昼休み、大学の講義棟の隅にあるベンチに座って、スマホを耳に強く押し当てていた。耳が痛くなってはいたけれど、どうにも力を抜くことが出来ない。
プップップ……プルルル…プルルル…。
呼び出し音が始まってしまった。スマホの向こうから、「はい、カフェアオゾラです」と優しそうな声が返ってくる。僕は乾ききった唇をぺろりと舐めた。
「も、もしもし、バ、バイトの募集チラシを見てお電話したんですが……」
「あーはい。バイト募集。ご連絡ありがとうございます。飲食のご経験はありますか?」
「……いえ、まったくの初めてなんです……料理は大好きなんですが……」
未経験OKと書かれていたけれど、やっぱり経験者優遇なのかな……。相手の返事を待たずにテンションが下がる。そこをなんとか、なんて押し切る図々しさは持ち合わせていない。
「全然問題ないですよ。それでは面接の日程を決めましょう。さっそくですが木曜日の夕方五時はいかがですか?」
「木曜日五時、分かりました。よろしくお願いします」
良かった、とりあえず第一関門突破だ──。電話を切った瞬間、緊張が一気に抜けて、ベンチにへたり込んだ。スマホを握っていた手が汗でじっとりしている。
バイトの面接を決めるだけでこんなに緊張するなんて、先が思いやられるにも程があるけれど、僕なりの第一歩だ。スマホのスケジュールアプリに、木曜日バイト面接五時、と打ち込んだ。
卵たっぷりのカニ玉を前に、高宮は目を輝かせている。
「俺、カニ玉も大好きなんだよ。朝斗、俺のことほんとよく分かってんな!」
「だ、だから偶然だって」
高宮のことよく分かってるなんて、心臓につけたメーターがまた針を振り切りそうになる。いやいや、これも高宮のゼロ距離に慣れていないだけだ。鍛えていこう。高宮となんでもなく友だちでいられるように、陰キャから脱却していこう。
高宮はいただきまーすとカニ玉を美味しそうに食べ始めた。
その様子を伺いながら、僕はどう切り出していいか迷っていた。喉の奥に、さっきの電話の緊張がまだ残っている気がして、スプーンを持つ手がそわそわしてしまう。
高宮にバイト面接のことを言わないと。木曜日はご飯作れないって伝えないと。ああ、でもさらっと口にするのが僕には難しい。待て待て、こんなところでつまづいてどうする。
「……今日、さ」
思いきって切り出した。もう後戻り出来ない。高宮が手を止めて僕の方を見た。
「バイトの面接に応募してみたんだ。カフェの……厨房のバイト。もしかしたら僕にでも出来るかもしれないって思って」
「マジか! やるじゃん、朝斗! 絶対出来るって。料理上手いし、店長に気に入られるに決まってるよ」
「……そ、そうかな」
高宮の明るさがなんだか心を軽くしてくれた。高宮はいつもこうだ。ハンバーグを食べさせてくれた時も、カレーを一緒に食べた時も、高宮の大学のカフェテリアへ行った時も。僕が躊躇している時、なんでもないように「出来る」って示してくれる。
頭の中で今までの自分を振り返った。いつも講義が終わったらまっすぐ帰って、家でひとり料理を作って、SNSを眺めて……。単調で、味気なくて、それでいいと思っていた。けれど、高宮と出会っていろんなことが変わった。こんなに世界が広がるなんて思わなかった。
僕は勇気を出して言葉を続けた。
「それでさ、今週の木曜日が面接なんだ。何時に終わるか分からないから、木曜日は悪いんだけど晩ご飯作れなくて……」
それを聞いた高宮の表情が一瞬曇った気がした。けれどそれは本当に一瞬のことで、高宮はすぐにいつもの笑顔で、僕の肩をばしっと叩いた。
「気にすんな! バイト面接が最優先に決まってっだろ。応援してるから頑張れよ」
「うん、頑張る」
にかっと笑う高宮を見たら、大丈夫かもという気がしてきた。高宮は不思議だ。僕をドキドキさせたり不安がらせたりエネルギーをくれたりする。
