不安は、もうひとつあった。シフトは火水金の週三日。高宮と晩ご飯を一緒に食べられる日が減ってしまう。
 高宮が僕の作った料理を食べて嬉しそうに笑う顔は、サークルの友だちやSNSのフォロワーも知らない、僕だけが知っている顔だ。にぎやかでだれとでもすぐ仲良くなるみんなの高宮が、僕の料理だけに向ける笑顔。
 それが週に一度しかなくなると思ったら、なんだか気持ちがしおれたみたいになる。いや待て、陰キャ脱却のためにバイトして鍛えるんだろうが。ネガティブはやめよう。

 スマホを取り出して、高宮に送る報告メッセージの文面を考える。
「面接受かった」いきなりこれだけ送りつけてもな。「こんばんは」いや、手紙かよ。

 悩んでいたその時、スマホが震えた。メッセージの送信者は──高宮。僕の様子を見ていたかのようなタイミングに、スマホを取り落としそうになった。
「どうだった?」

 もしかして気にしててくれたのか? すぐに既読にしてしまったので、返信しないわけにいかない。頭に浮かんだ精一杯の文字を送った。
「受かったよ」
「やったじゃん、おめでとう!」
 即レスでスタンプが飛んできた。アニメのキャラクターが「おめでとう!」とジャンプするやつ。嬉しい。
「なんてカフェ?」
「カフェアオゾラっていう、駅前の商店街をちょっと入ったところだよ」
「何曜日入るの?」
「たぶん、火水金」
「おー、マジで頑張るじゃん。ってことは、朝斗と木曜しか会えなくなるんか」
 え?
 僕がその文を読むのと同時に、続けて高宮からメッセージが送られてきた。
「ちょっとさみしいけどな」

 その一文を見た瞬間、胸の奥がズキリとした。
 僕が動くことで、高宮との時間が削られる。分かっていたことだけれど、高宮から言われると、思っていたよりも堪える自分がいた。
 だけど、これは必要な一歩だ。自分の世界を広げるために。高宮と対等に付き合えるように。だから──。
「木曜日は空けとくよ。一緒に食べよう」
 送った直後、すぐに「楽しみにしてる!」と返ってきた。文末にはニコッと笑うスタンプ。
 高宮が笑ってくれたような気がして、救われたような気持ちになる。
 ポケットにスマホをしまって、顔を上げた。夏の夜空に大きな月が輝いていて、それは僕の背中をそっと押してくれるような気がした。

 バイト初日。僕は支給されたエプロンを身に着け、ホールに立っていた。
店長が厨房、先輩アルバイトの奥村さんがホールを仕切っている。ホールの指導は、奥村さんから受けることになった。
 奥村さんは僕の一個上の大学三年生。
「僕は今年から就活が始まるから、佐倉君に期待してるよ」
 優しそうな雰囲気は店長に通じるものがある。カフェをやる人は似てくるものなんだろうか。じゃあいずれは僕もそんな風に見られるのかな。そうなれるといいな。

 こじんまりとしたカフェだけれど、店長がやってるSNSの口コミがじわじわと広がって、最近忙しくなっているらしい。僕もさっそくアカウントをフォローした。
 いつか、この店にリオさんが来てくれるといいな、なんてそんな考えが頭をよぎる。リオさんが「うまっ」と言いながら、僕の作った料理を食べてくれたら──なんて考えた瞬間、緊張が倍になった。
 駄目だ駄目だ、緊張するとまたすぐネガティブ陰キャを発動してしまう。余計なことを考えずに、まずは仕事に集中だ。僕は奥村さんについて歩きながら、メモを取った。

「レジは店長がやるからね、何回かは僕がオーダー取るから、佐倉君は出来上がった料理と飲み物をお客さんのところへ運んでくれる? 番号を確認しながら」
「はい」
 番号? え、どこ? メモを取る手がだんだんと汗をかいてくる。確認事項が増えてくるほど焦りが増してきた。
「慌てなくて大丈夫だから、今オーダー取ったカフェラテが出来たら運んでみて。笑顔でね」
「はい」
 奥村さんはそう言って、別のお客さんのオーダーを取りに行ってしまった。

 カウンターから注文されたカフェラテが出てくる。今度は僕ひとりだ。慎重にトレイの上に乗せ、お客さんの待つテーブルへ運ぶ。
 そう、これを運んでお客さんの前へ置き、「お待たせしましたカフェラテです」と言うだけだ。笑顔で。
 笑顔で、笑顔で……。あともう数歩で目的のテーブルというその時──足元でスニーカーのかかとが床にひっかかった。
「あっ……!」
 ガタッ、とトレイが揺れて、カフェラテが勢いよく波打つ。すぐに体勢を立て直したつもりだったけれど、カップの縁からこぼれた液体がソーサーからも溢れ、トレイの上にも広がってしまった。

 やってしまった……。僕の頭と身体は完全にフリーズした。お客さんは驚いた顔をしてこちらを見ている。脳裏にあの頃の牛乳事件が蘇る。店内にいる人全員の目が僕に刺さってくる気がした。
「す、すみませんっ……!」
 なんとか言葉を絞り出し、ぺこりと頭を下げる。冷や汗が首筋をつたった。

 その時、奥村さんがすっと僕の横に立った。
「申し訳ありません。すぐに新しいカフェラテをお持ちしますね」
 にこやかにそう言って、濡れたトレイを受け取り、僕にだけ聞こえる小さな声でそっと囁いた。
「大丈夫大丈夫。お客さんにかかってないし、だれでも最初はやるから」
 その一言に、気持ちが少し落ち着く。奥村さんはそんな僕を見て、うんと頷いた。
「笑顔はちゃんと出来てるよ、佐倉君。深呼吸ね」
 間髪入れずに店長が代わりのカフェラテを持ってきてくれて、事態は穏やかに収まった。店長が、僕の背中をぽんと叩く。
「最初の一回は、むしろ早めにやっといた方がいいよ。僕も開店したばっかの時、床にぶちまけたから」
「そ、そうなんですか……」
「うん。だから気にしないでね。次頑張ろう」
「はい。すみませんでした」

 ふたりにフォローしてもらいながら初バイトが終わる頃には、トレイの持ち方にもほんの少しだけ自信がついていた。失敗をひきずらないで最後までやり遂げられたのには、自分でもびっくりしている。
「うん、今日一日でかなり良くなったね。明日もこの調子で頼むよ」
「はい」
 クローズ作業を終えて店長に挨拶し、店の外に出ようとガラス扉に手をかけた。ふと目線を上げると、ガラス越しに見覚えのある後ろ姿が目に入った。
(高宮──?)

 なんで高宮が。なぜここに?