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花本朔良はアイドルが好き。
でも、同時にアイドルに夢なんて持っていない。朔良の思う「好き」は嗜好品としての好きだ。
魚より肉、コーヒーより、紅茶。
あと、女の子じゃなくて、男の子が好きだ。
(あぁ、コレは、違う)
自分がゲイだと気づいたのは、中学生の頃だった。
クローゼットゲイなのに男の趣味は派手な人。そんな救いようのないゲイだったから、二十二まで恋人が出来た試しはない。それもこれも育った環境のせいで、人に対する美の基準が厳しくなってしまった。朔良の周りには、いつだって見目麗しい男女ばかりいる。
「えーっ! 花本くん。X建設の就職、蹴ったの。嘘、なんで将来安泰なのに」
同級生女子の驚愕の声に、大学四年で培った人から好かれる笑みを作った。この場の十人は、今日限りで会うことがなくなる大学の演劇サークルのメンバーだ。
誰に嫌われようと、好かれようと構わない。それでも朔良は飲み会での付き合いを人並みにこなしていた。
「なんとなく、かな」
居酒屋の天井のスピーカーからは、ヒットソングがループで流れ、さっきまで周囲の座敷からは絶えず会話が聞こえていた。それなのに、目の前の女の子が叫んだタイミングで周囲の全ての音が途切れた。
自分を含め、みんなカラフルな袴や黒スーツを着ている。ただでさえ賑やかで目立つ格好の集団だったのが災いした。
(なんで、今、静かになるんだよ!)
半径五メートルの人間全員に「大手ゼネコンを蹴った変わり者」という情報が共有されてしまった。
朔良は大学の卒業式が終わった後にサークルの飲み会に誘われた。特に断る理由もなかったので二つ返事で参加したが、どうやら間違いだったらしい。意識的に話題の外に居たのに、流れで酒の肴になってしまった。
「朔良の実家太いし、食いっぱぐれることないからじゃね?」
「え、そうなの? 全然知らなかった。花本くんって、いいとこのお坊ちゃんなんだぁ。そういえば、いつも綺麗めな服着てたよね」
サークルでは、いつもジャージ着ていたけど。と心の中で返事しておいた。大学生のドレスコードは守っていたし、そもそも服にそれほどこだわりがない。友人と同じ服を着ていれば変に浮かないからと、同じような系統の服を選んで着ていた。今日まで変だと指摘されなかったので、溶け込んではいたのだろう。
「そうそう。こいつのマンション、一回飲み会で終電逃して泊めてもらったけど、ホテルみてーでさぁ、すげーんだよ」
「別に僕のじゃないけど。この年で親の持ち物を自分のものみたいに言うの痛いだろ。スネ夫じゃあるまいし」
「あと朔良のお母さんて、元アイドルだしさ――」
そう言いかけた友達の口を手で塞いだ。外で言うことじゃなかったと視線で謝られる。普段からノリがいいお調子者の友達。去年、善意から一度家に泊めた。口止めしたが、酒酔いで忘れてしまったらしい。
朔良の母親について根掘り葉掘り聞きたそうにしているサークル仲間に「昔だよ、今は、引退しているし。ただの一般人のオバさん」と、その話を無理やり終わらせた。
「ま、まぁ。けどさ、かじれる親の脛は齧っておけよ。就職蹴ったってことは、役者志望に決めたんだろう? なら尚更、金と時間に余裕ある方が有利だって夢追い人は、な」
バシバシとブラックスーツの肩を強く叩かれた。
「なんか言い方に悪意あるなぁ、もぉ」
「一般論だって、怒るなよ」
「怒ってないよ。明日から僕だけ職なしなんだから、ちょっとは優しくしてくれてもいいだろ」
「ごめんって! ま、飲め飲め」
軽い冗談に、学生らしい戯れあいで応える。――これがこの場で朔良に与えられた役柄だ。家がお金持ちで、母親が元アイドル。父親は中学生の頃に離婚して出ていった。
そういう家庭の事情がない、どこにでもいるタイプの量産型、大学生の役。
明日からは無職。
そういう特別は要らなかったと自分で自分に呆れていた。
「でも花本くんだけだよねー。うちで外部監督に役者として見込みあるって言われたの。自信持ったらいいよ、才能あるって! デビューしたら若手俳優と合コン設定してね!」
朔良は、それには乾いた笑いを返した。
大学四年間、演劇に打ち込み、勉強のために外のワークショップにも積極的に通っていた。
けれど、そのせいで血迷った。結果、何も手に入れず大学を卒業して新卒切符を捨ててしまった。
希望していた劇団の応募書類も机の中にしまったまま、締切まで提出出来なかった。もちろん完全に、朔良の自業自得だ。
「そういえば、うちの大学って、何気に芸能系のコネあるよね。女子アナよく出てるし。あと『神』もいるじゃん」
「あたし在学中、一度も会えなかった。『ASKET』のナツ。いいよねー。さっきも曲かかってたし」
彼女は店内のスピーカーをピンクのネイルの指で差した。
「メンバーでナツは顔だけって言われてるよね」
「顔、綺麗なの大事じゃん、それだけで全部許せるよ私!」
「――僕、一回だけ会ったことあるよ。里村夏生。一年のときの般教で」
「え、朔良なんで、ナツの本名知ってんの」
「な、何でって、出席票回したとき名前見たからだよ。一つ上の先輩」
朔良は慌てて、興味なさげに言い直した。油断すると『彼』の解像度が他の人より高いことがバレてしまう。
一言でいうならナツは朔良にとって『嗜好品』だった。好みの顔、好みの体、好みの声。
全部が完璧だった。
だから出会った日から四年間、彼の名前を忘れたことがない。今は朔良の最推しのアイドルだ。
「いいなぁ、学内で神と出会えたらなんか、いいことあるらしいじゃん」
「神話かよ」
「でもさーアイドルとして売れたし、もう大学は退学するんじゃないかな。――大学の留年って何年までだっけ?」
居酒屋で酒を傾けながら、朔良は過去の恥ずかしい感じの出会いを思い出していた。あれ以来一度も、校内でナツには出会っていない。
見ているのはメディアを通したアイドルの姿だけ。
きっと朔良のことなんて、彼はとうに忘れているだろうし、個人として認識もされていないはずだ。
朔良が最後まで劇団に願書を送れなかったのは、きっと芸能人の現実を知り過ぎているせいだ。
身内の件もあるが、ナツのファンで彼を神と崇めているせい。
「あ、そうだ、朔良ぁ。明日から予定ないならさ。いつもの例のバイト入ってもらっていいか」
「え、また僕?」
「うん、ご指名」
大学の演劇サークルではOBからの紹介で、よく「サクラ」のバイトがあった。正確には、代理出席のアルバイトと呼ばれるものだ。朔良は社会経験、芸の肥やしくらいの気持ちで、よく仕事を受けていた。
人を騙すみたいに感じて嫌がる学生も多いので、二つ返事で受けている朔良は先方からすると常連のアクターだった。
朔良個人としては、純粋に人助けと思っている。
「もう大学卒業してるのに。いいの?」
「昨日、頼まれてたんだけど、卒業式のバタバタで引き継ぎするの忘れてて、明日なんだけど」
「急だなぁ。予定は空いてる、けど、そのバイトって元々サークルのメンバーの演技力向上って名目だろ。僕とかじゃなくて後輩に」
「んー難しい役だから、大根じゃダメなんだって。お前なら絶対先方のOK出るし」
「そうかぁ?」
「しばらく大学の演劇も顔出すんだろ?」
「それは、まぁ。手伝いくらいは、しばらくするつもりだけど、呼ばれたら行くって言ったし」
「頼む! な? お願い!」
「僕さぁ、いま結婚式って気分じゃないんだけど。無職だしさ」
「いや、結婚式じゃなくて、葬式」
「……それも極端だな。まぁ、分かったよ。詳細ラインでちょうだい」
「さんきゅ、助かる」
最初は卒業したのに、この先もしばらく大学のサークルに関わるなんてと思った。後輩から頼りにされるのは純粋に嬉しいが、それでもモラトリアムを満喫し過ぎだろう。
周囲に隠れてため息をこぼした。
早めに新しい居場所を探さないと、人間として駄目になる気がした。
葬儀の代理出席の多くは、参加出来ない人に代わって香典を出しに行く程度の簡単な仕事だ。
しかし今回は少し事情が違った。
夕方、斎場に着くと周囲には異様な空気が漂っていた。桜の花弁が舞い散る遊歩道を歩いているのに、その花びらを雪と錯覚するほどだ。
朔良が感じた居心地の悪さは、代行会社から借りたサイズの合わない喪服のせいだと思っていた。肩の位置が二センチくらい落ちているし、気になる人は思わず見てしまうだろうが、探るような視線を集める原因は、そこではなかったらしい。
斎場の前には葬儀に相応しくないラフな格好の人間が大勢立っていた。
最初、公園の入り口でカメラマンを数名見たときは、近くの公園でスポーツ大会でもあったのだろう思っていた。
朔良が視線を振り切り、斎場に入った途端、まるで獲物を狙うハイエナのような嫌らしい視線を感じた。
この斎場は五年ほど前に完成した比較的新しい大型の施設だった。待合ロビーは全面ガラス張りの吹き抜け。エントランスを抜けると窓側に美しい意匠の椅子と机、ソファーが整然と並べられている。
葬儀場というよりは、外観は美術館のような佇まいをしていた。
(え、なに、ごと)
生気を奪うような視線を一身に浴び、不快さに思わず眉を顰めていた。彼らの取材対象が、スポーツ大会なんかではなく、この斎場の関係者だと分かった。
朔良は近くのソファーに流れるように座り込み、故人の名前をネットで調べた。
仮にもサクラのバイトだ。演技する役について事前に調べてくるべきだったが、急に頼まれた仕事でおざなりにしてしまった。名前を調べたあとに、会社からスマホに届いているオーダーシートを開いた。
(なる、ほど。そういうことか)
難しい役だから、大根じゃダメ、そう言われた意味を理解した。
朔良は葬儀の代理出席を今日まで数回経験しているが、いずれも八十を越えた、お年寄りばかりだった。身内の葬儀も同じで離婚している父方の祖母だけ。年齢も百歳近かったので、葬儀で泣いた経験がない。
調べて分かったのは亡くなった「彼」が自分と同じ年頃の男の子だということ。詳しい事情は伏せられているものの、不幸な経緯で亡くなったのは容易に想像できた。
――アイドルを目指していた男子高校生、月山翠。謎の神隠し真相に迫る!
