、体調悪い?」
「え、なんで?」
突然、花恋が私をのことを気遣うように尋ねる。
「なんか、今日よく下向いてるから……体調悪いのかもしれないって」
「全然、そんなことはないんだけど……」
「ないんだけど?」
灯里が続ける。
ここからはもうわたしのことを追及する空気感だった。
「ごめん、言えない」
「ちょっと、気になるじゃん」
「そうだよ、気になる。石黒くんのこと好きになっちゃったとか?」
灯里が異議を申し立てると、花恋もそれに乗っかるように茶化す。
しかし、その茶化しはけっこうまずかった。
わたしは思わず黙り込む。灯里は、そんなわたしを凝視する。
「……ごめん」
「え、それはなにがあったのか言えないっていう……?」
花恋が、確認や念押しみたいに、恐れながらわたしに尋ねる。
灯里は、わずかに汗を垂らしながらわたしと花恋を交互に見る。
わたしは、首を横に振った。
「石黒くんのこと」
続きを言うまでもなく、花恋は絶句する。灯里が、そんな花恋を見る。
「そう、なの……。一回、頭冷やしてくる……」
それだけ言い残して、花恋は教室を後にする。
わたしと灯里だけが、残された。
「優雨……大丈夫?」
「え、心配するのは花恋の方じゃないの」
「いや、花恋が石黒くんのことを好きだなんて言ってる中、わたしもだなんて言いだすのは、勇気のいることだったでしょ」
「それは、そうだけど。でも花恋の方が」
「いいの。優雨は他人の心配をしすぎ。もっと自分のことを気にしてもいいの」
「それ、今じゃないでしょ。灯里はわたしを励ます余裕があるなら、花恋と話をしてきてよ」
「優雨は行かないの?」
「わたしとは顔合わせたくないと思う」
「そうかも」
小さく無表情で、灯里が同意する。そうして、花恋と同じように、灯里も教室を去った。
しばらくぼうっとしていると、教室の扉が開く。
花恋が戻ってきたのかと思い、そちらの方を向くと、それは花恋ではなかった。
「白橋先輩」
「お、残ってる。大丈夫?」
「大丈夫、ってなんですか」
「なんか、優雨ちゃんの友達も圭のこと好き、みたいなこと言ってなかったっけ。それで迷ってるんじゃないかと思って。優雨ちゃんも圭のこと好きなんでしょ?」
「なんで知ってるんですか、そんなこと」
喋りながら隣の席に腰掛ける白橋先輩に、すこし不機嫌な目で尋ねる。
すると彼は、当然のことだとでもいうように説明する。
「いや、書道のとき話してたじゃん。僕書道も二週目だからあんまり練習がいらないんだよね」
「わたしが石黒くんのこと好きって話はしてなかったですよ。あと留年ネタやめてください、反応に困ります」
「優雨ちゃんが圭のこと好きなんて、見てればわかるでしょ」
「……こう見えても、やっぱり先輩は恋愛が得意ってことなんですね」
「どういうこと!? 皮肉!?」
慌てたように言う白橋先輩は、留年してるだけって、先輩には見えなくて、わたしは小さく笑う。
「白橋先輩、先輩っぽくないですね」
「いや、それは普通に悪口でしょ」
「でも、わたしの気持ちをちゃんと知ってるところは、先輩みたい」
「それ迷ってるところなんだよ……僕は先輩を名乗るべきなのか、同級生を名乗るべきなのか。で、優雨ちゃんは大丈夫なわけ?」
言われて、わたしは黙り込む。
その様子を見て、白橋先輩はあきれるように笑う。
「話ぐらいは聞くけど」
「じゃあ、遠慮なく」
そう言ってわたしが話し出そうとすると、彼は少しわたしの方に身を寄せる。
無意識で彼から離れようとして、ずれる。これ以上近づくのは駄目だった。
「近いです、先輩」
「ごめん。そういえば、男性恐怖症みたいな話、言ってたっけ」
「といっても、面識のある人と普通にする分には大丈夫なんですけど」
「普通にする、っていうのは?」
「たとえば恋愛とかするのはちょっと……」
わたしの言葉に、白橋先輩は怪訝そうな表情を浮かべる。
「でも、圭のことは好きなんでしょ」
「石黒くんは、なんか大丈夫なんですよ」
