バイトが終わると、やりきったあとの疲労感が身体に染み込んできた。家に帰る頃には、眠気の方が勝ってしまう。あんなに毎日見ていたSNSを開くことすらせず、寝落ちしてしまっていた木曜日の朝。

「あっ、ゴミ捨て!」
 また忘れるところだった。慌ててゴミ袋を持って玄関を飛び出す。
 エレベーターを待つ間、何気なく三〇五号室の気配を確認した。今日は部屋からもエレベーターからも「朝斗ー!」の声は聞こえてこない。
 あとで会えるしな。そう思いながら部屋に戻り、朝ご飯を食べながらスマホを手に取る。昨日は帰ってからシャワーを浴びて、歯を磨いて──スマホも見ずに寝落ちしたんだった。

 メッセージアプリを開くと、そこには一件、見慣れた名前からの未読があった。
「明日、朝斗ん家行けねーわ」
 ……え? 

 画面を凝視した。日付を見ると、昨日の二十二時。
なにか急な予定でも入ったんだろうか。高宮にしてはそっけない一文への疑問、昨日中に返信出来なかった後悔。いろんな気持ちが混ざって、胸の奥が嫌な感じにざわついた。
「返信遅くなってごめん。了解、また来週ね」
 じわじわと広がる不安の芽を押し込めながら、何気ない風を装って返信する。
 僕の料理を楽しみにしてくれている高宮の思いを垣間見れただけに、今日会えないのはへこむけれど、それを正直に伝えるだけの勇気は育っていない。
 よし。来週の木曜日は、張り切って高宮のリクエストに応えよう。なんとか気持ちを切り替えて大学へ行く準備を始めた。

 あれ、おかしい。いつまでも既読がつかない。何度も確認したけれど、アプリの通知がつかない。朝感じた不安が、じくじくとまた湧き上がる。
 用事が終わらない? トラブルでもあった? いや。高宮だったら、たとえ急用だったとしても、もっとちゃんと書いてくれるはずだ。たった一言で済ませるようなやつじゃない。

 もしかして、返信の遅かった僕に怒ってたり……する? そんなわけないと思いたい。けれど、そうじゃないって確証もない。考えれば考えるほど胸の中に不穏な空気が膨らんで、心拍数が上がる。

 いてもたってもいられなくて、授業が終わると同時に教室から走り出していた。
 帰ったところで高宮に会えないかもしれないけれど、走るのを止められなかった。駅を降りて僕史上最高速度でマンションへ戻った。
 なんとなく胸騒ぎがして、一階にある集合ポストを覗いてみた。バイトが忙しくてチェックしていなかったポスト。高宮のポストが目に入った瞬間、僕はドキッとした。数日間、だれにも手をつけられていないかのように、いくつかの郵便物がはみ出ている。
 たいがい大雑把な高宮だけれど、これはちょっとおかしい気がする。急いでエレベーターのボタンを連打した。早く来い、早く来い。焦りの気持ちを抑えるようにつま先を踏み鳴らす。
 だれも乗ってこないよう急いで閉じるボタンを押し三階へ。僕の部屋を通り過ぎて三○五号室のインターホンを鳴らした。

「高宮、高宮いる?」
 ドアに耳をつけてみたけれど、気配らしいものは感じ取れない。やっぱり急用でいないのかも。それならそれでいいんだ。胸騒ぎがただの考えすぎってことで終われる。
 けれど、おかしいと感じた予感は消えない。もう一度だけ。インターホンを押そうとしたその時。

 ガタッ。ドアの向こうから、物音が聞こえた。
「高宮? 僕だよ。いるの?」
 思わず大きな声を出して高宮の名前を呼んだ。いるなら出て。お願い。
 ガチャリ。ゆっくりと鍵の開く音がする。「朝斗……」とかすれた声が聞こえて、嫌な予感が僕の心臓をぎゅっと掴む。
 おそるおそるドアノブを回した。

「高宮……、高宮!」
 玄関のたたきにうずくまっている高宮の姿があった。うつむいているので顔はよく見えない。両手をだらりと下げて、ここまで来たのがやっとという風に見えた。
「え、高宮、大丈夫!? 具合悪いの?」
 慌てて玄関に入り、タンクトップ一枚の高宮の肩に手を伸ばした。熱い。うつむいている高宮の顔を上げさせておでこに手を当てると、測るまでもなく熱を帯びていて、息を呑んだ。
「熱……あんじゃん」
 ぼうっと赤みのある表情は明らかに反応が悪い。両肩を支えていないとすぐに崩れ落ちてしまう顔を覗き込む。
「ごめ、起き上がったらぐらって来て……はは」
 しゃがれ声でそう言った高宮は、なんとか笑おうと無理しているのがみえみえだった。こんな時でも笑おうとする高宮に、怒りと心配が込み上げてくる。
「バカ、なんですぐ連絡よこさないんだよ。こんな時の隣のよしみだろ?」
「……朝斗、バイト忙しいと思って……」

 ……高宮はこういうやつなんだ。人ん家に強引に上がり込んだかと思えば、人に心配かけまいと優しさの裏側で無理をする。楽しくてにぎやかなことの好きな陽キャだけじゃない、さみしがりの一面を持っていることに……僕はもっと早く気づくべきだった。