下世話な記事を目にするだけで思わず吐き気がした。数年後、遺体が見つかった経緯は分からない。ASKETのライブの日に失踪したバックダンサーと書いていた。
分かったのは、それだけ。けれど、その情報だけで十分だった。
朔良が今日演じるのは、故人の友人役。
依頼者は母親。同じ年頃の子に息子を送ってもらいたいから、と。オーダーシートには書いてある。
スマートフォンから顔を上げ、高い天井を仰ぎ見た。役は分かったが、依頼された経緯は理解できない。それは自分が依頼者と同じ母親の立場で物事を見れないからだ。
だから故人と同じ気持ちになる。
見ず知らずの他人に来られたところで故人は少しも嬉しくない。
それでも朔良がこの場にいることで、家族の心が救われるのなら朔良の嘘にも多少の意味はある気がした。誰かを救うための嘘なら、それは、いい嘘で人助けだから。
ただ現実は、家族が憂いた「寂しい葬儀」と様相が異なっている。
当時のネットの記事に名前があったアイドルグループ、ASKETの文字。
現在人気絶頂のアイドルグループと関係のあった人間だ。ハイエナのようなメディアが嗅ぎつけて取材にくる可能性はあった。
現に外には複数のメディアが集まっている。
この建物のように静かで優しい空気の中、家族と友人たちで最後の時間を送る予定だったのに、悪い意味で斎場は騒がしくなっていた。
家族が心配すべきだったのは誰も来ない可能性ではなく、招かれざる客がやってくる可能性だった。
「もしかして、メンバーの誰かが来る、とか」
朔良は灰色の大理石の床に向けて、ぽつりと一人ごちていた。
ASKETのメンバー五人、あるいは何人かが、葬儀に参列する。
別に不思議なことではない。養成所からのデビューなら、同じようにデビューを目指し、切磋琢磨した親しい仲の可能性はある。ただ、寂しいが今日、彼らはここへ来ないだろう。マスコミが殺到しているなら尚更、行きたくても行けない。それが芸能人だ。
――会いたい人に、会いた時に会えないんだから。辞めるまで。
昔、母親が、そう言っていたのを思い出しながら、手持ち無沙汰にスマホを触っていると、一瞬で自身を取り巻く空気の密度が高くなるような感覚を覚えた。
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、カメラのフラッシュの音が鳴り響き、目に映る景色がスローモーションのように見えた。
入ってきたのは、喪服に身を包んだ、ASKETのリーダー、アサトと。里村夏生――ナツ、だった。
朔良は椅子に座ったまま、微動だにせずメンバーを視線で追っていた。
「――ナツ、なんで」
三年前、演劇のワークショップで役が自分の中に降りてくる感覚について話を聞いた。
与えられた役が自分の内側でまざまざと生きているように感じる。オセロの裏と表のように人が切り替わる。
朔良は、それをこの場で初めて経験した。押し寄せる感情の洪水を制御できなかった。その瞬間は自分が自分じゃなくなっていた。
思わず両手で口元を手で覆っていた。この場で朔良は『月山翠』の友人だ。
――もう翠のことなんて、ASKETのメンバー達は忘れていると思った。もし覚えていても、一般人の葬儀に参列したりしない。
そう、降りてきた役に思わされていた。
「あり、が……と」
彼らと視線が合った瞬間、溢れてきた気持ちと共にお礼を口にしていた。朔良に仕事を依頼した母親も同じように思ったのだろう。会場受付で彼らの姿を見つけ駆け寄り、何度も何度もお礼を言っていた。
外の騒ぎと正反対の静かな空気の中、葬儀は滞りなく進んだ。一番後ろの席で祭壇を見上げている間に、朔良の内側に渦巻いていた役の感情は、すっきりと消えていた。
(一体、あれは何だったんだろう)
幽霊に憑かれていたなんて、オカルトじみた想像をしながら焼香をあげる。実在しない架空の人物を作り上げて感情移入するなんて、本物の役者みたいな経験をした。でも本当の友人は、嘘つきの自分じゃなくて、いま後ろに座っているアイドル二人だ。
朔良は遺影を前にして心の中で謝罪した。
(初めまして、翠くん。本当の友達が来たし、偽物の僕は邪魔だったよね。どうか許してください)
その足で会場を出ると、ホールの奥にあったトイレに入った。無事に仕事が終わって力を抜こうとしたときだった。
「月山くんのお友達だよね?」
洗面所で手を洗っていると、突然後ろから声をかけられて思わず肩を震わせた。振り返ると、そこには舞台衣装みたいに喪服を着こなしているナツが立っていた。
「ぁ、ぅ、うん」
朔良は仕方なく演技を続け、その場限りの嘘を重ねていた。
「えっと、里村さんは?」
言った瞬間、しまったと思ったが口に出した言葉は取り戻せない。仕事が終わったからと完全に油断をしていた。役なら、ASKETのナツ、と失礼な感じに呼ぶ方が正しい。
「あれ、なんで、俺の本名知ってるの?」
「ぁ、その……大学が、同じで、先輩と」
「んー?」
苦し紛れに答えると、マジマジと顔を覗き込まれた。朔良の顔を確かめるためにナツは少し首を傾けた。彼の白く透き通った頬にサラサラと赤茶色の髪が流れる。以前と違い、軽くかけていたパーマはストレートになっていて、暖色の照明の光を反射していた。
心の準備をしていなかった。誰よりも整った顔が近くにあって心臓がジクジクと張り裂けそうに痛い。
同じように美しい顔でも、リーダーのアサトだったら心臓は跳ねなかった。自分好みの極上品の造形美が呼吸が触れそうな距離にいる。
「あーわかった。思い出した。第二講義室でチョコレートあげた子だ」
なんで覚えてるんだよって本気で驚いた。
元アイドルだった母親が、ファンイベントに来てくれた子の顔は全員覚えていたと嘯いていた。けれどファンとの交流会とは訳が違う。朔良は、たった九十分の講義で隣に座っただけのファンでもない一般人だ。――今はファンだけど。
「あーその、節は、ごちそうさま、でした。なんで、僕のこと覚えてるんですか」
「え、話したじゃん。それに、君も覚えてくれてる。えっと、名前は」
朔良がナツを覚えているのは芸能人だからだ。一体、どんな記憶力をしているんだろう。一度会ったら顔と名前を忘れないなんて政治家みたいだ。
「花本、です」
「花本くん、ね。お節介かなぁって思ったけど。お腹空いてるみたいだったから。なんかさ、アンパンマンになった気分だった」
「あ、はは」
こんな美形のアンパンマン見たことないや、と内心ツッコミを入れていた。バックに花が咲き誇るようなアイドルスマイルを向けられて、ここがトイレなのを一瞬忘れそうだった。
美しく整った外見とは違い、驚くほど素朴な人柄が滲み出ている。
見た目は欠点ひとつ見つからないのに、あまり芸能人らしくない。ただ芸能人という生き物は何重にも仮面をかぶって生きている。
これも外向けの演技かもしれない。彼の本当なんて、彼の自宅で二人きりにでもならない限り、この先も知ることは叶わないだろう。
「あの里村さんって、月山くんと同じ養成所だったんですか?」
「ううん違うよ。俺じゃなくてリーダーが月山くんと親友で。俺はリーダーが心配だったから、その付き添い」
「そうなんですね。月山くんのお母さん喜んでました。誰も翠に会いに来ないかもしれないって、ずっと僕に言っていましたから。里村さんたちが来てくれて、喜んでると思う」
「だといいけどね。俺自身は深く関わりがなかったから、ほぼ部外者だし」
ナツは申し訳なさそうに眉を寄せた。そんなナツの言葉に一種の連帯感みたいなものを覚える。この場で故人を思う気持ちはあるけど、申し訳なさが心の隅を占めていた。
「あと、ずっと、ここに来てみたいって思ってたから、なんだか少し後ろめたくて」
「ここに、ですか?」
「うん。俺、ここ建てた建築家のファンだから」
「もしかして、伊坂さんの設計ですか」
「あ、知ってる? 俺、大学は現代建築専攻で」
朔良自身は経営学部なので、それほど詳しくないが、単位のために取った現代建築史の講義の内容をぼんやりと覚えていた。内部空間に柱がほとんどない、曲線を大胆に取り入れた造形が特徴。教科書に書かれていた文章と小さな写真が思い出せる程度の浅い知識だ。
ナツは思い入れがあるのか、それらの建物構造を熱弁し始めた。大学時代よく見た、研究室のオタクみたいな話し方だった。そんなナツの姿が面白くて、思わず笑みが漏れてしまう。
「――写真で見るのと全然違う。勉強になったなぁ、本当はもっと、フィールドワークに参加したいんだけどね」
不思議な時間を共有していた。普通の、大学の先輩と後輩みたいな。
そもそも、なぜ朔良に声をかけたのだろうと思っていたら、その答えは、すぐにナツがくれた。
「あぁ、それでね、君に話があって。うちのリーダーと一緒で申し訳ないんだけど。今から一緒に外に出ようか」
「え」
「あのね、マスコミすごいし、車で近くの駅まで送らせて。マネージャーに了承はもらってるから」
予想していなかった提案に驚いて、思わず足を一歩引いていた。芸能人が一般人を車で送るなんて状況は普通ない。親しい友達でもない限り。そこまで考えて思い当たる。――あ、今、友達の役だった。
「え、そんな、僕は別に一人でも大丈夫ですから」
「外、多分すごく不快だろうから、ね。俺らが来たせいで、君がマスコミに追い回されるなんて、きっと月山君も望んでない」
きっと自分が翠の友人だと知って、アサトが気を遣ってくれたのだろう。けれど、それは嘘だったから、申し訳なさでいっぱいになった。
仕事で吐いた嘘に、さらに嘘を重ねていた。
結局、押し問答の末、断りきれずにナツたちと共に外に出ることになった。
ロビーでアサトと合流すると、深々と頭を下げられて恐縮してしまった。別に騒ぎになったのはASKETのせいではない。マスコミが取材に来たからだ。
親友なら葬儀に参列したいと思う気持ちは理解できるし、彼らが矢面に立って一般人の朔良を送る義務なんてない。
常々、身内から聞かされてきたが、改めて芸能人というのは不便な生き物だと思い知った。
自分が正しいと思う通りには生きられないし、結果的に良くも悪くも、巻き込まれる人数が多すぎる。
外に待機していた車に乗り込んだあとは、誰も口を開かず終始無言だった。
寄りたい場所があったので、新橋駅の前で車を停めてもらい、そこから地下鉄の銀座方面に向かった。このまま自宅に帰ったところで眠れないし、何か気が紛れることをしたかった。
――さっき僕、ナツ、と普通に話してたんだよな。
別れ際に丁寧に挨拶をして、車で降りるまでは役に徹していられた。外じゃなかったら今頃、床を転がってジタバタして、部屋の中を無意味にぐるぐる歩き回っていただろう。今になって、手にじんわりと汗をかいていた。
(ぁ、ナツ……本当、肌、白くて、ツヤツヤで。まつ毛長くて、ぅ。やっぱり、神……だぁ)
目的地に向かう足は自然と早歩きになっている。雑踏を進みながら、しばらく夜風に当たっていると、やっと人に見せても引かれない顔に戻った。朔良の感情を揺らして人に見せられないような顔にするのは、今のところ、この世でナツだけだ。
朔良は、その足で母親の経営しているミニクラブに向かうため夜の並木通りを歩いた。喪服のままだったが周囲にスーツ姿の人が多く特別目立つこともない。
地上八階、地下一階のビルは母の持ちビルで、高校までは場所柄もあり近寄りもしなかったが、大学になってからは何度か足を運んでいた。二階に母の店がある。
裏口から店に入りバックヤードからホールを覗くと、母親が背中の空いた黒のドレス姿で客と談笑していた。とうの昔に不惑を過ぎているが、化粧が上手いからなのか、少しも衰えたように見えない。
