花も実もあるお付き合い

 * * *


「結斗」
 純の呼ぶ声で目が覚めた。さっき家にスキップして帰ったはずなのに、なんでまだ純の家にいるんだろうって少し混乱した。
「う……んん。さっき由美子さんのケーキ食べた」
「寝ぼけてるな」
 自分の手の大きさを見てやっと今の状況を把握する。もう小学生じゃない立派な大学生だった。
 さっきまでの夢が心地よくて、ずっと眠っていたかったなんて思った。
「ゆーい、結斗。寝るなら亜希さんに電話してベッド行きな。風邪引くから」
「ね、いま、何時」
「七時前」
 リビングのソファーで、ぐっすりと眠っていた。ほんの三十分くらいの間なのに長い夢をみていた気がした。
「夕飯は? もうおでん食った?」
「いや今から」
 今だって幸せなのに、昔のことを思い出すと幸せな今が急に不安になる。
 今日までが完璧で満たされていたから、少しの綻びが怖くなる。純が外でピアノを弾いていた。それだけだ。良かったじゃないか。
「おーい、まだ寝てる?」
 ソファーの横に立っている純を見上げる。さっきまで子供の姿を見ていたせいか、伸びた身長に違和感を覚えた。ちょこんとして可愛らしい顔をしていたのに、顔のラインはいつの間にか縦に伸びて大人びている。
 小さくて愛らしかった男の子が立派な青年になっている。――透き通るような白い肌、長いまつ毛。知性と品の良さが滲み出ている。
 中学までは結斗の方が少しだけ背が高かったのに高校で抜かれて差をつけられた。周りが騒ぐのも理解できる。誰よりもかっこいい結斗の幼馴染。
「……なぁ純、ピアノ好き?」
「好きだよ」
 すぐに返ってきた言葉。少しの迷いもなかった。その瞳は嘘じゃないって分かる。
「うん、そっか」
 そうやって何も変わっていないことに安心している。結斗は勢いをつけてソファーから上体を起こすと台所へ歩いていった。
 眠る前まで大鍋に入っていたおでんは純の家用に小鍋に入っていた。結斗の分は持って帰れるように蓋つきのプラ容器に詰められている。
 何もかもが完璧だった。
(べつに俺……純の世話とかしなくても良いじゃん)
 もっと一緒にいて欲しいって、結斗がいないとダメだって思われたい。ふいに、そんな感情が湧き上がってきた。
 純は台所にいる結斗のところまで来て、目を細めて顔を覗いてくる。
「な、なに」
 つい声が詰まってしまった。
「大丈夫?」
 結斗の寝起きのまとまりのない思考を、純はエスパーみたいに察知したんだろうか。ほんと長く一緒に居過ぎたせいか、純には何でも気付かれてしまう。
「結斗、昔から変なところで繊細だよね。感覚が独創的だし」
「それ褒めてないよな」
「あと図太そうに見えて、なんか良くわからないタイミングで急に不安定になる」
「不安定って、人を病気みたいに。元気だっつーの!」
「でも本当だよ。急に内側に入り込む。のめり込むっていうのかな」
「よく分からないけど」
「繊細で感受性が強い人は表現力がある。結斗の音楽は昔からそう、だから面白いよ」
「音楽ねぇ」
 自分の音楽なんて最近はカラオケしかしていない。純は、いつの話をしているんだろう。
「――まぁそういうところがいいのかな」
「音楽って、それカラオケの話?」
「子供のころの結斗の話。歌、勉強してただろ」
「ちょっとだけ……な」
 やっぱりエスパーだと思った。子供のころの夢をみていたと気付いているみたいだった。
「音楽ってさ、完璧すぎると逆に面白くないよ」
「ふーん」
「人を惹きつける音楽ってそういうものだ。今の結斗の音楽も俺は好きだよ」
 純がいう結斗の音楽が、どんなものか分からない。
 歌をやめてから音楽らしい音楽は、大学の仲間たちと行くカラオケくらいだった。あとは強いていうなら、純が弾くピアノで一緒に歌って遊ぶ程度。
 結斗がしているのは、別に純のピアノみたいな、ちゃんとした音楽じゃない。
「で、帰るの? 泊まっていけばいいのに」
「ババアにおでん持って帰るって朝に約束したから。多分そろそろ帰ってくるだろ」
「そう、じゃあ気をつけて。亜希さんによろしく」
 純の亜希さんという自分の母親の呼び方は何回聞いてもぞわぞわする。
 ママ、お母さん、おばちゃん、おかん、おふくろ。
 全部、同じで違う生き物だ。
「俺の母親はオバちゃんでいいって、亜希さんとか呼ばなくても」
 どう考えても、自分の母は「亜希さん」って顔じゃない。
「結斗だって俺の母さんのこと、由美子さんって呼ぶだろ?」
「雰囲気だよ! お前のとこの母さんは、オバちゃんじゃねーじゃん。ケーキ焼けるし、バイオリン弾けるし」
「なに、ケーキとバイオリンが基準?」
 あははと純は声をだして楽しそうに笑う。
「あー昔食べた由美子さんのチーズケーキがめちゃうまだったなぁ。さっき夢で見たから食べたくなった」
 自分の母親はケーキは絶対手作りしない、ホットケーキでさえ食べたければ結斗は自分で焼く。
「言えば喜んで焼いてくれるんじゃない?」
「今度日本に帰った時に言ってみる」
「うん。あと俺らの母さんは同級生だから年齢なら、どっちも同じ。亜希さんがオバちゃんなら、うちもオバちゃんだよ」
「それでもうちのはババアなの。――じゃあな帰る、台所かしてくれてありがとな」
「どういたしまして。玄関まで送るよ」
「別にいいのに。鍵持ってるし」
「いいから」
 台所で自分がしようと思っていた片付けが残っていなかったので、おでんの容器を袋に詰めて玄関に向かった。
 玄関近くにあるクロークから自分のコートを取り出して羽織り靴をはく。この一連の流れが純の家だなと感じる。
 今も昔も自分の家と純の家の違いは多過ぎる。
 結斗の家ならコートはリビングのソファーに投げっぱなし。靴も玄関に散乱している。母親に片付けろと怒られるまでがデフォルト。いいお家のお坊ちゃんと庶民。
 でも純が結斗の家に来た時に「コート掛けはどこですか?」なんて訊く男かというと、そんな事は全然ない。
 だいたい適当に置いているし、純が結斗の家に泊まれば雑魚寝もする。
 そういうところが長い付き合いが出来る理由のような気がした。
「なぁ、純」
「ん、なぁに」
「――ピアノ、続けろよ。絶対」
 玄関でドアノブに手をかけたとき、振り返らずに結斗は背中でそう言った。
「続けるもなにも、いつも弾いてるよ」
 精一杯の気持ちで頑張って伝えたのに全然伝わっていなくて、内心地団駄を踏む。
 純の才能を埋もれさせたくないのは本心なのに口に出すと寂しくなる。
 この先も遠くに行かないで、自分だけの純でいて欲しい。
「だーかーらー。そうじゃなくて! もう、いい!」
「赤ちゃんかよ急にヒスるし。どうした? お腹すいているんでしょ」
 髪を後ろからぐちゃぐちゃとかき混ぜられる。
「うるせー!」
「あはは。寝ぼけて坂で転ぶなよ、ちゃんと前向いて歩けよ」
 そう楽しそうに笑いながら結斗の後ろについて純も外に出た。玄関までと言ったのに結局、門の前まで送ってくれた。
 純の中で自分はまだ小学生なのだろうか。
 そんなことを思いながら悪態をついて坂道を下る。
 純は昔のことをいつまでも覚えている。自分も同じだ。――純の家の前から続くだらだらと長い坂。小学生のとき両手じゃ足りないくらいこの辺で転けた。自転車でブレーキをミスって転けたときは一回足の骨も折っている。注意力散漫な子供だった。
 さっき純が言った通り、すぐに考え込むというか、のめり込むところがあるかもしれない。
 長い坂道が終わり高級住宅街を抜け駅の高架の下を潜ると、周りの人の気配に下の世界に帰ってきたみたいな気持ちになる。
 十何年と繰り返し純の家と自分の家を往復してきた。
 純の家も間違いなく自分の居場所で落ち着く場所だ。でも坂道を降りた瞬間だけは正しく現実を認識させられる。
 川と駅を挟んで景色が急に変わる。閑静な住宅街を抜けると突然コンビニとスーパー、チェーン店の飲食店が軒を連ねている。
 春は川沿いの桜を目当てにたくさんの観光客が訪れる場所だが、それ以外は住みごこちのいい静かな街。
 昔から親が純の家と仲がいいから、自分の家と純の家を比べてコンプレックスを感じたことはなかった。けれど、やっぱり住んでいる世界が違うなと折に触れて感じる。
 純と二人でいると感じないのに不思議だ。