「佐倉朝斗君。大学二年、ね。バイト経験はなし、と」
緊張で頭が痺れそうだ。大学受験の時よりも緊張している。
カフェアオゾラ。そのカフェは、名前の通り空を思わせるような淡いブルーを基調にした、優しい雰囲気の店だった。
店内奥のテーブルで、僕は店長と向かい合っていた。
「で、佐倉君、得意なことは料理? いいねぇ」
「あ、はい。自炊は毎日してて……その、得意というか、好き、なだけなんですけど」
「いいよいいよ。飲食未経験でも、料理が好きなら全然オッケー」
ふっと笑う店長は、柔らかい目元と丸眼鏡が印象的な、いかにもおしゃれなカフェの店長、という感じだった。僕の緊張をほどくように、あえてくだけた口調を混ぜてくれるのがありがたい。
「最初はみんなホールからお願いしてるんだけど、一通り慣れてきたら厨房に入ってもらって、まかない作りから始めてもらう感じ。それが大丈夫そうなら、ぜひ採用したいと思ってます」
「はい……ありがとうございます」
「出勤してほしいのは、火水金の週三日。大学が終わってから来てもらって、ラストまで。さっそく来週の火曜日から来てもらえると助かるんだけど」
「だ、大丈夫です。よろしくお願いします」
店を出た僕は、少し歩いたところで足を止め、はぁっと大きく息をついた。張り詰めていた緊張の糸がふっと緩み、じわじわと面接合格の喜びが湧いてくる。
(やった……受かった。まさか僕がカフェで働く世界線があるなんて)
素敵なカフェだった。店長も優しそうだし、何より店内に広がるコーヒーや料理のいい香りが、僕の中の好きにぴったり寄り添ってきた。緊張はするだろうけれど、ここなら頑張って働けそうだ。
と同時に、陰キャの悪いクセ──ネガティブ思考が顔を出す。
(最初はホールってことは……食事や飲み物を運んで、注文取って、笑顔で「いらっしゃいませ」とか言って……やっぱり無理なんじゃ?)
接客なんて人生で一度もやったことがない。緊張で顔がカチコチに固まりそうだ。
プップップ……プルルル…プルルル…。
呼び出し音が始まってしまった。スマホの向こうから、「はい、カフェアオゾラです」と優しそうな声が返ってくる。僕は乾ききった唇をぺろりと舐めた。
「も、もしもし、バ、バイトの募集チラシを見てお電話したんですが……」
「あーはい。バイト募集。ご連絡ありがとうございます。飲食のご経験はありますか?」
「……いえ、まったくの初めてなんです……料理は大好きなんですが……」
未経験OKと書かれていたけれど、やっぱり経験者優遇なのかな……。相手の返事を待たずにテンションが下がる。そこをなんとか、なんて押し切る図々しさは持ち合わせていない。
「全然問題ないですよ。それでは面接の日程を決めましょう。さっそくですが木曜日の夕方五時はいかがですか?」
「木曜日五時、分かりました。よろしくお願いします」
良かった、とりあえず第一関門突破だ──。電話を切った瞬間、緊張が一気に抜けて、ベンチにへたり込んだ。スマホを握っていた手が汗でじっとりしている。
バイトの面接を決めるだけでこんなに緊張するなんて、先が思いやられるにも程があるけれど、僕なりの第一歩だ。スマホのスケジュールアプリに、木曜日バイト面接五時、と打ち込んだ。
卵たっぷりのカニ玉を前に、高宮は目を輝かせている。
「俺、カニ玉も大好きなんだよ。朝斗、俺のことほんとよく分かってんな!」
「だ、だから偶然だって」
高宮のことよく分かってるなんて、心臓につけたメーターがまた針を振り切りそうになる。いやいや、これも高宮のゼロ距離に慣れていないだけだ。鍛えていこう。高宮となんでもなく友だちでいられるように、陰キャから脱却していこう。
高宮はいただきまーすとカニ玉を美味しそうに食べ始めた。