親に対して使いたくない言葉だが、いわゆる美魔女って奴だろう。人に好かれる愛想笑いに思わず眉を顰めた。ため息を吐いたタイミングで母と目が合ってしまう。
「――あら、どうしたの朔良、何か用事?」
朔良に気づいた母は、他の女の子に席を任せてバックヤードにやってきた。薄暗い廊下で向かいあうと、母親の白い肌がキラキラと発光していた。何だか悍ましい化け物か何かを見てしまった気分になる。
「用はないけど、店手伝おうと思って。暇だから」
「変な子、いつも用事がないと来ないのに」
「無職だから、社会勉強」
アイドルのナツに会って興奮してるから気を紛らすために来た、などと言えるわけがない。そもそも自分がナツのファンなのも、ましてやゲイなのも母には話していない。
「ふーん。社会勉強って、で、その喪服も社会勉強?」
「多分、そんなところ」
また危ないことしてる、と呆れ声と共に肩をすくめられた。以前、大学の演劇サークルのつながりで、代行会社のバイトをしていると説明はしたが、裏の仕事だと、あまりいい顔をしない。
「危ないことはしてないけど」
「やっぱり朔良って、あたしに似たのかしらねぇ」
真っ赤な口紅の唇をへの字にして女子高生みたいな変顔をされた。
「似てないよ」
「似てるわよ。親子だもの」
「え、どこが」
「恵まれた環境に胡座をかかないところ」
褒め言葉で貶された。働かなくても生きられるのに、と暗に言われている。欲しいと思えば何でも手に入る境遇なのに、朔良は、それをしない。
「もしかしてX建設、入らなかったの怒ってる?」
「いいえ、あなたの人生だもの。危ないことしないなら好きにしたらいいわよ。役者だって、やりたいならやればいいし。普通に働きたいなら働けばいい」
「じゃあ、なに?」
「なんか、あたしと同じところで足掻いてるなぁって、それだけよ」
普通とか些細なものとか、当たり前の「何か」にばかり憧れて執着している。
目の前の母親は、華やかな芸能界にいたのに、働いてお金を稼ぎたくなったからと、今は銀座でクラブを経営していた。芸能関係者がよく訪れる隠れ家的な店は、母の大切な城だと聞いている。
別に働かなくても親の財産だけで生きていける。それなのに、親子揃って、目の前にある楽で安全で堅実なものを、決して手に取ろうとしない。
「仕事探しているならパパに相談したら? 少なくとも、あたしよりは堅実に生きられるわよ。電話したら喜んで飛んでくると思う」
「死んでも嫌。あの人、才能ない人が嫌いなんでしょ。会っても、なんか、いつも馬鹿にされるし」
朔良が間髪を入れずに拒否すると、母親は、元芸能人とは思えない、ごく普通の人みたいな馬鹿笑いをした。バックヤードとはいえ、今の声は店まで聞こえただろう。
芸能人を辞めた母を捨てたのが、朔良の父親だ。子供の頃は何者でもない朔良でも、未来に対する期待から興味を持てただろうが、今の朔良なんて会ったところで虫ケラ以下に思うはずだ。
虫ケラにも、虫ケラなりにプライドがあった。わざわざ笑われるために会いになんて行きたくない。
「かわいそ、あんなに朔良こと溺愛しているのに、一生伝わらないのね」
そう言うと母は店に戻っていった。お客たちとくすくす笑い合う声が背中から聞こえる。どうやら新しい客が来たらしく、また母親の年齢にそぐわない、甲高い声が聞こえた。
そのまま裏のスタッフルームへ入ると従業員の崎田がいた。小さな店なので裏方は崎田一人しかいない。ボーイと言っても年は若くない。目尻が垂れ下がった中年の男だ。ミニキッチンの換気扇の下で、タバコをくわえ、気だるげに天井を仰いでいた。
「おー、さっくん、遊びに来たのか。ケーキあるよ?」
朔良は部屋に入ると隅にある木製のコートかけにジャケットをかけた。振り返ると崎田は久しぶりに孫にあった祖父のように相好を崩した。馴れ馴れしい呼ばれ方は、最初こそ律儀に嫌がっていたが、子供の頃からの付き合いだし、もう最近は諦めている。
「遊びに来たんじゃなくて、店の手伝いです」
「そうか偉いねぇ、じゃあ、そこに置いてる料理テーブルに持って行ってくれる? おっちゃんが顔だすより、お客さんも若い子の方が喜ぶから」
崎田は昔、母のいたアイドル事務所でマネージャーをしていたらしいが、母とどういう関係だったのかは知らない。あまり深く追求したくないし、おそらく、今後も尋ねるつもりはない。物心つく頃から知ってるし、なんなら父親より見た顔だと思う。
父には成人するまで、月に一回の面会日くらいしか会ってこなかった。
「これ、着ていいですか」
「おう、いいよ」
一着だけある店用の黒のベストやエプロンは、自分以外が着ているのを見たことがない。私服で店に出るわけにはいかないので、それに着替えると、鏡の前に立ち、髪を適当にワックスで上げた。
「ところで、さっくん。さっき廊下でミカさんに話してたの無職って本当? 大学で勉強頑張ってたのにねぇ、不況かな」
「別に、不況とかじゃなくて」
「ん、どうしたどうした」
崎田は話題に飢えているのか、若者の悩み相談に乗りたそうに目を爛々とさせていた。付き合いは長いが、悩み相談をするような間柄でもない。
油断も隙もない。危うくあれこれ聞き出されるところだった。
もし話せば、その話題は流れるように母親に共有されてしまうのを朔良はこれまでの経験上、身を持って知っている。
「なんでもないですよ。これ、持ってきますね」
適当に相槌を打って逃げるように、スタッフルームを出た。
デリバリーの軽食とフルーツ盛り合わせを持ってホールに入ると、一目で業界人と分かる客がいた。薄暗い店内でもキラキラと眩しい芸能人オーラが漂ってる。
(SNN5だ。いま何代目だったかな)
仕事帰りに見える中年男性二人と有名アイドルグループの女の子三人がボックス席にいた。席には母もついていた。恐らく上客だろう。他のホステスに目配せされたので、そのローテーブルに料理を並べた。
「あー待って、君が朔良くん、だよね。さっき、お母さんのミカちゃんに聞いたよ。サクラのバイトしてるんだって? 面白いね」
朔良が踵を返したところで上座にいる男に呼び止められた。比較的アットホームな店といっても、今までバイトの自分に声をかけてくる客などいなかった。男は朔良が元アイドル『ミカ』の子供というのも知っているらしい。
「もう水谷さんったら。面白いじゃなくて、危ないですよ。息子が変なことにばかり興味持ってるってお話で」
「えー危ないかな? 当ててあげようか、君の代行業社って、A社だろう」
唐突に悪の親玉みたいな表情を向けられた。
「……そう、です、が」
都内に限ったとしても代行業社は数えきれないほどある。それなのに男は、何故かあっさりと朔良の仕事先を言い当てた。
「前にエキストラで、そこ使ったことあるんだ。別に危ない会社じゃない。だからミカちゃんも安心していいよ」
そう言って男はウイスキーのグラスに口をつける。
日に焼けた肌、自信と生命力が全身から満ち溢れていた。会社に命じられなくても出世欲で二十四時間働けそうなビジネスマンの顔をしていた。適当に着ているが上等なスーツで、シャツの上からでも筋肉質な体型がよく分かった。同席しているのは今をときめく有名女性アイドルだし、芸能事務所の敏腕プロデューサーか、役員クラスだろう。
「で、君は、役者志望だったりするの?」
「えっと、僕は……劇団に、入りたくて」
「ふーん、どこよ?」
席を離れる機会を逃してしまい、その場で立ったまま会話を続けていた。
「『ステージ飛鳥』、です」
男に気圧され無意識に本音を言わされていた。自分は芸能人になれるような男じゃないと分かっているのに、まだ役者に未練があったらしい。
「じゃあ、落ちたんだ。あそこ今、入団試験中だろ?」
「違います……あ、いえ、今年は、出せてないです。えっと、僕は、これで」
「ふーん、待ってよ」
朔良がバックヤードに下がろうとしたところ、水谷と呼ばれた男に唐突に手首を握られた。まったく予想していなかった動作に驚いて体が硬直する。
「ねぇ、サクラのバイトしているならさ、うちの仕事してみない」
「僕が、ですか」
「もー水谷さん、酔ってるんですか? うちの子は芸能人じゃないですよ」
「んーだからだよ。今、急ぎで一人探してるんだよね。一般人で演技が出来る、若い男の子」
「あの、それはエキストラ……でしょうか。構いませんが、今、仕事してないですし」
「朔良っ」
目の端に映った母が、一瞬だけ厳しい躾をする親の顔をしていた。朔良は今日まで、そんな表情を母から向けられた経験がない。それは朔良が特別いい子だったからではなく、母が放任主義だからだ。
それに、この場で母は、元アイドルだった自分を売りにしている接客業のプロ。突然、普通の母親の顔が現れたので違和感を覚えた。
「今、君がしているのと同じサクラのバイトだよ。もちろんA社よりは、お金を出す。そうだなぁ……難しい役だから、それなりの報酬も別で用意しようか。――もし成功させてくれたら、俺が個人的にステージ飛鳥に口を利いてあげるよ。君に実力があれば、研修生からスタートできるんじゃない? どう? やる?」
「やる、やりたいです」
突然舞い込んできた好条件。二つ返事で受けていた。
「はい、じゃあ、これ」
朔良は、水谷から名刺を差し出された。
「もー朔良、そんな簡単に決めてはダメよ。あのね水谷さんは、ESKプロダクションの方で」
「へぇミカちゃんも、ちゃんと人の親なんだねぇ、でも過保護だよ。これは俺と朔良くんのビジネスの話だ。この子はチャンスを掴んだ。それを親が断るなんてナンセンスじゃない?」
ESKプロダクション、誰でも知っている大手芸能事務所の名前だった。もちろん朔良も知っていた。
「燻ってる人間っていうのは目を見れば分かる。俺は一瞬で、いけるって思った」
「燻ってるって」
「それは自分でも分かってるんじゃない? 俺は君を見て今回の仕事に適任だって思った、だから声をかけた。それだけだよ」
その瞬間、自分の中で、やる以外の選択肢がなくなっていた。
「母さん、僕、この仕事やるからね」
「おっ、いい目だ。男の子はそうでなくちゃ」
「朔良……でも、ねぇ」
さっき「なんでも好きにしたらいい」と言ったばかりなのに、母は、なぜか水谷から仕事を受けたのをよく思っていないらしい。思えば、初めて母に反発していた。
これも、一つの自立の形じゃないだろうか。
「なんだよぉーミカちゃん。俺が悪い大人に見える? 困ってる若人に仕事を斡旋してあげるいい人だろう?」
「芸能界のことは、身を持ってよく知っていますからね。心配もしますよ」
「俺の身元は確かだろう、悪いようにはしない」
「でも、いいようにもしない、じゃないですか」
「それは、本人次第ってやつだよ。うちに限った話じゃないな」
最後まで、危ないことに巻き込まれると、心配していた母だが、朔良が元々役者志望なのを知っていたからか、きちんと連絡をよこすことを条件に許してもらえた。
いままでラインひとつ送ったことがないのに、自立の段階になって、急に母が過保護になった気がした。
翌朝、指定された時間にESKプロダクションのビルへ向かった。
水谷からは当面の生活用品を持ってくるように言われたので、大きめのボストンバッグに必要最低限の着替えを詰めて家を出た。
――仕事が終わるまで家に帰らず、役に徹して欲しい。
今日まで色々なサクラのバイトをしていたが、泊まり込みでやる演技の仕事なんて初めてだった。
社外秘らしく役については現地で話すと言われている。
家を出るとき、母親から芸能界の闇について切々と語って聞かされた。犯罪に関わるような匂いを感じたら、何を置いてもすぐに逃げるように言われたが、さっきまでは、いまいち自分ごととは捉えていなかった。
(……なんか、早まったかな。流石に出会い頭に監禁、とかはないだろうけど)