 家に着くとマンションのエントランスで、タイミングよく母親に会った。
 長いくせ毛をひっつめて後ろでまとめバレッタで留めている姿は、どう見ても「亜希さん」じゃない。よくいるお局さんとか、バリキャリって奴だと思う。
「おかえり息子。いい子にしてたかい」
 大げさに抱きついてくる母の拘束から逃げる。どいつもこいつも、自分のことを子供扱いだ。
「ただいま、離れろよ。おでんがこぼれる」
「機嫌悪いなぁ、純くんと喧嘩したの?」
「したことねーよ。アイツ怒ったとこなんか見たことねぇし」
「確かにねぇ、純くんホントあんたと違って優しいし紳士だから」
「純が紳士?」
「君は基本的に無神経だよ。色々我慢させてんじゃないの」
「純は、そんなんじゃねーよ」
 純が我慢してるなんて怖いことを言わないで欲しい。結斗が知らない純を知ってから、ずっと不安定だ。
「おっ、彼女面かよ」
「彼女じゃねーよ。怒るぞ」
 自分で言って、なぜか胸がチクリと痛んだ。
「もう、怒ってるじゃん、こわーい」
 つまらないやりとりをしながらマンションのエレベーターに乗り行き先ボタンを押す。
 純とは喧嘩らしいことは本当に今まで一度もしたことがない。
 ――彼女ヅラって。
 多分「彼女」という存在よりも長い時間一緒にいる。
 家族よりも同じ時間をすごしてるし、家族よりも純は結斗のことを知っている。多分、純も結斗のことを知っていた。
 彼女面というより深い言葉があるなら知りたいと思った。
 部屋に入って荷物を置くと母が風呂に入っている間に夕飯の準備をする。
 友達のような親子という言葉があるが自分の家の場合は会社だ。親とは昔から上司と部下みたいな関係が続いている。家族という会社の中で全員が各々役割を持っていて、一定の秩序のもと不可侵に生きている。
 放任主義とも違うし、育児放棄をされていた訳でも親の愛情を感じていない訳でもない。
 昔は自分の家を変な家だと思っていたが、いい加減もう慣れていた。
 いい年なんだから仕事はそこそこにして主婦にでもなればいいのに。母親はずっと働いている。
 父も母も別に喧嘩はしてないし仲が悪い訳でもないのに、互いにベタベタ一緒にいるところを結斗はあまり見ない。
 家にいつもいない両親の代わりに家を守ってきたのが結斗だ。家事全般なんでもやる。
 結斗が家のことが苦手だったら親も家事をしたかもしれないけど、残念なことに結斗は家事が得意だった。
 いい意味でも悪い意味でもドライな家。
 久しぶりに母子で食卓に座り顔をつきあわせる。風呂上がりの母はビールを片手におでんを美味しそうに食べていた。喜んで感謝されると次も頑張ろうと思えるし、料理に関しては段々と結斗の趣味になっていった。もしかして好きになるように両親に仕向けられてたのだろうか。
「なーんで、今日は、ぶすっとした顔してんの?」
 近くにあるテレビからは明日の天気が流れている。天気予報士は最近毎日、明日は寒いって言う。言われなくても知っているって思った。
「元々こういう顔なのー。アンタが産んだんだろ、よく似てるよ」
「そうね、父さんにそっくり」
 アンタにそっくりなんだよって心のなかで毒づいた。一重で猫目なところがそっくりだ。
「そうそう、今年のクリスマスさ。由美子ちゃんたちと遊ぶことにしたから」
「は? なんで、つか由美子さん帰ってくるの?」
 それなら純と家族で過ごすんじゃないのかと思った。
 別にクリスチャンでもないから、教会に行ったりはしないだろうけど。
「行くのよ私が。あ、父さんも一緒。ニューヨークまで」
「歳考えろよババア」
「あらぁ、海外旅行に年なんて関係ないでしょう? たまに父さんと顔合わせないと、家族って忘れそうだし」
「はぁ」
「父さんが出張だって言うからついでよ、ついで」
 昔から自分の親は好き勝手に生きている。
「普通さぁ、息子一人置いて、海外遊びに行くか?」
「アンタだって、大学で遊んでるじゃない。私たちだって遊びたいし」
「勉強もバイトもしてる!」
「そう偉いねぇ? でもさ大学なんて遊び方を覚える場所でしょう。一年の間に真面目に単位とって二年は自分探しという大義名分で朝から晩まで遊んで」
「俺は違う」
 酒が回ってきたのか母は普段より饒舌だ。
「三年になったら酒を覚えて四年で絶望する。ちなみにあんたの父さんとあったのは、三年の時。ほんと酒の力って恐ろしいわ、あんたも気をつけなさい、私の血をひいているんだし」
 親の出会いとか聞きたくないと思った。
「別に旅行は自分たちが稼いだ金だし、好きにすればいいけど」
「ありがとう、お土産買ってくるね」 
「いらねぇよ」
「えーなになに暗い顔。お母さんいなくて寂しいの? クリスマス純くんに遊んでもらいなよー」
 完全に酔っ払いだ。
 別に酒癖は悪くないし悪いお酒じゃないから適当にあしらって放っておくことにした。
「寂しくなんか」
 言いかけて嫌なことに気づく。
 クリスマスに母親はいなくてもいいが、純がいないと寂しいと感じている自分に。
 そして自分の親は、酔ってても息子のことをよく見ているし、何も見てないのに結斗のことをちゃんと知っている。
 それが親というものなんだろうか。
 純が今年も結斗と当たり前のように一緒にいてくれる保障なんてどこにもない。
「純だってクリスマスは忙しいだろ。俺だってバイトあるし忙しい」
「ふぅん。やっぱり寂しいんじゃない。ほんと、四六時中一緒にいたからねぇ君らは、兄弟みたいに。で、大学行ったら一気に世界が広くなるのよねーわかるわかる」
「何が!」
「母さんも高校の時の友達って今はぜーんぜん会ってないもん」
 そんなふうに母親に不安を煽られた。
「べ、別に純は俺がいなくても、好きにやってるし、俺だって」
「素直にクリスマス一人が寂しいから今年も一緒にいてくださいって純くんにお願いすればいいじゃない、きっと喜ぶよ?」
「誰が言うかよ!」
「去年も二人でいたくせに」
「きょ、去年は純の親も帰ってきたし、アンタらも純の家にいたじゃん」
 去年は純の家で二家族でクリスマスパーティーをした。夕飯を食べたら地下の純の部屋で映画を観ていたので、母親が言う通り二人でいたというのは間違いではない。
「そ……そうだっけ」
「そう!」
「ま、純くんもあんたが嫌だったら嫌っていうし、アンタも純くんが嫌ならいやって言うでしょう。そんなに悩まなくても、そんだけのことじゃないの。ほんとアンタ昔から図太いくせに変に繊細なんだから、誰に似たのよ。父さんかしら?」
 同じことをさっき、純に言われたところだった。
「そうか?」
「そうそう。純くんに彼女が出来たらアンタ泣くんだろうなー。まぁ、純くんもアンタに彼女が出来たら泣くだろうけど」
「あいつが泣くかよ」
 純が自分のことで泣くところは想像が出来なかった。いまいちピンとこない顔をしていたら、母は呆れたように息を吐く。
「ほぉら、アンタそういうところが無神経なのよ」
「無神経ってなんだよ」
「同じだけ一緒にいたんだから思考回路も同じよ。なんで分からないかなぁ君は。由美子ちゃんも言ってたけど、私たちからみたらあんたら似た者同士よ」
「似てねーよ」
「似てるって。顔は純くんの方がいいけど。すっごい美形よね」
「うるせーな」
 勝手に似た者同士で纏められたけれど、やっぱり純に自分と同じところなんてない。けれど母親の言葉は不思議で、じゃあ、それならまだ一緒にいてもいいかと思えた。
 母親から安心を与えられた気がして少し腹がたった。いつまで経っても子供扱いだ。
 少し冷めたおでんの大根にかぶりつく。
 純は、もう夕飯は食べただろうか。

 + + + +


 夢の中で結斗は昔のクリスマスの思い出のなかにいた。
 純と一緒に冬休みを待ち遠しく思う毎日。
 小学校低学年のころも相変わらず両親は仕事で忙しかったけど、クリスマスには必ず家族揃ってケーキを囲んでいた。父もまだ単身赴任していなかったので、毎日家に帰ってきていた。だから結斗の心踊る気持ちもあいまって、毎年十二月は普段より家の中が賑やかだったかもしれない。
 けれど、そんな楽しい冬の思い出は小学校低学年までだった。
 ――夕飯のときに母親が「クリスマス」なんて言ったからだ。
 結斗の目の前に苦い思い出が静かに広がっていた。

 思えば結斗が歌を習いにいくようになってから、家族はバラバラになった気がする。
 結斗は小学校三年生から、冬休みに行われる定期公演会に出演するのが恒例行事になっていた。そのためクリスマス前は普段より歌の練習時間が長くなり忙しかった。
 本番前は一日通しでゲネプロがあり、クリスマスイブには本番。
 子供の体力や集中力は、訓練である程度は伸ばせるものだ。でも、もともと大人ほど強くはない。
 はっきりとした目標があれば、厳しい練習だって耐えられるかもしれない。でも「楽しい」という気持ちだけでは、続けるうちに心が折れてしまうこともある。
 今ならそんなことは当たり前だと分かる。
 けれど、子供だった結斗には、その「当たり前」がまだ分からなかった。
 結斗のことを繊細だと母や純は言っていたが、自分からすれば単純で頑固なだけだと思っている。
 結斗自身がやりたいと言って始めた習い事を、自分から辞めるなんて恥ずかしくて言えなかった。
 クリスマスの公演が終わっても合宿での練習があった。あんなに好きだった歌うことが苦痛になり始めていた。もちろん習っていた当時は、それが苦痛なのだと気付いていなかった。
 ――加減を知らないバカだったから。
 習い事に関して両親は反対しなかったが、元々音楽に興味もなかった。
 子供が定期公演に出る場合でも両親は見に来てくれなかったし、無関心が興味に変わることはなかった。
 結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や純と離れて過ごす時間に変わっていた。
 一緒の目標を持った友達がいたら、習い事が居場所になったかもしれない。けれど何年通っても居心地が悪く、いつしかクリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。
 クリスマスの公演では、毎年決まって『くるみ割り人形』が演じられた。
それは自分たちの合唱団だけでなく、市の交響楽団やバレエ団、ピアノ教室も合同で参加する大きな催しだった。
 最初の年は結斗も、迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな控室に興味津々だったし、煌びやかな大ホールに目を輝かせていた。けれど、五年生の時は本番前から気落ちしていた。連日の厳しい練習に疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。
 その年はピアノの演奏で純も出演することになっていたので、クリスマスに純と遊ぶことだけが楽しみだった。公演が終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰る約束をしていたので、ずっと純の顔ばかり思い浮かべていたかもしれない。
 本番前の昼休み時間だった。
 朝から体調が悪かったし、気持ち悪くて結局ご飯は食べられなかった。
 結斗はロビーに漏れ聞こえる音に誘われ一人でふらりと大ホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。舞台の前には、たくさんの楽器が並んでいる。
 赤いベロアの客席。結斗は一番後ろの席に座った。近くに座っていたバレエ団の保護者たちは、自分の子供たちをじっと見守っていた。結斗はその光景を少しだけうらやましく感じていた。
 そこに大きな声が割り込んだ。
 ――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。
 ――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?
 ヒステリックな先生の金切り声とパンパンと殴るように拍を取る手拍子の音が客席まで響く。
 『金平糖の精の踊り』は、去年舞台袖から観て楽しい気分になって大好きになった。
 結斗が大好きな曲だった。
 大好きな音が嫌いな音になる。鼓膜に傷のように記憶が残る。
 楽しくて自由な音が一つまた一つと消えていく。耳を塞げば良かった。後悔した。
 美しい音楽の舞台裏なんて知らなければ良かった。
 自分は自由で楽しいだけで良かったのに。
 楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。
 自分の歌の先生も練習のときは同じように厳しくひどいことを言う人だった。子供だからといって手を抜いたり甘やかしたりしない。
 それが音楽と真摯に向き合うことだと教えられた。
 音楽と真摯に向き合うと、その先に何があるんだろうといつも思っていた。
 いつかこの苦しい気持ちが「楽しい」と「嬉しい」に変わるんだろうか。このまま歌い続けていけば、
純と一緒に、もっと楽しい時間を重ねていけるのだろうか。誰も答えなんて教えてくれない。
 ずっと暗く細い道を孤独に歩いている気がした。
 いつも純はこんな寂しさを抱えて一人で音楽と向き合っているのだろうか。あんなにも鮮やかで、心を弾ませる音色を結斗に届けてくれるのに。
 もし自分と同じなら、いますぐ純を抱きしめたいと思った。「ちゃんと純の音は俺に届いてるよ」って、毎日飽きるほど純のピアノが大好きだって伝えたいと思った。
 一人ぼっちの誰にも届かない音楽は寂しい。
「冷たい、音だ。痛い」
 ぽつりと誰にも聞こえない声。客席でひとり呟いていた。
 心が冷えて凍っていく。
 本当の芸術は、冷たくて寂しいものなんだと結斗は知った。
 休憩のつもりで大ホールに遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。外へ出ても、舞台裏ではレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇した。結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになった。結斗は人より音の感じ方が繊細だったかもしれない。耳の奥が痛くてたまらなかった。
 あんなに厳しい練習を乗り越えて今日を迎えたのに、結斗はその日の本番中ずっと上の空だった。

 公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中の力が抜けて座りこんでしまった。
 結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
 幸せな歌なのに全然違う音になった。
 ずっと耳の奥にざらざらとした不快な音が残っている。
 待合ロビーの高い天井とシャンデリアを見上げていた。
 ふと階段下の入り口を見た。入り口は開け放たれ、十二月の冷たい空気がロビーまで流れ込んでくる。
 本番前に一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子供たちが、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
 花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
 毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、その年は去年の比じゃなかった。その日まで気づかないふりをしていた嫌な感情の積み重ねが、どっと波のように押し寄せてきた。
 多分限界だった。
 純の顔をみた途端に、抑えていた感情が溢れてきて止まらなくなった。
「結斗お待たせ、帰ろー」
 結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
 それでも由美子さんの車に乗るまでは無理をして、いつも通り純とくだらない話をして笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ」
「……うん。俺、純のピアノは聴けなかった。出演順真ん中だったから」
 聴きたかった。純の楽しい音が。
「俺も今日はベートーヴェンだったんだけど――結斗?」
「……うん」
 純は突然となりで静かになった結斗の顔を覗き込む。不思議そうな顔をしていた。
 運転席から由美子さんも「結斗くん、すごく上手だったよ」と言ってくれた。
 歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でも、いつも好き勝手に歌っていた。
 歌えるならなんだって、どこだっていいと思っていた。でも自分は違った。
 一人で歌うのが寂しかった。楽しくなかった。苦しかった。
 あの広い大ホールの客席で誰かが自分の歌を聴いていた。
 由美子さんが、純が。
 他の誰でもない一番聴いて欲しかった純が自分の歌を聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
 せっかく練習したのに、とその瞬間、後悔した。
 何のために、誰のために自分は頑張って歌っていたのか。純のためだった。全部。
 とにかく泣きたかった。
 疲れと心細さがピークまできていた。結斗はぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
 気付いたときには後部座席で隣に座っている純の胸にすがりついていた。
 うんと小さいときは抜きにして、由美子さんの前や純の前で取り乱すくらいに、べしょべしょに泣いたのは初めてだった。
「結斗、どうしたの」
「……つか……れた」
 そのかすかな声は多分純にしか聞こえていない。
 純の胸で、ひく、としゃくり上げた瞬間。決壊する。
 運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
 純は、すごく驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離そうとはしなかった。
 好きに泣かせてくれた。
 自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて一番近い感情が「疲れた」だった。
 ピアノの発表会で純はいい服を着ていた。その服を涙と胃液を吐いて汚した。けれど純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「どうしたの、大丈夫? 結斗くん」
「……母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
「……大丈夫だよ。結」
 結斗の耳元で純があやすように言った「大丈夫」って繰り返す声が優しかった。
 冷たくなっていた体が純に温められる。公演会場の空気に当てられて泣いていた自分は純のお陰で段々と落ち着きを取り戻していた。