「悩みっていうのはそれ?」
「いえ、違います。……花恋――石黒くんのこと好きな親友なんですけど、その子に――嫌われたかもしれなくて」
「嫌われた」という言葉を口にするのに、勇気が必要だ。
「好きな人が、被ったから?」
「はい、そうです」
「それは仕方ないよ」
「だけど、花恋はたぶん傷ついて」
「恋愛っていうのは、ライバルに忖度した時点で負けなんだよ」
「え、白橋先輩は恋愛成就したことは、ないんですよね?」
「そうだけど。ライバルのことを気にかけてるやつが勝ったのは見たことない」
わたしのツッコミにも、白橋先輩はあくまで真剣に答える。
「仮定の話ですけど、もしわたしが石黒くんと付き合ったら、花恋との関係はどうなるんですか」
「どうだろう。僕が見てきた限りでは、意外といい関係になると思うんだけど」
にわかには信じがたいことで、わたしは眉を顰める。
「優雨ちゃん、初恋でしょ?」
「そう、ですね」
「だったらいいんじゃない、初恋が、決まりきった失恋なんて悲しいじゃない。譲るくらいなら、精一杯ぶつかってみなよ。それが、花恋ちゃんへの、そして圭への最大限の敬意だと思う」
「敬意」
腑に落ちる。
あまりにもしっくりするその言葉を、反芻する。
「きっと花恋ちゃんも、本当は気づいてる。優雨ちゃんは、なにも悪くないってこと。それで、ガチンコでぶつかってくるんじゃないの? その全力に応えるのが敬意で誠意でしょう」
「じゃあ、石黒くんへの敬意、っていうのは?」
「単純な話だよ。本当に石黒くんのことを思うなら、石黒くんへの恋を諦める理由は、自分自身か、石黒くんのせいであるべきでしょ」
そして、少し置いて、続ける。
「友達のために石黒くんを諦めるなんて、筋違いだ」
強く、心に響く。
「でもわたし、どうしたらいいかわからないです」
「まあ、友達のために石黒くんを諦めるのは良くないけど、友達を無視しろってことじゃない、それだけ覚えておけばたぶん問題ないよ。気を遣うのは優雨の得意分野だから」
「そんなわかったみたいなこと、よく言えますね」
冗談めかして笑いながら尋ねるわたしの言葉を、白崎先輩は真面目に受け止めたらしい。
「初めて会った時も、そうだったじゃん」
「……ああ、あの時」
「そう、僕がまだ先輩だった時」
「いや、その話はもういいです」
「なんでよ。今いいところじゃん」
「思い出したいと思ってないので」
「嫌な後輩」
「まあ、それでもいいですよ」
「僕はそろそろ帰るね。花恋ちゃんと話すの、忘れないように」
もちろんですよ、って心の中だけで返して、先輩が教室を去るのを見送った。
「花恋は、優雨を応援したいとは思わないわけ?」
「……先に石黒くんのことを好きになったのは、わたしだから」
放課後、空き教室。灯里が、詰める。花恋はどうしても意地を張る。
「百歩譲って、優雨と本気で戦うのはいいとしても、直接優雨を傷つけるとか、被害者面するとか、そういうのは」
「灯里には、わからないでしょ。わたしにとって、恋がどれだけ重要なものなのか」
「そりゃあ花恋みたいな感性はしてないからね」
「それどういう意味?」
「花恋の感性は変だってこと」
「変だっていいじゃん、わたしにはこれしかないんだから!」
会話は徐々にヒートアップし、気づけば言い合いになっていた。
「だいたいあんたは中立みたいな顔してわたしに話しかけに来て、結局優雨の味方なんじゃん!」
「違う、今の花恋が変だからそれを伝えようとしてるだけ! 中立だよ!」
「だったらなんでこんなに熱くなってるの!? 中立なんだったら、落ち着いて、客観的に見てよ!」
「客観的に、花恋は変だって言ってるんだよ! 好きな人ができたからって、ずっと仲良くしてきた親友を拒絶する!? 今の花恋は普通じゃない、頭冷やしなよ!」
「……わかったよ、頭冷やしてくる。でも、あんたも一回考え直してみなよ」
熱くなっていても仕方ない、そう判断して、花恋は教室を後にする。
灯里は、一人取り残された。