目的地に到着した瞬間、灰色の巨大ビルから得体の知れない威圧感が押し寄せてくる。
大企業に勤める人だから安心などと思っていたが、吹き上げるビル風も相まって悪の根城へ向かう心境になっていた。それでも大学四年間で培った役者魂と就職活動の経験のお陰か、受付の前に立った頃には、ざわざわしていた心境は不思議と凪いでいた。
朔良が名前と用件を伝えると、あらかじめ話は伝わっていたらしく、スムーズに打ち合わせスペースへ案内された。名刺に書かれていた、コンテンツ制作部、水谷武蔵の肩書きも事実だった。
しばらくソファーに腰掛けて待っていると、入り口の扉が突然開き、昨夜クラブで見た男が現れた。立派な会社勤めの人間なのに、入る前のノックはなかった。
朔良がすかさずソファーから立ち上がると、ドアの前で立ったままの水谷から不躾な視線を向けられた。頭の先から足の先まで、まるでファッションチェックでもしているかのように観察される。
「へぇ、A社に聞いた通りだ。ころころと印象が変わる。その服、自分で準備したの?」
「服、ですか」
「そう、いいスーツだね。もしかして、それも役作り?」
いつも代行会社で借りている衣装ではなく、家にあった細身のダークグレーのスーツだ。特に深い理由などなかった。
「役というか、企業を訪問するときはスーツだろうなって、それだけです。今日は仕事の依頼を受けて来たので。演じる役については、まだ聞いてないですし」
「あーそうか、分かった。そういえば、君、いいところのお坊ちゃんだったね。忘れそうになるけど」
朔良が答えると大袈裟に手を叩いてリアクションされる。
先日のサークルの飲み会と同じ言葉なのに、当人の豪快な性格のせいか水谷の言葉は不快に思わなかった。良くも悪くも言葉に事実以上の含みを感じさせない。
「二十歳そこそこの男なのにブランド物のスーツが板についてると、結構、目立つよね。どこの売れっ子若手俳優かと思った」
「変、でしょうか」
「んー今回の役は、制作部の新人って設定だから、違和感あるかな。吊るしのスーツ渡すから着替えて。最初だけでプライベートは普段通りの服でいいから」
「分かりました」
「じゃ、ついてきて、仕事場に案内する」
水谷の車に乗って連れてこられたのは、都内にある高級マンションだった。エレベーターで最上階の二十五階で降りると、奥の角部屋に入った。
「あの、ここは」
「んー俺の持ち家だけど。社員寮みたいな扱いにしてて、いまは別の人に貸してる。鍵あるから俺もたまに来るけどね。大家みたいな?」
玄関を入ってすぐ、覚えのある匂いが微かにした。柑橘系の甘い匂いに誘われるように廊下を進みながら、その匂いにパブロフの犬みたいに反応していた。その香水は朔良が好きなものだった。
ESKプロダクション所属の人間でタワーマンションに住んでいる人間なんて、大御所を除けば、数えるくらいしかいないだろう。
一般人が大手芸能プロダクションのプロデューサーに直接仕事を依頼されるなど、ただの幸運だけが理由のはずがなかった。無論、結果だけみれば幸運かも知れない。
それでも結果には必ず原因がある。
朔良が元芸能人の母の息子だから、おそらく、それもある。身元が確かな人じゃなければ、極秘の仕事なんて依頼できないから。それが、一つ目の幸運。
玄関入ってすぐ横には、シューズクロークがあり、たくさんのブーツやスニーカーが並んでいた。若い男性が住んでいる家だ。全面ガラス張りの開放的なリビングダイニングからは都内の景色が一望できる。水谷はリビングに入るとL字型のソファーに寛ぐようにして座った。
「さて、じゃあ仕事の話だ。座って」
「はい」
「昨日さ、君、ASKETのメンバーと一緒にいただろう」
二つ目の幸運。それは、昨日ASKETのメンバーに会って、おそらくテレビに自分の姿が映っていたこと。モザイクがかかっていても元の映像を見られる立場の人間なら、朔良が誰かくらい分かるだろう。映像でなくても、ASKETのマネージャーを通して状況を聞けば、いくらでも特定可能だし、ASKETの所属事務所はESKプロダクションだ。
玄関先で香った覚えのある香水の匂い。それは予感、だった。
「昔うちの養成所にいた子の葬儀。昨日、君は、そこに居た。調べたんだよね。君のことを色々」
「色々って、あの、もしかして、母の店に来たのは、僕に用があったからですか」
「んーそれは、接待で、たまたまあの辺りで飲める店探してたし。ついでに君に会えたら手間が省けていいなと思ったけど、ま、偶然にしても運命だよね」
運命なんて一番信じていなさそうな男に見える。水谷は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、タバコに火をつけた。朔良は手を膝の上でぎゅっと握り、意を決して先を促した。
「それで、僕に演じて欲しい役って」
「うん。まだ表に出してないけど、今ね、ASKET解散の危機なんだよ」
「解散、ですか」
「そ、リーダーのアサトがね、今回の件で少し休養が必要で。事務所としても、それは了承したんだが」
水谷はタバコの灰をローテーブルの灰皿の上に落とす。
「最近は、そういうの厳しくて。昔みたいに、死ぬ気で死んでも頑張れなんて体育会系の時代じゃないし。役員からも厳しく言われてるのよ。商品は大事にしてねって」
「そう、なんですね」
「うん、つらいときは仕事を休ませる。芸能人も普通のサラリーマンと変わらない。ただ、企業としては、その間ASKETのコンテンツを維持していく必要がある。それだけの魅力がリーダーのアサトにあるから、というのもあるが」
朔良は昨晩見たアサトの憔悴しきった顔を思い出していた。親しい友人を亡くしたのだから、心の整理に時間がかかるのは、外野の自分でも理解できる。母親に散々脅すように聞かされた話より、クリーンな業界のようで少し安心していた。
「もちろん、いつまでもってわけじゃない。彼の復帰がダメならいずれ損切りも考えるが、今はその時じゃない。だからね、プロデューサーの俺は、考えないといけない。一番の収入源であるライブが出来ない状況で、他のメンバーをどう使っていくか」
「どう使う、ですか」
「そ、ASKETのメンバー五人は、それぞれ持ち味があるだろ。リーダーのカリスマは別格として、歌、音楽、演技に特化していたり、バラエティーで重宝されたりとか、皆、個性がある。で、問題はナツなんだよね」
「問題なんて」
「顔がいいだろう。あいつ」
「そうですね」
朔良が前のめりで即答すると吹き出して笑われた。
「そうそう、顔がいいんだよ、とびきりね。けど元々、家族からの推薦で上京して芸能人になった子だし、動機が弱いんだ。顔を生かすなら、モデルの仕事をもっと入れたらいいんだが、その当人にやる気と自信がないんだよ。顔がいいだけなら、他にもいるって思ってるし」
「そんなこと、ないと思いますけど」
朔良からすれば、国宝級の造形美だと思っている。もちろん自信満々のナツというのもあまり想像できないが、それでも芸能人としての価値は十分にある。
あの優しげな瞳とか、極上に甘いマスクが最高にいい。
「口に出さないけど、あいつさ、リーダーが抜けたら、これ幸いとこのままフェードアウトして引退する気でいるんだよ。けど、そうは問屋が卸さない。いままで金かけた分、アサトの休業中は、ナツにも他のメンバー同様にきっちり稼いでもらう。あの顔、でな」
水谷の表情が急に遊郭のやり手婆のようにいやらしくなった。本人の都合が一番優先されると言いながら、取れるところはきっちりとっていく方針らしい。
「で、もう、君は気づいているよね。ここASKETのナツの部屋だよ」
「そ……そう、なんですね」
不意打ちに心臓が跳ね上がり、思わず声がうわずってしまった。
「ほんと、分かりやすいな。好きなんだ、ナツのこと。ライブとかイベント、いつも後方彼氏面して見に来てるよね」
「なっ……え」
確かに、いつも会場では後ろの方でナツを見ていた。女性ファンに混じって前の席を取る勇気はないけれど、どうしてもナツを見たかったから。
けれど一般人の自分が関係者に存在を把握されているとは思っていなかった。ファンレターやプレゼントだって送ったことがない。握手会なんてもってのほかだ。
「関係者席にいると、色々見えるんだよね。ほらナツのファンって、ほぼ百パーセント女だから、めずらしいなぁって、なんか君の顔覚えてて」
「す、好きとか。ただのファンなだけで」
「ふーん、別に、俺、ゲイに偏見とかないけど。クローゼットって生きにくくない?」
「ち、違います! 違いますから」
思わず大声を上げて、ソファーから立ち上がっていた。
「そうなの。ま、どっちでもいいけどさ、そんな怖い顔して……座りなよ」
一体どこまで自分のことを調べられているのだろう。言われるまま力無く座っていた。
「それでさ、強い心って人を動かすだろ。だから俺は、君を利用しようと決めた。――ナツをその気にさせてよ、そのファン心理ってやつで」
「ファン心理って」
「それが、君のお仕事。ナツに自信をつけさせて、バリバリ芸能界で仕事させて欲しい。――ここでナツと一緒に住んで、あいつのお世話してよ」
また心拍数が一気に上がった。ナツと一緒に住むなんて、死ぬかもしれない。
「お……お世話って……マネージャーとか、それに自信をつけさせるなら、僕じゃなくて、もっと綺麗な女性とか、他にいくらでも」
自分で言っていて虚しかった。男の自分がファンだと伝えたところで、ナツは喜ばないし自信をつけたりしない。だから隠れファンを貫いていた。それに朔良のような邪な気持ち百パーセントのファンの存在など、絶対本人に気づかれてはいけない。
「マネージャーは、ASKETのメンバー全員で一人なんだよ。で、明日からは個別に仕事してもらうからナツだけに構ってられない。マネージメント部門は、万年人手不足だし。それで君の扱いとしては、制作部の新人を代マネとして貸し出しているって形になってるから」
「僕が、代マネ……ですか」
「そ、だから、親身になってお世話してあげてよ」
鬼だと思った。朔良がナツの熱狂的なファンで、彼が困るようなことは絶対にしないと分かっているから、代マネを依頼している。
推しと二十四時間一緒に暮らすなんて、ある種の拷問だ。
「君がやることは、二つだけ。代マネとしてナツと共に仕事をする。その中で、ナツに自信を付けさせて、どんな形でもいいから彼のやる気を出させる。以上だ、質問は」
「その……どうして、僕がナツと一緒に住んでも大丈夫だって思えるんですか」
水谷は目を丸くして少し驚いた顔をした。
「何、君、ここでナツを襲う気なの? それは困るなぁ。弊社の大事な商品だし」
「し、しません! そんな……こと、絶対に」
「だよねぇ、推しに幻滅されるのが、一番、ファンとして怖いものね」
水谷はアイドルのファン心理を知り尽くしていた。
「それにな、あいつに女付けたところで、逆効果だって分かってるから、君が一番適任なんだよ。ナツ、興味ないんだよね、女に」
「興味がないって」
「言葉の通り。ゲイじゃないんだけど、あの見た目で思考回路が、小学生で餓鬼なんだよ」
「餓鬼、ですか」
「顔だけは、誰よりいいのにな、本当、残念なやつでさ。あれは、恋愛映画とかに絶対出したらダメなタイプの男だよ。あーそれも、なんとかしてくれたら助かるんだけど。どうにかならない?」
ひどい言われようだった。水谷がそう言ったとき、玄関で大きな物音がした。
「あぁ、帰って来た。じゃあ、今から――演技開始だ。ほら、行ってこいよ、玄関」
待っていれば、すぐにリビングに入ってくるだろうと思っていた。けれど、いつまで経っても部屋に来る気配がない。