 純の家に着くと自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されてしまった。
 あったかいココアを飲んだあたりから公演会場で感じていた、よく分からない不安は消えていた。
 そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。
「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」
 純に訊かれて好きだとすぐに答えられなかった。
「――分かんない」
「今日さ、会場のピアノすごく良かったよ。明るくて、楽しい音だった」
 結斗は布団から頭を出してピアノの前に座る純を見た。たくさん弾いたのに、家に帰ってもピアノの前に座る純は本当にピアノが好きなんだと思った。
 結斗だって少し前まで同じだった。今は違うけど。
「ねぇ。俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」
「何がいい?」
「くるみ割り人形」
「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい素敵な演奏聴いたのに?」
「純のがいい、純の音が聴きたい」
 駄々っ子のように純の音楽を欲しがった。
「いいよ」
 純は『くるみ割り人形』の序曲を少し小さな音で弾き始める。体調が悪かった結斗に気を使っているのだとわかった。
 あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだった。けれど純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。
 キラキラした音。楽しい音。
 耳を擘くような、あの嫌な音が綺麗に消えていった。
 演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑っていた。
 本当に結斗は単純な子供だったと思う。
 単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出に変わった。
 音楽ってすごいなって思った。人の気持ちをこんなに変えられるんだって思った。

 だから何もなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら歌の習い事を続けていた。
 けれど由美子さんがあの日、母親へ何か伝えたらしく帰り道で「歌を辞めなさい」と言われた。
 結斗の音楽に母親は無関心だった。
 だから、それが例え辞めろという形でも結斗の音楽に初めて家族が関わってくれたことに、内心少しだけほっとしていた気がする。
 多分、あのままだと音楽自体が嫌いになっていたし、母の判断は正しかった。
 クラスが上がれば海外への演奏旅行もある。それに関連するお金や親のサポートも必要になる。
 あとから純に聞いたけど、由美子さんは自分が通っている教室や練習について結斗の母親に全部伝えたらしい。あそこのお教室は大変よ、みたいなこと。 
 反対しても結斗が続けると言えば親も協力してくれただろうし、本気で音楽をやると言ったならマンションだって引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。
 でもその時点で親の反対を押し切る理由が結斗にはなかった。
 結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかわかった。
 ――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?
 楽しく歌っていたいだけ。純と一緒にいたかった。一緒に遊びたかった。
 結斗が音楽を始めた理由なんて、結局それだけだった。
 結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も母親に説明が出来なかった。
 結果的に、結斗は納得して次の年、習い事を辞めたし、シニアクラスに上がる入団試験も受けなかった。
 結斗はクリスマスに、あまりいい思い出がない。
 けれど全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。
 小学校を卒業する前に結斗は音楽を辞めてしまったけど、純は中学に入ってもピアノを続けていた。
 相変わらず週に一回くらいはお互いの家に遊びに行っていた。純はコンクールに出たとか、こんな曲をやっているといった話をいつもしてくれた。
 課題曲の曲想とか、作曲家の楽しい話。
 音楽を辞めたけど、こういうとき自分も習っていて良かったと感じていた。全部じゃないけど純の話を理解できた。習っている間は、本当につらいばかりで楽しいことなんてなかったのに。辞めた途端、以前より楽しくなった。
 結斗が歌を辞めても自分たちの関係は何も変わっていなかった。
 強いて変わったところをあげるとすれば、昔みたいに一緒に音楽の宿題をしなくなったとか、お互い自分たち以外の友達が出来たくらい。
 中学一年生は同じクラスだった。二年生は別のクラスで少しだけ離れた。
 結斗は寂しいけど、この先ゆっくりと二人だけの時間は減っていくのだと思った。それが自然なんだって薄々気づき始めた。
 結斗には純がいて純には結斗がいる。物心つく前から、そばにいたから近くにいるのが当たり前。だから、どんなに一緒にいる時間が少なくなってもゼロになる未来は少しも想像できなかった。
 それが兄離れや弟離れが出来ないみたいな感情じゃないと気づいたのは「純がおかしくなった」ことがきっかけだった。
 その日、純の家にいくと由美子さんはちょうど出かけるところだった。だから家にいたのは純だけだった。
 地下にある純の部屋に行くと扉が少し開いていた。
 床の上には楽譜が散乱していて、純は床の上に座り込み色のない顔で楽譜を睨んでいた。いつも整っているサラサラの黒髪が乱れて頬にかかっている。
 その表情には既視感があった。
 小学生のとき純の家に歌の宿題を持って遊びに行った日だ。
「……純」
 結斗が呼ぶとすぐに純は、いつも通りに笑おうとした。けれどその笑顔は口角が上がっただけで歪なものだった。
 結斗は本能的に危機感を覚えた。耳元で心臓がバクバクと音を立てていた。
 忘れもしない。最後のクリスマス公演。
 結斗が苦しかったとき、純はそばにいて手を握ってくれた。純のその暗い表情をみて、今日まで自分は純を寂しい場所に一人きりにしていたんだと気づいた。
 自分だけ音楽をやめて楽になってしまったから、その純の抱える孤独に気づけなかった。一人ぼっちの誰にも届かない音楽はつらく寂しいものだと知っていたのに。
 結斗はその場に佇んだまま激しく後悔していた。
「――結斗ごめん。今日は帰って。練習しないといけなくて。コンクールある」
 初めて聞く純の暗い声だった。純は結斗に背を向けて落ちた楽譜を拾い始める。
 その姿を見て反射的に結斗は純の背中に抱きついていた。あの日、結斗が泣いていた時に隣にいてくれたように、やり方は違うけど結斗も同じようにした。
 もう小学生でもないし体も大きくなっている。
 けど子供でも大人でも純だけは関係ないと思った。純だけが特別。
 周りに純の友達がいたら、こんな小さな子供みたいなことはしなかった。
 今この部屋には結斗と純しかいない。由美子さんも出かけている。
 自分が泣いたときのように純だって泣きたいときは泣けばいいと思った。けれど抱きしめたのは後ろからだった。これでは胸を貸すというより自分が純に背中を借りているみたいだ。
「帰らない、絶対」
 純は自分のお腹に回された結斗の手の甲を指でトントンと優しく叩いてきた。
「ゆーい、おねがい帰って。今日はピアノの勉強がしたいんだよ」
「嫌だ。一緒にいる」
 今日だけは帰っちゃいけないと思った。
「何、赤ちゃん返り? 重いよ。つか、なんで泣いてんの」
 言われて気付いた。結斗はポロポロと涙を落として泣いていた。きっと昔の辛かった記憶を思い出したから。
「分かれよ。俺のことくらい全部」
「王様かよ。横暴だなぁ」
 純をなぐめるつもりだったし、自分が泣くつもりはなかった。けれど純の背中に抱きついていたら、背中から純の感情が流れこんでくるみたいで勝手に涙があふれてきた。
「……いいよ」
「だから、なーに?」
「ピアノ、やめてもいいよ。純」
「なんで、結斗が俺に許可するんだよ」
 純は結斗の腕の拘束をとかずに、あの時と同じように好きにさせてくれた。
 純を元気付けるつもりだったのに自分の方が純になぐさめられている。
「だって……純つらいんだろ。俺は純のピアノ大好きだよ。純が楽しくピアノ弾けなくなったら嫌だよ」
「……そっか」
 純はゆっくりと頷いた。
「純が悲しいのは嫌だ。俺が好きな純のピアノじゃなくなるのも嫌だ」
「結には何で分かるのかな。――俺の今の気持ち。俺、何も言ってないよね」
「……ずっと一緒に、いたからだよ」
 ぐすぐすと泣きじゃくる声に混じって答える。
「そーだね。もう泣くなよ」
 純を特別と思う結斗の気持ちが純を幸せにできたらいいのにと思う。
「ピアノの宿題もコンクールもやめろよ。俺の前だけで弾いてよ、好きならどこでだってピアノは弾けるじゃん」
 それは、かつて自分の母親が言った言葉だった。歌が好きならどこでも歌える。
 同じことを純にも言っていた。
「結斗」
 純は結斗の手をぎゅっと握った。その手の冷たさが胸に刺さるように痛かった。
「結斗、俺のピアノ、誰にも届かないんだって。全然駄目だってさ」
「ダメって……なにが」
「結斗が好きって言ってくれた音なのに。先生、ダメだって。だからもう弾けないよ。弾くの、つらい」
「……純」
「苦しいな。音楽と向き合うって。好きなだけじゃいられないよ」
「うん」
 昔、結斗も同じだった。全部が嫌いになりそうだった。
 純がいたから、今も歌を、音楽を好きでいられる。
「こんなに好きなのに、嫌いになる」
 結斗はまだ教室や舞台袖で聴いた怖い音を覚えていた。
 冷たく張りつめた教室に響く怒声。本番前の通し稽古で泣き叫ぶ小さな子供の声。
 そんなところに純がいるんだと思うと耐えられなかった。
 今まで一度だって、純の音が駄目だったことなんてなかった。純の音楽は結斗にとって、なくてはならないかけがえのないものだった。
 ピアノが嫌いになるくらいなら、練習もコンクールも辞めた方がいい。それが正解だと疑ってもいなかった。
「俺が全部聴くよ。他の誰がダメって言ったって。純が嫌だって言ってもずっと純のそばでピアノ聴くから、だから」
 言葉が続かなかった。
「……うん。ありがと」
 どれくらいそうしていただろうか。ふっと純の背から結斗の胸に伝わる音が変わった気がした。
 小さな子供みたいに純に甘えていた。
 同じ年でも結局のところ純が兄で、結斗が弟みたいなものだった。
「――そうだな。俺ピアノ好きだよ。結が好きって言ってくれた音が好きだ。それが間違いなんて思いたくない。絶対」
「うん」
「だから、俺は演奏家にはならない。ピアノをずっと好きでいたいから」
 結斗は純の決意を背中で聞いていた。
「結斗。ありがとう」
 結斗は別に純に感謝されるようなことは何ひとつしていなかった。
 文字通り赤ちゃんのようにぐずって、純がつらいのが嫌だと言っていただけ。
 純は背中に引っ付いていた結斗を引き離して振り返る。
「純?」
 二人して楽譜の散らばった床の上に座っている。純は結斗の顔を真正面から見た。同じように泣いていると思っていたのに、純の変化は目を少しだけ赤くしているだけで涙は流していなかった。
 こっちは泣いて顔面ぐちゃぐちゃなのに。ちょっと悔しい。
 純の三重瞼。目の下に長いまつ毛の影が落ちている。薄いピンク色の唇が綺麗に弧を描く。
 純は、もういつもと同じように笑っていた。仕方ないなって少し揶揄うような声。
「ほら泣くなよ。お前いくつだよ」
「純と、同じ」
 制服の下に着ている白のセーターの袖で涙を拭かれた。けれど涙は止まらない。
「だよなぁ」
 純はそう言って、なんだかばつのわるいような顔をした。
「……ゆい」
 名前を呼ばれて、純の整った顔が近づいてくる。なんだろう、と思う隙もなかった。
 なんの前触れもなく、純は涙で濡れていた結斗の頬に唇を押し当ててきた。
 頬にくっついた唇の温度は握り返されていた純の左手と同じ温度。
 さっきまで冷たかったのに熱が戻っている。
(――え、今、き、キス、された?)
 その事実に気づいた瞬間、結斗の頬が一気に熱くなる。純の唇の温度が思い出せないくらい。
「ぇ、あ……」
「ゆーい、涙止まったか?」
 くしゃりと頭を撫でられる。
 驚いて涙が引っ込んでいた。
「ば、バカだろ、な、何やってんの」
「びっくりすれば、涙って止まるだろ」
 実際止まったから言われるままに頷いていた。何だか怒るのも変な気がして「そうかよ」とぶっきらぼうに返した。
 純にキスをされたことより中学生にもなって幼馴染の前でボロ泣きしたことの方が恥ずかしかった。
 これまで、純には恥ずかしい姿を数えきれないくらい晒している。
 今更キス一つ追加されたくらいで大騒ぎするほどじゃない。
 純に関して、結斗は自他の境界が曖昧だった。
 半分が純だった。
 純が悲しいと悲しいし、嬉しいと嬉しかった。

