高宮が完全な眠りに入ったのを見計らって身体をそっとずらし、タオルケットをふわりと掛けた。部屋の明かりを消して足音をしのばせながら玄関へ向かう。
 その途中で後ろ髪を引かれるように振り返った。ベッドの中で眠る高宮の姿。緩やかな寝息。初めて味わう恋という感情に、ぎゅっと押しつぶされそうになるのを堪えた。
「おやすみ……高宮」
 声にならない声でそう呟き、ドアノブにそっと手をかけた。

(高宮、熱下がってるといいな)
 翌朝、高宮のことを考えすぎて眠ったか眠れていないかよく分からない頭で、スマホを確認する。通知はない。熟睡出来たんならいいんだけど。
 昨晩、自分の部屋に戻ったのは深夜を回っていた。何も手につかずベッドに横になっても、頭に浮かぶのは高宮のことばかり。肩に預けられた重み、かすれた声で呼ばれた名前、そっと引かれた手――どれもこれもが心臓のドキドキに合わせて僕の中で息をしている。

 着替えもそこそこに高宮の家へ向かう。ドア一枚隔てた向こうに高宮が寝ていると思うと、ノックする手がぐずぐずとためらってしまうけれど、今は看病が先だと腹の底に力を入れて大きく深呼吸をした。
「高宮、起きてる?」
 しばらくの間があって、まだかすれてはいるけれど昨日より張りのある声がドアの向こうから返ってきた。
「朝斗か?」
 ガチャリとドアが開いて、ぼさぼさ髪の高宮が顔を出した。よかった、歩けてる。
「うん。様子見に来た。体調どう?」
「昨日より全然いい。まだ熱はあるっぽいから、大学は休んで病院行ってくるわ」
「それがいいよ。とりあえずベッドに戻って。朝ご飯作るから」
 何もなかったみたいな顔をして「朝ご飯作るから」なんて言ってみたけれど、昨日の高宮とのやりとりは一言一句、一挙手一投足全部覚えている。「もう少しいて」って言った時の高宮のまなざしを思い出して、顔がかっと熱くなるのを台所に立つふりをして誤魔化した。

 昨日のおじやの残りに、シラスを混ぜて塩気を足す。食欲が湧くように、高宮の好きな濃いめの味付けに寄せていく。
「なぁ、朝斗」
 振り向くと、台所の柱にもたれかかるように高宮が立っていた。
「ん?」
「すげぇ助かった。ありがとな」
 柔らかく目元を緩ませる高宮がそこにいて、僕はその言葉だけで胸がいっぱいになった。
「……隣のよしみ、でしょ」
 小憎らしい口しか聞けない自分が歯がゆい。まだ自分の気持ちを表に出す覚悟は出来ていなかった。
「朝斗が来てくれたら、って心のどっかで思ってたんだよ。そしたら本当に来てくれたからさ」
「たまたまポスト見ただけだよ」
「それでもさ、嬉しかった。マジで。俺の中ではさ……朝斗は特」
 高宮が言いかけて止める。え、なに。朝斗は、何なの。ふたりの間にある空気が一瞬止まった。ふっと高宮の表情が張り詰めたように見えたのは気のせいだっただろうか。

「……あれだ、天才枠」
 高宮は冗談めかした口調で言い直した。何か僕に言いたいことがあって、その言葉を飲み込んだようにも思えた。
「なにそれ」
「オムライスの時に言ったじゃん、天才だって」
 高宮はそう言って、いたずらっぽく笑った。その笑顔はいつもの高宮を取り戻していて、今の一瞬の間は何だったのかと思う。
「変なこと言ってないで、座ってて」
「ういっす」
 高宮が僕に用意していてくれた本当の言葉はなんだったんだろう。おじやが煮立つぐつぐつという音に慌てて火を止めながら、僕の中に小さな期待が膨らみ始めるのをどうしても止められなかった。

 いや、考えすぎ。その期待が的外れだったら、受けるショックが大きすぎる。小さなうちに火消ししとかないと。
 ──朝斗は特別。そう言ってくれるつもりだったんだとしたら、なんていう期待は。

「病院行って薬もらってきた。夏風邪だって」
 授業の合間にスマホをチェックしてみると、高宮からメッセージが来ていた。よしよし、ちゃんと病院に行ったんだな。ほっと胸をなで下ろす。
 朝、おにぎりと味噌汁を作って高宮の家の冷蔵庫に入れておいた。味噌汁には野菜をたくさん入れて栄養バランスを考えて。コンビニ弁当や外食ばかりじゃ免疫力が落ちるのも無理はない。
 僕がもっと料理のレパートリーを増やせたら、高宮のことをもっとちゃんと守れるのかな。高宮の特別になれるのかな。

 一方でこんなことも考えてしまう。もし僕が隣に住んでいなかったとしたら、僕以外のだれかだったとしたら、それでも高宮は「メシ食わせてよ」って言っただろうか。人懐っこいいつもの笑顔で。
 ……想像しただけで胸が痛くなってきた。高宮の特別ポジを独占したい。高宮がだれかの特別になるくらいなら、僕がそこにいたい。
 どんどん欲張りになっていく自分がいる。好きになるって、こういうことなのか。