水谷に促されて、玄関先に行くと、そこには仰向けに倒れているナツがいた。
「ぁ、あの里村、さん。大丈夫、ですか」
「あれ……なんで、チョコレートあげた花本くんがここにいるの? また、お腹すいてるの?」
電池が切れた完全オフモードのアイドルなんて、こんなものだろうなって、ずっと前から分かっていた。驚きもあったが、少し安心していた。
――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど。
そこにいたのは、四年前の春に知りたかった、本当の彼だった。
玄関先の廊下は両手を伸ばしても当たらないくらいの広さだ。その廊下で一流のアイドルが無防備に寝転がっている。メディアに出ているときのナツは完璧で無敵のアイドルだが、今は隙だらけだった。
まだ昼を少し過ぎたところで、売れてる芸能人が仕事を終えて自宅に帰ってくるような時間ではなかった。疲労困憊しているのか額の上に腕を乗せ、気だるげにしている。黒のデザインシャツの首元からは白い肌がちらりと覗いていた。
一見、兎とかポメラニアンみたいな愛らしく甘えたな瞳に見える。――けれど。
(いや、ダメだ、これを表に出したら、死人が出る)
朔良を見上げる視線からは疲労感より濃密な色気の方が優っていた。朔良の邪な心が瞳を曇らせている可能性もゼロではないが、それくらい危うい空気を放っていた。
(けど、僕が、なんとかしなきゃ……)
床に転がっているのは朔良より年上の芸能人で、立派な大人。ステージ上では、誰よりもノーブルで王子さまに見える。けれど今のナツを見ていると、それ以上に、絶対に自分が彼を守らなければいけないという母性愛のようなものも湧いてきた。
「おいナツ、なに寝てるんだよ」
「だって、七時から現場入ったんだよ、五時起きだし、もー疲れた、昼ごはんもまだだし」
「はぁ、今日から代マネの子ここに住むって聞いてなかったのか。花本朔良くん。てか、お前知り合いなんだろう?」
後ろから声が聞こえて振り返ると、水谷がくわえ煙草をしたままナツを覗き込んでいた。
「え、さくら?」
寝転んでいたナツは上体を起こすと、水谷と朔良を交互に見て目をパチパチと瞬かせる。
「昨日、例の葬儀でお前ら一緒に居ただろう。知り合いだって聞いたから、調べて特別にお前の世話係につけてやったのに」
「知り合い……えっと花本くんは、俺の大学の後輩で、いや留年してるから、もう俺が後輩になっちゃったんだけど。そっか、さくらって名前なんだ。可愛いね、花の桜?」
ナツはふわふわと桜の花びらが舞うように話す。目の前に妖精がいる。このままでは思考がファンタジーに犯されそうだった。
「い、いえ、僕、四月一日生まれだから。朔って漢字で、一日に、良いって、書きます」
「それは良い名前だね」
「あり、がとうございます」
説明のために漢字を伝えたが、改めて朔良なんて本当に分不相応な名前だなと感じた。音も意味も、目の前のアイドルの方がよっぽど似合っている。自分達の名前は逆の方が、それぞれに相応しく感じた。里村夏生、なつお、夏に生まれた。けれど、その素朴な分かりやすい名づけは、今の疲れて、ふにゃふにゃになっている目の前のナツとリンクして不思議と納得感があった。
「昨日は、今後のこととか、色々ドタバタしてて、頭回ってなかった。で、朔良が俺の面倒見てくれるんだ?」
首を少し傾げて微笑みかけられる。せっかく心臓が落ち着いていたのに、視線が合うと簡単に跳ねてしまう。
「さ、里村さんが、嫌、じゃなければ」
「ナツでいいよ。そんな嫌だなんて。広いマンションで、ずっと寂しかったからルームメイトが来て嬉しいなぁ」
芸能人なんて裏表や秘密があって当然なのに、目の前のナツは朔良に全てさらけ出してるように見えた。
「あのなぁ、二十歳過ぎた大人が寂しいとか外で絶対言うなよ、無駄に色気振り撒きやがって、勘違いされる。そんなんだから、メンバーに餓鬼だって言われるんだよ。ちったぁ、しゃきっとしろ」
「仕事のときはしているよ。水谷さん」
そう言いながらナツは床から立ち上がった。
「ねぇ水谷さん。昨日言った通り、俺はこれを機に引退を考えてる。大学だって楽しいし、もっと建築の勉強したいし。芸能界で生きるより、よっぽど向いているし幸せになれる」
「お前なぁ、自分のことばっかりじゃなくて、ちったぁファンの幸せを考えてやれよ、泣くぞ?」
「ファンなんて。水谷さんだって、俺は顔だけって思ってる。ホントいつも嘘ばっかりだね」
さっきまで幼く見えていたナツ表情が、急に年相応の大人の顔に変わっていた。ナツは、そのまま朔良たちに背を向けてリビングへ向かう。
「ナツ、とにかく、今受けてるモデルの仕事は、ちゃんとやれよ。分かったな」
「分かってるよ。でも大学は行くよ、せっかくライブ無くなって、スケジュール空いたんだから」
「あー分かったよ、仕事するなら、そこは勝手にしろ」
「ありがとう、水谷さん」
朔良はリビングへ入るナツの背をその場で水谷と見送った。
子供っぽく見えたと思ったら、すぐに大人の顔になる。一流の演技者みたいなナツの表情に朔良は翻弄されていた。リビングに続く扉が閉まり、ナツの姿が見えなくなったところで水谷に耳打ちされた。
「今ので事情とお前のすることは分かったな」
「はい」
「じゃ俺は帰るから、あとのことは頼む。ナツのスケジュールは、これに送っておくから。とりあえず、今日は、このあとナツはオフだ」
水谷は朔良の手のひらにスマートフォンを置くと、そのまま玄関で靴を履き始める。
「わかり、ました」
「あ、そうだ、大事なこと言い忘れた」
「え、何ですか」
玄関の扉を振り返ると、ニヤリといやらしい顔で歯を出して笑われた。
「――襲うなよ」
「なっ!」
反論する前に、玄関の扉は閉まっていた。
朔良は慎重に呼吸を三度繰り返し、リビングのドアを開ける。意を決して中に入ると、ナツは服を着替えているところだった。慌てて視線を逸らしたが、目にはっきりと透明感のある絹肌の背中が焼きついている。
「あの、今日は、このあとオフだって、里村さん」
「ナツって呼んで良いよ。――うん、だから着替えたら、大学行く。単位、残りゼミの研究だけなんだよね。あー学食の日替わり定食、急げば残ってるかな?」
ゼミだけということは、それ以外の単位は留年しながらも全て取得出来ているのだろうか。大学で神(ナツ)と出会えたら、いいことがあると言われるくらい低い遭遇率なのに、と考え込んでいたら、いつの間にか着替え終わっていたらしく、朔良の目の前にナツが立っていた。ナツは黒のチノパンに灰色のオフショルのトレーナーを着て、赤いセルフレームのメガネをかけている。さっきまでの色気を振りまくような服ではなく、ごく普通の大学生が着るような私服になっていた。
「ん、どうかした? 朔良(サクラ)」
初めて名前を読んでもらえた喜びを隠し必死で話を続けた。そう何度もナツの一挙一動に驚いてばかりもいられない。
「芸能活動あんなに忙しいのに、残りゼミだけなんですね」
朔良が意外そうな声で言うと、ナツは得意そうに微笑んだ。
「すごいだろ、俺、結構、真面目な学生だよ。知らなかった?」
「四年前、あの日以来、僕、な、ナツ、に学内で出会えなかったから、もう大学には来てないと思ってて」
頭の中では、いつもナツって呼んでいるのに本人を前にすると、呼び捨てにするのはぎこちない。けれど朔良の呼び方に満足したのかナツは、やりきったような顔をしている。
「会いたかった? けどなぁ、俺、特技があるから、そう簡単に見つけられないよ?」
「特技、ですか」
「見せてあげようか、朔良も今から大学、一緒に行く?」
「一緒に、ですか」
「え、ダメ? 卒業生なんだし、用事あるなら別にキャンパス入ってもいいよね」
「それは、多分、守衛さんに断れば、全然、入っても大丈夫」
「じゃあ、決まり! 行こ!」
一緒に大学へ行こうと言われてから、朔良もスーツから白シャツとデニムパンツに着替えた。その数分後にはアイドルと一緒に路線バスに乗っている。住宅街から山側にあるキャンパス周辺の道路に入ると、窓から視界に入る人が学生ばかりになっていく。
「なに、緊張してるの? 朔良」
隣にいるナツが朔良を揶揄うように微笑んだ。
「だ、だって、ナツ、騒ぎになったら」
「大丈夫、大丈夫。まずは、学食でランチしようか」
「学食、で」
声が引き攣っていた。
「だって、お腹空いてるでしょう? もう一時過ぎてるし」
「それは、うん」
ナツを一人大学へ向かわせるのが心配だったのもあるが、水谷から世話を頼まれているなら、ナツがオフでも自分は仕事中だし、彼の近くにいるべきだと思った。
道中は一緒にいるのが芸能人だと気づかれないよう、SPばりにナツが人の視界に入らないように注意して歩いたし、バスは周囲に人が座っていない、後ろの方にある二人掛けの座席を選んだ。
四年間通学した慣れ親しんだ道なのに、隣にアイドルがいると思うと、気が気でなかった。窓から初夏を思わせる強い日差しが差し込んでいる。昼過ぎで朝と比べれば大学方面へ向かう人数は少なく、席はまばらに埋まっている程度だが、日差しで車内の空気が少しこもっているせいか息苦しく感じた。
「ほんと大丈夫だって、俺、魔法が使えるからね」
「ま、魔法って」
「んーステルス?」
心配しきりだったが、本人が大丈夫と言っていた通り、本当にいつまでたっても黄色い声は聞こえてこなかった。
キャンパス前でバスを降り、朔良が校舎前の警備室で入校手続きをしている間も、誰もナツの存在に気づかなかった。
そうして無事にA校舎の地下食堂に辿り着き、一番端の席に座ったとき、やっと肩の力が抜けた。
「ここまで俺のお守り、お疲れ様。でも、大丈夫だっただろ?」
「そう、ですね」
「存在感を消せるんだよね、俺の特技」
目的の日替わりランチを前に、ナツは唐揚げを口に放りこみながら至極ご満悦の様子だった。大きな口を開けて、揚げたての唐揚げを頬張る仕草は、見ていて気分がいい。実にアイドルらしくない豪快な食べっぷりだった。
(まー当たり前、だよな)
芸能人だって、一般人と変わらない日常生活がある。人気アイドルだった自分の母親だって周囲に騒がれることなく、無事に朔良を育てあげ、今は一般社会に溶け込んで生活している。
母親だけじゃない。彼女の交友関係から、見飽きるほど芸能人と接して来たし、素の芸能人がどういう物か頭では理解していた。なのに、この瞬間までナツだけは特別だと思っていた。
(あーファン心理って、本当、人を盲目にさせるんだなぁ)
変装して、目立たないように学生の格好をしていれば、誰も気に留めたりしないし、良識ある大人なら、一般社会で生活しているアイドルを追いかけ回したりしない。
そんな当たり前のことを忘れていた。
「安心、しました」
「それは良かった。まぁ流石にゼミに行けば、個人として認識されてるけど、大教室とか普通にキャンパス歩いているだけじゃ、全然声かけられたりしないな。ほら、さっき家で寂しいって言ったでしょう? 全然、外で声かけられないから友達だっていない」
「友達、いないんですか」
「うん。だから、今初めて心から学食を楽しんでる。一回くらい、こうやって誰かと外で食べてみたかったんだ」
「そんなの、僕がいくらでも、一緒に、ぁ……」
つい前のめりに言いかけて、気持ち悪いファンの自分を隠そうとしたが、ナツは別段不快に思わなかったらしく、目の前でにこりと微笑んでくれた。
「じゃあ、また一緒に学食で食べてよ。そういえば一緒に住むんだし、今日は夕飯も一緒に食べられるね。何作ろうか、何食べたい? 帰り、スーパー寄らないとなぁ」
「は、はい」
スーパーで買うものを考えているナツの伏し目がちの視線。長いまつ毛が下瞼に影を落としていた。