 そんな出来事があってしばらくたった頃。
 本当に純がピアノ教室を辞めたと聞いて、結斗は自分がした過ちに気がついた。「つらいならやめればいい」なんて本気で音楽をやっている人間に他人が口出ししていいことじゃなかった。
 結斗は純が苦しそうに一人でピアノを弾いている姿をみたくなかった。
 ただそれだけの理由。
 自分のわがままで純のピアニストとしての未来を奪った。
 いつか、そのことを純から責められる気がしている。
 ――その時が純と離れるときなんだろうか。
 罪の意識は長い間持っていた。同時に、その日が未来永劫ずっと来なければいいと思っていた。
 自分だけの純でいてくれることが、この上なく幸せだったから。



 中学は同じだったけれど高校は純と別になった。理由は単純に結斗が志望校に落ちて滑り止めの高校に行ったから。
 入試時点では二人にそれほど学力に差はなかった。
 純も併願で同じ高校を受けていたし、純が第二志望にランクを落とせば結斗と同じ高校に行くこともできた。でも純はそれをしなかった。
 結斗が同じ立場でも、わざわざ純と同じ高校にしなかったと思う。そんなことをされたら絶対に怒った。
 純は結斗が一緒の高校に行けなかったのを残念がるどころか「仕方ないね」とあっさりしたものだった。もっと寂しがってくれると思っていたので少し意外だった。
 思えば、中学でも校内ではお互いのことには干渉していなかったし、純にも結斗にもクラスに別の友達がいた。
 お互いのことが一番大事だからこそ、自分たちの仲を誰かに邪魔されるなんて我慢できなかった。それなら最初から遠い方が安心できた。二人でいるときに、お互いが一番だったらそれでいい。
 純も同じ気持ちだったのか、高校生の頃も中学の頃と変わらず二人きりのときは、ずっとくっついていた。
 自分たちの距離感が、他のクラスメイトたちと違うのは中学生になれば分かっていた。
 こんなにベタベタして仲がいいなんて普通じゃない。
 結斗が馴れ馴れしく純の交友関係に入っていくことで、純に迷惑をかけたくないと思っていた。

 そんな理由で一度は離れたが、大学はまた同じになった。もちろん誘い合って決めたわけじゃない。
 近場で家から通える大学を選んだと純は言っていた。同じ大学でも学部は違うし狙って同じにした確証はない。同じだねって結斗が言ったときも、そうだねってあっさりした答えだったから。
 だから同じ大学でも、外で純と話す機会はないと思っていた。
 お互いに講義が詰まっていた一年生までは平穏に過ごしていた。二年になり時間に余裕が出てきたころ。急に純は大学で結斗に声をかけるようになった。
 離れていた間の時間を取り戻すように、家の中でも外でも関係なく一緒にいるようになった。――でも外だと周囲の目が気になって仕方がない。

 ■

 この日の午後、純から一緒に帰ろうとスマホで呼び出された。
 ――先日、純が有名人だと知ってから周りの目がさらに気になるようになった。
 自分が一緒にいることで、純が変な目で見られるんじゃないか、と不安で仕方ない。気を抜くと結斗は家の中と同じように純とくっついてしまうから。
 そんな結斗の気を知らずに純は結斗と外で一緒にいようとする。
 学内のカフェテリアで待っていたら、純が入り口のガラス扉を開け颯爽と現れた。髪も含めたら全身黒だ。普通なら野暮ったく見える黒一色のコーデなのに、純だとすっきりと整って見えるから不思議だ。
 長い足。歩くたびにロングコートの裾が揺れる。
 そして嫌でも気づく。
(あー見られている。周りの人に、すげー見られてる)
 元々、綺麗な男だということは知っていたが、そんなにパンダみたいに見たいか? と思った。
 一番奥のエリア。天井まで一面ガラス窓。その横にある四人掛けの丸テーブルに結斗は一人で座っている。
 手を振られて、振り返す。
 変じゃないよな。俺たち、今大丈夫だよな? ちゃんと友達同士に見えてる? って自分で自分に問いかけている。最近ずっと、こんな感じだった。
「どうかしたの? ゆい」
「いや……えっと別に」
「そ? ねぇ、クリスマスさ、どこか一緒に遊びに行かない?」
 正面の席に座った純は、結斗にそう切り出した。それ今ここで言うことか? って思った。
「ッ、は、はい?」
 声が裏返って、飲んでいた缶コーヒーでむせた。
(めっちゃ周りに会話聞かれてる! めっちゃ! 見られてるし、後ろ! 前!)
 周りからの視線が痛かった。
「いや、だからクリスマス。なんか予定ある?」
 家の中なら純に何を言われても動じない自信はあった。けれど衆人環視のなかでは無理だった。
「ゆい、聞いてる? あと顔、コーヒー拭きな。ハンカチ持ってる? 貸そうか」
「うん……聞いてる。ハンカチある」
「変な結斗」
「……うん」
 瀬川にストリートピアノのことを教えてもらって以来、結斗は純に内緒でネットの動画をいくつか見た。
 エロ動画を探して見ているわけじゃないのに、すごくやましいことをしている気分になった。
 純は動画サイトで「王子様」と書かれていた。ファンコメントは賛辞の嵐。
 次はこれが聴きたいといったリクエストも、たくさん来ているのに純はそのリクエストに応えることはなく、ただ好き勝手に、その日の気分で弾いていた。
 弾いてみた。やってみた系のカテゴリランキングでは、いつも上から数えた方が早い。なんだか幼馴染が芸能人みたいに感じる。
 でも人気の動画主なのに「今から、これを弾きます」以外は特に何も喋らない。
 結斗の前では沢山好きな音楽のことを喋ってくれるのに。そういうのもなし。普通、チャンネル登録よろしくねとか言うんじゃないのか? って思った。
 さらに、もらったコメントの返信は一律「ありがとうございます」だけ。素っ気なさ過ぎる。そんな愛想のなさで、この先プロとしてやっていけるのか結斗は不安だった。
(ピアニストになるんじゃないのかよ!)
 自分たちの仲の良さは変だと思う。けど、その近すぎる距離感を失いたくないと思っている結斗の方が、もっと変だと知っている。
 純は、いま外の世界へ羽ばたこうとしていた。
 結斗を置いて、遠くに。
 ピアノを辞める原因になってしまったことを悔いているなら、今が、その罪滅ぼしの絶好の機会だった。全力で応援するべきだ。そう思うのに何も言い出せない。
 結斗だけが、ずっと純の部屋の地下室に置いてけぼりになっている気がした。
「なークリスマス親たちニューヨークで遊ぶんだって。お前それでいいのかよ、放って置かれて」
「別に気にしてない。結斗がいるから寂しくないしね」
「……あっそ」
 これ以上、結斗を甘やかさないで欲しい。親離れのごとく、純離れしないといけないのに、純は全然させてくれない。全身砂糖まみれで溶けそうだ。
 こんな幸せ、これ以上受け入れていたら、どうにかなってしまう。
「ねぇ。なんか、亜希さんに言われたの?」
 急に純は探るように結斗の顔色を伺ってくる。
「純くんに遊んでもらえって言われた」
 遊んでくださいとは、言いたくなかった。
「そう、だったら遊ぼうよ。今日さ」
 純がそう言いかけたとき急に後ろから名前を呼ばれた。振り向くとそこには瀬川が緑のエプロン姿で立っている。
「おい、桃谷! お前今日カフェのバイトだろ」
「え? あ!」
 言われてハッとした。
 結斗は学内のカフェで週何回かアルバイトをしていた。いつもはバイトの時間を忘れることはないが、今日は頭のなかからすぽんと抜けていた。
 ――純に呼び出されるまでは覚えてた。
 こういうの何ていうんだろう。
 マタタビ前にした猫?
 呼ばれて会えることに浮かれているつもりはなかった。
「ガッツリ入れてんぞ三時から。優雅にお茶飲んでるから声かけてみれば、お前は、今から俺と交代!」
「あーごめん、純。俺、バイトだった」
「うっかりしてるなぁ。ま、いいけど。じゃあ、バイト終わったら帰りウチ寄って話あるから」
「え? うん、じゃあ後で連絡するよ」
 改まって純から話があると言われても、なんの件か分からなかった。
 結斗が席を立って仕事場のカフェカウンターの中へ行こうとすると、隣に立っていた瀬川が結斗に小突いてくる。
 そういえばストリートピアノの動画主である純を紹介して欲しいと言われていた。
 別に結斗がわざわざ紹介しなくてもと思い「自分で声かけたらいいじゃん」と返した。お見合いじゃないんだから。
 瀬川が意を決して純に声をかける。座っている純は絵に描いたみたいに微笑む。
「えっと、ピアニストの『純』さんですよね」
「はい。そうです」
 ――あ、これ、よそ行きの声だ。
 そう思った。
 丁寧で静か。夜のニュースを読むアナウンサーみたいな話し方をする。結斗の前と違う声だ。結斗の前では、もう少し弾んだ声になる。
「いつも動画見てます。この前の超絶技巧練習曲シリーズのやつ最高でした! 俺クラシックとか分からないんですけど『純』さんのピアノがほんと好きで」
「ありがとうございます。嬉しいです」
 二人の会話をどうしても、その場で聴いていられなかった。自分の知らない純を他人の口から知りたくない。
「――ごめん瀬川、俺、先に行くな」
「おう! またなー!」
 足早にカフェカウンターに向かって自分のタイムカードを打刻する。裏でエプロンを着て仕事を始め慣れたルーティーンをこなし、瀬川と純の会話を忘れようとした。
 けれど余計に気になって仕方ない。
 注文されたドリンクを作って品物を出すとき、瀬川と話している純を横目で見てしまった。
 中学の時は、こういう場面で何も思わなかった。むしろ、それを見て安心していた気がする。
 今は何故かむしゃくしゃした気持ちが心の中に溜まり苦しくなってしまう。純が隣にいないと息ができない。
 小さな子供みたい。この醜い独占欲を今すぐ消したかった。

 夕方まで学内のカフェでバイト。その帰り道に学部の友達と出会った流れでカラオケに行くことになった。
 純との約束は覚えていたけど、すぐに純の家へ行く気にはなれなかった。
 昼間、瀬川と純が話していた場面が、ずっと頭から離れない。頭の中がモヤモヤでいっぱいで今すぐ歌って発散したかった。
 大学の隣駅にある繁華街のカラオケには週一くらいで行っていた。一人カラオケもするし友達とも行く。
 でも、純とは行かない。
 動画配信者になっていた純を見てから、自分だけの何かが欲しくなった。けど一生懸命探したところで自分にあったのは「友達と行くカラオケ」くらいだった。
 行きつけのカラオケ店は学生割引で飲食物の持ち込みができた。高校の時と違うのはお酒が飲めるところ。二十歳になってから結斗はすぐに酒を覚えた。
 今さらだが先日母親が言った通りの大学生活をしていると気づいた。母親と同じように四年生になって後悔するかもしれない。
 薄暗く狭いカラオケルームは防音室なのに隣の歌声が絶えず聞こえている。隣は今月ランキング一位の女性シンガーのラブソングを熱唱していた。
 エル字型のソファーに四人がバラバラと座った。結斗は一番端に座って、近くにあったタッチパネルのリモコンを手に取った。
「いつも思うけど桃谷さぁ」
「なに?」
「……本当、すげぇコントローラー使いこなしてるよな設定細けぇ」
「え、そうか?」
「曲ごとにキー上げ下げして、スピードも変えるし、桃谷が歌うと全く別の曲になる」
「だって、歌いにくくない?」
「えー、そうか? 音変えて歌う方が難しいけど」
 原曲のままでも歌えるが、どうせなら歌いやすい方がいい。歌手の声マネがしたいわけじゃないし、無理のない音域できれいに歌う方が聴いていて周りも心地いいと思う。
 ただのカラオケ。相手なんて意識する必要はないのに変なところでこだわっていた。
 昔、音楽をやっていた。
 多分、結斗なりに音楽と真摯に向き合っていた。先生からすれば、全然できていなかったと思う。古典的、型通りを徹底的に教え込まれた。その音楽は結斗にとって苦痛だった。それなのに、心地よい音楽を奏でる大切さは、自分の中にまだ当たり前のように残っている。
「慣れ、かな」
「それ、どんな慣れだよ」
 いっぱい練習したから覚えている。体が、頭が。
 そんな練習はつまらないし押し付けのように感じていた。
 けれど、結斗は大きくなっても歌い方を忘れていなかった。少しの綻びが聴く人の違和感になる。楽譜通り正しい音で長さで歌う。
 基礎基本の上に自由な表現があるのかもしれない。今は少しだけ分かる。結斗のことを馬鹿にしていた生徒たちは基礎基本を理解していた。だからこそ結斗の自由奔放な歌い方が気になって仕方なかったんだろう。
「あ、桃谷『XXXX』のアレンジ歌うの? 今日も録っていい? 動画作りたい」
「いいけど。瀬川、これ好きだよな」
「だって、すげーかっこいいじゃん。今度編集した動画、桃谷も聴いてよ」
「うん」
 そう答えながらマイクを握った。
 動画と言われて、また純のことを思い出して胸がチクりと痛んだ。
 何をしていても、どこにいても、いつも絶対に頭のどこかで純のことを考えている。
 知っているコードや定番の和音進行が聴こえると、過去に純が鳴らしたピアノの音を思い出す。
(病気かな、多分、依存症。純がいないと生きていけない病気とか)
 カラオケ店に入ってから結構な量のお酒を飲んでいた。多分酔っている。だから思考が散漫になっているのだろう。
 洋楽でも邦楽でもアニソンでも歌はなんでも好きだった。音楽を嫌いになりそうなこともあったけど、今もこうやって楽しく歌っていられるのは純がいたからだ。
 ――欲しい、欲しくない。会いたい、会いたくない。
 そんな、切ない恋心の歌詞。
 女性ボーカルの曲だがキーもスピードも違う、原曲のイメージは、ほとんど消えている。
 歌い終わると画面に採点が表示される。音が外れてなくても、リズムも含めて自分の曲にして歌っているので点数がふるわないのは予想通りだった。
「結斗の歌、まじ泣ける」
「かっけーな、ホントお前の歌好きだわ」
「ありがと、ほら次、瀬川の順番」
 マイクを隣の友達に回す。友達の拍手も賞賛の声も全部どうだって良かった。
 相手を意識する歌い方は染み付いているのに評価には興味がない。一緒に楽しんでくれたらそれでいいし、自分が楽しければそれでよかった。
 百点とか、九十点とか、五十点とか。
 ランキングとか順位なんてどうでもいい。
 一番欲しい評価は手に入っているから。純が喜んでくれたら、それでいい。一番嬉しい。
 その瞬間、会いたくなかった気持ちが、今すぐ会いたいに変わった。

