風と共に生きた ─とある男の、小さな物語

時間の感覚は、まだ曖昧だった。

眠って、目覚めて、また眠る。
そんな繰り返しの中で、世界は少しずつ、俺の中に形を持ち始めた。

最初に覚えたのは、音だった。

母──セリアの声。
低くて優しい、父──アレンの声。

毎日、誰かが俺に話しかけてくれる。
何を言っているのかは、最初はわからなかった。
けれど、その声の響きだけで、
「自分は一人じゃないんだ」と、どこかで知っていた。


手を動かすことも、簡単ではなかった。

ぎこちなく指を開こうとして、指先が震える。
そんな小さな動きに、家族は驚くほど喜んだ。

「見て、アレン! 手が、動いた!」

「ははっ、こいつは将来有望だな」

そんな、大げさな──と思いながらも、
俺は何故だか嬉しくなって、さらに指をぴくぴくと動かした。

母の笑い声。
父の大きな手が、そっと俺の頭を撫でる感触。
遠くの廊下から、誰かの足音が聞こえた。
ふわふわのエプロンをつけた女の人。
皺だらけの手で、毛布をそっと直してくれた年配の男。
この家には、父と母だけじゃない。
俺を見守る人たちが、たくさんいた。

これが、幸せというものだろうか。



どうやら、使用人たちもこの家に暮らしているらしい。

俺が生まれたこの家は、
村の中ではそこそこ大きな家系らしい──
幼いながら、そんなことを知った。



最初は、ぼんやりとした光の塊だった。

それが、
少しずつ、輪郭を持ち、色を持ち、形になっていく。

窓の外に、何かが揺れている。
緑──草木だ。
その向こうで、小さな影が飛び跳ねる。
鳥だろうか。

……世界は、こんなにも、鮮やかだったのか。

そう思っただけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。

前世では、こんな景色を、
ちゃんと見たことがあっただろうか。

──まだわからない。
けれど、今はただ、
この世界に包まれていることが、心地よかった。


生まれ変わったのだ。
この世界で、
もう一度、生きてみよう。

──そんな小さな想いが、
まだ言葉にもならない心の奥で、
そっと芽生えた。


月日が流れ、言葉も少しずつ理解できるようになった。

「ライナス」──俺の名前だった。
父と母が、何度も何度も呼んでくれた。

「ライナス、大好きよ」
「ライナス、お前は俺たちの宝物だ」

そんな言葉に、心がふわりと温かくなる。

前世で、こんなふうに呼ばれたことがあっただろうか。
たぶん、なかった。

だからこそ、怖かった。

この温もりを、裏切ってしまうのではないかと。
期待に応えられないのではないかと。

不安に押しつぶされそうになる夜もあった。

だけど、そのたびに思い出す。
母の柔らかな腕。
父の大きな手。

「頑張れ」なんて誰も言わない。
ただ、そこにいて、抱きしめてくれる。

──こんなにも、世界は優しかったのか。


俺は、まだ言葉を話せない。
それでも、心に誓った。

今度こそ、逃げない。
この温もりから、目を逸らさない。

たとえ、怖くても、不安でも──
俺は、前を向いて、生きてみよう。

ライナス。
この世界で、俺はもう一度、生きる。

──そんな、小さな誓いを胸に刻んだ。