「あんなにムキにならなくてもいいじゃん」
灯里が一人ぼやいたところに、優雨が姿を現す。
彼女は灯里の正面に、座った。
「優雨。花恋とは、会った?」
「うん。すごく、つらそうな顔してた。泣きそうに顔をゆがめて」
「わたし、花恋の話を聞いてあげないといけないのに、感情的になっちゃった……」
灯里は俯いて、悔いるように歯を食い縛って、涙を零す。
「そっか。花恋は、傷ついてると思う?」
灯里があまりにも後悔しているように見えて、わたしはたずねる。
「きっと」
ただ一言、その重みは普通ではなかった。
「わたし、話をしてくる」
「え、優雨が? それ、大丈夫なの?」
「どっちにしても、ちゃんと向き合わないといけないんだから」
わたしが変わったと思ったのか、灯里の目は大きく見開かれて。
「優雨、すごいよ」
ただ純粋な賞賛が、わたしを駆り立てる。
そこへ、花恋が姿を現す。
「頭冷やしてきたよ」
わたしを見つける。
しばしの沈黙。
「……優雨も、いたんだ」
静かに告げた花恋が、わたしを見つける。教室に入って、わたしに向かい合う。
いつもより静かな雰囲気の中で、緊張の中で、花恋は漏らす。
「うん。花恋、大丈夫なの?」
「わたしは大丈夫だよ。ただ、ちょっと怒ってるだけ」
「……そうだった。わたしは花恋の心配をするんじゃなく、自分の決意を伝えなきゃいけない。花恋が怒っていたとしても、石黒くんへの気持ちは譲れないっていうこと」
花恋は目を見開く。わたしの意志が強くなったことに驚く。
「そうは言ったって、わたしも石黒くんのことを譲るつもりはない。これまでの人生、恋愛に捧げてきたんだから。そう簡単に諦められない」
「わたしも、諦めるつもりはないよ」
「……ずるい。後出しで好きになったくせに。わたしが石黒くんのこと好きだってこと、知ったうえで好きになって、譲るつもりはないなんて」
瞑目する。
反応はしないけど、その言葉には深く共感する。
「それを決めるのはわたしたちじゃない」
「なに? そうやって責任から逃れるつもり? 親友と同じ人を好きになったって、罪悪感から逃れるつもりなの?」
震える声で静かに責める。
「……」
じっと花恋の目を見る。
灯里は慌てながらも静観することしかできない。
「黙ってたってわかんないじゃん! そんな言い訳が成り立つんだったら、後出しし得じゃん!」
怒声が響く。
普段の高音からは想像もつかないような、低い声。
「そうだね。でも、せっかく初めて好きになれた男の子を、諦めるなんてわたしにはできない」
「なんなの!? どうせ、男性恐怖症だって嘘なんじゃないの!?」
そこでようやく、感情が大きく揺れる。
また、わかってもらえなかった。
悔しさに表情が歪む。強く奥歯を噛み締める。涙が零れそうだ。
「嘘じゃないよ。全部本当」
「ずるい。男性恐怖症だから、初めて好きになったから、そんな理由で後出しを許せるわけないじゃん」
その言葉全部、受け入れるのがわたしの役目。
そんな気がして、表情を消して、花恋の言い分全部受け入れるみたいに、深く深く頷く。
そして、告げる。ひどく一方的に。
「許してもらわなくてもいい。……しばらくの間は友達じゃなくて敵だね」
わたしはごくごく真剣な顔で、花恋に宣戦布告する。
花恋は怒りと涙に歪んだ表情でわたしを睨みつけ、わたしに背を向けて教室を去っていく。
ずっと静観していた灯里が、わたしを見て、申し訳なさげに両手を合わせてから、慌てて花恋を追う。
静まり返った教室で、わたしは一人椅子に座る。
「……優雨! やっと見つけた、探したよ。なんで誰も使わないような空き教室に……?」
突然姿を現したのは、石黒くんだった。
「花恋のこと探していろんな教室覗いてたら、なぜかこの教室に花恋がいたの」
「……その花恋ちゃんと、話してきたよ」
それを聞いて、驚く。
花恋と石黒くんが話すというのは、できれば避けたかったことだったから。
「なんて?」