 あんなに、純の家へ行くのを躊躇していたのに。
 カラオケがお開きになり、その場で友人と別れた。
 一人で帰りの電車に乗っているとスマホに純からメッセージが届いた。猫だの犬だのスタンプで事足りる連絡も純は律儀にいつも全部文字で送ってくる。
 ――今どこ?
 ――電車乗ってる。帰るとこ。
 ――そう、今日はうち来るの?
 純の返信を見て少し考える。強くもないのに酒を飲んでしまい、だいぶ酔っていた。自分の家にこのまま帰ったら母親に怒られることは明白だった。元々純の家に行くつもりだったし今日は泊めてもらおうと思った。証拠隠滅。
 ――ねぇ、今日泊めてくれない?
 ――お酒飲んでるでしょう。
(何でわかるんだよ)
 ――うん。今日は帰りたくない。
 ――(驚く猫のスタンプ)
「どういうこと?」

 思わず電車のなかで声を出してしまい周りの注目を集めてしまった。
 今まで一度だってスタンプを送ってきたことがなかったのに純がスタンプで返事をしてきた。返事の手が止まる。
 何も返さずにいたら文章が続いた。
 ――気をつけて、酔ってるなら坂で転ばないように足元ちゃんと見て歩くこと。
(だから、なんで子供扱いなんだよ)
 それには怒った猫のスタンプを返しておいた。

 純の家に酒酔い状態のまま着いたとき、純は地下の自室でアルコール度数の高い缶チューハイを飲んでいた。結斗がそのらしくない純の姿に驚いて突っ立ったままでいると、ソファーからひらひらと手を振られた。
(えー……これ、どういうことですかね?)
 結斗は純が一人で、しかも自室で酒を飲んでいるところを初めてみた。
 床の上には無造作にコンビニの袋が置いてあったが、近くにはポテチもスルメもない。酒の缶だけ。そんな無茶苦茶な飲み方をする男じゃなかった。食事と一緒に優雅に酒を楽しんでいたら、純らしいと思う。
 でも今の姿は、普通のどこにでもいる大学生みたいだった。さっきまでの自分の姿を鏡映しで見せられているようだ。
「おかえり。結斗やっぱり酔ってるし、ちゃんと水飲みなよ」
「いやいや、酔ってるのお前じゃん。純こそ水飲めよ」
「ふふふ、そんなに酔ってないよ。大丈夫」
 純はいつになく上機嫌で笑っていた。さっき送られてきた猫のスタンプは、酒のせいだったのかもしれない。
「純、別に飲むのは良いけど、なんか食いながら飲めって悪酔いするだろ。なんか飯作ろうか? 腹減ってる?」
 言いながら結斗は水を取りに行こうとする。
「ゆーい」
 純においでおいでと手招きされる。結斗は仕方なく言われるまま、そばまで行くと唐突に手を握られた。右手同士で指を組まれる。
「なんだよ」
「やっぱり酔ったかも」
「はぁ?」
「だから、そばにいてよ結斗」
 ぽんぽんとソファーの横を叩き隣に座るように言われる。
(……マジで、どうしたの?)
 らしくない純の不可解な行動に戸惑っていた。普段と違う純を目の当たりにしていよいよ心配になってくる。
 由美子さんには純のことをよろしくと頼まれていたし、自分がそばにいたのに純に何かあってはいけない。一気に自分の酔いがさめた。
 昔から、お互いがお互いの面倒をみないといけないと思っていた。
 純がつらいときは自分が助けるし、自分がつらいときは純が助けてくれる。
 今は自分が純を助ける番だ。
 普段から純には面倒をかけてばっかりだったので、立場が逆になって甘えられるとちょっと嬉しい。いや、すごく嬉しい。
 件の動画配信の件で純が急に遠くに行ってしまった気がして不安だった。甘えられて、頼られて、たったそれだけのことで簡単に心が落ち着いてしまう。
 子供の頃から思考回路もやっていることも同じだった。純が近くにいれば無条件に大丈夫な気がしてしまう。
 隣に座ると手を繋ぎ直される。右手と左手。純は結斗の手をぎゅうぎゅう握ってきた。その手がいつもよりも熱を持っていて温かい。
 ピアニストの大きな手だ。しなやかに長い指には適度に筋肉が付いていて、ピアノを弾く時の繊細な印象と違い、しっかりとしていて硬い。
「なー純って、酒好きだっけ? いつもそんな飲まないじゃん」
「酔ってるってことにした方が、結斗はいいかなって思ったから」
「何が?」
「昼間、話あるって言ったでしょう? 結斗、もっとこっちきてよ」
 猫じゃないんだけどと思いながらも、間を詰めて純の近くに寄った。
「ねぇ、俺はさ」
「うん」
 純は、ぽつり、ぽつりと話し始める。
 隣に座る純は酒のせいで少しだけ頬がピンク色になっている。濃い灰色のセーターに黒のチノパン姿。見慣れた姿なのに何だか落ち着かない。
 さっきまで手にあった缶チューハイは、手を繋ぎ直したとき、近くのローテーブルの上に置かれていた。
「この先も、このままでいいと思ってたけど、まぁ黙ってても遅かれ早かれ、いつかは分かることだし」
 結斗は直感的に純の話をこれ以上聞きたくないと思った。
 結局のところ何も言わなくたって、自分も純もお互いのことを分かっている。
 何か様子が違うなとか、言いたいことあるんだなとか。
 ――一緒にいたいとか、いたくないとか。
 子供みたいな話を今さら素面でなんてできない。二十歳を過ぎた大人だし、もう子供じゃないから。
 だからといって今すぐにしなくてもいいのにと思った。
(そう、だよな。俺たち……変だもんな。普通じゃない)
 ただ変だとしても結斗は今の時間が、ずっと続けばいいと思っている。外では普通を装うから。この部屋でだけは一緒に。出来るだけ長く幼馴染の関係でいたい。
 だから、もう少しだけ待って欲しかった。結斗が大人になるまで。純みたいに一人で大丈夫になるまで。
 今が幸せだから。
「……このままって」
 至近距離で視線が交差する。純は酔っていると言っていたけれど、本当は酔ってない気がした。バイバイって言われる時は、もっと悲しい顔をしないといけないのに純はなぜか、困った顔をして笑っていた。
 その純の顔には覚えがあった。結斗が純にピアノを辞めればいいと言った日。
 泣いて、ぐずって、甘えた。
 甘やかされた。
 ばつが悪い顔。結斗が不安になると純がする顔だった。こんなふうに困らせたくないのに、どうしても大人になれない。
「俺は、ちゃんと覚悟決めたから。結斗も考えて、この先どうしたいか」
「どうって、だって、純が一人で大丈夫になって、遠くに行くって話だろ」
「――俺は一人だとダメだな」
「嘘だ」
 一人で黙って動画配信者になって有名人になっていた。結斗に言われて辞めたピアノをまた外で弾くようになった。結斗には秘密で黙ったまま。それが証拠だ。
 もう一人で大丈夫だって。ベタベタな幼馴染がいなくても。
「俺はこのままでいい、このままがいい。ずっと」
「ゆい……」
 多分、酔っている。言いたいことがまとまらない。
 小さな子供みたいに拗ねていた。口からこぼれ出る幼稚な言葉が恥ずかしい。自分がいない世界でも楽しくやっている純を知った。寂しかった。苦しかった。
 じゃあ自分はこの先どうしたいのか、どうなりたいのか。
 そこに純がいないと不安になる。
「それが結斗の答え?」
 純は「困ったな伝わらない」と言って小さく息を吐いた。
 いつまでも今のままではいられない。子供の頃は許されても、いつかそれぞれの道で生きていく。
 純は、ピアノで。
 自分は? 考えても何もなかった。
 分かっていたこと。純は優秀でなんでも持っている。何もない自分とは最初から生きている世界が違う。けれど小さい頃は、それでも噛み合っていた。
 今は気持ちのいい音が鳴らせない。全て不協和音になる。
 それが成長で大人になるってこと。仕方ない事だと頭では理解していても純と同じになれないことが寂しくて苦しい。
「俺だけ一人になるんだろ。嫌になったんだろ、こんな幼馴染なんて」
 結斗は純の目を見てそう言った。怖かった。一人にしないでと言いたかった。
「違うよ」
 どうすれば、このままでいられるのか知りたかった。
「また、そんな顔する。それに、どうして俺がどっか行くって話になるの? 酔ってる?」
 純は結斗の頬をぺちぺちと優しく叩く。
「なんで、分からないんだよ、ばかっ」
「またそれ? 王様か。分かってないのは結斗だよ。頭を撫でて、手を握って、抱きしめて、ここにキスした」
 純は結斗の頬を人差し指でなぞる。純が指で触れたところが、じわりと熱を持った。忘れたことはない。純がキスしてくれた日のこと。
「幼馴染のお前に俺ができること、もうあんまり残ってないけど。この先、どうするの?」
「っ、だって」
「そういう、話です。分かった?」
 純は結斗の頬に手を添えて、ゆっくりと唇を重ねた。
 一瞬だけ唇に感じた熱は、すぐに離れていく。中学生のとき、結斗を泣き止ませるためといって、同じことをされた。
 びっくりしたら泣き止むから。
 実際その通りだった。あのとき驚いた結斗の涙はぴたりと止まった。
 昔されたキスは、頬だった。
 今度は唇。
 純が言った通り、もう残っていなかった。これ以上もっと近くにいる方法が。
「どう、これで寂しくなくなった?」
 唇へのキスなんて、なんでもないことのように、純は結斗の猫っ毛をくしゃりとかき混ぜた。結斗を安心させるように。
「心配しなくても、俺は遠くに行ったりしないよ」
「……純」
「まぁ、結斗は、まだ俺とこのままがいいらしいし。だから、残念だケドこの話はこれでおしまい」
「ッ」
 息が詰まる。安心なんてできなかった。キスだけじゃ、まだ不安だった。
「上から水持ってくるよ」
 純はそういってソファーを立ち上がった。
 このままだと、また遠くなると思った。結斗は純の手を握って引き止めていた。
「結斗?」
「俺……あのな」
「うん」
 不安になったり寂しくなったり、年を経るごとに近くなる距離。離れそうになると近づいて、純は結斗に安心をくれた。
 今回も昔と同じように結斗のよく分からない不安を和らげようとしてくれた。
 けれど、行き着くところまで、行き着いた先には、もう安心なんてなかった。
 近くなれば近くなるほど、今度はその先を考えて不安になる。
 抱きしめて、手を握って、頬に口付けて。最後に唇を重ねたとき、結斗のなかの何かが壊れてしまった。
「……行かないで、純」
 純の目をまっすぐに見て、今度は結斗が純をその場に引き止めていた。
 目が潤む。涙がじわりと浮かんだ。
「結斗、何、吐きそう? ごめん。酔ってたのに変な話して」
「嫌だ……こんなの、嫌だよ」
「ゆい……」
 また子供の時と同じことを言っていた。
「どう、したら、このまま、一緒に純といられる、の俺」
 このままだと嫌だった。昔、純が悲しいままだと嫌だった。同じように自分も悲しくなるから。いまの言葉が正しいと思えない。分かっているのに、また駄目になる。
 全部、元の音に戻したかった。元通りの大好きな音。不快な音がずっと頭の中で鳴り響いている。純がそばにいるのに、少しも心地いい音にならない。
 もっと近くにいて欲しい。
「……足りない? まだ、寂しいの」
 純がソファーに片膝を乗せたことで、ぎしりと軋む音がした。
 視線をあわせたまま、もう一度、確かめるように唇が重なった。
 今度は角度を変えて深くなった。息が出来ない。どんどん心臓の音が速くなっていく。
「ッ……ふ」
「結斗、もう少しだけ、キス、しようか」
 純の甘く蕩けた瞳の色を陶然とした気持ちで見つめていた。細く触り心地のいい純の黒髪に触れたいのに、右手は純の右手を掴んだままだった。左手は純の服の胸元をぎゅっとにぎっていて動かせない。
 なんで幼馴染でこんなことをしてるんだろうって頭の片隅では警報音が鳴っている。
 けれど止められなかった。
 純のキスは治療だ。
 けれど治療のはずなのに、結斗は昔と同じように純の口付けを治療のまま終わりにできない。
 ――自分は、変だから。
 あの日、大学で純のピアノを聴いてから、最後。
 多分、全部駄目になった。
 華やかで勇ましい曲だった。それなのに、聴いてる間は、ずっと孤独を感じていた。
 胸が苦しくなった。このままじゃ駄目だとピアノの音に急き立てられる。
 純の身体が結斗にのしかかって、ソファーの上でぴったりとくっつく。
 その重さが気持ちよかった。次第に純との隙間がなくなっていく。真摯に見つめてくる純の整った顔。酒に関係なく頭がぼんやりしていた。
 キスの先に安心なんてなかった。
 いつの間にか歪な警報音は消えていた。代わりに、ずっと心臓はドクドクと波打っていて、頭の中では大学で聴いた純のピアノの音がした。
 鐘の音のように煩く響く。唇が離れると自分だけ息が上がっていた。
「音が、した」
「……ん、なんの?」
 純に首筋を撫でられる。温かい室内なのに、ぞくぞくした。
「純の、ピアノの音、大学で弾いてたやつ。胸が痛くなった、苦しい音」
「あれ、結斗のために弾いたんだけど」
 嘘だと思った。
 もう、あの音はネットの海でたくさんの人が聴いている。幸せな音を。心を揺らす音を。
 聴いてくれるなら、誰だっていいくせにって思った。
 ちゅっ、と今度は音を立てて唇にキスされた。
「……純は、嘘つき……だ」
 口付けの合間に恨み言をこぼす。
 酔いに任せて貪り合うようなこの口付けが、一体なんなのか、もう分からない。
 頭の中が音の洪水でぐちゃぐちゃになった。
 結斗が独り占めしていた音を世界中に聴かせた。
 自分だけのものだった音を。
「やっぱり伝わってない。あの日、最後まで聴かないで帰るし。ちゃんと俺の音ずっと聴くって言ったのに、ひどいね。結斗の方が嘘つきだよ?」
 純はそう言って叱るように甘いキスをくれる。
 結斗の肩に手を掛け押し倒し、身体をソファーの上に縫い止められた。
 天井と、純の艶っぽい表情。
 純の少し赤らんだ優しい目元、長いまつ毛。
 さっきまでキスしていて唾液で濡れた唇が近づいてくる。頭が、身体が、また、変になる。
「ねぇ、何考えてるの? 結斗」
 純のことばかり考えている。
 純の顔をみて惚けていると、純は突然、結斗の下半身に手を乗せた。
 一瞬で現実に引き戻された。
「なに……して、んの」
「なにって、勃ってたから、下」
「じゅ、純、お前、絶対、酔ってるだろ!」
「ね、まだ、寂しいの? こんなに毎日一緒にいるのに、ね」
 とどめとばかりに、純が絶対に知るはずのない、やらしいキスをされた。
「んんっ! お前! 何して!」
「ふーん。かわいいね。ゆいは」
 目を細めて笑われる。
「っ、ば、バカにするな、ぁ……」
「してないしてない。ほんと、馬鹿だなぁって思うこともあるけど」
 純が、これ以上おかしくなったらと思うと怖くて、涙が溢れてきた。
「……お前が、変、になった。俺のせいだ」
「ん? 俺」
「おま、えまで、頭おかしくなったら、俺、やだよ」
「心配しなくても元々だよ? でも結斗は、一緒におかしくなってくれないんだな。――ま、いいけどね。それで、ゆいの一緒にいては、もうおしまい?」
 ふ、と笑った吐息が耳に触れる。ふるふると怒りで肩を震わせた。
「ッ、バカ純!」
 床に落ちていたクッションを拾って純に目掛けて投げた。避けられたけど。
「危ないなぁ」
「ッ……風呂! 借りるから!」
 とにかく、すぐに頭を冷やそうと思った。このまま、一緒の部屋に居たらどうにかなりそうだった。
「どうぞ、俺先に寝てるから。酒飲んでるんだし風呂で倒れないでね。今日はシャワーにしなよ」
「お前は俺の母親か!」
「……なって欲しいならなってもいいけど」
「知るか! このばか酔っ払い!」
 バタバタと足音を立てて純の部屋を出た。「また逃げるし」部屋を出ていくときに純がそう言ったのが聞こえた気がした。
 逃げないと、純がおかしくなるんだから仕方ないだろうと思った。


