風と共に生きた ─とある男の、小さな物語

ある日、
母の様子が、少しだけ変わったことに気づいた。

動くたびに息を切らし、
食事の匂いに顔をしかめることもある。

俺は──察した。

前世で、一応それなりの年数を生きた人間だ。
こういう変化が、何を意味するかくらい、知っている。

大人同士の夜の営み。
それがどういうものかも、身をもって知っていた。

ただ、俺が知っているそれは、
どこか、乾いたものだった。

流れ作業のように、
寂しさや欲を埋めるために重ねた肌と肌。
そこに、心はなかった。

でも──

父が、母の手をそっと握り、
「おめでとう」と、心からの笑顔で告げたとき。

母が、目に涙を浮かべて微笑んだとき。

この世界には、
俺の知らなかった”命”が、確かに芽生えていることを思い知った。


夜、父に言われた。

「ライナス、お前に弟か妹ができるんだ」

「……」

俺は、小さな体に似合わない、
妙に冷静な理解を胸の奥に浮かべた。

──ああ、俺にも兄弟ができるのか。

前世では、そんな存在もなかった。
家族と呼べる人間は、誰一人として。

だから、きっとこれは、
俺にとって初めての「無条件に繋がる存在」になるのだろう。

その事実に、
胸の奥が、じんわりと熱くなった。


母のお腹は、日ごとに膨らんでいった。

そっと触れると、温かく、柔らかかった。

前世で、誰かの命を心から大切に思ったことなんて、なかった。
なのに今は、まだ生まれてもいないこの存在に、
胸が締めつけられるほどの愛しさを覚えていた。

──俺は、変わり始めている。

そんな確かな実感だけが、
この小さな世界に響いていた。


もちろん、不安もあった。

父も母も、これからはこの子に夢中になるかもしれない。
今までのように、自分だけを見てくれないかもしれない。

そんな幼い独占欲を、
俺は前世から持ち込んでしまっていた。

だけど。

母のお腹にそっと耳を当てたとき、
微かに感じた──命の脈動。

どくん、どくん。
小さな心臓の鼓動。

それだけで、すべての不安が溶けた。


守ろう、と思った。

この命を。
この家族を。

今度こそ。
今度こそ、
俺は、大切なものから目を逸らさずに、生きたい。

──ライナス、六歳の夏。
小さな命と向き合いながら、
俺はまた一歩、大人に近づいた。