待ち合わせの時間よりも少し早く到着すると、黒い傘をさした人影が見えた。雨は降っていない。だが、その人は強い風雨にでも耐え るように、両手で傘の柄をぎゅっと握りしめ、その場を動こうとしなかった。
僕は少し離れた場所からその様子を伺い、すぐに声をかけるべきか迷っていた。だが、そうしているうちに、改札から出てきた大勢の人の波にかき消され、彼女の姿は見えなくなってしまった。
ほんのわずか見失ってしまっただけなのに、コップをテーブルの端から落としそうになったときのように、心臓が凍りつき、思わず駆け出しそうになる。ようやく掴んだ糸口を失う訳にはいかない。
傘の隙間、かすかに横顔しか見えなかったが、確信した。彼女で間違いない。あの動画に映り込んでいたときと同じように、両肩を窮屈そうにすぼめ、長い背丈を折り曲げていた。
僕はこれから、彼女を殺すことになるのかもしれないと気付き、顔を直視出来ず目を逸らした。
新たなDMが届いていないか確認すると、彼女からの最新のメッセージが、10分前に僕のアカウントに届いていた。
「もう、待ち合わせの場所にいます。もし、迷ってるなら、ドタキャンとかぜんぜん慣れてるんで無視してください」
言葉はここで途切れ、タイムラインにも新しい投稿はない。少し迷ったが、僕からは返信はせず、既読だけを残した。
人の流れが途絶え、改めて彼女の方へ目をやると、やっと雨が止んだことに気がついたのか、傘をスマートフォンに持ち替えていた。猫背をさらに折り曲げ、画面を真上から覗き込むように凝視している。
彼女の言う通り、ずっと迷っている。曖昧に決意が揺れながら、ただ、妻を救いたいという気持ちだけで、ここに立っていた。
妻には、仕事の取材で夜まで帰れないと嘘をついた。その間に、妻が一人で外に出ていかぬよう、僕らの事情を知っている共通の友人に監視を頼み、もし強引に外に出て行こうとしたら、警察を呼んでほしいとも伝えた。友人は最初は冗談だと笑ったが、僕がもう一度真剣な顔で頼むと、わかったと頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。
次の信号が変わったら声をかけよう。そう決めてもう一度スマートフォンを見ると、メッセージの続きが届いていた。
「ちなみに、何か目印とかありますか?」
待ち合わせをするために、彼女がそう尋ねるのも当たり前のことだったが、僕は返信できるはずもなかった。彼女には、身分も性別も、何もかも偽って、伝えていたのだ。
目の前のメッセージと見比べるように、横断歩道の向こうの彼女を見た。
およそ一ヶ月前、妻のスマートフォンを見たときに、僕の知らないSNSのアカウントを見つけた。家族だからと言って、プライベートに踏み込むことに、ためらいも罪悪感もなかった。集中治療室に入った妻が、なぜ一人で死のうと決めたのか、それを知りたかったのだ。
タイムラインもDMの履歴も全て削除されていたが、妻が自殺を図った数時間後、新着のメッセージが一件、届いていた。
「動画を共有してもいいと、先生から許可を貰えました」
そう書かれたメッセージのすぐあとに、動画のリンクが送られてきた。妻が自殺未遂を図った理由が何か分かるかもしれないと思い、僕はリンクをコピーし、自分のパソコンから動画をダウンロードした。
動画を再生すると、古い民家の寝室が映った。色褪せた襖、シールが剥がされた跡の残るカラーボックス、どこかの日常の風景そのものだった。
部屋の中央に置かれた介護用ベッドには、初老の男性が腰掛けていた。息をするたびに、胸が上下し、掠れた嗚咽のような声が漏れる。呼吸すら苦しいという様子だった。
ベッドの側には、グレーのジャケットを着た男が座り、紙コップに何かの液体を注いでいた。言葉はない。ただ静けさのまま、動画は続く。
ジャケットの男が紙コップに液体を注ぎ終えると、予め用意した文章を読み上げるような淡々とした口調で、初老の男性に語りかけた。
「この薬を飲むと、どのようなことが起きるか、あなたは理解していますか?」
ジャケットの男がそう尋ねると、初老の男性は一呼吸置いたあと、虚空を見上げるような仕草をして、紙コップを受け取った。
初老の男性が応える。
「はい、この薬を飲んだら、わたしは死にます」