改めてアイドルと二人暮らしをしているんだと自覚して頭がくらくらする。ナツの美貌を近距離で、余すことなく独り占めしていた。こんな幸福を自分なんかが享受していいはずがない。気を抜けば顔を真っ赤にして感情をぐちゃぐちゃにしてしまいそうだった。そんな幸せの海で揺蕩いそうになったすんでのところで、ナツに呼ばれハッと我に返る。
「ところで、朔良は、ESKプロダクションに新卒で入社したの? 優秀なんだぁ。エンタメ系って倍率すごいんでしょう」
「いえ、僕は」
「ん?」
ピリリと緊張が走った。いつかは訊かれるだろうと、頭の中でシミュレーションしていた質問だった。色々、演技プランを考えた結果、自分がナツの熱狂的ファンなこと以外は、全部、真実を話そうと決めていた。
少しナツと話しただけで無理だと分かった。どんなに役を作り込んで演技したところで、ナツ相手だと本能に振り回され簡単にボロが出る。それなら話せるところは全部、本当を伝えた方がいい。
「僕、バイトなんです。その……今年就職決められなくて、ESKプロダクションは、母親のコネ……みたいなもので」
朔良が面倒な家庭で育ったとか、母親が元アイドルとか。そのせいで父親が出て行ったとか。そんな自分という人間を形作った根っこの部分。今までは友人に隠して違う自分を演じていた。
けれどナツは芸能人だし、家庭の特殊な事情を必死に隠す必要もなかった。
「コネ?」
「母がESKプロダクションで昔アイドルしていたんです。結局、色々あって、もう芸能界にはいないですけど」
「へぇ、そうなんだね。親が有名人の子供だと色々大変だって聞くし、朔良も苦労したんじゃない?」
「苦労」
「うん。ほら、どこ行っても親の話ばっかりされるでしょう」
「……そう、ですね」
下を向いたまま、ぽつりと吐き出していた。
朔良はナツの反応に、生まれて初めて本当の自分のまま人前に立っている気がした。
実際はナツにも嘘をついている。先日の葬儀のときだって演技している偽物の自分をナツに見せていた。
普通で当たり前で、何も特別じゃない、そんな自分になりたい。ずっと違う自分になりたいと願っていた。
いつだって、自分の母が芸能人と知られたあとの、友達の反応は決まっていた。
話は盛り上がる、でも自分じゃなく母の話ばかりになる。芸能人の母は、自分を構成する、たった一要素に過ぎないのに。誰も自分を見なくなる。――それが嫌だった。
「朔良、大丈夫、お腹痛いの?」
箸を握ったまま、急に動かなくなった朔良を心配したのか、ナツは朔良の顔を覗き込む。
「あ、ち、違います。大丈夫です、なんか、嬉しくて。ナツの反応が、普通だし」
「嬉しい?」
「ナツが……僕を見て話してくれたから」
母親じゃない、目の前にいる朔良と話してくれている。
「――うん、分かるよ。目の前に自分がいるのに、他の人の話されるのって、嫌だよね」
他の誰でもないナツに、自分を見つけて貰えた喜びが込み上げていた。
ナツに付き合う形で大学へ来たものの、朔良は先月すでに卒業している。
大教室の講義なら一人くらい増えていてもバレないだろうが、流石に少人数のゼミに生徒として紛れるわけにもいかない。朔良は悩んだ末、演劇部が活動しているホールに顔を出すことにした。
「じゃあ、また。四限終わったら連絡するね」
「は、はい。いってらっしゃい」
食べ終わった食器を返却口に置き、学食の入り口までくるとナツと分かれた。心配する必要なんてなかったと納得したはずだったのに、やっぱり気になって廊下の突き当たりの階段を上がるまでナツを見送ってしまった。
ちょうど休憩時間で学生たちが絶えず廊下を行き交っているのに、朔良だけがナツを見ていた。
ステルスは、どうやら本当だったらしい。
思えば卒業のとき、演劇サークルでは他の部活でよくあるような涙のお別れはなかった。朔良の居たサークルには、卒業してからも数年は繋がったままという伝統がある。どうせ近いうちにまた顔を合わせるんだから「またね」くらいの別れ方だった。
公演チケットの販売や人集め、そういった部分で「人脈はあればあるほどいいに決まっている」という考えかららしい。いい意味でも悪い意味でも互助会だ。素人の公演を人に見てもらうのは、それくらい難しいものがあるし、自分たちも在学中、卒業生に助けてもらったのだから、朔良も出来る限り後輩を助けたいと思っていた。
さっきまで居たA校舎と反対側にある演劇ホールは、コンクリートの螺旋階段を降りたところに入り口がある。周囲は草木が生い茂っていて年中日陰のままだし、心霊スポットになってもおかしくない外観をしていた。
この崩れかけの古びた建物は基本出入り自由の場所で、勝手に入っても誰にも咎められない。役者として見られることに慣れる意図もあって、昼間は入り口を開放した状態にしている。
朔良はひび割れた入り口のガラス戸を押し開けると、埃臭いロビーを抜け客席に続く厚い扉を開けた。
正面の舞台には見知った後輩が二人いて、スポットライトが当たっている。客席の明かりは節電のため落とされたままだ。
男女の喧嘩の掛け合いは毎年やっている演目で春公演の練習だった。邪魔にならないように後方の座席に座って見学していると、しばらくして賑やかな足音が背後から近づいて来た。振り返ると、今年四年生で部長の浜田が木材を担いで立っていた。黒のジャージ姿で首にはタオルがかかっている。
「花本せーんぱい。いまラインで練習に呼ぼうと思ってたのに、何でいるんですか俺の気持ち届いた? エスパーだったりする?」
人懐っこい軽口に冗談めかして肩を落とす。
「嘘つけよ。絶対適当言ってるだろ」
たまに演技もするが、主に裏方をメインにしている男だ。頭を個性的に刈り上げていて、いまのところサークルのどの役者より目立っている存在だった。
「本当だって、春公演の練習見て欲しいって思ってたもん。ついでにジュースの差し入れとかあったら嬉しいなぁ〜とかね」
「今日は別の用事で大学に来たから差し入れはないよ。手ぶらで悪かった、時間潰しに寄っただけなんだ」
「別の用事って、あ、もしかして就職センター? 就職届って大学に出さないといけないんすよね」
「あーいや、違うけど」
確かに卒業してから大学に来る用事があるとすれば、大体は就職関係だ。アイドルの代理マネージャーをしているとはいっても、定職についた訳ではない。それにASKETのナツと一緒に住むことになったなど口が裂けても言えない秘密だ。
「てか先輩、練習見てたんなら分かりますよね。今のままじゃ今年の部員獲得出来ない」
「そこまでじゃないだろう。毎年同じ演目だし、あの二人だって演技上手だし」
そう言って朔良は再び舞台に視線を向けた。
「だって! いま僕たちには先輩たちが、いない!」
唐突に背後から降ってきた浜田の演技がかった声はホール全体によく響いた。舞台役者向きの芯のある声だ。舞台上の二人は朔良の存在に気付き、はしゃぐように両手を振って朔良を呼んでいる。
「ね、全然駄目でしょう。あいつら俺より声が届かない。腹から声出せっていつも言ってるのに」
「言われてみれば」
確かに裏方をしている浜田に声をかき消されているのは問題だろう。
「だからさ、花本先輩ちょっと練習見てやってよ」
「浜田が今年の部長だろう」
「だって俺、声はいいけど大根だからなぁ。あと裏で大道具やらないと、他のメンバーは今日校舎でビラ配りだし手が足りなくて」
「呼ばれてないし部外者だけど」
「いま呼んだ、ね。はい、じゃーお願いしまーす!」
どちらにしても一時間ほど時間を潰さなければいけなかった。
言われるまま照明の下に連れて行かれ、監督のようにパイプ椅子に座らされてしまう。毎年同じ演目だからセリフは全部頭に入っている。春公演は家族愛をテーマにした短い劇だった。
ずっと両親から愛されていないと思っていた少女が、母親からの手紙をきっかけに、本当は愛されていたと知る場面。
一番観客を惹きつけなければいけない見せ場のシーンだった。
元々役者をやりたいと言ってサークルに入ってきた二人だ。演技自体は直すところがない。けれど同じ役者でも演劇はテレビドラマとは違う。演技が客席に届かなければ意味がない。だから、すごく勿体無いと感じた。
一通り最後まで通したところでアドバイスを求められた。
「――演技は、すごくいいんだけど。やっぱり声は、もう少し出した方がいいね。今のままだと、多分後方じゃ何を言っているか分からない。もちろんマイクはあるけど、セリフがぼやけて聞こえると思う」
「うーん、でも。結構、声張ってるんだけどなぁ」
「えっと、声を張るじゃなくて、届かせるイメージで、でないと喉痛めるから」
「届かせる、か」
「要所で視線を客席の方に向けて、もう少し胸を開ける感じのイメージで立つと、練習のときと同じように届く」
体の力を抜き、楽な状態を維持したまま姿勢を正す。腹式呼吸やロングトーンの練習は部員も普段からしている。けれど頭では分かっていても、セリフを読む段階になると同じように出来ないのはよくあることだ。
「一人ずつ相手するから、僕と同じように立って台本のセリフ言ってみて」
「はい」
朔良は椅子から立ち上がると妹役に向き合った。
『……兄様は、私の気持ちなんて知らないくせに』
言われたセリフを朔良が受け兄のセリフを続けた。
『――お前は、一度でも母様に自分の心を伝えたことがあるのかっ、僕には分かる』
『分かりっこないわ!』
『分かるさっ! だって……僕だって、君と同じように――嘘つきだったから』
客席に向けてセリフを放ったときだった。客席の一番後ろの席にナツの姿を見つけた。舞台以外の電気は全て落としているのに、その場所だけスポットライトが当たっているように錯覚した。朔良にしか見えていない彼のまぶしい光に思わず目を見張った。
おそらく誰もナツがホールに入って来たのに気付いていない。
演技に集中している間に、どうやら四限目の講義が終わっていたらしい。それでも中断してすぐに離れる訳にもいかず最後までセリフを言い切った。
『……僕は、とても後悔しているよ』
最後まで母と本音で語り合えなかったと後悔する兄のセリフに今の自分の境遇を重ねていた。
――良かれと思って嘘を吐いた。悪意はなかった。
朔良は自分の本当なんて、ナツは知らない方がいいと思っている。でも、いつか自分も後悔するんだろうか。真実を、本当の自分をナツに全部知って欲しいと、願ったりするんだろうか。
『――この手紙に、僕たちの全てが書いていた』
一通り演技が終わり、改善ポイントを後輩たちにいくつか伝えると、朔良は五月の公演には顔を出すと言って舞台を離れた。
客席に置いたままだった鞄を掴み急いでホールから出ると、壁を背にしてナツが待っていた。
「待たせてごめんなさい。いつの間にか時間過ぎてて」
「ううん、全然。いま来たところだし、演劇ホールに居るのは聞いてたから。ここ初めて来たよ。部外者の俺が勝手に入って良かったのかな」
「あ、はい。ここはいつも開放されているし出入り自由なので」
「そっか、よかった。じゃ、帰ろうか」
*
帰りも行きと同じバスに乗り、また並んで後方の座席に座っている。通勤客が乗る時間には少し早く、乗客はまばらに座っている程度だ。
半日一緒にいて流石に慣れたのか、アイドルが隣にいるという緊張感は薄れていた。
「ねぇ、ところで朔良って、もしかして役者になりたい人だったりする?」
「ど、どうしてですか」
「演技上手だったし。あと、なんか、目が違ったから」
「目、ですか」
「うん。この業界にいると、あ、この人は他と違うなって分かるんだよね。ほら、うちのリーダーも只者じゃないでしょう。なんか、その目と似てた……本気の人がする目っていうのかな」
