人前で牛乳を吹いたことがあるか? 僕はある。中二の時にだ。
 給食の時間、前の席の戸塚というやつがいきなり僕の方を振り向いて、あるネタ系動画配信者のモノマネをした。
 あとから思えば大して面白くもないし似てもいなかったんだけれど、奇襲をかけられた僕は思わず吹き出してしまった。口に含んでいた牛乳はもちろん戸塚の顔に直撃だ。
「きたねーーーーっ!」
 戸塚は大声を出して、教室を飛び出して行った。
「佐倉何やってんの」
「かわいそ、戸塚」
 教室中からからかいの声が持ち上がる。
「ちがっ、あれは戸塚が!」
「あーあ」
 戸塚は普段からふざけたことをするとみんなも知っていたから、本気で僕のことをからかっていたんじゃないということは分かった。僕と戸塚のやりとりを見て楽しんでいた程度だ。だけどその瞬間、僕の頭の中はそれこそ牛乳のように真っ白になった。
 それ以来、僕は人前で食事をすることが怖くなり、保健室の机を借りて給食を食べるようになった。

「朝斗、いい加減保健室で食べるのはやめなさい。今日も先生から報告の電話もらったのよ。いじめられてるわけじゃないんでしょ」
 母の声は心配よりも、どこか呆れた響きを帯びていた。
「もう何度目だと思ってるの?」
「そうだけど……」
 そう言われたけれど、給食の時間になるとどうしても手足がすくむのだ。親の目、先生の目、同級生の目。自分がどう見られているのか、考え始めるともうだめだ。指先が冷たくなり、スプーンを持つ手が震え、息がうまく吸えなくなる。給食の時間が来なければいいのにと何度も思っていた。

「ただいまーおかえりー」
 1DK大学生専門マンションの三〇四号室。今はここが佐倉朝斗(さくらあさと)二十歳、大学二年生の小さな城だ。駅前のスーパーで買ってきたものを玄関すぐ横のキッチンシンクにどさりと置いた。
 今日作るのは、揚げ玉でつくる鶏むね天。揚げ玉も鶏むね肉も安いので、節約したい身としては助かる。揚げ玉を使うと揚げる油の量も少なくていいのがポイントだ。
 ひとり暮らしに欠かせないアイテムと言えば、もやし。ここにチューブにんにく、豆板醤、赤唐辛子をいれてごま油を回しかけ、レンジでチンしたらもう一品完成。
 揚げたての天ぷらからいい匂いがして食欲をそそる。ご飯は帰宅時間を逆算して炊いておいた。出来上がった料理をテレビとベッドとテーブルが押し込まれた部屋に運び、いただきますと手を合わせる。
 揚げ玉のさくさくとした食感がいい。めんつゆでも塩でも美味しいので交互につけて食べる。箸休めはごま油の効いたレンチンもやし。三十円でこの美味さ。もやしは家計の優等生だ。
 余った鶏むね肉はどうしたらいいかな。今では唯一と言っていい僕の友だち、スマホを召喚しながら、友だちのいなかったあの頃を振り返る。
 
 高校に入ったら解決すると思っていた。弁当になったから。安心して食べられそうな場所へ移動も可能だ。けれど、いざ昼休みが近づくと動悸が止まらなくなった。また食事中に何か起こったら? だれかの前で何かやらかしたら? 考え始めると落ち着かなくなる。
 クラスの何人かが「一緒に食べようぜ」と誘ってくれたけれど、僕は「用事があるから」と嘘をついて逃げた。教室で食べるのが怖くて、体育館の裏や空き教室探しては、だれにも見つからないようにひとりで弁当を食べていた。
 そうやって理由をつけて昼休みの誘いを断り続けているうちに、気づけばもうだれも誘ってこなくなった。

 当然、もともと少なかった友だちの数がさらに減っていった。まぁその方が都合が良かったので、減るがままにしていたのもある。下手に話しかけられるよりは、ひとりにしておいてもらった方が良い。
 放課後カラオケ行くにしてもハンバーガーショップに立ち寄るにしても、人前で何かを食べたり飲んだりするのが怖い。それを毎回断るのも不自然だから、ひとりの方が断然気が楽。
 もともとコミュニケーション能力に長けていなかった僕は、どんどん陰キャへの道を突き進むことになる。それにしても陰キャってだれが作った言葉だろう。僕にぴったりだ。

 大学に通うようになったからと言って何が変わるわけでもなく、人前で食事が出来ないところは今もそのままだ。大学のカフェテリアで食べる勇気はもちろんなく、基本的に昼食は抜き。講義が終わったら寄り道せずに帰宅の毎日。

 そんな僕の唯一の楽しみが、料理をすること。マンションを決めた理由は、近くに大きなスーパーがあったからだ。料理をするきっかけになったのはこれ。スマホのアイコンをタップする。

「リオです。今日は都内の喫茶店に来ました。名物はモーニングセット。でかいピザトーストにコーヒー、ゆで卵、デザート付き。マジで美味い」
 勉強とSNSしかやることがない中ふと見つけたそのアカウントでは、美味しいもの巡りをしているリオさんという人が、料理の写真を上げていた。おしゃれなカフェを喫茶店と言ったり、書かれているコメントが「うまっ」だとか「やばっ」だとか大雑把なところがあったり、写真が時々ブレていたりするけれど、それも味があっていい。
 ライブ感のある写真を見ていると、自分もそこへ行って食べたような気持ちになれる。ワクワクする気持ち半分、羨ましさ半分で毎日チェックをしている。次は何を食べるんだろう、どこへ行くんだろう。

 リオさんがアップするいろいろな料理写真を見ているうちに思いついた。他人の前で食事をするのが怖い僕でも、料理を作ることなら楽しめるんじゃないか。それからというもの、簡単に出来るレシピ動画なんかを見ながら、少しずつレパートリーを増やしているところだ。

 明日は何を作ろう。限られた予算の中で試行錯誤しながら料理を作るのは楽しい。美味しく出来たら嬉しい。もし、これをだれかと一緒に食べることが出来たら、もっと楽しくて嬉しいんだろうな。そんなことをちらっと思いながら、ごちそうさま、と小さく呟いた。