まるで、演劇のセリフの読み合わせをするように、道筋をなぞりながら二人は話す。
初老の男性は、カメラの方を一瞥し、乾杯するように天にかざしたあと、コップの中身を一息に飲み干した。
その様子を確認したジャケットの男は、初老の男性をベッドに寝かせたあと、部屋の隅にいた女性に目配せをした。
その女性は動画越しでもはっきりと分かるほど、緊張した様子だったが、腕時計で時刻を確認し、小さく二度頷いた。
「2025年1月23日・・・」
声がかすかに震え、裏返る。それでも女性は、日付と時刻を読み上げ続けた。
この動画を見て、数年前のある事件を連想した。
安楽死を望む患者に対し、医師が致死薬を投与し、逮捕されるという事件だ。そもそも国内での安楽死は、いかなる場合でも認められていないが、特に裁判の焦点となったのは、患者が本心から死を望んでいたのかという点だった。
動画の中で医師が確認している手順は、過去の事件を知った上で、安楽死が正当な手続きに沿って行われていることの証拠にするためだろうと推測できた。
そして、僕が動画を見終えたのを見計らったように、送り主からの新たなメッセージが届いた。
「あなたの願いが叶うことを祈っています」
妻の死を願うような言葉が、最後に添えられた。
その女性こそが、たった今、僕が待ち合わせをしている相手だった。彼女がどこの誰で、なぜ安楽死の現場にいたのかは分からない。だが、彼女のタイムラインを見ると、彼女も国内で安楽死を受けることを切望しているのだということは分かった。
僕は、彼女に近づくために、妻に成りすまして、やり取りを続けた。何度もDMを送り合う中で、彼女もまた、妻と同じように自殺を図ったことがあると分かった。
何よりショックだったのは、妻が死のうとしているなど、微かなサインすら気付かなかったことだ。
何度思い出しても、いつもと変わらず、妻は笑って僕を送り出してくれていた。
その笑顔が優しさなのか、寂しさなのか、分からない。もっと、長く一緒にいれば、僕は妻の出すサインをすべて正しく受け取れていたのだろうか。
妻に安楽死を諦めさせるためでも。彼女を糾弾するためでもない。まして医師を告発するつもりもなかった。
僕は妻の希望を叶えるために、妻に安楽死の処置を受けさせるために、ここに来たのだ。
僕は少し離れた場所からその様子を伺い、すぐに声をかけるべきか迷っていた。だが、そうしているうちに、改札から出てきた大勢の人の波にかき消され、彼女の姿は見えなくなってしまった。
ほんのわずか見失ってしまっただけなのに、コップをテーブルの端から落としそうになったときのように、心臓が凍りつき、思わず駆け出しそうになる。ようやく掴んだ糸口を失う訳にはいかない。
傘の隙間、かすかに横顔しか見えなかったが、確信した。彼女で間違いない。あの動画に映り込んでいたときと同じように、両肩を窮屈そうにすぼめ、長い背丈を折り曲げていた。
僕はこれから、彼女を殺すことになるのかもしれないと気付き、顔を直視出来ず目を逸らした。
新たなDMが届いていないか確認すると、彼女からの最新のメッセージが、10分前に僕のアカウントに届いていた。
「もう、待ち合わせの場所にいます。もし、迷ってるなら、ドタキャンとかぜんぜん慣れてるんで無視してください」
言葉はここで途切れ、タイムラインにも新しい投稿はない。少し迷ったが、僕からは返信はせず、既読だけを残した。
人の流れが途絶え、改めて彼女の方へ目をやると、やっと雨が止んだことに気がついたのか、傘をスマートフォンに持ち替えていた。猫背をさらに折り曲げ、画面を真上から覗き込むように凝視している。
彼女の言う通り、ずっと迷っている。曖昧に決意が揺れながら、ただ、妻を救いたいという気持ちだけで、ここに立っていた。
妻には、仕事の取材で夜まで帰れないと嘘をついた。その間に、妻が一人で外に出ていかぬよう、僕らの事情を知っている共通の友人に監視を頼み、もし強引に外に出て行こうとしたら、警察を呼んでほしいとも伝えた。友人は最初は冗談だと笑ったが、僕がもう一度真剣な顔で頼むと、わかったと頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。
次の信号が変わったら声をかけよう。そう決めてもう一度スマートフォンを見ると、メッセージの続きが届いていた。