「連絡先交換しませんか、って。すごい顔色悪かったから、LINE交換してから保健室に行くように言ったけど」
「……そっか。そういえば、わたしたちも連絡先交換してないよね」
すこし落ち込んで、話題を変えた。
「そうなんだよ。連絡先交換するの忘れたと思って、優雨のこと探してたの」
その言葉に、ひとまずほっと胸を撫でおろす。
「じゃあわたしがQRコード出すね」
そうやって言って、いつも通りに手際よくLINEを交換する。
「男の子が怖いって、プロフには書いてないんだね」
「……傷つけちゃうかもしれないから。それに、必要最低限の情報だけ載せるようにしてるし。石黒くんは、猫のアイコンなんだ。ちょっと意外」
「うちで飼ってる猫でね。白玉って名前なんだよ。ちっちゃいと思うじゃん? 名付けたときは良かったんだけど、どんどん大きくなっていって、気づけばホールケーキくらい大きくなっちゃった」
「へえ。でも、大きくなっても可愛いね」
「でしょ? 休日はずっと白玉眺めながら寝てる」
石黒くんには、意外に可愛いところもあったらしく、わたしは思わず笑みを浮かべる。
「……そういえば、花恋も猫好きだって言ってたな」
「あー、確かに猫好きそう。優雨はどうなの?」
「わたしも、猫は好きだよ。っていうか動物が全体的に好き、裏切らないから」
「わ、ごめん。傷付けちゃった?」
石黒くんの気遣いが身に染みる。
「ううん、大丈夫」
「……優雨が男の人のことを怖いと思うのは、なにか理由があるの?」
「それ、僕も知りたいかも」
ひょっこりと気づけば姿を現すのは、白橋先輩だ。
さっきの、ちゃんと「先輩」だった白橋先輩はどこへやら、コメディキャラに逆戻り。
「なんでいるんですか」
突然現れた白橋先輩に、わたしが尋ねる。
「いや、優雨ちゃんのこと気になって」
「翔先輩気持ち悪いですね、優雨に変なこと言わないでくださいよ?」
「僕のことなんだと思ってる?? 言っとくけどこれは、コメディキャラなんじゃなくて、場を和ませようとしてるだけだからね?」
「そうだとしたら絶対にタイミングを間違えてますよ?」
反論に対して即座に鋭く切り込む石黒くん。
「そうですよ、今はシリアスな雰囲気なので」
わたしも続ける。
「まあまあ、緊張しすぎだよ。そんなんじゃ柔軟に反応できないでしょ?」
「なんか、ちゃんと頼りになるところを見せられた後にそう言われると、確かにそんな気がしてきますね」
わたし、陥落。
残るは石黒くんだった。
「……優雨を傷つけないために、柔軟さ必要かもしれないですね」
石黒くん、陥落。
「で、優雨ちゃんが男性恐怖症になった理由、僕も聞きたい」
「昔、わたしに好きだって言ってくれた男の子がいたんですけど」
語り始める。
「わたしはその感情がよく理解できなくて、ただおぼろげに『嬉しい』とだけ思って、なんとなく浮かれていたんです」
二人は、相槌を交えながら、静かに聞く。
「それで、彼のことが好きかもよくわからなかったのに、彼に迫られるまま仲が良くなっていって……」
二人は固唾を飲む。
「その時、彼に彼女がいるっていうことが発覚して……わたしは勝手に裏切られたような気分になって、それでもう男性恐怖症でした。……だから、初恋ではないのかもしれません」
わたしが言い切るのを聞いて、二人はそれぞれの反応を見せる。
石黒くんは、険しい顔で黙り込む。
白橋先輩は、呆れたように溜息を吐く。
「これはひどい……。結局その彼はどうなったの?」
「さあ、どうでしょう。今でも幸せにやってるんじゃないですか?」
「そんなことより俺は『初恋ではないのかもしれません』ってところが気になったんだけど。優雨の話?」
わたしは白橋先輩と目を見合わせる。
「秘密」
白橋先輩と一緒に、笑う。
「ちょっと、ええ? 気になる気になる」
「駄目だよ」
石黒くんは、そうやって言いながらも、満足しているみたいだった。
「……ともかく、その男性恐怖症のせいで、男の子があんまり信用できなくて、怖いんだよね」
