「水……ある?」
「あるよ」
 近くに置いておいたペットボトルの水を、すぐに飲めるようキャップを取って手渡した。
「サンキュ」
 僕の指先に高宮の指が触れた。電気に弾かれたみたいに、一瞬高宮と目が合う。思いがけずまっすぐに視線が交差して、僕は耐えきれず視線を下に落とした。
「悪い……」
「う、うん……」
 水を飲むと、高宮はふうっと息をついた。
「楽になってきた……」
「よかった。明日念のために病院へ行きなね」
「分かった」
「ドリンクゼリー飲む? なんにも食べてないでしょ」
 高宮は少し考えるような顔をしてから、「あれ」と口にした。
「あれ食いたい。米、卵でとじたやつ」
「ああ、おじや? 作るの初めてだから味の保証はないけど……」
「朝斗の作ったやつなら美味いに決まってる」
「ハードル上げないでよ……ちょっと待ってて。高宮の家に材料なんにもないから、作ってくる」

 冷蔵庫を覗いたら、大げさじゃなくなんにもなかった。ゴミ箱には空になったコンビニ弁当の容器やパンの袋がいくつか。料理が出来ないと聞いてはいたけれど、ここまでとは。
 急いで自分の部屋に戻り、台所でレシピ動画を見ながら冷蔵庫の在庫をチェックする。卵、冷やご飯、長ネギ、しょうが……大丈夫そうだ。
 鍋に出汁とご飯を入れて吸わせている間に、長ネギとしょうがを刻む。高宮の身体が少しでもあたたまるように。汗をかいて熱が下がるように。高宮にはもう何度も料理を作ってきたけれど、こんなに食べさせたいと思いながら作るのは初めてかもしれない。
(早く治りますように)

 ぐつぐつと小さく音を立てる鍋の中に溶き卵を回し入れ、かき混ぜて火を止める。出来た。冷めないよう鍋のまま高宮の部屋へ持って行く。
「高宮、入るね」
 ドアを開けて、高宮の様子を伺う。朝斗、と僕を呼ぶ声はまだ熱っぽさが残ってはいるけれど、さっきよりはだいぶ力強く聞こえた。
「おじや、出来たよ。食べられそう?」
「食える……ってか食いたい」
 よかった。食欲が出てきたのなら一安心だ。数少ない食器の中から茶碗を取り出して、おじやをよそう。スプーンを添えて、ベッドの枕元へ運んだ。
「どうだろ……薄味だけど、大丈夫かな」
「美味そう……いただきます」
 ふう、とスプーンですくったおじやを冷ましてそろそろと口に運ぶ高宮を思わず見つめる。どうかな、食べられるかな。心配になる。
「めちゃくちゃ美味い。すげぇ染みる……あったまる」
 ──心の底からほっとした。うめぇ……とひと口ずつ噛み締めながら食べ進めていく高宮を見ながら、他のだれよりも高宮に僕の料理を美味しく食べてもらうことが嬉しいんだと実感した。
 カフェのみんなにまかないを褒めてもらった時も嬉しかったけれど、それとは全く別の、自分の全部が高宮の「美味い」で肯定されたような感じ。
 陰キャという言葉で自分を押し殺してきた僕を、高宮はいつも引き上げてくれた。そんな高宮の本音の部分に、僕が少しでも寄り添えたら。

「ヤバい。俺の身体、朝斗のメシで守られてんだなぁ」
 おじやを綺麗に平らげた高宮が、ふとはにかんだ笑顔で呟いた。その言葉に優越感がくすぐられる。僕にしか出来ないこと。今この瞬間、僕だけが高宮の本当の顔を知っていること。
 あの時──、高宮の大学に行って、なんとなく疎外されたような気持ちになった時のことを思い出した。
 僕の知らない高宮を見たくない。そんな風に感じたのは、今なら言える。嫉妬だ。僕は、高宮の友だちやSNS上の繋がりに焼きもちを焼いていたんだ。

 それは、僕の中に生まれた恋という名前の感情。僕は、高宮に恋をしている。

「お、おかわりあるよ。食べられそうだったら……」
 とめどなく溢れそうになる感情にブレーキをかけるように、努めて明るい声を出して立ち上がる。茶碗を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、高宮の手がそっと僕の手首を掴んだ。
「わっ」
 予想外の動作に慌てふためいて体勢が崩れる。高宮に覆いかぶさりそうになるのをもう片方の手でなんとか堪えて振り向いてみれば、高宮と同じ目線になった。熱がまだこもっているような、縋るようなまなざしにぶつかる。
「ごめん……もうちょっと、いてくんね?」

 見たことのない高宮の切なげな表情に、僕は言葉を失った。高宮は僕の手を軽く引いて、自分の隣のスペースを示す。黙って僕はベッドの端に腰を下ろした。
 とん、と高宮の頭の重みが僕の肩に掛かった。僕の身体は緊張で固まりそうになる。高宮、どうしたの。何を思ってる? 聞きたいことが言葉に出来ない。この距離感、高宮なら意味のない近さなのかもしれないけれど、高宮を好きだと自覚した今の僕にとっては、特別な意味があるように思えて仕方がない。

「……朝斗がいると安心する」
 そんなふうに無防備に言わないでよ。好きな気持ちが抑えられなくなるじゃん。
「ね、熱で弱ってるだけだよ」
 平静を装って言ったつもりだけど、声がかすかに震えてしまった。これが特別じゃないなら、僕はどうしたらいい。
 もし、好きだって言ったらどうなるんだろう──なんて。肩に感じる高宮の体温に、心が浮き立つ。けれどそれは、少しずつ呼吸が整って、眠気に引き込まれていく高宮に向かって発せられることはなかった。

 すう……と高宮の力が抜けていくのが分かる。その重みはそのまま愛おしさの重みで。いつまでもそれを感じていられたらいいのに。僕だけのものに出来たらいいのに。胸の奥がぎゅっと切なくなった。