  * *

 風呂からあがって純の家に置きっぱなしだった部屋着のスウェットを出して着た。地下の部屋に戻ってきたら純はもう寝ていた。
 少し迷ったけれど、勝手に純が寝ているベッドに潜り込む。
 ソファーで一人で寝ると寒いから、いつも一緒に寝てるから。――親友だから。
 背を向けて寝ていると、後ろから純がひっついてきて腰に手をまわしてくる。温かかった。
 だから安心する。ずっとこのままが良いと思っていた。
 変でもいいから。けれど、これ以上純の未来を壊したくない。邪魔したくない。
「おやすみ、純」
 ぼそりと、背中に向けて結斗は言った。
「――ゆい、さっきはごめん。酔ってた」
「ほんとにな。俺も酔ってた」
「だよね」
 くすくすと背中で純は笑っている。
 酒を飲んで待っていたのは、純の優しさだったのかもしれない。結斗が望んでいることをして、気まずくならないように。
 もっと、ずっと、一緒にいたい。もっと、隣でくっついていたい。昔みたいに、昔よりも。
 ――覚悟決めたから。
 純は、さっきそう言っていた。この先、自分は純とどうしたいのだろう。


 + + +


  なんだか気まずくて目を覚ましたくない朝だった。
 けれどベッドの隣から時間通りに抜け出した純は、いつも通りに身支度を済ませていく。結斗はベッドで狸寝入りを続けていた。先に出かけてくれないだろうかって思った。
 シャワーを浴びていたのだろうか。しばらくして一階から地下に戻ってきた純は、なぜかピアノの前に立った。
 布団から少し頭を出し隙間から純の様子を伺った。
 グランドピアノの蓋を全開にする。右方向には結斗の寝ているベッドがあった。
 準備が終わると発表会みたいに椅子に座る。純の背がきれいに伸びていた。
 そこから、すっと息を吸う音が聞こえた気がした。
 昨晩の気まずい雰囲気を問答無用で破壊したのは、ストラヴィンスキーのペトルーシュカだった。けれど、ちょっと違う。
 出だしのところを何回も何回もしつこく弾かれる。ガンガンガンガン。
 フォルテ・フォルティッシモ。
 ――目覚まし時計かよ!
 防音室だし近所迷惑にはならないけど、朝からうるさい。
「ウルセェ!」
 体を起こして叫ぶと純は笑いながら続きを弾き始める。カラフルな楽しい音。昨日の余韻を払拭するように明るく陽気な音楽だった。
 音で殴られた。
 結斗は観念して、のろのろと歩いてピアノの横に立つ。
「おはよう、結斗」
 クラシックに詳しくなくても純が話してくれるから、結斗はいつの間にかいろんなことを覚えていた。
 ピアノが弾けなくても、なんの才能もなくても、純は変わらずいつもそばにいてくれた。
「……は、よ」
「目覚めの気分はいかが? 二日酔い?」
「新聞紙で後ろから殴打されたあと、往復ビンタされて、階段の上から背中蹴られて突き落とされた気分」
「まぁ、そんな感じに弾いてるからだけど、結斗の楽曲分析は個性的だね」
「……そう」
「まぁ、俺は好きだよ」
「なんか、それ、もっと、軽くて、キラキラした曲じゃなかったっけ、どうして出だしがバケツ叩くような重い音になるんだよ」
 純の家のピアノは最近よく音が変わる。
 子供の頃にあった例のスタインウェイと今使っているピアノの違いみたいな話ではなく。色が違うと感じることがあった。
 ピアノの音色。ミが赤色に感じるとか、ファ♯が黄緑とか。そういうのは共感覚というそうだ。
 それが純の弾き方のせいなのか結斗が知らない間に、違うピアノになっているのかは分からない。純のピアノの音色はいつだって楽しい色だった。
「結斗のために、弾いてるから」
「……なんだよそれ」
「結斗にさっさと起きて欲しかったから、そういう演奏にした」
 結斗の寝起きの頭がしっかりしてきた頃、演奏は途中で終わった。
「最後まで弾かないのかよ」
「聴きたいなら弾いてもいいけど。ところで結斗、今日は朝から講義とってなかった? 金曜日だけど」
 純に言われて慌てて床に放り出してあった自分の黒のデイバッグからスマホを取り出す。スケジュールを見ると社会学の講義が入っていた。
「……やべ、二限入れてた」
「起こしてあげたんだから、感謝してよね」
 したり顔で言われて、あぁ、いつも通りの純だなと思う。
 気を使われたのかもしれない。
「うん、ありがと」
「今日は素直だなぁ」
「な、なんだよ」
「別に。ほら朝ごはん作ってるから、さっさと顔洗っておいで」
 純はそういうと自分の荷物を持って、先に一階に上がってしまった。