「えっと、僕は、ただの趣味、で」
「えー本当に? 嘘だぁ」
「ぇ、ぁ」
首を傾げて顔を覗き込まれる。赤いセルフレームの向こうの瞳にじっと見つめられ、朔良は言い淀んでいた。人気アイドルグループASKETのリーダー、アサトと同じ目をしているなんて、恐れ多いにもほどがある。それに朔良からすれば、ナツの目の方が、いつだって特別な輝きを讃えていた。
窓から差し込む夕日に照らされて、瞳の奥に星が見える。さっきだって薄暗い客席に座っていたのに朔良には彼の姿がはっきりと見えていた。隠そうとしても、隠せない特別なアイドルとしての輝きだ。
「さっき、なんかさ。あの葬儀のときと同じ目をしていたよ。朔良」
「え」
「あ、ごめん、違う。もちろん、あれは演技じゃないけど。あの時も綺麗な目だなって思って見てたからそう思ったのかな」
ナツに何の前触れもなく演技を言い当てられて、息が詰まりそうになった。真実を伝えられないのが、こんなに苦しいなんて、この瞬間まで知らなかった。
同じアイドルでもナツだけが特別に見えるのは、ファンで、推しだからだけじゃない。
クローゼットゲイで、人間とまともな恋愛をしてこなかったし、ナツのことを最高の嗜好品だとか心の中で思っていた。そんな自分だから、こんな簡単なことも知らなかった。
好きな人の前では、誰よりも誠実な自分でいたい。
気づいたときには、また一つ、本当の自分を伝えていた。
「――ナツ、僕、役者に、なりたい。その……なりたかったんだ」
この人には、心から知って欲しいと思っていた。誰かに言わされたんじゃなく、自分の口から。
朔良が一生懸命口にした決意をナツは笑わなかった。
「やってないのに、過去形にしちゃダメだよ。なりたいなら、やらなきゃ、でないと後悔する。俺は応援するよ、朔良の夢」
ナツは朔良の夢を決して嘘や冗談だとは思っていないのだろう。まっすぐに真剣な眼差しを朔良に向けていた。
「僕、後悔する、かな」
「んーほら、やらない後悔よりやる後悔って言うでしょう。俺は、自分のこと芸能界向いてないなぁって、ずっと思ってて、でも、違ったって納得するためにやったのは悪くなかったよ。そうしないと次のステージにいけないしね」
水谷はナツが芸能界に入ったのは、家族からの推薦だと言っていた。ナツがはっきりと次のステージと言ったことで心臓が深く脈打つ。
「ナツは、やっぱりアイドル、辞めたい、の」
「――俺、建築士になりたくて」
「建築士、ですか」
「うん、もちろんアイドルとして、俺に出来ることが全部終わったら、だけどね。流石に、いま仕事投げ出したら、水谷さんも倒れちゃうし。だからタイミングを見て辞めるつもり」
きっとタイミングを見て、なんて言ってる間は、そのいつかは一生来ない。
ナツの眩しい笑顔に心がじくじくと痛んだ。水谷が自分をナツの代理マネージャーに選んだ理由も、ナツの人柄に触れて予想がついた。
ナツは口では嫌だ、辞めたいと言うが、実際に目の前で困っていたり悲しんでいる人がいたら、自分のことを後回しにしても、手を差し伸べてしまう性格なんだろう。
せっかく叶えたい夢が見つかったのに、ASKETの他のメンバーや、水谷の仕事の苦労を思って、すぐに辞めないのがその証拠だ。
(……僕の推し、アンパンマン、っていうか、聖女だった)
朔良の頭の中には今言うべきセリフがあった。
――ずっと、ファンです。だから、辞めないで。
例え男の朔良でも、本気でナツのファンだから辞めて欲しくないと涙ながらに訴えれば、ナツはアイドルを続けてくれるだろう。そしてナツがアイドルを続けてくれたら、朔良は憧れだった劇団へ入る切符が手に入る。そう、ロジックは単純だった。
(僕には、無理だなぁ。言えない)
サクラの仕事で、初めて罪悪感を覚えた。
芸能界には、鬼しか住んでいない。昔、母の友達の芸能人が、笑い話のように朔良に聞かせてくれたが、実際、その通りだった。ナツは、まだ売れるアイドルで辞める時期じゃないし、周囲も簡単には辞めさせないだろう。彼の優しさにつけこんで、あの手この手で引退を阻んでくる。水谷が朔良に演技を依頼したのが、その一つだ。
けれど朔良にとっては、好きな人が笑顔でいてくれるのが、一番の幸せだ。どうやら朔良は自分の夢より推しの夢の方が大事だったらしい。
せっかくのチャンスを棒に振るが、人を騙して鬼になってまで自分の夢を叶えたいとは思えなかった。
「さて、スーパーで何買おうかなぁ。朔良は何食べたい? 肉、魚?」
「え、ナツ、料理するんですか」
「意外? 料理上手だよ、俺。朔良は?」
マンションの最寄りバス停に着き、夕焼けのなか並んで帰る道中、朔良は絶対に芸能界の魔の手から推しを救い出そうと決意していた。
ナツが住んでいるマンションは一階に高級スーパー、二階にはスポーツジムが入っている。それに今の時代、ネットで注文すれば大抵のものは部屋まで届けてくれる。わざわざアイドルが、人目を気にしてまで外に買い物に出る必要などない。それなのにナツは帰り道、お肉が新鮮で安いからと言って、マンションから一番遠いスーパーに向かった。
夕食のメニューは関西風のすき焼きだった。
(僕、何のために、ここに来たんだっけ)
推しのアイドルと一緒に大学に行って、スーパーでは二人でカートを押して買い物をして、最終的に目の前で肉を焼いてもらった。
いつもメディアを通して見ていたアイドルのナツは、どこまでいっても自然で普通だった。思えばナツから感じる「普通」はずっと朔良が憧れて欲しかったものだ。
友達と買い物したり、家で鍋を囲んで笑い合ったり。そんな些細な幸せが欲しかった。もちろん家が裕福で親がアイドルだったから出来たことだってある。所詮は無い物ねだりと分かっていても、周囲から浮かないよう人目を気にして過ごしてきた日々は苦しかった。
出会った当初は、芸能人のナツを自分から一番遠い存在だと感じていた。そんな自分なのに、ナツと一緒にいた今日一日は、なぜか自然体で過ごせていた。
もちろんドキドキし過ぎて心臓には悪いし、実際は全てを見せているわけじゃない。――朔良はナツに対して、嘘を吐いているから。
「僕、もしかして今日死ぬのかな」
使っていいと言われたゲストルームに入ったのは、夜の十時を過ぎてからだった。それまでは、ずっとナツとダイニングで一緒だった。一人になると全身に疲れが押し寄せてくる。
スウェットを着た朔良はベッドの上で両手を広げて白い天井を見上げていた。部屋にはクローゼットとベッドがあって、他は持ってきたボストンバッグを置いているだけの殺風景な部屋だ。
朝の時点では『サクラ』の仕事を頑張れば、憧れていた劇団へ入れるかもしれないなんて夢みていた。今は、そんなこと微塵も考えていない。それよりもナツが大学を卒業して建築士になりたいというなら、その夢を叶えるために自分が出来ることをしたかった。
今日ほど身内に感謝をしたことはない。今まで出自を恨んでばかりだった自分を猛省した。当面の生活費を心配する必要もないし、何なら自分の就活も後回しにしていいのだから。
ナツは朔良と入れ替わりで今は風呂に入っている。
水谷に仕事を頼まれたときは、まさか推しの部屋に来るなんて思ってなかった。だから朔良の鞄の中には、大変、危険な物(ブツ)が入っていた。今になって、それを思い出した。
絶対にナツに見られてはいけない、朔良の宝物。
長期間、家に帰れないからと鞄の底に大事に入れて持ってきた。仕事の合間にこっそり見て癒されようと思っていた。
(嘘デス、もっと邪な用途としても使ってた)
推しの風呂シーンどころか、人には言えないような酷い妄想をしたことがある。アイドルのナツを、極上の嗜好品だとか思っていた酷いファンだから、AVまがいの際どいシチュエーションだって想像していた。――要は、俗な言葉でいうならオカズだ。
健全な若い男だし、それなりに欲はある。その欲が一生満たされないのも分かっていたから、ここ最近の妄想は、かなりエスカレートしていた。この先ゲイをカミングアウトするつもりはないし、恋人が欲しいとも思っていない。そもそもナツくらい綺麗な男じゃなきゃ満たされないなんて、分不相応な望みだ。
朔良がカバンの中に入れて来たもの。一つは『さくらちゃんへ』ってナツの自筆のサインが入ってるチェキだ。ファンクラブの抽選に応募して当選したもので、応募したときは性別を女性と偽っていた。
そもそも、さくらって名前で男だと思う人はいないだろう。
そして二つ目は、ナツに貰って四年間、食べずに置いておいた残りのチョコレート一個だ。賞味期限はとうに切れている。
(何かの弾みで見られでもしたら、死ぬ)
少し前までドアの向こうで物音がしていたが、すでに外は静かになっていた。風呂から上がったナツは、もう部屋で休んでいるはずだ。朔良はベッドから降りて、床に座り下に置いていたボストンバッグから、カードケースとチョコレートを取り出した。
(……本当、変態だった、よな。僕)
一日ナツと過ごして、何だか急に全部が後ろめたくなった。いい加減ナツで変態的な妄想をするのは卒業しようと決め、おもむろにチョコレートを口の中に放り込んだ。賞味期限が切れていたところで、別にチョコレートの味なんて変わらない。
「うん。チョコレート、だな」
あの春の日、舞い上がって味が分からなかったチョコは、どこにでも売っている普通のチョコだった。今の自分に似合いの、叶わない初恋の味がした。カードケースから取り出したチェキに写っているナツは、顔の横でピースサインをして朗らかに笑っている。この神々しい笑顔に何回お世話になっただろう。今は正直、写真を見ても申し訳なくて、前みたいな妄想が出来るとは思えなかった。もうナツは自分の中で聖女枠だ、絶対に汚してはいけないし、芸能界の魔の手から守るべき存在だ。
そんなことを考えながら、長いため息を吐いたときだった。突然、何の前触れもなく部屋の扉が内側に向けて開いた。
「ねー朔良、俺の部屋で一緒にゲームしようよ。プレステ」
ナツの声に被せるようにゾンビに襲われた村人みたいな声をあげていた。
「えぇ、どうしたの? 大きな声出して」
驚いた拍子に朔良の手からチェキが飛んでいった。お掃除ロボットの掃除が行き届いているフローリングはよく滑った。そうして『さくらちゃんへ』とサインが入っているチェキは、ナツの足元に落ちた。
「あ、これ俺のチェキだ。え、さくらちゃんって、朔良だったんだ」
ファンクラブの抽選グッズは三年くらい前のものだ。なんで、そんなに記憶力がいいんだよ! って心の中で叫んでいた。建築士を目指すような男は、やっぱり地頭がいいのだろうか。水谷からはファンの立場を使って、ナツにアイドルとしてやる気と自信をつけさせて欲しいと言われている。けれど朔良は、自分がナツのファンだと知られたくなかった。ちょっと好き、程度のライトなファンなら全然よかった。
(……終わった)
ガチ恋勢なんて本人には絶対に知られたくない。いくら演技が得意といっても、名前入りのチェキが見られたこの状況で、ファンを隠し通せるとは思えなかった。
「朔良」
ショックで固まっていたら、いつの間にか目の前にナツが膝をついて座っていた。
「ッ、ぁ。えっと。それは、違って」
「ん、何が違うの?」
少し首を横に傾げて、甘いマスクで推しに見つめられている。周囲の空気が薄くなったみたいで呼吸が苦しかった。
「ご、ごめん、なさい、僕、それは」
顔をあげて謝ったが、居た堪れなくなってすぐに下を向いてしまう。
「え、どうして、謝るの?」
