ラーメンを食べ終わったあと結斗は瀬川に連れられ、大学のキャンパス内にある桜花殿にやってきた。見慣れた白いフランス様式の木造建築は、大学の設立時に建てられた記念館で学生たちが自由に出入りできる憩いの場だった。
 昼休憩も終わって午後一の講義も始まっている時間だというのに、建物のなかに入ると多くの学生たちが集まっていた。
 ホールの中央には誰でも自由に弾けるグランドピアノが置いてある。普段は児童学科の学生たちが楽しそうに授業の課題曲を談笑しながら弾いていた。
 いつも見かけるその学生たちは、今日は少し離れた場所にいる。ピアノを中心にして輪を作って演奏者を静かに見守っていた。
 何だかその異様な空気に圧倒される。
(あ、本当にいた……純)
 ピアノの前には結斗がさっき想像した通りの姿で純が座っている。黒のチェスターコートがフォーマルの燕尾服のようだ。その見慣れた姿形の幼馴染を見て本当カッコいいなと素直に感じた。
 結斗は親友が昔から「舞台人」だったことを思い出した。過去、結斗は舞台で人を魅せることができなかった。でも純には昔からその才能があった。人を一瞬で高揚させ、魅せる。周りを虜にする演奏。
 目の前に座る人を幸せにして、楽しい気持ちにさせる天才。
 純がピアノを弾いてくれるのが嬉しいのに悲しかった。心臓が震える。キリキリと張り詰めて痛む。
「お、よかった! 演奏間に合ったじゃん」
 隣に立っている瀬川は自身のスマホをピアノの方へ向けた。周りを見ると同じように純を撮影している人たちがいた。純は「そういうの」が嫌いなのだとずっと思っていた。
 誰かから見られたり、騒がれたり。
 なんの前ぶれもなく演奏が始まったのに、一音目で周りが音楽に引き込まれるのが分かった。広いコンサートホールでもないのに、ピアノの屋根は全開で音がよく響く。
 きっと風に乗って表通りの向こうの校舎まで音が届いているだろう。
「……ショパンの英雄ポロネーズ」
「なに、お前、クラシックわかるの? 桃谷もピアノ弾けたりする?」
「弾けないけど」
 いつも純が弾いてくれるから結斗は弾かない。
 ポーランドの民族舞曲。
 最初は心臓のふちがぞわぞわする。今の結斗の不安定になった心とシンクロした。曲想なんて大袈裟なことは分からないけれど、ロマンチックな旋律の美しさより結斗には終始、聞く人のいない孤独な独り言みたいに聞こえる。淡々と誰かに語りかけるけれど相手はいない。
 勝手に一人で純の演奏に酔っていた。
 きっとこの中で、そう感じているのは結斗だけだ。ピアノの前にいる観客たちは、うっとりとした目をして聴いていたから。
 純は子供の時にピアノ教室をやめてから、誰かのために弾くピアノが嫌いになったんだと思っていた。
「――『純』さ、先週の動画ではアニソン弾いてたんだけど、今日はクラシックかー。なぁ、普段は家でどんなの弾いてんの?」
「色々」
「へぇ、そうなんだ。やっぱり、かっけーなぁ」
 結斗はずっと独り占めにしていたキラキラ光る音が、たくさんの人に届いているのが嬉しいのに、もやもやする気持ちが抑えられなかった。
 音が身体中に響いて出口がない。ずっとぐるぐる回っている。響く美しいアルペジオ。
 行き場をなくした音がいつのまにか熱に変わっていた。――誤作動。
(え……は、マジで。なんでだよ)
 自然と前のめりになってしまう。丈の長いダッフルコートを着ていてよかった。
「せ、瀬川、ごめん、ちょっと用事思い出したから、先行く」
「え、そうなん? 分かった。じゃーな」
 結斗はその場を逃げ出すように離れ、講義中で静まり返った校舎のトイレに駆け込むと個室の中で頭を抱えた。
 ピアノから離れたのに、まだ耳の奥に純の熱い音が溶けずに残っていた。
 身体の疼きと興奮が治らない。内側を暴れ回っている熱が苦しい。
(アイツが……あんなキレイな音鳴らすからだ)
 幼馴染のピアノに興奮して勃ったとか、絶対、誰にも言えない。墓まで持っていく!