「で、僕は男の子と認識されてなくて、圭はなんか大丈夫、と」
「いい意味で、ですよ」
白橋先輩のまとめに、つけたす。
「なんでも『いい意味で』ってつければいいと思ってる?」
「そうじゃないんですか?」
「全然違うからね? 結構傷付いたよ?」
「翔先輩なら大丈夫ですよ」
「根拠ないでしょそれ」
「いやいや、これまでも大丈夫だったんでこれからも大丈夫ですよ」
「傷つけてるって自覚あったんなら直してよ……」
「おはよ、灯里」
「……優雨、おはよう」
「元気ないね」
「そりゃそうだよ、親友二人が対立して板挟み。元気だったらおかしいでしょ」
「そうなんだけど。妙に落ち込んでるというか、普通よりずっと気にしてるように見えて」
「……わたしさ、本音で話せるくらいの友達なんて、二人しかいないんだよ」
唐突に打ち明けられた本音。
灯里は深刻な表情をしていた。
「そっか。出来るだけ早く終わらせるから、待ってて」
「本当に早くしてね。じゃあ、わたし花恋の方行ってくるから」
そう言って、灯里は今度は花恋の席に歩いていく。
灯里も大変なんだな、なんて他人事みたいに思う。
「あー、高澤さん、これ学級日誌」
「あ、うん」
ぼうっとしていて、男の子に話しかけられたと認識する暇もなかった。
「あれ、高澤さん、男子は苦手だって言ってなかったっけ」
「治ってきたかも」
相変わらずぼうっとして、よそ見をしながら適当に喋る。
「へ、へえ。そうなんだ。よかったら今度、遊びに行かない?」
「考えとく」
ぼうっとしているうちに男の子は「じゃあまた後で」と言って去っていった。
「今の子、誰?」
石黒くんが突然現れる。
「男性恐怖症、克服したの?」
「どうだろう、今はそれどころじゃないからかもしれない」
「なんかある?」
「……いや、特には?」
「ないんじゃん」
二人して笑い合う。
「で、石黒くんはなんで急に現れたわけ?」
「前、優雨が言ってた……花恋ちゃん? その子に、今日の放課後呼び出されてて。どういう子か、詳しく見に来た」
「え、もう?」
「もうってなんだよ」
石黒くんは笑いながら尋ねる。
「いや、こっちの話」
「まあ、そろそろホームルーム始まるから、俺は戻るね」
「あ、ちょっと待って。昼休み、昨日の空き教室に来てくれない?」
「おう」
それだけ言い残して、彼は教室を後にする。
鳴り始めるチャイムに、わたしの心臓は、鼓動を速める。
「で、急に呼び出してどうした?」
「昼休みにごめんね。石黒くんに伝えたいことがあるんだ」
静寂は緊張だ。
石黒くんは黙ってわたしの目を見る。わたしも、黙って石黒くんの目を見る。
「わたし、石黒くんのことが――好きです」
一呼吸置く。
黙り込んだ空気を吸う。
「付き合ってください」
沈黙が長くて、心臓の鼓動が遅く感じる。
「無理」
「――え」
口を衝いたのは、声にもならない声。
「俺、彼女いるから。あーでも、セフレとかなら全然いいよ?」
なにも悪いと思っていないような表情、言葉選び、声のトーン。
その全部、受け入れたくなかった。
「わたしを、気遣ってくれたのは?」
「ああしたほうがモテるだろ。告白までしてくるのは想定外だけど。距離感下手じゃない? やっぱり恋愛経験ないから?」
無神経な言葉だ。
「あー、あれか。花恋ちゃんが呼び出したっていうから焦ったのか」
涙が零れる。
「泣いちゃった……。トラウマ、呼び出しちゃったからか」
彼がこんな人だったなんて。
優しい人だと、信じられる男の子だと思っていたのに、その対極みたいな……。
考えるほど、嗚咽が溢れる。
「悪いな、彼女の方が顔がいいから。花恋ちゃんは結構惜しいと思うんだけど」
辛い。
「優雨も、可哀想だよな。友情を失って、失恋もして。まあ、花恋ちゃんも同じか。あ、昼休み終わっちゃう。俺もう行くわ」
「……また、会いに来るね」
「おう、今度は彼女も連れてきて、どっちが可愛いか比べてみるか?」
彼はそれだけ言い残して、去っていった。
「……授業を受ける気にも、なれないや」