「ちなみに、何か目印とかありますか?」
待ち合わせをするために、彼女がそう尋ねるのも当たり前のことだったが、僕は返信できるはずもなかった。彼女には、身分も性別も、何もかも偽って、伝えていたのだ。
目の前のメッセージと見比べるように、横断歩道の向こうの彼女を見た。
およそ一ヶ月前、妻のスマートフォンを見たときに、僕の知らないSNSのアカウントを見つけた。家族だからと言って、プライベートに踏み込むことに、ためらいも罪悪感もなかった。集中治療室に入った妻が、なぜ一人で死のうと決めたのか、それを知りたかったのだ。
タイムラインもDMの履歴も全て削除されていたが、妻が自殺を図った数時間後、新着のメッセージが一件、届いていた。
「動画を共有してもいいと、先生から許可を貰えました」
そう書かれたメッセージのすぐあとに、動画のリンクが送られてきた。妻が自殺未遂を図った理由が何か分かるかもしれないと思い、僕はリンクをコピーし、自分のパソコンから動画をダウンロードした。
動画を再生すると、古い民家の寝室が映った。色褪せた襖、シールが剥がされた跡の残るカラーボックス、どこかの日常の風景そのものだった。
部屋の中央に置かれた介護用ベッドには、初老の男性が腰掛けていた。息をするたびに、胸が上下し、掠れた嗚咽のような声が漏れる。呼吸すら苦しいという様子だった。
ベッドの側には、グレーのジャケットを着た男が座り、紙コップに何かの液体を注いでいた。言葉はない。ただ静けさのまま、動画は続く。
ジャケットの男が紙コップに液体を注ぎ終えると、予め用意した文章を読み上げるような淡々とした口調で、初老の男性に語りかけた。
「この薬を飲むと、どのようなことが起きるか、あなたは理解していますか?」
ジャケットの男がそう尋ねると、初老の男性は一呼吸置いたあと、虚空を見上げるような仕草をして、紙コップを受け取った。
初老の男性が応える。
「はい、この薬を飲んだら、わたしは死にます」
まるで、演劇のセリフの読み合わせをするように、道筋をなぞりながら二人は話す。
初老の男性は、カメラの方を一瞥し、乾杯するように天にかざしたあと、コップの中身を一息に飲み干した。
その様子を確認したジャケットの男は、初老の男性をベッドに寝かせたあと、部屋の隅にいた女性に目配せをした。
その女性は動画越しでもはっきりと分かるほど、緊張した様子だったが、腕時計で時刻を確認し、小さく二度頷いた。
「2025年1月23日・・・」
声がかすかに震え、裏返る。それでも女性は、日付と時刻を読み上げ続けた。
この動画を見て、数年前のある事件を連想した。
安楽死を望む患者に対し、医師が致死薬を投与し、逮捕されるという事件だ。そもそも国内での安楽死は、いかなる場合でも認められていないが、特に裁判の焦点となったのは、患者が本心から死を望んでいたのかという点だった。
動画の中で医師が確認している手順は、過去の事件を知った上で、安楽死が正当な手続きに沿って行われていることの証拠にするためだろうと推測できた。
そして、僕が動画を見終えたのを見計らったように、送り主からの新たなメッセージが届いた。
「あなたの願いが叶うことを祈っています」
妻の死を願うような言葉が、最後に添えられた。
その女性こそが、たった今、僕が待ち合わせをしている相手だった。彼女がどこの誰で、なぜ安楽死の現場にいたのかは分からない。だが、彼女のタイムラインを見ると、彼女も国内で安楽死を受けることを切望しているのだということは分かった。
僕は、彼女に近づくために、妻に成りすまして、やり取りを続けた。何度もDMを送り合う中で、彼女もまた、妻と同じように自殺を図ったことがあると分かった。
何よりショックだったのは、妻が死のうとしているなど、微かなサインすら気付かなかったことだ。
何度思い出しても、いつもと変わらず、妻は笑って僕を送り出してくれていた。
その笑顔が優しさなのか、寂しさなのか、分からない。もっと、長く一緒にいれば、僕は妻の出すサインをすべて正しく受け取れていたのだろうか。
妻に安楽死を諦めさせるためでも。彼女を糾弾するためでもない。まして医師を告発するつもりもなかった。
僕は妻の希望を叶えるために、妻に安楽死の処置を受けさせるために、ここに来たのだ。
