──だめだ、まったく寝付けない。
 何度寝返りを打っても、シーツの感触がやけに気になって落ち着かない。
 さっきのことを思い出すたびに、心臓がまた忙しなく動き出す。高宮の指先が、ほんの一瞬、僕の唇に触れたあの感触が、何度もフラッシュバックする。

 ふざけただけ。きっと、そう。けれど高宮にとってなんでもない行動が、どうしてこんなに僕の心を惑わすんだろう。ほんの小さな出来事が連続しただけで、こんなにも世界が揺らいでしまうなんて。

 時計の針は午前零時を回っていた。木曜日になってしまった。今日も高宮は、僕の作る料理を楽しみにやって来るだろう。
 またいつものように駅で待ち合わせをして、スーパーに寄って、食材を買って、一緒に帰る。
 高宮はきっと、何もなかったように笑ってくるんだろう。あんなの、きっと高宮にとってはノリのひとつに過ぎない。
 そんな高宮に僕はどう接したらいい? どんな顔で挨拶すればいい? 考えれば考えるほど、自分の反応がぎこちなくなっていくのが目に見えてわかる。
 もういっそ、いつも通りを演じ切ろうか。何も気にしていないふりをして、スルーすればいい。そうすればこのもやもやも、なかったことにできるかもしれない。ちょっと鬱陶しいけど楽しい隣人関係を続けられるにちがいな……いや無理だな。陰キャの僕に、そんな演技力はない。余計こじれるだけだ。
「はあ」
 ため息をついてぎゅっと目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。だけど朝は来る。

 カーテンの隙間から鬱陶しいほどの光が入り込んできた。明け方にようやく眠気を捕まえてなんとか迎えた木曜日の朝。今日は……ゴミの日だ。
「しまった」
 スマホを見ると七時二十五分。ゴミ収集まであと五分しかない。慌ててゴミ袋の口を縛り、玄関を飛び出した。間に合うか。僕はバタバタとサンダルを鳴らした。
「おい、朝斗じゃねぇか。おい、早く乗れ」
 閉まりかかっていたエレベーターの中から、高宮がひょいと顔を覗かせた。
 その瞬間、びくんと心臓が跳ねて自分でもびっくりする。落ち着け、これはただのゴミ出し、ただのエレベーター、ただの高宮。……いや、高宮が“ただの”じゃないんだよな、今は。
 鼓動が、高宮の笑顔にだけ過剰反応してくるのはなんでなんだろう。そんなに毎回ドキドキ言わなくていいだろ……。

 高宮と出会った初日の時みたいに、やけに居心地の悪いエレベーターだった。一階に着くと、高宮が僕の持っていたゴミ袋をひょいと受け取ってくれた。「朝斗はエレベーターのボタン押して待っとけ」なんて、さらっと。
 ……ずるいよな、そういうところ。
「……ありがとう」
 自分では自然に返したつもりなのに、声が妙にかすれていてちょっと恥ずかしい。
「おう。今日は野菜の日だろ? 楽しみにしてっからな。あれほら、昨日のピーマン、あれまた食いてぇな」
 そう言って笑った高宮の顔を見た瞬間、胸の奥がまたぎゅっとなる。
 困るんだよ。そうやって何でもないみたいな顔して、僕の一日をさらっと奪っていくのは。
「うん……」
 「うん」以外の言葉を見失ってしまう。もう高宮の笑顔をまともに見ていられなくて、エレベーターのボタンをひたすら見つめるばかりだった。

 終始上の空だった講義を終えて待ち合わせの駅前に降りると、いつも通り僕より少し早く来て待っている高宮の姿が目に入った。スマホを見ていてまだこっちには気づいていない。
 あーもう、どうしよう。このままばっくれちゃおうかな。高宮とふたりで買い物して、並んで歩いて、料理や食事や片付けをして……なんてミッションが多すぎて心臓が持たなそうだ。
 先生に急に呼び出されちゃったとかなんとか理由をつけて……あ、こっちを見た。作戦は実行する前に失敗に終わってしまった。

 僕に気づいた途端高宮は、
「よっ朝斗! お疲れ」
 と人懐っこい笑顔で手を振ってきた。やっぱりいつも通りだ。高宮を意識しているのは僕だけなんだと認識させられる。
「……あ、うん。お疲れ」
 自分でも分かるくらいトーンが硬い。一度高宮を意識した心臓は、落ち着くことを忘れたみたいだ。高宮ショックを食らうたびに胸の奥がざわざわしてしまって、意識しないようにすればするほど、声や態度に出てしまう。陰キャはそういうのに耐性がないから困るんだ。

「今日何にするか決まってる? もし決まってなかったら冷やし中華食いてぇんだけど」
「……うん」
「冷やし中華って何入るんだっけ。トマトだろ、きゅうり、あとハムと卵か?」
「……うん」
「朝斗、さっきからうんしか言わねぇのな。疲れてんの?」
「い、いや。そんなことない」
「あ、腹減ってんだろ。よし、さくっと買おうぜ」
「……うん」
 ああ、自分にイライラする。なんでもない話をなんでもないテンポで返したいのに、それすらうまく出来ない。
 買い物中も、僕は「そうだね」「うん」「わかった」くらいしか言えずじまいで、そんな僕を盛り上げるように高宮はことさら明るく喋りかけてくれた。僕の様子がどこかおかしいことに、きっと高宮は気づいている。コミュ力オバケな高宮のことだ、僕みたいな人間の空気の変化なんて、とっくに察してるに決まってる。
「……さと、……朝斗聞いてる?」
「え、え、ごめん何?」
「今日もアイス買っていいかって話」
「あ、うん」
「今日は違う味にしてみねぇ?」

 高宮は僕の変化に気づいていないふりをして、いつも通りふるまってくれているのが伝わる。ごめん高宮、どうしておかしくなってしまうのか、自分でもよく分からないんだ。