誰もいない空間に、一人虚しく呟く。
妙に落ち着いた低音。
「好きだったのに。好きなのに。彼女がいるなんて聞いてないし、でも好きだとも言われてないから、わたしが勝手に勘違いしてただけなのかな……」
「そんなわけない。正真正銘、圭が最低だっただけ」
「なんでいるんですか」
「優雨ちゃんが傷ついてるから」
「授業はどうしたんですか」
「それより優雨ちゃんの方が大事でしょ」
「……それだから、留年するんですよ」
「いいんだよ。僕のことを気にしないで、自分のことを気にして」
やっぱり先輩は「先輩」だ。
「わたし、石黒くんがあんな人だって知っても、嫌いになれないんです」
「それは、優しいから?」
「……たぶん、『恋愛経験ないから』」
「無理に嫌いになる必要はないよ」
「でも、石黒くんのこと好きなままでいても、きっと辛いだけ」
「それは成長に繋がる痛みだ。なんて言っても綺麗事か。そういう時に、親友を頼るんじゃないの」
言われて、はっとする。
「親友……。花恋に、伝えなきゃ。石黒くんのこと」
「どういうこと?」
「今日の放課後、たぶん花恋も石黒くんに告白するんです。だから、石黒くんは優しい人じゃないって、伝えないと」
「……どっちにしろ、放課後までは時間があるんだから、この時間くらいは休みな。僕で良ければ、話くらいなら聞けるから」
堪えていた涙が、安堵で零れる。
堪えていた声が、安堵で崩れる。
「……」
白橋先輩はただ静かに傍にいた。
近づきすぎるわけでもなく、遠すぎるわけでもない。わたしにはちょうどいい距離感。
「……」
声を押さえて、声を崩して泣く。
そんな中に、焦ったような花恋と灯里が現れる。
「優雨、大丈夫!?」
「優雨、どうしたの!?」
「花恋、灯里」
まだ涙で震える声を抱えて、名前を呼ぶ。
「ごめん、優雨! わたし、自分のことばっかりで、優雨のこと、ぜんぜん」
「わたしも、ごめん、辛いとき傍にいれなくて! どうしたの!?」
「……いいんだよ、花恋、灯里。わたしも自分のことばっかりだったし、二人が辛いときに傍にいるなんてできてなかった。花恋と灯里に、一つずつ言いたいことがある」
白橋先輩は、変わらず優しく見守っている。
「石黒くんには、彼女がいるよ。わたしでも、花恋でもない」
「……優雨」
明らかに落ち込んだような花恋は、それでもわたしを気にかけるように声を漏らす。
灯里は、ただすぐ近くにいる。
「桑島さん、田原さん、授業中ですよ!」
二人はきっと、教室から突然抜け出してきたのだろう。
追いかけてきた先生が、声を張り上げる。
「……今は、いいでしょう。友達の傍にいてください。ただ、あとで呼び出します。白橋くんは今すぐ職員室まで着いてきてください」
「なんで僕だけ!?」」
白橋先輩は、素っ頓狂な声を出して、職員室に連行されていった。
「優雨。放課後、石黒くんと話しに行くよ」
花恋が、わたしに決定事項を通達するように、告げる。
「待って花恋、今の優雨は石黒くんとは……」
「怖いかもしれないけど、辛いかもしれないけど、わたしは気が済まない」
「……わたしも、必要なことだと思う。ちゃんと乗り越えないと、ずっと男性恐怖症なんて言ってられないよ」
再び涙が溢れて、止まらない。それでも、言い切る。
「優雨、花恋。わたしも行きたい」
灯里が、続く。
わたしと花恋は目を見合わせて、うなずく。
「いや、本当ですって! 優雨ちゃんが傷ついてたから、傍にいてあげようと思っただけですよ!」
職員室、先生と白橋が言い争う。
「でも、高澤さんは男性のことが全般的に得意じゃない。矛盾ですよね、『傍にいてあげる』という行為がプラスにならないことは容易に想像できます」
「違うんです! 優雨ちゃんは、僕のことは男だと思ってなくて、平気らしいんですよ!」
「……さすがにそれは無理がありますよ。観念してください」
「まあこの際僕のことはまあいいですよ、でも放課後の彼女たちは自由にしてやってくださいよ!」