怖くて手が小刻みに震えていた。自分の存在を知られて、推しに嫌われたくなかった。男の熱狂的なファンがいると知ったところで、ナツは気持ち悪がったりしない。頭では分かっていても、その万が一が怖かった。もう一度、顔を上げてナツの顔を見るのが怖くて、じっと自分の手を見ていた。手にはナツがくれたチョコレートの箱を持っていた。その箱をナツに気づかれないように自分の後ろに隠そうとしたときだった。頭の上にナツの手が乗せられて、思わず顔を上げてしまった。
灰色のパジャマを着たナツは、とろけるような笑顔で朔良を見ていた。
「な……ナツ」
「朔良、好きになってくれてありがとう。嬉しいな」
嘘偽りない感謝の言葉を貰って、心からナツが推しで良かったと思えた。きっと今の自分は、ぐちゃぐちゃに蕩けた情けない顔をナツに晒している。それなのにナツは少しも嫌な顔をしていなかった。
「あ、朔良、もしかして、そのチョコって、俺があげたやつ? え、四年前でしょ」
隠すタイミングが遅れて、箱をナツに見つけられてしまった。
「な、ナツが……ずっと、好きで、でも、僕のこと知られたくなくて」
「……へぇ。朔良は、そんなに、好きなんだ俺のこと」
目を細めて朔良を見つめるナツは、今まで見てきた、どの推しの表情とも違った。こんなナツを朔良は知らなかった。その真摯な眼差しが、少し怖かった。
「ぇ、あ……ち、ちがっ」
ファンだと伝えるつもりが、焦って告白みたいになってしまったと気づき、慌てて否定しようとしたら、突然右手首を掴まれた。
「え、じゃあ、嫌いなの?」
桜のように柔らかに笑うナツに出会ってファンになった。けれど妄想の中のナツはいつだって、朔良の耳元で意地悪なことを囁く。甘えるような声で命令されたら、朔良はなんだっていうことをきいてしまった。
けれど、それは朔良の妄想の中の話だ。現実と妄想の境が急に曖昧になる。
「ねぇ、教えて。誰が好き? もしかしてリーダーじゃないよね?」
「な、ナツが大好き、一番好き、です」
顔を真っ赤にして、慌てて好きだと言っていた。
「……顔、真っ赤、かわい。俺も、朔良が好きだよ」
「え」
アイドルに好きを伝えたら「ありがとう、これからも応援よろしくね」と返されるだけだと思っていた。アイドルとファンの関係なんて、それ以上でも以下でもない。朔良はナツからの予想していなかった返事に頭が真っ白になった。
「朔良の、その好きってファンの好きじゃないでしょ。朔良は演技上手だけど、俺の前では下手だね」
ナツの言葉に体が急速に冷たくなっていくのを感じた。それは一番、本人に知られてはいけないことだった。
「っ、ご、ごめん、なさい。ゲイだって黙ってて、ごめんなさい。ナツに迷惑かけたくなくて、気持ちバレないように隠れてるつもりだったのに。演技出来なくて、ごめんなさい」
涙腺が崩壊して、ぼたぼたと涙が溢れた。突然、壊れたように泣き出した朔良を見たナツは、その場で慌てふためいた。
「ぁ、違う、違うよ。朔良を困らせたいわけじゃなくて。ほら、大丈夫だから、泣かないで」
ナツは朔良に手を伸ばし、ぽんぽんと優しく宥めるように背中を叩いた。涙で濡れた朔良の頬をナツが指先で、そっと拭ってくれる。
「ご、ごめん、なさ。気持ち悪くて」
「気持ち悪いとか思ってないよ。俺に知られて怖かったんだね。大丈夫、誰にも言ったりしない」
「っ、ぁ……」
「嬉しいよ。朔良の気持ち」
ナツの広い胸に抱きしめられて、ふいに身体の力が抜けた。ナツには年下の弟や妹がいるんだろうか。なんだかあやし方が手慣れていた。ナツの胸に抱かれていると不安や恐怖を吸い取られているみたいで、急に小さな子供になったみたいに感じていた。
「俺が役者の才能あるって思った朔良が、その演技出来なくなっちゃうくらい、俺が好きってことでしょう。そんなの、とびきり嬉しいに決まってる」
恐る恐る顔を上げると、そこには大好きなナツの優しい微笑みがあった。
「う、嬉しい、ですか」
「うん」
「朔良、俺も好きって、本当だよ。ちゃんと伝わってる?」
「え……なん、で。僕を」
「朔良は、アイドルじゃない本当の俺を見ても、幻滅しなかったよね。俺と自然に接してくれて、特別扱いしない。そういうの、いいなって思った」
たくさんのファンに囲まれていても、アイドルは孤独だ。けれど、ほんの少し、そばにいただけの自分に、ナツが欲しがってくれるような特別な価値があるとは思えない。頭の片隅で、今のナツは雰囲気に流されているだけなんじゃないかって思っていた。初めての当たり前の普通の日常が楽しくて、キラキラと輝いて見えて、この時間を失いたくないと感じた。
けれど、それは朔良だって同じだった。神聖視していたアイドルの素顔に触れて、恋に気づいた。
「でもナツは、ゲイじゃない。だから、その気持ちは……」
「んーどっちでもいいかな。好きになった人が好きじゃダメ? あんまり気にしたことがなくて」
ナツは、そう言って、もう一度、朔良の背中に腕を回した。余すことなく抱きしめられると、風呂に入ったせいか、昼間した柑橘系の香水の香りがしなかった。代わりに自分と同じシャンプーの匂いがする。プライベートな香りを共有している事実に、頭の片隅へおいやっていた欲を思い出してしまった。じわり、じわりと、身体の内側に落ち着かなさを感じた。
それはナツも同じ気持ちだったらしい。
気づいたときには、ナツに抱えあげられて後ろのベッドの上にいた。ナツがベッドに膝を乗せると、スプリングの軋む音が微かにする。
「ぁ……あの、僕。こんな、つもりじゃ」
「ん、どんなつもり。俺と一緒じゃない?」
朔良のいやらしい頭の中を全部、ナツに見透かされているみたいだった。鏡写しのように、ナツが欲にくらんだ瞳を朔良へ向けていた。
「幻滅した? アイドルだって性欲はあるよ」
もしも幻滅されるなら自分の方だと思った。
*
ナツの灰色のパジャマが肩から滑り落ち、余すことなく推しの裸体が、目の前に晒される。神様を見つめるみたいに、ベッドの上でナツを観察していたら、ニヤリ、と意地悪く微笑まれたあと、朔良の着ていたスウェットをあっさりと奪われてしまった。
「ねぇ朔良、ドキドキするね。悪いことするって」
「……あの、ほ、本当に、僕とする、んですか」
悪いことをしている自覚はあるらしい。アイドルを辞めるつもりだからなのか、あるいは「アイドルはみんなのもの」って自覚がないのか。
水谷には商品には手を出すな、襲うなと釘を刺されていたのに。言われたその日の夜に推しとベッドの上にいる。罪悪感はあれど、推しにベッドに誘われて断れるファンなんていない。
「駄目? 無理強いはしたくない、けど。もしかして、朔良は俺とはエッチしたくない?」
何百回と妄想していたナツと同じように、甘えるようにねだられて、夢みたいだった。
「し、したい、です」
「じゃあ、しようよ。ね、朔良は、俺を抱きたい? それとも抱かれたい」
「……だ、抱かれたい人、です」
消え入りそうな声で答えていた。
「うん。分かった。ほら、そんな隅っこじゃなくて、こっち、おいでよ」
こんなつもりではなかった、がいくつもある。死ぬまで自分がゲイだとカミングアウトするつもりはなかったし、そもそもナツにファンだと伝えるつもりもなかった。それにナツが、こんなに性に対して奔放だったのも驚きだった。お互いの気持ちを確認したその日にセックスするなんて、これは普通なんだろうか。もっとナツは恋愛に対して奥手な人だと思っていた。
ナツは朔良が考えていた恋愛のハードルを易々と飛び越えてきた。
迷いからベッドの上で動けずにいると、ナツに手を引かれ広い胸に抱き止められた。
「僕、は、鼻血、でる、かも」
「えーそんなに、好き? 俺のこと」
ベッドでお互い余すことなく肌を晒し合っていた。ナツはドキドキすると言ったが、推しの白い肌を見ているとドキドキどころじゃない。今にも口の中から心臓が出そうだし、興奮から鼻血を吹きそうだった。
「嬉しいな、こんなに俺のこと欲しがってくれて」
向かい合ったまま探るように額にキスされた。推しに口付けられた衝撃に呆けていると間髪入れずに唇を重ねられた。朔良の頭の後ろに回された右手は洗いざらしの黒髪を優しく撫でている。
セックスも初めてなら、キスだって初めてだった。朔良の性的な知識なんてAVくらいだ。自分と違ってナツは経験豊富なんだろうと思いながら、夢中でナツと初めてのキスをした。最初、唇を合わせるだけだったキスは、いつの間にかお互いを求めるように舌が交わっていた。
「あれ朔良、チョコレート、食べたの。甘い」
「ぁ、えと、ナツに、見られたくなくて、あのチョコ」
「ふーん。ずっと俺があげたチョコ持ってたの、恥ずかしかったんだ」
「ッ、ぁ」
ナツの唇は首筋を伝って朔良の胸元へたどりつく。女の体ではない、平たく貧相な胸に触れたら、ナツは正気に戻るんじゃないかと思った。
「キス、気持ちいい?」
「だ、駄目、ナツ」
「ん、駄目なの? 困ったな」
朔良の身体の上で喋りながら「ふふ」と楽しそうに笑われる。
「あのね、俺さ、誰ともしたことなくて。だから朔良が気持ちいいところ、たくさん教えてね」
「…え」
「ん?」
そのナツの衝撃の告白に、一瞬で興奮が冷めた。
「あ、あのっ、な……ナツが、童貞って、コト」
朔良が口を震わせながら言うとナツは、はにかむように笑った。年上なのに、こころなしか、可愛らしく見えてしまう。
「な、何で、こんな国宝級の美形を世の中が放っておくなんて、世界が間違ってる」
「もう朔良。朔良は、たくさん経験あるのかも知れないけど。仕方ないでしょ、シたいって人がいなかったんだから、仕事だって忙しかったし相手なんて……」
「ッ、そんな、ど、どうしよう、僕、こんな」
初めての相手が自分だなんてナツは、絶対後悔するだろう。朔良は特別床上手なわけじゃないし、誰かと寝た経験もない。キスもナツが初めてだった。自分はナツが相手なら最高の経験だが、ナツの初めての相手が自分という事実を頭と体が受け止められない。
ベッドの上で膝を抱えて小さくなっていた。
「え、どうしたの朔良。もしかして食べたチョコ、古くて傷んでたんじゃ……お腹痛い? 四年前だもんね」
「そ、そうじゃなくて! ぼ、僕、何も知らないよ」
「え?」
朔良の告白に、今度はナツが目を見張って驚いていた。
「僕としてナツが気持ち良くなかったら、ど……どうやって責任取ったら、それに、ナツの初めてが僕なんて恐れ多くて、こ、怖いよ」
今にも泣きそうな目でナツに訴えると、突然ナツがベッドに転がって、お腹を抱えて笑い出した。
「あはは! お、恐れ多いって、えーそっか朔良も初めてなの? ふふ、よかった。ゲイの人って付き合いが派手ってきいたことあったから、俺のえっち下手でがっかりされたらどうしようってドキドキしたじゃん」
「そ、そんな、ナツにがっかりとか、絶対、ないよ」
「あー緊張して損した。頑張って朔良の理想のアイドルっぽく格好つけたのにな」
「格好つけ……?」
「ねぇ、どうだった? 俺、一生懸命頑張ったんだけど」
「……か、カッコ、よかった、です、けど」
朔良を翻弄した際どい言葉の数々は、朔良を喜ばせるためだったらしい。ベッドの上で恥ずかしそうに顔を真っ赤にしているナツは、座っている朔良を見上げシーツの上にあった朔良の手を引いた。お互い裸で横になって至近距離で顔を合わせた。
「ね、朔良、キスも初めてだった?」
「う……うん」
ナツの柔らかな唇を思い出して、唇が震えた。その震えに応えるようにナツの唇が再び重なる。
「こんなに誰かに触れたくなったの、俺、初めてなんだ。ね、朔良のこと、もっと教えてくれる? ゆっくりでいいから」
朔良はナツの求めにこくりと頷いた。
ナツの素顔に触れる度に、愛しいと思う気持ちが溢れてくる。アイドルのナツを偶像崇拝していたのに、アイドルじゃない部分のナツに触れて、恋を知った。恋を知った途端、ナツの素顔をもっと知りたくなった。
「――好きだよ。朔良」