玄関のドアを開けて、シンクにエコバッグを置いた。僕の悩みは、高宮に理解してもらえるだろうか。理解出来ないと言われればそれまでだ。高宮にご飯を作る義理はそもそもないんだし、関係がなくなっても元に戻るだけの話。
 合い挽き肉とパン粉と卵をポリ袋の中でよく混ぜるよう高宮に指示をし(それくらいなら出来るだろう)、買ってきた玉ねぎを洗いながら、僕は口を開いた。
「人とご飯が食べられないのには理由があるんだ」

 玉ねぎをみじん切りにしながら、中学時代の事件を高宮に伝えた。僕の横で、高宮はそれを神妙に聞いていた。
 牛乳事件は、もしかしたら取るに足らない出来事だったかもしれない。学生時代のささいな思い出のひとつと言われればそうかもしれない。けれど、僕の心にそれは、「食事をしているところを人に見せたくない」という拒絶感を植え付けてしまった。根っこは地中に埋まり、引き抜くのは難しかった。
 話しながら、玉ねぎの辛味成分が目に沁みてくるのが分かった。ああ目が痛い。目が沁みずに玉ねぎを切る方法を、動画で学んでおかなくちゃいけないな。

「──そういうわけで、料理は好きになったんだけど、いまだ人前で食事をすることが出来なくて」
「……そんなことがあったんだな」
「笑いごとっちゃ笑いごとなんだけどね」
「笑いごとなんかじゃねぇよ」
 高宮は強い口調で言った。その声に思わず高宮の顔を見上げる。高宮は真剣な目で僕を見ていた。
「朝斗にとって嫌な思い出だったんだよな。ごめん、一緒に食おうぜなんて簡単に言って。デリカシーないってよく妹にも言われんだ」
「謝らないでよ、高宮は悪くなんかないよ」
「でもよ。朝斗はそのせいで、辛い思いしてきたんだろ」

 高宮の言葉が、僕の中で何かを揺さぶった。辛い思い。確かにそうだった。中高と陰キャに輪をかけるような生活をしてきて、大学に入ってもぼっちが楽だと思ってきた。 
 あの牛乳事件が、今も僕の心にずっと重しみたいにのしかかっている。けれど、高宮はそれをちゃんと受け止めてくれた。笑わなかった。軽く流さなかった。
「……うん、そうだね」
 声が震えてしまって、慌てて目を伏せた。玉ねぎの辛みじゃない、ツーンとしたものが鼻の奥に溜まっていく。
(高宮は分かってくれるんだ。こんな風に僕の気持ちを拾ってくれる人がいるんだ)
 ずっとひとりで抱えてきたものが、高宮の言葉で少し軽くなった気がした。
 僕のちっぽけなトラウマを、高宮は笑いものじゃなく「辛かったこと」だって認めてくれた。高宮に話してよかったと思った。  
 昨日今日と、高宮のゼロ距離が僕の窮屈な心の中に新しい風を入れてくる。もしかしてこの重しが取り払えるかもしれない。そんなことを初めて思った。

「……ハンバーグの続きいくね。ポリ袋の中に玉ねぎを加えてよく混ぜたら、小判形にするんだ。叩くようにして、中の空気を抜く」
「キャッチボールの要領だな。これなら俺にも出来そう」
「頼むよ」
 高宮が成形してくれたハンバーグたねを熱したフライパンに置いていく。両面焼いて蓋をする。箸を差してみて肉汁が透き通っていたら完成。
「出来たよ。ご飯も炊けてる」
「やった! 夢にまで見たハンバーグだ」
「大げさじゃない?」
「いやマジなんだって。あまりに食いたすぎて夢に出てきた」
「マジで」
 なんて、たわいもないやり取りをしている自分に驚く。あれ、こんなに人と喋れたっけ。高宮の人となりを少しずつ知っていくごとに、勝手に自分の心が開いていく気がする。

 テーブルに座った高宮の前に、ハンバーグとご飯を置いた。今日はどんな顔をして食べてくれるだろう。
「いただきます……やべぇ……美味いハンバーグだこれ。肉汁じゅわーのやつ。口が喜ぶ!」
 高宮がふと手を止めた。ハンバーグをひと口サイズに切り分け、僕の口元に持ってくる。
「マジで美味いから、朝斗も食ってみな」
「え、いや、僕はだから」
「朝斗とメシ食うの、すげぇ楽しいんだって。これ、朝斗にも共有してほしい」

 楽しい? 僕と食事をするのが? その言葉をすぐには信じられなかった。今まで人と食事をすることを避け続けてきた、僕のかたくなな心を覆すような言葉だからだ。
「ほれ、あーん」
 高宮は、なんでもないように人懐っこく笑って、ハンバーグを突き出してくる。僕の心のハードルを軽々と越えてくる。高宮なら大丈夫と思わせる何かが、高宮のあーんから感じられた。高宮の言葉なら、ちょっとだけ信じてみてもいいかもしれない。僕はそっと口を開けた。
「ん」
 口に入れた瞬間、肉の旨味が広がる。さすがに目は見られなかったけれど、高宮の「な、美味いだろ?」という声に、僕は小さく頷いた。乾いた土に水が行き渡り、地中に埋まった根っこが緩んだような気がした。