 二限目の講義が終わった後、スマホの通知を見ると瀬川からメッセージが入っていた。
 昼食の待ち合わせ場所の確認だと思ってアプリを見ると「友達連れていく。ごめん」と書いてあった。
 特に人見知りもしないし、誰と一緒だろうと構わないと思ったので何も考えずに「いいよ」と返事をしたが、少し気になった。
 何か面倒なお願いでもされるのだろうかと思いながら、学生会館のカフェテリアに向かった。
 入り口近くの四人がけに座っている瀬川を見つけて手をあげ、先に昼食を買いに行く。
 いつも食べているお気に入りのラーメンに心惹かれながらも、毎日ラーメンをばかりもなぁ思い直し、券売機でふわとろオムライスを選んで引き換えた。
 瀬川とその友達が座っている席の前に腰掛けた。
「桃谷ごめん、本当に、ごめん!」
 席につくなり瀬川に手を合わせて謝られた。当然ながら結斗には謝られるような心当たりはない。
 瀬川の隣には、ギターケースを椅子に立て掛けた、いかにもバンドをやっていそうな男が座っていた。
「えーなに改まって。お金は貸せないけどさ、バイトの助っ人くらいなら……たしか瀬川引っ越しのバイトとかもしてんだっけ?」
「そうじゃなくて、俺、お前の歌録ってただろ」
「歌、あぁ」
 酒と昨日の純とのあれこれで記憶がところどころ飛んでいた。確かに瀬川に録音を許可したのは覚えている。
 けれど瀬川が趣味で結斗の歌を録音、加工して個人的に聴いているのは昔からだ。
 今さら謝られるようなことでもない。高校の時からの付き合いだし物好きだとは思っていた。結斗の歌を好きだと言ってくれるのは純粋に嬉しかった。
「別に録ってもいいって言ったし、謝るようなことか?」
「じゃなくて、昨日俺、すげー酔ってて、こいつ学寮の同室で、軽音サークルの峰岸っていうんだけど」
「経済学部二年の峰岸でーす。すんません、瀬川に怒られて謝りに来ました」
「あ、ども、現社二年の桃谷です」
 底抜けに明るいキラキラした男に若干引きながらも、形式的に挨拶を交わした。バチバチに耳ピアスをあけ、指にはシルバーリング。脱色した銀色の短髪。頭の先から足の先まで社交性で出来ているように見えた。
 でも音楽をやっている人間を結斗は三割くらい贔屓目に見てしまう。音楽やってる人には悪い人はいないから、友達になれるかもと思っていた。
「ももくんでいい? 俺は、峰岸でいいよ」
「あ、うん。よろしく」
「ほんと、お前、反省してんのか。マジで情報リテラリーの講義取れよな、やっていいことと悪いことがあるだろ!」
 瀬川は呆れ声とともに峰岸の腕を肘で小突く。
「別に、名前出してねぇじゃんよ。匿名だし何がダメなの」
「それでも! ダメ!」
 目の前の二人の漫才みたいな会話に要領を得ないまま、オムライスを食べていると、瀬川がスマホで動画サイトを開き結斗の前におずおずと差し出した。
「俺、昨日酔ってて、こいつに絡んでお前の歌聴かせちゃったんだけど。それで、パソコンに入れてた動画こいつが勝手にサイトに上げて」
「俺の歌を?」
「も、もちろん! 名前も、顔も出してないけど、朝起きた時点で、もうすごい拡散されちゃって、消すに消せなくて。本当にごめんな!」
「絶対バズるって言っただろ! 俺、ももくんの歌聴いてめちゃ感動したし! 他にもなんか歌わないの?」
「え、え?」
 戸惑いの声しか出せなかった。
「俺、軽音部やってるんだけど、よかったら部室こない? 楽器やる人間はいるけど、歌える人マジでいなくて」
「お前は、ちょっと黙ってろ! ほんと、ごめんな桃谷。聴くだけならいいよって言われてたのに勝手に上げちゃって」
 差し出されたスマホの動画と瀬川の話でやっと話の理解が追いついた。
「べ、別に、個人情報が漏れた訳じゃないし俺は構わないけど?」
 瀬川に頭を押されて峰岸は無理やり頭を下げさせられていた。それを慌てて制する。
 別に命を取られたわけじゃないし怒るほどのことではないと思っていた。
「まぁ、素人だし。ちょっと恥ずかしい、な、くらいで」
 結斗が「気にするなよ」というと瀬川は明らかにほっとしたような顔になった。高校の頃から変わらず、真面目を絵に描いたような男で律儀だった。
 おおらかすぎる峰岸と一緒にいてバランスが取れているのかもしれない。
「ほらーだから言ったじゃん瀬川は気にしすぎ。あんなスゲェのお前一人で聴いてるとかもったいないだろ」
「ホントなんもわかってねぇなお前は」
「えー」
「次、勝手にパソコン触ったら、マジで絶交する」
「昨日はお前が、いいから聴けって絡んできたんだろ酔っ払い。俺は親切心で拡散したのに」
「それは親切じゃねーよ! 無断アップロード!」
 結斗は瀬川に差し出されたスマホで自分の動画を再生してみる。
 多少の加工はされていたが、それでも間違いなく自分の声だった。
 SNSへのシェア数とコメント欄をみて、瀬川がいうように、今から消しても同じだろうなと思った。
 動画自体はイメージイラスト。そのキャラクターは瀬川が趣味で描いているものだ。著作権的に問題なく瀬川が納得しているのなら、結斗がそれ以上何か謝罪や対応して欲しいこともない。
 これがもし、純のように全世界に顔を晒しているなら、もっと困ったかもしれない。
 ――純みたいなイケメンでもないし?
 カラオケの点数も評価も気にしていなかった。自由に歌えたら、それでよかった。
 動画、歌ってみたカテゴリ再生数、デイリーランキング一位。期待の新人ってタグ。
 信じられなかった。チャンネル登録者二百万人。
「うん。確認したけど、ほんと別にいいよ。にしても瀬川、絵上手いよな」
「ありがとう桃谷、俺もっと怒られるかと思った。チャンネル登録者数みてびっくりして」
「いいって。悪気があってやったんじゃないんだし」
「あ、やべ、俺、午後の講義あるから、そろそろ行くけど、ももくん、ほんと軽音部遊びに来るの考えておいて!」
 峰岸はギターケースを肩に掛けながら席を立ち結斗の肩を叩いた。
「バンドか、うーん。あんま興味ないけど、気が向いたら?」
 体のいいお断りのつもりだったが、峰岸は破顔して結斗の手を握ってくる。
「マジで! じゃあ、今度連絡するし!」
「え、あ……うん」
 言われるまま流れるようにアドレスを交換すると、峰岸は嵐のように去っていった。
「桃谷。峰岸ああいう奴だけど、ほんと嫌だったら俺に言って怒っておくから」
 ほんの数分だったが、瀬川と峰岸の関係性がわかった気がした。
「瀬川、なんかお母さんみたいだな」
「あんな奴の母親だけは嫌だ。同室ってだけで、色々面倒みてるけど」
 結斗は自分の動画の詳細欄を見ながら他人事のように感じていた。実際、結斗の名前が出ているわけでもないし、自分が上げたわけでもないので他人事には違いない。
「桃谷さ、一応言っておくけど、これスゴいことなんだぜ?」
「そうなの?」
「そう! 俺いつも言ってるのに、お前の歌すごいって、なんでそんな自信ないかなぁ」
「近くにもっとスゴいのがいるからなぁ」
「それ、もしかして『純』のこと?」
「うん。なんかあいつのピアノ聴いてると、俺、それだけでいいやってなるし、音楽は、純ので十分満足してるからなぁ」
「『純』とお前は違うのに? なんで満足なんだ?」
「それは……」
 答えは出なかった。
「ワカンねぇなぁ。ピアノと歌でジャンル違うじゃん?」
 改めて瀬川に言われて結斗は自分で言った言葉に首をひねった。
 ――まぁ、普通はそうだよな?
 純と結斗は同じ人間じゃない。一人と、一人。
 自分は自分だって分かっているのに、そう感じるようになっていた。多分根底には純の演奏家としての未来を奪った罪悪感みたいなモノも少しだけある気がした。
 だから自分の音楽はこれで十分。このまま安定していたい。
 純と結斗の関係と同じだ。
 今が楽しいから。幸せだから。飢えと渇きみたいなものがない。だから、その先なんて考えられない。
 けれど純は結斗が知らない間に、あっさりと外の世界へ目を向けていた。
 純は、あの満たされた部屋の外で何が欲しかったんだろう。何が足りなかったんだろう。
 それを知るのが怖い。
 ――じゃあ、俺は? この先、どうしたいの?
 それを考え始めると満たされていたはずの自分の音楽への飢えと渇きを思い出す。
 これじゃ足りない。
 ずっと蓋をしていた感情を思い出して、心がざわざわする。
「桃谷は、どうしたいとかないのか? 歌あれだけ歌えるんだし」
 夢ってなんだろう。ふと思った。自分のやりたいこと。自分だけの夢。
「どうなりたいかって」
「歌手とか」
「いや、歌手はないって。俺だよ?」
 冗談のように笑って流したけれど、頭の中では必死に答えを探していた。
 酔っていたけど覚えている。昨日、同じことを純にも言われた。
 どうしたいの? って。
「確かに『純』のピアノはスゴいし、俺もファンだけど。お前だって、いい声もってるし比較するもんでもないだろ?」
「まぁ、そう、だけど」
「ピアノと歌は違うし、まぁ音楽は音楽だけど」
 瀬川の言葉は正論だ。けれど自分は純と同じでいたかったから、そこで思考は止まっていた。
「あとさ、今回の動画のこと」
「うん」
「俺自身悪いと思ってるけど、ごめん本当は、すごい嬉しかったんだ」
「え、嬉しい? なんで」
 突然告げられた謝罪とは対極にある感情に結斗は驚く。
「俺は、お前の歌が好きで、絶対スゴいって思ってる。だから、それをずっと証明したかった、みたいな?」
「なんだよそれ、峰岸くんと言ってること一緒じゃん」
 結斗はからかうように笑った。
「あーだよな……ごめん。本当。覚えてないけど、きっと酔ってて俺、峰岸にそんな話したんだろうな」
「……そっか」
「いつも、誰かに聴かせたいって思ってたし、だから、やっぱ俺が悪いのかも。マジで俺、酒やめよう」
「それ二十歳のセリフかよ? 飲み始めたばっかりじゃん」
「だよな」
 しきりに反省する瀬川を見て冗談を言う。
 酔ってたら色々ある。同じく、やらかした昨日の自分を思い出して小さく息を吐いた。
「俺は気にしてないし、瀬川も気にするなって、別に、大したことじゃないし」
「そう言ってくれると、ありがたいけど」
 結斗は、改めて自分のスマホの動画を見た。
 【歌ってみた】XXX アレンジMOMO
 結斗の歌った動画の近くに純の動画があった。最近、どこかの商業施設で弾いたらしい純のピアノ動画。
 純はいつ演奏に行ってるんだろう? 何も知らない。純の動画を見て変な焦燥感に駆られる。
「なぁ、俺は絶対お前歌で食ってけると思うよ」
「なわけないだろ」
「もし、もしもだよ、桃谷も『純』みたいに、動画で活動したいとか思ってるなら言ってくれよな! 俺、協力する!」
 瀬川は真面目な顔で結斗を見た。
「そんなの……俺は、全然」
 リアルタイムで更新されていく再生数、チャンネル登録者数。
 コメント欄をスクロールすれば、この前見た純の動画と同じような言葉が流れていた。
 かっこいい、すごい、好き! 神なんてコメントもあった。
 けれど、やっぱり周りがどんなに熱狂していても、自分は、ただ歌っていたいだけ。昔と同じで、どういうふうになりたいとか、音楽に対して目標みたいなものが見つからなかった。それでも、誰かに届いたら嬉しいって思う。
 純がピアノの動画をあげようと思ったきっかけを、まだ聞いていない。
 けれど、もしかしたら純もこんなふうに誰かに自分の音楽が届くのが楽しいと思っているのかもしれない。
 そうだったらいいなと思う。
 結斗のワガママのせいでピアノを辞めてしまった。この先もずっと家の中だけでピアノを弾いているなんて、やっぱり良くない。
 外の世界には純のピアノを好きだと言っている人が大勢いる。
 ――結斗じゃない、誰か。
 それが、純の欲しかったものだとしたら。
 自分がいない方が、純のためだと思う。
 このままだと、純をダメにしてしまいそうで、ずっと怖かった。今の幸せが怖い。
 純の音楽を自分だけのものにしたくない。自分だけのものにしたい。
 結斗は相反する思いの間で板挟みになっていた。未来のことを考えると不安でたまらなくなる。
(じゃあ、俺も、純と同じことをしたら?)
 ――隣で歌ってくれたら、もっと楽しい。
 純が言っていた言葉を思い出す。
 どんなに長いあいだ近くにいても、純と何一つ同じじゃないと思っていた。
 けれど、並んでいた。
 同じサイトの中で。自分と純が。
 動画サイトのランキング一覧。純のそばに自分の動画が並んでいるのを見て、急に心が揺れた。
 純と同じことをすれば、まだそばにいられるんじゃないか。もっと、純の気持ちがわかるんじゃないか。
 純の本当を知るのが怖いけど、踏み込んでもっと純のことが知りたかった。
 純と一緒に音楽ができれば、この先、何か変わるのだろうか?
 結斗が音楽をしたいのは、この先も純のそばだけだ。間違っているかもしれないけれど、自分の歌声を届けたいのは、今も昔も純に対してだけ。
 それだけが、結斗の真実だった。
 ――歌うことが好きだった。
 今日までずっと消えなかった、たったひとつの思い。
 その気持ちを失わずにいられたのは、音楽を嫌いになりそうになったクリスマスのあの日、そばに純がいたからだ。
「――なぁ、瀬川」
「ん?」
「動画の活動の件ちょっと、考えてみる」
「おぉ! 前向きになった! 駄目元だったのに、なんか心境の変化?」
「とりあえず、その前に、やることある。そのあと返事する」
 ――純と話をする。
「ふーん。なんかよくわからないけど、決まったら、いつでも言えよ」
「ありがと」
「峰岸に連絡したら部室の機材とかも使わせてくれると思うし」
 結斗は怖くてずっと純に聞けていないことがある。
 ――本当は、結斗のことを恨んでいるんじゃないか。
 あの時ピアノをやめなければ良かった。そう思っているんじゃないか。
 そのことを純に聞かない限り、ずっとこのもやもやした後ろめたい気持ちは消えない気がした。昨日の夜、純が決めた覚悟は何かわからない。
 結斗にとっての覚悟は、純の答えを聞くこと。
 長い付き合いだから、純の顔を見れば、嘘を言ってるかどうかなんて分かる。
 だから、聞けないでいた。
 丁度、昼食を食べ終わったタイミングで純にスマホで呼び出された。