その様子を伺いながら、僕はどう切り出していいか迷っていた。喉の奥に、さっきの電話の緊張がまだ残っている気がして、スプーンを持つ手がそわそわしてしまう。
高宮にバイト面接のことを言わないと。木曜日はご飯作れないって伝えないと。ああ、でもさらっと口にするのが僕には難しい。待て待て、こんなところでつまづいてどうする。
「……今日、さ」
思いきって切り出した。もう後戻り出来ない。高宮が手を止めて僕の方を見た。
「バイトの面接に応募してみたんだ。カフェの……厨房のバイト。もしかしたら僕にでも出来るかもしれないって思って」
「マジか! やるじゃん、朝斗! 絶対出来るって。料理上手いし、店長に気に入られるに決まってるよ」
「……そ、そうかな」
高宮の明るさがなんだか心を軽くしてくれた。高宮はいつもこうだ。ハンバーグを食べさせてくれた時も、カレーを一緒に食べた時も、高宮の大学のカフェテリアへ行った時も。僕が躊躇している時、なんでもないように「出来る」って示してくれる。
頭の中で今までの自分を振り返った。いつも講義が終わったらまっすぐ帰って、家でひとり料理を作って、SNSを眺めて……。単調で、味気なくて、それでいいと思っていた。けれど、高宮と出会っていろんなことが変わった。こんなに世界が広がるなんて思わなかった。
僕は勇気を出して言葉を続けた。
「それでさ、今週の木曜日が面接なんだ。何時に終わるか分からないから、木曜日は悪いんだけど晩ご飯作れなくて……」
それを聞いた高宮の表情が一瞬曇った気がした。けれどそれは本当に一瞬のことで、高宮はすぐにいつもの笑顔で、僕の肩をばしっと叩いた。
「気にすんな! バイト面接が最優先に決まってっだろ。応援してるから頑張れよ」
「うん、頑張る」
にかっと笑う高宮を見たら、大丈夫かもという気がしてきた。高宮は不思議だ。僕をドキドキさせたり不安がらせたりエネルギーをくれたりする。
「佐倉朝斗君。大学二年、ね。バイト経験はなし、と」
緊張で頭が痺れそうだ。大学受験の時よりも緊張している。
カフェアオゾラ。そのカフェは、名前の通り空を思わせるような淡いブルーを基調にした、優しい雰囲気の店だった。
店内奥のテーブルで、僕は店長と向かい合っていた。
「で、佐倉君、得意なことは料理? いいねぇ」
「あ、はい。自炊は毎日してて……その、得意というか、好き、なだけなんですけど」
「いいよいいよ。飲食未経験でも、料理が好きなら全然オッケー」
ふっと笑う店長は、柔らかい目元と丸眼鏡が印象的な、いかにもおしゃれなカフェの店長、という感じだった。僕の緊張をほどくように、あえてくだけた口調を混ぜてくれるのがありがたい。
「最初はみんなホールからお願いしてるんだけど、一通り慣れてきたら厨房に入ってもらって、まかない作りから始めてもらう感じ。それが大丈夫そうなら、ぜひ採用したいと思ってます」
「はい……ありがとうございます」
「出勤してほしいのは、火水金の週三日。大学が終わってから来てもらって、ラストまで。さっそく来週の火曜日から来てもらえると助かるんだけど」
「だ、大丈夫です。よろしくお願いします」
店を出た僕は、少し歩いたところで足を止め、はぁっと大きく息をついた。張り詰めていた緊張の糸がふっと緩み、じわじわと面接合格の喜びが湧いてくる。
(やった……受かった。まさか僕がカフェで働く世界線があるなんて)
素敵なカフェだった。店長も優しそうだし、何より店内に広がるコーヒーや料理のいい香りが、僕の中の好きにぴったり寄り添ってきた。緊張はするだろうけれど、ここなら頑張って働けそうだ。
と同時に、陰キャの悪いクセ──ネガティブ思考が顔を出す。
(最初はホールってことは……食事や飲み物を運んで、注文取って、笑顔で「いらっしゃいませ」とか言って……やっぱり無理なんじゃ?)
接客なんて人生で一度もやったことがない。緊張で顔がカチコチに固まりそうだ。