「いや、白橋くんの言うことはあまり信用できないですね……」
「なんで!?」
「日ごろの行いです」
「そう言われるとなにも言えませんよ、確かに留年してるんですよ! それでも今回だけは信じてください!」
「……まあ、いいでしょう。その代わり、次やったら二留も視野に入れておいてください」
「視野に入れるもんじゃないですそんなもの。そもそも一留ですら怪しいでしょ」
「じゃあ留年しないでください。勉強してください提出物出してください」
「ごめんなさい、僕が悪かったです」
「お、花恋ちゃん来たね。やっぱ優雨よりは可愛いよ」
隣に可愛い女の子を携えて、石黒くんが待っていた。
そこは、もう定番となってしまった、いつもの空き教室。
「優雨と……知らない人も連れてきたんだね。公開告白?」
「もともとは告白するつもりだったけど、もう違う」
「あー、優雨から聞いたのか。あんまり広めないでよ? ま、俺の言うことの方が信憑性は高いと思うけどね」
「本当、あなた最低だね。優雨も、花恋も、どれだけ傷付いたかわかってるの?」
眉を顰めながら、灯里が切り出す。
「知らないよ、俺は異性恐怖症でも恋愛中毒でもないんだから」
「そうよ、圭があなたたちの気持ちなんてわかるわけないでしょ」
石黒くんの隣に立つ女の子。
彼女も口を開いて加勢する。
「その子は……石黒くんの彼女?」
花恋が尋ねる。
しかし、それはこれまで抱いていた興味とかよりも、もっと違う感情だった。
「うん。圭にちょっと優しくされて飛び上がってるあなたたちとは違う」
わたしは、まだ黙ったまま。
「わたし、石黒くんのことが嫌い。だから、もう二度と会わないようにしよう」
花恋が、怒りと憎悪と、いろいろなマイナスの感情を込めて、力強く告げる。
わたしは、そんなに割り切れなくて。
「……石黒くん。わたしはまだ、好きだよ」
静かな空気がゆらぐ。
ちょっとでも、ほんの僅かでも、石黒くんの心に響いたらいい。
「彼女と別れろなんて傲慢なことは言わない。ただ、もうちょっとだけ、他人に優しくなることはできるって、まだ信じてる」
「圭はもう、十分優しいでしょう。少なくとも表面上は、気遣って、話題も提供して、場を回して」
「本音でも、人に優しくなってくれる。きっとそうなれる」
「……俺が? 冗談はやめろよ、そのオチが翔先輩みたいな結果だろ?」
「わたしは、翔先輩の方がいいなって思ったよ。自分勝手でも、そう思った」
それから先、続けるのには勇気が必要だった。
息を吸う。
一気に涙が溢れて、涙の笑顔と、力強く震えた声。
「だから、しばらくはさようなら。心から優しくなった石黒くんを、見てみたい」
「優雨、言うねえ」
自分たちの教室に戻って、荷物をいじくりまわす。
隣に石黒くんのクラスがあると思うと、少し怖いような、嬉しいような。
「それ、掛詞?」
「違うちがう、ただ優雨が自分の考えを押し付けるタイプだって言うイメージがなかったから」
花恋と笑い合うのは、一日ぶり。
「仲が悪かったのは一日だけなのに、すごい長い間だったような気がするね」
灯里がわたしの思ったことを的確に言い当てる。
「それ、わたしも思った」
「わたしも」
「優雨はさ、本当にまだ石黒くんのことが好きなの?」
「……うん。石黒くんの優しさは、本当に表面上だけのものってわけじゃ、ないような気がして」
「そっか、すごいや。わたしにはそんなことできない。薄情かもしれないけど」
花恋がわたしを褒める。
そんなことない。むしろ花恋の方が。
「いやいや、わたしからしてみれば花恋の方がすごいよ、よくそんなすぐ切り替えられるね。わたし、たまに『重い』って言われるんだよね……」
「もう、両方すごいってことでいいじゃん」
こういう時、灯里がまとめてくれる。
「じゃあ、そろそろ帰りますか」
灯里の提案で、二人は帰る空気になっていた。
「……わたし、ちょっとだけ残るね」
「わかった。気を付けてね、また明日」
「また明日」