 待ち合わせ場所の『桜花殿』に着くと純はピアノの前に立っていた。いつもと同じモノトーンの上下だがなぜか緑色のエプロンをつけている。以前のような人だかりはなく、純はピアノの蓋を開け、髭面の男と何やら楽しそうに話していた。その男も同じ色のエプロン姿だ。
(あの人……誰だろ?)
 今話しかけたら邪魔になると思い入り口から離れようとしたが、すぐに純に気づかれた。仕方なくそばまで行くと純の表情が華やぐ。
「ゆい、もうお昼食べた?」
 ふわふわと笑っている純を見て胸がチクリと痛んだ。
「うん……いまさっき、瀬川と」
 急に純の前で普段自分がどんなふうに声を出していたか思い出せなくなる。
 今はどこまで純に近づいていいのだろう。仲のいい幼馴染が許される距離が分からない。
 知らない純の姿を見て、また動揺していた。
 いつまでも子供のままでいたかった。そうすれば今だって無邪気に走って行って背に抱きつけたのに。こんなのは、おもちゃを取られた子供の癇癪だ。純は自分のものだと主張したくなる。そんな醜い自分を遠くから俯瞰して眺めているような気持ちだった。
「そっか残念。バイト終わったら一緒にお昼食べようと思ったんだけどな」
「バイトって? え、お前バイトしてたの」
「うん。ピアノの調律。今日は確認と微調整が残ってて、そのお手伝い」
 このときまで結斗は純がバイトをしているのを知らなかった。
「ちょう、りつ、純が? そんなことできるの?」
「うん、まだまだ勉強中だけど。高校の時に三森さんに弟子入りしたんだ」
 そう言って純に隣の男を紹介される。
 ――そんなの、聞いてない。
 歳は三十後半くらいに見える男性が結斗に向き直った。三森は結斗に向けて人当たりの良さそうな柔和な笑顔で「こんにちは」と挨拶してくれた。ぼんやりとして上の空だったから、結斗は慌ててぺこりと会釈を返した。
「俺さ、やっと一人でも調律の仕事できるようになったんだよ」
「……へーすごいじゃん」
 純の笑顔がまぶしくて苦しくなる。
 ピアノが弾けて、調律もできる。
 ――俺、お前がすごいなんて、ずっと昔から知ってるよ。
 純はいつだって、綺麗で、かっこいい。なんだってできる。
 庶民で平凡な自分とは違う。すごく才能のある人間。純のことなんて全部知ってると思っていた。ただの思い上がりだったけど。
 知らない純を知るたびに、苦しくて、寂しくなる。
(だから、そんな純は嫌い)
 嫌いって思った次の瞬間に自己嫌悪してしまう。
 純は少しも悪くない。悪いのは、周りと同じような大人になれない結斗だ。
「私から見れば篠山くんは、まだまだだけどね。ま、友達の前だからアゲとこうか?」
 三森はニヤリと口角を上げて笑った。
「俺の幼馴染なんです。桃谷結斗」
「へぇ、この子が。噂はかねがね篠山くんから聞いてるよ」
「純、俺のこと三森さんになんて言ったんだよ」
 結斗はなんとか作り笑いをして純を茶化した。今の自分は、ちゃんと笑えているのだろうか。
「いつも一緒にいるよって」
「なんだよそれ」
「だって、事実だしね。いつも一緒なのは」
「あはは、君たちホント仲良いんだねぇ」
「はい、とても」
 純は迷うことなく仲がいいことを三森に伝えた。そんな自分にとってあたり前だった純を見て、結斗は訳もなく衝動的に詰め寄りたくなった。
(全然一緒にいないじゃん! バカ、嘘つき!)
 小さな子供の自分が心の中で声を上げて泣き叫んでいた。
 動画配信して有名人になっているなんて知らなかった。
 調律のバイトをしているのも知らなかった。
 自分の方が純のこと、もっといっぱい知ってるって、全世界に訴えたくなる。大声で叫びたくなる。自分にそんな権利なんてないのに。
「篠山くんは、私の弟子の中で一番覚えが早いよ」
「へぇ、すごいんだな、純」
「ほんと篠山くんはすごく頑張っている。最初の三年で逃げるかと思ったら、まだ続いているしね。ひたむきに努力ができるって意味なら才能もある」
 突然、才能という言葉が結斗の心に重くのしかかってきた。今、それが喉から手が出るほど欲しい。けれど、自分は過去ひたむきに最後まで努力ができなかった。自分でやると決めたのに、音楽から途中で逃げ出してしまった。だから、こんなに何もない情けない男になってしまったのだろうか。
「三森さん褒めすぎですよ」
 そう言って純ははにかむように顔を少し赤らめた。
「まぁ才能は抜きにしても、篠山くんはピアノが大好きだしね。一番大事なことだ」
 三森に褒められて喜んでいる純の目がキラキラと輝いて見えた。誇らしげで、誰よりも頼り甲斐のある男に見えた。
 結斗は三森の話を聞きながら、ずっと心ここにあらずだ。
 また頭の中で嫌な音が鳴り出す。「嬉しい」と「寂しい」の音が半分ずつ頭の中で鳴っている。立派な純が幼馴染として誇らしいのに、憎らしい。
 結斗は、いつ純がピアノの調律を勉強しだしたのかも知らなかった。高校三年間、同じ学校じゃなかった。その間に純は、結斗の知らない外の世界に目を向けたのだろう。よくよく思い出してみれば、ここ一年くらい、純の家のピアノの音色がよく変わると感じていた。
 純はあの地下にあるピアノで調律の勉強をしていたのかもしれない。
(なぁ、いつから? どうして?)
 子供じみた独占欲に囚われる自分を、これ以上見たくなかった。惨めだった。
 さっき、純から少し遅れながらも、自分も自分だけの世界を見つけようと決意しかけていた。純と二人だけの、あの温かく幸せな地下室から抜け出して、外の世界へ目を向ける。純に支えてもらわなくても、一人で立てるようになりたい。
 もう、純の音楽を独り占めしない。大切な純の未来を、邪魔したりもしない。
 ――だから、これからも、そばにいて。
 面と向かっていうのは恥ずかしいセリフでも、はっきりと伝えるつもりだった。
 これからも親友として一緒にいるための自分なりのけじめ。
 これが、結斗が純に言えるせいいっぱいだった。
 やっと決心したのに、三森と話す純を見て、また暗い気持ちが結斗の言葉を阻んだ。
「純ごめん。俺、講義あるから、もう行くよ」
「そう? じゃあ今日帰りにウチ寄ってよ。昨日二人とも酔ってて話できなかったし、クリスマスのこと」
 目の前が灰色になった。もう二人だけの幸せな音楽が、音が聞こえない。
 ――マジで、俺……赤ちゃんかよ。
 純の言った通りだと思った。伝えたいことも、伝えなければいけないことも上手く言えない。
「……うん、わかった行く。バイトあるから終わってからな」
「了解」
 結斗はそのまま二人から逃げるように足早に建物から出ていく。夜、純に会う時までに、早くいつもの自分に戻らなければいけない。
(ねぇ、純。いつもの俺ってどんなだっけ? 思い出せない)
 ――今すぐに歌いたいと思った。
 この感情を全て歌にぶつけて。醜い心を全て消してしまいたかった。
 自信が欲しかった。自分は、ひとりでも大丈夫だという自信。純みたいにキラキラした特別な才能。
 同じじゃないと一緒にいられなくなる。このまま置いて行かれてしまう。
 結斗は、やりたい曲があると峰岸にメッセージを送っていた。
 ひとりで自分がどこまで出来るのか知りたかった。

 + + + +

 三限が終わった後、カフェで待ち合わせて峰岸と軽音部の部室へ行った。
「――今まで誰も歌わなかったからさ。嬉しくって峰岸から連絡もらって速攻きちゃったよ」
 部室で峰岸と待っていると軽音部の人たちが集まってきた。
 彼らには夕方のバイトの時間までと伝えていたので、話しながら、それぞれがテキパキと楽器の準備に取り掛かっていく。
「つか先輩たち、講義サボって卒業は大丈夫なんですか?」
「そう思うんだったら、こんな楽しいお誘いやめてよね。君が桃谷くん?」
 落ち着いた声。背の高いベースの人に後ろから声をかけられた。
「あ、はい。でも、ホント俺ただカラオケしにきたみたいな? そんなのでいいんですか?」
「いーんだって、俺らも別にプロ目指してるわけじゃないんだし、趣味バンドだよ? 一緒に遊んでくれたら嬉しいな。よろしくね」
 峰岸のバンドのメンバーは、結斗が伝えたイメージを一緒に作り上げてくれた。
 自分の言葉じゃ絶対伝わらないと思っていたのに、彼らは打てば響くみたいにアレンジを返してくれた。
 吹雪の中で一人歩いているところから、とつぜん視界が広がる感じ。そんな漠然としたストーリーを語ると、ベースの人が面白がって「じゃあ、見えるのは、冬の海?」と言って結斗の声に合わせて音を鳴らしてくれる。サビがサスペンスドラマのラストみたいになって、メンバーたちとゲラゲラと笑いあった。
 結斗が歌う。峰岸たちがフレーズごとに確認していく。狭い軽音部の部室は、いつも結斗が行くカラオケルームと同じで賑やかで、楽しい音で満たされている。
 けれどカラオケと違って、バンドの生音は心地よく身体中に響いた。
 いつもならカラオケのコントローラーを使って、結斗が好きにいじっているリズムや音も人が演奏すると自由に細かい調整がきいた。
 ここはテンポを上げたい。ここはもう少し気持ちゆっくり。
 そうやって試行錯誤を重ねて自分の思い通りに響く音は気持ちよかった。
 音楽を使って周りと会話をしている。
 ――まるで、純のピアノだ。
 でも純の場合は、結斗が何も言わなくても全部感覚で魔法のように伝わってしまう。
 結斗は歌いながら頭を振った。
 どんなに気持ちよく歌えても渇きは治らない。どうしても、純が頭の中から消えなかった。
(そんなのは、いやだ。俺はもう一人でも大丈夫だから)
 鬱屈した気持ちを晴らすためのカラオケだったのに、ちっとも晴れやしない。再び声が歪んだ。歌詞に勝手に自分の感情が乗る。
 気分爽快になる曲のはずなのに、隠そうと必死になっていた寂しさが溢れていた。
 純のピアノの伴奏以外で歌えば、胸がすっとするはずだった。
 自分はひとりでも大丈夫だって自信が持てるはずだった。
 お前がそうやって誰かと楽しくやってるあいだに「俺だって楽しくやっているよ。大丈夫だよ」と笑って言いたかった。
 けれど、そんなふうには少しも思えなかった。
 ――ざまぁ、みろ
 結斗の心の中にあった真実は、全部歌詞と相反する感情だった。
 ひとりにしないで。ずっと一緒にいて。
 マイクを握って前を向いて歌っていたから、バンドメンバーたちから結斗の顔は見えていない。
 歌い終わって、頬に伝っていた涙を慌てて袖で拭う。
 純と結斗が過ごした日々は、全てが完璧だった。
 悲しいときも嬉しいときも、純がいたから幸せだった。
 だからこそ、こんな腹立たしい関係があってたまるかと思った。
 そばにいればいるほど、寂しくなる。純のことが大切だからこそ、もう離れなければいけない。
 周りと同じように、純の前で楽しく笑えるように。
 けれど、時間が、距離が、甘えたな自分の心が、それを許さない。
 あんなにも優しくされて、温かくされて、自分からひとりになるなんてできるはずがなかった。
「――いやぁ、カラオケなんてとんでもない」
「マジでびっくりした。ももくんスゲェ。かっこよかった!」
 昼にサイトで見た動画のコメント欄と同じだった。
 バンドメンバーたちは、結斗の感情をおいてけぼりにして周りで盛り上がっている。
 ――絶対、これいけると思う。なんか、世界が変わったっていうか。
 ――なぁ、これも投稿していいか? 瀬川に渡そうと思うんだけど。
 ――うん。いいよ。
 峰岸たちに言われて、結斗は笑顔で答えていた。
 少しも楽しい気分にならない、こんな歌なんて誰も聴きたがらないだろうと思っていた。
 それでも、結斗が歌ったこのひどい歌で世界が変えられるなら、全部変えて欲しかった。